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[金木犀] [ozolagnia]

 

♪ 鳶色のひとみに 誘惑のかげり
  金木犀の 咲く道を
  銀色の翼の馬で 駆けてくる
  二十世紀の ジャンヌ・ダークよ

  君のひとみは 10,000ボルト
  地上に降りた 最後の天使
  君のひとみは 10,000ボルト
  地上に降りた 最後の天使
  …………
(「君のひとみは10,000ボルト」詞:谷村新司、曲、歌:堀内孝雄、昭和53年)

秋を告げる匂いといえば金木犀
毎年のことだが、あの甘い香りに遭遇すると、ようやく夏の暑さから解放される安堵感と、陽差しの恋しくなる季節に向かっていく寂しさも感じたりして。

金木犀は木犀科の常緑小高木で、今の時期、葉の元に小さなオレンジ色の花をたくさんつける。原産地は中国で、当地では木犀のことを“桂”というそうだ。風光明媚な観光地桂林は、木犀が多く繁っていたことから名付けられたとか。

金木犀があるのだから、銀木犀もある。やはり木犀科だが、こちらは白い小さな花をつける。金木犀同様芳香をだすそうだが、かいだことはない。植物図鑑で見るかぎり、金木犀との顕著な違いは葉の縁がギザギザで、触ると痛いこと。
トゲのような葉が痛いといえば、生け垣に利用される(ひいらぎ)がそう。じつは柊も木犀科。ついでにいうと、オリーブもまた木犀科だとか。
葉の手触りでは、金木犀がとびきり優しい。

二十歳過ぎまで金木犀を知らなかった。
東京の郊外で初めて一人暮らしをし、半年あまりが過ぎてようやく生活に慣れた頃は秋。ディテールは覚えていないが、たぶん朝寝ができる日曜日か休日だったのだろう。その匂いは突然やってきた。

芳香という感じはなかったが、本能的にそれが花の匂いらしいことは漠然と理解。自身のこれまでの人生のなかで、かいだことのない匂い。強いて類似を探すならば果物の“桃”の香りに似ていた。実際、しばらくは桃の花の匂いだと思っていた。

それが金木犀であることを教えてくれたのは、ある女性だった。
二階だった私の部屋の窓を開け、
「ほら、あの木よ。キンモクセイっていうの」
と庭の一隅を指さした。わたしはその指先にある緑の葉の中に無数のオレンジ色の花を抱えた樹をみつめて、小さな感動を覚えた。〈あの香りはキンモクセイの匂いだったんだ〉
とても素晴らしい知識を授かったような気がしたものだ。

彼女は会社の同僚で、サークルの仲間。そのときも数人の仲間でわたしの部屋へ押しかけてきたのだ。サークルでの話し合いがいつしか激論になることがあった。そんなとき彼女は必ず沈黙を守る。笑顔のまま話を聞いている。その笑顔には無知ではなく聡明さが映っていた。
男に媚びない潔さ、笑顔が真顔に戻るときの虚無的な雰囲気。いまなら少しは理解できるのだが、そういう女性に遇ったのは初めてだった。

そんなわけで、残念ながらわたしの恋心は芽生えず。また他の同僚とのラヴ・アフェアーも起こらないまま、それから数カ月後、彼女は突然会社を辞めていった。ひと月も経つとサークルの中でも彼女の残り香すら消えてしまっていた。

彼女とわたしは人生のほんの一瞬、すれ違っただけ。いまとなっては名前も忘れたし、容貌だっておぼろげ。それでも、わたしにとっては「あれがキンモクせいよ」と教えてくれた忘れられない人。
おそらく、いまどこかの空の下で生きているであろう彼女は、わたしのように一瞬“すれ違った”相手のことを覚えてはいないだろう。それはそれでいい。

金木犀の香る頃になると、彼女口元をほころばせた沈黙を思い出す。

「君のひとみは10,000ボルト」堀内孝雄がアリス時代にソロで吹き込み、ヒットした曲。アリス「チャンピオン」はその数カ月後に発売。

「君のひとみ…」は資生堂のキャンペーン・ソングで、この頃からTVコマーシャルと流行歌のコラボがはじまった。この頃の同様なものをあげると、
「時間よとまれ」矢沢永吉(資生堂)
「Mr.サマータイム」ザーカス(カネボウ)
「季節の中で」松山千春(グリコ)
「魅せられて」ジュディ・オング(ワコール)
「セクシャル・バイオレット№1」桑名正博(カネボウ)
「異邦人」久保田早紀(三洋電機)

「木犀」の出てくる歌には、
♪ 散りそびれた木犀みたいに
と、交差点での彼女との別れをうたった「晩鐘」(さだまさし)がある。

そいうえば、最近聞きませんがキンモクセイというバンドもありました。シリア・ポールの「夢で逢えたら」をカヴァーしてましたっけ。

金木犀の匂いが好きだという人は多い。
金木犀の悲劇は、そのあまりの強烈な匂いのため、トイレの芳香剤に使われたこと。つまり悪臭を芳香で消すということ。おかげで金木犀=トイレの消臭のイメージが定着してしまった。

しかし、さすがに飽きられたのか、現在は悪臭を緩和し、匂いは微香という消臭剤に変わってきている。まあ、金木犀の匂い復権の日、遠からず?。

それにしてもあの金木犀の香り。数メートル先からもはっきり匂う。嗅覚が人間の数十倍といわれる犬にしたら堪ったものではないだろう。蜂や蝶だって辟易してるのでは。

しかし、なぜあれほどの強い香りを出さなくてはならないのだろう。
もしかして、あの匂いに反応する虫がいて、他の虫を遠ざけ、その虫のためにだけ香りを発散しているのでは……。
なんて、勝手なことを想像している秋の夜半である。


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[古本] [ozolagnia]


♪ …………
  胸の中に秘めていた 恋への憧れは
  いつもはかなく破れて ひとり書いた日記
  本棚に目をやれば あの頃読んだ小説
  過ぎし日よ わたしの 学生時代
(「学生時代」詞、曲:平岡精二、歌:ペギー葉山、昭和40年)

先日、古本屋で“盗み”をしてしまった。ある本を棚から取って開いて見ていたら、栞代わりに馬券が挿んであった。2002年というから5年前のGⅠ・安田記念の単勝馬券で、2頭を各100円ずつ買ってあった。もちろん期限切れで的中していたとしても払い戻しはできない。わたしは少し躊躇ったが、モニターされていることを覚悟してその馬券をポケットに入れ、店を出た。

新しい本や雑誌には紙とインクの油臭い匂いがする。したがって新刊の書店は同様な匂いで充ちている。また、古本にも独特の匂いがある。それが大量にある古書店ではその匂いは強烈である。わたしはさほど抵抗がないが、嫌う人もいる。知り合いで、あの匂いを長時間嗅いでいるとお腹が痛くなるという人がいる。人間が歳をとって加齢臭がでてくるように、本だって年を経ればそれなりににおう。変色するしシミだって出てくる。どんなに感動させてくれた本だって、知り合いからプレゼントされた想い出の本だって、それは同じ。

古書店へ行くということは、そうした年老いた本たちの“体臭”を嗅ぎにいくことを覚悟しなくてはならない。もっとも、最近の古本チェーン店は消臭効果がよいのか、あまり匂わない。だから若い人がずいぶん立ち読みしている。個々の本も磨かれ、削られて一見若返っている。たまによれよれの本も見かけるが、そういうのは100円均一で、それでも売れずに棚に残っている。そんななかに捜している本があったりして。ほんとうに。

現在の本は、100年も経つと紙はボロボロ、インクは掠れてゴミ同然になってしまうと聞いたことがあった。まあ、必要な本ならば再出版されていのちを繋いでいくのだろうが。いや、もはや紙やインクの時代ではないって? そうかもしれない。しかし、気に入った本のページをめくるときの、親指と人差し指の間に挟んだ、あの薄い紙の感触は液晶画面では味わえない。それが、たんに触感にとどまらないことは言うまでもないが。

“チャペル”“讃美歌”“十字架”といったキリスト教を彷彿させるキーワードが出てくる「学生時代」は、平岡精二およびペギー葉山の母校である青山学院をイメージして作られた。平岡精二は木琴奏者・平岡養一を父にもつヴィブラホーン奏者。昭和20年代から平岡精二クインテットを結成してジャズ、ポップスの世界で活躍。同じヴィヴラホーンのミルト・ジャクソンに影響され、MJQの曲などもレコーディングしていた。また、渡辺プロに在籍し、藤木孝が専属歌手だったり、中尾ミエにレッスンをつけたり、若手歌手の育成にも一役かった。
器用でトランペットやサックスをこなしたほか、作詞、作曲も。「学生時代」はその代表曲。ほかに、「あいつ」(旗照夫)、「爪」(ペギー葉山)、「君について行こう」(ザ・シャデラックス)などのヒット曲がある。平成2年、還暦を前にして他界。

ところで、古本屋で盗んだ5年前の馬券だが、その結果を知りたくて、家へ帰って調べてみた。ミスターX氏が買ったのは18頭中、3番人気と8番人気の2頭だった。で、結果は3番人気の馬がどん尻の18着、8番人気の馬はブービーの17着。単勝馬券は1着馬を当てるもので、2着だろうが18着だろうが、ハズレはハズレ。とはいえ、最下位とブービーを当てるというのも至難。上位人気と穴人気の馬を買ってのことだから。
もし、オシリの2頭を当てる馬券があったとしたら、このミスターX氏は大変な配当を手にしたはずである。ミスターX氏、潜在的な強運の持ち主なのか、あるいはとてつもなく不幸な星の下に生まれた人なのか。

はたまた、本命を外して、少額の単勝馬券を買ったミスターX氏とはいかなる人物なのか。年齢は、職業は、体格は、もしかしてミスターではなくミス?(挟んであったのは女性作家の推理小説だった)、結婚は、故郷は……。また、ハズレ馬券をなぜ捨てずに栞代わりにしていたのか。X氏への興味は尽きない。案外顔見知りだったりして……。


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[人間くさい] [ozolagnia]

♪ 人間なんてラララ…… 人間なんてラララ……

  何かが欲しいオイラ それが何だかわからない
  だけど何かがたりないよ いまの自分もおかしいよ

  空に浮かぶ雲は いつかどこかへ飛んで行く
  そこに何かがあるんだろうか それは誰にも分からない

  人間なんてラララ……
(「人間なんて」詞、曲、歌:吉田拓郎、昭和46年)

実際の臭覚に訴えてこない「~くさい」という言い方は、ネガティブな意味で使われる場合が多い。「ウソくさい」、「水くさい」、「辛気くさい」など。しかし、例外もある。
「人間くさい」などはそうで、「アイツのやり方は無茶苦茶だけど、どこか人間くさいじゃないか」などと、肯定的な意味あいが感じられる。この場合の「くさい」は、「ウソくさい」のような“~っぽい”、“~のようだ”という意味とはいささかニュアンスが異なる。同じだと、アイツは「人間っぽい」となってしまい、本来人間ではないということになる。したがって、意味としては「より人間的」「より人間らしい」ということになる。

それでも何だかおかしい。では、人間らしい人間とはどんな人間なのか。「にんげん」の別称は「じんかん」つまり、社会のこと。したがって「人間的」とは社会的ということになる。そうなると「人間くさい」人間とは、社会の中で上手に立ち居振る舞っている人のことになるのだが。言い方を変えると感情よりも理性を基に行動している人ということだろう。しかし、「人間くさい」という言葉は、それとは真反対の感情に突き動かされて常軌を逸脱した場面でしばしば使われる。やっぱり腑に落ちない。わかっていることは「人間的」な人がいる反面、人間らしくない人がいるということ。そして、その「人非人」が多くなればなるほど、「人間くさい」だとか「人間的」という言葉が多発されるということ。

流行歌のなかでは、さすがに「人間くさい」という言葉は聞かない。「人間」がタイトルにつく歌では上に載せた吉田拓郎「人間なんて」のほか、「人間の条件」(岡林信康)「人間になりてえ」(長渕剛)がある。前者は“空気、飯、糞、アレ”と人間の営みを並べ、人間様と畜生は同じようだが、人間は環境を破壊している分畜生以下とアイロニーたっぷりの球団歌ではなく、糾弾歌。後者は〈銭が欲しい、女が欲しい、愛が欲しい、友が欲しい〉と人間の本能的欲望をぶちまけ、でも〈媚びへつらうな〉と、独特の説教節が炸裂している。社会的と個人的の違い(時代の差)はあっても、二曲とも、社会性というウソ臭さははぎ取り、本音を歌っているという面では共通する。
これに「人間なんて」を加えた三曲。個人的には“人間って不可解”と白状した「人間なんて」がいちばん共感できる。

「人間」というフレーズは流行歌には難しい。どこか“お堅い話”になりがちだったり、あまりにも大上段すぎて、聴いていて気恥ずかしくなってしまったり(たとえば「世界にひとつだけの花」なんか)。取り上げた三曲の作・演者を考えればわかるとおり。カリスマにならなければ、なかなか使えない。

「人間」は少ないが、似たような意味合いのフレーズはしばしば使われる。それが「人は」である。♪つめたい女だと 人は言うけれど(「いいじゃないの幸せならば」佐良直美)とか♪人はなぜに 死んでゆくの(「恋人」森山良子)という具合に。「人間」にくらべると「人は」のほうがいくらか柔らかい。それが増長すると「人はみな」あるいは「人は誰も」になる。たとえば♪人は誰もただひとり 旅に出て(「風」ザ・シューベルツ)、♪人はみな 孤独の中(「あの鐘を鳴らすのはあなた」和田アキ子)、♪人はみなひとりでは 生きてゆけない(「ふれあい」中村雅俊)、あるいは♪青春のうしろ姿を 人はみな忘れてしまう(「あの日に帰りたい」荒井由実)などと。
「人は」より「みな」がつく分、いささか“強制連行的”なニオイが漂う。「『人はみな』って、ほんとに人間全員かよ」ってツッコむつもりはないけれど。


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[水臭い] [ozolagnia]

♪ わが輩の見初めた彼女
  黒い眸でボップヘアー
  背が低くて肉体美
  おまけに足までが太い

  馴れ染めの初めはカフェー
  この家は妾(わたし)の店よ
  カクテルにウイスキーどちらにしましょ
  遠慮するなんて水臭いわ
(「洒落男(ゲイ・キャバレロ)」作詞:坂井透、曲:FRANK CRUMIT, LEW KLEIN、歌:二村定一、昭和5年)

「水臭い」は〈よそよししい。遠慮がち。他人行儀〉という意味で、これも水が臭うわけではない。本来密度の濃い人間関係が、水で薄められたかのような希薄なものに感じられるときなどに使われる。したがって、この言葉を発する人と、その相手とは、親兄弟、親友、夫婦、恋人など密接な関係にあることが前提。昨日今日知り合った間柄で使うことはない。しかし、上の「洒落男」では、ホステスが一見の客に“営業用”として使っている。バカな男は半ば知っていても、そう言われると悪い気はしないもので、「じゃあ、ブランデーでも」などとのたまってしまう。

「洒落男」はいわゆる昭和のジャズ・ソング。戦後はエノケンこと榎本健一の歌で知られるようになったが、元は「青空」「アラビアの唄」などで知られる二村定一がレコードに吹き込んだもの。エノケンと二村定一は戦前、一時コンビを組んでいた。二人の「洒落男」を聞き比べると、メリハリがあるのはさすが名優・エノケンの方。しかし、あっさりだが昭和初期の空気が伝わってくるのは二村盤。
♪ 俺は村中で一番 モボだと言われた男 ではじまる「洒落男」は元々、アメリカのシンガーソング・ライター、フランク・クルーミットが1920年代に作り、歌ったポップ・ソング。それに坂井透がモボを気取った田舎紳士を皮肉った歌詞をつけたもの。坂井透は、昭和初期に誕生したカレッジ・ジャズバンドのひとつ、慶應大学の“レッド・エンド・ブルー”のバンジョー奏者。慶應の他に、法政大学にはラッカサン(Luck and Sun)・ジャズバンドが、立教大学にはハッピー・ナインがあったとか。

もはや廃語になりつつある「水臭い」。流行歌の中で他にないかと探してみたが、ほかでみつかったのは昭和24年の芸者ソング「トンコ節」(久保幸江、楠木繁夫)だけ。♪洗った盃ゃ ちょいと水くさい。もしかしたらいまの演歌にはありそうな気もするのだが。ならば「遠慮」や「よそよそしい」は。
「遠慮」は、友だちに ♪遠慮はいらないから 暖まっていきなよ とすすめる「襟裳岬」(森進一)、見知らぬ男から驕られたバーボンを ♪遠慮しないでいただくわ という「居酒屋」(木の実ナナ、五木ひろし)、そして引っ込み思案の恋人に ♪彼氏なら遠慮せず とハグをねだる「内気なジョニー」(伊東ゆかり)がある。また「よそよそしい」は、別れた男に ♪よそよししい笑みを浮かべ る「今さらジロー」(小柳ルミ子)があった。

人間関係の“距離”というのは難しい。あまり離れすぎると「水臭い」となるし、かといって接近しすぎると煩わしい。常に理想的な間隔を保っていればいいのだけれど、そうもいかない。で、ときにはそうした関係にヒビが入ったり、壊れたり。あんなにうまくいっていたのに……、なんてことも。他人それぞれ考え方は微妙に異なるわけで、あの人に言っていいことも、この人にはよくない。あゝ、あれこれ考えると、人づきあいは水臭いより面倒臭い。


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[しんき臭い] [ozolagnia]

 

♪ 芸のためなら 女房も泣かす
  それがどうした 文句があるか
  …………
  「そりゃわいはアホや、酒もあおるし女も泣かす。
   せやかて、それもこれもみんな芸のためや。
   今にみてみい! わいは日本一になったるんや
   日本一やで、わかってるやろ、お浜
   なんや、そのしんき臭い顔は、
   酒や! 酒や! 酒買うてこい!」
(「浪花恋しぐれ」詞:たかたかし、曲:岡千秋、歌:都はるみ、岡千秋、昭和58年)

「しんき」は“辛気”で、心が晴れない、くさくさすること。読んで字の如く〈つらい気持〉のことかというと、そうではないから日本語は難しい。臭いは強調の意味だが、「しんき臭い」として使われることが多く、その場合は〈じれったい〉とか〈イライラする〉という意味になる。これも最近はあまり聞かなくなった言葉。

歌のなかの亭主は女房の何を「しんき臭い」と感じたのだろうか。たぶん、お浜が亭主の横暴に耐えている顔や態度にイラついたのだろう。でもその女房は2番のセリフの中で、亭主が日本一の噺家になるためなら「どんな苦労にも耐えてみせます」と宣言する。そして、掛け合いの3番では、亭主はお浜を“恋女房”と言い、女房は亭主を“生き甲斐”と言って、笑うふたりに春が来るのである。
ご存知のように、これは関西の落語家・桂春団治をモデルにした歌で、実際春団治はかなりの遊び人だったらしい。実際のお浜さんがどういう女房だったかは知らないが、いまどきこんな女房はいない。かつてはいたのかもしれないが、女権が確立されつつある昨今、絶滅しているのではないか。ホントにしんき臭いと感じるのは、女房が横暴な亭主にひたすら耐えていることだろう。
だいたい、歌の歌詞どおりに自分勝手な亭主だったら、まず暴力もふるっているはず。そうなれば、現代ならドメスティック・バイオレンスなどといって、即離婚につながる。文句ひとつ言わず、ただひたすら付き従う女房。これは男の勝手な願望で、まあ、せめて歌の世界なので勘弁してくれというとことだろう。
芸者の唄は数多あるが、芸人、とりわけ落語家が主人公という歌はめずらしい(ほかに知りません)。破天荒で、伝説化している噺家は何人かいるが、やはり流行歌にはなりにくい。ほかの芸人でも「サーカスの唄」(松平晃)と「越後獅子の唄」(美空ひばり)ぐらい。比喩的な「公園の手品師」(フランク永井)などもあるが。

ほかに流行歌の中で「しんき臭い」という言葉が使われていないか、探してみたがみつからなかった。ただ、“じれったい”とか“イライラ”するはあった。どんなワガママ野郎かと思えばなんと女性。そう、そのワガママ女とは中森明菜のこと。「少女A」では“じれったい”を連発しているし、「十戒」では♪限界なんだわ 坊やイライラするわ と超強気。さすが中森明菜の本領発揮、か。


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[照れくさい] [ozolagnia]

 

♪ 海はすてきだな 恋してるからさ
  誰も知らない 真っ赤な恋を
  海がてれてるぜ 白いしぶきあげて
  えくぼのような ゆれる島影

  君はきれいな 海の恋人
  やさしく抱かれて 夢をごらんよ
(「海は恋してる」詞:垣見源一郎、曲:新田和長、歌:ザ・リガニーズ、昭和43年)

「照れくさい」を辞書でひくと〈きまりがわるい。気恥ずかしい。はにかむ〉とある。同じ意味の「照れる」に強調、謙譲の「くさい」をつけたもの。また、使用例として『人前でスピーチするのは照れくさい』とあった。ということは“恥ずかしい”とイコールなのかとも思うが、どうも微妙にちがうようだ。「照れくさい」にはどこか愉悦の感情が入っている。だから、大勢の前で注意されて照れくさいと思う人は少ないだろうが、大勢の前で褒められて照れくさいと思う人はいるはず。
飲み会などで、親友から「コイツは、こう見えても後輩の面倒見はいいんですよ」などと紹介され、「いやあ、照れちゃうなぁ」などと頭を掻いてみせる。これは「照れかくし」。

「海は恋してる」が発売される数年前から、アメリカからやってきたモダン・フォークが日本にも定着し、キングストン・トリオブラザース・フォア、あるいはピーター、ポール&マリーなどをコピーしたグループが誕生している。そのフォークブームが一段落したあたりで、それらがもっていた素朴な民話的な要素、あるいはプロテスト的な要素とは別の、若者の日常(とりわけ恋愛)を歌った歌がつくられるようになった。それがカレッジ・ポップスあるいはカレッジ・フォークで、ザ・リガニーズの「海は恋してる」は、その先鞭をつける歌だった。
カレッジ・ポップスのグループには他に、万里村れいとタイム・セラーズ「今日も夢みる」、キャッスル&ゲイツ「お話し」、フォー・セインツ「小さな日記」、ウエファリング・ストレンジャー「チャペルの鐘の音」、ノイズ・ハミング「青い世界」などがあった。

ザ・リガニーズは洒落で訳せば“ざりがに達”。メンバーは5人で早稲田大学の学生。間奏にややコミカルなセリフが入る。語っているのはメンバーであり作曲者の新田和長。そのセリフといい、曲調といい、「海は恋してる」の雰囲気はどこか、その2年前に発売された加山雄三「君といつまでも」に似ている。意図的かどうかは別として、影響されていることは間違いないようだ。あらためて、加山雄三が日本のポップスに与えた影響の大きさがわかる。
ほかに“照れてる歌”はというと、「てんとう虫のサンバ」(チェリッシュ)、「春夏秋冬」(泉谷しげる)、「勝手にしやがれ」(沢田研二)、「さよなら」(オフコース)、「夏の扉」(松田聖子)、「ハッピーサマーウエディング」(モーニング娘。)などが思いつく。

そういえば、加山雄三が「君といつまでも」を歌うとき、間奏で『幸せだなぁ……』という流行語にまでなったセリフを言う。そして、右の人差し指で鼻の脇を掻く。照れくさそうに。


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[うそ臭い] [ozolagnia]

♪ あんた泣いてんのね 
  だから言ったじゃないの
  港の酒場へ飲みにくる 男なんかの言うことを
  バカネ 本気に 本気にするなんて
  まったくあんたはうぶなのね
  罪なやつだよ 鷗鳥
(「だから言ったじゃないの」詞:松井由利夫、曲:島田逸平、歌:松山恵子、昭和33年)

「うそ臭い」といっても「ほんとう臭い」とは言わないし、「ハズレ臭い」とはいうが「アタリ臭い」とは言わない。つまりこの場合の「臭(くさ)い」は100%ではないが、かなり高い確率で否定的ということ。もちろん「臭い」といっても嗅覚では感じない“ニオイ”のこと。「どうもあいつは犯人臭い」などと使う。「潔白臭い」とは言わない。

何年かに一度は必ず出てくる大型詐欺事件。このご時世に年利率2割だの3割だのという投資話。まんまと騙され、事件発覚首謀者逮捕で戻ってくるお金は、それこそ投資額の2割、3割ならいい方。
わたしも含め、投資する金のない人間は「そんなウマい話があるわきゃないよ」と言う。しかし、騙された人間にしてみれば「分かっちゃいるけどやめられない」ってことかも。そもそも冷静に考えれば法外な利息を確約する投資話などそれこそ[うそ臭い]。そのニオイをいかに消して芳香に変えてしまうかが、ペテン師の腕の見せどころ。だまされるほうだってきっと、はじめはそうした“嘘臭”つまり[うそ臭い]ニオイを感じていたのではないだろうか。それが、ペテン師の術中にはまり「まてよ、これはもしかしたらほんとうかもしれない。いや、この話だけは間違いない」などと思ってくる。
億万歩譲って、もし間違いなく年利3割になるという投資方法があったとする。わたしなら、それを誰にも言わない。かき集められるだけの借金をして投資する。さらにその儲け分も投資しちゃう。なんで見ず知らずの人間がわたしに、そんないい思いをさせてくれるものか。競馬や競輪の必勝法と同じで、そんなものはない。もしあるとしたら、それは“必勝本”などにならず、それを会得した誰かが人知れず馬券車券を買っているはず。

この手の詐欺事件のやっかいな点は、詐欺師たちが[うそ臭さ]を芳香に変えるノウハウを持っているということ。それは、人間の心理をついてくる普遍的なテクニックだ。昭和59年、芸能人まで巻き込んだ「投資ジャーナル」事件、翌60年には詐偽の首謀者がマスコミの目前で右翼を名乗る暴漢に刺殺されるという「豊田商事事件」があった。昨今の詐欺事件には、そうした過去の事件の残党が係わっているケースが少なくないという話もきく。

「だから言ったじゃないの」は男に騙されたホステスを先輩の女がなぐさめているというストーリー。流行歌では騙されるのは女、騙すのは男と決まっている。♪ばかだな ばかだな 騙されちゃって という「新宿の女」(藤圭子)をはじめ、「東京ブルース」(西田佐知子)、「女心の唄」(バーブ佐竹)、「江梨子」(橋幸夫)など、みんなそうである。例外は♪騙したつもりが チョイト騙されて…… という「スーダラ節」(植木等)ぐらい。
「だから言ったじゃないの」の歌詞に出てくる“あんた泣いてんのね”は当時、流行語にもなった。流行語というぐらいなので、この歌のように本気で同情するというよりは、カラカイやジョークとしてつかわれた。当時の子供たちまで泣き虫の同級生に「あんた、泣いてんのネ」などといって、余計に泣かせたりした。

“おけいちゃん”こと松山恵子は、昭和12年、愛媛県宇和島生まれ。昭和29年に当時あったマーキュリーレコード(のちの東芝)の歌謡コンクールで優勝、翌30年に「マドロス娘」でデビュー。「だから言ったじゃないの」のほか、「未練の波止場」、「お別れ公衆電話」、「バックナンバー1050」などのヒット曲がある。明るい笑顔と超特大のスカート、そして右手の白いハンカチが彼女のトレードマークだった。ナツメロ番組の常連だったが、昨年5月に亡くなった。スキャンダルや事故にも見舞われたが息の長い現役歌手だった。彼女の歌を多く作詞した松井由利夫は、ほかに、やはり昨年亡くなった井沢八郎の「男船」「男傘」「北海の満月」の作者。最近では氷川きよし「箱根八里の半次郎」「大井追っかけ音次郎」もてがけている。こちらも息の長い作詞家である。


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[パイプ煙草] [ozolagnia]

♪ 君にもらったこのパイプ 昼の休みに窓辺によれば
  黒いパイプに青空映る
  過ぎし日曜と同じように どこからどこまで晴れた空
  黒いパイプに思い出映る
(「黒いパイプ」詞:サトウハチロー、曲:服部良一、歌:二葉あき子、近江俊郎、昭和21年)

先日、路上で「パイプ」を銜えながら歩いている人を見かけた。30代後半のサラリーマン風で、なんとなくその服装とパイプのバランスがいまひとつ。路上での歩き煙草は条例で禁止されている地域だったが、パイプはいいのかな。それはともかく、その人とはやや離れていたのでパイプ煙草の匂いを嗅ぐことはできなかったのが残念。

20年あまり昔、パイプに手を出したことがあった。きっかけは単純で会社の先輩からすすめられて。彼は古くからのパイプ党で休憩時間はもちろん、仕事中でも銜えていることが多かった。とくに気の合う同僚ではなかったのだが、その匂いと、パイプ片手にくつろぐスタイルに魅かれてご教授を願ったのだ。もうひとつは、紙巻き煙草の量が増えたことの対策でもあった。

誰でもそうだろうが、未知の世界に足を踏み込むのは楽しい。とりわけ若い時は。さっそく、デパートでパイプを買った。パイプもピンキリで、高級品は数十万もするとか。マッカーサー(古い)ご愛用のコーンパイプなら1000円からある。値段は忘れてしまったが、安月給の身分、数千円だったのではないか。パイプを選び方は、フォルムと木目と握り心地とは、同僚のサジェスションだったが、そう言われても。わたしの場合あくまで、値段から入ったのだが。パイプ煙草も同僚が吸っていたアンフォーラという銘柄。臙脂色のパッケージは気に入った。香りはかなりドギツイ。ミルクと珈琲に砂糖をたっぷり混ぜたような甘い香り。もちろん、同僚のパイプから流れてきたその匂いに魅かれていたのだから、他の銘柄に目移りはしなかった。

それから、会社で自宅で、パイプライフを気取っていた。しかし、半年も起たずにパイプは机の抽斗の中で休眠(実は永眠)することになった。とにかく掃除が面倒臭い。それにパイプ煙草で紙巻きが減るかと思ったらまるで変わらない。パイプで一服したあと、口直しにタバコを、という具合。これではパイプ煙草の分だけ不健康になる。そんなわけで、わたしのパイプ人生は極めて短命に終わってしまった。

タバコの出てくる歌は多いが(最近はない)、パイプは極めて少ない。“小道具”としてロマンチックというよりは、どこか年寄りくさく、コミカルだからなのか。
「黒いパイプ」は昭和21年9月というから、敗戦1年後に発売された。今で言う“元カノ”にプレゼントされたパイプに未練が募るという歌謡曲の定番ソング。同じ年の5月に発売された「港に灯りの点る頃」(柴田つる子)では、♪パイプの煙の行方を知らず という歌詞がでてくる。また翌年には「月夜のパイプ」という歌も世に出ている。マッカサーのコーンパイプに触発されたわけでもないだろうが、「パイプ」は終戦直後の歌によくでている。
他では、美空ひばり「ひばりのマドロスさん」(昭和29年)で、♪縞のジャケツのマドロスさんは パイプ喫(ふ)かして あゝ タラップ上る という歌詞もある。マドロスパイプという言葉がある(あった)ように、昔から船乗りにパイプはつきものだった。戦前昭和13年の「夜霧の波止場」(霧島昇)にも♪ 恋もはかないマドロスの パイプの煙だよ さらばさらば とあるように。
マドロスという言葉もあまり聞かれなくなった。元はオランダ語で船乗りのこと。つまりホウレン草大好きのポパイはマドロスなのだ。ただし、彼の銜えているパイプはあきらかにコーンパイプで、クネリと曲がったマドロスパイプではない。
映画で印象に残っているのはジャック・タチ「僕の伯父さん」、「夕陽のガンマン」リー・バン・クリーフのパイプ

わたしにパイプをすすめてくれた職場の先輩。あるとき、嬉しそうな顔で「○○くん、恋をしていますか?」と聞いてきた。キザな言い方にいささかムッとして「いいえ」と答えると。「恋をしなくちゃ」と言って微笑んだ。妻帯者の先輩、どうやら浮気、いや恋をしているらしかった。数日後、彼の奥さんから電話があった。奥さん、わたしと面識もないのにいきなり、先輩の行動を根掘り葉掘り聞いてきた。どうやら浮気、いや恋が発覚したようだ。もちろん、わたしは本当に知らないので「知りません」のいってんばり。
それから数日後、先輩は愛人と共に蒸発した。噂によると相手は外国人の女性だとか。どこかの土地で新しい職場をみつけ、パイプ片手に「△△さん、恋をしてますか? 人間、恋をしなくちゃ」と同僚に言っているような気がした。


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[つつじ] [ozolagnia]

♪ あの娘の代わりに 今年は僕が
  ひとりささげる 霧島つつじ
  なにか言えよと 拳をにぎりゃ
  涙を涙を ありがとう
  日暮の空から 声がする
(「涙をありがとう」詞:関根浩子、曲:米山正夫、歌:西郷輝彦、昭和41年)

今日は久しぶりに晴れて、陽気も暖かかった。
出かける途中のいつもの公園には、つつじとマーガレットとニワトコ(多分)がきれいに咲いていた。そして、藤棚には薄紫の藤の花が。あやうく見逃すところだった。去年は見逃したのだ。
得意先へ行き、エレベーターに乗ったら顔見知りのM氏が乗り込んできた。顔を見合わせて「ようやく晴れましたね」と同じ言葉を同時に。6階までなんとなく気恥ずかしかった。
帰りは途中下車して遅い昼食のラーメンを食べに。相変わらず美味い。店を出て腹ごなしに歩く。ひと駅あるけばつつじで有名な神社がある。そこを通って帰ることに。しかし、神社に着く前に、本当に暗雲がたちこめた。まだ天気は不安定なのだ。あれほど晴れていたのに。ポツリときたところで駅前の小さな古本屋に飛び込む。以前、いちど入ったことのある店だが、わたしにとっては駄本ばかりで、足が向かなかった所だ。それが、雨宿りで入るとは。
店内のレイアウトがいささか変わったようだ。あれれ、私が探していた本がある。神保町でもみつからなかった本だ。それが、汚れもなく定価の三分の一ほどの値段。信じられない僥倖。すぐにその本を小脇にかかえ、もしかしてとわたしは本棚の背文字を目で追い始める。あった! 某専門古本店で数千円していた本が、いささか焼けているが500円。またあった! 昔図書館で借りて、どうしても欲しくなった本が。まさか古本であるとは。……結局1時間あまり古本屋の“洞窟”を探索し、5冊の“獲物”を入手した。
外へ出てみると、雨はすっかり上がり、薄日が差していた。道路のあちこちに大きな水溜まりができている。相当強い雨が降ったのだ。“古本探検”でまるで気づかなかった。こんなこともあるのだな。

雨上がりの神社はそれでもたくさんの人が出ていた。雨を被ったつつじは、なんとも瑞々しい。両側につつじの咲く路を歩くと、雨上がりの若葉の匂いがした。残念ながらつつじは強い香りをもたないので匂わない。それでも高い所に咲く五弁の花びらに顔を近づけると、微かな香りがする。まさしく花の匂いで、控えめでなんとなく床しかった。濃いピンクの花と薄い匂いは30年あまり昔の記憶を呼び起こしてくれる。

大学へ入った初めの年、キャンパスの庭に咲いていた。誰かが「つつじだ」と言っていた。花など全く興味がなく、桜と菊と薔薇ぐらいしか見分けのつかなかったわたしにとって、つつじは何番目かに覚えた花となった。「そうか、桜が散ると、次はつつじなんだ」そう思った。
入学式からオリエンテーションだ健康診断だ、初授業だ、同好会だ、新しい友達だ、とめまぐるしい環境の変化に上気し、足が地に着かない毎日を過ごしていた。それが、キャンパスに咲くつつじに目が止まるようになったのは、きっと、どうにかこうにか落ち着いて来た時期なのだろう。そういう意味で、つつじは桜などよりはるかに現実的な花だと思う。

「つつじ」が出てくる流行歌はほとんど知らない。洋楽ではトリオ・ロス・パンチョスの歌に「つつじの花」というラテンの郷愁たっぷりの歌があるが、邦楽では上にあげた西郷輝彦「涙をありがとう」ぐらい。花なのに華がないのか。最近のポップスはやたらと桜を題材にした歌が多いが、たしかにつつじは桜ほどドラマチックではない。しかし、そんな地味な題材をドラマチックに描くのがプロだと思うのだが。桜なら誰だって……、そんなこともないか。
西郷輝彦は昭和39年、「君だけを」でクラウンレコードからデビュー。橋幸夫、舟木一夫とともに“御三家”と呼ばれたことはよく知られている。他の2人と違い、その後すっかり俳優業をメインとしてしまっている。「星のフラメンコ」「星娘」「願い星叶い星」など浜口庫之助作品は好きだが、ほかでは死んでしまった友達のことを歌う「星空のあいつ」もよかった。そういえば、「涙をありがとう」も死んだ兄貴のことを歌っている。死んだのが恋人や妹ではなく同性というのがなんとなくなんとなく。

つつじの花を求めて途中下車し、ささやかだが思いがけない幸運にでくわした一日だった。


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[りんご] [ozolagnia]


In the Garden of Eden a long time ago
There was born a story I'm sure you all know
I'm sure you remember, I know you believe
The story of Adam and Eve
…………
There within the garden walls
They both fell in love
Sheltered by the guiding hand
Of the one above
Life was filled with happiness
Until one day arose
A very great temptation
Well, you know how it goes
([ADAM AND EVE]words, music and vocal by PAUL ANKA, 1960)

久しぶりにりんごを剥いて食べてみた。酸味がほどよく美味かった。
それにしても、以前はあれほどよく食べていたリンゴをすっかり食べなくなってしまった。果物の種類が増えたことが原因だろうが、みかんは変わらずによく食べている。とすると、りんごは常食するほど美味しくはないのか。そうではなく、あの皮を剥くという作業が面倒になってしまっているのではないか。たいした時間ではないのだが。

リンゴのあの酸っぱい味覚と、薄い香りはなかなかいい。あれはリンゴ酸の味であり匂いだという。ただ、リンゴジュースとなると、なんだかドギツすぎる。あの匂いは香料の匂いだという。そもそもリンゴジュースやオレンジジュースの味は、ほとんど香料の匂いとして感知しているのだそうだ。実際の果汁100%のリンゴジュースとオレンジジュースを飲み比べると、ほとんどその違いがわからないとか。それぞれへ、それぞれの香料を入れてはじめてあの味というか、匂いになるのだそうである。

それこそ「アダムとイブ」の禁断の果実からはじまって、ウイリアム・テル、ニュートンあるいはお伽話・白雪姫のエピソードに使われるほどポピュラーな果物がりんごだった。なんでも石器時代からりんご食用の痕跡があるとか。ヨーロッパでは紀元前からりんごの栽培が行われていた。
気になるのは日本。みかんは紀伊国屋文左衛門で知られるように江戸の“丁髷人”も食していた。ではりんごは。時代劇にも出てこないように、現在のようなりんごが日本に入ってきたのは明治4年だという。それも仕入れ先はなんとアメリカ。輸入された数十種類の品種が全国各地で作付けされ、試行錯誤のすえ寒冷地が適していることが分かり、現在のような信州や東北を中心に栽培されるようになったとか。

戦後、♪赤いリンゴに……から始まって、♪リンゴの花びらが……、♪りんご畑のお月さん今晩は……、♪都へ積み出す真っ赤なリンゴ……、♪りんごの花ほころび……、♪りんごのような赤い頬っぺたのよ……、♪りんご齧っていたあいつ……など、昭和20年代30年代と、流行歌の素材としてよく使われたこと。
40年代以降でも、♪りんごの花が散るころに……、♪りんごかじりながら語り合ったよね……、♪青いリンゴを抱きしめても……、♪窓の外ではリンゴ売り……、♪ひとつのリンゴを君が二つに切る……、♪齧りかけのリンゴを思い切り投げつける……、♪真っ赤なリンゴを頬ばる……、とまあよく出てくる。それだけリンゴのイメージが“男と女の流行歌”むきなのだろう。(ちなみに上記の歌の題名わかりますか?)
これが“みかん”だとそうはいかない。〈窓の外ではみかん売り〉とか〈みかん食べながら語り合ったよね〉なんて、どこかロマンチックじゃない。……話が漫談風になったのでそろそろ終わりに。

上に載せた「アダムとイブの物語」ADAM AND EVEポール・アンカPAUL ANKAの歌。映画の主題歌ということだが、日本では上映されなかった(多分)。歌は昭和37年(1962)に藤木孝によってカヴァーされた。その後、ゴールデン・ハーフもカヴァーしたが両方ともいまひとつ浸透しなかった。原曲はイントロが南佳孝「モンロー・ウォーク」風で、歌い始めはやはり南佳孝の「スタンダード・ナンバー」のサビ部分に似ている。いつだったか、そのイントロ部分がテレビのバラエティー番組から聞こえてきて驚いた。


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