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夏歌①東京五輪音頭 [noisy life]

盆踊り3.jpg

今年は4年に一度のオリンピックイヤー。
オープニング直前ということで新聞・テレビなどの報道も盛り上がってまいりました。(さほどでもないかな)。ロンドンっていうのが微妙。

時差は8時間で、日本が先行だそうなので、たとえば陸上競技の決勝が現地の午後6時に行われるとしたら、日本では午前10時。
平日ならサラリーマンはTV観戦できない。

やっぱり日本人が出場すると盛り上がる。それもメダルの可能性があるとなるとなおさら。
まずは女子のサッカー、そして男女の水泳、陸上ではハンマー投げとヤリ投げの投擲競技。
マラソンはどうかな、レベルは女子のほうが高いけど、入賞できるかどうか。

ほかでは格闘技系。
確実なのが女子レスリングと女子柔道。まぁ、男子もうまくいけばメダル数個。
あと期待をこめてボクシングミドル級の村田。

あとはラッキーボーイ、ラッキーガールが出てくるかもしれない。
前回のフェンシングの太田(今年もでるぞ)のように認知度の低い競技で。たとえばアーチェリーとかライフルとか。

まぁ、買っても負けても拍手拍手で。

で、本題の夏歌。
「東京シリーズ」開催中(勝手にいってる)で、このタイミングなら、もうこの歌しかない。
「東京五輪音頭」三波春夫 昭和38年

もちろん東京でオリンピックが開催されることに合わせてつくられた歌。

東京オリンピックが開催されたのは昭和39(1964)年、いまから48年前。
ほぼ半世紀だもの、えらいむかしに感じるなぁ。それだけ歳をとったということだものなぁ。やんなっちゃうけどしょうがない。

だいぶ記憶が薄れてきたけど、断片的にいろいろなころを覚えています。
そのしばらくまえから、学校の先生が「立ち小便は軽犯罪なんだぞ、だからするんじゃねえぞ」なんて言ってました。まぁ、その後大人も含めて“日本人(男性)の排泄習慣”が改善されたのですから、それはそれで良かったのでしょう。

選手で印象に残っているのは、日本人なら水泳の山中毅、木原美知子、陸上の円谷幸吉、依田郁子、柔道の猪熊功、レスリングの渡辺長武、ボクシングの桜井孝雄……
外国人なら、陸上100メートルのボブ・ヘイズと中距離のビーター・スネル、、マラソンのアベベ・ビキラ、柔道のアントン・ヘーシンク、女子体操のベラ・チャフラフスカとラチニナ、そして重量挙げのジャボチンスキー。
懐かしい面々、半分以上の方々がお亡くなりになって……。そりゃそうだよな、半世紀たったんだから。

今年から導入される女子ボクシングはもちろん、柔道もレスリングもサッカーもすべて女子競技はなかった。そうそうマラソンも男だけだった。
世の中変わった、紅茶にソネット。

そんなことはどうでも。
この東京オリンピック開会式の幕が切って落とされたのが10月10日。
その数か月前の夏、耳タコ状態で聞こえていたのが「東京五輪音頭」。

実は発売されたのが前年、つまり昭和38年の6月ということで、本番の1年間から盆踊りの“メインテーマ”として流れていたのだ。そのことはほとんど覚えていない。

作曲は、日本流行歌の父(母かな)、古賀政男。詞は地方在住の作詞家・宮田隆
なぜ宮田が作詞することになったのかは不明。コンペでもあったのでしょうか。

そして、実はこの“国民的流行歌”、各レコード会社の共作でした。
おそらく多くの人はテイチク盤の三波春夫でしか聴いたことがないのでは。わたしも大きくなって坂本九とパラキン盤(東芝)を聴くまではそう思っていました。

実際は、三橋美智也(キング)、北島三郎&畠山みどり(コロムビア)、橋幸夫(ビクター)など各レコード会社の主力歌手たちがうたっていたのです。
結果はごぞんじのとおり、三波春夫のオリジナル状態、ひとり勝ち。

もちろん、この東京五輪音頭、オリンピックのためにつくられたのですが、あまりのノリのよさからか、その後もしばらく盆踊りの定番ソングとしてつかわれていました。(今でも聞こえてくることがある)

しかし、東京の音頭といえば、戦前から延々と鳴り響いていたロングセラーソングがあります。その名もずばり「東京音頭」です。

東京音頭が誕生したのは昭和8年。その前年につくられた「丸の内音頭」が原型。つくったのは、当時の売れっ子作詞家西條八十「カチューシャの唄」、「東京行進曲」で知られる作曲家中山晋平。

ものの本によりますと、大爆発といいますか、幕末の「ええじゃないか」よろしく各町内で老いも若きも男も女もその年の夏、踊り狂ったと書かれています。

しかし考えてみるとこの「東京音頭」、いわばご当地ソング。はたして、全国の盆踊りで流れていたのでしょうか。大阪や福岡でも櫓をかこんで♪踊り踊るなら チョイト東京音頭 ヨイヨイ とやっていたのでしょうか。

いずれにせよ「東京音頭」が大ブレイクしたことは間違いないようで、その後「福井音頭」、「別府音頭」、「軽井沢音頭」など各地で“音頭ブーム”が起き、あげくのはては「羅府(ロサンゼルス)音頭」までできるしまつ(っていい方はないか)。

翌9年には「東京音頭」で味をしめたレコード会社が今度は中山晋平、佐伯孝夫のコンビで全国版「さくら音頭」で二匹目のナントカを狙いました。

さすがにそれは……、と思いきやなんとレコードは「東京音頭」以上に売れ、それこそ全国各地の盆踊りで踊られたとか。

しかし、不思議なことに現在、いやもっと古くても、たとえば昭和30年代の盆踊りで「東京音頭」はしつこいほど流れていましたが、「さくら音頭」など聞いたことがありませんでした。

なぜ、昭和9年の夏をあれほど席巻した「さくら音頭」は消えてしまったのでしょうか。
その直後からはじまる戦時体制による自粛ムードが影響したのか。はたまた「さくら」というタイトルが、夏向きではなかったり、地域のイヴェントである盆踊りには、あまりにも大風呂敷すぎて長続きしなかったのか。

さくらは散っても「東京音頭」はいまだ夏満開状態です。
きょ年も流れていましたし、ことしも流れることでしょう。

ロンドンオリンピックは今月の25日からはじまります。
盆踊りもそのへんからあちこちではじまるのではないでしょうか。

そして来月の12日、スポーツの祭典は閉会式をむかえます。
盆踊りは、8月の下旬まで続けられることでしょう。
そしてどこかで必ず、今は亡き三波春夫のあのハリのある声を聴くことができるでしょう。
♪ハァ~ あの日ローマで……
って歌詞もいまとなっては懐かしい。


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TOKYO②東京の人 [a landscape]

ザ・ピーナッツ.jpg

「東京人」という雑誌もありますが、そもそも東京人とは東京出身者ばかりでなく、東京で生活する人のこと。住民登録の有無は関係なく。

しかし、地方の学校を卒業し、東京の会社に就職してまだ半年なんて新人が「わたし東京の人間なんです」とはいささかいいにくいのでは。
本人だって、それぞれの出身地を大切にしているだろうし、「口が裂けても東京人なんていわない」なんて人もいるだろうし。
とりわけ、その対極?にある「大阪人」あるいは「関西人」はなおさらでしょう。

しかし、狭い日本、どこで住もうと「ニッポン人」でいいだろうという思いもありますが。

ことさら出身地や居住地の「東京」が強調されるのは、それが首都であり、政治・経済・文化の中心地であり発信地だから。あたりまえだけど。

そもそも東京がビッグシティになったのは、ごぞんじのように徳川幕府が誕生してからで、鄙びた武蔵野の地に全国各地から入居者が殺到し、あっという間に大都市江戸が形成されていったことは小学生でも知っている。

とりわけ商売・経済の中心となった日本橋界隈には畿内からの移住者が多く、彼らは好んで「伊勢屋」、「近江屋」などと出身地を屋号とした。
新天地に就き、旧習にしばられることなく新しい生き方を追求する彼らの生活の中から独自の生活様式や文化が生まれてきます。それがイキだのイナセだのという江戸文化ということになるのでしょう。

ということは、江戸っ子、さらには「東京人」の多くは、元をただせば「畿内人」、大雑把にいえば「関西人」ということになる。
となると、やっぱり「関東だ」「関西だ」という張り合いが滑稽にみえてきます。

とはいえ、ローカリズムをまったく無視することはできないし、以前ほどではないにしても「東京の人」というのは、それ以外の地域の人間からはいささか別格(良い意味ばかりじゃないよ)のイメージがあるようだし、「東京人」本人たちもそのことにプライドを持っている人間が少なくない。とりわけ「東京人」が仕事や遊びで地方へ行ったときそうした意味のない“特権意識”が見え隠れしたり。

もちろん「東京人」でありながら、そうしたプライドのかけらもなく、事情が許せば(これが許さないんだ、なぜか)一刻も早く東京を脱出し、石原閣下に「東京人」を返上したいと思っている人間だっているはずです。わたしのように。

そうしたプライド高き「東京人」の歌、というわけではありませんが、流行歌でうたわれた「東京人」をいくつか。例によって昭和30年代、40年代の旧い歌です。

まずは、お千代さんの泣き節。個人的には昭和30年代を代表する女性シンガーは美空ひばりではなく島倉千代子なのですが。それはともかく。

「東京の人さようなら」 島倉千代子 昭和31年

昭和30年「この世の花」でデビューした島倉千代子の翌年のヒット曲。
「この世の花」同様、同名映画の主題歌。当時からこうした映画とレコードのメディアミックスはあたりまえのことでした。
映画は観ていませんが、ほぼ歌のストーリーをなぞるもので、地元の娘と東京からやってきた青年とのなさぬ仲の物語というわけ。

作曲は戦前から活躍した竹岡信幸。代表曲は「人妻椿」(松平晃)「赤城の子守唄」(東海林太郎)など

作詞は近年亡くなり、このブログでもとりあげた石本美由起

こういう歌や映画がヒットするということは、当時の地方の若い女性にとって「東京人」は憧れの人物像だったのでしょう。
その伝でいえば当時、船乗りあるいはマドロスさんも女性にとっては“夢見る異性”だったのかもしれません。船乗りへの憧憬は“流れ者求愛”に通じる。蛇足ですが。

つぎもやはり、敗戦国日本が復活宣言をした昭和31年の作。

「東京の人」三浦洸一 昭和31年

これも同名映画の主題歌。
ただこちらは川端康成原作という文芸作品。配給は日活。

映画のデータをみてみると監督は西河克己。「青い山脈」、「伊豆の踊子」、「絶唱」と日活青春文芸路線のメイン・ディレクター。
70年代に入って日活が路線変更しても、東宝で山口百恵というヒロインを得て、いくつかのリメイク版をつくっていましたっけ。

歌のほうは吉田正、佐伯孝夫のビクターゴールデンコンビ。
うたったのは28年に「落葉しぐれ」、30年には「弁天小僧」をヒットさせ、ビクターの主力になりつつあった三浦洸一
「東京の人」もヒットしましたが、翌年、ふたたび川端康成の原作である「踊子」をレコーディング。これまた大ヒットに。

派手なアクションや、大げさな表情も用いずに淡々とうたう歌唱は清潔感にあふれたいました。昭和20年代デビューの歌手にはこうしたタイプが少なくなかったような気がします。

また曲もいいけど詞もいい。東京の街は、東京駅(のあったところ)で生まれたという佐伯孝夫が最も得意とする舞台。
3番ある詞の最後の部分は共通で♪しのび泣く 恋に泣く 東京の人 
ですが、それまでの歓楽街を並べた表現から転調しちゃてる。これが序破急の「急」(ウソです)。とにかく意味が通じないのがいまも昔も流行歌。

いずれにしても、辛い恋にしのび泣いているのですから、東京の人は女性(偏見?)。

3つめは、最近亡くなった伊藤エミさんと妹のユミさんの双子デュオ、ザ・ピーナッツの名曲。
「東京の女」 昭和45年

恋をなくして東京をさすらう女の嘆き節。
一人称あるいは三人称の「女」なのだから「ひと」はオカシイダロと思うのですが、まぁ
そこは何度もいうようですが、流行歌なもので。

曲は元のダンナさん沢田研二。詞は「翼をください」、「学生街の喫茶店」山上路夫

沢田研二は自身のアルバム用だけでなく、他の歌手や役者にいくつも曲を提供していますが、ヒットしたというか知られているのはこの「東京の女」とアン・ルイス「ラ・セゾン」ぐらい。
ザ・ピーナッツは、同じ年に橋本淳・中村泰士作の「大阪の女」もうたって、バランスをとっている?。

ところで「東京の女」、「大阪の女」とも「おんな」ではなく「ひと」と読ませますが、いまはどうかしらないが、ひところとても流行った。

よく知られているのは北島三郎「函館の女」、「薩摩の女」、「加賀の女」、「博多の女」などの「女(ひと)シリーズ」。
もっとも古いのが「函館の女」で昭和40年。
ではこれがはじめかというとそうでもない。

その2年前の昭和38年に春日八郎「長崎の女(ひと)」をうたっている。ご当地ソングが名称はともかく、いわれはじめたのもこのころからじゃなかったか。

最後にオマケで歌詞に「東京のひと」が出てくるこの歌を。
そういえばザ・ピーナッツにもそれと同名異曲のすばらしい歌がありましたっけ。


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TOKYO①ずばり東京 [a landscape]

霞ヶ関交差点から議事堂.jpg

ちょっと(どころじゃないな)前のことですが、新聞に紙面の4割あまりをさいて「東京ソング」のことを取りあげていた。

なんでもJポップで「東京こんぴ」という「東京」というタイトルの歌を集めたコンピレーションアルバム が発売されたことがキッカケになったようだ。
その「東京コンピ」にはくるりをはじめ、サニーデイ・サービス、BEGINなど13曲の「東京」が入っているとか。

で、さらにその記事によると、「東京」あるいは「TOKYO」という楽曲がJSRAC(日本音楽著作権協会)には260曲あまり登録されているのだとか。
さらにさらに、「東京~」とか「~東京」のようにタイトルの一部に「東京」、「TOKYO」の入る楽曲は2000を超すのだそうだ。
もちろん、“ご当地ソング”ということでいえばダントツの日本最多になる。

さらにいえば、「有楽町で逢いましょう」をはじめ「浅草姉妹」、「あゝ上野駅」、「コモエスタ赤坂」、「新宿育ち」、「池袋の夜」、「六本木心中」、「たそがれの銀座」など、これみな東京ソングです。

さらにさらにいえば、かの「神田川」だって「アメリカ橋」だって「一本道」だって「恋の山手線」だって「別れても好きな人」だってみ~な東京の歌。

思い起こせば(大げさですが)、ラジオとレコードによって流行歌というものが巷にながれはじめた昭和初年、一大ヒット曲となったのが佐藤千夜子うたうところの「東京行進曲」でした。
それからどれだけ東京ソングがうたわれてきたことか。

そんなこんなでここしばらくは、いつかやろうと思っていた東京の歌をとびとびにでも。

第一回めはすばり「東京」
つまり、前述した260あまりあるという頭も尻尾もない「東京」をタイトルとした歌。

「すばり東京」といえばそういう題名の開高健のルポルタージュがありました。
昭和38年から東京五輪が開催された39年の秋までのさまざまな「東京」の断面を切り取った取材記事でした。
深夜喫茶、トルコ風呂といった風俗から新時代の象徴東京タワー、戦争の残香しみつく上野駅などなど、豊かさを求めてスピードアップしていく当時の日本、日本人(あるいは東京、東京人)の姿が描かれていました。

閉塞状況の現代にあって、約半世紀前の“己が姿”をみることにどんな意味があるのかははかり知れませんが、それは紛うことなく、われわれの父母あるいは祖父がつくり、平成24年の東京のベースになっている街ではありました。

またまた脱線模様なので急ブレーキをかけ右折してメインストリートへ。

ずばり「東京」の1曲目。

「東京」マイ・ペース 
フォークソングというのか、ニューミュージックというのか、とにかく政治の季節が終わってメッセージソングは後退し、「LOVE & PEACE」という流行歌の王道が主流になっていた時代、昭和49年(1974)のヒット曲。

東京に住む彼女と地方の彼との遠距離恋愛をうたったものでしょう。
それは昭和30年代の「お月さん今晩は」「僕は泣いちっち」とほとんど変わらない恋愛ゲーム。10年じゃ変わらないか。

現在はそれからさらに40年近く経っている。
完全に変わった、と思うな。なんだかしらないけど恋愛のスピード感がまるで違うような。それに濃度がなんとなく希薄なようで。
それが平成の恋ってやつか。21世紀の愛ってやつか。そうかもな。

とにかく著名なミュージシャンは「東京」を作りたがり、うたいたがる。
松山千春、さだまさし、桑田佳祐、矢沢永吉、浜田省吾、長渕剛、福山雅治みんなそうだもんね。みんな地方出身。それぞれ、東京への想いが違っておもしろい。

そんななかから1曲、というか2曲しか聴いたことがないので、そのうちの1曲

「東京」矢沢永吉
お得意のラブソングというか、クールな失恋ソング。
聴いたことのあるもう1曲は桑田佳祐で、この2曲ともどこか昭和40年代の歌謡曲のニオイがします。
どちらも東京ナイトが描かれていますが、雨の降っている桑田ヴァージョンのほうがより、歌謡曲っぽい。でも好きなのはカッコつけすぎのYAZAWAワールド。

矢沢永吉は平成5年、桑田佳祐は平成14年の歌。

さいごの3曲目も平成5年の歌を。

「東京」やしきたかじん
これは詞というか、設定がユニーク。
大阪の女が、かつての恋人が生まれた街・東京を彼氏とダブらせてうたう女歌。

多分かつて東京の新小岩(なんで?)あたりで同棲してたんでしょうね、彼女。
なんとなく、そんな気がして。じゃなかったら祐天寺とか。発想が滅裂。

でもこういう詞は当事者(女性)にしか書けない。
実際作詞家は女性の及川眠子(ねこ)。
寡作だけれど、ほかにはWINK「淋しい熱帯魚」、「愛が止まらない」のヒット曲があります。
また、中森明菜「原始、女性は太陽だった」なんてうたもありました。
平塚らいてふの「元始、女性は太陽であった」をもじったのでしょうが、想像力の貧しいわたしは「原始」と聞いて、ピテカントロプスペキネシスを連想してしまいました。

それはさておき、さいごになりましたが、ザ・ピーナツ伊藤エミさんの訃報。
ショックでしたね。
多くの50代、60代の方々同様、わたしもテレビの「シャボン玉ホリデー」や「ザ・ヒットパレード」を見て、「悲しき16才」「恋のバカンス」を聴いて育ったんですから。
今回は間に合いませんでしたが、いつかきっと「感情的かつ偏執ピーナッツ・ワールド」をこのブログで。

そういえばピーナッツにもずばりではありませんが「東京」の歌がありました。
ヒット曲といえばなんといっても「ウナ・セラ・ディ東京」でしょうが、ジュリーのつくった「東京の女」ともどもそこここで流れているでしょうから、ここではあまり聴く機会のない「東京ブルー・レイン」(作詩:有馬三恵子、作曲:鈴木淳)で、伊藤エミさんのご冥福をお祈りしたいと思います。


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THANK YOU FOR SPLENDID SONGS [day by day]

都電の踏切町屋②.jpg

今日、6月10日は「路面電車の日」だそうだ。
日本初の路面電車が6月10日に走ったのかな、と思ったらそうではない。

日本の路面電車の嚆矢は京都電気鉄道で、明治28年の2月1日に開業している。
なぜ6.10なのかと思ったら、なんのことはない「路電」だから「6」(ろく)、「10」(てん)だって。笑点のシャレよりも笑えない(スミマセン笑点の師匠連さま)。

東京で唯一残っている路面電車が三ノ輪と早稲田を結ぶ都営荒川線。
久しく乗っていません。あの鉄道は、忙しないときや急いでいるときはだめ。気持ちに余裕があるときに乗るもの。
ということは、ここしばらく心に余裕がないということになる。嗚呼。

そうそう、路面電車の話ではなかった。
今日6月10日は、わたしの好きな流行歌の作曲家3人の命日なのです。
で、彼らの作品をYOU-TUBE(でなくてもいいけど)で聴き、在りし日を偲ぼうという趣向。いざ。

まずは、古賀政男、服部良一とともに昭和の三大作曲家といわれる吉田正。平成10年に亡くなっています。

吉田正といえば、元祖ムード歌謡といえる存在。
モダンで時流に乗ったメロディーラインで昭和30年代の都会のナイトライフやラヴアフェアーを再現してみせました。
ほかにも「いつでも夢を」に代表されるような明朗な青春歌謡や、「潮来笠」をはじめとした昔ながらの“股旅もの”も。器用ですね。

吉田正のデビューは「異国の丘」で、そのドラマチックな登場はウィキペディアでも見ていただくとして、ビッグヒットに結び付かなかった昭和20年代の作品を聴くと、歌謡曲の王道だった「古賀メロディー」のシッポが残っています。

それが昭和30年代に入って独自の吉田メロディーを確立していったのは、やはり戦後、洪水のように日本に入ってきたジャズ、シャンソン、ラテンなどの影響があったからではないでしょうか。

このブログでも頻繁にとりあげる吉田メロディーですが、今回は男女のデュエットを3曲。

デュエットといえば「東京ナイトクラブ」(フランク永井、松尾和子)「いつでも夢を」(橋幸夫、吉永小百合)が双璧でしょうが、今回はそれらをパス。

で、まず一曲目は「若い二人の心斎橋」(三田明、吉永小百合)
“吉田学校”の門下生・吉永小百合の相手役といえば、当時のビクターの若大将・橋幸夫ですが、ナンバー2の三田明にもこの歌や「明日は咲こう花咲こう」がある。
作詞は吉田メロディーに欠かせない相棒・佐伯孝夫
東京生まれでほとんど東京の街を書いていた佐伯にとって珍しく関西を舞台にした昭和39年の歌。

もうひとつ青春歌謡のデュエットを。
やはり39年に発売された「恋旅行」(久保浩、小川知子)
当時吉田正が凝っていたアメリアッチのリズム歌謡。昭和43年「ゆうべの秘密」でブレイクする小川知子の東芝に移籍する前のビクターでの吹き込み。
これも作詞は佐伯孝夫で「有楽町で逢いましょう」同様、企業(小田急鉄道)とのタイアップで作られた。この話は以前やりましたので、詳細は割愛。

3曲目は、もう少し大人の雰囲気で。お得意のムード歌謡。
女性が松尾和子というと、相手はフランク永井といいたいところですが、前述したように毎度毎度なもので、今回、和子さんに浮気してもらって、違う相手と。
「FA(エールフランス)機が呼んでいる」(松尾和子、藤田功)

昭和36年の作品ですが、なぜエールフランスなのでしょうか。
羽田への乗り入れはもう少し前に完了してますし、小田急同様タイアップだったのかも。外国ブランドがカッコイイといのは今も昔もです。

松尾和子の相手役の藤田功はのちに「夢は夜ひらく」を作曲(採譜)した曽根幸明の歌手時代のステージネーム。若い頃は不良だったようで、最近亡くなった安岡力也をビビらせたという芸能界最強伝説が残っている。

2人目は演歌。平成5年に亡くなった猪俣公章。55歳という若さで。

福島県出身で、その訛りになんとも愛嬌がありました。
上京して名門・開成高校から第二志望の東大医学部をめざしたが、古賀政男に弟子入りして、無事第一志望の作曲家になったとか。
古賀政男の弟子として、自分から頼んで大作曲家の楽譜の整理をしたとか。それが作曲家・猪俣公章のどれほどの“栄養剤”になったことか。

とにかく明朗闊達な性格で、酒と女と(バクチはポリシーでやらなかったと)演歌をこよなく愛したとその自伝に書いてあります。

作家として2曲目の「女のためいき」(昭和41年)が初ヒット。森進一のデビュー曲。
その3年後、初のミリオンセラーとなったのが「港町ブルース」

♪背のびしてみる 海峡を

ではじまる名作。作詞の深津武志は当時よくあった雑誌「平凡」の読者作詞コンクールの入選者。なかにし礼が補作詞している。

猪俣の死後、かれがよく通った銀座のクラブ「姫」の元ママであった作家の山口洋子が「背のびしてみる海峡を」というタイトルの本の中で彼の評伝を書いている。

山口洋子は作家になる前、作詞家として活躍したが、それをすすめたのが猪俣公章。ふたりが組んだヒット曲に「噂の女」(内山田洋とクール・ファイブ)、「一度だけなら」(野村将樹)がある。
なんでも、猪俣と山口洋子は遠い親戚にあたるのだとか。

その翌年に書いたのが藤圭子「女のブルース」
前年、「新宿の女」で衝撃的なデビューをした「不幸な少女」藤圭子の第二弾。

作詞は藤の師匠の石坂まさお
四行詩で一番は♪女ですもの が4度び繰り返される印象的な詞は猪俣が出したアイデア。前作を上回るヒットとなり、本格的な藤圭子ブームとなった。

昭和40年代後半からはじまったのが天地真理南沙織、小柳ルミ子に代表されるアイドル歌謡。曲調は演歌というよりポップスだが、猪俣にもそんな路線の依頼が。

デビュー曲が散々だった香港の新人、テレサ・テンの本邦二曲目。
猪俣いわく「コニー・フランシスの線」(そうかな?)という「空港」は大ヒット。
その後、4年あまりの間に、テレサのために数曲書いたがまったくヒットしなかった。そのうちテレサが、レコード会社を変わってしまい、ふたたび猪俣と組むことはなかった。

ほかにも水原弘、五木ひろし、弟子の坂本冬実、マルシアなどにヒット曲を提供していますが、もうひと方とりあげなければならないので、また後日ということで。

最後は中村八大。平成4年、61歳でした。もう20年、早いもんです。

中村八大もこのブログでは“相棒”だった永六輔ともども、何度もふれてきましたし、曲もとりあげてきました。

もはや聴きあきたという感もなきにしもあらずですが、今回はしぼってNHKTV「夢で逢いましょう」の「今月のうた」で紹介された八大・六輔作品を三つピックアップしてみます

かのコーナーから生まれた名曲といえば、唯一ワールドワイドでヒットした日本の流行歌「上を向いて歩こう」(坂本九)ほか、レコード大賞獲得の「こんにちは赤ちゃん」(梓みちよ)、「遠くへ行きたい」(ジェリー藤尾)「ウェディング・ドレス」(九重佑三子)などがありますが、今回こうしたヒット曲はパス。ここではあまりとりあげる機会のなかった名曲を。では。

「故郷のように」(西田佐知子)
西田佐知子が八・六作品をうたうなんて、こうした企画ならではでしょう。
彼女のノンビブラートの澄んだ声がこの曲にふさわしい。
この曲はマーチなので、曲調が似ているというわけではないですが、なぜか彼女の「エリカの花散るとき」を連想してしまいます。

「若い涙」(ジャニーズ)
いずみたく
「太陽のあいつ」と並ぶ初代ジャニーズの名曲です。

もくろんだわけではないですが、これもマーチ。
曲を聴いているだけで、ステージで躍動していた4人の姿が彷彿としてきます。

いまだ勢い衰えないジャニーズグループですが、この初代ジャニーズやフォーリーブスが暗黙の了解のごとく“無視”されているのは、なにか違和感が。
一部のメンバーとのトラブルが原因なのでしょうが、やっぱり大芸能プロダクションの歴史なのですから、元メンバーとしてテレビやイベントに出てきてもいいような気がしますが。

「芽生えて、そして」(越路吹雪)
これも名曲です。
残念ながら越路吹雪盤のYOU-TUBEがなかったので、菅原洋一盤で。
今となっては菅原盤で聴いたことのある音楽ファンのほうが多いかもしれませんが。

永六輔の詞は、愛は愛でもどちらかというと“人間愛”といったイメージが強いのですが、この歌はまごうことなき男女の愛。
永さんのラヴソングとしてはこの歌がベストではないでしょうか。

それにしても改めて感じるのは、中村八大という作曲家のスゴさ。
幅が広いというのか、奥行きが深いというのか。たいしたエンターテイナーです。

今回もずいぶん長くなってしまいました。
それにしても三者三様の作曲家。彼らの遺してくれた流行歌はわたしにとって死ぬまでエヴァグリーン。(あたりまえだね)
でも、うらやましいですね、肉体は滅んでも彼らの創造したものがわたしをはじめ多くの他人を楽しませてくれるのですから。
最後お三方にこういいたい。 Thank you for splendid songs.


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三つの歌●ラテン歌謡曲 [day by day]

浜口庫之助.jpg

先日、スカイツリーがオープンした夜、40年来の友人2人と久々に会い、楽しい時間を過ごしました。

もうこの歳になると、つき合いで呑むのはいやだ。気をつかいながら呑むのはいやだ。

やっぱりお互いの長短を知り合った気の置けない同輩と呑むのがいちばん。
そうなるとどうしても相手は限られてしまう。それでもいいんだ。

しかし今考えると、タイムリーなスカイツリーの話、その少し前の天体ショーの話はおろか、原発再起動から消費税UPからAKBから、NOWな話は何ひとつ話題にならなかった。完全に時代から取り残された還暦越えの3人でした。

それはともかく、そのうちのひとりが無類の歌謡曲好き。
その日も、
「いま、サイコーなんが『夜明けのブルース』、五木ひろしのな。知らないの? 今度聴いてみろよ、ワイルドだぜ」
などとのたまっておりました。

とにかく学生の頃、われわれがやれ「吉田拓郎」だ、「井上陽水」だとほざいているなか、
♪コモエスタ セニョー コモエスタ セニョリータ
とうたっていた男なのですから。

その「コモエスタ赤坂」は昭和43年、ロス・インディオスによってうたわれた曲。
ロス・インディオスといえばいまは亡きシルヴィアをまじえての「別れても好きな人」が知られていますが、グループ名からもわかるとおりもともとはラテン音楽を中心にしたバンド。

メンバーで、やはり惜しくも亡くなったチコ本間さんはアルパの第一人者だった。たしか「八月の濡れた砂」のバックでアンニュイ感を漂わしていたアルパの音色は、チコさんによるものだったと。

そうなんです、昭和30年代から40年代にかけて、ロス・インディオスやロス・プリモスあるいは東京ロマンチカなどのラテン系のバンドが歌謡界に進出して、ビッグヒットをとばすというシーンが何度かありました。
そしてそうしたラテンテーストの歌謡曲はムード歌謡などと呼ばれていました。

そもそも日本に最初に入ってきたラテン音楽、ラテンリズムはタンゴで、これは本場アルゼンチンからではなく、フランス、ドイツなどヨーロッパ経由(日本限定でコンチネンタル・タンゴなどといってました)。
そして日本のタンゴ・シンガーといえば関種子。昭和6年の日本初のタンゴ調歌謡曲「日本橋から」「雨に咲く花」などをうたっています。

また1930年前後には世界的にルンバが流行り、歌謡曲でも由利あけみ「ルンバ東京」「長崎ルンバ」、「広東ルムバ」などが嵐の前ののどかな日本の繁華街に流れていましたっけ(見てきたような……)。

というようにラテン風歌謡曲は戦前からつくられていましたが、今回は戦後限定で比較的ポピュラーな3曲をピックアップしてみました。

戦後のラテンといえばまずマンボ。
昭和でいうと24年ごろメキシコ、アメリカで流行り始め、26年には日本に上陸、翌27年にはかの「お祭りマンボ」(美空ひばり)がヒットします。

しかしマンボがさらにブームとなるのは昭和30年代にはいってから。
31年には創始者のひとりであるペレス・プラドが来日。
そんななかでヒットした和製マンボが、
東京アンナ(歌:大津美子、曲:渡久地政信、詞:藤間哲郎)

豊橋市出身の大津美子は「東海のひばり」と呼ばれるほど少女時代からの歌上手で、作曲家の渡久地政信について昭和30年、キングレコードからデビュー。そのとき17歳。
「東京アンナ」は第二弾。
当時かなりヒットしたようで、実現しませんでしたが、アメリカのアーサ・キットがこの歌を聴いて、ぜひ共演したいといったとか。

マンボではじまった戦後昭和のラテン歌謡は、30年代に殷賑を極めます。
それは都会調歌謡曲、そしてムード歌謡と呼ばれるようになります。
その中心にいたのが作曲家の吉田正

彼のヒット曲で、いまだデュエット曲の定番になっている「東京ナイトクラブ」(歌:フランク永井、松尾和子、詞:佐伯孝夫、昭和34年)もスローマンボ。
そしてその翌年にやはり吉田、佐伯、フランク永井のトリオでヒットしたのが、

「東京カチート」
当時、日本でも人気だったナット・キングコール「キサス・キサス・キサス」「グリーン・アイズ」などのラテンポップスをヒットさせていました。そのひとつが「カチート」。
そこからヒントを得て吉田正がつくったのがこの「東京カチート」。

ラテンのリズムに歌謡曲の旋律が融合して典型的なラテン歌謡になっています。
また、「もはや銀座じゃないだろう」と、赤坂をロケーションとした佐伯孝夫の先見性。このあと「赤坂」はムード歌謡の聖地となっていきます。

吉田正といえばラテン歌謡曲の代名詞のような存在ですが、もうひとりラテン歌謡曲を語るうえで欠かせない作曲家がいます。それが浜口庫之助

浜口庫之助、通称ハマクラさんは、戦前からラテンやハワイアンのバンドマンを生業としていて、戦後はラテンバンドを率いると同時に、ソロ歌手としても昭和28年から3年連続でNHK紅白歌合戦に出場しています。
紅白ではいずれも洋楽をうたっていますが、29年には「セントルイス・ブルース・マンボ」というスゴイ歌をうたっている。
残念ながら聴いたことはないが、まぁ、「セントルイス・ブルース」をマンボにアレンジしちゃったのでしょう。(あたりまえだよ)

作曲家に転向したのは34年、その第一作の「黄色いサクランボ」(スリー・キャッツ)は大ヒット。子供だったわたしも訳もわからず「わーかいむすめは うっふん」などと真似ていましたっけ。
これもまさにラテンの匂いのする一曲。

その後、「僕は泣いちっち」、「バラが咲いた」、「夕陽が泣いている」、「星のフラメンコ」、「涙くんさよなら」、「夜霧よ今夜も有難う」などヒット曲を連発していきますが、なかでもラテン歌謡にふさわしいと思う一曲は、
粋な別れ(歌:石原裕次郎)

裕次郎のオリジナルはイントロをはじめとして聞こえるリズムがリズムの宝庫、キューバの「ソン」のよう。かの「タブー」などもそうですね。
では、オマケにボサノヴァにアレンジしたハマクラさん自身の歌も。

裕次郎の名曲でもありますが、ハマクラさん屈指の傑作だと思っております。
和風の無常観を想起させる詞ですが、これまた「粋」という和風の言葉を合わせることでダンディズムさえ感じてしまいます。
「和洋折衷」にこころがけたハマクラさんにふさわしいラテン風味の歌謡曲。

さいごになりましたが、また愛すべきシンガーが亡くなりました。
尾崎紀世彦さん。カントリー出身ということもあり親近感がありました。
70歳前とは、未練が残ったでしょうね、残念です。

尾崎さんを偲んで彼の歌を2曲。
まずは、今回のブログに合わせて最もラテンぽいカヴァー曲、スペイン産の「太陽は燃えている」

もう1曲は、彼の原点、GSのワンダース時代の歌を。
「マサチューセッツ」や「ロック天国」といった洋楽や「白いブランコ」、「風」といった和製フォークのカヴァーをうたっていましたが、数少ないオリジナルからYOU-TUBEにあった「赤い花びら」を。
昭和43年の楽曲で、橋本淳―筒美京平のゴールデンコンビ作。

尾崎さんのご冥福をお祈りいたします。


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三つの歌●ラテンJポップス [day by day]

チューブA.jpg

ダルビッシュはスゴイ。
開幕から早くも6勝。順調にいけばシーズン20勝はいきますね。

テレビで見ていて、日本でのときほどの圧倒的な球の威力は感じられないけど、変化球はいいし、なによりも強運。

あとは今日は負けたけどヤンキースの黒田もローテ入りで頑張ってる。今年は少し防御率がよくないけど。

新人では青木も川崎も岩隈もいまひとつだなぁ。青木、川崎はなかなかチャンスがめぐってこないのが気の毒。とりわけ青木は常時使ってもらえれば、いい成績残すと思うんだけど。
岩隈は中継ぎで実績をあげつつあるので、しばらくは中継ぎ、抑えでいくしかないかも。

そう考えると鳴り物入りで入り、その期待に応えているダルビッシュはたいしたもんです。

イチローも去年今年と、年齢による衰えのようなものを感じちゃう。当然だよね。12年間ケガもせず、ほぼ出ずっぱりでプレイしてきたんだから。もはや記録にも記憶にも残るメジャーリーガーになったのだから、あとはいつ引退するのかなんて余計なこと考えてしまったり。やめどきがむずかしいね、あのくらいの大打者になると。

松井はどんなんでしょうか。
個人的には誰よりも好きなプレイヤーですが、果たしてレイズでメジャーに上がれるかな。
上がってもレギュラーはキビシイかもしれないな。
すべてはあのヤンキース時代の左手首骨折から歯車が狂っちゃた。
あれさえなかったならシーズン40ホーマーも……、なんて考えてもしょうがないけど。
しかし、アスリートにとってケガはほんとにコワイ。

とにかく今年はダルビッシュを見ているだけでメジャーはおもしろい。毎回の記者会見もクールで自己分析が巧みでいいね。

ブログの「まくら」をスポーツにしたわけではないけど、今回もそんな話になってしまいました。まぁ無難ですし。

今回は前回の続きで、調子に乗って日本のラテン味の歌を3曲ピックアップしてみました。
まずはポップス、すなわちJポップで。

最近のJポップはチンプンカンプンですが、ちょっと(どころじゃないかもしれない)前のならいくらか耳に残っている。

ただラテン系といっても、前もふれましたがスローなボサノヴァやボレーロもありまして、たとえばボサノヴァなら丸山圭子「どうぞこのまま」とか、森山良子「雨上がりのサンバ」とか、ズバリ研ナオコ「ボサノバ」などがありますが、今回はもうすこしノリのよいサンバ系をポップ、じゃなくてホップ、ステップ、ジャンプの勢いでYOU-TUBEにつないでみたいと思います。

さよならイエスタデイ(TUBE)
チューブといえば「夏歌キング」ですが、ひところラテン系、とりわけサンバ系の歌も意図的にうたっていました。「あー夏休み」とか「純情」とか「花火」とか「恋してムーチョ」とか。
その代表的な歌がサンバのアレンジの「さよならイエスタデイ」。「あー夏休み」の翌年、1991年発売。

チューブについてさほど詳しいわけではありませんが、この「さよならイエスタデイ」はいわゆる「女歌」。ほかにあるのかな女歌が。

とにかく情熱的な歌で、ヒロインは彼と別れてから「数え切れない男と夜をともにして……」というからいま話題の二股男か、三又又造かといくらいスゴイというかコワイ女。

輪舞曲 (松任谷由美)
ユーミンも時々ラテン系をやらかしてくれます。
「真夏の夜の夢」がそうだし、「埠頭を渡る風」もそんな感じです。

そんななかでもモロ、サンバのリズムをつかっているのが「輪舞曲/ロンド」。
1995年発売で、ユーミン27枚目のシングルだそうです。

輪舞曲(ロンド)がラテンというわけではなく、ロンドとは音楽の形式(詳細はウィキペディアあたりで)のこと。
ザ・ピーナッツの名曲「恋のロンド」はラテン系じゃないものね。

この歌はどうやら結婚披露パーティで、踊る幸福な花嫁(不幸な花嫁っているのかな、いるな、多分)の心情をうたっているようで、そのダンスがサンバなのかどうかは不明。

キ・サ・ラ恋人(石川セリ)
さいごは1984年のこの曲を。

曲の冒頭からしばらくはそうな風でもないけど、サビから曲調がガラっと変わっていきなりラテン調に。ルンバフラメンコっていうんでしょうか、よくジプシーキングスで聴けるようなリズム。ポルノグラフティ「アゲハ蝶」もそう。

なんでもサントリーのコマーシャルソングだったでそうですが、80年代というのはもっともテレビを見ず、音楽を聴かずの時代でしたので記憶にありません。
なので「キ・サ・ラ恋人」を聴いたのは、たしかその後、石川セリのベスト盤か何かで。

その曲と詞を書いたのがかしぶち哲郎。
「はちみつぱい」から「ムーンライダース」のドラマーとして在籍していて、中原理恵をはじめアイドルシンガーにたくさんの曲を提供しています。

石川セリはいわずもがなの井上陽水夫人。
というよりわれわれの年代にとってはデビュー曲の「八月の濡れた砂」のカリスマシンガーという印象。
エキゾチックな顔とつぶやくような歌唱が印象的でした(まだ現役だよ)。
個人的には70年代の「ガラスの女」や、そのB面の「うしろ姿」をよく聴きましたっけ。

そのうち石川セリ、石川ひとみ、石川さゆり、石川秀美、石川進などなどで「その名は●石川」なんてやってみようかな。

余談はさておき、ここまできたら次回は「ラテン歌謡曲」をやらねば。
いつになることやら、ですが。


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三つの歌●ラテン・ポップス [day by day]

S・スティルス.jpg

オリンピックが近づいております。
今年からの新種目、女子ボクシングは注目してます。

何度かテレビで試合を見ましたが、馬鹿にしていたわけじゃないけど、そのレベルの高さにびっくり。アマもプロも。

ただ「しずちゃんフィーバー」は疑問。
前回のアジア大会で韓国の高校生(彼女は優勝はおろかメダルさえ獲っていない)に一蹴されてもまだマスコミの熱さめやまずだもの。

五輪出場の条件が世界選手権ベスト8だそうだけど、なんでも世界各国から40人とか50人とかがエントリーしているらしく、まず無理だろうなぁ。勝負の世界だから何が起こるかわからない、とはいえ。まだフライ級の箕輪選手(彼女は強い)のほうが可能性がある。

あたりまえだけど試合というのは相手があるもので、何人ぐらいが出場するのかとか、どういう強豪がいるのか、という重要な情報はいっさい無視して、ひたすらしずちゃん情報だけを流し続けるテレビ、新聞。少なくともまともなスポーツの情報じゃないね。まさに芸能情報のノリだもの。

ふだん地味なアマチュアボクシング連盟は、これぞ宣伝のチャンスとばかり、そうした「芸能報道」(大手新聞社まで)にのっかっちゃった。賢いね。

ようやく終焉した「猫ひろしフィーバー」もそうだけど、マスコミはなんで実力の伴わない選手を話題づくりのためだけに「いざ、オリンピックへ」などと大げさに煽り騒ぐのかなぁ。これらの騒動を苦々しく思っているアスリートは少なくないと思うんだけど。

と、まぁ軽~くジャブでウォームアップしておいて、いざ本番の音楽へ。

前々回、三つの歌として「ラテン・ジャズ」をやりましたが、これがすべて演奏のみ、ヴォーカルなし。
「どこが歌なんや」とセルフツッコミをしつつ、失地回復をと再びラテンを。

まぁひとくちにラテンといいましても、サンバやサルサなどの激しいリズムのものから、情熱的なタンゴやルンバ、郷愁的なボサノヴァやボレーロ、あるいはフォークロアなど幅広いのですが、あくまでアレンジと雰囲気を重視しつつ、今回はポップスで三つ選んでみました。

コパカバーナCopacabana(バリー・マニロウ)

1978年のヒット曲。日本でもそこそこ流れていました。
コパカバーナはブラジルはリオにあるリゾートビーチらしい(当然いったことがない)が、この歌にうたわれている「コパカバーナ」はニューヨークのナイトクラブのこと。

そういえば日本にも昔、赤坂にナイトクラブ、コパカバーナがあった。
日本人で、のちにインドネシアの大統領夫人になったデヴィ夫人が勤めていたことでも知られている。

ストーリーは恋に落ちた踊子のローラとバーテンダーのトニーの悲しき恋の物語。
銃声がしたり、クラブが血の海になったりと、ノリのいい歌にしてはけっこう凄惨。

スウェイSway(マイケル・ブーブレ)

キューバ生れのチャ・チャ・チャをベースにメキシコで生まれた「キエン・セラ」が本歌。
1950年代に、ポップスにアレンジされて、ディーン・マーチンローズマリー・クルーニーらによって知られるようになった。

日本では昭和30年代のラテンブームで、トリオ・ロス・パンチョスなどがうたっていたおなじみの曲。したがって「スウェイ」というよりは「キエン・セラ」のほうが通りがいい。
日本盤もアイ・ジョージ、坂本スミ子はもちろん、水原弘ザ・ピーナッツ、新しいところでは(でもないか)小野リサで聴ける。小林旭「キエンセラ・ツイスト」なんてのもある。

近年では映画、アメリカ版「シャル・ウィ・ダンス」でプッシーキャッツ・ドールズPussycat dolls がうたっていたようだし(観てません)、カナダのマイケル・ブーブレもファーストアルバムに入れていました。

パナマ Panama(スティーヴン・スティルス)

これは前のふたつにくらべるとかなりマイナーな歌。
スティーブン・スティルスはロックファンにはいうまでもないだろうが、バッファロー・スプリングフィールドから、デヴィッド・クロスビー、グラハム・ナッシュと組んだCS&N、さらにはニール・ヤングを加えたCSN&Yで活躍したロッカー。

この歌「パナマ」は、アメリカの少年が異境の地パナマで初体験をするというストーリー。いつもながらフランク・ザッパというか、大雑把な説明。

スティルス自身、父親の仕事の関係で子どもの頃パナマに住んでいたというから、実話なのかもしれない。

パナマはご存じのとおり、北米と南米をつなぐ、パナマ運河のある国で、音楽事情はなじみがありませんが、ペレス・プラードやトリオ・ロス・パンチョスなどで日本でも知られているボレーロ、「ある恋の物語」Historia de un amorはパナマ産。

「パナマ」はギタリストでもあるスティルスの音楽性の幅広さを感じさせるノスタルジックなフェヴァリットソング。

やっぱりラテンはいいなぁ。
日本人のラテン好きは戦前のタンゴブーム(ドイツ経由が多かったけど)まで遡る。
となればやっぱり、日本のラテン系、つまりラテンJポップやラテン歌謡曲なんかも聴いてみたい気がしてきました。


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三つの歌●春風はブルーグラスにのって [day by day]

フラット&スクラッグスA.jpg

まだまだ春は続いております。
ここんところ上着を脱ぎたくなるような暑さ。
あの、うだるようなジトジト盛夏を予感させるような季節です。

思い返せば、去年のいまごろは何をしても虚しいような気がして、心穏やかならぬ日々が続いておりました。
1年前よりは安楽な時間を過ごせているとはいえ、やはり不安は解消されることはありません。

放射能はいまだ出続けているでしょうし、のど元過ぎればなんとやらで、一時ひろがった脱原発の風潮もいささか退潮ぎみで、再稼働やむなしという世論は静かに確実にふえつづけています。いいのかな。

わたしには、広島、長崎、第五福竜丸、そして福島と、チェルノブイリを除けば例がないほど放射能にいためつけられてきた日本が、持ち前の順応性によってまたも放射能のリスクを受け入れようとしている姿は、まるで“集団自殺”のように見えるのですが。

そうそう、こんなことを書くつもりではありませんでした。
ついつい愚痴が……。

どんな厭なことがあっても音楽はそれをひととき忘れさせてくれます。
現実逃避だろうが、アヘンだろうがかまわない。
やがて時がくればいやでも現実に向き合わなくてはならないのですから、暫しリッスン・トゥ・ザ・ミュージックで。

もういちど言います。まだ春が続いております。
春風にのって聴こえてくるのはブルーグラス

なんでブルーグラスが春なのか。
まぁ、能書きをいえば、あの軽快な音楽はこれから盛りに向かうシーズン、春にふさわしい。そもそも「ブルーグラス」、青草という言葉が春ではないですか。

それに以前「春風はブルーグラスにのって」という本を読んだこともありまして。やっぱりブルーグラスは夏でも秋でも冬でもなく、春なのです。

というわけで、ブルーグラスのフェヴァリットソングの2012年限定版で3曲ばかりお耳汚しをしてみたいと思います。

まずオープニングはいかにもという曲。
ブルーグラスのなかに「ブレイクダウン」というのがあります。
早弾きってことです。バンジョーだろうがフィドルだろうが、マンドリンだろうがとにかく演奏がめまぐるしいのです。

その代表的な曲が「フォギー・マウンテン・ブレイクダウン」Foggy Mountain Breakdown。
これはブルーグラスに興味がなくても知っている人が多い。

1960年代のアメリカン・ニューシネマ「俺たちに明日はない」につかわれていました。
ただこれは以前とりあげましたので今日はパス。

もうひとつブルーグラスのコンサートで頻繁に演奏されるブレイクダウンナンバーがあります。それが「オレンジ・ブロッサム・スペシャル」。Orange Blossom Special

♪みかんの花が咲いていた
というのはノスタルジックな日本の童謡ですが、こちらの「オレンジの花」号は列車のこと。
「フォギー・マウンテン・ブレイクダウン」はバンジョーが中心ですが、こちらはフィドルが主役。
ということはブレイクダウンではなくて、ボウダウンになるのかな。
ほとんどインストで聴かせる曲ですが、歌詞もあり、その「オレンジの花」号には“オイラのいい人”が乗っている。だからもっとスピードをあげてやって来い、というわけ。

トラディショナルソングで多くのプレイヤーが演ってますが、やはりビル・モンローと彼のブルーグラス・ボーイズBill Monroe and His Bluegrass Boysの印象が強い。

きょうはヴェッサー・クレメンツVassar Clements をはじめトップクラスのフィドラーが終結したYOU-TUBEで。

続いて2曲目はこれも古い歌で、
「ディム・ライツ・シック・スモーク」Dim Lights, Thick Smoke and Loud Loud Music

フラット&スクラッグスFlatt & Scruggs が知られていますが、はじめて聴いたのは、バック・ライアンとスミッティ・アーヴィンBuck Ryan & Smitty Irvin盤。
バックはフィドラーで、スミッティはバンジョー奏者。

歌の内容は、紫煙たちこめ、カントリーミュージックが響き渡るホンキートンクに入り浸る男の話。
仕事が終わると、きまって酒場に足が向かってしまう。そして毎日ドンチャン騒ぎ、これじゃ嫁さんも来ないし、家庭なんて持てるはずはない。でもやめられねぇんだな、こんな生活が。この気持ち、アンタに分かるかな? わかんねぇだろうなぁ。
なんて話。

フラット&スクラッグス盤はペーソスあふれたバラード。しかしバック&スミッティのほうはもう少しテンポが軽快で、YOU-TUBEにはなかったけれど、こんな感じ
そういえば、カントリーロックのグラム・パーソンズGram Parsonsでも聴いたことがありました。

とにかくブルーグラスのなかでも哀愁たっぷりの好きな曲。

最後は、これまたブルーグラスでは有名な曲。
「転がり込むんだあの娘の腕に」Rollin' My Sweet Babys Arms

ブルーグラスのナンバーというよりカントリーの定番といったほうがふさわしい曲で、それこそレオン・ラッセルバック・オウエンスなども演っている。
「恋人の腕に抱かれて」なんて邦題もあるようで。
はじめて聴いたのはニュー・ロスト・シティ・ランブラーズThe New Lost City Ramblers 。

スタンレー・ブラザーズThe Stanley Brothers のラルフRalph Stanley の作(トラディショナルという説も)。
こちらも汽車が出てくる歌で、フィドルが見せ場をつくります。

恋人がやってきたら、きっとうれしくって抱きついちゃうよ、と汽車を待ちわびている男の歌。
しかし、彼女の両親からひどく嫌われているというありがちな設定で、結局自分はヘマを打って牢屋入り、その格子越しに他の男と歩いている彼女を見るという最悪の結末。

もはや何度もでてきましたが、最後にもう一度アール・スクラッグスEarl Scruggsを偲んで、ドク・ワトソンDoc Watsonとリッキー・スキャッグスRicky Skaggsを加えたスーパートリオで。


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その名は●ニーナ [the name]

 ニーナ・シモン.jpg
♪小雨降れば ひとり待つニーナ
 なにも聞かず 読みかけの本を
 捨てて抱き合った おまえの肌
 ニーナ 素顔がきれいだ
 夜の風をこわがった ニーナ
 ひとつ灯残し あの部屋で
 おまえの気持ちは 甘くくずれ
 ニーナ 泣いたよ
 ………………
(「追憶」詞:安井かずみ、曲:加瀬邦彦、歌:沢田研二、昭和49年)

上に歌詞の一部をのせた「追憶」は、以前やりました「その名は●安井かずみ」でもふれましたが、安井、加瀬、沢田の作詞家、作曲家、歌手がそれぞれもっとも充実していた頃の歌。(音だけのYOU-TUBEを使いたかったのですが、CMが長すぎるのでバツ。追憶にニノ・ロータの「若者のすべて」をからませるのはおもしろい。Cobaのアイデアでしょうか。でもすぐに消されるなこの画像)

気をとりなおして。しかし、安井かずみさんはどこから「ニーナ」をもってきたのでしょうか。

ニーナNINAという名前は元はロシアでつかわれていたアンANNEの愛称で、その後、米英をはじめ、フランス、ドイツでもつかわれるようになったとか。

そこからヒントを得たかどうかは不明ですが、「ニーナ」といって思いつくのは唯一ニーナ・シモンNINA SIMONE。ジャズシンガーでありピアニストでもあった。

ニーナ・シモンは1933年の2月21日、アメリカはノースカロライナで生まれた。
そして2003年の4月21日、つまり“今日”、フランスで亡くなっている。

ニーナ・シモンというのはステージネームで、本名にはニーナもシモンも入っていない。
なんでもシモンはフランスの大女優シモーヌ・シニョレからとったそうだ。
かんじんのニーナのほう子どもの頃の愛称(小さいという意味があるらしい)。

詳しく知りたい方はウィキペディアでどうぞ。日本で自伝も発売されたが、もはや絶版のようで古書はかなり高額。

そんなわけで今日はニーナ・シモンの歌のいくつかで偲びたいと思います。

「行かないで」Ne me quitte pas
ジャック・ブレル Jacques Brelが1959年にヒットさせたシャンソン。
ニーナは亡くなる数年前からフランスで活動をしていた。
フランスだって人種差別はあるけれど、黒人にとってアメリカよりははるからに暮らしやすい国なのかもしれない。ジョセフィン・ベイカーもそうだし、たしかアーサ・キットも一時フランスで歌っていましたっけ。
この歌は[If You Go Away]のタイトルでシャーリー・バッシー、グレン・キャンベル、ブレンダ・リー、アンディ・ウィリアムスなどなどがうたっていた。

「悲しき願い」Don't Let Me Be Misunderstood
日本の洋楽ファンがこの曲を知ったのはおそらく1965年のアニマルズのヒットによって。わたしもそう。日本ではタカオ・カンベ(網走番外地の作詞者のひとり)の名訳で尾藤イサオがカヴァー。そして70年代後半にはサンタ・エスメラルダのダンスチューンでリヴァイバルされました。
しかし、オリジナルはニーナ。1964年のこと。
ニーナがうたうとたんなる失恋ソングには聞こえない。黒人であること、さらには人間であることの悲しみが滲み出てくる。

「朝日のあたる家」The House of  The Rising Sun
これまた日本ではアニマルズで有名になった曲。
元々はアメリカのトラディショナルソングで、当初はウディ・ガスリーはじめ多くのフォーキーたちにうたわれた。
日本では「朝日楼」のタイトルの浅川マキのカヴァーが有名。そのカヴァーである、ちあきなおみもいい。
YOU-TUBEのニーナはわたしのもっているCDとは違うヴァージョンで、こちらのほうがよりプリミティヴな叫びのような気がする。スゴイ。

「ミシシッピー・ガッデム」Mississippi Goddam
キング牧師の影響で公民権運動、黒人解放運動にたずさわったニーナ。
多くのプロテストソングをうたったが、その代表的な歌がこれ。
テネシーでのキング牧師暗殺、そしてアラバマやミシシッピーでおこった黒人および公民権運動家たちの受難を糾弾し、最後に「くたばれ!ミシシッピー」と。
沈鬱なバラードではなく、ノリのよいピアノの弾き語りで、ときにはシャウトする、戦闘的なニーナがいい。

「ジン・ハウス・ブルース」Gin House Blues
「ネェ、お兄さんジンを一杯おごってよ」
という酔っ払いの歌。説明が安易。
これもニーナのバレルハウス・ブギの弾き語り。
この曲も浅川マキがカヴァーしている。やはり日本のソウルフルシンガーとしては共振しますよね、ニーナに。
ニーナを聴き始めたときにハマった曲。

「禁断の果実」Forbidden Fruits
ニーナ・シモンを聴き始めたのは、若い頃、友人からLPレコード(アルバムなんていわなかった)を借りてから。だいたいこのパターンが多い。そのLPが「禁断の果実」。
アルバムタイトルのこの歌が第一曲目(もはやレコードがないので多分)で、その声と歌唱に圧倒された。
禁断の果実とはイヴが食べてエデンの園を追われることになった「りんご」のこと。
つまりアダムとイヴの物語。
この歌を聴くと、アダム&イヴの発祥はアフリカではないか、と思ってしまう。

「奇妙な果実」Strange Fruit
果実といえばもう一曲、有名な歌がありました。
ビリー・ホリデーBilly Holidayの「奇妙な果実」。
ジャズファンならごぞんじのとおり、「奇妙な果実」でうたわれている果実は木にたわわに実ったフルーツではなく、木の枝からロープで吊り下げられた人間(黒人)のこと。
その当時「奇妙な果実」はアメリカ南部では見慣れた風景だとうたわれている。
その歌を公民権運動に身を置いたニーナもうたっている。
この歌はおそらく白人にはまずカヴァーできない。そんな奇妙な歌でもある。

しかし、ニーナの歌を聴いていると、「白人も黒人もない、みんな人間なんだ。人間ってなんて素晴らしいんだ……」って聞こえてくる。だからうたっちゃおう、
♪ニーナ ニーナ にんげんってニーナ……

…………ぶちこわしですか。


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三つの歌●春宵はラテン・ジャズにひたって [day by day]

レイ・ブライアント.jpg

ようやく暖かくなってきました。
とはいえ、朝晩いまだにストーブを点火しているのはわたしだけでしょうか。

しかし昼間の暖かさといったら、たいして良いことがなくても思わず頬がほころびるほど。

そんな心のどこかに余裕といいますか、無為な時間を受け入れる間隙ができたとき、音楽を聴きたくなります。

仕事を早めに切り上げ、夕食までにはいささか間のある薄暮。やっぱり音楽を聴こう。
では何を。

季節と関係があるのか否かはわかりませんが、時々あるジャンルの音楽を無性に聴きたくなることがあります。
それはたいがい、そのジャンルをしばらく聴いていなかったから。

で、今日ふと聴きたくなったのはラテン
サンバ、ソン、ボレロ、タンゴ、フォルクローレ、ルンバフラメンコ……。
……そうだな、ラテンもいいけどジャズもいい。
やっぱりモダンジャズ、いやスイングでもデキシーでも。

そうだ、いっそのこと「ラテン・ジャズ」なら1粒で2度おいしいかも。

ラテン・ジャズはラテンの名曲をジャズのアレンジで演奏したり、ジャズの名曲をラテン風味で演奏したり、はたまたラテンの味付けでつくられたジャズソング(その反対も)だったりといろいろ。
いまでもいうのかどうか知りませんが、アフロ・キューバンなんていったり。

数あるラテン・ジャズではありますが、本日の気分で選んだ3曲を。もちろんいずれもフェヴァリットソングではあります。

まず1曲目は、「クバノ・チャント」Cubano chant

オスカー・ピーターソンOscar Peterson をはじめいろいろなピアニストが演ってますが、作者でもあるレイ・ブライアントRay Bryant盤を。

1972年のモントルーで、オスカー・ピーターソンの代役としてこの「クバノ・チャント」をソロで聴かせ、いわゆるメジャーデビューしたのがレイ・ブライアント。

「クバノ・チャント」はアルバム「コン・アルマ」Con Alma の中の1曲。
アルバム・タイトルにもなっている「コン・アルマ」が「クバノ・チャント」か迷いましたが、やはり自作ということで後者を選択しました。ちなみにコン・アルマはアフロ・キューバンを代表するひとりディジー・ガレスピーDizzy Gillespie の作。

2曲目は「ブルー・ボッサ」Blue Bossa。
これも1950年代のアフロ・キューバンを支えたトランペッター、ケニー・ドーハムKenny Dorham の作。
演奏としてはテナーサックスのジョー・ヘンダーソンJoe Hendersonで知られていますが、やっぱり春は? ピアノで聴きたい。

レイ・ブライアントも演っていてこれもなかなかですが、今回は数年前に亡くなったエディ・ヒギンスEddie Higginsで。
日本でも人気のエディですが、注目されるようになったのは90年代も後半。クセのないところが一般受けした、とも。

日本にもたびたび来ていて、日本人の奥さんがいたこともあるとか。

最期もボサノヴァで。
「リカード・ボサノヴァ」Ricado Bossa Nova。

これは日本でもかなり人気の一曲。このブログでも前に紹介しました。

日本ではまずイーディ・ゴーメEydie Gormeのヴォーカル(タイトルは「ギフト」The Gift )
で知られるように。
印象的なマイナー・チューンは、ブラジルのイタマラ・コーラックスIthamara Koorax、や日本の真梨邑ケイで聴いたことがあります。

演奏ではテナーのハンク・モブレーHank Mobleyがブルー・ノートの「ディッピン」Dippin' に収録しています。
個人的にはオルガンのワルター・ワンダレーWalter Wanderley 盤がポップでGOOD。なんでも渡辺貞夫との共演もあるとか。
そのほかバーニー・ケッセルBarney Kesselのギターもよく聴きました。

今回選んだYOU-TUBEもそのギターが聴ける一曲。
演っている「プリマベーラ・ラテン・ジャズ・バンド」Primavera Latin Jazz Band はよく知りませんが、2009年にアメリカ西海岸で結成されたとか。なかなか聴きやすくてごきげんです。
この曲は「TOCANDO JUNTOS」というアルバムの1曲で、ほかに「キャラヴァン」や「ベサメムーチョ」などが入っているようです。

ラテンを取り入れているのはジャズだけじゃありません。
日本のJポップでもそうですし、かつてのニューミュージックにもそうした楽曲がありました。さらにいえば音楽最先端ではもはや「昭和の遺物」視されている歌謡曲だってそう。

ラテン歌謡曲とはいいませんでしたが、ムード歌謡なんていってました。

このブログでも以前「ムード歌謡」をやりました。
そのキッカケとなりその頃全盛をほこっていたのがムーディ勝山氏。

あれから案の定(失礼……)、人気は凋落。
先日ブラウン管(じゃないっつーの)で久々に見ました。
おそらく新たなギャグで「夢よもう一度」という心境なのでしょう。

もともと顔が濃いのですから、いっそのことラテン系の漫才でも漫談でもやったらどうでしょうか。
すぐに踊っちゃうとか、「チャラチャッチャ チャラッチャ」を「キエンセラ」の旋律でやるとか。まぁ、とにかくラテン系で。

でも、ウケなければラテン系どころか流転系になっちゃうし、そしたらこんどこそお笑いをやめてガテン系にでも再就職しなくてはならなくなるかも。


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春の歌●花鳥風月〈後篇〉 [noisy life]

北国の春.jpg

今回は花鳥風月の後半? 「風」「月」

まずはじめは「風」。
春の風といえば「そよ風」があります。
桜吹雪などは、風と花びらが織りなす芸術です。まさに花鳥風月の世界。

しかし、「春の風」も「そよ風」もすでにこのブログではやってしまっておりまして。
仕方がないので今回は「南風」で。

「南風」が吹く歌はそこそこあります。

すぐ口に出てくるのが
♪あゝ今年も 南の風に 誘われて来たよ
という歌いだしの「あなただけを」(あおい輝彦)

ほかでは、
♪あー 私の恋は 南の風に乗って走るわ 「青い珊瑚礁」(松田聖子)
とか、
♪南風受けながら 生まれたままの姿で 「街角トワイライト」(シャネルズ)
なんてのもありました。

また、
♪どこへ行くのかあの船の なびく煙も南風 「情熱のルンバ」(高峰三枝子)
とか、
♪はなれ小島に 南の風が 吹けば春来る 花の香便り 「喜びも悲しみも幾歳月」(若山彰)
なんて昭和20年代、30年代の歌謡曲クラシックもありました。

しかし、これらの「南風」は、なんとなく暖かすぎる。どちらかというと初夏もしくは夏盛りといった印象。

で、もっとも春にふさわしい「南風」といえば、
♪白樺 青空 南風 「北国の春」(千昌夫)

昭和52年の望郷歌で、「星影のワルツ」とともにベストセラーソング。
どちらも曲は千昌夫の恩師・遠藤実
亡くなりましたが、ほんとに旋律で昭和・日本人の金銭を、いや琴線をくすぐるのがうまかった。

「北国の春」の作詞は遠藤実の弟子のいではく
いではくが遠藤実と組んだもうひとつのビッグ・ヒットといえば杉良太郎「すきま風」。春じゃないけど。どちらもいきなりブレイクというよりは、時間をかけて世間に浸透した歌。

そういえば「いで―遠藤」コンビでは「北国の春」の4年後に小柳ルミ子がうたった「春風」という曲もありました。

そして花鳥風月のさいご、「月」。

「月」は「太陽」とともに流行歌の定番キーワードでして、それだけうたわれることも多い。
ところが、太陽が文字どおり「陽」で月が「陰」ということから、暗いというか物哀しい歌がおおく、およそ春のイメージからはかけ離れている。

そうしたことからただ「月」といえば俳句では秋の季語。
したがって春は「朧月」かストレートに「春の月」。

しかし「朧月」は何年か前の「春の歌」でこれまた“消化済み”(もうネタ切れだ)。
となると「春の月」。これが意外とない。

そのフレーズを求めて流行歌を掘り下げていくこと幾星霜なんて。やっとみつけました。
それも80有余年の流行歌の歴史の底の底で。

日本初のレコード歌手といえば佐藤千夜子
その千夜子が昭和4年に大ヒットさせたのが
♪昔恋しい銀座の柳 粋な年増をだれが知ろ
のうたいだしで知られる(ほとんど知られてないか)「東京行進曲」

「春の月」が出てくる歌はそのB面にあった。
それが「紅屋の娘」
♪紅屋で娘の云うことにゃ さの云うことにゃ
 春のお月さま薄曇り とさいさい薄曇り

しかしこのレコードをリアルタイムで聴いた人など、ほとんどいないだろう。
「これが月がでてくる春の歌だ!」というにはいささか気が引ける。
やっぱり少しはどこかで聴いたことのある歌のほうがいい。

それならば、
♪月がとっても青いから 遠回りして帰ろ 「月がとって青いから」(菅原都々子)
のほうが。
すずかけの並木路を好きな彼と腕を組んで歩いた思い出。
1分1秒でも彼といたいから、わざわざ遠回りしてゆっくり家路をたどる。
冬じゃ寒くてのんびり歩いてなんかいられない。
まぁ、夏かもしれないけど、青い月というのがなんとなく春のような。旋律も春らしい、いかにも。

でなかったらこんなのも。
♪りんご畑のお月さん今晩は 噂を聞いたら教えておくれよな 「お月さん今晩は」藤島桓夫
都会へ行ってしまったあの娘に思いをはせる男の歌。そりゃ追いかけて自分も都会へ行きたいけど、リンゴ園のあと取りの身としては許されない。

だから誰もいない夜のリンゴ畑で彼女のことを偲んでみる。
未練ですね。可哀そうですねえ。

この歌は世に出たのが昭和32年、その2年後にはやはり東京へ出ていった恋人が忘れられない「僕は泣いちっち」(守屋浩)がヒットしました。

その前なら、都へ行くのは男、女は陰で泣く。と相場は決まっていました。
それがこの頃から逆転現象が起き始めてきたのでしょうか。

そんなことはどうでも、とにかく夜のリンゴ畑に佇めるのはあたたかくなってから。
“あの娘”は中学を卒業してから東京の工場へ働きにいった(勝手な妄想)。ならばやっぱり時は春じゃないでしょうか。

とまぁ、いささかこじつけめいてしましましたが。
上のふたつの歌も好きな歌ですが、さらなる愛聴歌で春の月を思わせるのが初恋&失恋ソングの「乙女のワルツ」(伊藤咲子)
♪月が上がる小道を 泣いて帰った

そのあとに♪白く咲いてる 野の花を と続くようにやっぱり春よ春。
でも、うたっているのが「ひまわり娘」なので夏っていう線も。
しかし、ワルツが似合うのは太陽より月、夏よりも春、じゃないでしょうか……。


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春の歌●花鳥風月〈前篇〉 [noisy life]

伊東きよ子.jpg

相変わらずの出遅れですが、今年も四季をめでながら春の歌を紹介していきたいと思います。それにしても昨日汗ばむくらい暖かだったのに、今日はなんて肌寒いことか。

今回は「花鳥風月」。パチンコ台ではありません。
われわれの風雅な心を刺激してくれるニッポンの自然や生きものたち。

その四文字熟語を四分割してしまおうという乱暴な話。さらにそれを2つずつに分けて前後篇にするという風情のなさ。まさに、このブログにふさわしい。

まずは「花」。
春の花といえばもちろん「桜」、ですがぁ。
もはや、盛りは杉並木。遅きに失した感があります。

ほかの春の花といえば……。
最近公園でみかけたのは、木蓮に花海棠、乙女椿に早めの躑躅などなど。

歌にありそうなのは「椿」だけど、そうなるとなにか演歌限定みたいに。

で、少し早いかもしれないけれど、先取りという意味で「りんごの花」なんぞいかがでしょう。
♪赤いリンゴに くちびるよせて……
♪りんごの木の下で 明日また逢いましょ

なんていう「りんご」ではなく、「りんごの花」。
花びらは五弁で、色は白やうす桃。5月以降に咲くようです。

♪リンゴの花びらが 風に散ったよな
「リンゴ追分」(美空ひばり)でしょうか、代表的な歌は。

ほかには昭和30年代後半から40年代にかけて「林檎の花咲く町」(高石かつ枝)とか「りんごの花が咲いていた」(佐々木新一)なんて歌もありました。

しかし今回とりあげたいのは「りんごの花咲く頃」(伊東きよ子)

一時はかのニュー・クリスティ・ミンストレルズにも在籍したという伊東きよ子。代表曲は「花とおじさん」ハマクラさんの名曲ですね。

引退してどうしているんでしょうか。ナツメロ番組でも見かけませんし。ナツメロ番組に出ないということは逆にいえば、今が満ち足りているってことかも。
いや、出てる人が満ち足りてないっていうわけではないのですけど。

ソングライティングはすぎやまこういち橋本淳のGSゴールデンコンビ。
「モナリザの微笑み」などタイガースの一連の曲や、ヴィレッジシーンガーズ「亜麻色の髪の乙女」などヒット曲あまた。

先日亡くなった安岡力也さんがいたシャープホークス「遠い渚」もこのコンビ。

伊東きよ子は他では、そのすぎやまこういちが寺山修司と組んだ「涙のびんづめ」とか荒木一郎が作った「あなたと暮らしたい」など、いい歌がありました。

続いては「鳥」。

春の鳥といえば「春告鳥」、すなわちウグイスのこと。
さだまさしにはズバリ「春告鳥」がありますし、山口百恵には「しなやかに歌って」や「春爛漫」の入っているアルバム「春告鳥」が。

でも、今回とりあげるのは「惜春鳥」(若山彰)
「またか」という声が聞こえてきそうなぐらい何度もとりあげていますが、ひるまず今回も。

この拙ブロも、はじめてからなんだかんだと丸6年が過ぎました。
長くやっているということは、それだけ過去ログが堆積するということでもありまして、つもりつもって700有余。
おかげさんで、今週早々にアクセス数も大台にのる勢いです。ありがたいことだと思いますし、励みにしております。

その700あまりの記事のうち最もアクセス数が多いのが4年前の「春の歌」でアップした「惜春鳥」。ダントツに多くて、2位の倍以上という飛びぬけ方。
ほぼ、毎日のように閲覧されている方々がいらっしゃって、あらためてこの歌のファンが多いことに驚きます。

昭和34年に封切られた松竹映画「惜春鳥」(木下惠介監督)の主題歌。
監督自身が詞を書き、曲は弟で音楽担当の木下忠司
映画は会津若松を舞台にした若者群像。芸者に扮した有馬稲子が粋で綺麗でした。あたりまえですが、哀しきストーリーと合うんだまた、この歌が。

歌っているのはやはり木下監督の「喜びも悲しみも幾歳月」の同名主題歌をうたった若山彰。
「惜春鳥」はいくつかのヴァージョンがあるようで、個人的にはタンバリンを使ったロシア民謡風のアレンジが気に入っています。

若山彰以外では声楽家の藍川由美が木下忠司作品のカバーアルバムの中でうたっています。当然ですがクラシカルな歌唱で、それはそれでよろしいようで。

木下惠介監督は平成10年に亡くなられましたが、弟の忠司氏はいまだ健在で、ちょうど1年ほど前、清里に住んでいらっしゃると新聞が写真つきで報じていました。1916年生れだそうです。

ところで日本を象徴する花といえば桜に菊。
別に法律で制定されているわけではないようですが、春と秋を代表する花で、妥当でしょう。

では鳥、つまり国鳥は。
まぁご存じの方もいると思いますがこれがキジなんです。
理由は昔ばなし「桃太郎」に出てくるから。なんてことはありませんが、古文献に出てくるような古い鳥ではあるのです。

しかし、花の桜や菊にくらべて、いささか親しみがないというか、まず見かけない。
個人的にもキジはいまひとつピンとこない。
まぁ、好きな鳥といえば……、孤高のハヤブサとか美しいツルとか、昔よく松の木に群れていたシラサギだとか……。
でも、いちばん好きなのはやっぱりニワトリかな、それもよく焼けたヤツね。


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三つの歌●小学校 [day by day]

桜.jpg

♪ 子供の頃に 小学校で
  ヨイトマケの子供 きたない子供と
  いじめぬかれて はやされて
  くやし涙に くれながら
  泣いて帰った 道すがら
  母ちゃんのはたらく とこを見た
  母ちゃんのはたらく とこを見た
(「ヨイトマケの唄」作詞、作曲、歌:美輪明宏、昭和41年)

ようやく春らしくなってまいりました。

きょうは暖かかった。
午前中、出かけて駅へ行くと長蛇の列。

そうだ、きょうから新学期なのだ。
みんな定期を買うために並んでいるのだ。
なかには母親同伴の女の子、いや男の子もいた。

この行列は、用事をすませて戻って来た午後になっても続いていました。

それと昼下がり、小学校の前を通りました。
校門の前に多くの父兄と、胸に名札をつけた新入生が集まっておりました。
そうだ、入学式なのだ。入学式がとどこおりなく終ったところなのだ。

校庭に目をやるとみごとに開花した桜が。
この頃まで桜が散らずにあるのはほんとにめずらしい。

新入生と父兄をみて、少しおどろいたことが2つ。
ひとつは1年坊主たちが、みんな私服で男の子は帽子をかぶっていないということ。あたりまえだよね。
でもわれわれの時代は、学帽、白襟の制服、セミブーツというのが相場だった。堅苦しかったなぁ、靴なんて1日はいてそれっきりだった。

もうひとつは付き添いのご両親がとても若いということ。
これもあたりまえ。要はわたしが歳をとったということ。

わたしにもあった小学校の入学式。
そんなことを思い出させてくれた光景でした。

そこで「小学校」が出てくる歌を三つ。

まずは美輪明宏「ヨイトマケの唄」。当時はまだ丸山明宏といっておりました。

たしか当時始まったばかりの、テレビのワイドショーで初めてうたったのではなかったでしょうか。とにかくインパクトのある歌でした。

いまの人に「ヨイトマケ」なんていったってピンとこないでしょう、おそらく。
わたしの子供の頃はたしかにありました。ただ、この歌がうたわれた頃にはほとんど見なくなっていましたが。

この歌の中でうたわれている差別やイジメは、いまでも形は変われどもありますね。子供だからじゃなくて、人間の本質ですかね、でも。

2つ目はデューク・エイセス「おさななじみ」
♪小学校の運動会 君は一等 僕はびり……

六・八コンビの名曲ですね。
数年前から母親の介護のために小中を過ごした「地元」に戻ってきているのですが、まぁ幼なじみに会わないこと。
みんなどこかへ行ってしまったのでしょうか。まぁ、わたしもどこかへ行っていたのですけれど。

それとも、あまりにもお互いに変わり果ててすれ違っても分からなかったりして。
所在のわかるおさななじみもいるのですが、?十年のブランクがあって、わざわざ連絡をとるというのも、ちょっと……。

最後の「小学校」は迷いました。
熊倉一雄「ゲゲゲの鬼太郎」坂上二郎「学校の先生」か……。

どちらも好きな歌ですが、やっぱり洋楽をひとつ。

トム・パクストンTom Paxton がつくって、日本ではピート・シーガーPete Segger で知られるようになった「学校で何を習ったの」What did you learn in school today 。

政治家、指導者ばかりでなく、警察官、教師といった「権力」をも揶揄し、「ドイツと戦って勝利したように、僕らもいつかは……」という反語は強烈な「反戦歌」であり「反体制ソング」。

日本では高石ともや(岡林信康も?)が、
♪学校で何を習ったの かわいいおチビちゃん
とカヴァーしていました。

小学校時代……。
もし戻れるとしたら、こんどこそ先生や親に対して素直になろう、友だちとケンカするのもやめよう、好きだったあの子にしっかり告白しよう。

…………ヤダ、ヤダ。やめたやめた。
双六の振り出しに戻るみたいでイヤダ。
また50年間も人間やるなんて絶対にイヤダ。
誰が小学生になんか戻るものか。


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その名は●サリー [the name]

sally field.jpg

 Going to tell Aunt Mary about Uncle John
 He says he has the blues but he has a lot of fun
 Oh baby, yeah baby
 Whoa baby
 Having me some fun tonight
 Well, long tall Sally has a lot on the ball
 And nobody cares if she's long and tall
 Oh baby, yeah baby
 Whoa baby
 Having me some fun tonight
 ………………
 We're going to have some fun tonight
 Going to have some fun tonight
 We're going to have some fun tonight
 Everything will be all right
 ([LONG TALL SALLY] lylics by E. JOHNSON, music by R. PENNIMAN, vocal by Little Richard, 1956)

ずいぶん間があいてしまいましたが、前回の「サラ」の続きです。

サラSARAH は前回のボブ・ディラン、いやバブ・ダイランの歌でもわかるとおり、限りなく近い日本語表記で示せば「セラ」もしくは「セイラ」。

そのサラ、あるいはセイラの愛称は「サリー」
サリーといえば、そう「魔法使いサリー」といいたいところですが、残念ながら見たことがない。
で、サリーといえば、思い浮かべるのはやっぱり「のっぽのサリー」Long Tall Sally。

初めて聴いたのはビートルズThe Beatles。
もちろんオリジナルはリトル・リチャードLittle Richard。本名のリチャード・ペニマン名で作曲も。

ただ、内容はよくわからない。
のっぽのサリーちゃんのほかに、ジョンとメリーが出てくる。
ジョンとメリーといってもオッサンにオバサン。まぁ、日本でいえば太郎と花子、いやそれはジャック&ベティかな。だったら、武男と浪子じゃ古いし、今日子と次郎とか愛と誠とか……、どっちにしても古いか。

サリーはサチコだろうな、イージーだけど。
なんか逆境のなかを健気に生きていくっておんな。
「赤色エレジー」もだけど、サリー・フィールドのイメージがあるからかな。

「ノーマ・レイ」でのあの女闘士、「プレイス・イン・ザ・ハート」で人生の嵐の中を子供を守りながら必死で生きぬいていく寡婦。
「フォレスト・ガンプ」の母親なんて、よくぞあの“天才”を産み、育てたなって思えるハマリ役でした。

で、話を戻して「のっぽのサリー」。そのサリーとジョンとメリーがどんな関係なのかよく分からないけど、何度もリピートする「今夜は楽しもうぜ」というフレーズだけで十分ノレちゃうというロケンロール。

ロケンロールの古典としてはベスト5に入る名曲です、わたしとしては。

それにしても偉大ですね、このリトル・リチャードとチャック・ベリーは。
この二人がいなかったら、おそらくビートルズもストーンズも……、かもね。

「サリーの歌」はポップスはもちろん、カントリーにもいくつかあるようで。

そんな中から2曲。
1曲目はハンク・コクランHank Cochranやバック・オウエンスBuck Owens、あるいはトリニ・ロペスTrini Lopez がうたっていた「サリーはいい娘」Sally was a good old girl 。

サリーは博愛主義だから、どんな男にも優しく接してくれる。だから男はだれでもサリーを愛している。だけど、女の娘はみなサリーを軽蔑してる。

そんな日本にもいそうな女の娘、それがサリー。

かの「悲しきカンガルー」や「悲しき60歳」のようなノヴェルティ・ソング。
ただ、こちらの結末は「悲しき」ではなくて、大金持ちと結ばれてメデタシメデタシなのですが。
そうそう「悲しき」の2曲は坂本九もうたっていた。彼のオリジナルでいうと「明日があるさ」や「九ちゃんのズンタタッタ」もノヴェルティ・ソングだった。

こういう歌、最近あまり聞きません。なんでかな、オモロイのに。

カントリーのもう1曲はトラディショナルソング。
おまけにインストといういたって地味な曲「サリー・グッディン」Sally Goodin 。

カントリーミュージックのルーツであるアパラチアン、あるいはマウンテン・ミュージックの頃からえんえんと演奏されてきた名曲。
フィドラーやバンジャー(いわないか)なら一度は演りたくなる1曲。

先日亡くなったアール・スクラッグスEarl Scruggs を偲んでもう一度。

と、ここで終るつもりだったのですが、実は大事なサリー、ではなくてサラを忘れていたので、最後に蛇足風にとりあげておこうと思います。

そのサラとは、サラ・カーターSara Carter 。
カントリーファン以外は、それ誰? でしょうね、当然です。

彼女はマウンテン・ミュージックのバイブルともいえ、その後のカントリーやブルーグラス、あるいはフォークソングに多大な影響を与えたカーター・ファミリーThe Carter familyのメンバー。

カーター・ファミリーはA・P・カーター、それにAPの奥さんのサラ、そしてAPの弟の奥さんのメイベルの3人構成。
サラは主にオートハープとヴォーカルを担当。
カーター・ファミリーの特徴のひとつでもあるオートハープは、日本では五つの赤い風船の西岡たかしがつかっていました。

このブログでもたびたび出てきたカーター・ファミリーでして、愛すべき曲は数々ありますが、いままで取り上げなかった(多分)曲を最後に二つほど。

まずは、海に出た船乗りを待ち続ける恋人の歌。
「藍色の海に出た船乗り」Sailor on the deep blue sea
結局、彼の遭難を知り、海へ身を投げてしまうという悲しいストーリー。旋律はどこか「リトル・アニー」に似ている。

もう1曲はこのブログのタイトルにもしているフェヴァリットソング。
「ピクチャー・オン・ザ・ウォール」Picture on the wall

壁にかけられているのは今は亡き母親の写真。
わたしも、最近母親を亡くしまして、その写真を飾っております。飾ってあるのはなぜかキッチンで、そこで食事をするたびに親不孝の数々を詫びております。

なんていささか大げさですが、母親の写真は、仏間よりも主戦場だったキッチンがふさわしかろうと思っただけで。
その写真をながめると「ゴキブリが出るからやだよ」と言ってるようでも。


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その名は●サラ [the name]

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Lullaby of birdland
That's what I always hear, when you sigh
Never in my wordland could there ways to reveal
in a phrase, how I feel
Have you ever heard two turtledoves
Bill and coo when they love
that's the kind of magic music
We make with our lips when we kiss
………………
([LULLABY OF BIRDLAND]lylics by George David Weiss , music by George Shearing,vocal by Sarah Vaughan,1954)

ことしはご存じのようにオリンピックイヤー。
日本でもそろそろ騒がしくなりはじめています。

金メダル至上主義はナショナリズムにつながるから? という考えもありますが、やはり日本人が金メダルを首から下げ、満面の笑みで喜びの言葉を発するシーンはぜひ見てみたい。

しかし今回のロンドンではたしてどれだけの歓喜の場面が期待できるのか。
女子の柔道にレスリング、体操の内村航平そしてサッカーのなでしこジャパンくらいしか思い浮かばない。あとは期待をこめてボクシングミドル級の村田諒太とか。

それよりも大いに期待できるのがウインタースポーツの面々。
残念ながら次の冬季オリンピックは2年後。
今年はシーズンが終わってしまいましたが、もし今年五輪があればいくつもの感激的シーンがみられたのではないでしょうか。

人気のフィギュアスケートには女子の浅田真央、男子は高橋大輔がいるし、スピードスケートなら短距離で男子の加藤条治に長島圭一郎、女子なら高木美帆も期待できる。

モーグルの上村愛子も復調してますし。

ノルディック・複合でも久々に強いアスリートが出てきた。
今季ワールドカップで4勝した渡部暁斗。

またジャンプでもまた強い日本がみられそう。
伊東大貴がやはりワールドカップで今季4勝をマークしました。

さらに、その伊東より驚かされるのが女子の高梨沙羅
中学3年生、15歳というのだからスゴイ。
ワールドカップは1勝でしたが、まさにシルバーメダルコレクター。年齢からいってもナンバーワンになるのは時間の問題じゃないでしょうか。無事にすごせれば、2年後のオリンピックでの金メダルの可能性はかなり高いのでは。

体格は小柄で、ジャンプでは長身のほうが有利といわれていますが、それでいてあの成績。飛距離は問題なく、課題はテレマークとか飛形という技術面だといわれていますが、年齢、キャリアを考えれば、レベルアップしていくのは間違いない。

こういう天才アスリートが何年、いや何十年に一度は出てきますね。
先日のニュースで学校での彼女の様子が映されていましたが、学友の話によると学業の成績も優秀だとか。

で、その高梨沙羅を抑えてワールドカップでひとり勝ちしていたのがアメリカのサラ・ヘンドリクソン。よく話題になっている“サラ・サラ対決”。

ということで、今回は「サラ」さんを。

「サラ」といえばわれわれの年代ではやはりサラ・ボーンSarah Vaughan 。
そのサラで、まっ先に思い浮かぶ歌が、クリフォード・ブラウンClifford Brownとの共演で知られる「バードランドの子守唄」Lullaby of Birdland 。
「あなたがため息をつくとき、いつも聞こえてくるバードランドの子守唄……」と始まるラヴソングは1952年、ジョージ・シェアリングの作。かの「愛か別れか」Love me or leave me を下敷きにつくったとか。

バードランドは当時、マンハッタンにあったジャズクラブで、いちど閉店したが現在は再びオープンしているそうだ。その店名のBirdとはもちろんチャーリー・パーカーCharlie Parker にちなんだもの。

名曲の常で、エラ・フィッツジェラルド、クリス・コナー、メル・トーメ、ドリス・デイをはじめいろいろなシンガーによってうたわれているが、やはりサラ・ボーンお得意のスキャットで入る1曲がいい。

せっかくなのでサラをもう1曲。
ひところ、日本のジャズヴォーカルファンがもっとも好きな曲といわれた「ミスティ」Misty ほかいろいろ名曲があって迷いますが、これまた彼女のスキャットを十分楽しめる「オール・オブ・ミー」All of Me を。

もうひとり、サラ・ブライトマンSARAH BRIGHTMAN 。

今の人にはこちらのサラさんのほうが知られているのでしょう。
NHKの紅白に出たことで日本での知名度もいっきに上がった感があります。
わたしもアルバム[DIVE]は買ってしまいました。
クラシカルでクリスタルな高音が魅力です。ノイジーなサラ・ボーンとは対照的です。

そのCDのなかからキャプテン・ニモ[CAPTAIN NEMO]を。
もう1曲はCDにははいっていませんが、アヴェ・マリア[AVE MARIA] を。

少し余裕があるので、「サラ」の歌をもう2曲。

まずはボブ・ディランBob Dylanの「サラ」Sara
1976年に発表されたアルバム「欲望」Desire のなかの1曲。
当時のディランの奥さん、サラのことをうたったもので、
サラよ、汚れなき天使よ、生涯の恋人よ
サラよ、美しき宝石よ、ミステリアスなパートナーよ
と絶賛しています。

なんでも、当時奥さんとの間に溝ができ、それを修復しようとしていた時期だとか。
その努力のかいもなく、結局は別れてしまうのですが。歌にそんな力があるものか。

もう1曲はインスト。
Cobaことアコーディオニスト・小林靖宏の1991年のデビューアルバム「シチリアの月の下で」の中の1曲「Sara」。(ワンセンテンスでこれだけ“の”が入ると気持ちいい)
聴き終わったあと、なんとなくカラオケに行きたくなって、そこで
♪水割りをくださ~い
ってうたいたくなってしまう1曲。

ところではじめにふれた、ノルディックのジャンプについて。
1972年の札幌五輪70m級ジャンプ(今はノーマルヒルっていう。当時の90m級はラージヒル)で笠谷、金野、青地の金銀銅独占はスゴかった。
それ以来ジャンプ競技が好きになったという人も少なくないのでは。わたしもそう。

あの頃と今となにが違うって、飛んでいるときのかたちが全然違う。
以前はみんなスキー板をそろえていたのが、いまはみんなV字型に開いている。

これはV字型にしたほうが風の抵抗を受ける面が広くなり、その分浮揚時間が長くなって距離が延びるのだとか。

この飛形を考え出したのはボークレブというスウェーデンの選手。
ところが、ジャンプ競技というのは飛距離プラス飛形つまり飛び出しの形、空中時の姿勢、ランディングの形を加味して採点されるので、当初はスキー板がバラバラとみなされ、大きく減点されていたそうだ。

それが数年後には、あれはバランスを崩しているのではなく、より遠くへ飛ぶための理想的な飛形なのだ、ということが認められ、いまではほとんどの選手がクラシカルな形をやめV字型に転向することになった。

ジャンプのV字型というのはまさにスポーツ競技における“革命”ともいえるもので、ボークレブ選手は陸上走り高跳びで、いまや当たり前になっている“背面跳び”を考案したフォスベリー選手に匹敵する功労者といえるのでは。

とかなんとか理屈をいってますが、ジャンプ競技のスゴイところは、われわれシロウトには絶対にできない“絶叫プレイ”だからでしょう。

バンジージャンプだったら、万が一を除けば、どんなにオソロシくたってどこか1本確実な命綱に守られているという“了解事項”がありますが、何かの罰ゲームでノーマルヒルを跳べっていわれても断固拒否しますものね。確実に死にますから。

それをたかだか15歳の少女がいともかんたんに100mも飛んでしまうのですから。
まるで鳥ですね。それも沙羅ちゃんは小さいから小鳥だ。それにあの余裕。真剣勝負というよりは遊んでいるよう。そう、沙羅ちゃんは小鳥遊なのです。


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その名は●安井かずみ [the name]

安井かずみ.jpg

♪ 明日の悲しみを 知らない 
  あなた おしゃべりな真珠
  微笑み 悲しみ 夢を見る 
  あたし おしゃべりな真珠
  
  ひとりひとりが 愛をみつけて
  星を数えたとき 大人になる
  ああ はじめて 生きることがわかる 
  あたし ひとつぶの真珠
(「おしゃべりな真珠」詞:安井かずみ、曲:いずみたく、歌:伊東ゆかり、昭和40年)

今日3月17日はZUZUこと安井かずみの命日。
亡くなったのは平成6年(1994)。
もう20年近く経ってしまいました。
彼女は永遠の55歳。
わたしは、それをはるか越えてしまいました。やだやだ。

若かりし頃、安井かずみの姿を雑誌か何かで見たとき、当時ファンだったフェイ・ダナウェイに似てるなって思ったことがありました。
のちに、彼女のエッセイを読んでいたら、「フェイ・ダナウェイほどキレイじゃなくても……」などという文章に出くわしたことがありました。
もしかしたら、あのハリウッド女優を意識していたのかもしれません。

それはともかく、彼女の詞はほとんどがラヴソング。
そしてそのポリシーは、「夢見る少女」(ときには少年)のつぶやき。それは頑なで、潔癖で、孤独で、というリアルな内省的少女。このへんが、それまで「乙女」というキーワードで、少女の心情を描いてきた西條八十を筆頭とする男の「女装作詞家」と違うところでしょうか。もちろん流行歌はリアリズムを追及しているのではありませんけど。

彼女はまたエッセイストでもあり、その内容は流行詞とは裏腹に、実体験に基づいた現実的な女性の処世術が多かった。作詞は流行歌用に構築された別世界の「ZUZUワールド」だったのでしょう。それを徹底させていた。

阿久悠松本隆のようなキラキラあるいはギラギラした野心的な詞(ことば)ではなく、普段の言葉を組合わせて、叙情的かつ独創的な「ZUZUワールド」をつくりあげていました。

生涯書いた詞は4000ともいわれ、ヒット曲も少なくない。
そんななかからいつもの独偏で10曲を選び、昭和の流行歌をつくってきた女性作詞家を偲びたいと思います。

その名はフジヤマ アントニオ古賀 昭和36
デビュー作の「GIブルース」(坂本九)が昭和35年なので、ほんとに初期の作品。
当初はほとんどが訳詞で「みナみカズみ」のペンネームを使用。
曲は、当時人気で何度も来日コンサートをしていたトリオ・ロス・パンチョスのメンバー、チューチョ・ナバロによる。

小さい悪魔 斎藤チヤ子 昭和36
カバー曲をもう1曲。斎藤チヤ子では断然「失恋の海」(オリジナルはドン・ギブソン)だけど、残念ながらYOU-TUBEにないので。(失恋の海追加です)
でも、この「小さい悪魔」のほうがヒットしたので耳なじみがあるかも。オリジナルはニール・セダカ

おしゃべりな真珠 伊東ゆかり 昭和40
安井かずみがレコード大賞の作詞賞をとった記念すべき楽曲。当時26歳。
本人レコード大賞のなんたるかを知らぬ間の受賞。この頃はまだアルバイト感覚で。
作曲いずみたくとのコンビが貴重。初々しい「夢見る少女」がいずみたくメロディーとピッタリの名作。
伊東ゆかりではほかに、「恋のしずく」、「朝の口づけ」、「青空のゆくえ」などがあるが、この曲がいちばん。

明日になれば ザ・ピーナッツ 昭和41
宮川泰の傑作。宮川とははじめてのオリジナル「女の子だもん」中尾ミエ・NHKみんなのうた)からのコンビで、最も親しまれているのは「若いってすばらしい」(槇みちる)。ほかに「何も云わないで」(園まり)、「ひとつぶの真珠」(弘田三枝子)も宮川との共作。
ザ・ピーナッツのカヴァーでは「レモンのキッス」がいい。

青空のある限り 加瀬邦彦&ザ・ワイルドワンズ 昭和42
グループサウンズの1曲。ほかでもタイガース「シー・シー・シー」はあるが、GSは意外と少ない。
1度目の結婚をした頃で、その間、作詞活動を休業していたため。

雪が降る アダモ 昭和44
離婚してフランスに滞在中、ZUZUをなぐさめようと友人のアダモが作った歌に彼女が詞をつけた。
カヴァー曲の中ではもっともヒットし、もっとも親しまれている曲。
このあたりから、彼女自身がいう「多作」になっていく。自身も書いているように、プロ意識に目覚めはじめた頃。

折鶴 千葉紘子 昭和47
ひさびさのオリジナルヒットが45年の「経験」(辺見マリ)。そして翌年、「ディスカヴァー・ジャパン」ブームに乗った「わたしの城下町」(小柳ルミ子)を代表とする和風作品を連続ヒット。
そのなかでいちばん彼女らしい少女の心情をうたったのが「折鶴」。小柳ルミ子もうたっているが、やはり千葉絋子。

あなたへの愛 沢田研二 昭和48
タイガースから引き続き、昭和44年に沢田研二の初アルバム「JULIE」の全曲を作詞。
48年には日本歌謡大賞受賞の「危険なふたり」そして49年の「追憶」とヒット曲を連発。
曲はともに加瀬邦彦で、「危険なふたり」のあとに書いたこの「あなたへの愛」も加瀬作品。

この年はほかに、「草原の輝き」(アグネス・チャン)、「ちぎれた愛」(西城秀樹)、「甘い十字架」(布施明)などのヒット曲で充実していた。

ある日の午後 森山良子 昭和49
めずらしい森山良子への提供作品。
安井かずみお得意の若い女性の「揺れる想い」が描かれている。
印象的な曲はブレッド&バター岩沢幸矢
安井かずみはレコーディングの前に、歌手とミーティングをするのが常だったそうだが、森山良子とどんな話し合いをしたのか、興味津津。

よろしく哀愁 郷ひろみ 昭和49
「ある日の午後」と同じ年の発売で、33歳、最も充実していた時代かも。
「よろしく哀愁」は「夢見る少女」の裏返しの「夢見る少年」ソング。
作曲は筒美京平で、安井―筒美のゴールデンコンビは意外と少ない。
ヒット曲ではほかに「赤い風船」(浅田美代子)ぐらい。

もちろん昭和50年代に入っても彼女の作詞ワークは続いていきます。
52年には2度目の結婚で加藤和彦というベストパートナーを得ます。

そして、はじめにも書いたとおり幸福な17年間を経て、55歳という若さで病に斃れます。
また、ごぞんじのとおり、加藤和彦も3年前に自殺で生涯を閉じています。
もし、安井かずみが生きていたら、加藤和彦も死なずにすんだのでは……などと、ふと考えてしまいます。


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マラソン五輪代表が決まった! [deporte]

野口みずき.jpg

昨日の名古屋ウィメンズマラソンはみごたえがありました。
でも、なんで最近のマラソンは午前中にやるのかな。おかげで外出の予定が2時間遅れてしまった。

それはともかく。最大の期待は野口みずきのカムバック。
先行集団から一度離されながら、再び追いついてきたときは、もしかしたら……。と思わされましたが、後半のペースアップについていけず後退。
やっぱり、いちど大きなケガをするとなかなか元にはもどらないのかな。競走馬だってそうだもの。……馬と比較してはいけない。

しかし、あれだけ途中でパワーをつかって、再び置いていかれると、ズルズル順位を下げていってしまいがちなんだけど。もはや五輪出場も絶望ってわかっていただろうに。

それでも大くずれせずに6位入賞。タイムだって2時間25分台ならわるくはない。
本人もいっているように今後のメドが立ったような走りでした。

オリンピックだけがマラソンではない。来季のマラソンシーズンで、野口のびっくりするような記録を期待したいもの。

日本人では尾崎好美が1位(全体2位)。いちばん輝いていたのは驚異の逆転劇で優勝したロシアのアルビナ・マヨロワ。日本人1位争いでかすんじゃったけど。その日本人1位は尾崎好美。

そして、今日の午後には男女とも五輪代表選手が決まりました。

女子は、まぁ順当でしょうか。選考レース優勝の重友梨左と木崎良子はほぼ決定していたので、昨年の世界選手権で日本人最高の5位入賞をはたした赤羽有紀子と、昨日の名古屋の2位尾崎好美のどちらかということだったのでしょう。

そして結論は名古屋の順位で8位に終わった赤羽が脱落、補欠に。
まぁ、これはどう考えても2位と8位では、8位を選ぶというわけにはいかない。

でも、ひとつ疑問が残ります。
なんで赤羽選手は名古屋に出場したのでしょうか。
世界選手権といえばオリンピックに匹敵する国際的レース。競馬でいえば(またかよ)名古屋がGⅢならば、世界選手権はGⅠレース。

赤羽選手は名古屋に出ないという選択肢もあったはず。
そうだったら、3人目の選考はそうあっさりとは決まらなかったでしょう。
では、なぜリスクを冒して赤羽選手は出場したのか。

報道は「選ばれるかどうか不安で、確実なものにするため」というようなものでした。
しかし、出る以上日本人1位以外、彼女が選ばれる選択肢はなかったのでは。
もちろん、不出場の場合、出場した日本人選手がスゴイタイムで優勝してしまったら、世界選手権5位の実績もかすんでしまう。
そういう不安があったのかもしれません。とりわけ野口選手も出ますし。

これは邪推ですが、陸連のほうから赤羽選手に「選考が難航するから、決着をつけるために出てほしい」というような依頼がなかったのか。まぁ、自己判断と思いたいのですが。

男子の場合も、東京マラソンで2位(日本人1位)に入り、2時間7分台の好タイムを出した藤原新と、やはり選考レースのびわ湖で日本人1位となった走る飛脚(飛脚は誰でも走るだろう)の山本亮はほぼ決定。
あとのひとりが専門家でも意見の分かれるところでした。

結局はびわ湖で山本選手に次いで5位に入った中本健太郎を選出。
まぁ、公務員の星・川内優輝は、東京マラソンで失速してしまい、仕方ないのかなという気もしますが。

これもうがった見方をすると、当選確実だった藤原は報道されているとおり、実業団を辞めた無職のランナー。もうひとりの山本は佐川急便所属の実業団ランナーですが、びわ湖マラソンでは招待選手ではなく、一般参加。つまり陸連の強化選手ではない(多分)。

となると、陸連がサポートを受けている企業、つまり実業団からどうしてもひとり選ばなくては「いいわけ」ができない。と同時に強化選手が選ばれないと、自分たちの選手強化の方法も非難をあびることになる(すでに非難はやむをえない状況ですが)。なら強化選手でなおかつ実業団所属の選手を、ということに。そんな配慮があったのではないでしょうか。あくまで邪推ですよ、関係者のかたがた怒っちゃいけませんよ。

しかし、それなら川内選手が選ばれたとしたら。
やはり異論は多々出たはずでしょう。川内選手は強化選手にはなっている(多分)でしょうけど、実業団ランナーではない。

まぁ、正直3番目のランナーは「該当者なし」でもいいのでしょうが、そうはいかないのかも。なら、抽選で。大レースに抽選で選ばれた馬が好走するケースもあるから(競馬じゃないっつうの)。

でも、川内選手が東京で失速したとき喜んだ人もいただろうな。
藤原、山本、川内じゃシャレにならないもの、陸連としては。……怒っちゃいけません。

やっぱり、最後に何か1曲。
マラソンの歌といえばピンク・ピクルス「一人の道」だけど、悲しすぎるものね。

爆風スランプ「Runner」もいいけど男性主体だし……。
本番での先行逃げ切りはむりだろうから。こんなのどうでしょうか。激励にゃならないか。


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三つの歌●瞳⑤ウインク [day by day]

 ウインク.jpg

♪ピリピリして 昼下がりは 素肌に痛い
 缶のビール 飲み干すにも 陽射しがまぶしい
 ほんの少し 睫伏せて 
 ウインクだけ 受け止めると
 遠くばかりを 見てる
 ………………
 赤い爪を 空にかざし 僕とお前のシンフォニー
 そうさ言葉はいつでも 裏返し 吐息のなかで
 シシシ GOOD VIBRATION
(「バイブレーション 胸から胸へ」詞:島武実、曲:都倉俊一、歌:郷ひろみ、昭和53年)

最近耳の調子がおもわしくなく、まぁ老化現象だと思うのですが。とにかくまだ片耳だけですが、聞き取りにくくて。
それでも小さな声ではありますが、「まだやるのか」という罵声が……。

いちおうこれで「瞳」は打ち止めにしようと思っていますので、最後のお付き合いを。

前回は「閉じる」でしたが、閉じたものは開く、開いたものは閉じるというのが万物の法則、人間の営みというものでして。………………。
まぁ、閉じたっきりそのままなんてことも、いずれ先には。でももうしばらくは、開閉運動をしなくてはなりません。

その開閉をすばやくやるのが「ウインク」。古い人は「めくばせ」なんていったり。

これは相手に対する沈黙の「合図」ですね。
合図だからって初対面の相手にはまずしない。
たとえば電車のシルバーシートに座っていた若者が、目の前に立った老人に「座りますか」という代わりにウインクなんかしない。したってわからない。

また顔見知りだからといって、会社の上司が女性の部下に「これコピーしてきてくれないか」と頼むのをウインクでなんかしない。セクハラで非難されるに決まっている。

まぁ、ふつうウインクが許されるのは親しい間柄の男女でしょうか。恋人とか夫婦とか。

ウインクもラヴソングが主流の流行歌にはしばしば出てきます。
その名もズバリ(古い言葉だ)、女性デュオのウインクもいましたが今回はスルー。

とはいえ演歌ではほとんど耳にしません。
ほとんどはポップス系。

というと戦前はつかわれなかったのかというと、そうでもない。
もちろん頻繁につかわれた形跡はないけど、ポツリ、ポツリと。

古いところでは昭和6年、松竹映画「女給哀史」の主題歌「こんな苦労はせぬ私」(青木晴子)の中に、
♪浮気男の ウインクに こんな苦労は せぬ私
と出てきます。誰かれかまわずウインクでナンパしようとする男に、心おだやかでないホステスさんの歌。

作詞はというと、クレジットには「松竹蒲田音楽部」となっています。
「文部省選定」じゃあるまいし、ウソでも個人名にしとけばいいのに。

だいたいこの時代にこういうポップというかモダンな語彙をつかうのは佐伯孝夫と、相場は決まっています。

実際昭和9年の「チェリオ!」(藤山一郎、小林千代子)では、
♪銀座は八丁 柳かげ ウインクの雨 キスの雨

同じく11年の「とんがらかっちゃ駄目よ」(渡辺はま子)でも、
♪……優しい君の ウインク無視して 居たって

と、やっぱりでした。

まぁ、「ウインク」そのものは、流行歌の中でそんなに新しい言葉ではない、ということをおさえておきつつ、本題の「ウインク」ソング三連発を。

「ウインク」時代は昭和50年前後、西暦でいうと1970年代から80年代。
アイドル歌謡全盛期。そこで三つの歌もそんな時代の歌を。

サザン・ウインド 中森明菜 昭和59年(1984)
♪いたずらぎみに 一瞬ウインクを 危険かしらね

南の島かどこかのホテルのプールサイド。ひとり旅らしい女に男たちの視線が集中する。
それほどいい女を中森明菜がうたっています。

こういうシチュエーションどこかにあったな。で、思い出したのが南佳孝「モンロー・ウォーク」。それもそのはず作詞はどちらも来生えつこ
「モンロー・ウォーク」は男の視線、「サザン・ウインド」は女の視線という違いはありますが。
そういえば「モンロー・ウォーク」でも、
♪気をもたせてウインク ないしょでとウインク
と連発していましたっけ。

曲は「スローモーション」、「セカンド・ラヴ」の来生たかおではなく玉置浩二

熱帯魚 岩崎宏美 昭和52年(1977)
♪ほろ酔いのピアニスト ウインクを投げて 愛のうたひいてくれた

ウインクをしてくれたのは彼ではなく、クラブかどこかのピアニスト。
だいたいむかしのジャズピアニストってアメリカかぶれ、いやアメリカナイズされていたから平気でキザなことできたんだろうな。いかにもいそう。

「熱帯魚」は岩崎宏美のなかでも五指に入るフェヴァリットソング。なんたって阿久悠―川口真のコンビだもの。恋に酔いしれる少女を熱帯魚にたとえる感性は阿久悠独特のもの。

このコンビによるヒット曲もいくつかありますが、ひとつあげるなら「円舞曲(ワルツ)」(ちあきなおみ)でしょうか。

バイブレーション(胸から胸へ) 郷ひろみ 昭和53年(1978)
上に詞をのせましたが、いまいち意味がわかわない。(流行歌ではめずらしいことではありませんが)。
ビーチ・ボーイズ「グッド・ヴァイブレーションズ」のようにトリップでもしてるのでしょうか。

作曲の都倉俊一は昭和40年代後半から50年代にかけてヒット曲を書きまくった作曲家のひとり。シンガーでいうと、山本リンダ、山口百恵、ピンクレディーの一連のヒット曲をはじめ、狩人、ペドロ&カプリシャス、フィンガー・ファイブなどに名曲を提供しています。郷ひろみではほかに、「ハリウッド・スキャンダル」が。

作詞の島武実はほかに音楽プロデュースをしたり、小説を書くギョーカイ人だそうで、作詞では「わな」(キャンディーズ)、「硝子坂」(高田みづえ)のヒット曲がある。

なお、郷ひろみは「モンロー・ウォーク」をカヴァー(タイトルは「セクシー・ユー」)していますが、歌詞が変えてあり、ウインクはしていない。

例によって残念ながら紹介できなかった「ウインク・ソング」を羅列しておきます。

「天使のウインク」松田聖子(尾崎亜美)
「CAT’S EYE(キャッツ・アイ)」杏里
「大学かぞえうた」守屋浩
「恋人がサンタクロース」松任谷由実
「天使のらくがき」ダニエル・ビダル
「燃えるブンブン」マギー・ミネンコ

ところで、戦前からあったというウインクですが、個人的なことをいえば、生まれてこのかた、自分からしたことはもちろん他人からされたこともない。
まぁ、色気のない人生といってしまえばそれまでですが、巷ではそんなに頻繁に飛び交っておるのでしょうか。

でも、されたらわるい気はしないでしょう。睨みつけられるよりはよっぽどいい。
といって、この先誰かにされるなんてことはまずありえない。
ならばせめて画像でもって、代のアイドルにウインクしてもらいましょうか。


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三つの歌●瞳④とじる [day by day]


いずみたく&岩谷時子.jpg

♪ 瞳とじれば 聞こえる声よ
わたしは逢いたい あの人に
夢を見ては 涙ぐむ
わたしの恋 だれも知らない

瞳とじれば 夕焼け雲よ
わたしは行きたい 故郷へ
幼い日の 心のまま
妹たち 浜辺で歌おう
(「瞳とじれば」詞:岩谷時子、曲:いずみたく、歌:倍賞千恵子、昭和39年)

泣くこと、涙を流すことも目や瞳の訴求力のあるアクションですが、もうひとつインパクトのあるしぐさが目を閉じること。

なぜ目をとじるのか。
眠いからだろうって。そりゃそうだ。睡魔にゃかてない。
まばたき? それもそうだけど。
♪嘘をつくとき瞬きをする癖が…… 「硝子の少年」KinKi Kids

なんて歌もあるけど、ふつう眠たくて目をとじたり、まばたきしたぐらいじゃ歌にはならない。

まばたきや睡魔に襲われなくたって人間、瞳をとじることがある。
もの想いにふけったり、何かに集中したり、記憶の路地に進入していくとき、あるいは現実を拒否したり、現実から逃亡するときなど。

たとえば、古いストーリーですが、長谷川伸は「瞼の母」。

生き別れの母を探しあてた渡世人・番場の忠太郎が、母親からゆすり・たかりと誤解され、追い返された道々で、「こうやって上の瞼と下の瞼をピタッと合わせりゃ、オイラにゃまだ見ぬおっ母さんの顔が……」と実母と逢ったことを悔やむセリフ。

瞳をとじて、10数年間記憶の中で育ててきた母親像を思い浮かべることで、辛い現実を忘れようという行為ですね。理屈をいえば。

この戯曲は「瞼の母」あるいは「番場の忠太郎」として三波春夫や真山一郎、あるいは中村美津子などで歌謡浪曲にもなっている。

つまり、眠くもないのに目をとじるとそこにはなんらかの理由があるわけで、そこにドラマが生まれるし、また流行歌にもなる。

まぁ、忠太郎さんにご足労願うまでもなく、通常は「瞳をとじる」というよりも「目をとじる」とか「瞼をとじる」という言い方のほうが正確で、流行歌の歌詞でもそのほうが多いかもしれない。

たとえば「目をとじる」ならば、「なにも云わないで」(園まり)とか、「昴」(谷村新司)、あるいは「あざやかな場面」(岩崎宏美)「チャコの海岸物語」(サザン・オールスターズ)などがある。
「瞼をとじる」なら、「春よ、来い」(松任谷由美)とか「時間よ止まれ」(矢沢永吉)が。

しかし、「瞳をとじる」というどちらかというと叙情的表現もないわけではなく、というより流行歌にはうってつけの言い回しともいえる。

これまで「瞳」で続けてきたということもあるし、再三いうように絞り込むためにも、今回は目や瞼ではなく「瞳」で。

実際「瞳をとじる」とか「とじて」という歌詞がでてくる歌はけっこうあります。
今回は、けっこう古い歌、西暦でいえば60年代の歌を三曲。

瞳とじれば 倍賞千恵子 昭和39年(1964)
昭和37年の「下町の太陽」が歌手デビューなので、その2年後の歌。40年には「さよならはダンスの後に」のヒット曲があり、ちょうどその間ということに。

作詞作曲の岩谷時子・いずみたくコンビといえば、その前に「夜明けのうた」がある。これは岸洋子がヒットさせる前に、当時いずみたくが情熱をそそいでいたミュージカルでつかわれた(さらにそれ以前にはテレビドラマで)1曲。

「瞳とじれば」も歌詞がドラマ仕立てで、どうもミュージカル用につくられた歌ではとおもわれます。昭和39年といえば、倍賞千恵子もいずみのミュージカル「夜明けのうた」に出演していた頃で、その中でうたわれ、レコーディングされたのかもしれない(確証はないけど)。

とにかくいずみたくらしい旋律の名曲です。ダンモ調のアレンジもGOOD。

ベッドで煙草をすわないで 沢たまき 昭和41年(1966)
♪瞳をとじて やさしい夢を あまいシャネルの ため息が

これまた岩谷―いずみコンビの名曲。
いまならどうということはないが、当時はかなりキワドイ“大人のうた”。
当時消防庁がキャンペーンソングにしようとしたとかしないとか。

いずにれしも“禁煙ファッショ”の現在では考えられない歌。

この歌について、何かで岩谷時子が「映画の挿入歌として書いた」という記事を読んだ覚えがあります。

岩谷時子はいずみたくのほかに、宮川泰、弾厚作(加山雄三)、筒美京平とのコンビでのヒット曲が数多くありますが、イニシャルがともに「I.T」ということで、殊更いずみたくが気に入っていたようです。
このコンビでのヒット曲のいくつかをあげると、
「太陽のあいつ」(ジャニーズ)
「恋の季節」「涙の季節」(ピンキーとキラーズ)
「太陽野郎」(バニーズ)
「いいじゃないの幸せならば」(佐良直美)
「貴様と俺」(布施明)

銀河のロマンス ザ・タイガース 昭和43年(1968)
流れるような バラの香り 瞳をとじて 甘えておくれ

3曲目も岩谷―いずみでいけばカッコついたのですが、そう人生甘くはない。
これはGSのゴールデンコンビ、橋本淳―すぎやまこういちの作。

デビュー曲「僕のマリー」からはじまって「シーサイド・バウンド」、「モナリザの微笑」、「君だけに愛を」、「落葉の物語」、「銀河のロマンス」と初期はほとんど橋本―すぎやまコンビ。

タイガースはアイドルGSとしてはナンバーワン。やっぱりヴォーカル・沢田研二の存在大でした。もちろん、ピー、いやの存在もありましたが……。

それでは最後に不採用となった「とじた瞳」のいくつかを順不同であげときますので、気になる方はYOU-TUBEで探して聴いてみてください。

「真夜中のシャワー」ケイ・ウンスク
「あなたに逢いたくて」松田聖子
「ウェディング・ベル」シュガー
「ダンシング・オールナイト」もんた&ブラザーズ


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三つの歌●瞳③うるむ [day by day]

ビーバーズ.jpg 

♪涙こらえて歩いたね 風も冷たい別れ道
 幼い夢よ初恋よ WOOM WOOM さようなら
 白樺林をさまよい行けば 悲しく思い出す
 うるむ瞳に ゆれてた花の影
(「初恋の丘」詞:淡村悠紀夫、曲:大野克夫、歌:ビーバーズ、昭和42年)

前回に引き続き今回も「瞳」。もう少し泣いてもらいます。

泣くときに出るのは涙だけじゃなくて、声もでることが多い。
でもあまり大声で泣かれると興ざめで、反対に声を押し殺し黙って涙がひとすじ、というほうがジンときて、もらい泣きしたり。

涙が頬を伝わなくても、目にいっぱいたまるだけでも、対峙した人間にとってはグッと胸にせまるものがあります。泣く寸前の様子です。

そんな状態を流行歌では「瞳うるませて」とか「うるむ瞳に」なんてうたいます。
「うるむ」、若い人は「ウルウルする」なんていいますね。
漢字で書くと「潤む」。水分たっぷりの状態ですから、やがて瞼の外へポトリとこぼれ落ちて、泣くことになるんですね。

グッとこらえて落ちずに眼の中にとどまる場合は、どちらかといえば「うるむ」というよりは「にじむ」ではないでしょうか。

泣く寸前の表現、「うるむ」とか「にじむ」なんていうのは、英語にはない表現ではないでしょうか。英語だったらみんな“WET”でしょうから。
簡単便利といえばそうでしょうけど。めんどくさくなくていいですね、英語って。

まぁ、そんなことはどうでもいいのですが、今回はそうした「うるむ瞳」を。

戦前の歌をみてみると、さすが流行歌泣きまくっています。
その頻度たるや戦後より多いかも。
涙、涙にまた涙で、泣かなきゃ流行歌じゃないのか、と思うほど。

「涙する、涙にむせぶ、涙あふれて、涙かくして、涙うかべて、涙ぐむ、むせび泣く、すすり泣く、泣きぬれて」
とまぁ、よくもここまで。

たとえば昭和9年の同名映画主題歌「女の友情の唄」では、
♪仰ぐひとみに 湧く涙
ときわめてストレート。ちなみに作詞は当時の女学生のカリスマ、吉屋信子

というように、涙はウンザリするほどあっても「うるむ瞳」は見当たらない。
いつの時代でも流行歌には流行り言葉というのか、流行り口調というのか、そんなものがあるようで、戦前は「うるむ」という言葉があまりイケてなかったのかも。
とりわけ「うるむ瞳」あるいは「瞳がうるむ」という発想が、西條八十をはじめ、作詞家の諸先生にはなかったようです。

しかし日本語として「うるむ」という言葉は当然あったわけで、たとえば「涙でうるむ」という歌詞は以下のように時々でてきます。
「天国に結ぶ恋」四家文子 昭和8年
「曠野の彼方」松平晃 昭和11年
「泪で立てし日の丸よ」(筑波高)昭和13年

ということは「瞳がうるむ」のは戦後から。

涙にうるむ 「君待てども」平野愛子 23年
灯うるむ 「三百六十五夜」霧島昇、松原操 23年
うるむのは街の灯だったり、看板だったり、テールランプだったりと、なかなか瞳はうるまない。

その第一号かどうかは、そこまで詳細に調べたわけではないのでわからないですが、昭和37年、北原謙二がうたった「忘れないさ」に、
♪可愛いい瞳が うるんでた
と。作詞は「癪な雨だぜ」(守屋浩)「愛の山河」(奈良光枝)などがある三浦康照

そのあと、やはり青春歌謡の「潮風を待つ少女」(安達明)「哀愁の夜」(舟木一夫)ででてくる。
ほぼ同時期の、石原裕次郎浅丘ルリ子「夕陽の丘」では、「瞳」ではないですが、
♪目頭うるむ 旅ごころ
とうたわれている。ニアピン。

こうしてみると流行歌において「瞳」はさほどうるまないのかな、なんて気もしてきたり。

そんななかでもようやくみつけた「うるんだ瞳」の三連発を。

初恋の丘 ビーバーズ 昭和42年
スパイダーズの弟分的存在だったのがビーバーズ。
元々はスリー・ファンキーズのバックバンドなどをやっていて、リードヴォーカルの早瀬雅男は、後期ファンキーズのメンバー。ほかではのちにフラワー・トラベリング・バンドに参加するギタリストの石間秀樹がいた。
ブルースハープなども駆使してヤードバーズが目標だったとか。

初恋の丘はデビュー曲で、作曲は兄貴分・スパイダーズのキーボード、大野克夫。作詞の淡村悠紀夫はビーバーズのドラマー。

個人的にはセカンドシングルの「君なき世界」のほうがサイケっぽくて好きだった。その作詞作曲はかまやつひろし

白い色は恋人の色 ベッツィ&クリス 昭和44年
♪あの人の うるんでいた 瞳にうつる

ごぞんじ、北山修、加藤和彦の名曲。
これもフォークソングっぽく、イントロのニルソン「うわさの男」を想起させるアルペジオが印象的。当時ギターを手にした人はこのツーフィンガーを練習したんじゃないでしょうか。

名曲だけにカヴァーされることも多く、本田路津子、アグネス・チャン、宏美・良美の岩崎姉妹、モー娘の市井紗耶香&中澤裕子などなどと。
すきなのは本田ヴァージョンで、編曲は石川鷹彦。ついでにいうとアグネスヴァージョンの編曲は本家の加藤和彦。オリジナルは加藤ではなく若月明人

ギャランドゥ 西城秀樹 昭和58年
♪その熟れた肌 うるんだ瞳
デビューが47年の「恋する季節」なので、12年目44枚目のシングル曲。

作詞作曲はもんたよしのり。セルフカヴァーもしているよう。

ギャランドゥといえば必ず“例の毛”が話題になる。
もちろんそういう意味ではないらしく、ではギャランドゥとはというと、空けてびっくりで意味はないんだそう。つまりデタラメ語なのだとか。

よくそんなんでヒットしたな、と思うけど、やっぱり曲がいいというのか、ヒデキのパワフルな歌唱とステージパフォーマンスのなせるワザなのでしょうか。
後進でヒデキの影響を受けたという日本人ロッカーが数多いというのも、わかるような気がする。

昨年また脳梗塞を発症したとか。難しい病気なので無理しないでほしいな。
「ヒデキ カンレキ!」にはまだ間があるけど、70才をクリアした内田裕也や、まじかのミック・ジャガーのように息長くうたってもらいたいシンガーだものね。

もうしばらく「瞳」が続きます。


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三つの歌●瞳②ぬれる [day by day]

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♪ぬれた瞳と ささやきに
 ついだまされた 恋ごころ
 きれいなバラには 棘がある
 きれいな男にゃ わながある
 知ってしまえば それまでよ
 知らないうちが 花なのよ
(「麗人の唄」詞:サトウハチロー、曲:堀内敬三、歌:河原喜久恵または曽我直子、昭和5年)

前回もいいましたが、流行歌のフレーズで「瞳」がなんと多いことか。
とりわけラヴ・ソングには欠かせないキーワード。

そもそも、なぜ「瞳」がそれほど流行歌で多用されるのか。

それは、現実世界の人間同士のかかわりにおいて、瞳あるいは目の役割がとても大きいからでしょうね。つまり瞳は、人間のからだのパーツの中で口(声)や手足とともに極めてアクティブ、つまり動きのある部分だからではないでしょうか。

「目は口ほどにものをいい」なんて昔からいうほど、目には表現力がある。「目くばせ」とか「目礼」、あるいは「眼力」などとも。最近では「目力(めじから)」なんていいかたも。
また昔から「目は心の窓」などといって、目がその人の人格や心象を知る手がかりになるといわれています。人格については異論がないわけではありませんが、「目の動き」なんて言い方もあるように、目でそのときのその人の気持ちを読みとれる場合もあります。

まぁ、厳密にいうと、目が語っているというよりは、その周辺の眉毛だったり、まぶただったり、あるいは眉間、さらには口や頬など顔のほかのパーツとの“合わせ技”なんでしょうけど。

今回は瞳の邦楽をやろうと思うのですが、あまりにも多すぎるので、目のアクションに注目して絞ってみたいと思います。

では、目のインパクトのあるアクションといえば。
まずひとつは、最大の感情表現ともいえる泣く、涙を流すということ。

そのいちばんストレートな語彙は「ぬれる」でしょうか。
「瞳がぬれる」とか「ぬれた瞳」とか。
まあ、流行歌のセオリーとしては瞳がぬれているのは女で、それを見て動揺しているのが男。もちろん反対でもかまわないのですが。もしかしたら、J―POPなどではもはやそうなってるのかもしれませんが。

ではさっそく厳選(でもないかな)「ぬれた瞳」三曲を。

麗人の唄 河原喜久恵
まずは戦前の歌。
冒頭で歌詞を紹介した「麗人の唄」。
これは波瀾万丈の生涯をおくった歌人・柳原白蓮をモデルとした映画「麗人」の主題歌。
原作はこの歌の作詞者、サトウハチローの父である作家・佐藤紅緑。

「きれいなバラには棘がある」とか「知らないうちが花」なんてフレーズは今でいう流行語となり、のちのちまでも使われることに。今はどうかしりませんが。

詞も当時としては最先端ですが、堀内敬三のタンゴ調の旋律もモダン。
堀内は作詞、作曲家であるとともに音楽評論家でもある。
とりわけ昭和初期の舶来流行歌や唱歌の訳詞ではいまもうたわれる名作を残しています。
とりわけ訳詞では「青空(マイ・ブルーヘヴン)」「春の日の花と輝く」「故郷の人々」など。また作詞でもっとも知られているのが「蒲田行進曲」

戦前でほかには、これも好きな「緑の地平線」(楠木繁夫)でも。
♪ぬれし瞳に すすり泣く
と出てくる。そのほか「蛇の目のかげで」(日本橋きみ栄)「青い背広で」(藤山一郎)などでも瞳はぬれている。

明日は明日の風が吹く 石原裕次郎
♪ぬれた瞳は 夜霧のせいよ
これも昭和33年公開の日活映画の同名主題歌。監督の井上梅次が作詞をしている。
曲は音楽担当の大森盛太郎。ほかに裕次郎の「嵐を呼ぶ男」赤木圭一郎「激流に生きる男」など。

YOU-TUBEに出ている茶髪のホステスは前年「バナナ・ボート」で歌手デビューしブレイクした浜村美智子。まだ10代なのにあの貫禄。余談です。
それにしても裕次郎、デビュー2年目で、太陽にほえろのボスに比べなんと初々しいことか。この頃がいちばんカッコよかった。

同じ昭和30年代の「ぬれた瞳」はというと、
「湖愁」松島アキラ ♪ぬれた瞳を しのばせる
「北上夜曲」多摩幸子とマヒナ・スターズ ♪ぬれているよな あの瞳
「日暮れの小径」北原謙二 ♪ぬれた瞳で 頬よせて
などが。

旅立ち 松山千春
♪わたしの瞳が ぬれているのは

昭和52年のデビュー曲で女歌。

この歌をはじめて聴いたのは、その頃みたテレビ番組で。
記憶はかなり薄いですが、たしか卒業を控えた北海道の高校生の生活を追った(セミ)ドキュメンタリー番組。たしかアイスホッケー部だったかな。

倉本聰が演出か構成だかで、BGMにしきりにこの「旅立ち」が流れていました。

恋しい男の首途を蔭ながら見送るという歌詞は、戦前の「明日はお立ちか」と変わらぬおとこ発の“ニッポン女性”大和撫子の歌。
松山千春の透明感のある歌唱と、フォーク定番のギターのアルペジオが印象的でした。

この少し前にヒットした「太陽がくれた季節」(青い三角定規)でも、
♪若い悲しみに ぬれた眸で
と。

しかし人間はどうして悲しいことがあると瞳がぬれるのか。
まぁいろいろ科学的な解釈はあるようですが、とにかく涙には悲しみをやわらげる効果があることは間違いないようです。

むかしは「男の子は人前で泣かない」なんて“文化”がありました。
♪……人形のように 顔で泣かずに 腹で泣け 「男なら」 (男のバーゲンセール?)

「いや、人前で泣かない、ガマンするっていうのは男ばかりじゃないよ」という声が。
そういえばこんな歌もあったけ。
♪涙じゃないのよ 浮気な雨に ちょっぴりこの頬 ぬらしただけよ 「カスバの女」

♪涙こらえて 夜空をあおげば またたく星が 滲んでこぼれた 「女の意地」

まぁ、むかしは男も女も、恥じらいとか我慢がいまより強かったということでしょうか、結論としましては。


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三つの歌●瞳①洋楽 [day by day]

アメリカン・グラフティ1974.jpg

They asked me how I knew my true love was true,
I of course replied, something here inside cannot be denied.

They said someday you’ll find all who love are blind,
When your heart’s on fire, you must realize,
Smoke gets in your eyes.

So I chaffed and then I gaily laughed,
To think that they could doubt my love,
Yet today, my love has flown away,
I am without my love.

Now laughing friends deride tears I cannot hide,
So I smile and say when a lovely flame dies,
Smoke gets in your eyes.
([SMOKE GET'S IN YOUR EYES]lylics by OTTO HARBACH, songs by JEROME KERN, 1933)

前回(ずいぶん昔だ)、「ひとみちゃん」を考えているとき、ひとつ気づいたことがありました。
それは、名前の「ひとみ」ではなく、「瞳」という言葉が流行歌の世界でいかに乱発、いや頻発されているかということ。流行歌の王道として「瞳」は欠かせない。

♪その娘の やさしい 瞳の中に…… 「星に祈りを」(ブロードサイド・フォー)とか、

♪長い髪の少女 孤独な瞳…… 「長い髪の少女」(ゴールデン・カップス)とか。

タイトルでも「2憶4千万の瞳」(郷ひろみ)「君のひとみは10000ボルト」(堀内孝雄)なんかがありますし。

そこで、ハタと。しばらく瞳を何回かやってみようと。ネタ切れの昨今、これでしばらくいけるなんて。

とはいえ、瞳については過去に「黒い瞳」「青い瞳」「茶色の瞳」などをやってますので、今回は無色といいますか、とにかくタダのトリンドルではなくて、ただの瞳を。

まずは久しくやっていないので洋楽から。

古今東西、異性の瞳に胸がキュンとするのは同じなようで、洋楽でも瞳が出てくる歌はじつに多い。それを三つに絞るのはキビシイ。
明日になれば気分でまた変わるでしょうが、とりあえず今日好きな「瞳」のでてくる洋楽3本立てということで。

まずは「煙が目にしみる」SMOKE GETS IN YOUR EYES。
これはご存じのかたも多い、洋楽のなかでもかなりノスタルジックな歌。
1950年代にプラターズがうたって大ヒット。

煙が目にしみるっていっても、サンマを焼いてたり、焚き火をしているわけじゃないんです。恋人に去られ、胸に燃え盛っていた愛の火が消え、くすぶりあがる煙が身に、いや目にしみる、というハートブレイクソングなのです。

ジェローム・カーンの旋律が素晴らしい。
元はマーチ調だった(聴いてみたい)曲を、1933年、ミュージカルの「ロバータ」で使用する際、オットーの詞に合わせてスローに変えたという1曲。
ヴォーカルならプラターズ以外でも、サラ・ヴォーン、メル・トーメ、ダイナ・ワシントン、ジョー・スタッフォード、ナット・キング・コールと錚々たるメンバーがレコーディングしている。それほどの名曲。

ノスタルジックでムーディーな曲だけに、映画でもしばしばつかわれている(んじゃないでしょうか)。

わたしが覚えているのは2作品。
まずはジョージ・ルーカスの「アメリカン・グラフィティ」(1973年)。
オールデイズのヒットーパレードといった名作でした。
卒業式のダンパでスティーヴとロリーが踊るシーンでのBGM(YOU-TUBEでは長いですから3分すぎあたりからどうぞ)。
以後、日本でもディスコのチークタイムにはこの曲がよく流れるようになったとか。

もうひとつはスピルバーグの「オールウェイズ」(1989年)
これはメイン・テーマといっていいほど流れていました。
なぜかこの作品の主役も「アメ・グラ」と同じリチャード・ドレイファス。
事故で死んだ男が、恋人の新しい恋のために奮闘するというせつない“ゴースト・ストーリー”。

お話も良かったですが、当時観たわたしは、勇気をもって? 出演した天使役のオードリーに観劇、いや感激した覚えがあります。

とにかく別れを予感させるラヴシーンにはもってこいの曲でした。おそらくこれからもいろいろな映画でつかわれるのではないでしょうか。それほどエヴァグリーンな曲でも。

そうそう余談ですが、ゴースト・ストーリーといえば、「オールウェイズ」が劇場公開された年1989年には、やはり「生き返り話」の「フィールド・オブ・ドリームズ」が公開されています。そして翌年には極めつけの「ゴースト ニューヨークの幻」が。

つまり80年代末から90年代にかけて、日本でいえば平成初年、世はゴースト・ブームだったのです。これはハリウッドが仕掛けたものなのか。
いや、実はこれ日本発なんです。

「オールデーズ」が封切られる前年、すなわち1988年に日本映画「異人たちとの夏」(大林宣彦監督)が公開されているのです。これも山田太一が1987年に書いた小説が原作のゴースト・ストーリー。
それを観たスピルバーグが……。なんてことはないでしょうが。

余談が余計。もはや予定の3分の2を越してしまったので、急げマイケル。

2曲目はカントリーで「星をみつめないで」DON'T LET THE STARS GET IN YOUR EYES。

内容は、故郷を遠く離れた男が、恋人に「星をみつめないでおくれ」「月に心を奪われないでおくれ」「夜の恋なんて朝になれば色あせてしまうものさ」とうったえかけるもの。
つまり、浮気をせずにオイラのことを待ってておくれ、というヤキモチ焼きの男の歌。

テキサスのディスクジョッキー、スリム・ウィレットSLIM WILLET の自作自演が1952年のこと。なんでも朝鮮戦争へ出征した兵士が国の恋人へあてた手紙をヒントにつくられた歌だとか。

その後、スキーツ・マクドナルドSKEETS McDONALDがヒットさせて一躍有名に。ほかでもジョージ・ジョーンズGEORGE JONES、レッド・フォーリーRED FOLEY、ジョニー&ジャックJOHNNY & JACK など、多くのカントリーを中心としたシンガーたちがうたうように。

しかし、この曲を全米に知らしめたのは、カントリーシンガーではなく、かのペリー・コモPERRY COMO の大ヒットによって。カントリーナンバーがポップスにアレンジされて大ヒットするというのは、レイ・チャールズ「愛さずにはいられない」I CAN'T STOP LOVING YOU や先ごろ亡くなったホイットニー・ヒューストンWHITNEY HOUSTONの「オールウェイズ・ラヴ・ユー」I WILL ALWAYS LOVE YOU をあげるまでもなく、よくあること。

恋人を寝盗られないようにと願う歌にしては、かなり明るい歌でして。国民性か。

最後の選曲は少々迷いました。
イーグルス「偽りの瞳」LYIN' EYESもいいな。けどカントリーはすでに1曲とりあげたし。
ビリー・ホリデーBILLY HOLLIDAY の「ゼム・ゼア・アイズ」THEM THERE EYES もごきげんだし、しっとりしたエラELLA FITZGERALD の「エンジェル・アイズ」ANGEL EYES も捨てがたい。
幅広い世代に人気のR&B「君の瞳に恋してる」CAN'T TAKE MY EYES OFF YOU LIVE もいいし、オールディーズだったら「片目のジャック」BALLAD OF THE ONE EYE JACK なんてのもあったり。

でもやっぱりこれだ。「アニヴァーサリー・ソング」ANNIVERSARY SONG 。

アメリカでは知られた結婚記念日ソングで、ここでも以前とりあげたことがありましたっけ。
もともとはクラシックで、イヴァノヴィッチIVANOBICの「ドナウ河のさざなみ」DANUBE WAVE。

アル・ジョルスンAL JOLSONからはじまって、ビング・クロスビーBING CROSBY、ディーン・マーチンDEAN MARTIN、ダイナ・ショアDINAH SHORE、パット・ブーンPAT BOON、アンディ・ウィリアムスANDY WILLIAMS、コニー・フランシスCONNIE FRANCISなどなど多くのシンガーにうたわれている。ということは、それだけで名曲といえるのでしょう。

この歌で瞳が出てくるのは、以下の部分。

The world was in bloom there were stars in the skies
Except for the few that were there in your eyes.

二人を包む満天の星。世界にある99パーセントの星が輝いている。そして、残りの1パーセントは君の瞳の中に……

こんなこと言えるのはやっぱり欧米人ですね。東洋系、いや日本人にはとても言えない。
いや、いました日本人でも。あの人が。

♪君の 瞳は 星と輝き……

なんてうたってたものね。


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その名は●ひとみ [the name]

姉妹1955.jpg

♪ひとみちゃん ひとみちゃん
 君のひとみが ぬれてると
 星の光も 悲しそう
 君のひとみが 輝くと
 小川の流れも 嬉しそう
 丘のりんごの 木の下で
 君のひとみに 恋をした
(「ひとみちゃん」詞:水島哲、曲:米田信一、歌:神戸一郎、昭和34年)

テレビで観たい映画があると、つい録画してしまいます。観ないくせに。
そのうちに内蔵のハードディスクもいっぱいになり、あわててダビングしたり。

先日、仕事が一段落したのでようやく観る気に。
とりあえずいちばん最近にダビングしたものを。
それが昭和30年に制作された家城巳代治監督の「姉妹」。もちろんモノクロ。

これは以前原作を読んだことがあり、家城監督がどう料理したのか興味もあったので。

で、観た感想はというと、エピソードの多少の入れ替わりはあったものの、かなり原作に忠実に作られていました。
だからといって原作のダイジェストというわけではなく、それはそれで映画として完成されたものでした。どちらかといえば映画のほうがおもしろかったかも。

原作はもはや忘れられた感がありますが、畔柳二美(くろやなぎふみ)という女性の作家で、昭和29年代に書かれた彼女にとっての代表作。
五人姉弟の次女だった彼女と長女との交流を描いた自伝的作品でもあります。

昭和30年代前半、原田康子、有吉佐和子、曽野綾子、瀬戸内晴美らによってつくられた女流作家ブームに先がけて書かれた小説で、毎日出版文化賞の受賞作。

で、映画ですが原作者である次女役が中原ひとみ、長女役が野添ひとみと、意図したのかどうかは分かりませんが、ダブルひとみ。

映画のほうが小説よりもおもしろかったと思ったのは、この二人のみごとな演技があったからかもしれません。
とりわけ、次女の中原ひとみが溌溂としていて印象的でした。

考えや行動がボーイッシュで、直情型で正義感が強いという女学生。姉に言わせると「あなたは泳げないのに川に飛び込んでしまうような人」というパーソナリティ。

野添ひとみ(残念ながら亡くなりましたが)は昔からファンでしたが、中原ひとみがこれほど上手だとは。ハマリ役だったのかもしれませんが、見直しました。

そんなわけで、どうしてもブログで「ひとみ」をやってみようと。

中原ひとみがレコードを出したかどうかはしりませんが、野添ひとみは歌手デビューしています。こちらもあまりうたうことが好きではなかったのか、数少なく、知っているのは昭和29年の「月のしずく」「君に誓いし」

どちらも作曲は「東京だよおっ母さん」万城目正、詞は前者が藤浦洸、後者が西條八十。後者は青木光一とのデュオだそうで、YOU-TUBEではじめて聴きました。

これだけでは淋しいのでそのほかの「ひとみ」さんの歌も。

やっぱり「ひとみ」といえば、愛知県出身の石川さんです。
「姉妹」の中原、野添もそうでしたが、石川ひとみもまた、瞳が印象的。

彼女たち「ひとみちゃんず」はオギャと生まれたてから瞳がつぶらだったために「ひとみ」と命名されたのじゃないでしょうか。違うかな。

石川ひとみはこのブログには何度も出てきてまして、その都度歌は代表曲の「まちぶせ」
あまりストーカーみたいなことばかりやらせておくのもナンナので、たまには違った曲を。
たまにはカヴァーもいいのではと思い、まずは同じアイドルの名曲を。
そして、もう1曲は歌がうまくなくてもカヴァーしやすいフォークソングから、やはりその名曲を。

カバーといえば、そのカヴァーでメジャーになった「ひとみさん」がいました。
広島県出身の島谷ひとみ

彼女の最大のヒット曲はご存じのとおりすぎやまこういちの名作「亜麻色の髪の乙女」
ご同輩なら知ってのとおり、オリジナルはGS、ヴィレッジ・シンガーズ

これで味をしめたのか、男性シンガーあるいはグループをカヴァーしたアルバムを2枚出しています。その中からやはりニューミュージックの名曲を。

ほかでは、J-POPの矢井田瞳や、元モーニング娘。の吉澤ひとみが。
ついでに若原一郎の娘さんが女優の若原瞳

また苗字ならば最近タイガースとしてテレビに出たらしい(見ておりませんが)、ピーこと瞳みのるがいます。

いにしえには、瞳麗子なんて、コケティッシュな 女優もいましたし、そんなんでいいんなら、喜劇役者の人見みのる、アスリート界では“鉄女”人見絹江もおりました。

話がとっちらかりそうなので戻しまして、“ダブルひとみ”の出ていた映画「姉妹」は、多々良純、望月優子、河野秋武、殿山泰司などのなつかしき人々を見ることもできました。

ところでこの映画、原作と最もことなる点はその時代背景。
原作が昭和初期前後なのに対して映画はほぼ同年代、つまり昭和20年代の後半。

姉妹の実家がある、山中の発電所のある村に馬車屋があって、その若妻が鼻歌を口ずさみます。
その歌が原作では大正初期に流行った松井須磨子「カチューシャの唄」
一方映画では神楽坂はん子「ゲイシャワルツ」。これは昭和27年のヒット曲。
映画では、ほかにも時代を思わせる職場のうたごえ運動の場面があって、トロイカやカチューシャなどのロシア民謡が聞えていました。

ラストシーン嫁いでいく姉を妹が見送るシーン。
映画では、お嫁さんはオープンボンネットのバスに乗って去っていきますが、原作では雪深い山の村から馬橇に乗って嫁いでいきます。

今年はじめての映画、いやDVD鑑賞でした。いい映画でした。

さいごにもうひとつ、冒頭に載せた歌詞はいまは亡き神戸一郎「ひとみちゃん」
「りんごちゃん」なんてのもありました。こちらはマイナーチューンで。
なお、作曲の米田信一は、これまた亡くなりましたが、かの遠藤実の別名。


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その名は●芦野宏 [the name]

芦野宏&イヴェット・ジロー.jpg

♪僕のママもお料理 Salade de Fruits 毎日さ
 生まれてこの年まで サラダで育った僕だよ
 Salade de fruits, jolie, jolie, jolie,
 すてきな色 すてきな味
 Salade de fruits, jolie, jolie, jolie,
 おまけに栄養満点

(「サラダのうた」曲:Armand Canfora&Noel Roux 訳詞:薩摩忠、歌:芦野宏、、昭和35年)

一昨年の石井好子さんについで、またひとつシャンソンの灯が消えました。

昭和30年代から40年代にかけてが、まさに芦野さんの“ゴールデン・エイジ”。

それはシャンソンの枠からとびだし、NHKのワイドショー的番組(まだ現在のようなワイドショーがなかった)でMCをつとめるなど、タレントとしても活躍。

そのことはまた、「シャンソンを茶の間へ」という彼のポリシーを実践することでも。

ダミアが来日した昭和28年、芦野宏はいまふうにいえばメジャーデビューしている。
“舞台”はNHKラジオ。
そのときうたったのが、シャンソンではなくボレロとタンゴだというからわからないもの。

幼少のころから歌がじょうずで、東京芸大の声楽科を卒業し、女学校の音楽教師になったが、シンガーの夢抑えきれず、奉職一年でプロの道へ。

メジャーデビューの前は米軍キャンプでうたったことも。そういう時代でした。
そこではカントリーバンドをバックにうたったこともあったとか。さすがにレパートリーは「谷間の灯」だけだったそうだ。

そんな彼にシャンソンをすすめたのが、淡谷のり子

ダミアの来日から日本でのシャンソンブームに火がつき、30年のイヴェット・ジローの来日で大ブレイクとなる。
ジローは芦野宏が最も敬愛するシンガーのひとり。

以後、淡谷のり子、石井好子、高英男、越路吹雪、丸山明宏、中原美紗緒らとともに日本のシャンソンの歴史をつくりあげ、また多くのシンガーを育ててきた。

わたしが記憶しているのは、NHKテレビのポピュラー番組などだったと思う。
ほかには高島忠夫旗照夫なども出ていた。
そして耳に残っているのは「カナダ旅行」「サラダのうた」(いまは「フルーツ・サラダの歌」と正確にいっている)。
(いずれもYOU-TUBEに芦野盤がありませんのであしからず)

ほかでは、芦野宏の代名詞になっている「幸福を売る男」。これは10年余り前に出た、彼の自伝のタイトルにもなっている。

NHK紅白歌合戦には10回連続で出場しているし、晩年は群馬県渋川市にある「日本シャンソン館」の館長を務めるなど最後まで日本のシャンソン界に貢献していた。
また日本のシャンソンの祭典「パリ祭」でも、毎年元気な姿を披露していた。

ニュースで87歳という御歳をみれば、感無量。
一ファンとして、「ごくろうさまでした」、「ありがとうございました」と申し上げたい。


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異論な人●お下げ髪 [people]

 キューポラのある街4.jpg

♪ 長いお下げ髪 あの娘のことさ
  あぜ道がえり いじめた娘だよ
  忘れはしない お下げ髪だよ
  別れのときに 何にも言えず
  お下げのリボンを 投げてった
  涙のつぶが 光っていたね
  これがこれが 恋ならば
  僕は僕は さびしいよ
  僕は今日も 今日もひとりぼち
(「長いお下げ髪」詞・曲:神津善行、歌:守屋浩、昭和37年)

先日、ある女性とすれ違ってギョッ(なんていわなかったけど)とした。

なぜかというと、その女性髪を三つ編みお下げにしていたから。

いまどき「お下げ」なんて流行りじゃないけど、さほど驚くことでも……と思うかもしれませんが、まだ話は途中。

髪の色は茶と白のまだら。茶に染めたものの、時間が経って地毛の白髪が少し混じってしまったのでは、と見受けました。
そうなんです、彼女は見たところ40代半ばから50歳あたり。つまり中年女性だったんです。

ファッションもなかなかで、ボヘミアン調のロングスカートにボアのついたバックスキンのコート。足元はロングブーツ。
自分のファッションに自信があるのか、さっそうと風を切って通り過ぎていきました。

しばらく前に60代とおぼしき女性の三つ編みは見たことがありましたが、その彼女の場合、ひとつにまとめた三つ編みでした。
今回のようにきれいに両肩に垂らしたお下げ髪はひさびさ。それも中年女性とは。

われわれの中高時代は、お下げの娘はさほどめずらしくはなかった。といっても決してマジョリティではありませんでしたが。

制服もセーラー服からジャッケト風のものに変わっていった頃で、それとともにお下げ髪も衰退していったように。
それでも、学校によってはセーラー服と三つ編みお下げを校則にしていたところもあったり(とくに女子高)。

高校時代のクラスにも、お下げ髪の同級生がいました。じつはこのブログを書いている途中で、その娘のことを思い出したのですが。

修学旅行で同じグループになり、列車の中で彼女が、わたしの肩に頭をのせて居眠りをしてしまったなんてことがありました。

もちろんわたしは、起こすなんて野暮なことはしません、目覚めたらどんな顔するのかななんてイタズラごころもあったりして。

そして、案の定目を覚ますと、何か不潔なものから逃れるかのように、パッとわたしから身を離したことを思い出します。その後、お互いに恋愛感情が芽生えたなんてこともなかったけれど、いま思えば、彼女のあの仕種、なんて純情だったことか。

その彼女の顔は思い浮かぶのですが、名前がでてこない(名簿も写真も手元にないので)。
でもあだ名は覚えている。あだ名といっても男子連中がカゲで言ってただけで、決して彼女の前で言ったりはしませんでしたが。

そのあだ名は「マンジュシャゲ」。
なぜかというと、彼女は丸顔で、お下げ髪、つまりマンジュウにお下げ、すなわち「マンジュシャゲ」。アホな高校生はいまも昔もです。

そうした「お下げ髪」ももはや「昭和の遺物」と化してしまったのでしょうか。ときおり昔の映像で見ることもありますが、昭和20年代から40年代にかけての流行歌にもしばしば登場します。では、そんな歌をいくつか。

「白い花が咲く頃」(岡本敦郎) 昭和25年
戦後、苦しいなりにどうにかこうにかひと息入れられた頃のヒット曲。初恋を偲ぶ歌で、白い花と初恋の相手をダブらせたところは戦前の「森の小径」にも通ずる。
元音楽教師の岡本敦郎のていねいな歌唱がこの叙情歌にぴったり。歌声喫茶の定番だったようですが、はたしていつまでうたわれる続けるのでしょうか。

ほかでも、26年には美空ひばり「おさげとまきげ」が、また32年には三橋美智也「お下げと花と地蔵さんと」があるし、津村謙「月夜の笛」(30年)にも「お下げ」がでてくる。

「長いお下げ髪」(守屋浩) 昭和37年
これも幼なじみとの初恋をうたったもの。
この歌を聴いていると、「そうだった、お下げにリボンを結んでいた娘がいたな」って想い出したり。
歌ではそのリボンが何色か説明していませんが、どうしても紺色なんですね、思い浮かぶのが。
作詞作曲は神津善行。中村メイコの旦那さん。といってもいまじゃ中村メイコを知らない人のほうが多い。きっと。
ほかにヒット曲としては、どちらも作曲のみですが、江利チエミ「新妻に捧げる歌」「星空に両手を」(島倉千代子、守屋浩)が。
また、美空ひばりとは懇意にしていて「髪」「夾竹桃の咲く頃」、「喜びの日の涙」、「さよならの向こうに」などを手がけています。

「明日があるさ」(坂本九) 昭和38年
いまじゃストーカー行為として忌み嫌われる「待ち伏せ」ソングで、なかなか告白できないけど、いつかきっと……、という思いがもてない若者(余計なことを)の共感を得て大ヒット。
その詞は青島幸男。傑作です。カントリーを思わせる旋律は「芽生えてそして」中村八大
もちろんヒットの最大の要因は陽性シンガーの坂本九。10年余り前にウルフルズなどがリメイク。でも当然なんだろうけどウルフルズでは「お下げ髪」は出てこない。とはいえ今後もなにかにつけてリバイバルしそうな「長生きソング」。

「夕笛」(舟木一夫) 昭和42年
「美少女好き」(嫌いな男いるのかな)西條八十、晩年の傑作。
西條が尊敬する三木露風が実体験から書いた詩「ふるさとの」がベースになっている。
曲は「東京無情」船村徹
当時のヒット曲の例にもれず映画化されていますが、観ていません。
時代は大正あるいは昭和初期の設定でしょうか。なら、お下げ髪、さもありなん。

この時代のいわゆる「青春歌謡」にはしばしば「お下げ髪」がでてきました。なにしろ日本最後の純情時代でしたから。
たとえば北原謙二「若い明日」「忘れないさ」三田明「ごめんねチコちゃん」などにも。

ところでYOU-TUBEの松原智恵子さん、似合ってますね、お下げ髪。
お下げの似合う、あるいは似合った女優といえば誰でしょうか。

「夏よお前は」(ベッツィ&クリス) 昭和45年
ポップス系で「お下げ」がでてくるのはめずらしい。といってもそもそも「お下げ髪」は舶来品ではあるのですけど。
ただ、なんでベッツィ&クリスなのかという疑問は残りますが。名曲です。
これも以前とりあげましたが(もうネタぎれ、使い回し大会状態)、作曲の井上かつおの最大のヒット曲は森山加代子「白い蝶のサンバ」。そういえば加代ちゃん、デビュー当時はお下げ髪だった。

話をはじめに戻しまして、道ですれ違った40代のお下げ髪、じつはつい最近も見かけました。それも意外なところで。でそのとき、彼女が何者なのかもわかってしまいました。

それは、わたしがいつも駅まで行く途中で横切る公園でのこと。
その公園の砂場で彼女は何人もの幼児と遊んでいたのです。
どうやら彼女は保母さんだったようです。

ほかにも数人の保母さんや保父さんがいましたが、みんな若者で年配者は彼女だけ。
もちろん、お下げ髪も彼女ひとり。

しかし、その働きぶりというのか、幼児の扱いは若い保母さんとまるで変わらない。
もしかしたらあの「三つ編みお下げ髪」は、若い人には負けない、わたしだってまだまだ若いんだ、という彼女の心意気の象徴なのかも知れないなんて、通りすがりに感じたり。


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KBA48 [day by day]

競馬.jpg

♪ねらった大穴 見事にはずれ
 頭カッときて 最終レース
 気がつきゃボーナスぁ スッカラカンのカラカラ
 馬で金もうけ した奴ぁないよ
 分かっちゃいるけど やめられない
 ………………
(「スーダラ節」詞:青島幸男、曲:萩原哲晶、歌:ハナ肇とクレージー・キャッツ、昭和36年)

某日、駅から自宅への帰路で、

♪…………
♪ガンガンなってるMUSIC……

……いけねぇ、ヘンな歌うたってしまった。

歌のタイトルどおり、あんだけラジオや有線で聴かされりゃ、鼻歌も出ようってもんよ。
誰も聞いてなかっただろうな……。

なんてことが。
スゴイですね、AKB48

恥ずかしくって書かないけど、わたしだって何人かの名前はいえる。

んじゃ、ここでAKB48について語り、曲をYOU-TUBEにリンクさせるのかというと、そうではない。だいいちそう詳しくは知りませんし。

実は、はじめてAKB48という名を新聞で見たとき、思わず「AKB」を「KBA」と見間違えてしまして。なぜなら「KBA」は以前よくつかっていたもので。

では「KBA」とはなんぞや。
「AKB」のエリアは秋葉原ですが、「KBA」は関東では府中、大井、中山、船橋などといえば賢明な(いや逆かな)方は推察できるとおり、競馬のこと。

大昔かなり競馬にのめりこんでいたことがありまして、その周辺で糊口をしのいでいたこともあったり。そのときメモにしろ原稿にしろ「競馬」はすべて簡略に「KBA」と記しておりました。

それから仕事からも離れ、熱も冷め(微熱はありますが)て現在に至っておりますが、そんなことから折しもフィーバーとなった「AKB48」を読み間違えてしまったというわけ。

で、今回はAKB48ファンには申し訳ないですが、「KBA」の話。

馬の歌なら戦前の軍歌の「愛馬進軍歌」やわらべ歌で、♪おうまのおやこは でなじみの「おうま」や♪ぬれた仔馬のたてがみに の「めんこい仔馬」、戦後なら流行歌の「達者でナ」(三橋美智也)や「あの丘越えて」(美空ひばり)がすぐ思い浮かびますが、今日は競馬の歌。

JRAのTVコマーシャルでもみられるように、日本で競馬が始まったのが約150年前。幕末というから驚き。

ということは、戦前にも……と思って調べてみたらありました。
もっとあったのかもしれませんが、判明したのは以下の2曲。

「競馬小唄」 詞:西條八十、曲:松平信博、歌:小唄勝太郎 
「競馬の唄」 詞:西條八十、曲:橋本国彦、歌:四家文子

「馬の娘」いや、「島の娘」の大ヒットでしられる勝太郎は、当時競走馬を何頭か所有していた馬主だったとか。
いまでも、いますよね芸能人で馬主が。最近(でもないか)でGIを獲ったのが歌手の前川清。たしかコイウタという牝馬でした。

それと上の2曲、作詞はいずれも西條八十
かなりの競馬好きだったのかな、と想像できますが、西條八十が馬主だったとか、馬券を買っていたなんて話、あまり聞かない。
まぁ、将棋をまったく知らなくても「王将」(村田英雄)という大ヒット曲を書くのですから、問題ないでしょう。
どっちにしろ2曲とも聴いたことなんてありません。

で、戦後。
最もヒットした競馬の歌、というより競走馬の歌といえば、「さらばハイセイコー」(増沢末夫)でしょうか。
実際の馬が流行歌になってしまうというのもスゴイが、その主戦ジョッキーがうたってしまうというのもスゴイ。

かの三冠馬、シンボリルドルフ、ナリタブライアン、オルフェーブルらがいかに強くても歌になったという話は聞かない(なっているかもしれないけど、一般には届いていない)。

たんに強いだけでは歌にならない。多くの人が耳を傾けてはくれない。
そこにはドラマがなくては。
ハイセイコーにはそれがありました。

ハイセイコーは中央競馬生え抜きの競走馬ではなく、公営競馬出身で、中央に転厩してきた馬。
公営競馬は中央に比べるとその能力はワンランクもツーランクも劣るという馬たちによるレース。中には“草競馬”なんていう人もいるぐらい。

そういう馬のなかにも時折、ものすごい成長力をみせる馬がいます。ハイセイコーもそうで、そうした馬たちは中央へ移籍し、最強の馬場で勝負することになります。のちのオグリキャップもそうでした。

そこで、ハイセイコーのように中央馬を尻目にGⅠホースになってしまうのですから、競馬ファンだけでなく一般人までが応援したくなったり。
なにせ日本人は“成り上がりストーリー”が好きですから。
とりわけ、馬券負け組の競馬ファンはなおさら。

曲のヒットの要因のひとつには、猪俣公章の軍歌調のメロディーにもありました。当時の日本人、軍歌好きだったものね。

この「さらばハイセイコー」を凌ぐ(多分)売り上げを記録したのがソルティー・シュガー「走れコウタロー」

これはまったくの架空の馬・コウタローがダービーで勝って穴をあけるというコミックソングで曲はカントリー調。日本ではなぜかカントリー調というとコミックソングやドタバタ劇のBGMにつかわれていた、いや、いる。

馬名がバンドメンバーの山本コウタローからとったことはあまりにも有名。
20数年後、アニメ「みどりのマキバオー」に馬名を変えてつかわれていた。

ほかでは、競馬場がでてくる歌としてユーミン作の「中央フリーウェイ」忌野清志郎「競馬場で会いましょう」、作詞の青島幸男がギャンブラーの真理をみごとについた「スーダラ節」(ハナ肇とクレージー・キャッツ)があります。

また、曲は聴いたことがありませんが、大月みやこがうたう「競馬人生」というのがあるそうです。

馬いはなしに すぐ乗せられて
いつも怪我する お人好し
あなた見てると ジョッキージョッキーするわ
だからわたしが この手綱
強く引いたり ゆるめたり

という詞は現役のダービージョッキーだった小島太(現在は調教師)。

ところでKBA48の「KBA」が競馬だということはわかってもらえたと思いますが、では「48」はなんなのか。

これを「フォーティエイト」と読んではいけません「よんはち」もしくは「よんぱち」と読みます。

そうです競馬の出目、買い目なのです。だから「KBA48」。

「4」は大昔、有馬記念を4のゾロ目で獲って以来の、わたしのラッキーナンバー。
「8」は枠連しかなかった当時、統計的にも連対確率の高かった枠番。
迷ったときの「4―8」ということでよく買っていました。結果はともかく。

競馬予想のポイントは人それぞれです。
過去の実績、当日の仕上がり・気配、展開、ジョッキーなどなど。
わたしも以前は競馬新聞と首っ引きで何時間もかけて赤ペンを走らせていました。
しかし、某馬券師が語っていたように、いきつくところは出目。

何をやっても的中しないのであれば、賽の目に賭けたくなるのは人情。
賽の目といっても、ただの運否天賦ではない。
サイコロが転がって出る目を読むのです。
それはその日が何月何日か、からはじまって、当日の目の出方、前レースの出目などなどで買い目を決めるのです。

まぁ、いわゆるケントク買いなのですが、そんなに馬鹿にしたものでもありません。
出目、すなわち数字には「数霊」といって独特の動きや流れがあるらしい。

えっ? ならば、その「数霊」とやらで儲かっているのか、って?

……………………。


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三つの歌●絶望 [day by day]

黒の舟唄.jpg

♪忘れられないけど 忘れようあなたを
 めぐり逢うときが ふたり遅すぎた
 愛の炎は消し 暗い絶望だけ
 胸に抱きしめて 僕は生きてゆく
 だけど もしも ここにあなたが
 いたなら 駆け寄り すぐに抱くだろ
 あなたを 連れ去り 逃げていきたい
(「許されない愛」詞:山上路夫、曲:加瀬邦彦、歌:沢田研二、昭和47年)

食事のあと、テレビもつまらないので音楽を聴きながらブログを書いてます。

60年代のカヴァーポップス。いまミコちゃんの「子供ぢゃないの」が終って、ミッチー・サハラ「夢見るシャンソン人形」が流れてきました。あらためてきくとミッチー・サハラ、歌が上手ですね。フランス語もきれいだし。

ではおっぱじめます。

希望を抱くのが人間ならば、絶望するのもまた人間。
ならば、「希望」の次は「絶望」で。
まあ、よくいえばバランス感覚、ふつうにいえば思いつきということ。

しかし「絶望」、かなりキツイ言葉です、なにせ望みを絶ってしまうのですから。決定的です。字面もななんとなく、書きたくないし、見たくもない単語です。

だからマス・メディアでもあまり頻繁にはつかわない。

たとえば、山の遭難で数週間が経過したとしても新聞の一般紙やテレビの報道では「絶望」とは書かないし、コメントしない。
常識的に考えれば「絶望」であっても、1%の可能性があれば、やはり使わない。その家族への配慮もあるでしょうし。

「絶望」という言葉をいとも簡単につかうのは、スポーツ新聞や週刊誌。
はたして山の遭難で「絶望」という言葉をつかうかどうかはわかりませんが、スポーツ、芸能のエンタメ系ニュースではしばしば見るし、耳にする。

それでも、たとえば
「××投手 左アキレス腱断裂 今季の出場絶望的」
などのように絶望ではなく「絶望的」と「的」をつけてインパクトを抑えたり。
さらに遠慮がちになると「絶望的か」なんて小さな「か」をつけたり。

それほど「絶望」という言葉には悪魔的な“文字霊”が宿っている。

だから流行歌では、あまり使われない。
かといって全然ないわけじゃない。だけど、「希望」に比べるとはるかに少ない。

すぐに思い浮かぶのはゴールデン・カップス「絶望の人生」
これは[I got a mind to give up living]というブルースをカヴァーしたもの。
マモル・マヌーがヴォーカルをとっています。

そして、前向きになんか生きたくはない、過去と向かい合ってメソメソしたいんだと、先頭を走る者のシンドさをうたった岡林信康「絶望的前衛」

さらに絶叫的絶望的絶唱音頭は、サンボマスター「絶望と欲望と男の子と女の子」

もひとつあげるなら暗く消えてしまいたかった灰スクールの頃をうたった奥田美和子「絶望の果て」「二人」というアルバムの中の曲で、その中の「青空の果て」も詞がやや異なるけど旋律は同じ絶望ソング。この2曲を含め全13曲のすべてを柳美里が作詞している。そりゃ、暗くもなろうさ。絶望もしようさ。

と以上ピックアップした4曲は、ポピュラリティーがないとか、いまいちピンとこないなどの理由で、「三つの歌」としては選外。
というより、他にとりあげたい歌があったということ。では。

絶望グッドバイ(藤井隆)
平成14年というから昭和歌謡ではないけれど、なにしろ作者が松本隆筒美京平だから昭和の香りが芬々。ちなみにこのコンビのヒット曲はあまたあって、「東京ララバイ」<中原理恵)、「セクシャル・バイオレット№1」(桑名正博)、「スニーカーぶるーす」(近藤真彦)、「木綿のハンカチーフ」(太田裕美)などなど。

で、この「絶望グッドバイ」は彼女との別れに絶望する彼という設定。
その悲しみがあまり伝わってこないのは、ダンサブルなアレンジが原因かも。
松本隆の詞も「僕のズック靴いつも躓く」なんて、どうでもいいことを入れてくるから気になって悲しみが薄れてしまうのかも。
それほど絶望して取り乱しているのだ、といわれればそうとも思えるけど。

だいたい平成の時代に「ズック靴」はないだろう。
そういうところとか、谷川俊太郎や寺山修司の名句をシレッとつかってみたりしているところが個人的には気に入っています。

許されない愛(沢田研二)
やっぱり「絶望感」を出すにはバラードでなけりゃ。
これは不倫にピリオドを打つという流行歌の定番「あきらめ節」。なるほど絶望感は出ています。
その詞はいずみたくグループの山上路夫。暗い旋律はワイルドワンズの加瀬邦彦
そしてなによりも、沢田研二の「泣き節」がその絶望感をより高めています。役者やのぉ。

昭和47年のヒット曲で、その翌年にやはり加瀬邦彦が今度は安井かずみと組んでつくった「危険なふたり」でレコード大賞をとることに。

個人的にはそのふたつの曲の間につくられた、やはり安井・加瀬コンビの「あなたへの愛」が沢田研二のベストソングなのですが、絶望のかけらもないラヴソングなので、いつかまた、ということで。

ところで、奥田美和子の歌ではないですが絶望の果てとは。
そうです自ら命を絶ってしまうこと。つまり最も大きな絶望。
去年もそうだったようですが、毎年3万人もの自殺者がでているとか。

その自殺が出てくる、あるいはほのめかす歌もいくつかあります。
たとえば、「このまま死んでしまいたい」とうたう「アカシヤの雨がやむとき」(西田佐知子)
自殺者がふえているという新聞記事を“引用”した「傘がない」(井上陽水)
そして、まさにこれから自殺しようとしている女性を主人公にした「帰らざる日々」(アリス)
さらには貧しさと世間に絶望しての道行き、「昭和枯れすすき」(さくらと一郎)など。

しかし、ここでの三つ目の歌は、また別の意味で世を儚んでいる歌を。

マリリンモンロー・ノーリターン(野坂昭如)
「この世はもうじきお終いだ」と、末法思想のお題目のようにはじまる昭和46年の歌。
歌手・野坂昭如絶頂の頃。ほかにも「バージン・ブルース」とか「終末のタンゴ」、「黒の舟唄」、「花ざかりの森」などいい歌がいくつもありました。

これらの歌はすべて桜井順の作詞作曲(作詞は“能吉利人”のペンネームで)。野坂と桜井は三木鶏郎グループ「冗談工房」の仲間。

それにしても、この歌のヒントになっているのがマリリン・モンローが主演し主題歌をうたった「帰らざる河」であることはもちろん、この歌そのものももはや忘れられているのではないでしょうか。
野坂さん、脳梗塞に倒れながらも、いまだ健筆をふるっているとか。

しかし、あらためて考えると、希望があるから絶望するんだな。
希望が大きければ大きいほど、絶望も深くなる。
だとすれば、希望なんかもたなければ、絶望することもない。
だけど、やっぱり希望がないと生きていけない。おもしろくない。

そう考えると、「希望」を抱くにしても、ささやかで小さいもののほうがいいのかも。
せいぜい中ぐらいで、決して大きな希望などいだかない方がいい。「ちっちぇい奴だ」などと、他人からどんなに詰られても。
これを「希望中小」といったりする。

いつまでたってもシリアスになりきれないわたしです、許してやってください。

いま、流れているのは斎藤チヤ子「失恋の海」。なにしろ80数曲、5時間弱ランダム設定のMDなので、まだ当分聴いていられます。では。


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三つの歌●希望 [day by day]

若者たち.jpg

♪生きていくことって 泣けてくるよね
 灯の家路に 迷う人には
 夢をけずられても  明日を夢見る
 恋に捨てられても 憎んじゃだめさ
 空を見上げて 涙ためて歩こう
 願いが叶う 星がみつかるように
 
 俺は希望商人 希望商人 幸せのひとかけらを
 喜劇の街へ 悲劇の街へ 売り歩くのさ
(「希望商人」詞:大津あきら、曲&歌:佐藤隆、昭和61年)

今日は寒かった。冷たい風も吹いて。ああいうのをチリ・ウインドっていうんでしょうね。

チリ・ウインドだからって、南米はチリの方から吹いてくる風でも、塵(ちり)を巻き上げて吹いてくる風でもありません。わかってますか。そうですか。

ではさっそく今日の“お題”を。
前回、最後に控えめな予告をした? とおり「希望」

昨年の暮れから、年明けにかけてしばしば見たり聞いたりした言葉です。
去年のことがあっての今年のはじめっていうこともあるけど、震災がなくたってなくちゃならない大切なもの、それが希望でしょうか。

われわれのような、マラソンでいえばとうに折返し点をすぎて、35キロ地点にさしかかろうという“たそがれ族”ならまだしも、若い人にはこの「希望」ってヤツがないと、楽しく生きてはいけない。

希望の形はひとそれぞれでしょうけど、ソイツがあるから、厭なこと苦しいことも耐え忍ぶことができる、そんなものじゃないでしょうか、希望って。たとえそれが幻であっても(そこまでいっちゃうことないか)。

だから流行歌のなかでも、「希望」はふんだんにちりばめられている。
                                       
希望の歌、希望の街、希望の道、希望の丘、希望の轍、希望の鐘、希望の虹、希望の匂い……。

それは、あの暗い戦争の時代から、現代に至るまで、連綿とうたい続けられているのです。まるでアヘン、いや清涼飲料水のように。

今年はなるべく能書きを短くしよう、そのぶん数をふやそう、というのが課題でして。
さっそく「希望ベスト3」ソングを。

「希望商人」佐藤隆
アルバム「日々の泡」のなかの1曲。
「マイ・クラシック」「カルメン」も好きだけど、この曲がいちばん。
はじめてラジオで聴いたときは「希望少年」なんて空耳をやってしまった。

この「希望商人」もそうだけど「マイ・クラシック」も「カルメン」も作詞は大津あきら
佐藤隆の歌は、松本隆、谷村新司、康珍化、竜真知子、岡田冨美子など作詞家陣百花繚乱だけど、なぜか大津あきらの詞に感応してしまいました。

大津はごぞんじの方も多いでしょうが、つかこうへい劇団の音楽を担当して名を挙げた人。
その後作詞家に転じましたが、21世紀をまたず、50歳をまたず、惜しくも病気で亡くなりました。
最大のヒット曲は中村雅俊「心の色」
徳永英明「風のエオリア」もいいな。

「希望商人」はコンセプトがシャンソンの「幸福を売る男」に似ているけど、それよりはもうすこし陰翳が強くて、「喜劇の街へ、悲劇の街へ……」とか「罪と罰を 拾い歩く」とか、作詞家のセンスがにじみ出ている。

「希望」岸洋子
われわれというか、もう少し広げて現在の50代、60代、70代の歌好きに「希望の歌といえば?」って訊ねたら、おそらく半分以上はこの「希望」をあげるんじゃないでしょうか。
昭和45年、西暦なら1970年。まさに激動の年で、この曲や詞にどこか哀調といいますか、翳りが感じられるのは、そうした時代を反映していたからでしょう。

なにしろこの歌のなかで「希望」はなかなか叶うことがない。
「希望」を探し求める旅はかなりハードで、つかみそうになると去っていってしまう。それでも希望探しの旅は続いていく、もしかしたら命が果てるまで続くのかもしれない、というようなニュアンスさえこの歌から感じとれます。

曲は彼女の初ヒット「夜明けのうた」と同じいずみたく。詞はいずみたくとコンビを組んでいた舞台演出家の藤田敏雄

「小さな日記」フォー・セインツと競作でしたが、ごぞんじのように岸盤が大ヒット。
ちなみに編曲は岸盤が川口真。フォー・セインツ盤はいずみたくの弟子? の渋谷毅
とにかく、いろいろなシンガーにカヴァーされている名曲。

ところで、この「希望」には前段、つまりそこへつながるもうひとつの歌があったことをご存じでしょうか。それが、「希望」三つの歌の最後の歌

「若者たち」ブロードサイド・フォー
「希望」の4年前、つまり昭和41年のヒット曲。
同名のテレビドラマの主題歌でした。山本圭、田中邦衛、佐藤オリエ、橋本功、松山省二の5人兄弟の貧しいけど純で熱いドラマでした。

曲を担当したのは黒澤明の「用心棒」など映画音楽を多くてがけた佐藤勝
流行歌では石原裕次郎「狂った果実」、「若者たち」の続編といわれた(ピンとこなかったけど)「昭和ブルース」(ブルーベル・シンガーズ)、「手紙」(由紀さおり)などを。

で、作詞は「希望」と同じ藤田敏雄。
この「若者たち」では、1番で
♪君の行く道は 果てしなく遠い……
と若者が歩んでいく人生が決してイージーではないことをうたっています。
それでも3番では、
♪君の行く道は 希望へと続く……
というように、それでも歯をくいしばって歩き続ければ希望の地へたどりつけると、流行歌の定番で終っています。

「若者たち」が希望を求めて歩き続けて4年、到達できたのか。
すでに述べたようにヒット曲「希望」では、相変わらず「希望探しの旅」を続けています。
これはブラックユーモアでもなければ、若者たちが「希望」をみつけられないのは、4年前よりさらにハードな季節に入ってしまったからということでもない。

これが真理である、カフカの「城」のように決してたどり着けないもの、それが「希望」なのだ。それでも人間はそれを追い求めていくしかないのだ。
とこの2つの歌で作詞者は言っているような気がします。

藤田敏雄はそのほか、「若者たち」が世に出る前の年に雪村いずみ「約束」や、当時世間を驚かせた吉展ちゃん誘拐事件で逃亡する犯人に対するメッセージソング「返しておくれ今すぐに」(市川染五郎、ザ・ピーナッツ)を作詞しています。

とにかく、若い人が希望をもてる日本であり、世界であってほしいというのは“ゴール”目前のわれわれにとって偽らざる気持でしょう。

では、自分を省みて己の希望は何だったのか、現在はどうなのかって考えると、わたしには暗澹たるものがあります。それでも負け惜しみをいわせてもらえれば、希望探しの果てしのない旅は、いまだ続いているのだ、と。ほんとかよ……。


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三つの歌●着物 [day by day]

竹久夢二001.jpg

昨日は成人式。

いやあ多かったですね女性の晴れ着姿。
今年は男の紋付き袴姿も例年より多かったけど。

きのうの朝、用事でコンビニへ行ったら、途中でこれから成人式へ行くとおぼしき女性の二人連れ(ひとりの晴れ着っていうのはあまり見ない)と遭遇。
「イイネ」なんてニヤついていたら、二人は立ち止り、何か話していたと思うや、ひとりが突然駆け足でいま来た道を戻って行きました。
多分、なにか忘れ物をしたのでしょう。

で、そのときの姿がスゴかった。
着物の裾を膝上あたりまでまくり持って、脱兎のごとく。

二十歳だもの。先日の話の「車中の化粧」と同じで“恥じらい”が身についてないんだね。

でも、その“あられもない姿”は理にかなっている。
友達を少しでも待たせまいと思ったら、全速力モードで行かないと。
それには通常の着物姿ではむり。

映画やテレビの時代劇ではそんなお嬢さん見たことないけど、実際には、たとえば悪漢に追いかけられた娘さんなんか、思い切り裾をまくって逃げたんじゃないかな。
昨日の朝の光景を見ながら、そんなくだらないこと考えました。

そして今日の「着物晴れ姿」はサッカーの年間女子最優秀選手に選ばれた澤穂希。

テレビでメッシとのツーショットを見て、あらためて「スゴイですね」と感嘆。

また、あの淡い感じのブルーの着物が似合ってたこと。多分スタイリストがいるんだろうけど、格調があって、最高のセレモニーにみごとにハマっていました。

しかし、着物っていうのはいいね、とくに男にとっては何とも色っぽい。
でも、たまに着るからいいんだろうね。愛好者もいるんでしょうけど、のべつ着物だったら、それほど目がいくことはないかも。
成人式に限らず、正月とか結婚式やパーティーとか、やっぱり「晴れの日に着るもの」なんでしょうね。

で、(ここからが本題)流行歌の世界で着物といえば、これはもう演歌。なんたってユニフォームみたいになってます。
だから反対に、ドレスや洋服で出てくると「オヤオヤ」(いまどき言う奴いない)なんて思ったり。

戦前の新橋喜代三、市丸、小唄勝太郎、赤坂小梅といった粋な姐さん方からはじまって、戦後でも榎本美佐代、神楽坂はん子、島倉千代子、五月みどり、最近亡くなった花村菊江、そして都はるみと着物シンガーはいました。

でも、ポップス系はもちろん、歌謡曲といわれた流行歌の世界で、着物は主流ということはなかった。むしろ戦後は「日本調」といういわれ方で傍流だったような。

それが昭和40年代に演歌というジャンルができると、着物が完全に主流に。
となると、逆に門倉有希とか森山愛子なんかの洋装派に目がいったりして。

それでは、相変わらずの独偏による「着物の姿の女性」が出てくる歌を三つ。

「恋人をもつならば」神戸一郎
昭和33年のヒット曲。神戸一郎はその前年に「十代の恋よさようなら」でデビューし、その甘いマスクと声で一世を風靡したシンガー。数年前にお亡くなりになりました。
作詞は当時の頂点にいた西條八十
2番がまさに和服姿。歌舞伎「与話情浮名横櫛」のお富さんを思わせる「黒襟姿に洗い髪」。
そんな粋な姐さんがホテルのバルコニーで酸漿を噛みながらリルケの詩集を読んでいるというのだから、これはまさに竹久夢二の世界。

余談ですが、YOU-TUBEの歌詞、聞書きをされたようで、かなり「空耳」が入っております。それがあまりにも頻繁なので、「お借り」しときながら申し訳ないのですが、笑ってしまいました。もしかしたら投稿したのは若い人なのかも。

「女ひとり」デューク・エイセス
永六輔・いずみたくの昭和40年の名曲。
1番が「結城に塩瀬の素描の帯」、2番が「大島つむぎにつづれの帯」、3番が「塩沢かすりに名古屋帯」。和服三態を帯までいれてみごとに“恋に憑かれた”女を表現しています。
なんていってるけど、「大島つむぎ」と「かすり」以外は、それぞれどんな着物なのかイメージできないのですが、とにかく上布であることはなんとなく。

「みだれ髪」美空ひばり
これも名コンビ、星野哲郎船村徹による美空ひばり、昭和最後の傑作。
1番の「赤い蹴出し」と3番の「春は二重に巻いた帯」がはっきりと“和女”をイメージさせます。こちらは“恋に疲れた”女のようで。
ところで美空ひばりという歌手は不思議で、たしかに着物も似合うけれど、ドレス姿でもステージに立つ。着物一辺倒というわけではない。
そこらへんにも、いわゆる演歌とは一線を画した「ひばり流」を感じてしまいます。

以上3曲、あたりまえですが、みんな昭和の歌。
J-POPにあるのかな和装の女性をうたった歌。探せばあるかもしれないけど……。
歌はともかく、たまには着物姿でうたってもらいたいね。

休養しちゃったけど、宇多田ヒカルの着物姿など見てみたいものです。
それで、「はしご酒」なんかをうたっていただいた日にゃ……。
まず無理だろうけど、……洒落でやってくれないかな、いつか。

今年はじめてのブログです。
去年よりもう少し数をふやしたいと「希望」しております。
本年もよろしくお願いいたします。


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その名は●デコちゃん [the name]

浮雲①1955.jpg

あの娘可愛いや カンカン娘
 赤いブラウス サンダルはいて
 誰を待つやら 銀座の街角
 時計ながめて そわそわ にやにや
 これが銀座の カンカン娘
 (これが銀座の カンカン娘)
(「銀座カンカン娘」詞:佐伯孝夫、曲:服部良一、歌:高峰秀子、昭和24年)

デコ。

子どものあだ名です。

男の子だとだいたい、おでこが出っ張ってる子に対してつかわれてました。
多くは「デコ坊」、なんて。
「デコ」って呼び捨てにする場合も。それでも「デコ」はまだましで、乱暴になると「デコ助」なんて。さらにいい加減になると「デコっ八(ぱち)」なんて、意味のない「八」をつけられちゃったり。

その点、女の娘の「デコ」は可愛い。
ほとんどの場合、「ひでこ」の「ひ」がノドに吸い込まれて「でこ」になる。
それも、だいたいはちゃんがちゃんとついて「デコちゃん」になる。

男の子の「デコっ八」が、「デコちゃん」なんて呼ばれることはあまりない。子供のころから、男に対しては世間の風は冷たいと相場が決まっている。
そんな男はうっちゃといて、「デコちゃん」を。

「デコちゃん」といえば、誰が何と言っても高峰秀子
誰も何とも言わないし、若い人にとっては「それ誰?」なのかも。

高峰秀子が亡くなったのが、ちょうど去年の昨日、12月28日。
昨日アップすればグッドタイミングだったんですけど、そのへんがしまりがないというか。

訃報はたしか、年があけてから発表されたんじゃなかったかな。勘違いかな。とにかく亡くなって1年が経ちました。

晩年はエッセイストとして健筆ぶりを披露してくれましたが、やはりわたしにとってもファンにとっても、高峰秀子は稀有な女優。

5歳で映画デビュー。子役は大成しないという言い伝えを覆し、みごとにトップ女優に。
55歳で、まるでサラリーマンが停年退職するように女優を引退。
すごいよね、50年間映画界で、それも第一線ではたらいたんだから。大卒のサラリーマンだったら70歳を優にこえてしまう。

高峰三枝子、山口淑子、山田五十鈴、原節子などなど往年の大女優数々あれど、わたしのなかではピカイチ。

なんて偉そうなことをいってますが、わたしが観た彼女の映画はほとんど“後追い”つまりリアルタイムでは観ていないので……。

それでも好きなのはやっぱり学生時代に観た「成瀬巳喜男作品」。
ダントツが森雅之と演じた「浮雲」。同じ林芙美子の「放浪記」もよかった。ダメ作家の宝田明が妙にリアルで。

女給に扮した「女が階段を上がるとき」もよかったし、義弟・加山雄三とのなさぬ恋がせつなかった「乱れる」などなど。

木下惠介作品ならストリッパーに扮した「カルメン故郷に帰る」からはじまって、「女の園」、「二十四の瞳」、佐田啓二と共演した「喜びも悲しみも幾歳月」や「永遠の人」などなど。

百作品百様といっていいほどの、カメレオンぶりはまさにプロ中のプロの女優。

わたしのような当時の若造をも魅了してしまうその容姿と雰囲気は、彼女より年配の文化人や芸能人、たとえば谷崎潤一郎、梅原龍三郎、東海林太郎らをも熱烈なファンにしてしまうという魔性ぶり。まさに「ジジゴロシ」。ブロマイド売上第一位になったこともあったのではないでしょうか。

でもなんとなくわかるな。
決して美人ではないけれど、どこか対面する相手に安心感を与えるというか、菩薩のような優しさを漂わせているというのか。包容力、いや抱擁力っていうんでしょうか。
よくいう「男好きのする」顔なり、雰囲気でしたね。

で、彼女はもちろん親しい人からもファンからも「デコちゃん」って呼ばれていたのですが、そのデコちゃんの歌を。

高峰秀子の歌唱はそこそこ上手(名女優だもの、歌手役だってこなすさ)でしたが、同性の三枝子さんほどレコーディングはしていませんし、ヒット曲もない。
そんなにうたうことが好きではなかったのかも。

最大のヒット曲といえば、やはり「銀座カンカン娘」
同名映画の主題歌で、作詞作曲は上にあるように佐伯孝夫服部良一
とりわけ曲がいいですね。昭和24年、まだ焼跡の匂いが残る(なことはない)時代に轟いたハッピーソング。

当時の進駐軍のにキャンプで、ペギー葉山がその「銀座カンカン娘」をうたうと「オー! キャン・キャン・ガール」と歓声があがって大ウケだったとか。

作詞はヒットメーカー・佐伯孝夫ですが、服部良一の自伝によると競作というか、ほとんど服部さんの意向が反映されているようで。

それとやはりヒット映画の主題歌「カルメン故郷に帰る」
こちらは作詞が木下映画に欠かせない木下忠司、作曲は映画で音楽を担当した黛敏郎

ほかで音源が残っているのは戦前の「森の水車」「煙草屋の娘」
どちらも清水みのる米山正夫の作詞・作曲。「煙草屋の娘」は外国曲のカヴァーという説明も。「森の水車」は戦後、並木路子が再ヒットさせたよく知られた曲。

そのほかこんな劇中歌も。
そして戦前からよく共演した灰田勝彦とこんなシーン。

もう出ないだろうなぁ、ああいう女優。また、そういう時代だったんでしょうね。
映画の世界が華やかで、女優がとてつもなく輝いていた時代。

タソガレそうなので、気をとりなおして、そのほかのデコちゃんを。

まずはやはり女優の吉田日出子

はじめて観たのは大島渚の「日本春歌考」。
映画はたいして面白くありませんでしたが、デコちゃんだけが輝いて見えました。たしか宮本信子も出ていた記憶が。
劇中で、「満鉄小唄」をうたうんです。それがなんともしばらく耳について。

残念ながらレコーディンがはしていないようで、歌詞は朝鮮人従軍慰安婦のつぶやきというかたちですが、はたして彼女たちの実声を採録したのものか、日本人がおもしろおかしく作ったのかは不明。曲借り物で、本歌は藤原義江がつくりうたった軍歌「討匪行」

その後、テレビドラマでブレイクしますが、元々は舞台女優。
ところで、「日本春歌考」が昭和42年ですが、その前年にテレビの脇役で出ていることを最近YOU-TUBEで知りました。
渥美清とは「男はつらいよ」でもマドンナ役で出ていましたね、何作目だったでしょうか。

高峰秀子にどこか通ずる、ゆるやかというのかたおやかというのか、好きな顔であり、雰囲気です。

で、彼女の最大のヒット作といえば舞台も、映画も、歌も「上海バンスキング」に尽きます。舞台も見ていなし、映画も見ていない。それでもなぜかLPだけは買っておりまして。

そのレコードでは「月光値千金」から「サイド・バイ・サイド」「ダイナ」「素敵な貴方」「スィング・スィング・スィング」「明るい表通り」と、戦前のスインギーなジャズソングが目白押し。

そんなかなで好きなのがかつてディック・ミネがうたいヒットさせた「リンゴの樹の下で」

さすが女優さん、上手下手を超越した味のある雰囲気十分の歌唱で、わたしにとって未生だった戦前へ連れて行ってくれます。

例によって予定オーバー。
2人じゃさみしいので、最後にもうひとりデコちゃんを。

機会があればまたということで、今回は歌だけを。
日本人のファド・シンガー、月田秀子
10年ほど前に知合いからCDをもらいました。

ファドといえばアマリア・ロドリゲスに代表される「暗いはしけ」
もひとつ、CDには入っていませんでしたが、ギリシアの歌だという「汽車は八時に出る」

ところで、いま(正月は休みかな)、東京国立近代美術館で高峰秀子の展示会をやっているようです。最寄駅は東西線木場駅(ちょっと歩くけど木場公園を通るので散歩にいい)。興味のある方はどうぞ。

今年のブログもこれが打ち納め。
なんだか、もろもろもの足りない一年ではありました。
来年はも少しいいことが起こることを期待しつつ、みなさまお元気で、よいお年をお迎えください。


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