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冬歌②北風 [noisy life]

日暮れの小径.jpg

♪えくぼの可愛い娘だったが
 北風が連れていちゃた

 いまではあの娘を呼んだとて
 冷たい北風吹くばかり

 ノースウインド ノースウインド
 あの娘はどこだろ
 ノスウインド どこだよ
 教えておくれよ
(「北風」詞:レイモンド服部、曲:ロッド・モリス、歌:北原謙二、昭和39年)

年もずずっと押し迫ってまいりましたが、2011年の「冬の歌」は第二回にして最終回の「北風」

「北風」の歌もそこそこあります。
すぐ口についてでてくるのが
♪北風ぴーぷー 吹いている
「たきび」とか、おなじわらべうたで
♪北風 小僧の 寒太郎 の「北風小僧の寒太郎」

ナツメロだと、うたい出しが
♪北風吹きぬく の「寒い朝」(吉永小百合、マヒナスターズ)
なんかも。

ほかにもラジオ歌謡の「北風三郎」(伊藤久男)若原一郎「北風小僧」なんか。

めずらしいとことでは荒木一郎がつくって岸本加代子がうたった「北風よ」が。
同じアイドル系では荻野目洋子「北風のキャロル」浅田美代子「北風の日曜日」なんてのも。

J-POPなら槙原敬之「北風(君にとどきますように)」があるし、ミスチル「口笛」にも ♪……不揃いの影が 北風に揺れながら……
とでてきます。

ふたたび遡って70年代、80年代をみると、

「陽はまた昇る」谷村新司
「秋冬」高田みづえ
「矢切の渡し」細川たかし
「コートにすみれを」みなみらんぼう
「子連れ狼」橋幸夫
「まるで正直者のように」友部正人

とあるわあるわ「北風」が。吹きまくり。

しかし今回の「北風」は洋楽カヴァー。
とはいえ、もはやナツメロ歌謡曲といってもおかしくない「北風」North Wind。

1953年にテキサス・ビル・ストレングスTexas Bill Strengthがうたったカントリーソング。
カントリーにはめずらしいマイナーチューンで、アメリカではさっぱりでしたが、その4年後、日本に輸入されるやヒットソングに。

日本での当時のカントリーブーム(ロカビリー前夜)に乗った感もありましたが、はじめにレコーディンぐしたのはカントリー・アイドルだった小坂一也
その後、ジミー時田、黒田美治をはじめ多くのカントリーシンガーがカヴァーすることに。

その4年後、すでにカントリーブームどころか、ロカビリーブームも退潮していたころ、なぜかこの「北風」が再ヒット。

うたったのは北原謙二。遅れてきたロカビリアンでした。

大阪は浪商野球部出身というから異色シンガー。
同級生がのちの安打製造機・張本勲やヤクザから画家に転身した山本集。先輩には巨人に入りV9に貢献した坂崎一彦、後輩には怪童といわれた東映のエース・尾崎行雄という錚々たるメンバーに囲まれてのハイスクールリフ。

そんな荒くれ仲間のなかでも喧嘩っ早さは野球部一で、“チビケン”と呼ばれ、誰もが一目置いていたというから、見た目じゃわからない。
しかし、からだが小さかったからか、残念ながら野球では花咲くまで至らず。

高校在学中に父親が急死し、即中退。
と同時に北原青年の向かった先はネオン街。
ヤクザとしてデビューしなかったのは、歌が好きだったから。その歌唱力を見込まれて当時流行りのジャズ喫茶のシンガーに。

その後東京へ行き、ジャズ喫茶「テネシー」の専属としてうたっているところをコロムビアレコードのディレクターにスカウト。
デビューは昭和36年で、童謡歌謡の「日暮れの小径」
ちなみに同期には、「湖愁」松島アキラ「悲しき街角」飯田久彦、やはり「テネシー」でうたっていて「でさのよツイスト」でデビューしたスリー・ファンキーズなどが。

「日暮れの小径」も小ヒットしましたが、彼のブレイクのきっかけとなったのは翌37年、NHKの「今日のうた」としてとりあげられた「若いふたり」
映画化もされたこのドドンパで、一躍トップシンガーに。

そしてその翌年の38年には、ブームとなった青春歌謡にのって、「若い明日」「ひとりぼっちのガキ大将」がヒット。

「北風」はその翌年、東京オリンピックの開催年のヒット曲。
鼻にかかったようなノンビブラートの独特の歌唱がカントリーには合っていたようで。

そして翌40年には立川談志が好きだった「ふるさとのはなしをしよう」がヒット。作曲は浪花のモーツァルト。それとエレキブームに便乗したリズム歌謡「若い太陽」も。が、あきらかにピークは過ぎ、人気バロメータは下降線。

これだけヒット曲があれば、新しい曲などなくても地方回りで歌手活動は続けていける。

しかし病魔には勝てない。
平成3年に脳出血で倒れ、その後リハビリから歌手活動を再開させたが、13年に病気だ再発し亡くなっている。

亡くなる前には半身マヒながらテレビなどの歌謡番組に出ていましたが、見ていてどこか痛々しかった。

北原謙二のことを考えると、中学の同級生の顔が思い浮かびます。
♪君には君の~
ってよく口ずさんでいました。

2歳下の妹のことを話題にすると、いつも真赤になって怒るのです。

こんなこともありました。彼の家へ遊びに行くと、ちょうど買物にやらされて返って来たときで、母親から買ってきた便所の落し紙が違うと怒られていました。
安い灰色の紙を言いつけられたのに、高価な漂白された白い紙を買ってきたからです。

彼の言い訳。
「だって、店に○○さんがいたんだもん。恥ずかしくって……」
○○さんとは、彼がお気に入りの同級生の女の子。

彼もわたしも北原謙二のようにプロ野球の選手を夢見ていた頃の話です。

つまらない話をしてしまいました。

お口直しに、「北風」にちなんで、めずらしいマイナーチューンのカントリーソングをいくつか。

「コーライジャ」Kaw-Liga
木彫りのインディアン人形の悲恋をうたったハンクの一曲。北原謙二の「北風」のB面。

「ジョニーが凱旋するとき」When Johnny Comes Marching Home
カントリーと呼ぶにはいささか幅がありすぎますが、有名な南北戦争は南軍の歌。これに似ているのが「空飛ぶ幽霊騎士」Ghostriders in the sky 。こちらはカントリーで「北風」よりはポピュラー。

「ナイト・ウォーク」Night Walk
カントリー・ジェントルメンのインスト。オリジナルがないので日本のバンド版。久々に聴きました。

「続・荒野の用心棒」Django Theme Song
これはカントリーではないですね。フランコ・ネロが主演したマカロニウエスタンの主題歌。まぁ西部劇だからカンベンしてください。

風邪ひきました。「キターッ、カゼ」ってか? つまらん。


気持ちがたるんでいたからです。
たるむにはたるむだけの理由がありまして。それもいつかブログに書いてみたいとおもっています。
とにかく津波、原子炉融解などの社会的にも、個人的にも大変な一年が終わろうとしています。

みなさん、風邪にはくれぐれもご注意を。


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冬の歌①北国 [a landscape]

詩集北国 井上.jpg

♪雲が流れる 北国の街へ
 あなたが生まれた 心の国へ
 ………………
 みつめあう二人 抱きあう二人は
 離れられずに 強く 強く 強く 強く
 かわす口づけ
 ………………
 雲が流れる 湖のほとり
 あなたは 花に
 埋もれて 眠る
 北国のはて
(「北国の二人」詞:橋本淳、曲:井上忠夫、歌:ジャッキー吉川とブルーコメッツ、昭和42年)

寒波が来ております。
どうやら、今年もいつもと変わらない冬がやってきたようです。

で、かなり遅ればせながら「冬の歌」をば。

冬の歌。
テーマはイージーにも「北国」。とくに意味はなし。

「北国が冬かよ」というツッコミも聞こえてきそうです。
そうですたしかに。
「北国の春」(千昌夫)なんて歌もありますし、「赤いハンカチ」(石原裕次郎)の2番では、
♪北国の 春も逝く日
なんて出てきまして、これは完全に惜春鳥さえずる初夏。

奥村チヨ「北国の青い空」だって、ふんいきは隣の人が気になる秋。

それでも鈴木道明の「北国は寒いだろう」(マヒナスターズ)とか、粉雪舞いちる「小樽のひとよ」(鶴岡雅義と東京ロマンチカ)では、
♪北国の街は 冷たく遠い
と出てきたり。

というわけで「北国の冬」ということでここはひとつ。


といっても、「北国」ってどこのことなんだか、わかっているようでわからないようで。漠然と、「北」がつくから北陸とか東北とか北海道あたりだろう、なんて。
じゃ、北九州や京都の北山も「北国」かよ、ねんてまたツッコまれたり。
まぁご当地ソングとは真逆な不特定曖昧なロケーションというのも流行歌の常套手段ではあるのですが。
とにかくお国は寒い北の国、ということで。

そもそも「北国」という言葉、そんなにつかう言葉ではないのでは。
「いやあ、留守してわるかったな、ちょっと1週間ばかり北国へ旅行してたもんで」
なんてまずいわないし、テレビのニュースでも、
「明日の北国は全般的に厚い雲におおわれ、午後からは……」
なんていうわけない。

ではどこでよくつかわれているのか。

おそらく圧倒的に多いのが流行歌。それも歌謡曲、演歌が主流で、J-POPではほとんど聴かない(というのは推測で、正確にいうと、さほど聴いてないからわからない。昭和を意識した楽曲ならあるかも)。
あとは小説や映画といった、つまりエンタメ系の世界。

ということは「北国」(きたぐに)は、比較的新しい言葉なのかもしれない。
江戸時代には「北国街道」があったが、これは「きたぐに」ではなく「ほっこく」。

やはり江戸後期の黄表紙で曲亭馬琴の「北国巡礼唄方便」も「ほっこく」。
最近読んだ大正期に書かれた小説の中に、
〈北国生れの彼が……〉
というところがありまして、軽く「きたぐにうまれ」なんて読み飛ばしましたが、ルビはなく、もしかしたら「ほっこくうまれ」なのかもしれない。

いまでも、辞書を引くと「きたぐに」では出てこないけれど、「ほっこく」なら「北国」で出てくる(いささか古い辞書ですが)。つまり「きたぐに」はスラング?

ではいつの頃からそのスラング「きたぐに」がつかわれるようになったのか。

これは明治大正の小説をすべてチェックするわけにはいかないので、流行歌に限らせていただきましょう(強引)。

流行歌の嚆矢といえば松井須摩子「カチューシャの唄」(大正3年)ですが、その3年後に流行ったのがやはり須摩子の「さすらひの唄」
♪行こか戻ろか 北極光(オーロ)の下を
という有名なうたい出しでご存じの方がいるかも。

それに続く歌詞が 「露西亜(ロシア)は北国はてしらず」で、これは「きたぐに」とうたっています。
作詞は北原白秋で、「ほっこく」ではなく「きたぐに」という言葉で、モダンさを織り込んだのかもしれません。

しかし、残念ながら白秋の「新語」は定着しなかったようで。

昭和初年からはじまる、ラジオとレコードによる「流行歌の時代」でもさほど出てきません。

唯一みつけられたのが昭和10年は大本教が政府の弾圧を受けた12月に発売された「さすらいの恋唄」(東海林太郎)
♪雪の北国 果てもなく 
といううたい出しで、さいごも
♪さすらい悲し いづこ行く どうせ北国 空の涯て

ただ、この歌も実際に聴いたことがないので、「北国」がはたして「きたぐに」だったのか「ほっこく」だったのかはわかりません(知っている方教えてください)。たぶん、「きたぐに」だろうと思うけど、「ほっこく」でもおかしくはない。

それ以外で「北国」という歌詞はみつけられなかった。ちなみに「北日本」なんていまじゃ聴けないスゴイ歌詞もあったけど。

ということは歌の世界でも「北国」つまり「きたぐに」が頻繁につかわれるようになったのは戦後ということになる。
わたしが知っている曲(ほとんどヒット曲)で「きたぐに」が出てくるのは昭和36年にこまどり姉妹がうたった「ソーラン渡り鳥」。作詞は石本美由起。ちなみに井上靖の詩集「北国」が出版されたのがその少し前の昭和33年。これは「きたぐに」と読むようだ。

歌謡曲でつぎに古いのが前述の「赤いハンカチ」で37年。
そして東京五輪の39年には三島敏夫「面影」にも出てくる。

しかし30年代はそんなもので、“北国ブーム”が起きるのは40年代から。

タイトルでみると
昭和40 北国の街(舟木一夫)
昭和42  北国の二人(ジャッキー吉川とブルーコメッツ)
昭和42  北国のチャペル(ランチャーズ)
昭和42 北国の青い空(奥村チヨ)
昭和43  北国は恋がいっぱい(畠山みどり)
昭和44  北国の町(鶴岡雅義と東京ロマンチカ)
昭和47  北国行きで(朱里エイコ)
昭和47  だからわたしは北国へ(チェリッシュ)

で、読み方はすべて「きたぐに」。

歌詞の中に出てくるのは
昭和40 函館の女(北島三郎)
昭和41 青い瞳(ジャッキー吉川とブルーコメッツ)
昭和41 尾道の女(北島三郎)
昭和42 小樽のひとよ(鶴岡雅義と東京ロマンチカ)
昭和43 スワンの涙(オックス)
昭和46 望郷(森進一)

などがありますし、さらに50年代になるとかの「北国の春」をはじめ、うたい出しに出てくる「熱き心」(小林旭)なんてビッグヒットもありました。

しかし、流行歌の主流が歌謡曲・演歌からポップスへうつるとともに、「北国」も瀕死の状態に。ほとんど聴いていませんが最近の演歌ではなんとか生きのびているのではないでしょうか。

そしていまだに、失意の男女が「北国」をめざしているのではないでしょうか。
そんな彼らはなにに乗ってわざわざ「凍える国」へ向かうのか。
飛行機だろうって? いやいや歌謡曲、演歌では飛行機はめったに乗らない。だいたいは列車ってことに。

その列車ですが、JRに大阪―新潟を結ぶ急行「きたぐに」というのがある。大阪を夜の11時過ぎに出て新潟に着くのが翌朝8時過ぎという、寝台付きの列車だそうで、そののんびり感がなつかしい。
その急行「きたぐに」が来年3月で廃止になるとか。
なるほどー、こうやってひとつの言葉が死んでいくのでしょうね。


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三つの歌●立川談志 [day by day]

談志と横井弘.jpg

だんしがしんだ。

有名な回文だけど、ほんとうになっちゃいました。

やっぱり淋しい。
小円遊、円楽、歌丸、小痴楽なんかを仕切っていた「笑点」の初期から見ていましたから。

でも、本業の落語は、個人的には圓生、小さん、志ん朝で止まってしまっているので、立川流については語るべき言葉もありません。

それよりもわたしが家元(談志)にシンパシーを感じるのは、彼が無類の歌好きだったこと。

彼は歌に関して三冊の著書がある(実際はもっとあるかもしれません)。

まず一冊目が「童謡咄」。
これはもちろん、彼が幼少のころから口ずさんでいたわらべ唄や唱歌(それらを童謡といっている)。

二冊目が「談志絶唱 昭和の歌謡曲」。
これもタイトルからわかるとおり、青年時代に聴きまくったという歌謡曲。もちろんいまでいえば懐メロ。

そして三冊目が「談志受け咄」。
これはたしか3人の深い交流のあった奇人をとりあげた内容で、その1人が今は亡き日本のカントリーの大御所・ジミー時田に関するものだった。

以上のジャンルからそれぞれ1曲とりあげ、立川談志への鎮魂歌としようと思います。

3冊ともどこかに積んであるのですが、探す時間もないので記憶と思い入れに頼ってピックアップしてみたいとおもいます。

まず、童謡。
これはかなり記憶が飛んでいます。
たしか談志の好きな歌に「冬景色」があったのはかすかに覚えています。
それよりも、彼が子供の頃、「とんぼ釣り」をしていた話が、わたしの体験と重なって印象に残っています。

とんぼ捕りではなく、とんぼ釣りなのです。
もちろん細竿にモチ(鳥もち)をつけた「とんぼ捕り」もしましたが、「とんぼ釣り」が懐かしい。

年配の方はご存じでしょうが、「とんぼ釣り」とははじめにメスを捕まえ、それを糸で縛って竿の先につけ、空中で振り回しながら交尾のために寄ってくるオスを捕まえるという方法なのです。

そのとき、独特の節で“誘いうた”をうたうのです。
♪とんぼ来い チャンがいるぞ
というような。

のちのちわかった節は、「元禄花見踊」のはじめのメロディーでした。
「チャン」とはギンヤンマのメスのこと。これものちにわかったことでした。
子どもの頃は意味など知らずに口ずさんでいたわけで、それはとんぼを捕まえる呪文のようなもので、ギンヤンマでなくともうたっておりました。

はたして日本全国どこでもうたわれていたのかどうかはしりませんが、わたしが育ったところは、談志師匠の地元と比較的ちかい場所ではありました。

何十年も忘れていた「歌」を思い出させてくれたのが、まさに「童謡咄」でした。

そんなわけで1曲目は「赤とんぼ」を。

つぎに歌謡曲。これはやたらと詳しい。
それも家元が青春時代を過ごした昭和は20年代、30年代の歌。

すきな歌手なら、ヒットしなかった曲やB面だって知っている。知っているだけじゃなくて歌っちゃう。どんだけ流行歌に漬かってたんだろうと思うほど。
とりわけ、作詞家には詳しい。それだけ歌詞を読みこんだか、うたいまくっていたのでしょう、きっと。

ディック・ミネ、田端義夫など好きな歌手はあまたいたでしょうが、とりわけの贔屓がプライベートでも仲良しだったという三橋美智也
だから、談志→歌謡曲 となると 三橋美智也→「哀愁列車」
と連想してしまう。

したがって2曲目の歌謡曲は「哀愁列車」で。

そして最後はジミー時田。
どういういきさつかはしりませんが、とにかく大親友。
ジミーが亡くなったときには、たしか葬儀委員長を務めたはず。

ほんとうにカントリーミュージックが好きだったのか、ジミー時田が好きでカントリーを聴いていたのかはわかりませんが、立川談志がロイ・エイカフについて語っていたということも聞いたことはないので、ここはやはりジミー時田の歌を聴きながら家元を偲びたいと思います。

多くあるジミーの曲から談志師匠にある意味ふさわしい「ワイルド・サイド・オブ・ライフ」を。

初期の笑点のメンバーで残っているのは歌丸だけ?
さみしいことです。


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●ギリシャ [day by day]

誘惑.jpg

まだ由紀さおりの続き。

前回もいいましたが、“欧米でブレイク”だって。
アメリカはわかるけど、ヨーロッパも?

ニュースでは具体的な国として、今話題のギリシャの名前が。
なんでまたギリシャなのか。

思えば由紀さおりさん、「夜明けのスキャット」をヒットさせた1969年にギリシャを訪れています。
なんでもギリシャの音楽祭に出場するためで、そのとき「天使のスキャット」をうたい、最優秀歌唱賞を獲ったそうです。

当時、話題になった記憶がない。
なんでギリシャの音楽祭に出たのかも不明。
もしかして「夜明けのスキャット」ヒットのご褒美の海外旅行だったりして。たまたまそのスケジュールの中にギリシャ音楽祭があったから、「じゃ、ついでに出ちゃうか。入賞すればハクもつくし」なんて。

そんなことはないですよね。
しかし、これがイタリアのサンレモ音楽祭だったら、もうすこし話題になったのでしょうが。

しかし由紀さん、そんな外国の映画祭入賞なんて後押しがなくてももはや日本のトップシンガーになりつつあったのですから気にしませんよ、きっと。

“マクラ”はこれくらいにして。
とにかく40年以上も昔の話ですけど、そのとき由紀さおりの歌に魅せられたギリシャ人が少なからずいて、今回のヒットもそうしたひとたちの後押しがあったのではないでしょうか。あくまで推測ですが。

しかしギリシャ音楽。

フランスならシャンソン、イタリアならカンツォーネ、ポルトガルならファドという伝統的なポップスがありますが、ギリシャでは?
もちろん伝統音楽はあるのでしょうが、日本ではほとんど聞こえてきません。

それでもギリシャを代表するシンガーとしては、ナナ・ムスクーリNana Mouskouriがいるし、ジュルジュ・ムスタキGeorges Moustakiはギリシャ系のフランス人。

また、映画でも日本で知られた著名人が。

俳優ならば、のちに政界へ進出したメリナ・メルクーリ。(実は彼女しかしらない)
代表作「日曜はダメよ」や「死んでもいい」、「太陽が目にしみる」などなど。

監督では、「旅芸人の記録」や「永遠の一日」のテオ・アンゲロプロスでしょうか。

しかしわたしにとってギリシアの監督といえばコスタ・ガブラス
ほとんどフランスで活動していましたが、出身はギリシャ。

そして何よりも彼の代表作「Z」はギリシャの内紛を描いた作品。
ギリシャが軍事クーデターによって独裁政権を誕生させる“前夜”を描いた映画で、暗殺される政治家にイブ・モンタン。その真相解明に奔走するジャーナリストにジャック・ペラン、リベラルな判事にジャン・ルイ・トランティニヤンが扮していました。

公開は1969年といいますから、まさに「夜明けのスキャット」がヒットした年。

コスタ・ガブラスはその後「告白」、「戒厳令」と政治的三部作をつくるのですが、第一作ほどのインパクトはなかった。
その後、アメリカでもメガホンをとり、トム・ベレンジャーが白人至上主義のテロリストを演じた「背信の日々」などをつくりましたが、それもわたしの中では失速(「Z」のインパクトが強すぎたから)。

されど「Z」、アカデミーの外国映画賞を受賞するほど素晴らしい映画でした。
さらに、その音楽がまたよかった。メインテーマ以外でも、ラストシーン他で流れてい「愛のテーマ」[Yelasto Pedi](何と訳すのでしょうか)とか、ほかにも印象的なBGMがいくつもありました。

その音楽を担当したのがミキス・テオドラキスMikis Theodorakis。
元々はクラシック畑の人でしたが、ポップスや映画音楽でもギリシアでは知られた存在。

映画音楽では、前述のメリナ・メルクーリとアンソニー・パーキンスが共演した「死んでもいい」アンソニー・クインが気のいい男を好演した「その男ゾルバ」、さらにはアル・パチーノの初期の作品で警察の腐敗を暴こうとした警察官の物語「セルピコ」などが知られています。

なお、愛のテーマ[Yelasto Pedi]は、インストだけでなく、ギリシャの国民的歌手といわれるマリア・ファラントゥーリMaria Farantouri によってうたわれています。(YOU-TUBEは1974年といいますから、独裁政権が倒れ、民主化がなった直後のものだと思われます)

さらにこの歌、007の「ゴールド・フィンガー」をうたったシャーリー・バッシーShirey Basseyが「ライフ・ゴーズ・オン」Life goes onという題名でカヴァーしています。

当時持っていたシャーリー・バッシーのLPに入っていたフェヴァリットソングだったのですが、紛失。
CD化されているかと思って探してみましたが、みつからず。当時ダビングしたテープだけが残っていますがデッキが故障で聴けない状態。
そういう意味でもYOU-TUBEはありがたい。

さいごにもうひとつギリシャの映画音楽を。

「Z」の2年前につくられた「誘惑」という映画があります。
B級あるいはC級のラヴコメディという解説を読んだことがあるのですが……、ということはそうです、観ていないのですこの映画。

それでもなぜかサントラ盤を買ってしまいました。(おそらくラジオで聴いたのでしょう)
そもそも、B級映画のテーマがシングルレコードとして発売されるとは。で、わたしのように映画は観ないけど、音楽は聴きたいという人間が買ってしまうとは。
そうです、そんな時代があったのです。
ちなみに、前述したメリナ・メルクーリの「太陽が目にしみる」も“映画未見のサントラ買い”ってやつ。

で、この「誘惑」、ソウラ・ビルビリSoula Birbili という歌手がうたっているのですが、「Z」でもつかわれていた「ブズーキ」という弦楽器が印象的な音楽です。

ところでこのテーマ曲の作曲はてっきりテオドラキスだと思っていました。実際そんなようなことを本で読んだ記憶もあったので。

ところがインターネットで調べてみると、「誘惑」の音楽を担当したのは別人になっています。しかし、YOU-TUBEではテオドラキスのクレジットが入っているものもあります。
まぁ、調べつくしたわけでもないので、ここでは不明としておきます。

どなたか詳しい方がいらっしゃったら[Yelasto Pedi]の意味ともども教えていただければ幸いです。


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その名は●さおり [the name]

夜明けのスキャット.jpg

♪ やっぱり あの人は
  わたしを送りに来なかった
  賑わう夕暮れ 人混みのなか
  わたしは ただバスを待つ
  悲しみだけを 道案内に
  想い出色の 洋服を着て
  辛くないと言えば嘘だわ
  あの人のことが 気がかりだけど
  わたしは いまバスに乗る
(「挽歌」詞・千家和也、曲・浜圭介、歌・由紀さおり、昭和49年)

由紀さおりが欧米でブレイクしているらしい。
なんでもアメリカの楽団、ピンク・マルティーニが彼女の「夜明けのスキャット」を取り上げ、その後本人とのコラボに発展、さらにYOU-TUBEにのったり、iTunesで配信されたりと大騒動になったのだとか。

なんでかなと思うのは無理ないことで、いちばん驚いているのは本人だとか。
まぁ、インターネット時代ならではの現象といえるのでしょうが、ファンとしてはウレシイかぎり。

日本の流行歌の世界で、「さおり」といえば2人。
その由紀さおりと南沙織でしょう。

シンシアについてはつい最近(でもないか)やりましたので今回は“時の人”を。

では「夜明けのスキャット」までのプロフを簡単に。
本名は安田章子で、生れは群馬県桐生市。といってもこれは戦争での疎開先。
すぐに疎開前の神奈川に戻る。したがって育ちは横浜は鶴見。そうそう、生れは戦後です。これは言っておかないと。

姉の安田祥子(さちこ)が童謡歌手をしていた影響で、彼女も「ひばり児童合唱団」に入り、「花かげ」や「絵日傘」など何曲かの童謡をレコーディングしています。

ちなみに、元童謡歌手というか、子供の頃合唱団に入っていて、ティーンあるいは成人してから流行歌手になったという人は意外といます。

よく知られているのは園まり倍賞千恵子、それに女優兼の吉永小百合本間千代子(引退)。ほかにも、最近亡くなった日吉ミミ、あるいは渡辺トモコ、高石かつ枝がいますし、戦前にまでさかのぼれば織井茂子菅原都々子も童謡歌手でした。

軌道修正。由紀さおりのこと。
そして十八のときに所属していたキングレコードから流行歌手としてデビュー。このときは安田章子の本名で。
デビュー曲は当時流行っていたスカのリズムを取り入れた「ヒッチハイク娘」でしがた、これがさっぱり。

とにかく倍賞千恵子に次ぐヤングスターを、と意気込んでいたレコード会社の目論見は大外れ。

それでもめげないのが章子ちゃん。
当時、彼女の目標はペギー葉山のようなジャズシンガーあるいはポップシンガーだったとかで、そのため勉強を兼ねてクラブの仕事もずいぶんこなしていたとか。

やっぱりあふれんばかりの才能は誰かが発掘しちゃうんですね。

彼女の透明感のあるプレーンな声に注目するディレクターがいて、CMシンガーとして活路をみいだしていきます。歌ったCM曲は数百曲になるとか。

そのうちのかなりの曲を作っていたのがいずみたく
ピンキーこと今陽子佐良直美の才能を見抜いた作曲家が、安田章子の才能を見落とすはずがない。

とりわけいずみたくは、CMでしばしば使っていた彼女のスキャットの美しさに注目。
そのスキャットを使って再デビューを企画。十八の挫折から3年目のこと。

すてにキングレコードをやめていたので、東芝EMIで新たなスタート。そのときステージネームを由紀さおりに。
なんでもはじめは「結城紗織」だったとか。命名者は当時彼女のマネージャーだった母親で、呉服関係の仕事をしていたことから名付けたとか。
しかし、さすがに字面が重たすぎるので「由紀さおり」に変えたそう。

「夜明けのスキャット」はラジオの深夜番組のテーマ曲から広がり、ブレイクしたといわれていますが、これもいずみたくをはじめとする制作サイドの作戦だったようです。

とにかく「夜明けのスキャット」は200万枚を超えるビッグヒットとなり、新生・由紀さおりはスターシンガーの第一歩を踏み出したのです。

その後の活躍についてはウィキペディアなどをご覧になってください。

では本題であります、由紀さおりの“独偏的”ベスト3プラス1を。

「手紙」
「夜明けのスキャット」に次ぐオリコン1位の曲。曲は「人形の家」(弘田三枝子)や「積木の部屋」(布施明)、あるいは「円舞曲(ワルツ)」(ちあきなおみ)の川口真。詞はなかにし礼

「挽歌」
懐かしいタイトルの“別れうた”。でも歌謡曲の常で原田康子のベストセラー小説とは無関係。
メロディーメイカー浜圭介の哀調はさすが、奥行きのある詞は千家和也

「十二の誕生日に」
どうしてもいずみたく作品をひとつ。そして姉さんとのデュオを1曲。
いずみたくらしい曲で、ピンキーもうたっています。もしかしたら吹き込みはピンキーのほうが早かったのかも。

プラスワンはやっぱりカヴァーを。
昭和の名曲です。(消されそうなのでお早めにどうぞ)

*今、中日―ソフトバンクの日本シリーズ第4戦をテレビ観戦しておりました。
そして6回裏、1点ビハインドのドラゴンズの攻撃。ノーアウト満塁でリリーフした森福のピッチングにシビレました。三振、浅いレフトフライ、ショートゴロと見事無得点で抑えました。
もし、ソフトバンクが逃げ切ったら、この回がハイライトでしょう、多分。


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異論な人04●Girl②金髪 [people]

異論な人04ブロンド.jpg

まぁ乗客ウォッチングのために電車に乗るわけではないのですが、ついつい。

というか、ふつうは電車に乗っている時間は“読書タイム”なのですが、最近夜ふかしがたたってか、“コックリさん”になってしまうことが多くて。

乗客ウォッチングしていると、なぜか眠気がスッと消えていくから不思議。
しかし、ウォッチングっていっても、ただ見てればいいってもんでもない。
あんまりジッと見てると、「何見てんだよ」って感じで睨まれたり。

とりわけそれが女性、それも若い女性だと目が合っただけでも「なによ、このオヤジ」って顔をされかねない。
だから畢竟、見るのは同性、それも年配者になってしまいがち。

でも、たまには見たいよね、若い女の子を。

その少女を見かけたのは、そこそこ混んでる都営大江戸線の車中。
わたしは座席に腰掛けていて、両国駅で彼女は乗り込んできました。

まず髪はショートで鮮やかな金髪。
他の乗客が壁になって顔はよく見えませんでしたが、例によってマンガチックなどぎついつけ睫毛は確認。

服装は黒のミニのワンピースに白いブーツ。

異様な感じを受けたのは、背中に身の丈60センチほどのテディベアを背負っていたこと。
それも、正面をこちらに向けて。つまり少女とテディベアが背中合わせになっている状態。

で、ほかにはなにもなし。つまりバッグひとつもたない手ぶら。

連れもいなくて、ひとりぼっちなので、もしかしたら何かの撮影か、と思って周囲を見回しましたが、それらしき様子はなし。

結局、彼女はすぐに上野御徒町で降りてしまいました。

たしかにそのテディベアのインパクトは強かったのですが、こうした若さゆえの“衒い”っていうのは、ややもするとクサミになってしまったり。

それよりも記憶に焼き付いたのは金髪と黒のドレスのコントラスト。とりわけ金髪は、「ジス・イズ・ブロンド」といえるほど今まで見たことのない鮮やかな金色でした。

どうせカツラ(ウィッグっつーの?)か染めてるんであって、本モノじゃねえだろって?

そりゃそうです。
だいたい金髪なんてほとんど紛い物。
あのモンローだって、マドンナだってブロンディのデボラだってみんな染物ですから。

本モノの金髪なんて全人類の1~2%だそうで、そうはいない。
なのにハリウッドではウジャウジャいるような印象があるものね。

ということは、金髪に憧れるのは、東洋人、西洋人かんけいないのかも。希少価値という意味では鉱物の金すなわちゴールドと同じ。

しかし、あの金髪、西洋人にとっては金色とは認識していないんでしょうか。
ゴールデンヘアとはいわないものね。あくまでブロンドっていうし、ブロンド、イコール、ゴールドではない。

フォスターの「金髪のジェニー」はJeannie With the Light Brown Hair だから金髪ではなくどちらかといえば茶髪。

本モノ贋モノの見分け方はほかの毛を見ればわかるとか。
たとえばアンダーヘアもあるけど、そうは見れない。いちばん見分けやすいのは眉毛。
「ブロンディ」のデボラ・ハリーのように金髪なのに眉毛クログロっていうのは間違いなく贋モノ。
でも、眉毛だって染めることはできる。

もうひとつ、ブロンドと碧眼は対になっていることが多いとか。そういえばブルーアイズの比率も2%程度でした。
だからブロンドに青い目というのは、限りなく本モノに近いのでは。でも、今はコンタクトもあるけど。

まぁ、本モノでも贋モノでも見る分にはどちらでもかまいません。
ホームで見た少女のようにフンイキバッチリなら、日本人だって似合わなくはない。
年齢性別も関係ない。

ビートたけしだって、あれ金髪でしょ。内田裕也もそうだし、美輪明宏だって(あれは黄色かな)。
彼らは芸能人だから、っていうなかれ。
最近ふえてるんじゃないでしょうか、中年男の金髪。

先日、幼なじみと道でバッタリ。
はじめお互いにわからなかったけれど、最初に気付いたのは向うのほう。
「ずいぶん白くなっちゃったから、はじめわかんなかったよ」
だって。

そう、わたしの頭髪のことをいってるのです。
そういう彼の頭髪は短く、金色に染めていた。
「染めてんだ?」
と訊くと、
「ああ、いいもんだぜ、そっちも染めてみたら」
だって。

以前、知合いで白髪を黒く染めているヤツがいて、いっとき「染めようかな」って思ったことも。
でも、染めなかったのは、一度染めると常に染めずにはいられなくなることが目に見えているから。ヒゲそるのだって面倒くさいのに、髪の毛洗うたびに染めるなんて、トテモトテモわたしの性分ではムリ。

わたしのような無精な人間がやると、染め方もやがて中途半端に。先は金髪だけど根元は真っ白なんてこと。
だから染めるのはあきらめて、せいぜい帽子でごまかしておくのが無難でしょう。

そうそう、例の道でバッタリの金髪のせんせい、小中時代の同窓生。
中学時代は3年間ずっと同じクラスでした。
だからって3年B組じゃなかったですけど。

それでは型どおり、さいごに「少女」「金髪」の歌を。


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異論な人03●Girl①化粧 [people]

異論な人03.jpg

またしても電車中での目撃談。

別に電車中限定ではないのですが、「異論な人」を見る機会は電車中が多くなる。

それはわたしが電車によく乗るということもありますが、見知らぬ、それも数多の人びとと狭い空間を共有するはめとなる電車中では、ついついやることがなくなり、ついつい「異論な人」探しをしてしまったり。

2人とか3人で乗車すれば、話をしていればいいですが、1人ではそうはいかない。
たまに1人でも喋っている人もいますが、ふつうは無言の行。

とはいえなにもしないというのも、それはそれで苦痛なことで。
乗客のみなさんたいがいなにかをやっている。
では、なにをやっているのか。

いちばん多いのは最近なら、ケータイやゲーム。次が古典的な新聞、雑誌、本を読むこと。

ほかでは意外に多いのが「居眠り」(実は個人的には最近コレばかり)、それと週刊誌の中吊り広告をはじめ、車中の広告を読み漁る。最近はニュースや映像もあって、そこそこ暇つぶしにはなる。

ほかでは、仕事。プレゼン用かなにかの書類のチェック、あるいは校正、なかにはノートパソコンでブラインドタッチを披露している人もいたり。

また、立って吊皮につかまっている人では、ぼんやり窓外の景色を眺めているというのも多い。

先日見かけたのが、化粧。

これは時々みかけます。
しかし、こないだのはスゴかった。

午前十時過ぎころで、満員ではないけど、立っている人もそこそこという車中。
わたしが乗り込んだときも空席はなく、吊皮につかまり(こういう情況ではまず眠くならない)、「今日もスカイツリーは霞んでいるやろか」などと窓外をたしかめたあと、視線を落とすと座っていたのは今風の少女。
歳のころなら十八、九。

まさに“工事中”いや“作業中”(同じか)でありました。
すでにマンガチックなケバケバしいつけ睫毛は装着ずみで、左手に小鏡、右手に細い筆のようなものを持ち、さらに目に装飾をほどこしております。

ジッと見続けるわけにもいきません(許されればそうしたかったけど)ので、外の景色8分に少女2分という割合で視線を送っておりました。

目的地までは10駅あまり。時間にして20数分。
結局少女は、わたしが電車を降りるまで、いや多分降りたあとも化粧を続けていました。
口紅を塗ったり、鼻のわきにカゲをつけたり、頬やおでこを光らせたり……。

そうして少女は、下車する頃にはみごと変身して、さっそうと職場にあらわれるのでしょうね。

想像するに、わたしが乗車する前からすでに“工事”ははじまっていたのですから、最初はおそらく素面。しかしスゴイ時代になってますね。部分的なメイク直しは時たまみかけますが、彼女のような「車中フルメイク」は初めて。

寝坊してしまったのか、これが少女の日課なのかはわかりませんが、とにかく素顔から完成までの工程を、電車中とはいえ公衆の前で披露したのですからその度胸たるや。
テレビ番組風にいえば「電車中、全部見せますワタシの化粧AtoZ」てなことに。

電車中の化粧については、本もでているくらいで顰蹙をかっているようです。
とりわけ年配者、それも男性がお怒りのようです。

「ヤマトナデシコが、あゝ嘆かわしい」「あの奥ゆかしき女性やいま何処」
ってな具合でしょうか。

同性はどう思ってるんでしょうか。
一般論はわかりませんが(推測するに年配女性も眉を顰めているのでは)、以前読んだ本で中年のジェンダーの方々が対談しておりまして、その中ではたしか、「どこで化粧をしようが勝手」とかの女性の蛮行、いや品行を擁護しておりました。というより、彼女たちの矛先は、そうした行為を攻撃する男どもに向けられていた、というふうに読みとれました。

ついでにいうと、そうしたジェンダーの彼女たちが自身の化粧に無頓着だったり(余計なことを)。

わたしは、「“公前”で化粧する少女」たちにモノ申そうという気はサラサラありません。

大いに歓迎というと、同性から袋叩きにあいそうですからそこまではいいませんが、普段見れないものをジックリ(とはいかないんだけれど)見れるから、それはそれで暇つぶしにはなるのではないかと。

粉が飛び散ったり、香料が強すぎなければ、怒るほどのことではないのではというのが、わたしの本音。

もうひとついえば、やはり衆目での化粧は「恥ずべきこと」「慎むべきこと」という通念があるようで、実行しているのはほんのマイノリティ。ほとんどの少女たちは我慢(たぶん)しているんでしょう。

したがって、かの少女たちにもやがて歳とともに「社会的羞恥心」というのが植えつけられ、電車中の化粧をしなくなるはず。
意図的に反社会的行為を遂行しょうという強い意志をもった例外的人間はいるとしても。

つまり、電車中の化粧は「若気の至り」なのでありまして、それに顔をしかめる「大人」がいるのもこれまた当然ということなのでしょう。

それが証拠に、二十代後半とか三十代以上の女性で、電車中で化粧をしている女性というのはまず見かけませんから。
まぁ、歳とともに化粧に対する執着心がうすれてくるってこともあるでしょうけど(もう少しガンバッても、という思いがなくもないけど)。

では最後に、70年代の「少女」の歌、そして「化粧」の歌を。


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秋の歌③赤い月 [noisy life]

ベトナムの赤い月.jpg

 あゝあああ 見ておくれ
 ベトナムの ベトナムつつむ 月影赤い
 戦火の炎を 天まで焦がす
 風薫る 南十字の 星のもと
 あの娘の歌は いつ聞ける いつ聞ける
(「ベトナムの赤い月」詞:中山正男、曲:遠藤実、歌:三船和子、昭和40年)

青い月があれば赤い月だってある。
赤い月のほうがイメージとしてはリアルかも。

で、やっぱり戦前からうたわれていました。

前回の「青い月」の戦前はディック・ミネの「上海ブルース」でしたが、「赤い月」もなんと上海。

♪紅の月さえ瞼ににじむ 夢の四馬路(すまろ)が 懐かしや

東海林太郎がうたってヒットした「上海の街角で」
で、つくられたのは「上海ブルース」と同じ昭和13年。

この頃というのは日中戦争の最中で、昭和12年の12月にはのちに問題となる南京入城、つまり日本軍による南京占拠が行われ、以後ますます大陸に侵攻していくことに。

話が暴走しそうなので、南京入城に関して詳細はパスしますが、音楽に関係あることをひとつだけ。

日本軍の入城とほぼ同時に、作家やジャーナリストなどで構成された従軍記者たちも南京に入り、その模様を日本の新聞や雑誌に寄稿しました。

そんななかに詩人であり作詞家だった西條八十もいて、「燦たり南京入城式」という一文を雑誌に寄稿している。その中に「支那兵の死体の山」を目撃したと記している。

とにかくそんなわけで? 大都市・上海もまるで日本の占領地のような雰囲気となり、上海を舞台とした歌がいくつもつくられます。

昭和13年に限っただけでも、既出の2曲以外に
「上海航路」(松平晃)
「霧の上海」(松島詩子)
「ガーデンブリッジの月」(松島詩子)
「上海陥落万々歳」(東海林太郎)
「上海だより」(上原敏)
「上海特別陸戦隊」(東海林太郎)
「霧の四馬路」美ち奴
といった具合。

はたして上海で見られた月は青かったのか、赤かったのか。

それは多分、戦火から遠く離れていれば青かっただろうし、戦火が迫っていれば赤かったのではないでしょうか。

そして戦後、終戦から20年を経て、そんな歌があらわれます。

三船和子「ベトナムの赤い月」

昭和40年9月の発売といいますから、ベトナム戦争反対の市民組織べ平連(代表・小田実)結成に遅れること5カ月。

「フランシーヌの場合」(新谷のり子)、「さとうきび畑」(森山良子)、「教訓Ⅰ」(加川良)など長期化するベトナム戦争にNOのメッセージをこめた、いわゆる反戦フォークがうたわれるのが昭和44年あたりからなので、この「ベトナムの赤い月」がいかに時代を「先取り」していたかがわかります。

上にのせた詞は3番のものですが、2番では、
♪ベトナム救う 僧侶の悲願 戦やめよと 身を焼く祈り

と、当時日本でもショッキングな事件として報道された、ベトナム僧侶たちの反戦反米を訴えた焼身自殺についてもふれられていたり。

「ベトナムの赤い月」の作詞は中山正男、作曲は遠藤実
では、いかにしてこの歌は生まれたのでしょうか。

実は、昭和40年、当時の太平住宅の代表・中山幸市が「ミノルフォン・レコード」(現在の徳間ジャパン)を設立。その重役兼作曲家として招聘されたのが、懇意にしていた遠藤実で、この「ベトナムの赤い月」がその第一号のレコード。
遠藤の門下生だった三船和子にとってもデビュー曲。

B面はやはり中山正男作詞の「世界連邦太平音頭」で今井正の映画「キクとイサム」で知られた川田キク(高橋エミ子)がうたっている。

作詞の中山正男は北海道出身の作家で、戦中は雑誌「陸軍画報」を発行する傍ら執筆活動を行っていたガチガチの軍国主義者で、戦後は公職追放にあっている。代表作は映画化もされた「馬喰一代」。

昭和40年当時は「新理研映画」という映画製作会社の代表で、同社は当時ドキュメンタリー映画「動乱のベトナム」を制作していて、ミノルフォンの顧問でもあったことから、流行歌「ベトナムの赤い月」は生まれたようだ。

その後、ミノルフォンからは、山本リンダ千昌夫といったスター歌手が出てくるのだが、中山幸市は設立から3年後に、中山正男は4年後に亡くなっている。

「赤い月」はなにも戦場にばかり出るのではない。
ダッシュでそのほかの「赤い月」を。

「赤い月の下で」中島そのみ 昭和31年
♪今夜は赤い月が出た アパッチ族の出陣だ
キンキンヴォイスのそのみ嬢お得意の和製カントリーソング。これはなぜかインディアンが主役。作詞・作曲は小坂一也とともに“座付作家”の服部レイモンド。
「西部のM型娘」もそうだが、ゲーリー・クーパー、ジョン・ウェインとなぜかアメリカの西部劇俳優の名前が出てくる。

「たそがれの赤い月」ジュディ・オング 昭和42年
♪たそがれ染める 真赤な月を 見つめてひとり 歌う
時代的にもGSの影響が見られる歌謡曲。作曲が「アンコ椿は恋の花」や「さざんかの宿」の市川昭介というのがスゴイ。市川はほかにも橋本淳と組んだGSナンバーがある。
「魅せられて」で女になる前の? ジュディ・オング。ポニーテイルが可愛かった。

「夢見る少女じゃいられない」相川七瀬 平成7年
♪噂話や流行りのギャグなんてもういいよ 赤い月が心照らしてる
ツッパリ娘(そうは見えないけど)のデビュー曲。デビュー当時のベイビーヴォイスが歳とともにいくらか“太って”ロッカーらしくなってきました。←空から目線。「六本木心中」はなかなかだったものね。
でも、相川七瀬、牧瀬理穂、中澤裕子の顔、誰がだれだか……。

「赤い月」さだまさし 平成15年
♪今もあなたが好きですと 言伝(ことづて)をせよ赤い月
お得意の叙情歌であり、惜別の歌。
半文語体で赤い月や赤い星に想いを伝えてほしいとうたっている。月は場所や時間を隔てても不変なものの象徴で、血のたぎるような熱い想いで赤く染まっている。

いちど水がはいってしまいましたが、はじめからの予定でしたので、秋の歌を季節にせかされながらもうひとつやってみました。かなりとっちらかりましたが。
これで今年の秋もなんとか乗り切りました。
ソロソロ冬の準備にとりかからねば。


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その名は●ジョージ [the name]

柳ジョージ(ライヴ).jpg

♪土佐の鯨は大虎で 腕と度胸の男伊達
 いつでも酔って候
 酒と女が大好きで 粋な詩も雪見詩
 いつでも酔って候

 鯨海酔候 無頼酒
 鯨海酔候 噂の容堂
 …………
(「酔って候」詞・曲:柳ジョージ、歌:柳ジョージ&レイニーウッド、昭和53年)

63歳は若すぎる。酒かなぁ。
ついこないだジョージ(杉浦直樹さん)の訃報をブログ化したばかりなのに、柳ジョージさんまでが。
今年はなんだか、日本のロックやブルースのシンガーの訃報が多い気がします。

柳ジョージさん。ちょい兄貴だけど、ほぼ同年代。
音楽のスタートがポール・アンカであり、ニール・セダカであり、サム・クックだった、つまりアメリカンポップスだったという彼には親近感を感じていました。

あの時代のミュージシャンですし、横浜出身、ゴールデン・カップス出身ということでかなり乱暴なイメージがあり、実際ハメを外したこともあるようですが、TVで見る彼は温厚そのもの。

単位をとれずに赤信号が灯った大学の卒業も、父親との約束だからとバイトで学費を稼ぎ追試を受けて卒業したというエピソードが示すように、真面目な常識人の一面も。
もっとも、卒業後、就職はせずただちにゴールデン・カップスに加入したそうだが。

とにかくあの優しい顔と、ブルージーな声が聴けなくなるのは淋しい(YOU-TUBEで見れますし、聴けますが)。

数枚あるCDのうち、いまいちばん気に入ってるのは平成6年に出た[GOLDEN TIME COLLECTION]
アルバムタイトルからもわかるとおり、アメリカンポップスを集めたもの。
「テネシー・ワルツ」があり、「ユー・アー・マイ・サンシャイン」があり、「渚のボードウォーク」があり、「ラストダンスを私に」があり。さらに彼の好きなサム・クック「ユー・センド・ミー」「チェンジ・イズ・ゴナ・カム」、共演したこともあるレイ・チャールズ「我が心のジョージア」などなどリストを見てるだけでワクワクしてくる1枚。

冥福をいのりつつ、好きな彼の歌を。

「祭りばやしが聞える」のテーマ
萩原健一主演の同名TVドラマの主題歌。
ショーケンのリクエストで主題歌をうたうことに。なんでも印税ではなく“歌い切り”?契約でレコーディングしたとか。レイニーウッドのファーストアルバム[Time in Change]に収録。

「雨に泣いてる」Weeping in The Rain
これもショーケン主演のTVドラマの主題歌。
元もとレイニーウッドのセカンドアルバム[Weeping in The Rain]のファースト曲で、やはりぜひ使いたいというショーケンのリクエストで、新たに日本語詞をつけてシングルに。
いちばん“商売”になった歌かもしれない。

「青い瞳のステラ、1962夏……」
「フェンスの向こうのアメリカ」同様、横浜生まれで、米軍キャンプを目の前にして育ったという彼にふさわしいドラマチックな歌。昭和55年のレイニーウッド5枚目のアルバム[Woman and I … Old Fashioned Love Songs]の1曲。のちにシングルに。個人的にもいちばん好きな歌。このブログでも何回も。

「酔って候」
司馬遼太郎の大ファンだった彼が、土佐藩主で酒と詩と女をこよなく愛した山内容堂を描いた小説「酔って候」をテーマにつくったアナクロ異色作。彼の自伝「ランナウェイ―敗者復活戦」には、タイトル使用を拒否され、彼自身が司馬家を訪れて許可をもらい、お互いにサインをしあったというほほえましいエピソードが書かれている

[A Change Is Gonna Come] 
これもレイニーウッド5枚目のアルバム[Woman and I … Old Fashoned Love Songs]のファースト・ナンバー。彼が好きだったサム・クックのヒットナンバー。
地べたを這いずりまわっていても、「もうすぐ転機がくるさ」と希望を捨てない男の歌。

Goodbye, Thank you George.


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秋の歌②青い月 [noisy life]

青い月夜.jpg

♪霧にまかれた あなたの窓辺
 ともる灯が とてもいとしい
 長いドレスを 愛してくれた
 やさしいあなたは 空のはて
 
 青い青い月夜の くちづけを
 残してあなたは ひとりで眠る
 瞳をとじて 心をとじて
(「青い月夜」詞:橋本淳、曲:井上忠夫、歌:奥村チヨ、昭和43年)

鎖(じょう)明けて 月さし入れよ 浮御堂  芭蕉

秋の代表的な季語といえば月。

もう過ぎてしまいましたが仲秋の名月といわれるほど、空気が澄み切った秋の月がもっとも美しいといわれています。

春は花見で、秋は月見。
和室の花瓶にススキが活けてあり、その脇の三方には団子がいくつも乗っている。そして縁側から見える彼方の夜空には満月が……、なんて絵柄を以前はよく見かけましたが、いまはどうなんでしょう。
というか、花見はあっても月見なんて一度もしたことないって人が多いのでは。そういうわたしも。

その月はまた歌の世界では欠かせない小道具(大道具かな)。
ただ、「月」だけでは漠然として広がりすぎるので、今回は色味のついた月にしてみました。

歌の世界で多いと思われる月の色は青。

なんでですかね。正直青い月なんて一度も見たことないけど。
ただ、実際に稀ではありますが、月が青く見えることがあるとか。なんでも大気中のチリの影響とかで。そういえば空の青もそうでした。

にもかかわらず「青い月」がうたわれるのは、「青」そのものが失意や憂鬱、あるいは淋しさ、悲しみなど、いささかネガティヴなイメージをもつ色で、そうした感情がよくうたわれる流行歌にはもってこいだからなんじゃないでしょうか。

江戸時代、あるいは明治大正の頃から月が青かったかどうかは知りませんが、昭和、それも戦前から月は青かった。

♪ガーデンブリッジ 誰と見る青い月 「上海ブルース」ディック・ミネ

昭和13年のヒット曲です。
何にもいわずに別れた二人。あの人は今何処。という未練節。

そして戦後、もっとも人びとが口ずさんだのが、昭和30年の、
♪月がとっても青いから 遠回りして帰ろう 「月がとっても青いから」菅原都々子

なんで月が青いと遠回りしたくなるのか、よくわかりませんが、子供ながらにわたしも大人のマネをして口ずさんでおりました。

作曲の陸奥明は戦前からの人で、ヒット曲には三波春夫の“長谷川伸もの”「雪の渡り鳥」和田弘とマヒナスターズ「お座敷小唄」があります。

ほかに「憧れのハワイ航路」を彷彿させる春日八郎「青い月夜だ」や、大津美子「青い月夜の並木路」など、いかにも歌謡曲らしい歌もありましたが、昭和30年代も後半になり、カヴァーポップス全盛期になるとどっと「青い月」が登場します。

♪青い月の光を浴びながら 私は砂の中に 「砂に消えた涙」(ザ・ピーナッツ)
♪ティンタレーダディルンナ 青いお月さま 「月影のナポリ」(森山加代子)
♪青い月や 星空さえ なぜか胸を せつなくする 「すてきな16才」(弘田三枝子)
♪響く陽気なサンブンバ 青い月の光浴び 「月影のキューバ」(ザ・ピーナッツ)

こうなるともう「青い月」はトレンド。
ちなみに訳詞(作詞かも)は、上から漣健児、岩谷時子、漣健児、音羽たかし

やがて“ガールポップス”の隆盛も終わり、日本のポップスはグループサウンズの時代へ。
そんななかでも純和製ガールポップスのヒット曲は生まれ、それらはのちに“ひとりGS”(誰がつけたかダサイ呼び名、ガールが抜けてるし)などと呼ばれます。

そんななかでうたわれた「青い月」が奥村チヨ「青い月夜」

奥村チヨは元々隠れたCMソングの女王でしたが、昭和40年に「ごめんね、ジロー」が初ヒット。42年にはベンチャーズ「北国の青い空」をヒットさせ、その翌年がこの「青い月夜」。

作詞・作曲は上にあるように橋本淳井上忠夫
「ブルーシャトー」のコンビで、ブルーコメッツのヒット曲の大半はこのコンビによってつくられています。ブルーシャトーもそうですが、ほかにも「青い瞳」、「青い渚」の“ブルーソング”が。

その後もポツンポツンと「青い月」はうたわれているようですが、もう1曲取り上げてみたいのが、吉屋潤のつくった「離別(イ・ビョル)」
♪青い月を見上げ ひとり過ごす夜は
初めて聴いた李成愛か、吉屋の元妻、パティ・キムで聴きたかったのですが、どちらもYOU-TUBEにはなし。

とりわけパティ・キム版は、以前NHKの何かの番組で見ましたが、まさにリアルな実生活とファンタジーが交差して、ドキュメンタリーの迫力がありました。

やっぱり「青い月」には悲恋や別離が合うようで。

最後にとってつけたように洋楽の「青い月」を1曲。

ポピュラーなのはエラ・フィッツジェラルドメル・トーメなどでおなじみのスタンダードの「ブルームーン」Blue Moonか、ビル・モンローのブルーグラスをポップスにアレンジしたエルヴィス「ケンタッキーの青い月」Blue Moon of Kentucky ですが、ここではカントリーの「ブルームーンがまた輝けば」When My Blue Moon Turns to Gold Again を。

青い月にお目にかかれば、別れた彼女もまた帰ってくる。
というフラれ男の楽観ソング。

でも、アメリカでも「青い月」はなかなか見られないらしく、[BLUE MOON] イコール「めったに起こりえないこと」という意味があるらしい。
つまり、彼女が復帰する確率は限りなくゼロに近いというわけ。

エルヴィスもたっていますが、今回は作者でもあるウィリー・ウォオーカージーン・サリヴァンWILLIE WALKER & GENE SULLIVAN のオリジナルで。と思っていたらいきなりシャットアウト。

ならばポップなスタットラー・ブラザーズStatler Brothersで。

でも一度見てみたいなぁ、青い月とやらを死ぬまでに。


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秋の歌①人恋しくて [noisy life]


人恋しくて.jpg

♪風は昼間 暖かいけれど
 夜はまだまだ 肌寒くなって
 なんとなく人恋しい 一人ぼっち
 窓の下行く 恋人同士は
 肩を寄せて 楽しそう
 暮れそで 暮れない 黄昏どきは
 暮れそで 暮れない 黄昏どきは
 街の灯り 数えましょうか

(「人恋しくて」作詞:中里綴、作曲:田山雅充、歌:南沙織、昭和50年)

秋真っ只中ですね。
「いい気候になりました」って何人からか挨拶されました。
晴れた日でも、陽なたを歩くのがすこしも苦にならない。
駅まで歩いても汗かくこともない。ほんとにいい季節です。

仕事もいちだんらくしたので、寒くなる前に秋の歌を。

「人恋しくて」
南沙織の歌です。
「暮れそで 暮れない 黄昏どきは」というフレーズが印象的です。

世にでたのは昭和50年といいますから、1975年。
36年前。とほうもなく遠い昔です。そんなに経ってしまったのかという思いがあります。

いちおう秋の歌としてとりあげましたが、いささか自信が……。
というのは、上に載せた3番の歌詞がすこしひっかかる。

「夜はまだまだ肌寒く」ということは、これからすこしずつ暖かくなっていく、というふうにとれます。だとすると、今は春ということに。

また「暮れそで暮れない黄昏どき」というのも、日が長くなっているのですから秋というよりは春。

でも、「人恋しくて」というテーマでありタイトルは、いかにも秋っぽい。
それに俳句の季語に照らし合わせると「肌寒」が秋の季語なので、やっぱり秋。

決定的なのはこの曲の発売が8月ということ。
まさか夏に春の歌は出しませんから。

とにかくいい歌です。

作曲の田山雅充はごぞんじのとおり「春うらら」をヒットさせたフォークシンガー。
この「人恋しくて」は、彼がデュオを組んでいたときにレコード化したアルバムの1曲で、その後セルフカヴァーしています。
また、彼が緑魔子「やさしいにぽん人」の作曲者(共作)であることは、マニアなら周知のことかも。

作詞の中里綴は、金井克子、由美かおる、奈美悦子らと同じく西野バレエ団の出身で、歌手、女優として活躍した江美早苗のペンネーム。
田山とは名コンビで、「春うらら」の補作詞もしている。
沢田聖子、中森明菜、堀ちえみなど多くのシンガーに詞を提供していましたが、平成元年、元夫に刺殺されるという衝撃的な最後をとげています。36歳という若さでした。

しかし、当時三人娘といわれたのが、この南沙織と、天地真理、そして小柳ルミ子
初代が中尾ミエ、伊東ゆかり、園まりですから、二代目?
三代目が山口百恵、桜田淳子、森昌子でした。

酒の席でよく盛り上がるのが「自分は誰派?」ってやつ。
まぁ、ジェネレーションがそれぞれずれていますけど。

悲しいかなわたしは、初代から三代目まですべてカヴァーしてしまいます。
で、恥ずかしげもなく己のごひいきを発表しまするに、
園まり、山口百恵、南沙織……ということに。

それで何がわかるのかって? 酒の席じゃないんだし、何にもわかりゃあしません。
強いていえば「月並み」ってことですか。

秋の夜長、シンシアのベスト3を聴いてみます。
まずはもちろん「人恋しくて」
あとの2曲は、その2年前のやはり秋に流行った「色づく街」、そして同じ年の春にでた「傷つく世代」
どちらも有馬三恵子、筒美京平でした。

♪暮れそで 暮れない……
ちがうんだよなぁ、今の季節あっという間に暮れちゃうんだよなぁ。

……もしかしたら、ホントは「呉れそで呉れない」なのかも。
何を呉れないのかって?
そりゃ決まってるじゃない。愛の言葉よ。……秋ですねぇ。


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その名は●茉莉子 [the name]

 岡田茉莉子02.jpg

♪越後のね 雪の中 若いウサギが言ったとさ
 可愛いあの娘は 角兵衛獅子
 浮世の とんぼ返り つらいね
 テレツク テレツク テットントン
 テレツク テレツク テットントン
 
 越後のね 山の中 若いキツネが言ったとさ
 可愛いあの娘は いつ帰る
 (「角兵衛太鼓」作詞、作曲:三木鶏郎、歌:岡田茉莉子、昭和29年)

前回の続きで、まだ歯科医院の待合室でのことです。

ちあきなおみの記事を読み終えて、再びペラペラやっているとまたしても気になる記事が。

岡田茉莉子に関する記事が2頁(3頁だったかな)見開きで。
なんでも今年が女優業60年ということで、編集部が企画した模様。

本物のイケメン俳優だった父親(岡田時彦)のことや小津安二郎成瀬巳喜男などの監督、あるいは三国連太郎三船敏郎など共演者のことなどを語らせていました。

また彼女にとってもっとも思い入れのある作品「秋津温泉」吉田喜重監督)についても。

この「秋津温泉」が彼女のデビューから100本目にあたり、彼女自身のプロデュース(実際は共同プロデュース)による初めての作品ということ。

で、相手役の長門裕之が実は代役で、はじめは芥川比呂志でクランクインしたこと。
しかし、途中で芥川が病気でダウンし、急きょ代役で撮り直したこと。
そんなことなどが書かれていました。

じつはこの藤原審爾原作の「秋津温泉」。わたしにとって邦画ではナンバーワンの映画。
小津もいい、成瀬もいい、黒澤、木下、今村に、山下耕作、加藤泰と好きな監督数かずあれど、作品でいったらこの“悲恋もの”がナンバーワン。林光の音楽もキレイだった。
いまでもときどきビデオ(今はDVD)を引っぱりだしているくらいですから。

まあ原作と映画は似て非なるものですが、どちらも文句なしの傑作だと思っています。

で、その週刊誌には書いてありませんでしたが、映画「秋津温泉」は岡田茉莉子の企画といってもいい作品。

彼女が松竹に移籍するまえの東宝時代、まだいまでいう“アイドル女優”の頃、このままでいいのだろうかという思いで、小説を読んでいるときにブチ当たった作品だそうです。

そして、松竹に入り100本目の記念作品をというときに自ら進言して実現させた映画なのだそうです。やがて旦那さんになる吉田喜重監督も、彼女が指名したとか。

吉田監督は2年前「ろくでなし」でデビューした新進で、大島渚、篠田正浩、高橋治らとともに松竹ヌーヴェルヴァーグと呼ばれたひとりで、「秋津温泉」が監督4作目。

岡田茉莉子が、それまで出演したことのない将来の旦那さんに監督を依頼した(はじめは断られている)のは、デビュー作「ろくでなし」で出演することになっていたが、どうしてもスケジュールがとれず(それほど売れっ子だった)あきらめた、という経緯があったから。

彼女は「ろくでなし」のシナリオを読んで、今までの自分の映画とはちがうサムシングを感じ、どうしても出たかったのだそうだ。

「秋津温泉」は興行的にもヒットして、作品としてもいくつかの賞を獲り大成功の映画でした。岡田茉莉子はますます女優としての存在感を増し、新進の吉田監督はこの作品によって広く認知されました。

と、知ったようなことを並べてきましたが、これはすべて2年前に“彼女が書いた”自伝「女優・岡田茉莉子」を参考にしてのもの。

自伝というのはえてしてゴーストライターがいるのですが、これは岡田茉莉子自らが書いたということです。
もちろん編集者の多少のサポートはあったでしょうが、なかなかのものです。

女優自らの自伝ということでいうと、今は亡きお二人、高峰秀子沢村貞子(どちらも紛れのないエッセイストですね)が堪能させてくれましたが、茉莉子さんも素晴らしい。

高峰秀子と沢村貞子に共通なのは、ふたりとも幼少のころから読書が好きだったということ。読書が文章を書く下地になっていたのでしょうね。
岡田茉莉子は知りませんが、前述したように若い頃「秋津温泉」を読んだというのですから、それまでにもいろいろな本を読んでいたことは推察できます。

ついでにいうと大昔、なにかの雑誌に若尾文子自らが書いたという短文が載っていましたが、とても読みやすく上手な文体で、「もっと読みたい」と思わされた記憶があります。
彼女の場合、残念ながら評伝はありますが自伝はまだない。
きっと文章も上手なはずだからいつか書いてもらいたいけど、書かねえだろうな。

そうそう、歯医者で読んだ週刊誌の記事について。
その8割、いや9割がたが先の自伝からの引用。それもいかにも最近取材しましたというようなカンジで書いています。

おそらくフリーのライターの記事なのでしょうが、ホントに取材したのでしょうか。まぁたまたまカブったということもなくはないけど。
もうチョット新しいネタがないとねえ。

そろそろ本題? へいかねば。

で、歌ですが、岡田茉莉子は過去に以下の3曲レコーディングしていることになってます。
「角兵衛太鼓」(作詞、作曲:三木鶏郎、昭和29年)
「都のたより」(作詞:清水みのる、作曲:久我山明、昭和31年)
「 青ブクの唄」(作詞:獅子文六、作曲:黛敏郎、昭和35年)

わたしが聴いたことのあるのは彼女が出演した時代劇「新・鞍馬天狗」の主題歌? 「角兵衛太鼓」だけですが、地声どおりの高い声で、歌唱もソツなく、シロウト臭さのないなかなかの歌でした。

ただ、残念ながら3曲ともYOU-TUBEにありません。

しかしそのYOU-TUBEで驚くべき岡田茉莉子の歌をみつけました。
これは映画「愛染かつら」で、晴れて歌手になった高石かつ枝が、かつての同僚の前で歌(「悲しき子守唄」)を披露するという名場面。

「愛染かつら」は戦前の超ヒット作品のリメイク。
ちょうど「秋津温泉」と並行して撮影が行われていたそうで、脇役ならともかく、主演で2本かけもちとは、今では考えられない。

なかなか、というよりプロ顔負けの歌唱です。しかし、この声はどうも茉莉子さんのモノと違う。吹き替えくさい。もし本人歌唱ならば、レコードの1枚も出しているでしょうし。
まぁ、ほかに見当たらないので上手にシンクロしてますし、カンベンしてやってください。

ところで、文藝映画の松竹、女優上位の松竹、芸術監督の松竹。
いろいろいわれますが、ヌーヴェルヴァーグの監督をみると、おもしろい傾向が。
吉田喜重→岡田茉莉子
大島渚→小山明子
篠田正浩→岩下志麻

といずれも主演級女優を奥さんにしております。
そしていずれも、離婚もせず(実情はともかく)いまだ夫婦でいらっしゃる。さらに奥さんつまり女優のほうが元気がいい。
奥さんがえらいのか、旦那にさほどの魅力があるのか。いやいや多分、旦那さんが半分監督の目で職業婦人である奥さんを客観的にみているからじゃないでしょうか。

吉田喜重監督は好きな監督なのですが、芸術家肌に過ぎて、エンターテインメントには無頓着。そんな監督を支えているのはやはり茉莉子さん。
浅薄な見方で恐縮ですが、そんなお2人をみていると、映画「秋津温泉」の新子さんと周平のイメージが重なってきたりして……。

今回はいささか音楽的にものたりないものとなってしまいました。
そこで最後に“シンガー・まりこ”さんたちに彩りを添えてもらいます。

「ボタンとリボン」(池真理子、昭和25年)
ボブ・ホープのドタバタ西部劇「腰ぬけ二丁拳銃」の挿入歌。
もはや“バッテンボー”とうたった若者も超高齢になっていらっしゃる。

「ガード下の靴みがき」(宮城まり子、昭和30年)
ガード下も靴みがきも、もはや死語でしょうか。
子供ではありませんが、靴みがきという職業は昭和の末年まであったのではないでしょうか。いまでもある? かもね。

「悲しみは駆け足でやってくる」(アン真理子、昭和44年)
これはわたしもリアルタイムで聴きました。
明日という字は……、とか若いという字は……とか、なるほどって感心しました。でも、その直後に盗作問題になって。

「長い髪の少女」(高橋真梨子)
スイマセン。真梨子さん、いろいろヒット曲があるのにカヴァーなどいれてしまって。
世代的にはわたしとほぼ同じ、高校時代にGS体験って感じですか。
やっぱり歌の上手なひとはカヴァーもソツがない。

それにしても岡田茉莉子。
昭和8年生まれといいますから大変な御歳。若尾文子も同じ年の生まれです。

40代で隠遁されていまだ影法師すら見せない原節子。
50代で女優業を“停年退職”して随筆家に変身した高峰秀子。
いやいや、20代で病に倒れた夏目雅子もいました。

女優さんそれぞれですが、ファンとしてはどうなんでしょうか。
そうですね、ファンの気持もさまざまですからね。


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その名は●なおみ [the name]

ちあきなおみ.jpg

♪最後の最後まで 恋は私を苦しめた
指をつきぬけ 涙があふれそうよ
そして 今……
翼に身をゆだね 私は旅立つ
遥か雲の下に 広がる街あかり
あそこで愛されて あそこで別れた
このままずっと どこへもおりず この夜の果て
二度と帰らないの そして帰らないの
 
(「夜間飛行」詞:吉田旺、曲:中村泰士、歌:ちあきなおみ、昭和48年)

はじめに言っておきますが、訃報ではありません。

つまらんことですが、み月ほど前から歯医者へ週一ぐらいで通ってまして、なんだかまだ当分かかりそうな感じで。

とにかく50になるあたりから、2年に1度くらい歯の治療にいくようになりまして。
まぁ、しょうがないですかね、あちこちガタがくるのも。

でもなんで歯医者ってこんなに時間がかかるのかなあ。
一度でジージーガチャガチャジエンドってやってくれないもんでしょうか。

それに予約制とはいいながら、非道いときなんか1時間くらい待たされるんだから。
でも、愚痴いっちゃいけない。
とくに歯医者に限らず、医療関係は診察がそんなに時間通りにいくわけないし、もしいくとしたらそりゃ逆にコワイ。
医療機関で待たされるのは仕方ないことなわけで、それがイヤなら病気にならないことだな。

そんなわけで、先日も予約時間から小1時間待たされました。
もうなれっこだから、その間待合室のラックにある週刊誌などを。

週刊誌なんか、歯医者に来たときぐらいしか読まないものね。
昔はそれでも読んでいたけれど、だんだん時間もなくなってきて。30を杉並木のあたりから、なんとなく中吊り広告を見ているだけで、読んだような気分になっちゃったりして。

だからいまだに、電車の中吊りはよく読んでます。
そのキャッチを読んでも「もっと詳しく知りたい」なんて気にならない。だいたいは記事の結末が想像できるか、あるいは自分が知りたいところへ到達できない“生煮え記事”のどちらかですから。

でも、歯医者では読んじゃうんだな。
で、名前を呼ばれて雑誌を戻し、診察室へ入って、やがて終了。
清算して帰宅するころには、読んだ週刊誌の内容などすべて忘れている。それでいいのです。

しかし先日の記事はさすがに目をうばわれました。
読んでる方はご存知かとおもいますが、なんとかの「ちあきなおみ」のことが。

記事だけなら時々あるらしいのですが、今回はグラビアも使って、現在進行形のお顔もバッチリ。

お盆でダンナさんの墓参りしているところを“激写”(今でも使うのかな?)してました。

写真は喪服の黒いドレスを着たなおみさんを正面からパシャリ。また、了解済みだったの?と思わせるような墓前で顔を歪めている彼女も。

まぁ、それがどういう経緯だったのかはどうでもいいのですが、写真とはいえ、その顔が思っていた以上に若々しい。
まぁ、今でも愛しているダンナさんに逢いに行くのですから化粧入念ということはあったにしても、いまだ現役かと思うほど若かった。

彼女のカムバックには懐疑的でしたが、その写真を見た瞬間、「あれ、そろそろ復帰が近いのかな……」なんて思いが浮かんできたくらいですから。

別だての記事のほうは、数年前に死んだという彼女の実父のことが中心で、いかにダメな父親だったかということで、こちらはどうでもいいこと。

能書きはこれくらいにして、本題であるちあきなおみのベスト3を。

まずは名曲「喝采」の作詞・作曲・編曲トリオがその翌年につくった傑作「夜間飛行」

そういえば思い出したけど、ちあきなおみボクサーの関光徳のファンだったんだってね。例の週刊誌に書いてあった。
わたしも子どものころ好きだった。

東洋チャンピオンまではなれたけど、世界は5度ぐらいチャレンジしてことごとく敗戦。
アンラッキーなサウスポーでした。
そんな生きざまに魅かれるファンは多かったけど、ちあきなおみもだったんだ。
ビジュアルもハードヒッターにしては、やさしすぎる顔立ちでね。
残念ながら数年前に急逝しました。

横道にいきそうなので2曲目を。
こちらは阿久悠、川口真(編曲も)による「円舞曲(ワルツ)」
この頃のちあきなおみがいちばんパワーがあった。
川口真にしてはめずらしくうっすらと演歌のかおりがします。そのうっすら感がまたいい。

最後はお得意のカヴァーを。
「黄昏のビギン」をはじめ、男歌を含めてかなりの歌謡曲(ジャズもあるよ)をカヴァーしてますが、さいきんよく聴くのが舟木一夫「夕笛」
詞は三木露風の「ふるさとの」を下敷きにしていますが、やはり西條八十は職人。
作曲は「和風」ならばナンバーワンの船村徹

ちあきヴァージョン、編曲も含めて原曲に忠実だけど、そのほうがいい。

なおみさん、カムバックするならなるべく早い時期にお願いしますよ。
やっぱり、歳を重ねすぎると、容貌もそうですが、声量や声質も確実に劣化していきますから。
くれぐれもカムバックが「ナオミの夢」に終らないように。


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その名は●悪太郎とジョージ [the name]

網走番外地望郷篇1965.jpg

このところまた知り合い(一方的だけど)の訃報があいついでいます。

なかでも驚いたのは山内賢さん。
60代は早すぎる。

日活の青春映画はずいぶん観ました。
浜田光夫吉永小百合がゴールデンペアならば、山内賢和泉雅子はシルヴァーペア、なんて誰もいってなかったけど。

とにかく映画のなかで山内賢は、つねに「いい人」なんですよね。ときには3枚目になったりして。
「あゝ青春の胸の血は」「学園広場」とか「高原のお嬢さん」「友を送る歌」など舟木一夫のヒット曲映画によく出演していました。

いちばん印象に残っているのは今東光原作の「悪太郎」
監督は鈴木清順でした。そんな関係かどこか「けんかえれじい」と同じにおいが。

ヒロインはもちろん和泉雅子。
ここでは「いい人」と真反対の役。
こういう役をもっとやればと思っていましたが、なぜか「いい人」ばかり。

日活のアクション路線とは一線をひいて、最後まで青春路線を貫きました。
そんななかで生まれたヒット曲がベンチャーズ「二人の銀座」
音楽的センスのある賢ちゃんが下手くそ(でもいいんです可愛いから)の和泉雅子をよくフォローしていましたっけ。
いまでもOB、OGにはデュエットソングの定番のひとつではないでしょうか。

昭和も40年代になって日活のポルノ化、さらには消滅とともにTVのバイプレイヤーとして活躍していたようですが、ほとんど観ていません。

しかし「悪太郎」と「二人の銀座」、このふたつだけでもわたしにとっては記憶に残る役者であり歌手でした。

もうひとかた。
杉浦直樹さん。

そうか、80歳近かったのか。
あたりまえだよな、二十歳の頃映画で観てから40年あまり経っているんだから。

テレビドラマで異彩を放った俳優とのことですが、これまたあまり観ていません。

映画も印象に残っているのは1本。
その1本が強烈で、いまでも脳内スクリーンに映し出すことができます。

それが網走番外地望郷篇

健さんの仇役で殺し屋の人斬りジョージ。それが杉浦さんの役。

やさ男でおよそ殺し屋らしくない。
おまけに胸を病んでいるらしく、いつも小咳をしている。
そんな半病人がひとたび長ドスを抜くとめっぽう強い。

ラスト近くの健さんとの一対一の斬り合いは印象的でした。
よく時代劇の決斗シーンにあるように、ふたりの刀が一閃して右左にわかれる。

ここで時代劇なら仇役がバタッと倒れて幕。
「望郷篇」でも深手を負ったのはジョージ。しかし健さんも無傷じゃない。
倒れる前のジョージが健さんにひと言。
「……その傷……
七針も縫っとけゃ、治るさ……」。

いや七針じゃなく五針だったかもしれない、まぁ死ぬ間際にそんなキザなセリフを言うのです。観ていたわたしは小さく笑ったりして。それが監督の狙いでもありました。多分。

この映画には当時“惚れて”いた桜町弘子も出ていて、忘れられない映画となっています。

ところで杉浦さん、残念ながら歌のほうは?
と思っていたら、テレビドラマの主題歌を吹きこんでいました(YOU-TUEBでみつけました。「ホテルカルフォニア」だね)。

しかし、わたしはそれよりも前に彼の歌声? を聴いています。
それはかの「望郷篇」のなかで、何度か
♪からす なぜ泣くの
「七つの子」を口ずさむのです。殺し屋に童謡というのがまたいい。
ただ、正確にいうと口ずさむのではなくて口笛でしたが。
これもまた杉浦ジョージを脳ミソに刻み込む一因となりました。

音楽のほうは「望郷篇」の挿入歌を。

それにしても訃報があると出てくるというのもどこかイヤラシイ。
ただむかし観ていた歌手や俳優が亡くなると、語ってあげたい、いや語りたいと思うのは人情であって、許していただきたい。

それでもどこか罪悪感のようなものはあるわけで。まぁ、考えようによっちゃそれは大変な罪で、これを世間では訃報大罪なんていってます。
ウソです。不謹慎なことを言ってしまいました。
重ねがさねスミマセン。

姿勢を正しておふたりのご冥福をお祈りいたします。←説得力ないか。


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●異論な人②ホリデイ [people]

東武線1.jpg

東京には意外と知らない鉄道があるもので、東武亀戸線もそのひとつ。

浅草から足利、伊勢崎と群馬県の主要都市へのびる東武伊勢崎線と交差する「曳舟駅」から終点の「亀戸」まで途中駅が5つ、10分足らずという短い路線。車両が2輌連結というのも東京の路線ではめずらしい。

終点の亀戸餃子、いや亀戸天神で知られる亀戸駅は総武線もあって、利用客はほぼそっち。
わたしも年に数回ほどしか乗ったことはなく、朝夕のラッシュ時はもちろんないのですが、昼間はいつでもゆったり座れるほど空いている。

最近では車窓から至近のスカイツリーも眺められるので、一度乗ってみませんか、ってすすめるほどでもないか。

まあ、そんな地味な鉄道ですが、つい最近も乗る機会がありました。

座席に腰をおろし、見るでもなく車内に眼をやっておりました。
最近、寝不足なのか、電車内で本を読み始めると、1頁もすすまないうちに瞼が重たくなってきて……。ときにはバシャッと本が床に落ちた音で目が覚めたりして。

そんなわけで、バッグから本を取り出す気にもなれません。

電車はひとつ目の「小村井駅」に着きました。
パラパラと 乗りパラパラと 降りる客
なんて川柳をひねっている場合ではありません。

で、乗ってきたひとりの客に目がクギづけ。
すらっとした体型。
デニムの短パン(昔はホットパンツなんていったよね。いまはなんていうの? とにかく超短めの半ズボン)から伸びた長い素足。その先は踝がかくれるほどの短い黒のブーツ。

上はピッチリした白のブラウス。襟はワイドで、ノースリーブ。もちろん裾は外。

顔にはサングラス。これも最近多い昔でいうところのフレームの大きい「アラレちゃんメガネ」。それも白フチ。

さらに紺の野球帽を反対かぶり、その上にもうひとつフチが黒の「アラレちゃん」メガネをのせている。

手には信玄袋のような小さなひも付きの袋をなぜか2つ手首にひっかけていて、足元には洒落たデパートの紙袋を置いている。

車内はガラガラだというのに、その御仁座らず、ドアの傍に立って単行本を読んでいる。

わたしがファッションやブランドに明るければ、もう少し気の利いたレポートができるのですが、悲しいかなグッチもサッチも知らないもので。

とにかく、その後の駅で乗ってきた客がいちように視線を送るほど目立つというか、キバツというか、キチガ、いやバチガイというか、そんな服装でした。

まぁ、渋谷や青山あたりなら、とりたてていうほどのファッションではないのでしょうが、なにしろ墨田区ですから。東武亀戸線ですから。(関係者の方スイマセン、悪気はないんですよ)

わたしだって、ファッショナブルといわれる街へはイヤイヤながら、仕事でしょっちゅういってますから、亀戸線で見かけた服装などそうびっくりするほどのものではありません。それが女性なら。

そうなんです、そのデニムの短パンの御仁はオトコなのです。

しかし、最近は男だって、ミニスカートこそ履きませんが(ロングだって履かないよ、フツウ)、ノースリーブのブラウスに短パン姿なんて、特筆するほどのファッションでもありませんよね。それが二十歳前後の若い男なら。

そうなんです、その帽子反対かぶり、ダブルサングラスの男は、その顔の表情(とりわけシワ)から、どうみてもわたしより年上、つまり60代後半、ややもすれば70代とお見受けした次第なのです。

サングラスに隠された顔は、やや面長で「ゆうちゃん」に似ていました。
日ハムの斎藤佑樹かって? まさか。
じゃ、石原裕次郎かって? いえいえ、言ったでしょ「面長」って。そう、伊藤雄之助ですよ。え? 知らない? そうか。

でも文庫本に眼を落して、うつむいている感じはなんとなく、ミシェル・ボルナレフを連想させました。

彼が何者なのか、また、何処へ行くのか、興味はありますが深追いは禁物。

かのミシェル氏、終点で降りると、さっそうと総武線の改札方面へ歩いてきました。わたしなんかよりもはるかに若々しい歩調でした。
新しい発見は、彼の帽子のマークが「B」で、これはまごうことなくMLBは「ボルチモア・オリオールズ」のそれ、ということでした。

では最後にいつものように音楽を。

やはり、かの「先輩」にちなんでミシェル・ポルナレフMichel Polnareffを。
とはいっても知っているのは「シェリーに口づけ」Tout, tout pour ma chérieと「愛の休日」Holidaysぐらい。

「愛の休日」の原題はホリデイズ。
ホリデイズ、あるいはホリデイという歌はけっこうあるようで、マドンナグリーンデイなどもうたっています。
しかし、われわれの世代ではミシェル・ポルナレフもいいけど、やはりビージーズBee Geesじゃないでしょうか。これは名曲ですね。

ところでミシェル氏、あの改札へ消えていったときの歩き方、うしろ姿から受ける印象は、もしかした、こっち系、いやあっち系のひとかもしれないって気がしました。服装見れば想像つくだろって話もありますが。

でもいつだったかテレビで、オカマと女装趣味は違うんだというようなことをやってました。彼がどちらだったのかはわかりませんが、他人がどう思うとわが道を行くという思いは伝わってきました。

世の中男と女のふた通り。“中間”といわれるひとだって、厳密にいえばどちらかにわかれてしまう。
そうであるならば、誰にだって程度の差はあれ“転換願望”があるんじゃないでしょうか。

「じゃあ、おまえは女装できるか?」って?
いやあ、それはちょっと……。
でも、陽水じゃないけど、人生が二度あったとしたら、来世では、女じゃなくてやっぱり男でこの世に現れたいけど、今度は女装趣味のある男がいいな。


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♪無理して腰をひねり [day by day]

長嶋フルスイング.jpg

ついにやっちまいました。
いつかやるんじゃないかと懼れていたギックリ腰。椎間板ヘルニアなんていったりも。

20代で一度やらかしてから30数年、なんとか持ちこたえてきましたが、もはやポンコツ状態だったんでしょうね。メンテナンスなんてしなかったものなぁ。

覚えのあるみなさんがそうであるように、ちょっと重たいものを持ちあげて、からだの向きを変えようとしたとき、あの懐かしい「ボクッ」という音が腰のあたりから。

それでも、若いころと比べてからだの動きが緩慢だったせいか、もう一歩も動けないってほど重症ではなかったのが不幸中の幸い。
ただ運のわるいことに仕事のピーク時。

得意先に電話して事情を話し、残りの仕事を少し減らしてくれるように頼んでみました。懇意にしている担当者は電話の向こうで「マジかよ……」の連発。それでも「しょうがねえなぁ」と納得。

ホッとひと安心のわたしは、心でのガッツポーズもそこそこに(サボる理由がほしかっただけだね)、逆ムーンウォークという情ない摺り足状態で近所のドラッグストアへ。
そこで痛み止めの飲み薬と貼り薬を。

そしたら急に治った気になって、仕事が半分に減ったんなら夜からとりかかったって間に合う。昼間は遊んじゃえとばかり、病人であることをすっかり忘れ、生来のサボリ癖が。

やっぱり家で横になっていればよかったと気づいたのは駅の階段で(遅し)。ひとつ得た知識、「ギックリ腰は上りより、下りのほうがこたえる」。

それでも腰をかばいながら駅ビルで買物をし、そのあと近くのブックオフへ。
いい根性でしょ。なんでこれを仕事に使わないのか。わかっちゃいるけど……。

で、たっぷりサボって夕方近く家へ帰って来てびっくり。
こぼれんばかりのFAXの山。
〈なんだよ、仕事半分の約束じゃないか……〉

結局それから夕食もそこそこに、ほぼ徹夜で仕事をこなしました。
途中、両目にたまった涙は、あくびのせいばかりではなかったな。

座りっぱなしでの作業、これがまた腰にくるんだ。
そのときはいいけど、立ち上がるときときのあの激痛。自業自得。

翌日、担当者に電話して、
「仕事の量、少しも減ってなかったじゃないか」
とクレーム。
担当者いわく、
「なんだ、無理だったら、そう言ってくれればよかったのに。なんにも言ってこないから、ああ、なんとかなってるんだなって思って次々にFAX流しちゃったんだけど。でも、なんとかなったんだろ?」

そりゃ、そうだけど……。昼間外出してたなんて言えないし……。

そんなこんなでギックリ腰発症から1週間あまり経ちましたが、いまだ完治にいたらず。だましだまし生活しております。
いつどこで階段を踏み外すか、あるいはクシャミのとたんに、などと抱えた爆弾が破裂する様を懸念しながらも、ほとんど毎日のように徘徊しております。懲りないヤツ。

でもわるいことばかりではない。
当分のあいだは、重労働から解放されそう。
重たいものを持たなくてはならない情況でも、
「じつは、腰がコレなもんで……」
なんて言い訳しながら、他人に肩代わりしてもらったりね。

というわけで「近況」代わりに災難をブログにしてみました。

で、いつものように音楽でしめたいと思います。

ギックリ腰の歌なんてあるのかな。
「ギックリ」は思いつかないけど、「腰」はけっこうあります。

いちばん多いのは「すわる」動作をあらわす、「腰をおろす」とか「腰かける」といった歌詞。
「コーヒー・ショップで」(あべ静枝)
♪城跡の石段に 腰おろし 本を読み 涙する

「あの場所から」(Kとブルンネン他)
♪白いベンチに腰掛けながら 遊ぶ鳩を二人でみてた

などは懐かしいです。

ほかではさだまさし「檸檬」田原俊彦「恋=DO」、演歌なら北島三郎「尾道の女」に出てきますから、興味のある方はYOU-TUBEなどで聴いてみてください。

他では「腰が曲がる」とか「腰をのばせ」なんて爺むさい歌詞が出てくるのが、南こうせつ「うちのお父さん」中島孝「若者よ恋をしろ」

変わったところでは、「腰に手拭をぶらさげる」なんてのもある。ポピュラーなのが
♪腰に手拭ぶらさげて とストレートな「我が良き友よ」(かまやつひろし)ですが、友川かずき「生きているって言ってみろ」にも強烈なインパクトで出てくる。

でもやっぱり、ラブソングが主流の流行歌で「腰」といったら「女性の腰」のこと。それもセクシーな。

その代表的な歌が「モンロー・ウォーク」(南佳孝)
♪無理して腰をひねり ……じゃなくて、
♪無視して 腰をひねり 
でしたね。ほかにも♪腰にあてた手つきが 悩ましい なんて出てきます。

ほかではサザン・オールスターズのデビュー曲「勝手にシンドバッド」でも、
♪胸さわぎの 腰つき

♪細い腰 あわせ揺れるのよ
というのは「め組のひと」(ラッツ&スター)

ほかにもエルヴィスをカヴァーした「ロカ・フラ・ベイビー」(佐々木功)でも♪腰をふる と出てきますが、YOU-TUBEにはありませんでした。

というわけで、久々のブログもようやくエピローグまでたどりつきました。

それにしてもヘルニア。
いまだ痛みがとれず漢方薬のお世話になっています。歳ですね。
みなさんも、とりわけわたしのように人生マラソンの折返し点をとうに回ってしまった方々はくれぐれもご注意を。

そうそう、漢方薬をのんでいるといいましたが、なんでもこうした腰痛緩和に効能がある食べ物があるとか。(バレバレ?)
そうです、チョコレートです。
ギックリマン・チョコ。
ただし、女性には効果がないとか。ウソばっか。


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三つの歌●エルヴィス・プレスリー② [day by day]

冷たくしないで.jpg

You know I can be found,
 sitting home all alone,
 If you can't come around,
 at least please telephone.
 Don't be cruel to a heart that's true.
 
Baby, if I made you mad
 for something I might have said,
 Please, let's forget the past,
 the future looks bright ahead,
 Don't be cruel to a heart that's true.
 I don't want no other love,
 Baby it's just you I'm thinking of.
([DON’T BE CRUEL] written by OTIS BLACKWELL,1956)

前々回の「エルビス・プレスリー①」で、内田裕也「悲しき悪魔」をカヴァーしたといいましたが、今回はエルヴィスのpart2として、日本人のカヴァーを。
もちろん厳選3曲。三つの歌ですから。

エルヴィスのカヴァーといえば、その第一号が小坂一也で、曲は彼をいちやく有名にした「ハートブレイク・ホテル」。昭和31年のこと。

♪恋に破れた若者たちで いつも混んでるハートブレイク・ホテル
という有名な訳詞は、彼の師匠でもある服部レイモンド

ほかでは、「監獄ロック」、「ラヴ・ミー・テンダー」、「冷たくしないで」をカヴァーしています。いずれも日本語をまじえて。

「ハートブレイク・ホテル」と「監獄ロック」は平尾昌章もカヴァーしているし、「ラヴ・ミー・テンダー」はミッキー・カーチスが。
また、ミッキーはほかに「ブルー・スウェード・シューズ」「フール・サッチ・アズ・アイ」も。

平尾、ミッキーとくれば、近年亡くなった山下敬二郎「アイ・ニード・ユー・ラヴ・トゥナイト」

そのほかでは、容姿が似ている? ところから和製プレスリーなどといわれたのが佐々木功ほりまさゆき
佐々木は「GIブルース」、ほりまさゆきは「ロカ・フラ・ベイビー」などを。

「GIブルース」のカヴァーでナンバーワンだったのは坂本九で、かまやつひろしもレコーディングしている。

またエルヴィスのカヴァーは男性シンガーとは限らない。
女性陣では、浜村美智子が「監獄ロック」を、雪村いづみが「ラヴ・ミー・テンダー」をそれぞれカヴァーしている。

おもしろいのは「グッド・ラック・チャーム」
男では聴いたことがない(でもいるかもしれない)が、女性ではザ・ピーナッツと梅木マリが競作している。

わたしの持っている音源だけでも以上のとおり。
おそらくその数倍はカヴァーされているのではないでしょうか。

それではメイン・イベントに。

① ハートブレイク・ホテル 宇崎竜童
エルヴィスがデビューし、日本に上陸した頃、宇崎竜童はおそらく中学生か高校生。もっとも“吸収力”のある頃で、影響を受けたことは大いに想像できる。
歌唱はお世辞にもうまいとは思いませんが、ボディアクションを含めたパフォーマンスというかノリが、いかにもエルヴィスフリークって感じがします。

ほかにもメドレーで「監獄ロック」、「ブルー・スウェード・シューズ」、「ハウンド・ドッグ」など数曲をうたっているYOU-TUBEがあるので、聴いてみたい方は探してみてください。

② 好きにならずにいられない 桑田佳祐
1961年の映画「ブルー・ハワイ」の挿入歌。
全米2位のヒット曲。日本では70年代に入って再ブレイクしてからヒットしたような印象があるのですが。

フランスのクラシック「愛のよろこび」(ジャン・ポール・マルティーニ)が本歌で、ナナ・ムスクーリもうたっている。

それにしても桑田佳祐、うまいね。彼のスタンダード・ジャズも聴いたことがあるけど、びっくりするほどうまかった。さほど個性をださずサラッとうたっているのにね。

 冷たくしないで 矢沢永吉
1997年、エルヴィスの没後20年を記念してロンドンのウェンブリーで行われたロックコンサート「SONGS & VISIONS」(トリビュートではありません)にアジア代表として参加したときのもの。
1997年から[HARTBERAK HOTEL]の1956年まで、ヒット曲で遡るというコンサート。ボンジョビやロッド・スチュアートも出ていました。

この模様は矢沢を中心にリハーサルを含めてNHKがドキュメントしていました。
見た人もいると思いますが、リハーサルでワイヤレスマイクの調子がおかしく「なんで俺のだけ?」って永ちゃんが苛立っていたのがおもしろかった。

そして歌い終わり袖に引っ込んできたとき「勝ったな!」とひとこと言い放ったのが印象的でした。
「勝ち負け」、それほど矢沢永吉のなかでプレッシャーと「本場がなんぼのもんじゃい」という気負いがあったのだなと感じた次第。

ところで歌は。
これがYOU-TUBEをごらんになればわかるとおり、最高。

コアなファンではないので、永ちゃんのカヴァーなんて聴くのが初めて(数年前だったが「砂に消えた涙」をやってましたね)。それもエルヴィスとは。

よっぽど練習したのか、以前からうたいこんでいたのか。
とにかくロッドなんかよりはるかにイカしてました。

またパフォーマンスも本場だからと媚びずに日本でやるように。
それがイギリス人にどう映ったかはわかりませんが、心意気やよし。

あれをきっかけに世界進出とはなりませんでしたが、YAZAWAの力量が世界に通ずるものだということが証明されました。

いまとなっては、ボンジョビやロッドが何をうたったのかほとんど忘れています。覚えているのは永ちゃんのこの歌と、好きなk.d.ラング[I WILL SURVIVE](オマケです。これがまたカッコよかったんだ)だけ。

ウェンブリーのコンサートの模様は永ちゃんの著書「アー・ユー・ハッピー?」の文庫版に少しだけ書いてあります。
ただ、残念ながらなぜ[DON’T BE CRUEL]を選曲したのか(主催者のリクエストかも、そうだとしたら、あれほどのパフォーマンスはそれはそれでスゴイ)、そして永ちゃんとエルヴィスの接点は「いつどこで」という疑問への回答は書いてありませんでした。

とにかくいままで見た日本人のエルヴィスのカヴァーの中では、何度もいうけど最高。


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三つの歌●二葉あき子 [day by day]

二葉あき子.jpg

♪黒髪 風に なびかせて
 夕日に 歌う アヴェマリア
 乙女の夢は アマリリス
 花のこころを 知るや君
(「純情の丘」詞:西條八十、曲:万城目正、歌:二葉あき子、昭和14年)

またしても訃報です。

昨日、追われるように「エルヴィス」をパソコンに打ち込み、遅い夕食を食べながら夕刊を開くと、二葉あき子さんの訃報が載っていた。

次回もういちど「プレスリー」をやるつもりだったのですが、変更して二葉あき子さんを偲びたいと思います。

彼女の全盛期は戦前から昭和20年代半ば頃あたりでしょうか。
もちろん、昭和30年代に歌謡曲に目覚めたわたしは、その頃を知りません。

それでもナツメロ歌手として、そうした類のテレビ番組で拝見してはいました。
また、いにしえの本には、彼女がいかにビッグスターだったかということが書かれておりました。
戦前では、渡辺はま子、高峰三枝子、ミス・コロムビア(松原操)、李香蘭らと肩を並べる人気歌手だったようです。

二葉さん(本名・加藤芳江)は広島生まれで、昭和20年8月6日の原爆を投下された日、偶然にも慰問団として故郷を訪れていたという。
そして、「その瞬間」は列車で移動中で、トンネルの中だったという幸運。
もし、もう少し列車の出発が遅れていたら、名曲「水色のワルツ」はほかの誰かがうたうことになっていたかもしれない。

そんなエピソードが、戦後苦しめられたヒロポンの話や処女喪失の話などとともに、彼女の自叙伝「人生のプラットホーム」に書かれている。

では、三つの歌を。

① 「純情の丘」作詞:西條八十、作曲:万城目正、昭和14年
この頃の歌謡曲は映画とリンクしていて、この歌も松竹の「新女性問答」という映画の主題歌。乙女チックな詞はいかにも西條八十らしい。

作曲の万城目正は、昭和流行歌の大作曲家で、戦前なら「旅の夜風」(霧島昇・ミス・コロムビア)、戦後なら「リンゴの歌」(並木路子)、「この世の花」(島倉千代子)、「あの丘越えて」(美空ひばり)で知られている。
昭和30年代に高石かつ枝がカヴァーしている。

② 「水色のワルツ」作詞:藤浦洸、曲:高木東六、昭和25年
歌謡曲嫌いの作曲家・高木東六唯一のヒット曲。それでもこの曲以外、美空ひばり池真理子らに数曲書いている。
昭和歌謡史に残る名曲でカヴァーする歌手も多い。

格調高い詞は、淡谷のり子の「別れのブルース」「東京キッド」など美空ひばりの初期の歌を書いた藤浦洸。昭和30年代はNHKの「私の秘密」などにも出演していたタレント作詞家。

③ 「なつかしの歌声」詞:西條八十、曲:古賀政男、昭和15年
服部良一のタンゴ、「夜のプラットホーム」とどちらにしようか迷いましたが、やはり古賀メロディーをとりました。
この曲は藤山一郎とのデュエットで、後年は彼のソロとしてうたわれることが多かった。
昭和40年代だったか50年代だったか、東京12チャンネル(地デジ化のいまは違うのかな)のナツメロ番組のテーマミュージックとして使われていたような記憶が。

高木東六ではないですが、歌謡曲が嫌いだった父親が、何気なく口ずさんでいるのを子供だったわたしは、聞きのがさず、記憶に強く刻んでおいた。
そんな思い出のある曲です。

二葉あき子さん、96歳といいますから大往生です。
ご冥福をお祈りいたします。


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三つの歌●エルヴィス・プレスリー① [day by day]

elvis presley01.jpg 

 You look like an angel
 Walk like an angel
 Talk like an angel
 But I got wise
 You're the devil in disguise
 Oh yes you are
 The devil in disguise
 
 You fooled me with your kisses
 You cheated and you schemed
 Heaven knows how you lied to me
 You're not the way you seemed
([(YOU’RE )THE DEVIL IN DISGUISE] ,written by GIANT, BAUM, KAYE,1963)

仕事はとうに一段落したのに、まあエンジンのかかりのわるいこと。
しょうがないよな60年も乗ってんだから。

怠けているあいだに、いろいろな人の訃報をききました。
音楽関係でも、原田芳雄、ジョー山中、日吉ミミ……。

原田芳雄のときは涙がこぼれそうになりました。親父の葬式でも泣かなかったのに。
もはや精神も老化したということでしょうか。

原田さんはひと回り以上年上なのですが、同じ地域で育ったということもあり、昔から他人とは思えない感情を抱いておりました、勝手に。
映画なら、つかこうへいの「寝盗られ宗介」。歌なら藤竜也・エディ藩コンビで「中上健次」がでてくる「ヨコハマ・ホンキートンク・ブルース」

ジョーのいないニューイヤー・ロック・コンサートは味気ない、多分。
数年前に出した、ミッキー吉野「ムーチャ・クーチャ」は良かった。

ジョー山中さんはボクシングでグリーンボーイの経験があり、テレビを見ていたら出棺のとき、親友のカシアス内藤が先頭で棺を支えていた。64歳は若い。

日吉ミミさんも64歳だった。
私生活はしりませんが、画面からはどことなく幸薄そうな印象を漂わせていました。
そんなイメージからか寺山修司が詞を書いた「人の一生かくれんぼ」はフェヴァリットソング。

人間は死ぬために生きているのですから、仕方のないことなのですが。
で、今日8月16日はエルヴィスELVIS PRESLEY の命日。

亡くなったのは1977年。昭和でいうと52年、34年前ということに。

歌謡界ではピンクレディーにキャンディーズの全盛期。
加えて山口百恵に桜田淳子、岩崎宏美といったアイドル百花繚乱。

男では沢田研二のひとり勝ちで、バンドなら世良公則&ツイスト。
ほかでは中島みゆきがブレイクの兆し、松山千春が「旅立ち」でデビュー。

テレサ・テンが日本に上陸したのもこの年でした。

当時はそれほど感じなかったけれど、今になってみるとエルヴィスの42歳というのは信じがたいほど若すぎる。

もちろんエルヴィスはリアルタイムで聴いていますが、デビューから大ブレイクした1950年代は知らず、60年代に入ってから。
楽曲でいうと、「GIブルース」G.I. BLUESとか「グッド・ラック・チャーム」GOOD LUCK CHARM、あるいは「心の届かぬラブレター」RETURN TO SENDERあたり。

その後、60年代末から70年代にかけて「ビバ・ラスヴェガス」で再(といっていいのか)ブレイクしますが、それから10年もたたずに亡くなってしまいました。

生きていれば、第三の、そして第四の「エルヴィス・ブーム」が来たかもしれません。
しかし、40歳はシンガーとして峠を越えたあたり。このあと坂を下っていく前に“結末”を迎えたことは、「伝説化」という意味からも、それはそれで良かったのかもしれません。

ヒット曲でいうと1956年の「ハートブレイク・ホテル」HEARTBREAK HOTELから70年代の「バーニング・ラヴ」BURNING LOVE まで名曲は数知れず、
その中から3曲を選ぶのは正直至難。

そこで、曲はもちろん好きだけど、それをカヴァーしたシンガー(カヴァーでなくオリジナルもあるけど)あるいは編曲も含めたカヴァー曲そのものがカッコイイ歌を選んでみました。

「ハウンド・ドッグ」HAUND DOG 1956
「ブルー・スウェード・シューズ」BLUE SWEDE SHOESもそうだが、エルヴィスのヒット曲そのものがカヴァーというケースも少なくない。
この歌もまたそうで、オリジナルはブルースシンガーのビッグ・ママ・ソーントンBIG MAMA THORNTON

子どもの頃、4歳年上の遊び友達、谷井くんが、印象的な歌い出し、
You ain't nothin' but a hound dog
だけを何度も執こいほどうたっていたのを思い出します。

「監獄ロック」JAILHOUSE ROCK 1957
カヴァーの難しさは、オリジナルに忠実にうたえば「真似」だし、自分の個性を前面に出してうたうと、暴走、脱線というケースに陥りやすい、ということ。
しかし、稀にオリジナルを越えてしまうような素晴らしいカヴァーもある。

たとえば、村田英雄の「人生劇場」とかフランク永井の「君恋し」とか。

たとえが古すぎる?

じゃ、岩崎宏美の「すみれ色の涙」とか、ロス・インディオス&シルビアの「別れても好きな人」とか。
まだまだ古い?

とにかくそういう強力なカヴァーがときにはでてくるもので、ブルース・ブラザーズBLUES BROTHERS のうたった「監獄ロック」もそのひとつ。
まあ、映画のインパクトが強かったということもありますが。

「悲しき悪魔」(YOU’RE )THE DEVIL IN DISGUISE 1963
つい最近聴いたような気もしますが。
この曲は上の2曲とちがって、オリジナルをリアルタイムで聴いた曲。
1963年、昭和38年といえば、日本ではカヴァーポップスの全盛期。
この「悲しき悪魔」を誰がカヴァーしていたのか、残念ながら記憶がない。
そこで調べてみると、どうやらかの内田裕也がカヴァーしている(ふつう1曲に複数人がカヴァーするので、ほかにもいたかもしれない)。

残念ながら内田裕也の「悲しき悪魔」は聴いたことがない。
彼は「ラスヴェガス万才」もレコーディングしているので、当時はエルヴィスファンだったのかもしれない。

YOU-TUBEはクリス・アイザックCHRIS ISAAK とリアン・ライムスLEANN RIMES。
デュオというのもおもしろいし、男の色気と女の色気がぶつかっているのがなんともイカしている。

数年前まで原宿の「ロックンロール・ミュージアム」の前にあったエルヴィス像も、閉店とともに撤去されてしまった。
その後の「彼」の消息は知らなかったが、今回ネットで調べてみたら神戸のハーバーランドに移転したとか。

本場メンフィスにある彼の聖地「グレイスランド」への訪問客も近年減っているらしい。
昨年はさいたまスーパー・アリーナにあった「ジョン・レノン・ミュージアム」も閉館になっているし、時節の移り変わりで仕方のないこととはいえ、寂しいことです。
でも、今日、日本のそこかしこでエルヴィスを偲ぶショウがおこなわれていたのではないでしょうか。


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夏歌②サマー・ホリデイ [noisy life]

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We’re all going on a summer holiday
No more working for a week or two
Fun and laughter on a summer holiday
No more worries for me or you
For a week or two

We’re going where the sun shines brightly
We’re going where the sea is blue
We’re seen it in the movies
Now let’s see if it is true
…………
([SUMMER HOLIDAY] written by WELCHE and BENNETTE, vocal by CLIFF RICHARD, 1963)

昭和38年の春、中学生になったわたしは本格的に洋楽を聴きだした。
家族や友達に洋楽好きがいたわけではなく、何のキッカケかは覚えていませんが、とにかく貯めてあった小遣いをかき集めて小型のトランジスタラジオを買い、朝といい夜といい洋楽のヒットパレードを聴きまくっていたのです。

おそらく、それまで好きだった日本のシンガーによる欧米のカヴァーポップスの影響でしょうね。「中学になったんだから、ここはひとつ本場もんを」と思ったかどうかは覚えていませんが。

ラジオの電池はいまあまり見かけない角型のヤツで、値段も中学生のわたしにはいい値段でした。時々、ラジオを消し忘れて、気がついたら電池がなくなっていたなんて泣きたくなるようなこともしばしば。

そして洋楽事始めの昭和38年、成りたてチューボウの心を震わせた(大げさ)数々のナンバー。ざっとあげてみますと、

エディ・ホッジスの「恋の売り込み」、ジョニー・シンバルの「ミスター・ベースマン」、ジャンニ・モランディの「サンライト・ツイスト」、カスケーズの「悲しき雨音」、ヴェルヴェッツの「愛しのラナ」、エルヴィスの「悲しき悪魔」、アン・マーグレットの「バイ・バイ・バーディー」などなど。

「ミスター・ベースマン」、「サンライト・ツイスト」、「愛しのラナ」はシングル・レコードを買いました。全部買いたかったけど、とても小遣いでは……。

そんななかで「スゲェ!」とインパクト大だったのが、クリフ・リチャードCliff Richard。
とにかく多くのシンガーが“一発屋”だったのに対して、クリフはベストテンの常連。

聴き始めた春にいきなり「ヤング・ワン」The Young Ones がベストワンだったことも印象的だったのですが、いかにもポップスといった軽くノリの良い曲調が日本人に合ったようで、日本での初のヒット、それも大ヒットとなりました。

そして夏、わたしに「クリフこそ夏男」と思わせるビッグヒット「サマー・ホリデイ」Summer Holiday がラジオから流れていました。その翌々年の夏には「オン・ザ・ビーチ」On The Beachが若者を夏の海へ誘うように聞えていました。

ご存じの方も多いと思いますが、クリフ・リチャードはUKのシンガー。
バックバンドがシャドウズ(当初のバンド名はドリフターズ)だったことでも知られています。
デビューは1958(昭和33)年で、イギリスでももちろんトップシンガーでしたが、日本でも上記の38年以後、数々のヒット曲を連発し、その存在感を示しました。

その後、クリフがなんとなく“忘れられた”存在になってしまったのは、どういうわけかアメリカでブレイクしなかったからでしょうか。
アメリカ人にとって「エルヴィス」は2人いらなかったのかも。またビートルズ、ローリング・ストーンズなどバンド主流の時代というタイミングにも恵まれなかったのかも。

とにかく、昭和38年の「洋楽ニューカマー」にとって、クリフ・リチャードはアイドルのひとりでした。
でも、いま考えるとなぜかノンビリとしていた洋楽シーンでした。

それでは、クリフのヒット曲のいくつかを。
日本でヒットしたものしなかったものを含め、当時わたしが好きだった曲を中心に。

「レッツ・メイク・メモリー」Let’s Make a Memory
日本ではベスト5に入るほどの大ヒット曲ですが、本家イギリスではシングル発売されてないとか。よくあるケース。

「ラッキー・リップス」Lucky Lips
これも大ヒットしました。個人的には「ヤング・ワン」と甲乙つけがたいほどのベストナンバー。元はR&Bで、そのせいかアメリカでもそこそこヒットしたとか。

「ダイナマイト」Dynamite
日本では昭和40年夏のヒット。しかしイギリスでは1959(昭和34)年発売。ナンバーワンにはならず、中ヒットといった感じ。

「コングラチュレーションズ」Congratulations
「サマー・ホリデイ」、「ヤング・ワン」と同じくイギリスでナンバーワンヒット。
日本では昭和43年といいますから、後期のヒット。

「踊ろよベイビー」Do You Wanna Dance?
ビーチ・ボーイズやママス&パパスで知られた曲で、クリフヴァージョンが日本でヒットしたという記憶はありませんが、イギリスではチャートを2位まで上げたとか。

「コンスタントリー」Constantly
日本ではそこそこ、イギリスでもそこそこヒットしたバラードの名曲。元はカンツォーネ。

「エヴァー・グリーン・トゥリー」Evergreen Tree
当時はまったく記憶にない曲。のちにベスト盤の中にあった一曲で、めずらしいモダンフォーク調。1960(昭和35)年発売というから、アメリカのモダン・フォーク・ムーヴメントに敏感に反応したことが想像できる。本国でもヒットした形跡はありませんが、めずらしいのでリストアップしときました。

「しあわせの朝」Early in The Morning。
昭和44(1969)年、日本での最後のナンバーワンヒットとなった名曲。
めずらしいマイナーチューンが日本人に大ウケ。
予想どおり、これも本国ではアルバム収録曲でシングルカットされていない。オリジナルは「夜明けのヒッチハイク」のヒットがあるヴァニティ・フェアVanity fare 。

以上、まだまだいい曲はありますが、そろそろ「あくびノオト」が聞えてきそうなので。

ところで、当時、いちばんノンビリかつゆっくりラジオを聴けたのが日曜の朝。
寝床の中で枕元に置いてあるラジオを引き寄せ、耳に近づけて今週のベストテンを聴くのです。前週とどうちがっているか、気に入りのあの曲は何位になっているのか、ほんと、ワクワクものでした。まさに「しあわせの朝」。

顧みれば、あの昭和38年が60年余りの人生の中でいちばんノンビリと居心地がよかったんじゃないかなんて思います。もちろんマイ・ミュージック・ライフも。

ところが、それから1年後には大変なことが起こるのです。
東京オリンピック開催の年で、世の中がザワザワと動き始め、落ち着かなくなっていきます。

そしてミュージック・シーンではどえらい嵐が3つもやってきて、寝床でノンビリなんか聴いていられない慌ただしい「時代」に入っていきます。

その3つの嵐とは、春先に大ヒットしたキングストン・トリオThe Kingston Trioの「花はどこへ行った」Where Have All The Flowers Gone に代表されるモダン・フォーク・ムーヴメント。

2つ目は、2月にやって来たのがポップスのニュータイプ。挨拶代わりの「プリーズ・プリーズ・ミー」Please Please Meと「抱きしめたい」I Wanna Hold Your Hand をランクインさせたビートルズ旋風。

そして3つ目が、ビートルズに遅れること数か月、「急がば回れ」Walk Don’t Run、 「ダイヤモンド・ヘッド」Diamond Head、「10番街の殺人」Slaughter On Tenth Avenue、「キャラバン」Caravanと立て続けにヒットをとばし、日本列島を空前のエレキブームに陥れたべンチャーズThe Ventures 。

いまでこそ“あとだし”でビートルズの影響がその後の日本のポップスシーンに……なんて言ってるけど、当時の印象では、影響の大きさはビートルズよりベンチャーズでした。その深さはともかく。

とにかく昭和39年という年は新幹線開通の年でもあり、日本が超近代化、国際化を宣言した画期的な年でしたが、音楽シーンでもジャンルあるいは形式が多様化していくエポックメーキングな年ではありました。

それはそれで必然であり、いいのですが、そんな大変革が起こる前、つまり「嵐の前の静かな海」がどれほど心地よかったことか。
しかし、昭和39年になっても、わたしの「ラジオ・デイズ」は続いていきました。そしてクリフも嵐3本立てのなかで、しばらくは健闘していったのです。


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夏歌①あの娘と僕 [noisy life]

橋幸夫「あの娘と僕」.jpg

スイム スイム スイム スイムで踊ろう
あの娘もこの娘もピチ娘
♪拗ねて渚に 来たものの 炎のような波頭
 追って 来てくれ 来てほしい
 感じがでないよ 一人では
 青い この海 君のもの
 スイム スイム スイム スイムで踊ろう
 渚は恋の パラダイス
(「あの娘と僕」詞:佐伯孝夫、曲:吉田正、歌:橋幸夫、昭和40年)

今年もやらねば(義務的)「夏歌」。
今年は夏にふさわしい、あるいは夏を強くイメージさせる歌い手さんを。

平成23年、現代の夏を代表するアーチストといったら誰になるのでしょうか。

しばらくまえだったら、サザンオールスターズチューブといったいわゆる湘南サウンドがいのいちばんに思い浮かびましたが。

まさか湘南ブランドで、湘南乃風じゃないよね。まさかいまだにサザンやチューブでもあるまいし。

ところで、シンガーあるいはグループが夏向きというか“夏御用達”といわれたのはいつからでしょうか。つまり、流行歌の夏男(女でもいいですが)、あるいは夏バンドの第一号は?

常識的にはサザンやチューブの先輩にあたり、湘南サウンドの創始者といってもいい加山雄三ではないでしょうか。
大ヒット曲「君といつまでも」のひとつまえのシングル「恋は紅いバラ」が発売されたのが昭和40年の6月。

デビュー曲ではありませんが、映画「海の若大将」の挿入歌で、三連のバーラード。まさに夏歌。
この曲からバックを寺内タケシとブルージーンズが担当(のちにランチャーズになるが)。このこと、つまりエレキを前面に出したことで「夏歌」つまり「湘南サウンド」が誕生したといってもいいかも。
ということは、「夏歌」の原点ベンチャーズに行き当たるのですが、今回は「和物」ということで。

で、翌年には「蒼い星くず」、「お嫁においで」、「夜空を仰いで」とヒット曲を連発。映画「若大将シリーズ」やプライベートでの海やヨット好きということも相俟って、「加山雄三イコール夏」というイメージが固まっていったように思います。

そもそも「夏」のイメージといえば、山もありますがやはり「海」なのです。
青い空白い雲、そして真赤な太陽。
青い海に白い砂花、そして真赤な太陽。
これが流行歌の夏のイメージなのです。

ということはビーチつまり、むかし風にいえば「海水浴」があってはじめて、海が夏の「季語」になったわけです。

しかし「海水浴」が一般に普及定着したのはそれほど旧いことではありません。
夏の休日、家族や友人と海水浴へ行くという習慣がではじめたのは、庶民が経済的にも精神的にも余裕がではじめた昭和30年代の半ばごろから。
マスコミはそれを「レジャーブーム」などとあおり、庶民も流行に遅れまいとこぞって海へ殺到したのです。

ということは、加山雄三のまえ、すなわち昭和30年代に、そうした「夏」のイメージを打ち出したシンガーがいてもおかしくはない。

わたしの個人的な印象では、「夏の歌やんけ」(東京育ちです)と感じた流行歌は昭和36年から38年にかけてのガールポップス。
36年は田代みどり「ビキニスタイルのお嬢さん」「パイナップル・プリンセス」、そしてツイストが流行った昭和37年に大ヒットした「ヴァケーション」(弘田三枝子ほか)、翌38年には「太陽の下の18才」(木の実ナナほか)というように。

もっとさかのぼれば、昭和32年には浜村美智子「バナナ・ボート」を、翌33年にはエセル中田「カイマナヒラ」をヒットさせ「夏歌」で流行歌を盛り上げました。

しかしこれらはいずれも洋楽のカヴァーポップス。
純国産の「夏歌」をうたうシンガー、つまり「夏男」あるいは「夏女」はいなかったのでしょうか。

それが実は(ずいぶんモッタイブッタな)いたのです。

昭和30年代に入って、ロカビリーがきっかけとなり、若者に急速に支持されはじめたアメリカンポップス。
その魅力はなんといっても、聴いてるだけでからだがうごいてしまうビートとリズム。その象徴ともいえるのが、昭和37年、爆発的に流行したツイスト。
ブギウギのリズムに乗って、まさにからだをひねるというダンス。

以後、スカだのシャロックだのパチャンガ、スクスクなどなど、新しいリズムやステップが続々と登場。そのほとんどは線香花火のようにアッという間に消えてしまいましたが。

しかしこのことで、「若者はリズムを求めている」ということを大人(音楽関係者)は理解します。
そして歌謡曲の世界でも、若者を意識した「リズム歌謡」なるものが生まれてきます。

その旗頭になったのが、そのとき歌謡界を席巻していた「青春歌謡」の面々。
なかでも御三家といわれた橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦
たとえば舟木一夫なら「渚のお嬢さん」とか「夏子の季節」、「太陽にヤァ!」
西郷輝彦なら「星娘」、「星のフラメンコ」に「恋のGT」

しかしなんといっても橋幸夫。

昭和39年の「恋をするなら」に始まって、以下のように「リズム歌謡」連発。それもその多くは夏をイメージしたもの。

「ゼッケン№1スタートだ」昭和39
当時若者の間で注目されはじめてきたカーレースを先取りしたもの。残念ながらまだフォーミュラとかF1という言葉はなかった。

「CHE CHE CHE(涙にさよならを)」昭和39
「チェッ チェッ チェッ」と舌打ちを欧文のタイトルにしてしまうという佐伯マジック。むかしビートたけしがギャグにつかっていた。いいセンスしている。

「あの娘と僕(スイム・スイム・スイム)」昭和40
これは、たしかラテン系リズムにオリジナルの振付けをした「スイム」という踊り(その後流行った記憶ない)をお披露目した歌。
それはともかく、このYOU-TUBEはスゴイ。亡くなった人も存命者もほんとにスゴメン。紅白ならでは。

「僕らはみんな恋人さ」昭和40
だいだいは橋幸夫の“座付作者”である吉田正佐伯孝夫の黄金コンビが作った歌だが、これはいずみたく岩谷時子という「夜明けのうた」のコンビ。
たしかにメロディーラインはいずみたくのにおい。それとYOU-TUBEのさくらさんのモンキーダンスいいネ。

「恋のインターチェンジ」昭和40
これも黄金コンビではなく、曲はクラリネット奏者の藤家虹二、詞はなんと作家であり実業家でもあった邱永漢
日本初のハイウェイ、名神高速が開通したのが昭和38年。「インターチェンジ」という言葉もまだ新しかった。

「恋と涙の太陽(アメリアッチ)」昭和41
アメリアッチとはアメリカのロックにメキシコのマリアッチ(演奏形態)をミックスして?つくりあげた吉田正のオリジナル。三田明(恋のアメリアッチ)もうたっていた。
イントロなんか、当時流行ったティファナ・ブラスHARB ALPERT & TIJUANA BRASSの「蜜の味」A TASTE OF HONEY を「いただいて」いる。

「恋のメキシカン・ロック」昭和42
これも吉田正のアメリアッチ。「恋と涙の太陽」から1年経って、「アメリアッチ」があまりにも浸透しないので、もっとわかりやすいメキシカン・ロックに変えたのかな。

以上のように、昭和30年代後半から40年代はじめにかけて、加山雄三を差し置いた「夏男」がいたことがわかっていただけましたでしょうか。

それにしても、これらのヒット曲のほとんどを作詞したのが佐伯孝夫。
明治37年生まれといいますから、この頃は還暦越え。
さすが詞(ことば)の魔術師といえばいえますが、それにしても当時のティーネイジャーたちが60過ぎたオッサンの詞にキャーキャーいっていたと思うと……。
いや、それが流行歌なんです。流行歌だったんです。

ところで「夏男」橋幸夫、いまも健在です。相変わらずリズムに乗りまくっています。
盆踊りフォークダンスで。


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異論な人01 雪駄とニュースペーパー [people]

鳶の頭.jpg

わたしはよく電車に乗ります。
だからといってよくいう「鉄ちゃん」ではありませんが。

JR、私鉄なんでも乗りますが、できたら外の景色の見える鉄道がいい。
最近すきなのは、総武線、常磐線、京成線、そして東武伊勢崎線。

と並べれば、察しのつくひとがいるかもしれませんが、すべてスカイツリーの見える路線なのです。ほかにもありますが。

ところで、見知らぬ同士が狭い空間に同乗するという電車中では、ほんとに様々なことが起こりますし、まさにいろんな人がいます。

つい先日、京浜東北線(この車窓からもスカイツリーが見えます)で西川口方面(昼間ですから)へ行ったときのこと。
田端駅から電車に乗り込むと、目の前の四人掛けのシートに3人が座っていました。
ドア側にわたしよりちょい年上の大柄な紳士(ネクタイしてましたので)。奥側に女性がふたり。
わたしはその紳士と女性の間に座らせてもらうことに。

女性は眠っているようでしたので、その紳士に会釈して腰をおろしました。
ところがその紳士の足がいささか、いやかなりワイドになっておりまして、わたしは膝を合わせ、なおかつ隣の女性の足にくっつかんばかりの状態に。

目的駅までは10数分ありますので、ちょっとキツイなと思ったので、その紳士に
「すみません、あの、もうちょっと……」
と遠慮がちにいったところ、いい終らないうちに察したのか、
「こっちはいっぱいだよ、隣につめてもらえよ」
とご立腹の様子。

どうやらワイドになってる足幅には気づいていないようなので、
「いえ、そうではなくて、その足をもう少し狭めていただけませんか……」
というと、その紳士
「なに言ってんだ、そんなに広げちゃいなだろ」
と語気を荒げながら、20センチばかり徐々に足幅を狭めてくれました。

わたしは、目的を達成したので、バッグから本を取り出しページをめくりはじめました。笑いを噛み殺しながら(わたしも悪い人間だ)。

その紳士はそのあとふた駅目でおりてしまったのですが、その後もちょっとした出来事が。

ドアの傍に立っていた男子高校生が急にしゃがみこんでしまいました。
電車中でしゃがんでいる若者はめずらしくないので、わたしは気にもしませんでしたが、よく見ている人はいるもので、わたしの向かいに座っていた40代とおぼしき婦人が、
「ここに座りなさい」
と声をかけて立ち上がりました。

高校生は頭をさげて座席にすわり、うなだれてぐったりした様子。熱中症か貧血か。

すると彼の横に座っていた、幼児をかかえた若い女性がバッグからジュースのペットボトルを取り出し、彼に差し出しました。
彼はふたたび頭をさげて、ペットボトルの蓋をあけ、勢いよく飲みはじめます。
まさに「力水」だったのか、若者は見違えるほど元気に。

そしてバッグから財布を取り出し、硬貨をその女性に差し出しました。
女性は笑顔で「受け取り拒否」。彼はみたび頭をさげて、硬貨を財布に戻し、またジュースをラッパ飲みしはじめました。

わたしは、その光景を見たあとすぐに到着した駅で下車してしまいましたが、そのあと彼が電車を降りるまでに、あと2回頭をさげたことは想像できます。

とまぁ、電車に乗っていると実に様々なことがあるという話で。

ここまでが前フリっていうんですから我ながらイヤになってしまいます

じつはやはり京浜東北線でのことなんですが、もう少し前の話。

午後で、上りの車中はガラガラ。
わたしはいつもどおり座席にすわって古い本を読んでおりました。だいたい電車中は読書タイム。半分はそれが目的でもあるのです。

しかし、向かいのドアの前に立ち外の景色を見ている男がどうも気になります。

うしろ姿しか見えませんが、歳のころなら60代後半、わたしにとったら兄貴分といった感じ。
背丈は5尺3寸、そこまで古くいうことないな。まぁ、160センチ足らず。
髪の毛は白髪まじりの大工刈り。
白のTシャツと半ズボンから出た手足は赤銅色でなおかつ逞しい。
足元はずいぶん履きこんだとおぼしき雪駄。

一見して職人、いや半纏を着せれば江戸前の鳶の親方ができあがろうという様子。

深川や浅草あたりに行くと、こういう鯔背(いなせ)なおじさんはよく見かける。

濃い眉毛にドングリ眼、鼻は厚くて高くて頬はふっくら。というのはわたしのイメージで、車窓から景色を眺めている兄貴の顔は見えません。。

電車中ではあまりみかけない様子の人。
だから目がいったのですが、しばらくしてあることに気づき、さらにその兄貴が気になってしまったというわけ。

それは半ズボンの尻ポケットに突っ込んだ新聞。
となると、すぐ思いつくのが競馬新聞。
きょうは平日。浦和で競馬があるわけでもない。
さらによくよくみるとその新聞、なんと英字新聞。

鳶職人とニュースペーパー、このギャップはおもしろい。
そうなるとどうしても見たいのが御面相。まさか、英字新聞の「理由」は訊けませんが。たんなるハッタリだったりして……。なことないわな。

で、さいわい、わたしと同じ乗換駅で下車。
ところが足が速い。
乗り換えの清算をしているうちに、とうとう見失ってしまいました。

まるで結末寸前にフィルムが切れて中断した映画のようで(いまどきないよ)。

しかし、つまらない結末で終るよりは、「余韻」が残って、「鯔背な兄貴の物語」は、より「名作」としてわたしの記憶に残ったのかも。

では、今回はギャップが強烈だった新聞紙の歌を。
ただの「新聞」ならば山田太郎の「新聞少年」とか、
♪今朝来た 新聞の 片隅に 書いていた
という井上陽水の「傘がない」などいくつかあります。とりわけ友部正人はわたしが知っているだけで「ストライキ」「大阪へやって来た」「公園のベンチで」と3つの歌に出てくる。

しかし「英字新聞」となるとなかなか。
それでも思いついた邦楽洋楽、合わせて2曲をどうぞ。


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●谷間/番外篇 [a landscape]

ビルの谷間.jpg

谷間のおまけ。

実際の地形としての谷間ではなく、修辞的につかう「谷間」というのがあります。
………………。
いや、いまあなたが考えているその「谷間」ではないんです。
わたしはそういう人間ではありませんから。(ウソばっか。もはやバレバレ)

だいたい、あなたが考えている「谷間」なんか、歌になりませんし。

わたしが考えている「谷間」とは「ビルの谷間」のこと。

昭和20年代の後半から30年代全般にかけて、流行語とまではいきませんが「ビルの谷間」というフレーズが流行歌でよくつかわれていました。

というか、戦前から「ビル」あるいは「ビルディング(ビルヂング)」という言葉がモダンで軽佻浮薄の流行歌には欠かせない言葉だったのでしょう。

代表的なビルとしては、昭和4年の「東京行進曲」(佐藤千夜子)にも
♪恋の丸ビル あの窓あたり
とうたわれた「丸ビル」。正式には「丸の内ビルヂング」で、大正末につくられたモダンの象徴的建造物。
地上9階というから、いまから考えれば郊外のマンションよりもはるか低い。これでも当時の建築基準ギリギリで、誰もが「スゲェー」と見上げた花の都のランドマークだったのです。

そのビルが一挙に巨大化したのが、いまでは高層ビルのベスト50にも入らなくなってしまった虎ノ門に近い霞が関ビル。
地上36階というから丸ビルの4倍。
そんな巨大建築物が東京オリンピックの翌年に出現したのだから、驚いたね、都民は。
まさに経済成長の象徴的建造物でした。

皮肉なことに、そのあたりから、つまり高層ビルが建ちはじめ、やがて林立していくようになると、なぜか流行歌の中の「ビルの谷間」は消えていきます。

では昭和の「ビルの谷間」はどのようにうたわれていたのでしょうか。

まず旧いところでは昭和29年、幻のシンガー・千代田照子がうたった「東京ワルツ」にでてきます。
♪ビルの谷間の 小さな陽だまり

この「ビルの谷間」は、ふたりの思い出の場所ですね。

余談ですが、YOU-TUBEにオリジナルがなく、井上ひろし盤もないので小柳ルミ子嬢に登場ねがいました。
でも2番間違えてますね。
♪七色の雨にうたう あゝ東京ワルツよ
と一番を重複してます。正確には
♪あの窓の思い出は あゝ東京ワルツよ
です。
そして最後も
♪雨のつゆ草
ではなく♪夢のつゆ草ですね。

好きな歌なのでついつい「アラサガシ」をしてしまいました。

当時としてはモダンな旋律は小坂一也の「座付作曲家」でもあった服部レイモンド。そしてかの時代の都会の青春模様を上手に綴った詞は「ひばりの佐渡情話」やアキラの「さすらい」で知られる西沢爽。まだ新人で本名の義久で書いていました。

「東京ワルツ」に関してはもう少し能書きをたれたいのですが、まだ、先が長いのでこのへんで。

昭和30年代に入ると、男がうたう「ビルの谷間」が続出します。

まずは33年、超低音で女性をシビレさせた? 三船浩(近年亡くなりました)の「東京だより」

♪かるく車の アクセルふんで ビルの谷間を まっしぐら

主人公は地方から都会に出てきて、夜学に通いながら運転手として働く若者。
この頃は「僕は流しの運転手」(青木光一)とか「ハンドル人生」(若原一郎)などタクシードライバーの歌がトレンドのひとつだったので、この「東京だより」の青年も「運ちゃん」かもしれません。

母親への便りというかたちで自分の近況、そして東京見物をさせたいという孝行ぶりを吐露しています。
「東京見物」というのもこの時代のキイワード。

三橋美智也「東京見物」島倉千代子「東京だよおっ母さん」がヒットしました。
いずれも東京に働きに来てひと息つき、故郷の母親を東京観光に招待するという、孝行息子、孝行娘の話。
なぜか呼んでもらえるのは母親で、「東京だよお父っつあん」てのはない。
父親は田舎でお留守番? ならいいほうで、「東京だより」では死んでたり……。

その3年後の36年。
「ビルの谷間」ではありませんが「街の谷」が仲宗根美樹「川は流れる」に出てきます。
♪病葉(わくらば)を 今日も浮かべて 街の谷 川は流れる

これもヒットしました。
これは街の中を流れるほんとうの川をうたっています。
東京でいったら、隅田川か、目黒川か、神田川か。

♪思い出の 橋の袂(たもと)に 錆(さび)ついた 夢のかずかず
という名詞は「哀愁列車」(三橋美智也)「下町の太陽」(倍賞千恵子)横井弘

38年には北原謙二(この方も亡くなっています)の「ひとりぼっちのガキ大将」

♪ビルの谷間に 沈む陽も 燃えて明日は また昇る

子どもの頃は「お山の大将」だった男も成長すればフツーのサラリーマンに。
それでもいつか、子どもの頃のように部下を引きつれて「出世階段」の頂点に立ってやるという心意気がうたわれています。
いかにも激動の昭和30年代のサラリーマンを象徴した歌です。

北原謙二はカントリー&ウエスタン出身のシンガーで、大阪のジャズ喫茶ナンバ一番でスカウトされる前は、かの浪商(浪華商業高校)、それも野球部。ウソかマコトか同級の張本勲や山本集を差しおいて番長だったとか。

翌39年の田辺靖雄「二人の星をさがそうよ」では、

♪ビルの谷間の 小さな空にも 星は生まれる 愛の星

と。
田辺靖雄も洋楽(カヴァーポップス)出身で、デビュー当初は梓みちよとのコンビ、マイ・カップルポール&ポーラ「ヘイ・ポーラ」「けんかでデイト」をカヴァーしていました。

そのマイ・カップルに「12と13」という歌があります。
♪12と13 ふたりは友だち ただそれだけ
というワンフレーズだけを旋律とともに覚えています。

この歌、当時のテレビドラマの主題歌らしいのですが、実はドラマを見たことも、歌を聴いたこともないのです。
なのになぜ覚えているかというと、中学時代の遠足のバスの中で、クラスのマドンナがこの歌をうたったのです。わたしは特にマドンナに関心はなかったのですが(好きだったのは別のクラスの娘でした)、なぜか、この歌のワンフレーズだけが耳に残り、なんと半世紀ちかくも残りっぱなしになってしまったというわけ。

CDは昔出たようですが、いまではほとんど入手不可能。いまだフルヴァージョンで聴いたことがない。まぁ、別段どうしても聴きたいというわけでもないのですが。

田辺靖雄と聞くと、必ずこの「12と13」を思い出すという話。

もう完全に予定オーヴァー。でもあと1曲。

昭和も40年代に入り、昭和元禄などと呼ばれた「昭和の春爛漫」を過ぎてさらに50年代へ。

「東京見物」させたいほどの魅力的だった都会も、住みついて20年、実は享楽歓楽の街の素顔は実に冷たく味気ないものだと気づきます。
それでも離れられないのならば、それはその人たちにとって「魔性の街」なのかも。

そんな歌が「東京砂漠」内山田洋とクールファイブ
♪ビルの谷間の 川は流れない 人の波だけが 黒く流れていく

これ以後、「ビルの谷間」なんて言葉、あるいは言い方は聞かなくなりました。
さらに平成になった20年以上が過ぎ、もはや「死語」と化してしまっているのかもしれません。

ところで、はじめにふれた「あなたが想像した“谷間”」、そんな歌などないと思ったらありました、それも昭和30年代に。

「東京だより」でふれた三船浩の「男のブルース」(昭和31年)。
♪胸は谷間だ 風も吹く

と。しかしよくよく詞を読むと、これは「あの谷間」ではありません。
つまり地形的な隆起を意味する谷間ではなく、「淋しい場所」という意味でつかわれているようで。

月亭可長「嘆きのボイン」なんていうのもありますが、あれはモロママで、「谷間」なんてもんじゃないし。
じゃ、こんなのどうですか。「谷間」という直接的な言葉はでてきませんが。
これで谷間を想像するのはわたしだけ?


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●谷間/洋楽篇 [a landscape]

怒りの葡萄1939.jpg

From this valley they say you are going
We will miss your bright eyes and sweet smile
For they say you are taking the sunshine
That has brightened our pathways a while.
([RED RIVER VALLEY] Traditional)

ハンク・ウィリアムズHank Williams の「マンション・オン・ザ・ヒル」The Mansion on The Hill で失恋男が、かつての恋人が住む丘の上の邸宅を未練がましく見上げていたあばら家があったのは淋しい谷だった。

ブラザース・フォアThe Brothers Four のヒット曲「グリーンフィールズ」Greenfields でうたわれた、別れた恋人との思い出の場所も緑豊かな谷でした。

洋楽、おもにアメリカの歌ですが、こちらも「谷」がうたわれたのは、どうやら旧い歌のようです、おそらく。
もっとも新しい歌は知りませんが。

たとえが適当かどうか、いささか自信がありませんが、アメリカで西部劇が下火になっていくとともに「谷」の歌もフェイドアウトしていったような。
日本で時代劇がマイノリティになるのと比例して「谷」が消えていったように。違うかな。

そんな「谷の歌」で、いちばんはじめに耳をそばだてて聴き入ったのが3人兄妹のブラウンズThe Brownsの「谷間に三つの鐘が鳴る」Three Bells でした。
子どもの頃ラジオから流れてきたこの曲のヴァースの部分が新鮮でした。もちろん英語なのでどんな意味なのかわかりませんでしたが、その美しいハーモニーとジェントル・メロディーが心にのこりました。

三つの鐘とは、歌の主人公・ジミー・ブラウンが奥深い谷間の村で生まれた時、そして成長し結婚した時、それから老いて安らかな眠りについた時、の三度響いた教会の鐘のことだと知ったのはのちのこと。
長いようで束の間の人生を3度の祝福と哀悼の鐘でうたいあげた名曲。

この歌は1959(昭和34)年、ビルボードのカントリー部門で年間2位。
ただ曲調はカントリーというよりポップス。
それもそのはず、本歌は、1945年にエディット・ピアフEdith Piafとグループ、シャンソンの仲間Les Compagnos de la Chanson によってうたわれたシャンソン。
ピアフ版もブラウンズ版と雰囲気はさほど変わっていない。なお、ヴァースを担当しているのはピアフではなくシャンソンの友のメンバー。

ピアフとシャンソンの仲間は40年代にアメリカツアーを行っているので、それによってカントリーにアレンジされたのでは。

次の歌は「谷間の灯ともし頃」When it’s lamp lightin’ time in the valley 。「谷間の灯」とも。これも懐かしい。

都会に出てきた男が故郷である谷間の生家を偲ぶという内容。
窓から見える部屋の中では母親が息子の帰りを祈っている光景が見える。
それでも故郷は遠すぎて帰ることができない。でも母さん、いつか天国で会えますよと男は自分を慰めている。
といった内容の歌。

たしか中学校の音楽の授業で習ったような記憶が。
だからてっきり唱歌でアメリカ民謡(古い本ではそうしう表記もある)だと思っていましたが、つくられたのは1932年、昭和でいうと7年。
作者もはっきりしていて、クレジットにはジョー・リオンズJoe Lyons 、サム・C・ハートの2名と、グループらしいヴァガボンズThe Vagabonds が記されています。

日本に入ってきたのが、つくられた2年後の昭和9年。
前回でも少しふれましたが、流行歌手の東海林太郎がカヴァー。当時はアメリカ民謡として紹介されていました。そして、ほかには松島詩子もやディック・ミネもレコーディングしています。

つまりはじめは流行歌として日本に入ってきたのです。
しかし数年後日米戦争がはじまるや「敵性音楽」として封印されます。
そして敗戦により封印がとけると、なぜか流行歌ではなく「唱歌」あるいは「叙情歌」として再生してくるのです。不思議な歌です。

3つ目の谷間は、「ダウン・イン・ザ・ヴァレー」Down in the valley 。

これは正真正銘のトラディショナルソング。
1950年代後半から60年代にかけてポピュラー音楽の世界的潮流となったモダン・フォーク・ムーヴメントによって、多くのトラディショナルソングが復活しましたが、この「ダウン・イン・ザ・ヴァレー」もそのひとつ。

多くのフォキーたちがとりあげましたが、わたしがはじめて聴いたのはピート・シーガーのPete Seegerのヴァージョン。

ピート・シーガーにはほんとうにいろいろな歌を教えてもらいました。
また彼は世界の片隅にある歌をとりあげるのがうまいんだ。
有名なところではキューバの「グァンタナメラGuantanamelaがそうですし、かの「花はどこへ行った」Where have all the flower is gone も詞はロシア民謡をヒントにつくったといわれています。

ほかにもプエルトリコの「クェ・ボニータ・バンデラ」Que bonita bandera がそうだし、日本の「原爆を許すまじ」もちゃんと教えてもらったのはピートから。

ただ当時、歌詞カードがなかったのか、レコードからの聞き覚えのため、はじめはちょっとした誤解がありました。正確なうたい出しは、
♪ふるさとの 町焼かれ 身寄りの骨埋めし 焼け土に
なのですが、わたしの耳には、
♪ふるさとの 町あかり 身寄りの骨埋めし 暁(あかつき)に

と聴こえたもの。ピートの発音が……、いやわたしの耳がわるかったためでしょう。

余談はさておき、この「ダウン・イン・ザ・ヴァレー」、「バーミンハム刑務所」Birmingham jail という別名のタイトルがあるように実は「思い出のグリー・グラス」The green green grass of home や「ミッドナイト・スペシャル」The midnight specialなどと同様、囚人の歌なのです。
深い谷にある刑務所からシャバにいる恋人に、手紙を寄こしてくれと頼んでいる歌なのです。ということは、彼女は手紙をくれないわけですから、彼は愛想を尽かされたということかも。とにかく淋しい男の歌なのです。
トラディショナルソングってなぜだか、こういう淋しい悲しい歌が多いのです。

さいごの谷の歌もやはりトラディショナルソング。
やっぱり悲しい歌。別離をうたった「赤い河の谷間」Red river valley 。

これは多分、「ユー・アー・マイ・サンシャイン」You are my sunshine の次に覚えた英語の歌。当時のレコードはどこかへ消えてしまいましたが、たしか美しいハーモニーのサンズ・オブ・パイオニアーズThe Sons of Pioneers 盤だったような気がします。

いまでも、
Come and sit by my side if you love me
という歌詞が懐かしいメロディーとともに聴こえてくると鼻の奥の方がジーンとしてくるというフェヴァリットソングなのです。

レッドリヴァーはテキサスにあり、ミシシッピーに流れ着く川。
そこの谷間の集落での別離をうたったもの。
男性ヴァージョン、女性ヴァージョンがあり、また男がカウボーイだったり、女がインディアンの娘だったりと、さまざまなヴァリエーションがあるようです。

映画ではヘンリー・フォンダが主演したスタインベックの「怒りの葡萄」で何度も流れていました。

ではさいごにイカしたデュオで「レッド・リヴァー・ヴァレー」をもう一度。


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●谷間/邦楽篇 [a landscape]

谷①.jpg

♪みどりの谷間に 山百合ゆれて
 歌声ひびくよ 観光バスよ
 君らの泊まりも いで湯の宿か
 山越え 谷越え はるばると
 ランラララ…… 高原列車は
 ラララララ 行くよ
(「高原列車は行く」詞:丘灯至夫、曲:古関裕而、歌:岡本敦郎、昭和29年)

いきなり連想ゲーム。
「豊、幹一、佳知、桃子、晃」の名前に共通した苗字は?

もう少しかんたんにすると、
「ナオミ、亮子、隼人、啓、トニー」

で、わかりますね。というかタイトルではじめからバレバレ? そりゃそうだな。

今回の“お題”は何の脈絡もなく「谷」
まぁ、強いていうなら「山」も「川」も「丘」もすでにやったから。

「谷」とは説明の必要もないでしょうけど、かんたんにいえば、山と山など高い地形の間にある窪みや低地。
そこには当然のごとく川が流れていて、集落が形成されていることも。

やがてそうした人の住む「谷」には名前がつけられたり。
東京でいえば「四谷」があり、「千駄ヶ谷」があり、「阿佐ヶ谷」があって「渋谷」もある。
ほかにも下谷、雑司ヶ谷、谷中、世田谷、雪谷などと各所に地名として残っています。
東京がどれだけ凸凹だったかということ。

長くなりそうなので「枕」はこのへんにして、さっそく「谷」の歌を。

「山」や「谷」の歌、ということになるとストレートにうたわれるのが自然讃歌。
たとえば、
♪箱根の山は天下の嶮 函谷関(かんこくかん)もものならず 萬丈(ばんじょう)の山千仞(せんじん)の谷………… 「箱根八里」(作詞:鳥居忱、作曲:瀧 廉太郎)

というのがありますが、あくまで人間が主人公の流行歌では、登山の歌か、そうした「谷」に住む人たち、あるいはかつてそこに住んでいた人間が彼の地を懐かしんで、つまり望郷の思いでうたうというケースが多くなります。

ところが、流行歌の発生した昭和初期から終戦までのおよそ20年あまり、「谷」が出てくる歌はおもいのほか多くありません。
それでもいくつか拾ってみると、昭和18年の「木曽の山唄」(田端義夫)の
♪木の間隠れの 谷間から 今日もせせらぎ さらさらと
以外は以下のとおり。

♪谷の朝霧 隈なく晴れて 「明日はあの山」(東海林太郎) 昭和9年
♪夏の谷間の 山ざくら 「北の国境線」(東海林太郎) 昭和11年
♪あの谷川に 昔ながらの 月が出る 「ふるさと恋し」(東海林太郎) 昭和13年
♪峰よ谷間よ 独り往く 「落葉街道」(東海林太郎) 昭和15年

と、なぜか東海林太郎ばかり。
おまけに東海林太郎は、昭和9年にアメリカ民謡の「谷間の灯」もカヴァーしていました。

その「谷間の灯」以外は、聴いたことのない歌ばかりで、YOU-TUBEにだってない。

しかたないので、とりあげるのは戦後の歌、ということに。

敗戦後いちはやくヒットした「谷」が出てくる歌はこれ。
♪遥か谷間より こだまはかえり来る 「山小舎の灯」近江俊郎

敗戦から2年後、山登りの歌。2年前は登山すらできなかったのですから、その解放感が歌詞から伝わってきます。

その2年後の昭和24年には“青春讃歌”の代表曲ともいうべき「青い山脈」が映画とともにヒット。
♪青い山脈 緑の谷へ 「青い山脈」藤山一郎・奈良光枝

昭和20年代はまさに“遅れてきた青春”を取り戻そうとばかり、戦闘機も軍艦もない流行歌の中で自然がうたわれ、そのなかに「谷」も欠かせないローケーションとして登場していきます。
♪あの山もこの谷も 故郷を 想い出させる 「ハバロフスク小唄」近江俊郎 24年

♪谷影にともる灯も レイホー レイホー 「アルプスの牧場」灰田勝彦 26年

♪谷の真清水 汲み合うて 「山のけむり」伊藤久男 27年

♪みどりの谷間に 山百合ゆれて 「高原列車は行く」岡本敦郎 29年

昭和30年代になると「花の都」の反動で故郷の良さを見直そうという「ふるさと歌謡」が盛り上がり、それは40年代になっても、地元に生活の基盤を置く人ばかりでなく、都会に出て生きる人たちの琴線にふれる歌として、支持されていきます。そしてそんななかに「谷」も。

♪ハッパの音が 明けりゃ谿間に せきたてる 「あゝダムの町」三浦洸一 31年

♪谷の瀬音が 心にしむか 「山の吊橋」春日八郎 34年

♪谷間の春は 花が咲いてる 「銀色の道」ダーク・ダックス 41年

♪緑の谷間 なだらかに 「ふるさと」五木ひろし 48年

♪小さな家が 谷間に見えて 「若草の髪かざり」チェリッシュ 48年

そして、昭和50年代。西暦でいえば1970年代後半から80年代、流行歌の主流はいまでいうところの「J-POP」に取って代わられていきますが、そこで「谷」はどのようにうたわれていったのか、いや、はたして生きのびることができたのか、事情に疎いわたしとしては知る由もありませんが。もはや出る幕がないのかもしれません。

ところで「人生山あり谷あり」といいますが、人生にあるという「山」と「谷」、どちらが苦労の時なんでしょうか。
ふつうに考えると、景気を示すグラフやバイオグラフでも「山」が好調時で「谷」が不調時で、人生でいえば当然「谷」が「冬の時代」ということに。

しかし、現実に登山をすると、これはあきらかに「山」に登る方がキツイ、苦しいということに。反対に平坦な谷を歩いた方が鼻歌が出るぐらい楽。

まぁ、「人生山あり谷あり」は登山にたとえていったわけじゃないんでしょうが。
でも、どんなに高みを極めている人でも、谷底を徘徊している人でも、死んでしまえば同じ。
みんな谷よりさらに深い「奈落」へと落ちていくのですから。


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三つの歌●六月 [day by day]

チェリッシュ・海の見える部屋.jpg

六月をタイトリングした歌といえば……。
ザ・ピーナッツ「ジューン・ブライド」しか思い浮かばないなぁ。
しかも、ヒット曲というほどではないようで、YOU-TUBEもない。

ビッグ・イヴェントもなければ、祝日もない。ほんとに「梅雨」以外はなんもない六月。

だから歌もない。
なんてことはなくて、六月の歌はそこそこあるんです。ただ知らないだけ。

多いのは「雨」の歌。やっぱり。
「六月の雨」という歌をうたっているのは、松山千春、小椋佳、谷村有美などがいて、矢沢永吉にも「六月の雨の朝」がある。

でも、五月も「五月雨」で「雨」だったし、また雨かよ。雨はもうたくさんだよ。という気分もありますので。
雨の降らないスカッとした(言い方が旧い)六月の歌を。

トップバッターは(言い方が旧い・以下省略)、チェリッシュ
チェリッシュといえばウエディングソング「てんとう虫のサンバ」があるので期待できます。「六月」が出てくるのは「海の見える部屋」

♪二人で暮らした 海べりの部屋を 出て行くの 六月の朝に

って別れの歌でした。それも結婚あるいは同棲していたカップルが別れるというのだから決定的。
六月といえば冒頭でもふれましたがジューンブライドなんだけど、離婚もそこそこ多いのでしょうか。
ある統計によれば、結婚も離婚も多いのは年度末の3月。日本人らしいといえばらしい。
離婚に関していえば、六月は十一月に次いで2番目に少ない月だとか。
まぁそんなことはどうでも。

「海の見える部屋」はチェリッシュのピークを過ぎた時期の歌。作曲はムード歌謡の帝王・吉田正でしたが、ヒットするまではいきませんでした。でも、けっこう好きな歌。

お次は。
荒木一郎。……あゝ、なんとなく空もようが……。雨かな。よくて、曇り空。
これが加山雄三だったら、さんさんの太陽に雲の影だに見えない青空、ってことになるんだけど。

とにかく歌は「君に捧げるほろ苦いバラード」。もうタイトルからして鬱陶しかったり。

♪六月の空をみれば まぶしすぎる僕だよ

荒木一郎の場合は「六月の空」。
でも、「まぶしすぎる」といってますから、雨ではない。
明るい曇り空というのもありますが、快晴、青空という可能性も。

しかし「君に捧げるほろ苦いバラード」そのものは暗い、梅雨空のような歌です。
やっぱり恋人との別離をうたっています。今度は男の側から。
その別れもどこか死別のような。そして、彼も後追いをしそうな。そんな雰囲気をただよわせた歌です。

とチンパンジー、いや一般人(古典的ボケ)は思ってしまうのです。
ところがこの歌の「君」とはどうやら荒木氏が飼っていた愛猫のことらしい。
そういえば彼の「愛しのマックス」も愛犬をうたった歌だとか。

甘いメロディーもいいけど、デキシー風のアレンジが素晴らしい歌です。

2曲終わって、どうも六月の空はすっきりしません。
そして最後の三曲目。これも「六月の空」がうたわれています。

曲は「G線上にひとり」、うたうのは森田童子
もう、名前が出た時点でアウト。明るい歌なわけがない。

♪何にもいわない 六月の空は 僕の好きな 水色です

まぁ歌の「明暗」はともかく、いいですね、いつもながら彼女の歌詞。みずみずしくって。
深刻にならず、さりとてディープで儚い孤独をうたうのが上手。
解説するのは野暮だけど、六月の空の色が灰色ではなく、かといって青でもなく水色というのがいい。ただの水色ではなく、僕の好きな水色というのがまたいい。シツコイか。

この歌、森田童子ベストコレクション「僕たちの失敗」のなかの一曲なのですが、若草恵の編曲も格調があってすばらしい。

それでも「水色」ですから、六月の空はようやく晴れました。
えっ? 「空は晴れてもこころは闇だ」って?
またずいぶんいにしえのセリフを。いまどきの人にわかりますか、この名セリフは吐いた人(実在の人物じゃありませんよ)。

美樹克彦じゃないかって?
残念でした、それは「どんなに空が晴れたって それが何になるんだ…………バカヤロー」です。


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街▼秋葉原 [a landscape]

秋葉原.jpg

仕事が一段落したので、神田佐久間町まで用足しに。

遅く家を出たので、用事が終わったのが午後2時近く、そのままメトロの日比谷線に乗って帰宅するには中途半端な時間。それに昼メシも食べてないし。

そうだ湯島へ出てラーメンでも食べて行こう、と思いたち、JRの高架下を通り、アキバのメインストリート中央通りへと。

秋葉原の電気街はほんとに久しぶり。
というか、若い頃はレコードを買うにつけ、オーディオ製品やその備品を買うにつけ出かけるところは秋葉原だった。

そのむかし、秋葉原はもうすこし大人の街だった。
それが若者それもティーネイジャーにシフトしていったのは、パソコンが普及したことによってだと思う。そのあとテレビゲームがあっという間に広がって。

中央通りをそぞろに歩いていると、すれ違うのは圧倒的に二十歳前後の若者。それも男。それも単独行動が多い。彼らはよくいわれる「アキバ系」。

古い人間には「アキバ系」の定義はわからないけど、その「様子」をみるとなんとなく理解できるような気がする。

仕事でよく渋谷のセンター街や池袋のサンシャイン通りを通るけど、そこで見る若者たちとは全然違う。まるで人種が別のよう。

センター街はカップルも含めて女の娘が多い。その女の娘を求めて男どもが集まる。その男どもを求めて女の娘どもがやってくる。
目的はナンパ。ならばめいっぱい今風のオシャレをしなくは。俺もアタシもと。

久しぶりに秋葉原の中央通りを歩いてみたかぎり、センター街でみかけるような流行のファッションを身にまとった男どもはいなかった。
坊主頭も髭も見なかった。ヒサロ焼けやピアス、タトゥーなんてとんでもない。
紙袋は持っていなかったけど、服装は年寄りのわたしでさえ「もうすこし何とかなんないかい」といいたくなるほど地味。

でもキミらは、ナンパ目的じゃないんだから、そんなにヘアスタイルや服装に気をつかうこともないか。そりゃそうだ。

もうひとつセンター街と秋葉原の若者で大きく違っていたのは、彼らの表情。
センター街でみかける若い男は全部ではないにしろ、目つき顔つきに余裕がないというのか、緊張感を漲らせている奴らがほとんど。なかにはあきらかに戦闘モードに入っている野郎もいたり。
肩でもふれようものなら「チョットマテヨ!」と呼びとめられそう。

何と闘っているのか。
ナンパがすなわち戦闘ゲームなのか。メスを争って死闘をくりかえす動物のように、センター街は戦場なのか(そなアホな)。

秋葉原のヤングマンはというと、すれ違うどの顔も笑みさえ浮かべていないものの、一様に穏やか。その顔はまるで「ボク、争いごとはキライです」といっているよう。
原発でいえば、推進派と反対派、……なんてそんな単純じゃなか。

まぁ、どちらも現代の若者の一面であることは間違いないのだけれど、かつて繁華街といえばほとんどセンター街のようなところばかりだった。
だから、いわゆる「アキバ系」の青年たちはコワくて近寄らなかった(今でもそうかも)ものだ。それが21世紀になって彼らが主流となる新都会が生まれた。これは画期的なこと。

どちらがいいわるいとはいわないが、とにかくオラオラ系(っていうのかな)中心ではない繁華街があり、そこで青春を満喫する青年がいるということはいいことなんじゃないでしょうか。

中央通りを歩いているあいだ、さすがに声をかけてはくれなかったけれど何人ものメイドさんをみかけたり。お決まりのAKBのヒット曲が大音響で流れていたり、そこは新秋葉原の雰囲気に満ち溢れておりました。

そして広小路から湯島へ向かい、かの有名なラーメン店へ。
2時をまわっていたので、さすがにと思っていたが3人ばかりが店の外に並んでいました。

それでもすぐに入店となり、カウンターで腹ごしらえ。
ひところは月に一、二度は来ていた店ですが、ここ半年あまり遠ざかっておりました。

店内の様子は同じですが、店員さんが変わってました。それにラーメンの器も。
味は変わっていなかったのでひと安心。

醤油ラーメンを食べ始めて気付いたのは、かすかに聞こえるBGM。有線でしょう。
以前はなかったと思うのですが。

そのBGMがなんと演歌。
残念ながら音量が小さすぎるのか、わたしの耳が遠くなったのか、はっきりとした歌詞は聴きとれません。しかし、都はるみの「涙の連絡船」もどきのメロディーが耳の穴にしみこんできます。

ラーメン店、それも人気でこれまた客は若者中心というのに演歌とは。
気取ったラーメン店といえばBGMはジャズなんだけど(飯田橋にはカントリーを流すラーメン店がある)、演歌とはどういう狙いなのでしょうか。

さいごに秋葉原にちなんだ音楽を。
というとAKB48となるんだろうけど、オッサンにはチトつらい。

すぐに思い浮かぶのは、
♪ぼくはいささか 秋葉原
という小林旭「恋の山手線」
でもこれは秋葉原の歌ではなく、山手線全駅を読みこんだ(西日暮里が抜けてる)歌なのでいささか苦しい。

というわけでYOU-TUBEの力を借りて広瀬香美「ビバ☆秋葉原」なるものをみつけました。
新しすぎて着いていけないというご同輩には、なつかしのこんな歌でどうでしょう。「ビバ☆秋葉原」に通ずるものがあるでしょ? ないか。

追記

しばらく書いていなかったブログを強迫観念にかられて書かなくてはと思いたったのが秋葉原を歩いているとき。
帰宅して夕食前に夕刊の記事が目をひいた。
あの「秋葉原殺傷事件」が起きたのがちょうど3年前の今日だったのです。
現場には花も供えられていたそうですが、まるで気付かなかった。
小さな偶然とはいえ、いささか驚きました。

しかし犯人はなぜ犯行場所にセンター街ではなく秋葉原を選んだのでしょうか。
ほんとうのところはわかりませんが、もしかしたらセンター街などコワくて足を踏み入れたことがなかったのかも。

ということは彼もまた「アキバ系」だったのかも。
となると、「仲間」を襲ったことに。だとすると被害者にとってはもちろんですが、犯人にとってもよけいに「悲劇的」に思えてきます。
まぁ、想像にすぎませんが。


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三つの歌③雨―邦楽篇 [day by day]

裏切りの街角.jpg

毎日毎日しょぼしょぼと降っております、雨が。
なんでも日本では3日に2日はどこかしらで雨が降っているのだとか。
東京でいえば、数字的にはほぼ1週間に2日は雨となるそうです。
実感ではもっと少ないけど、けっこう降ってます。量はともかく。

ほんとに多い雨ですけど、いにしえの人々はそんな雨にいろいろな名前をつけています。
ちょっと降ってすぐに止む雨が「にわか雨」とか「通り雨」。
それが秋から冬にかけての冷たい雨だと「時雨」(しぐれ)。
夏の夕暮れに降れば「夕立」。

短時間に大量に降る雨は「驟雨」。「篠突く雨」なんて言い方も。
長い時間をかけて降るこまかい雨なら「小糠雨」(こぬかあめ)。
ほかにも季節によって「春雨」だとか「秋雨」だとか、いまの時期なら「梅雨」や「五月雨」(さみだれ)。

邦楽でも「雨」は歌謡曲にしろポップスにしろ“王道”。
「雨か涙か、涙か雨か」っていうぐらいよく降ってます。

あまり多すぎて目移りしちゃうので、ここは絞って季節からいってもふさわしい「五月雨」を。

J-POPでもいくつかあるようで、YOU-TUBEで聴いてみましたが、最近耳がわるくなったのか、何をいっているのかわからなかったのでパス。

パスしたのはいいけれど、意外とない「五月雨」。

聴き覚えのある「五月雨」は小林旭「五月雨ワルツ」伊勢正三のアルバム「北斗七星」におさめられた「五月雨」、そしてYOU-TUBEではじめて聴いたふきのとう「五月雨」

なかでもフェヴァリットなのが「五月雨ワルツ」。ただ、残念なことにYOU-TUBEにありません(以前はあったんだけど)。

では伊勢正三かふきのとう、となるのですが、どちらもあえて取り上げるほど好きではないし、思い出もありません。
それならばと、歌詞のなかにでてくる「五月雨」を探してみたら、ちょうど3曲ありました。

うんと古い歌なら、昭和12年の御座敷ソング「蛇の目のかげで」(きみ栄)に、
♪あきらめしゃんせと 五月雨が
 濡れて待つ身に 降ったとさ
とでてきますが、これはほとんどの人の耳になじみがないのでパス。

ひとつめは、フェヴァリットソング。
「裏切りの街角」甲斐バンド 昭和50(1975)年
これはつい最近「ハスキーヴォイス」のところで取り上げました。初ヒットとなった彼らのセカンドシングル。

この歌をはじめて聴いたのは30数年前。
そのときの情景はなぜかはっきり覚えています。

印刷工場で働いていたある日のこと。残業をしているとラジオからこの歌が。
はじめて聴く曲だったので「誰だ、これ」と誰にいうでもなく言葉を吐くと、同僚の松ちゃんが「ショーケンだよ」とわけ知り顔で。

なるほどあのハスキーヴォイスは紛れもなくと、納得。
ところがその後ラジオから頻繁に聞えるようになり、甲斐バンドの「裏切りの街角」と判明。
「松ちゃんのヤロウ……」

つぎは、フォークの範疇に入るのでしょうか。
「通りゃんせ」佐藤公彦 昭和47(1972)年

「裏切りの街」がヒットした昭和50年は、ユーミンやグレープが登場し、それまでの“フォーク”が“ニューミュージック”に変わりはじめた頃。
その3年前の47年は、よしだたくろうのデビューが象徴するように、それまでの反戦も含めたメッセージを前面にだしたフォークソングがラブソングに変わっていった時代。

童謡のタイトルそのままの「通りゃんせ」は、和風というか、万葉の匂いまでただよわせたトーチソング。
女歌で、シンガーもユニセックスを感じさせたケメこと佐藤公彦。
ある意味フォークの過渡期であり、百花繚乱のなかに咲いた不思議な歌。

それから数年後にやってくる抒情派フォークを先取りしていたといえなくもない。

ラストは、これ。
「初恋」村下孝蔵 昭和58(1983)年

近年亡くなりましたけど、これまた「踊子」と並んで名曲です。
いっちゃなんですが、村下孝蔵、ビジュアル的には極めてインパクト小。
七三分けの短髪にネクタイとまるでサラリーマン。
小太りで面相もいまでいうイケメンとはお世辞にもいえない。

それがひとたびうたいだすと、自作の美しいメロディーにふさわしい美声と華麗なギターテクニック。
このギャップが魅力でした。
ほら、クラーク・ケントだって普段はさえない新聞記者だったものね。

いま考えると、あれが村下さんの個性だったんだなとわかります。
もし多くのミュージシャンがそうだったように、長髪、ジーパン、あるいは見栄えのいい派手な衣装だったら、さほど印象に残らなかったかも。

とにかく歌だけで勝負した数少ないシンガーソングライターでした。

それにしても五月の雨が「さみだれ」とはね。
五月では、五月の蠅が「うるさい」で、五月の女が「さおとめ」だもんね。
ほかにも五月の病(やまい)で「ノイローゼ」なんて、いわないか。ふつう「ごがつびょう」だよね。

では五月生れの子、すなわち五月の子、「五月子」は?
そうです、ご想像どおり「めいこ」ですね。むかしは「ごがっこ」なんていうのもあったけど。

ではもうひとつ、五月の馬つまり「五月馬」は?
「めいば」つまり「名馬」だろうって?
残念でした「ダービー馬」でした。
やられちまったよ、昨日は。


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三つの歌②雨―洋楽篇 [day by day]

雨.jpg

関東もいよいよ梅雨に入ったそうです。
今日も雨が降っております。西南方向から台風もきているとか。
毎回毎回いいたくはありませんが、今年の梅雨、今年の台風は例年とはいささか違う。
なにしろ放射能汚染の最中にやってくるのですから。
厭なことにならなければよいのですが。

それでもやっちゃうブログかよ。
やらずにゃおかぬ、やらずの雨ってことで、お題は「雨」。

なんともストレイトというかイージーというか。
最近、いつも以上に脳のはたらきが鈍くなっています。おそらく放射脳、ではなく放射能の影響でしょう(まだいってら)。

ではさっそく本題に。
カウシルズの「雨に消えた初恋」とかカスケーズの「悲しき雨音」とか、雨を歌った名曲はたくさんあります。

フォークでいえば、イアン&シルビアの「朝の雨」やジョーン・バエズの「雨を汚したのは誰」。ボブ・ディランにも「激しい雨」や「雨の女」が。

映画音楽なら「シェルブールの雨傘」があるし「明日に向かって撃て」のテーマ「雨にぬれても」もいいグッドソングでした。

それらを差し置いて今回聴きたくなった“雨唄”は以下の3曲。

まず1曲目。
「雨を見たかい」HAVE YOU EVER SEEN THE RAIN? クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァルCREEDENCE CLEARWATER REVIVAL

あの時代のカントリーのもの足りなさを補ってくれたのがCCR。ジョン・フォガティ
曲のセンスと嗄れ声がなんともイカしてました。

「雨を見たかい」は「晴れた日に降る雨を見たことあるかい?」と問い続ける1971年のヒット曲。

「そんなのあるよ、天気雨のことだろ」とはじめ聴いたときは思ったもの。ところがあとになって雑誌などの記事を読んで驚いた。
なんと、晴れた日の雨とは爆弾のことで、ベトナム戦争末期のヒット曲は反戦歌だというのです。

しかし、さらにあとになって、その「反戦歌説」は誰かさんの“ネジ曲げ”であることがジョンの発言によって明らかに。
多分誰かさんはCCRのファンだと思うけど、ミュージシャンにしてみれば迷惑な“都市伝説”。時代の勢いで、本人もすぐには否定できなかったのかもしれない。

とはいえ、わたしにとってはCCRナンバーのなかでも5指に入る名曲。

2曲目は、もうちょっとだけ古い曲。
「雨」LA PIOGGIA ジリオラ・チンクエッティGIGLIOLA CINQUETTI

高校へ入って友達になったヤツに、門前仲町の小料理屋の息子がいまして、学校帰りに彼の家に誘われ、ついていってびっくり。
なんと彼は6畳一間のアパートでのひとり暮らし。なんのことはない、実家兼店はそのアパートのまん前だったのですが。でも、自分の部屋のなかったわたしにはウラヤマシカッタ。

そんなことよりもさらにびっくりしたのが、彼の部屋へ入って目に入った鴨居の上に並べられた10数枚のシングルレコード・ジャケット。
そのほとんどがジリオラ・チンクエッティのもの。

一人のミュージシャンを深く掘り下げて聴かなかった(いまでもそうだけど)わたしは、彼をみてはじめてホンモノのファンとはこういうものなのだ、ということを知らされました。

それから、「ナポリは恋人」とか「愛は限りなく」とか。そしてなんといっても名曲中の名曲「夢見る想い」はイヤというほど聴かされました。
なんでもそうですが、イヤというほど聴くと、その旋律やわからないながらもその語感が刷り込まれて、“マイ・ソング”になってしまうから不思議。

「雨」はそれからしばらくしてヒットした歌(歯を矯正してます)。どんなに雨が降ったって二人の愛を濡らすことはできないわ、というラヴソング。
何年か前にテレビのCMでつかわれて小ブレイクしました。イントロが近藤真彦の何かに
似てるとかいわれたり。ま、五月の歌というか、メイ曲ですね。

二つ目より上の「三つ目」は真打ち。

「雨の別離」BLUE EYES CRYING IN THE RAIN ウィリー・ネルソンWILLIE NELSON

これはもう何度もとりあげたカントリーのなかでもフェヴァリット中のフェヴァリットの別れの歌。
ハンク・ウィリアムズからエルヴィス・プレスリーまで多くのシンガーによって歌われている胸キュン(今どき古いよネ)ソング。

元は1950年代にロイ・エイカフでヒットしたものですが、70年代になってウィリー・ネルソンで再び陽の目をみることに。今回はそのウィリーで。

何度もとりあげているので、また再びの能書きはやめて、「雨の別離」をディーバでもう1曲。
では誰を。

ピカ一なのはシャナイア・トゥエインですが、オリビア・ニュートンジョンもいいし、ロイ・エイカフとのデュオのエミルー・ハリスもイカしてるし、ノルウェーのカントリークイーン、ヘイディ・ハウゲも捨てがたい。
でも今回はYOU-TUBEの画像が気に入ったので、いまは亡きエヴァ・キャシディEva Cassidy を。

梅雨もゴメン、台風もゴメン、放射能はもっとゴメン。
でゴメンの季節になりにけり。憂鬱の季節となりました。
「YOU-TUBE」の文字も、なんとなく「ユーウツだべ」(DAはないけど)って読めたり。早く来い、夏を通り越して秋。


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三つの歌①バラ [day by day]

薔薇②.jpg

きのうは初夏の陽気。
外出で上着を持って行こうかどうか迷ったけど、置いてったものね。
それが今日は雨。でも外出はやはり上着なしで。

ところでここ最近やけにバラの花が目を引きます。
「5月のバラ」というぐらいですから、いまが盛りなのでしょうか。

赤、白、黄、桃、橙と色鮮やか。とくに見慣れないせいかオレンジのバラが美しい。

サントリーが数年前でしたか人工的に「青いバラ」の生育に成功したことが話題になりましたが、さすがに実際に青いバラをみたことはありません。

しかしどこの家のバラも元気に咲き誇っております。それになぜかどれも大きい。
まさか放射能をタップリ浴びたせいではないでしょうが。

昭和30年代、あることはありましたが、これほどたくさんの庭で見かけることはなかった。
それこそ、庭にバラを植えているのは洋風でハイカラな家でした。

どうしてもバラというと西洋のイメージが強いのですが、万葉の昔から日本に自生していたようです。

しかし、おそらく現在あるような派手でゴージャスな花弁を持った花ではなかったんじゃないでしょうか。
もしいまとさして変わらないバラならば、もっといろいろなシーンに登場したはずでしょう。

たとえば、光源氏があまたの女性から薔薇のプレゼント攻撃を受けたとか、出雲阿国が薔薇をくわえて歌舞伎を踊ってみせたとか……。

テレビや映画の時代劇をみたって庭先でバラの手入れをしている御隠居さんなんか出てこないし、お気に入りの大夫への土産としてバラの花束を持った若衆なんか見かけないものね。

おそらく野ばらのような貧相というか、地味なバラだったんでしょう。

それがいつの頃からかバラは日本でもゴージャス、あるいは情熱的な花の代表になってしまいました。

女性へのたとえでも「バラのような」といえば派手で情熱的なイメージの人ですよね。
女優にたとえると…………、先ごろ亡くなったエリザベス・テイラーとか、エヴァ・ガードナーとかクラウディア・カルディナーレとか、日本で行ったら……李香蘭とか京マチ子とか(古い人ばっか)。

話がだんだんカビ臭くなってきたので、最後にバラにちなんだポピュラーな歌を三つばかし。それも今日のところは洋楽で。

「百万本のバラ」MILLION ROSES
ごぞんじラシアンポップス。オリジナルはラトビアのポップスだそうだが、ロシアのアーラ・ブガチョワAlla Pugachevaがうたってヒットした。
日本でも加藤登紀子がカヴァーしてヒット。忠実な訳詞も加藤自身。

はじめ聴いたとき、百万本ものバラを広場に敷きつめちゃって、女優が町を出て行ったあと、どうやってかたづけたんだろう、たいへんだったろうなぁなんてロマンもチックもないことを考えたりして。

「ローズ・ガーデン」I NEVER PROMISED YOU A ROSE GARDEN
カントリーからも1曲。
カントリーの「バラの歌」もほんとに多いけれど、ポップスとしても最もヒットしたのはリン・アンダーソンLYNN ANDERSONのこの曲ではないでしょうか。カントリーに興味のない人でもこの歌が好きだという人はけっこういます。
ポピュラーな曲なので日本でもいろいろな歌手にカヴァーされているでしょうね。
ゴールデン・ハーフでは聴いたことがあるけど。

「バラの刺青」THE ROSE TATTOO
同名映画の主題歌でペリー・コモPerry Como がうたってヒットさせました。
テネシー・ウィリアムスの戯曲が原作で、若き日のバート・ランカスターが出演していました。残念ながら原作も読んでませんし、映画もみていません。
でも、昔から好きな歌。日本ではフランク永井がカヴァーしていました。

いいですね、「バラの刺青」っていうタイトルが。思わせぶりで。
しかし、このタトゥー、していたのは男で、それも胸に。

いまの日本でも抵抗なくタトゥーを彫る若者が増えてますね。でも、バラを彫るのはどちらかといえば男より女ではないでしょうか。肩や太股なんかに。

わたしなどは古い人間ですから、自分の子供が刺青を入れるなんていったら感動、じゃなくて勘当もの。まして女の娘だったら座敷牢(そんなものないけど)に閉じ込めちゃいますね。

あんなもの若くて肌に張りがあるときだけのもの。歳をとって皮膚がたるんできたらみられたものじゃありません。バラだか紙くずだかわからなくなっちゃったり。

いまはタトゥーに似せたシールもあるらしいので、どうしてもファッションとして愉しみたいのなら、そうしたイミテーションでいいと思いますね。見た目は変わらないのだから。
それも肌に直接ではなくて、靴下にワンポイントで貼るとか。
白い靴下に赤いバラのシール。ローズソックスなんちゃって。

雨が降ろうが雪が降ろうがバラはバラ。
雨にぬれて水滴をたたえたバラはことさら美しい……、なんて齢だよなぁ。


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