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●ラテンミュージック 前篇 [noisy life]

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ワールドカップが終わってだいぶ経ちましたが、その後余韻もなにもあったものじゃなく、ひき潮のようにフットボール熱が冷めてしまいました。
そりゃそうだよね、日本のあの惨敗じゃね。
期待が大きすぎたんだよね。マスコミが煽りすぎたというか。

でもここへきて柿谷の移籍初ゴールが話題になったり、新監督アギーレが来日したりと、9月の国際マッチに向けて盛り上がりの気配も。

で、今回は新監督の就任を祝して、メキシコに関する歌を。おおざっぱにいえば麗しのラテンミュージックを。

メキシコ音楽といえば小学校で習った? 「シェリト・リンド」とか「ラ・クカラチャ」が一般的ですが、ポップスなら「ラ・バンバ」。
これもメキシコ民謡をポップスにアレンジしたもので、50年代にリッチー・ヴァレンスによってビッグヒットとなりました。
80年代には彼の自伝映画のなかで「ラ・バンバ」をうたったロス・ロボスのニューヴァージョンもヒット。

このリッチー・ヴァレンスとロス・ロボスの面々、いずれもアメリカ人ですがチカーノと呼ばれるメキシコ系。

そういえば、60年代に「天使のハンマー」で全米ヒットチャートに名を連ね、フォークからカントリー、そしてラテンと幅広く活躍したトリニ・ロペスもメキシコ系(母親が)でした。

しかし、日本人にもっとも馴染みのある(あったというべきか)メキシコ音楽といえば、トリオ・ロス・パンチョスではないでしょうか。

昭和20年代後半にロス・パンチョスのレコードが日本で売れだし、30年代初頭にマンボブームとあいまってラテンブームが到来すると来日。その人気はその後毎年のようにコンサートで来日したことでもあきらか。

とりわけロス・パンチョスのボレーロと呼ばれる哀愁をたたえた楽曲の数かずは、日本でいくつものラテン・トリオやバンドの誕生のキッカケとなったばかりでなく、同時代の歌謡曲にも影響を与え、吉田正や鈴木道明をはじめとする作曲家によってつくられるムード歌謡のベースになったのではないでしょうか。

長い枕はひとり寝にはムダなので、さっそく本題へ。
トリオ・ロス・パンチョスによってうたわれた名曲を三つばかり。

まずは、シェリト・リンドとともに、世界的に知られたメキシコ産の歌。
●ク・ク・ル・クク・パロマ
シェリト・リンドはどちらかといえば愛の賛歌ですが、「ク・ク・ル・クク・パロマ」は恋にやぶれ、傷心のまま死んだ男が、鳩に生まれ変わり、いまだに元カノを想って鳴いているという悲しき恋の物語。
ク・ク・ル・ククというのは鳩の鳴き声。メキシコには「ラ・パロマ」という鳩に遠く離れた恋人への思いをたくす、という歌もあり、人間のクールな友・鳩へのシンパシーは相当なもののようです。
なかなかピンとくる画像がなかったのですが、まあ知名度ということでこのデュエットに。

つぎは、ロス・パンチョスもうたっていましたが、日本ではナット・キングコールでいちやく知られるようになり、ラテンブームの火付け役になった歌。
●キサス・キサス・キサス
キューバ産の歌で、僕がこんなに想っているのになんであの娘は……、というトーチソング。「キサス」は「たぶん」という意味で、どんなに口説いても彼女は「たぶん たぶん たぶん」と言うばかりで、ちっとも煮え切らない、と男の不満がうたわれている。
「たぶん」なら6割がたOKじゃないかと思うんだけど……。
日本の歌で
♪はやく一緒になろうといえば でもでもでもと言うばかり
なんて歌があったけど、こっちなら4割ぐらいかな。

YOU-TUBEはなぜかこれまたデュエット。どちらもラテン系だから情熱的。でもジェニファーの「たぶん」は9割のようですけど。ちょっとボリュームをあげたほうがいいかも。


3番目はメキシコの民謡がベースになっているといわれる歌で、トリオ・ロス・パンチョスによって内外に広められた歌。
●ラ・マラゲーニア
「マラゲーニア」は、メキシコのマラガ地方の娘という意味。
ラテン音楽イコール情熱的という印象そのままのラブ・ソング。
なんて美しい目なのだろう、なんて可愛いんだろう、なんて魅惑的なんだろう、とひたすら讃えまくる。それでも叶わないのが恋なんでしょうね。
♪マラゲ~ という長いブレスのところが聴かせどころで、日本でもアイ・ジョージが素晴らしい声量で観客を魅了しておりましたっけ。
その部分で観客が拍手をするのがイヤだという人もいますが、まぁ「お約束」ですから。
タランティーノの「キルビル2」に使われていたとか。観てませんが。

いいなぁ、やっぱりラテンは。
聴いていると血が騒ぐよね、ラテン系の。
というより、仕事はガテン系だし、見た目はモテン系で、おまけに人間は古典系の純モンゴロイドだもんね。

でも好きなんだよなラテンが。なぜか日本人は。
次回は後編で、やっぱりラテンのフェヴァリットソングを3つばかし。
では。


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●フレンチ・ポップス② [noisy life]

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やっぱりフランスも負けてしまいました。
決してわたしが応援したからではなく、相手がドイツだもんしょうがない。

それにしても面白い。
ベスト16、ベスト8、ベスト4と勝ち残っていくのは当然強豪ぞろい。
どの試合も見入ってしまう。
こういうのを釘づけというんでしょうね。

その個人技をみるにつけ、これじゃ日本はかなわないや、と思うことしきり。
プロ野球がメジャーを超えられないように、10年、20年経っても歯がたたないような絶望的な気分になります。
内田がインタビューで、日本にスーパープレイヤーが何人か出てこなければ勝負にならない、というようなことを言っていましたが、わかる気がします。

この先はどこの国を応援するでもなく、ただひたすらスーパープレイ、スーパーシュートを期待して見ることにしましょう。

フランスは負けたけど、フランスの歌は続きます。

前回は女性シンガーだったので、今回は男。

日本でもっとも名の知れた、フランスの男性シンガーといえば……。
そうか、いまの若い人はほとんど知らないかもしれない。
「かつて日本で」と言い直さなければならないかな。

アダモだろうか、イヴ・モンタンだろうか。
イヴ・モンタンは60年代から70年代にかけては、歌手というより俳優として活躍していたような気もしますし、シャンソンではなくポップスという言い方をすれば、やはりアダモではないでしょうか。

シンガーソングライター・アダモの歌は、日本人シンガーにもカヴァーされました。なかでもその数の多さと、そのほとんどを“自分の歌”にしてしまったという意味では越路吹雪のカヴァーが最も印象に残っています。

「雪が降る」からはじまって「ろくでなし」まで、アダモのヒット曲は数多ありますが、
今回は「夢の中に君がいる」を。

越路吹雪のカヴァー曲の訳詞はもちろん岩谷時子。
♪ごめんなさい 少女のころ思い出していたの
 …………
 あなたこそ 私の最後の恋人

という歌詞は、男歌を女歌にしただけで、ほぼアダモの詞のエッセンスを日本語にうつしかえています。
そういえば、越路吹雪が亡くなった後、そのエッセーや日記などを岩谷時子がまとめた本のタイトルも「夢の中に君がいる」でした。

続いての男性シンガーは、これもドラマチックな歌唱で日本のファンも多いシャルル・アズナブール。

アズナブールとなると、「フレンチポップスじゃなくて、シャンソンだろう」という声も聞こえてきますが、その歌声が70年代にも聞こえていましたし、エディット・ピアフ、ティノ・ロッシ、リュシエンヌ・ポワイエなどのシャンソン歌手と比べるとあきらかに“時代”の隔たりがあるような気もしますし。

アズナブールも知られた曲がいくつもあります。
愛のために死す、ラ・ボエーム、コメディアン、アヴェ・マリア、帰り来ぬ青春などなど。
当時いちばんよく聴いたのは「イザベル」と「ラ・マンマ」。

どちらも女性への愛をうたったものですが、前者は恋人への、後者は母親への。

迷いましたが、まだ血の気が残っているので恋人を選択しました。
恋の虜になってしまった男の、恋人・イザベルへの尽きせぬ思いをうたったもの。
恋人の名を呼び続ける情熱的な歌詞とバロック風のストリングスによる演奏がとても印象的で、ラストのメロディアスな歌唱は、何度聴いても感動的です。

最後のひとりは、以前(かなり前です)一度このブログでやったことのあるミシェル・フューガンの「美しい物語」

1972年のいかにもフレンチポップスらしい歌で、ヴァカンスでの恋と別れをうたっています。1978年には日本のサーカスが「ミスター・サマータイム」という不倫をテーマにした歌でカヴァーし、ヒットさせました。

もちろんわたしが知ったのは「ミスター・サマータイム」が先。
この歌を聴くとなぜか、矢沢永吉の「時間よとまれ」が続いて聴こえてきます。
おなじ年の夏に流行った歌からでしょうね。

最後にまたまたワールドカップの話ですが、コスタリカはほんとに健闘しました。
オランダ戦は、ボクシングでいえばワンサイドでボコボコにされた試合。

それでもガードを固めてひたすらKO負けだけはされまいと耐えている姿が凄かった。
あれでPK戦に勝てば奇跡の“逆転KO”だったのですが、現実はそれほどドラマチックではありませんでした。

最新のFIFAランキングが28位だといいますから、ベスト8は殊勲でしょう。
今大会を盛り上げた最高のダークホースでした。

日本敗退後のテレビの視聴率はどの程度なのか気になります。
グループリーグの日本戦は30%だとか40%だとか新聞に書いてありましたが、日本が消えてからはおそらく10分の1程度まで落ち込んでしまっているのでしょうね。
それでも面白いものは面白い。

ただ、毎日のようにやっているワールドカップの特番はどうなのかな。
高額な放映権料を払っているのだから、日本が敗退しても放映をやめるわけにはいかないという事情はわかるけれど、あの時間帯で低視聴率番組を続けなければならないのは空しい。

そんなことを言いながらも、ダイジェストがあるのでついつい見てしまうのですが。
あと少し、準決勝、決勝を残すだけ。でも正直クタクタ。


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●フレンチ・ポップス①イエイエ [noisy life]

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ついにといいますか、やっぱね、といいますか、日本敗退でした。

正直モハメド・アリがジョージ・フォアマンをKOしたあの“キンシャサの奇跡”のサッカー版を期待していないことはなかったのですが。

まあ、冷静に考えれば予想どおりといいますか、FIFAランクどおりの順位でした。

でも、選手たちは気の毒になるほど落ち込んでいましたが全般的には格上の国相手に健闘したといえるのではないでしょうか。
とりわけひとり退場で優位にたったとはいえ、ギリシア戦はカウンターもとられずによく引分けにもちこんだと思います。

個人的には本田と内田の動きのよさが印象に残りました。反対に精彩を欠いた選手もいましたが……。それはいいでしょう。自身がいちばんわかっているはずですから。まあ期待が大きかった、ということもありますし。

いちばんガッカリしたのは、一部のテレビ解説者。日本に対する身びいきにもほどがある。
テレビ側からの要求があったとしても、あの予想はひどい。
とりわけポルトガル戦。主力選手温存は予想されましたが、それでも3―1だの2―0だので日本が勝つとは。海外事情をしらないファンは本気にしてしまう。ほとんどの試合でそうした予想なのですから、ファンをバカにしていると思われても仕方がない。

元サッカー選手としてのプライドはないのでしょうか。
こんな“節穴予想”をしていたのでは、彼らの今後のサッカー解説者あるいはサッカージャーナリストとしてのキャリアにとってもマイナス。

クールダウン。

日本の敗退も残念でしたが、わがイタリアまで敗退。なんたることをサンタルチア(古い!)。

イタリアのワールドカップが終わったので、イタリアンポップスも幕として、やはり60年代から70年代にかけて洋楽ファンを楽しませてくれたフレンチ・ポップスへ行くことに。

当時もっとも日本の音楽ファンに支持されたフランスのシンガーといえば誰でしょうか。
異論はあるかもしれませんが、わたしの周囲ではシルビー・バルタン(シルヴィ・ヴァルタン)だったような。

可愛いというより、さすがファッションの国のアイドルという感じで、カッコよかった。女優のミレーユ・ダルクともどもスレンダーなアイドルでした。
歌はもちろん「アイドルを探せ」

原題は「ダンスパーティでいちばん綺麗な私」というような意味。
それがなんでこのような邦題になったのか。アイドルという言葉がこの頃からいわれはじめたような気がします。

そんな新しい言葉をつかってタイトル、および詞をつくったのは安井かずみ。カヴァーしたのはザ・ピーナッツと中尾ミエ。レコード会社はキングとビクターと違っていましたが、歌詞はどちらもおなじみの
♪恋のよろこびに かがやいている
という安井作品。
ちなみに原題の詞はシャルル・アズナブール。

ところでいまではフレンチ・ポップスといいますが、当時(1960年代半ば)はたしてそうした言い方をしたのかどうだか。記憶があいまいです。
戦後、とりわけ1950年代には一大シャンソン・ブームが起こった。このシャソンという言い方も、多分日本では戦後からで、戦前はジャズに一括りされていたのではないでしょうか。それはともかく。

60年代のカバーポップス全盛期にはやっぱりまだシャンソンと言っていたのではないでしょうか。

そういえばこんなポップスもありました。
「夢見るシャンソン人形」フランス・ギャル

これは日本でもヒットしました。
つくったのはマルチ・アーチストのセルジュ・ゲンズブールで、原題は「ぬけがらの蝋人形」。歌詞もゲンズブールらしい、いささか棘のあるもののようです。

中尾ミエ、伊東ゆかり、ミッチー・サハラ、越路吹雪、弘田三枝子など多くの日本人シンガーにカヴァーされました。最近ではクミコもうたっています。

ゲンズブールはシンガーソングライターで自分でも歌いましたが、日本では作詞作曲者としての方がいい作品を残しています。
1967年のヒット曲でフランソワ・アルディがうたった「さよならを教えて」もそう。

最後のシンガーは可愛いというより大人の女の雰囲気が魅力的だったそのフランソワ・アルディ。まあいまではあまりつかわれませんけど、“粋なおんな”でした。

最後の曲は彼女の「さよならを教えて」ではなく、同じ年にうたった「もう森へなんか行かない」

この歌はもともと男性シンガーソングライター、ギイ・ボンタンペリがうたったもので、歌詞の彼を彼女に変えてフランソワ・アルディがうたいました。

さすがシャンソン、いやフレンチ・ポップスで、その詞も(ネットで訳詞をみたのですが)、
「わたしの青春が駆け足で去って行く」とか「きこりが二十歳のわたしを刈り取る」とかとても詩的です。

日本でブレイクしたのはそれから約10年後に、テレビドラマのテーマソングになったことによってでした。
そんなわけですから、当時カヴァーした日本人シンガーはいません(多分)。
いまはクミコが自身で作詞(かなり原詩にそって)して歌っています。
そのまま“男歌”としているのが日本的。またこの暗さはどこか森田童子を連想(とくに冒頭)してしまいました。

ところで、ワールドカップはまだ続いていますし、これからが佳境です。
準決勝、決勝とハイレベルでドラマチックなゲームが見られることを期待しております。
もちろん応援するのはわが青春のフランス、ということに(節操なし)。
まだしばらく仏蘭西流行歌をやりたいのですが、応援したとたんに負けたりして。


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●イタリアン・ポップス②ガールズ [noisy life]

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いやあ、観てしまいますねワールドカップ。
真夜中ではないので、さして寝不足にもなりません。
やっぱり世界レベルの試合はおもしろい。

日本はギリシャと引分けて、なんとか余命をつなぎました。
相手が1人レッドカード退場で、もしかしてと思ったけど……。

でも考えようで、日本にはツキがあったんじゃないでしょうか。
あれで退場にならなかったら1点入れられてアウトだったかも、って考えればね。

奇跡なんてそう何度も起こらない。
やはりミラクルを期待するのはコロンビア戦ですね。
もし勝ってさらに決勝進出が決まったとなれば、まさに日本サッカー史上最大の奇跡で、ギリシャ戦は絵にかいたような前哨戦になりますから。

なんて、昨今のサッカー解説者みたいな願望にとらわれておりますが、スペイン、イングランドの敗退という番狂わせが続いていおります。“神風”が吹かないとも限らない。

イングランドを破ったわがイタリアは明日の午前1時にコスタリカ戦で、勝てば決勝進出。
ということで前祝?をかね、イタリアン・ポップスの第二弾を。

今回はガールポップということで、60年代に聴いた3曲を。

まずはこの時代の最高のバラードではないかと勝手に思っているジリオラ・チンクエッティの「夢見る想い」

♪ノ・ノ・レタ ノ・ノ・レタ

という歌いだしが印象的でした。

当時、友達にジリオラの超ファンがいて、彼の家へ行ったとき、その部屋の鴨居の上に彼女のシングルジャケットがずらっと並べられていてびっくりしました。
彼みたいのがホンモノのファンなんだなって。

彼が好きだったのが「ナポリは恋人」。ほかにも「雨」とか、「愛は限りなく」などヒット曲がありますが、やっぱり「夢見る想い」を聴いたときに当時が甦ります。

歌の内容は「恋をするにはまだ早いわ。まだ子供なの。だから大人になるまで待っていてね」というオクテの女の子の気持ちをうたったもの。ヘレン・シャピロの「子供ぢゃないの」って歌もありましたが。女の娘もいろいろで。

日本では伊東ゆかりがうたっていました。サンレモの常連で、カンツォーネといえば彼女でしたからね。

つぎは、これも日本では伊東ゆかりがカヴァーしていた歌。
ウィルマ・ゴイックの「花のささやき」

これはアイドルポップスの王道であるトーチソング。
恋する彼に、もっと周りをよく見て、あなたに恋する小さな花に気づいて、なんて歌で、作者のひとりは「ラ・ノビア」「アルディラ」「君に涙とほほえみを」「ほほにかかる涙」などのヒットメーカー、モグール。

サビがなんとも印象的で、耳にのこる歌です。

ラストは前回のYOU-TUBEにも登場した女優のカトリーヌ・スパークがうたった「若草の恋」

父親が「嘆きのテレーズ」などで知られるフランスの脚本家。
彼女もフランス人なのですが、なぜかイタリア映画の女優に。
大女優にはならなかったけど、アイドルとして何本もの映画に主演していました。可愛かったよね。

この「若草の恋」、原題は「友だち」。

歌詞は「好きな彼ができて、みんな(女友だち)との約束を破っちゃったけど、フラれちゃったから、また仲良くしてね」なんていう女の娘のドライな気持ちをうたったもの。
♪あの日あの子を あの街角で
っていう日本の訳詞? のほうがリリカルですね。

そのカヴァー曲をうたったのが木の実ナナ
「うぬぼれワルツ」や「居酒屋」もいいけど、たまにはこの曲や前回の「サンライト・ツイスト」なんかのポップスも聴いてみたいもんです。

はなしもどりまして、今日のテレビのトップニュースは、ワールドカップに湧く日本の様子一色。
あれだけ見てると、まるで日本全国サッカーフィーヴァーみたいに思っちゃうけど、そんなことはないでしょう。日本は広いのですから。

実は、今日用事があって渋谷へ行ったのですが、昼近かったということもあって、スクランブル交差点は普段どおり。おまわりさんもどこへやら。

とはいえセンター街にはブルーのユニフォームを着た若い男女があちこちに。
ENDOH、HASEBEなど贔屓の選手のネーム入りのものや、なかには頬に日の丸をペイントしたままの若者もいたりして。
みなさん、応援疲れなんて様子もなく、いつもどおりの若さハツラツで。

応援もまた“あそび”であり“ファッション”なのですね。

最後の(いやまだわからない)のコロンビア戦は25日。午前5時というのがちょっと早いかなとも思いますが、起きられない時間ではない。

まあ、日本が予選敗退してもワールドカップはまだ続くわけで、というより決勝リーグ、準決勝、決勝こそがほんとのサッカーの醍醐味が味わえるわけで、楽しみはまだまだ続きます。それになによりもわがイタリア(ホントかね?)の戦いが気になるわけでして。


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●イタリアン・ポップス①ツイスト [noisy life]

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いよいよワールドカップがはじまった。
いきなり日本は負けた。

結果は予想どおりで、さほどショックもなし。
実は、今日は用事があって、本田がシュートを決めた直後に外出したので、もしかしたら予想を裏切ってくれるかもしれないと、ささやかな期待があったり。
だから、外出中は極力試合の結果を聞かないようにして(録画してました)、午後2時過ぎに帰ってまいりました。

結果はご存じのとおり。

勝つための準備をしてきたのは日本だけじゃない、ということでしょう。

しかし、日本のワールドカップ報道はいささか過熱気味ではないでしょうか。
日本にそんなにサッカーファンっていたっけ?

マスコミに煽られて俄かファンになった人がかなりいるにしても。

これで、次のギリシア戦に負けて予選敗退になったらどうなるんだろう。
どうなるってそんなこと明白で、「えっ? そんなことあったけ」状態になるはず。
それで終わればいいですが、煽るだけ煽って、空振りに終わったマスコミが、そのうっぷん晴らしで「戦犯探し」なんかやったりして。

なんて、ずいぶん悲観的なことを考えていますが、まだギリシアに負けたわけじゃない。
スポーツに番狂わせはつきもの。日本が勝ち、さらにコロンビアにまで奇跡の勝利をおさめ、決勝トーナメント進出なんてことにも。
なんて、テレビ解説者(元選手)のような期待をしておきましょう。

グループDのイタリアは、イングランドに2―1で勝って、予選突破の可能性が大きくなりました。

別にイタリアを応援しているわけではありませんが、今回、イタリアンポップスを聴こうと思ってますので、いちおうふれておきました。

イタリアといえばカンツォーネ(だった)でしょうが、1960年代前半、日本でヒット曲が花火のように連発されたのは、もはやイタリアンポップスという感じでした。

先行したのはオリジナルではなく、日本人シンガーによるカヴァーでしたが。

耳になじんだイタリアンポップスも数々ありますが、第一弾としましては、ノリの良いツイストを3曲プラスワンで。

まずは、「サンライト・ツイスト」(ジャンニ・モランディ)。
当時全盛で、日本への輸入本数も多かったイタリア映画「太陽の下の18才」の挿入歌。

このシングルレコードはいちばんはじめではありませんが、比較的早く買った洋楽。
いまでもレコードはあります。

日本でも木の実ナナや伊藤アイ子が歌い、ヒットしました。作曲がエンリオ・モリコーネっていうのがスゴイ。

2曲目は「24000のキス」(アドリアーノ・チェレンターノ)。
これも日本ではカヴァー曲がヒット。
藤木孝がうたっていましたが、歌詞のなかに1秒に1度キスをすると1日で24000回になるというふうにうたっていましたが、当時の友達が「計算が違うよ、1秒に1回なら8万6400回だよ」と突っ込みを入れてきたので、「いや、メシの時間や睡眠時間を差し引いたらそのぐらいになるんじゃねえの」とバカな答えをしたおんを覚えています。

藤木孝ほどパッと出てパッと消えた花火のようなシンガーもいません。
当時は大人の事情など知る由もない子どもでしたから、なぜ急にテレビに出なくなってしまったのか不思議でしかたがなかった。

それででも彼の「ツイスト№1」(ペパーミント・ツイスト)やポール・アンカのカヴァー、「アダムとイブ」なんかはよく聴いていました。
とても野心的な印象で、篠田正浩の映画「涙を獅子のたてがみに」の主演にも抜擢されていました。

イタリア版はチェレンターノのほかにリトル・トニーのヴァージョンもありますが、やはり作者の自演のほうが迫力が上。

最後はミーナがうたった「月影のナポリ」

当時のカヴァーポップスはほとんど競作で、この歌もザ・ピーナッツと森山加代子がうたいましたが、わずかに森山加代子ヴァージョンのほうが売り上げで上回ったとか。彼女はこの1曲でスターシンガーに。
個人的には、♪ティンタレラディ ルンナ お屋根のてっぺんで 
というピーナッツのほうが好きだったのですが。
実は♪ティンタレタディ ルンナ 蒼いお月様 という森山ヴァージョンもピーナッヴァージョンも作詞は岩谷時子(ピーナッツ版はペンネームで)。

ミーナのこの歌は映画の主題歌や挿入曲ではない(と思います)のですが、たしか「鞄を持った女」の中でつかわれていました。
若くして夫を亡くしたクラウディア・カルディナ―レが年下のジャック・ペランの愛を断ち切るラスト近くのシーンで、トランジスタラジオから流れていたという記憶があります。

ミーナといえばもう1曲ツイストナンバーのヒット曲がありました。
「太陽はひとりぼっち」で、フランス・イタリア合作の同名映画の主題歌。
ほぼ同時期にやはり仏伊合作の「太陽がいっぱい」が人気で、その主題歌もヒットチャートにのるぐらい流行っていました。

この2作品はいずれも当時のイケメン№1、アラン・ドロンが主演していましたが映画「太陽はひとりぼっち」のほうは愛の不毛を描いた内容が難解すぎ不発に。監督がアントニオーニなので一般受けするわけがない。
ただし、ミーナがうたった主題歌は日本では大ヒット。もちろんその“主役”はミーナではなく園まりでしたが。

ワールドカップの話ですが、サッカーにまるで興味のない人間もいます。
最近逢った知人もワールドカップに興味なし。それどころかサッカーが大嫌いだとか。

その知り合い、スポーツ音痴というわけでもなくMLBは好きで、仕事でアメリカへ出張する際にはスケジュールを調整して必ず球場へ足を運ぶそう。

なんで嫌いなの?と訊ねると。
「サポーターと選手の関係がいやだね。サポーターは傲慢だし、選手は彼らに対して言いたいことも我慢してるようで、卑屈にみえる」
「それに、交代で退場する選手が、観客の方に向かって拍手をする姿、あれってどういう意味なのか全然わからない」
と、よく訊いてくれたといわんばかりに熱弁を。

わたしは会社勤めのころには、サッカー部に入っていたぐらい“好物”ではあるのですが、“サッカー嫌い”がいても少しもおかしくはないことは理解できます。
まぁ、件の知人のように嫌いではなくても、サッカーに興味なしという人はかなりいるのではないでしょうか。

それがテレビを筆頭とするメディアがワールドカップを連呼するもので、時まさにワールドカップ一色のようなイメージがつくられていますが、決してそうではないはず。
ですからマスコミ諸氏はくれぐれも「日本中が注目の……」などという誇大発言は差し控えていただきたい。
イタリアンポップスと関係なくなっちゃった。


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●ロシアンソング③ [noisy life]

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数日前、電車の中で初体験。

生まれてはじめて席を譲ってもらったのだ。
はからずも、乗車してシルバーシートの前に立ってしまったのが失敗、いや譲ってくれた人のことを考えたら、幸いだったと思わなくてはいけないのですが。

前に座っていた男性が視線を落としたまま低い声で何か言って立ち上がった。
言葉は聞き取れなかったが、席を譲られたのだということは瞬時にわかった。

わたしは思わず、「いいです、いいです」と返事をしながら、そうか、俺はすでに還暦を過ぎているのだった、という思いが重なり、つぎに、相手の好意に背いてはいけない、と思いなおして、腰をかけた。
そうした意識がまるで火花が散るように瞬時に行われたのでした。

それはともかく、最近のわたしの頭の中は、いまだ、ロシアン3人娘がうたう「天使のいたずら」が、
♪パッパ パッパラッパ パッパ…………
と脳内蓄音機で再生されてエンドレスに鳴り響いているのです。

ではさっそく。
ロシアンソング、とりわけ日本人にとって(昔のかも)いちばんなじみがあるロシア民謡は、共産圏発の音楽だが、、皮肉にも日本敗戦後の民主主義によってもたらされた。

それはまたたく間に広がった、うたごえ運動、さらには歌声喫茶の“主役”として若者たちに歌われることに。そしてその叙情的で甘いメロディーの数々にどれほどの当時の若者が幸せな気持ちになれたことか。

また、一緒になって同じ歌をうたうという「合唱」の不思議な連帯感は、「私が主役」の現代のカラオケとはまるで異なる歌唱空間だったのではないでしょうか。

そんな共にうたったロシア民謡のなかでも、とりわけ人気があったのが、黒い瞳、カチューシャ、トロイカ。

わたしも、子供のころロシア民謡の洗礼をうけたのも、ほぼ同時といっていい時期に、この3曲によってでした。

およそ歌などとは縁のない父親が唯一うたって教えてくれたのが「トロイカ」
前回も書きましたが、音楽の先生が「コロブチカ」と一緒にアコーディオンで弾いてくれたのが「カチューシャ」。そして、学芸会で上級生たちが演じた劇中でうたわれていたのが「黒い瞳」というように。

どれも好きなうたですが、ロシアンソングの最終回としては、前回の「山のロザリア」で、♪黒い瞳 ロザリア とうたわれていたのを引き継いで「黒い瞳」を。
それもジャズで3曲。

まずはスイングで。
このミュージックのルーツがロマであるということで、ロマの血をひくジャンゴのギターが最適。

スイングとくれば次はダンモで。それもギターのあとはピアノがいい(単なる好みの問題ですが)。
で、ウィントン・ケリーの華麗なタッチで。

最後は迷いました。
ギター、ピアノとくればやっぱり聴きたいのはラッパ。
それも賑やかしいヤツ。となればデキシーランド。

むかし、ウィントン・ケリーの「黒い瞳」を聴いていたとき同時に聴いていたのが、サッチモの「黒い瞳」。これがデキシー。おまけにサッチモのヴォーカル入り。
これもなかなかイカスのですが、もう1曲、イージーリスニングのLPに入っていた名もないバンド(もはやレコードはなく、覚束ない記憶ではベルリン・ダンス楽団とかなんとか)がやっていた100%のデキシーランドが忘れられません。

残念ながらYOU-TUBEにそのヴァージョンはなかったので、似た感じのベルグラード・デキシーランド楽団の1曲を。

ところで、冒頭の車中の話ですが、席を譲ってくれたのは50代とおぼしき男性で(それも悲しい)、わたしのほうが先に降りることになったので、改めて彼にお礼の言葉を述べて下車した。

落ち込むほどの気分ではなかったけれど、いよいよ来るべきものが来たなという苦笑いが出るような思いだった。

これからは、こういうことが頻繁に起こるのだろうな、と思うとやっぱり淋しいものです。


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●ロシアンソング② [noisy life]

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忘れないうちにロシアンソングの第二弾を。

CMで見たというか聴いたかの[Those were the days]、日本のタイトルでは「悲しき天使」。

カチューシャに続いてまた疑問ですが、なんで「悲しき天使」なのでしょうか。
原題からひねり出せば「あの日あの頃」とか「友といたころ」でもいいと思うのですけど、やっぱりポップじゃないかも。

「悲しき」は当時の和製ポップスの常套句。
悲しき17才に悲しき60才。悲しき街角には悲しき足音があり、やがて悲しき雨音も聞こえて。悲しき片思いは悲しき願いだし、悲しき少年兵がいれば悲しきインディアンもいて、果ては悲しきカンガルーまでも。もういいか。

とにかく1967年にメリー・ホプキンによって世界的ビッグヒットとなった名曲ですね。
どれだけのミュージシャンがカヴァーしたかという、その数の多さが名曲のひとつのバロメーターになるわけでして、そういう意味でもこの「悲しき天使」のカヴァーは多い。

驚いたのは、以前紹介しましたがカントリーのドリー・パートンまで歌っていたこと。

ビング・クロスビーやエンゲルベルト・フィンパーティンクも歌っているし、ポール・モーリアやフランク・プールセルのオーケストラもいいです。

日本人のカヴァーも多く、当時は広川あけみや森山良子がよく聴こえていた。
時代がGSブームともかぶったこともあって、スイング・ウエストがカヴァーしていました。のちには南沙織もアルバムに入れていたしね。

でも、個人的には小川知子。ファンだったこともあって、よく聴いていました。残念ながらYOU-TUBEにはありませんでしたが。

当時はまったくの英国のジーン・ラスキンのオリジナルだと思われていたのが、その後元歌はロシア民謡だといわれるようになり、またしばらくして、民謡ではなく20世紀初頭にロシアでつくられた流行歌だとして決着。

いずれにしてもロシアンソングであることには変わりなく、曲調に「黒い瞳」や前回ピックアップした「少女ナディア」同様、ロマの香りがただよっています。

上にあげたどのヴァージョンも好きなのですが、今回は(も)賑々しくユーロビートの「悲しき天使」を。

「悲しき」がかつてカヴァーポップスを含めた日本の流行歌のタイトルのキイワードだったことは前述しましたが、その片割れの「天使」のほうも当時よく使われました。

「悲しき天使」と同じ昭和40年代でいうと、
数年前再ヒットした「天使のスキャット」(由紀さおり)がそうですし、「天使の誘惑」(黛ジュン)、天使になれない(和田アキ子)、さすらいの天使(いしだあゆみ)、渚の天使(弘田三枝子)などが。
天使のトレンドは50年代になっても続き、松田聖子に「天使のウインク」、「私だけの天使」がありますし、桜田淳子には「天使も夢見る」、「天使の初恋」が。

そしてロシアンソング2曲め。
「悲しき天使」がヒットした翌年、日本でヒットしたのがダニエル・ビダルのうたったフレンチポップス「天使のらくがき」

彼女のデビュー曲で原題は「あなたの好きなもののように」。
どこが天使やねん、のツッコミが聞こえそうですが、しいていうならダニエル・ビダルが天使だったんじゃないですか。

この「天使のらくがき」もロシアンソング。戦後つくられたロシアンポップスで、原題は「隣人」だとか。
ロシア民謡を中心にロシアンソングを日本に広めた功労者の“ひとり”であり、逆輸入となるロシア公演の数も多かったダークダックスも「隣の恋人」というタイトルでうたっています。

今回はロシアのシンガーで本場の“天使のらくがき”を。

相変わらずのダラダラぶりで長くなっておりますので、さっさと最後の曲へ。

「悲しき天使」、「天使のらくがき」ときたのだから、最後の曲も「天使」で締めたかったのですが、そうはいかないところが苦しい。

でも、それは美しい娘さんの歌で、男にとってはある意味「天使」。

昭和36年に和製アンドリュー・シスターズといわれた(かな)スリー・グレイセスがヒットさせた「山のロザリア」

日本でいちばんはじめにうたったのは織井茂子で「牧場のロザリア」というタイトルで。またスリー・グレイセスのあとに井上ひろしもカヴァーしています。
もちろん、ロシアンソングには欠かせないダーク・ダックスやボニー・ジャックスなど、いろいろなシンガーがレコーディングしています。

そうなんです、この曲もロシアンソングなのです。ただ、いつごろ作られたのかは不明。原曲はアレクサンドロフスキという舞踏曲だそうですが、作者も不明なのでフォークソングといってもいいのかもしれません。

YOU-TUBEで原曲を探してみましたが、なかなかなくて、ワルツでなんとなく雰囲気がにているな、と思ったのがこの曲
どうでしょうか、違うかな。

日本の「山のロザリア」とはだいぶ違いますね。「山のロザリア」はやっぱり歌謡曲のアレンジです。なかなかですよね。

ちなみにアレンジャーは小杉仁三で、どうやらクラウンレコードの専属だったようで、「星のフラメンコ」をはじめ西郷輝彦の一連のヒット曲や、小林旭の「恋の山手線」、渡哲也の「東京流れ者」、水前寺清子の「三百六十五歩のマーチ」などを手掛けています。

もうひとつ付け加えれば、作詞は亡くなりましたが、「東京のバスガール」や「高校三年生」の丘灯至夫。

なんとなく、画竜点睛に欠けるような気分なので、次回極めつけのロシアンソングをいま一度。


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●ロシアンソング① [noisy life]

哀愁のカレリア02.jpg

昔の人間ですので、テレビをみていても、CMになるとチャンネルを変えてしまうのですが、ときたま面白いコマーシャルがあると見入ってしまうこともあります。

たとえば、ちょっと古くなりますが、……宮崎あおい(名前が出てこず、今調べました)が出演しているカウリスマキ風のシラケ鳥が飛びそうなCMだとか、石原さとみの「間接キス」のヤツとか。
ただ、どちらも何のCMなのかはいまだにわかりませんが。

最近見とれてしまったのが、しばらく前からやっていましたけど、お竜さんが出てくるCM。お竜さんといっても50歳以下の人はほとんどわからなと思いますが、往年の藤純子(ふじじゅんこ)さん。いまは藤司純子(ふじすみこ)ですか。寺島しのぶのお母さん、菊五郎の奥さんですね。
お父さんは、もう亡くなってしまいましたが、俊藤浩滋といって東映ヤクザ映画の辣腕プロデューサーで、ってもういいですかね、この話は。

とにかくそのCMが気になったのは、もちろんお竜さんが出ていたということもありましたが、バックに流れていた懐かしいミュージック。
見た人はしっているでしょうけど、それがThose were the days 。1968年のメリー・ホプキンのビッグヒット曲ですね。

これはもともとロシアの古い歌で、メリー・ホプキンの世界的ヒットで、ロシアでも再評価されたとか。

そのノスタルジックなBGMを聴いていて聴きたくなったのがロシアの歌。
ロシアの歌といえば、われわれの年代でいえばロシア民謡。

戦後、あれほどの勢いで日本を席巻した観のあったロシア民謡。
いまはどうなっているのでしょうか。
テレビでもほとんど聴こえてこないし、学校の教科書には載っているのでしょうか。

考えてみれば、ロシア民謡だけじゃない。
シャンソンだって、カントリーだって、カンツォーネだって、ラテンだって流行歌、ポップスの第一線からは完全に退いてしまっていますからね。

そんなわけで、しばらくは(たまにしか出てこないけど)「あの頃」輝いていた歌を久しぶりに聴いてみるのもいいかと。
まずは、ラシアンソングを。

はじめは、
二つのギター

ロシアでも名の知れたフォークソングですが、もともとはロマ(ジプシー)の歌だったとか。
わたしがはじめて聴いたのは、昭和でいえば40年代の前半。時はまさにエレキブーム。
そんななかで買ったレコードがフィーネーズの「哀愁のカレリア」。
そのB面だったのがこの「二つのギター」。
子どもながらに「イントロがやすっぽいなぁ」と思いつつも、そのメロディーラインはA面よりも気に入ってました。

フィーネーズは「マンチュリアン・ビート」のサウンズと同じフィンランドのバンドで、その実態はスウェーデンのザ・スプートニクスだという説もありましたが、その真偽のほどは。

いずれにせよ、スウェーデンには「ストップ・ザ・ミュージック」のレーン&リー・キングスなんてバンドもありましたし、当時の日本のエレキブームを盛り上げたのはベンチャーズだけではなく、北欧バンドも存在したということで。

この二つのギター、日本ではたしか寺内タケシが演っていたし、ヴォーカルでは小山ルミが歌っていました。


つぎは、これ。
少女ナディア(ロシアン・トゥ・ステップ)

これはずっとあとで知ったロシアのトラディショナルソング。
多くの民謡がそうであるように、この曲も本来踊りのために作られたものなのでしょうね。

ロシア風のバラライカの演奏もいいですが、YOU-TUBEにあるようなバイオリンにアコーディオンという組み合わせもいいですね。とりわけ個人的にアコーディオンはロシア民謡の印象がつよい。

なぜかというと、初めて「これがロシア民謡だよ」と教えてくれたのが小学校の音楽の先生で、昼休みには校庭で女子を集めて、自ら奏でるアコーディオンでフォークダンスを楽しんでいました。わたしは教室の窓から見ていただけでしたが。
その曲がこれ。

コロブチカ
イスラエルのマイム・マイムと並んで当時のフォークダンスの双璧だったのではないでしょうか。
ただ、当時はコロブチカなんて洒落た言い方ではなく邦訳の「行商人」っていってました。

不思議と演奏ばかりで歌は、それから20年以上を経て、ダークダックスで聴くまではなかったな。

しばらく前にボンドの演奏で耳にしたという人もいるでしょうが、もうほとんど忘れられた音。
と思っていたら、最近の若者には耳なじみがあるのだとか。
なんでも、テトリスのBGMにつかわれているのだとか。

ところで、ロシア民謡といえば「カチューシャ」が代表曲のひとつですけど、そもそもカチューシャっていうのはロシアの女性の名前ですよね。
で、あの女性の前髪につけるのもカチューシャ。AKBの歌にもありますね。
あれはなぜカチューシャというのかな。

わたしが小学生のころもカチューシャをしている子がいて、たしか「カチューシャ」って言ってました。
日本だけの名称だって聞きましたけど、いつだれが命名したの気になるな。

いましばらくラシアンソングを聴いてみたい気分なので、次回も。


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●ブックオフでジャズ・ピアノ [day by day]

teddy wilson01.jpg

先日、新宿のブックオフで本を何冊か買いました。

ブックオフは何年か前からよく利用しています。
おかげで、めっきり神保町へ行く機会が減りました。
月に一度、共栄堂のカレーを食べに行くぐらいだな。

ブックオフは従来の古書店に比べて、本がきれいですし、何よりも廉い。

わたしが常づね古書店に対してもっていた不満は、本がきたないということ。
古本だから多少きたなくてもしょうがないだろう、というのは限度の問題で、経年のヤケがあったり、シミがあったり、表紙にスクラッチと呼ばれるキズがあるのはいっこうにかまわないのですが、埃まみれになっているものは辟易してしまいます。

とりわけ店頭に並べている100円、200円の本などは、仕入れてきてそのまま並べたっていう感じで、触るのも躊躇するほどよごれていたり。

100円、200円といったって商品は商品。煙草のヤニや埃でよごれた商品を平気で売る店なんて古本屋ぐらいしか思いつかない。

それに比べてブックオフはと感心していたのはしばらく前まで。最近は「ブックオフよお前もか」といいたくなるほどきたない本が多くなっています。とりわけ100円の本。

たしかに大量に仕入れなければならず、人手も限られているとなると、廉い本のクリーニングにまで手が回らなくなるというのは理屈かもしれないけれど、それでは町の古本屋と変わらなくなってしまう。

それでも値段が廉いぶんまだましか、と思っていたら最近はそうではない。
先日みた本は定価より高かった。なんでもヴィンテージものだということだが、それじゃ、「キレイで廉い」というコンセプトもどこへやらということに。

愚痴はこのへんにして。

その新宿のブックオフでBGMに流れていたのが、ジャズピアノ。有線だとは思いますが、ほかのブックオフのようにオリジナルのディスクジョッキーがJPOPばかりを流すのよりはいいや。

そのジャズピアノ、プレイ・ザ・ビートルズのようで、ミッシェルとかレット・イット・ビーなどを演っていました。

誰の演奏なのかはわかりませんでしたが、このBGMに触発されて、帰宅してから俄然ジャズピアノが聴きたくなって。(相変わらずの“影響されちゃう症候群”)

選んだのは、聴き始めのころはまったテディ・ウィルソン

残念ながらCDもレコードもテープも、二年前引っ越ししてから荷解きがいまだ済んでいない状態で押し入れに放り込んであります。
したがって、いつものようにYOU-TUBEでお手軽に。

紹介するのはブルースを3曲。

まずは、有名なセント・ジェームス病院St. James Infirmary Blues
これはサッチモやティーガーデンなど多くのジャズメンが演ってますし、ヴォーカルヴァージョンもあって、最近ではエリック・クラプトンで聞いたこともあります。
日本でも今は亡き浅川マキが忠実な訳詩でうたっていました。

ピート・シーガーをはじめ、アメリカのフォーキーたちもセント・ジェームス病院をうたっていますが、こちらはSt. James Hospital で大西部時代のゴーストが出没するという病院をうたった別の歌。こちらも好きな歌ですが。

YOU-TUBEはモントルー・ジャズ・フェスティバルの実況盤で、印象的なクラリネットはデイヴ・シェファード。

残りの2曲は、これも以前よく聴いた、
ブルース・イン・C#マイナー Blues In C Shap Minor

そしてレス・ポール&メリー・フォードで知られるスタンダードの
バイ・バイ・ブルース Bye Bye Blues を軽快なスイングで。

はなし戻りまして、新宿のブック・オフでのこと。
本棚の中に、以前からちょっと読んでみたいなと思ったことのある(だいたいは読まずに終わっています)ノンフィクションの文庫を発見。

20年あまり昔の本で、それなりにヤケていますが、表紙はまあまあキレイ。
値段も350円と廉かったので買うことにしました。

しばらくほかの本を物色したあとカウンターへ。
すると横の買入れのカウンターにひとりの40代とおぼしき女性がバッグから文庫本を1冊取り出して店員に、売りたい由のはなしをしていました。

若い男性の店員はその文庫本を手にとり、一瞥すると、
「10円になりますけど……」と。

婦人は驚いた様子で、
「だって、これ400円とか500円で売るんでしょ? だったら100円ぐらいにしてちょうだいよ」
「それは、チョット……」
「…………!」
「それなら20円で…………」
「もういいわよ、売らないわよ」

と商談決裂。
婦人は本をひったくるように(自分のですから)バッグに入れ、怒りあらわに去っていきました。
店員は何事もなかったように。

わたしは本をほとんど売ったことがないのですが、若い頃、一度だけ神田へ本を売りに行って、驚くほどたたかれた経験があるので、婦人の気持ちもわからないではありません。
10円かぁぁ……。

そうそう、買い求めた文庫本。
これがなかなかいい買い物で、現在読んでいるところなのですが、久々に「当たり」。
著者はこの本ともう1冊、そして共著の1冊を書いて亡くなっているのですが、「この人の本をもっと読んでみたい」と思わせるほど、シンクロしてしおります。

それと、念のために、ネットで調べたところ、amazonで売られていたこの本の最低価格がなんと3000円以上。ヤッタァ!


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▼恋のサバイバル I will survive [covers]

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昨日の深夜、サッカーのダイジェスト番組を見ていたら、オープニングのBGMに懐かしい歌がつかわれていました。

それが「恋のサバイバル」。誰がカヴァーしていたのかはわかりませんが。


「恋のサバイバル」がヒットしたのは1979年から80年にかけて。1979年といいますと、日本では昭和54年、プロ野球でいうと江川の電撃巨人入団があり、秋には江夏を擁する広島カープが初の日本一に輝いた年。ずいぶん古い話で。

歌の世界では、サザン、ツイスト、アリス、ゴダイゴといったバンドがヒット曲を連発し、アイドルではジュリーと山口百恵が隆盛を極めていました。

オリジナルシンガーはグロリア・ゲイナーGloria Gaynor 。
1949年に生まれたグロリアは、60年代中盤にデビューしたR&Bシンガーで、70年代から80年代にかけてのディスコブームで、この「恋のサバイバル」をヒットさせます。

この歌はナンバーワンになったアメリカ、イギリスだけでなく、ヨーロッパ各国でもヒットしたワールドワイドな曲として知られています。もちろん日本でも。

とにかくアメリカではこの曲がリリースされると、大きな反響が起こったとか。
何が注目されたかというと、その歌詞で、いわゆるラヴ・ソングではなく、古い言い方ならウーマン・リヴ、いまならフェミニズム、ジェンダーといった内容が色濃い歌だったからだとか。

男に捨てられた女が、それまでなら「行かないで」「お願いだから戻って来て」とうたうところを、「冗談じゃない、私はあなたなしでも生きていけるのよ」「私の愛は、もっといい人のためにとってあるのよ、わかったらさっさと出て行って」とヒステリックとも思えるほどにシャウトしています。

男に抑圧されていた女性にとっては、快哉を叫びたくなるような歌詞だったのでしょうね。それゆえにビッグヒットにつながったのでしょう。

で、この歌、かなり前、ある新聞のコラムでヨーロッパのカラオケでもっともうたわれる(女性に)歌だと紹介されていました。
オランダでも、トルコでも。

もちろんアメリカでも、ダイアナ・ロスをはじめ同じR&Bシンガーばかりでなく、カントリーシンガーサルサの女王もカヴァーしています。

また、アジアでも中国、台湾、韓国で知られているようですし、もちろん日本でも。

日本では布施明が、自身で訳してヒットさせています。なんでも、彼のプランだったとか。
「女歌」を男がうたう伝統のある日本ならではのことでしょうか。日本以外でこの歌を男のシンガーがうたったという話は聞いたことがない。

あまり知られていませんが、この日本版「恋のサバイバル」、実は競作で、「逃避行」のヒットがある麻生洋子も「恋のサバイバル2」というタイトルで、なぜかサンバ風なカヴァーをしています。

〈今年のワールドカップ、絶対勝ち残るぞ〉
という思いが込められているのでしょうか。

テレビ番組のBGMって、オープニングに限らずけっこうおもしろい。
懐メロがつかわれていますし。やはり画像と選曲の妙味が見せどころ、聴かせどころです。
ときどき首をかしげる選曲もありますが。

先日見ていた、グルメ番組では「鳥料理」のバックに杉田かおるの「鳥の詩」がつかわれていたのには笑ってしまいました。
ちょっとイージーかなとも思いましたが、叙情的な鳥を食べちゃおうっていうのですから、そのブラックな印象が狙いだとしたら、それはそれで。

鳥よ 鳥よ 鳥たちよ パクッ。


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春の歌●春一番 [noisy life]

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ようやく春一番が吹きよりました。

それにしても強烈な春の入り口でしたね。飛ばされそうになっていたオバサンもいたり。

今年はことさら寒い冬でしたから、やっと来たか、来てくれたかという春一番。
春の到来がこれほどウレシかったのも近年なかったものね。

今回はごたくを並べていないで、さっさと音楽を。

この春のウキウキ気分にふさわしい音楽といえば、…………やっぱりブルーグラスかなぁ。

何年か前の春にも「春風はブルーグラスにのって」ってことで、やったはずなんですが、軽快なフィドル、乾いたバンジョー、トレモロが心地よいマンドリンの音色につつまれると「春だねぇ」、「春だよぉ」って思うのです。

まずは、春にふさわしい歌。
「春また来たりなば」When the Springtime comes again

アニーちゃん、おいらは行かにゃなんねえども、また春が来て木々が緑に色づくころけえってくるからよ、きっと待っててくれよな

っていう別れの歌。
カーター・ファミリーで広く知られるようになりましたが、大元はスティーヴン・フォスターの「やさしいアニー」Gentle Annie だとも。
また別名「リトル・アニー」Little Annie としても知られています。

演奏はデヴィッド・グリスマン(マンドリン)、ピーター・ローワン(ギター、ヴォーカル)、ヴァッサー・クレメンツ(フィドル)らのスーパーバンド、オールド&イン・ザ・グレイ。

2曲目も「別れの曲」。
「川のほとりで」Down where the river bends

こちらは、かつて別れた恋人と遠く離れてしまった故郷に思いをはせるという歌。
まぁ「望郷歌」といってもいいですね。

生まれ育った土地を離れた者が、人を思い故郷(くに)を思うというのは万国共通なのではないでしょうか。

交通網の発達でたしかに“故郷感”は希薄になってしまいましたが、アメリカは始終戦争をしているので、戦地に赴いた兵士たちにとっては、その望郷感といったら、日本人には想像がつかないほど強烈なのでしょうね。

その故郷を象徴するものとして、カントリーやブルーグラスではしばしば「木」がでてきます。
「春また来たりなば」では無名の木がうたわれていますし、この歌でも古いカエデの木が出てきます。

70年代に来日コンサートを行い、静かなブルーグラスブームを起こしたカントリー・ジェントルメンの演奏です。

最後も「木」がでてきます。
「柳の下に埋めておくれ」Bury me beneath the willow

ただし、こちらは「望郷歌」ではなく、「わたしが死んだら柳の木の下に埋めてください」という悲しきラヴソング。

イギリスの民謡をベースにしたトラディショナルソングで、古くはカーター・ファミリーの歌が知られています。

若いブルーグラッサーの演奏で。

今日の3曲はいずれも「別れの歌」。
カントリーに限らず、流行歌には「別れの歌」や「失恋ソング」がいかに多いことか。
人生そんなにうまくはいかないよ、ということなのでしょうね。実際そうだもの。
3回に1回、いや個人的には10回に1回かな。うまくいくことなんて。
だから、その1回がウレシイんだよね。

そういえば今日の春一番で、家の近くの公園の早咲きの桜が無情にも散らされておりました。

月にむら雲、花に春一番のたとえもあるぞ。
サヨナラダケガ人生ダ。なんて。
ちょっと違ったかな。


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●うそうそうそよみんなうそ [day by day]

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ウソすなわち虚言が問題になっています。

世の中は虚言にみちている、と綴っていたのは「徒然草」でした。
わたしも生まれて60年あまり、どれだけ多くのウソをついてきたことか。

それでも、そのことで誰かを傷つけたりわが身に火の粉がふりかからなかったのは、たいしたウソではなかったからなのかもしれない。(いや、自覚がないだけで誰かにダメージを与えていたのかも)

クラシック音楽に疎く、とりわけ現代音楽はまるで聞かないわたしなので、和製ベートーベンさんのことは事件が公になるまで、その名前さえしりませんでした。

ゴーストライターはどんな業界んもほぼ存在するわけですが、自分ではまるで創作していなかったっていうのがスゴイです。
騙されてCDや、自伝本を買ってしまった方がたには申し訳ありませんが、あれは喜劇かコントのように思えて仕方ありません。

叱られるかもしれませんが、ポール・ニューマンの映画「スティング」で感じたような快哉すら覚えてしまうこともありました。
もちろんこんどの事件は、結末がグダグダで、すこしもカッコよくありませんでしたが。

それにしてもNHKや出版社をはじめとしたマスコミを10数年にわたって騙していたとは。彼がペテン師として超一流だったのか。それとも、ほかにも“共犯者”がいたりして。
騙され続けたマスコミは、その反省もものかわ、当のペテン師を袋叩きにしています。

その図式が日本の希望の星ともてはやした、STAP細胞の生成に成功したという「リケ女」に対しても使われているような気がします。
こちらは、日本のベートーベン氏とは違って、生命にかかわる問題だけに、ある人たちの希望を一瞬のうちに失望に変えた(また希望に変わるかもしれませんが)という意味で罪深い。

ただ、あの“ウソ論文”が直接的な実害という意味では、どうなのでしょうか。
いちばんの被害者といえば、彼女の所属していた会社でしょう。なにしろ信用失墜もはなはだしいのですから。

その怒りからでしょうか、会社側の調査の中間報告という記者会見では彼女に対してボロクソ。自分のところの社員が仕事の一環としてやらかしてしまった“ウソ”に対して、あそこまで言うか、と感じるほど。
挙句の果てには「あの年齢では無理」とか「会社としてチェックすることは不可能」とか。まるで他人ごと。

それは、いかに己が会社の管理体制がルーズで杜撰かということを力説しているように聞こえてなりません。実際に外部の人間には彼女の“ウソ”を見抜いていた人がいたのですから。

しかし、疑問に思うのは、なんでリケ女さんは、これほど簡単にバレるようなウソをついてしまったのかということ。
実際に一度STAPの生成に成功し、それを再現できなかったため、都合の良いプロセスをねつ造してしまったのか。
それとも、STAP細胞とは彼女の夢幻の世界にのみ存在するものであって、周囲の人間がその幻に巻き込まれてしまっただけだったのか。

この出来事がどのように終息するのかわかりませんが、科学者生命が絶たれかねないリケ女さんにはいささか同情を禁じえません。

この和製ベートーベン事件と堕ちたリケ女事件で見えたことは、騙されたヤツ(マスコミと会社だな)の怒りはすさまじいってことでしょうか。自分たちの無能を棚に上げて。

でも“ウソ”が露見したことで、これほど社会が注目した事件が続いたのはめずらしい。これでもかっていうくらい持ち上げていたものなぁ、マスコミ“各氏”は。その反動か、張本人に対して、血祭りにあげずにはおくものかっていうほどの気迫が感じられます。

誰でもウソはつくけれど、いまいちばん気になるウソは、「いや解釈によってはそれはウソとはえない」とばかり真実を捻じ曲げてしまうウソじゃないでしょうか。

例によってエンディングは音楽で。
純和風の邦楽と、あいも変わらずのカントリーの2曲で。
もちろんどちらもフェヴァリットソングです。ウソじゃないよ。


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●ソチ五輪閉幕 [day by day]

images.jpg

ソチ五輪もようやく終わってくれました。

なにしろLIVE中継が夜中というか、早朝というか、まぁシンドかったこと。

しかし、金メダルがただの1個でも、なんだかんだ言っても、いつになく盛り上がったオリンピックではありました。

とりわけ、閉幕まぎわの浅田真央のフィギュアスケートは、掉尾を飾るにふさわしいパフォーマンスでした。
しかし、日本というかマスコミは騒ぎすぎ。もし金メダルを獲ったとしてもあれほどの騒ぎになったかどうだか。

また、もしあれが逆で、ショートで上位に入り、フリーで失敗してトータル6位だったら、おそらく今回の10分の1もとりあげられなかったんじゃないかな。成績は6位でかわらないんだけれど。「巻返し物語」が好きなんだよね、日本人は。

とはいえ、彼女のあの試合後の、そして帰国してからのインタビューでの笑顔をみていると、ヨカッタ、ヨカッタと思うのですけれど。
また、この騒ぎをみていると、いかに日本人の多くが浅田真央を愛しているかがわかります。

その半分でいいですから、17歳の少女、高梨紗羅に同情だけではなく、愛をそそいでほしかった。
五輪初競技、初出場で4位、すばらしい成績です。
にもかかわらず「申し訳ない」と言わせてしまう、あの雰囲気。

でもあのワールドカップでの連戦連勝ぶりをみていれば、「まず金、間違いなし」と思ってしまうものね。われわれ素人だけじゃない。元ジャンプのメダリストたちだって「金メダルは99%確実」って断言していたもの。

それが全部17歳の少女の肩にのっかかっちゃったんだよね。
そのプレッシャーにたじろがないわけがない。なにしろオリンピックなんだから。

紗羅さんはめずらしいくらい礼儀正しい女の子です。
友だちとの会話はいざしらず、インタビューでの受け応えでは、「チョー」とか「マジ」とか「メッチャ」とか「ウレシイッス」とか聞いたことないですから。

いえ、そういう若者言葉をインタビューだからつかってはいけないというんじゃないんですよ。ただ、誰もがつかうから、つかってあたりまえだから、逆につかわない若者が光ってみえるということだけなのです。

まぁ、1回目のオリンピックは終わったけれど、彼女のジャンプはまだ続いていくわけで、彼女が世界最強のジャンプガールであることは誰も疑わないわけで、4年後にはそれを証明してくれるはずです。まぁ、オリンピックですから99%の確率で。

今回のオリンピックで印象に残ったアスリートベスト5をあげてみますと、
●高梨紗羅
●上村愛子
●葛西紀明
●渡部暁斗
●浅田真央

最後にとくに意味はありませんが、サラ愛子の歌を。


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その名は●ピート・シーガー [the name]

 peat seeger2.jpg

わたしの音楽の心の大師匠であったピート・シーガーが亡くなりました。

高齢だったのでいつかは……と思っていましたが、94歳でした。

マッカーシズムを生き抜き、反人種差別、反戦と自身の思うところをみごとに貫いた一生ではなかったでしょうか。

“アメリカの良心”がひとつ消えてしまいましたが、彼に影響を受け、その意思を継いでゆくミュージシャンは少なくないはずです。

YOU-TUBEでピートさんを偲んでみたいと思います。

Turn Turn Turn

This Land is Your Land

Last Night I Had The Strangest Dream

Down By The Riverside

Que Bonita Bandera

良きハートを、良き歌をありがとうございました。

プラスワンでもう2曲、昔ハマった曲を追加しました。

When The Saints Go Merching In

So Long, it's Been Good To Know You 

 


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●飴 [props]

 君に捧げるほろ苦いブルース.jpg

最近出かけるとき、バッグの中に飴を入れてある。

まだ慣れていないので忘れてしまうこともあるけれど、たいがいは家に戻るまでに1個か2個を口の中に放り込んでいる。
梅干しの種ほどの小さな飴で、味も梅。

実は飴なんて、ほとんど何十年も嘗めたことがなかった。
それがしばしば味わうようになったのは、つい先日こんなことがあったから。

そこそこ混んでいる電車中でわたしは吊革につかまっていた。
駅で停車し、前に座っていた人が降りたので、遠慮なく座ることに。

ドアが閉まる瞬間に駆け込んできたのが、老婦人の2人連れ。
ひとりはわたしと同年配で、もうひとかたは80歳は過ぎているだろうと思われる女性。
会話の様子から母娘らしい。

もちろんわたしは先輩女性に敬意を表して席を立った。
座席に腰を下ろした母親の前にその娘が、そしてその隣にわたしが吊革につかまって立っている。

すると次の駅で、母親の隣の席が2つ空いた。
ごく自然にその隣に娘が座り、そのまた隣にわたしが腰を下ろすことになった。

電車が走りだし、しばらくすると隣の娘がわたしの耳元に顔を寄せ、ささやいた。
「飴をいかが」

そして娘はバッグから袋に包まれた小さな飴を2つ取り出し差し出した。
その動作があまりにもスピーディだったので、わたしは遠慮する間もなく、反射的に手で受け取ってしまった。

次の駅が行先だったので、わたしは飴を手の中に握ったまま、2人の女性に挨拶をして下車した。

用事先に行く道すがら、せっかくなので飴を嘗めてみた。
ほのかに甘い桃の味と香りがした。破った紙を広げてみると「ピーチ」と書いてあった。

とにかく、そんなことがあってから、「飴もわるくないじゃん」という気になって携帯するようになったというわけ。

飴といって思い出すというか、よく嘗めたという記憶はやはり小学生のころ。

森永キャラメルに、明治のサイコロキャラメル。駄菓子屋でよく買ったくじで大小がきまるヒモのついた三角のいちご飴。それに、ハッカがでるとがっかりした缶入りのサクマドロップ。
そういえば、野球のくじがついた紅梅キャラメルなんてのもあった。そうそう肝油ドロップなんてのもあって、一度友達にもらって嘗めたことがあったけど、あれはどうもなじめなかった。

そんなこんなで、小学時代はよく嘗めていた飴だが、中学あたりからしゃぶらなくなった。
両親が飴を嘗めているのを見たことがなかったし、それが大人になることのひとつだったのかもしれない。(ガムはもう少し先まで噛んでいたけど)

まぁ、還暦も過ぎて一周したわけだし、再び飴を嘗める齢になったということで。糖尿の方々(最近わたしの周りに多い)には申し訳ないけど。

ずいぶん前置きが長くなりましたが、本題の飴に関する歌を3つばかり。
まずは、これ。

●下町の太陽 倍賞千恵子
ここでは何かにつけて出てくる(出している)昭和37年の歌。
松竹映画「下町の太陽」の主題歌。初期の山田洋二作品ですね。たしか倍賞さんの初主演で、倍賞さんには出来のわるい兄がいて、子供のころ生き別れになっていたのが、ある日突然舞い戻ってきて……、なんて話ではなかったな。

歌は2番に
♪縁日に二人で分けた丸いあめ
とあります。
つぎは、こんなのも。

●青い瞳のステラ、1962年夏…… 柳ジョージ
これも「下町の太陽に」負けないほどここでとりあげた歌。この歌もとてもノスタルジックな風景が広がるメロディーであり、詞であります。

♪赤いキャンディ 包んでくれたのは 古いニュースペーパー
っていきなり出てきます。
どんなかたちの飴だったのだろう。ステラがくれたのだから、PXかなんかで売っていた舶来品なんだろうな。丸い飴で一個一個透明な紙に包装されていてね。
1962年といえばやっぱり、昭和37年。ギブミーチョコレートの時代ではなかったけれど、いまに比べればはるかにお菓子の種類も少なかった。
さいごは、やっぱりこれかな。

●君に捧げるほろ苦いバラード 荒木一郎
♪ゆきずりの夜に買う綿あめは 君と愛した味がする

粒状の飴ではないけれど、これもよく縁日や夜店でよく買った記憶があります。
お祭りではなくても、縁日や夜店はありました。夏の夜の東京下町の風物詩でした。
文京区の千駄木にはその名残の「よみせ通り」がいまでもあります。

この歌も暗い歌だけど、バンジョーとクラリネットのデキシー風なアレンジがいかしてます。
亡くなった「君」へのレクイエムだけど、実はその「君」が荒木さんの飼っていた愛猫だったということは前回この歌をとりあげたときに書いたような。

ちなみに「綿あめ」が出てくる歌はけっこうあります。
ジッタリン・ジンの「夏祭り」、井上陽水の「夏まつり」、さだまさしの「案山子」、同じくグレープの「ほおずき」なんかが。

ところで、冒頭の電車中で飴をもらった話。
なんで、あの女性は飴をくれたのだろうってことが、なにか腑に落ちない。
母親に席を譲ったお礼に、というのはわかるけど、いい大人に飴などをあげるものだろうか。

それよりも思ったのは、もしかしたら、あの飴をくれた同年配と思しき女性、わたしのことをうんと年下だとおもったのではないだろうかと。
実はそのときのわたしは、ダウンにデイパック、ジーンズにスニーカーという年齢不詳の服装。おまけに正ちゃん帽(っていわないか)を耳が隠れるほど目深にかぶり、さらに大きなマスクをしていた。

だから、かの娘さん、わたしのことを若者と間違えて…………。
なことないか。ないよな。あるわけない。考えが甘い。飴だけに。


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冬の歌●70年代ニューミュージック [story]

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やっぱり日本にはめりはりのきいた四季がありますので、この時期「冬の歌」を聴いてみたいとおもいます。

洋楽から、日本のポップス、歌謡曲、演歌とジャンルはいろいろありますが、今回は70年代のニューミュージックから三曲を。
いずれも70年代前半につくられた曲で、ふりかえれば40年も昔の歌どもです。

当時、自分はなにをしていたのかな。
あちこちフラフラしていたなぁ。いまだってそうか。
しかし、誰でもそうでしょうが、現在の自分のありようなんて、二十歳そこそこの若造には想像すらできっこないですよね。

さ、たそがれていないで、本題の歌を。

まずは「雪」

1972年のヒット曲。ごぞんじのとおり、吉田拓郎の作詞作曲。
なんでも、拓郎の実体験からつくられたという話。
拓郎に「お帰り、坊や」って“言った”のはローカル局のアナウンサーだったとか。

猫は、拓郎のバックバンドをやっていたグループで、いってみれば日本のバーズってとこ。
ただ、もともとはザ・リガニーズの残党で、デビューは拓郎より早い。

2曲目はふきのとう「白い冬」
ふきのとうは北海道出身の男性デュオで、「白い冬」は1974年のメジャーデビュー曲。

日本のS&Gといったらいいすぎですが、今ならゆずやポルノグラフィティとか男性デュオはめずらしくないけど、ふきのとうはそのさきがけ的存在。
少し前のデビューに「クレープ」がいますが、狩人やCHAGE&ASKAよりは古い。もっとも60年代には「ペアスカンク」なんてのもいましたが。

名曲で、坂本冬美や石川ひとみもカヴァーしています。

最後はNSP「雨は似合わない」
これも1974年の曲です。

ヒット曲「夕暮れ時はさびしそう」の次につくられました。
NSPのほとんどの曲は天野滋の手によるものですが、この叙情曲も天野ワールド全開。

天野滋は2005年に亡くなりましたが、ピックアップしたyou-tubeでは、仲の良かったふきのとうの細坪基佳が“天野役”を演じています。


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三つの歌●アメリカン・オールド・タイミー① [day by day]

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すっかり冬ですね。
今日は用事のついでに、新橋から霞ヶ関方面をブラブラ。
3年ほど前までは、毎月5、6回は通った道なのですが、わずかのあいだに様相がガラッと。というのはいささか大袈裟ですが、大きなビルが2つも変貌をとげていたり、たまに入ったビールのおいしい喫茶店が消えていたりと、大都会も刻々とその“相貌”を変えていることを実感しました。黄色に染まった銀杏並木は相変わらずでしたが。

では本題に。復帰してずっと邦楽が続きましたので、たまには洋楽も聴いてみたい。

洋楽といいましても、いささか広うございますが、この季節ですから……カントリーミュージックということに。春夏秋冬カントリーってね。

今回は、仕事が一段落ということもありまして、ホッとできるヤツを。
どんなのがホッできるのかといいますと、やっぱり昔の音楽というのか、古い歌がなんともノスタルジーを感じるわけでして。

で、思いつくまま選んだ三曲はカントリーといよりは、古い時代のアメリカンミュージック。もちろんカントリーシンガーにも頻繁にうたわれているものです。
では。

青い鳥が鳴いていた I Heard the Bluebirds Sing

はじめはラヴソングを。
君に初めて逢ったときも、教会で永遠の愛を誓い合ったときも、青い鳥のさえずりが聞こえていたね、という幸せソング。
どんなさえずりかって? そりゃ「クッククック」でしょう。

つくられたのは1952年といいますから、昭和でいえば27年、わたしも幽かに存在していた時代。そんなことはどうでも。
もともとデュエットソングとして作られ、その5年後には「谷間に三つの鐘が鳴る」でしられるブラウンズによって世に広められました。

まぁ、アメリカでのデュエットソングの定番。日本でいえば「ギンコイ」とか「トウナイ」(そんな略し方しません。東京ナイトクラブのことです)とかかな。

YOU-TUBEではジョン&ベバリーという知らないお二人さん。
なかなかいい雰囲気でして、ベバリーさんは倍賞の千恵子さんに似てらっしゃる。ジョンさんのほうは、リー・マービンかな、いやマルチェロ・マストロヤンニ……でもないし、クラーク・ケントが老けたような……。とにかくいつかどこかで見かけたような容貌でして。
いいなあ、ツインギターでのハーモニー。

マギー、若き日の歌を When You and I were Young, Maggie

つぎはもう少し古い歌。日本でいえばほぼ明治維新のころ。アメリカではゴールドラッシュ大狂乱時代あたりじゃないでしょうか。

若くして病死した妻への追慕のおもいをうたったもので、これもとてもノスタルジックで。
古き良き時代のアメリカの映像のBGMにつかわれることも多いようです。
また、聖者の行進が葬儀につかわれるように、デキシーランドジャズ風に演奏されてもこれまたぴったりきます。

YOU-TUBEでいろいろ探しましたが、音が悪かったり、いささかクラシックぽかったりと適当なものがなく、結局動画なしの音だけとなりました。
演奏も歌声もなかなか素朴でよいと思うのですが。ヘッドフォンで聴きいっていると胸にジーンときます。

やがていつの日か In the Sweet By and By

最後も以前とりあげた歌。もうネタ切れだね。
でも好きな歌なので、何度でも。

「たとえ別れがあろうとも、いつか天国の美しい水辺でまた逢えるでしょう」という内容で、讃美歌あるいはゴスペルとしてよくうたわれる歌です。

メロディーが美しくかつノスタルジックで、今回のコンセプトにはドンピシャ。
みつけたYOU-TUBEはこれまたまったく知らないバンド。
でもA Southern Gospel Revival というバンド名はいいですねえ。

録音もいいし、素朴な感じで、それでいてノリもいいし、キレもいいし。アメリカには無名でもいい雰囲気のバンドがたくさんあります。

今年も数えるところあと……、という時期になりました。
忘年会、掃除、賀状、定期健診などなど、やらねばならぬことはあまたありますが、最悪、年が明けてからでも、なんて。

ブログはあと1回やっておこうと思っていますが、できなかった場合のために、みなさま今年もお世話になりました。来年もよろしくお願いいたします。

 


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●12月2日 [day by day]

黄色いさくらんぼ.jpg 

母親が死んで丸2年たちました。

昨日は3回忌、入谷の寺へでかけました。
母は10数年前、父が死んだ直後から物忘れの頻度がたかくなり、脳血管障害から認知症に移行し、長い徘徊からやがて寝たきりになり、どうにか食事、排泄の世話も日常化でき、看護士さんから教わった床擦れの手当てもようやく慣れてきた頃、「もうおまえをゆるしてあげるよ」といわんばかりに亡くなったのでした。

死んだ当初は、介護のことなど思い出したくもなく、冗談半分に「この先、介護されるのはいいけど、もう誰かの介護は二度とごめんだ」などといっていましたが、2年経ってだんだん苦痛も和らぎ客観的に回想できるようになりました。

最近、テレビで認知症介護のドキュメンタリーをしばしば放映するようになってきましたが、いままでは見る気がおきなかったそうした番組も見れるようになりましたし。
「そういえば、オレもやったよな」「そうそう、あれがたいへんなんだよなぁ」「そうか、オフクロにもああしてやればよかったなぁ」
なんて思いながら。

母の歌というと、わたしの子供のころ、音程をはずしながら童謡や唱歌をうたっているのを聞いたぐらいで、青春時代、どんな歌手にあこがれ、どんな歌をくちずさんでいたのか、とうとう聞かずじまいでした。

そこで母と同じ命日の12月2日(1990年)に亡くなった昭和屈指の作曲家・浜口庫之助の名曲を5つばかりセレクトしてみました。

昭和34年(1959)、はじめてのヒット曲となったのが「黄色いさくらんぼ」。
半世紀以上前の流行歌としては画期的なお色気ソング。
たしかラジオでも放送自粛になったはず。

その同じ年に「僕は泣いちっち」という、これまたユニークな言葉づかいのヒット曲を送り出し、ハマクラの名前を世に印象付けたのでした。

その後も、西郷輝彦の「星のフラメンコ」、「星娘」などの青春歌謡、坂本九の「涙くんさようなら」やマイク真木の「バラが咲いた」でのフォーク調歌謡曲、さらにはザ・スパイダースの「夕陽が泣いている」ではグループサウンズにと、流行歌のトレンドでみごとにその存在感を発揮してきました。

そして、昭和40年代中盤から後半のアイドル歌謡時代 でも、にしきのあきらや、天地真理にヒット曲を提供し、50年代には「夜霧よ今夜も有難う」に代表される石原裕次郎、昭和の晩年である60年代には島倉千代子の「人生いろいろ」をつくり、まさに、昭和のヒットメーカーのひとりとして、その存在感を示しました。

演歌でもなく、ポップスともいえず、歌謡曲の枠から逸脱した、文字どおり「ハマクラ節」で、ファンを魅了したばかりでなく、多くのミュージシャンやその後の流行歌の世界に影響を及ぼした稀有なソングメーカーでした。

では5曲を順不同で。

黄色いさくらんぼ(スリー・キャッツ)
記念すべきファーストヒット曲。
スリー・キャッツはハマクラさんが率いていたラテンバンドの女性ヴォーカルトリオ。たしか3人のうちひとりが1度目の奥さんになったんじゃなかったかな。
作詞はまさか(さもありなんかも)の星野哲郎。

恋の町札幌(石原裕次郎)
詞もハマクラさん。ノスタルジックな編曲は川口真。
「粋な別れ」もいいけど、裕次郎ではこの歌がベスト。

ちいさな恋(天地真理)
めずらしく安井かずみと組んだ一曲。天地真理では「想い出のセレナーデ」とともに好きな曲。
どうしているんでしょうか白雪姫は。

燃える大陸(渡哲也)
哲兄ィの主演映画主題歌。
フェヴァリットソングのひとつです。

みんな夢の中(高田恭子)
高田恭子は元関西のフォークシンガー。
この歌を好きな人はけっこう多い。亡くなった演出家の久世光彦が死ぬ間際に聴きたい曲というコンセプトで「みんな夢の中」というタイトルの本を書いていました。

12月はどこか死のにおいがつきまとう。

伯母さんつまり母の姉2人が死んだのも12月、そして私の尊敬していた大先輩が亡くなったのも師走でした。
まだ12月ははじまったばかり、除夜の鐘を聞くまでにもしかしてだれかが……。身近で可能性があるのは、あの人だろ、それにあいつも、もしかしてあの人だって……。
まてよ、他人のこといってる場合じゃない。
なことを、昨日お坊さんのお経を聞き流しながら考えていました。


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三つの歌●島倉千代子カヴァー [day by day]

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仕事がいちだんらくしたので、夜な夜なお千代さんのYOU-TUBEなど見ています。

付き合いが長かった(一方的のですが)だけ、喪失感がいまだ去りません。

先週のTVのニュースはお千代さんの訃報であふれていましたが、週が変われば誰も名前すら口にしなくなるのでしょう。あたりまえのことですが。

チヨニスト(そんな名称ないか)としては、せめてブログでその歌を流していきたいと思っております。

今回は前回すこしふれたのですが、彼女のカヴァーを。
ほかの歌手がお千代さんの名曲をうたうというものもいつかやりたいと思っていますが、今日はお千代さんが、カヴァーソングをうたうという趣向。

カヴァーアルバムはいくつか出しております。
カヴァーアルバムを出せるというのは歌のうまい証拠。

今回は三つの歌ということで三曲を厳選(でもないな)してみました。

●無法松の一生(度胸千両入り)

やっぱり古賀メロディーははずせません。
フェヴァリットソングということでは、戦前の「緑の地平線」や「人生の並木路」もいいのですが、彼女のオリジナル曲としては絶対ありえないだろうとう、昭和30年代につくられたこの歌を。

神野美伽や島津亜矢もうまいけれど、お千代さんがベスト。
そのそこはかとなく染み出てくる情念がすばらしい。村田英雄には絶対ない味。絶品。


●愛国の花

これは戦前の歌。
はっきりいって軍歌なので、その歌詞にいささか抵抗がないわけではありませんが、日本の女性を桜、梅、椿、菊と四つの花にたとえた詞はなつかしい。
なにより古関祐而のワルツがすばらしい。
クラシックの香りがただよう渡辺はま子もいいけど、お千代さんの可憐な歌唱も泣かされます。

●都会の天使たち

最後は、男運のわるかった(失礼なことを)お千代さんのために、デュエットソングを。
もっとオリジナルでもデュエットソングをうたってもらいたかったなあ。カママトトとーくがまたいいんだ。


前回、彼女の洋装が印象に残っているといいましたが、そんな画像がありました。
わたしのイメージとはかなり違っていましたが、それはそれでもうひとりのお千代さんが見れるということで、おまけということにしてみました。

ではまたいつか。


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その名は●島倉千代子 [the name]

 島倉千代子.jpg

仕事の忙しさがピークにさしかかっておりますが、そんなこといってられません。
なんとか合間をこじあけて、このブログを書いております。

お千代さんが亡くなりました。
この時世、75歳はいささかはやすぎますね。

ここ2、3日歌謡曲の懐メロが聴きたい気分になって、仕事をしながら好きな30年代の
歌謡曲を自制したCDを聴いておりました。
そのなかにもちろん島倉千代子さんの「この世の花」が入っております。

「この世の花」はわたしを歌謡曲の世界に誘ってくれた、わたしの中では記念すべき曲。当時わたしは5歳。
「東京だよおっ母さん」もいい、「東京の人さようなら」もいい、「からたち日記」も、「逢いたいなァあの人に」も、「恋しているんだもん」もいいなぁ。
守屋浩とのデュエット「星空に両手を」もいいんだなぁ。

カヴァー曲だって。
吉田メロディーの「再会」、鈴木メロディーなら「女の意地」、梶芽衣子の「怨み節」もよかった。そういえば陽水の「夢の中へ」もレコーディングしていたっけ。

鈴木メロディーの「赤坂の夜は更けて」は競作のオリジナル曲。
お千代さんといえば、着物姿だけど、いっときテレビでも洋服の衣装で出ていたことがあった、記憶がゆがんでしまってりいるかもしれませんが、ワインレッドのスカートがとても新鮮で印象的でした。膝うえぐらいのね。
「愛のさざなみ」をうたっていた頃でしたか。

美空ひばりとは好対照でした。
ありがちな比較ですが、美空ひばりが太陽ならば、お千代さんは月。
花にたとえれば、ひばりが薔薇、お千代さんは、からたちといいたいところだけど、水仙じゃないでしょうか(ちがうかな)。

晩年は、仕方ないのだけど声がでなくなっておりました。
それでも舞台に立つという心意気には拍手をおくるべきなのでしょうが、いささか悲しいことでもありました。

それでも、やっぱり今後、テレビでもライブでは見られないとなると淋しいことです。

なんとなく今、聴きたい歌を五つ選んでみました。
お疲れさまでした。ありがとうございました。

●この世の花
何度聴いても飽きません、とりわけデビュー当時の声色が最高。西條八十の得意な純情乙女が描かれています。

●逢いたいなァあの人に
お千代さんの“泣き節”全開。昭和30年代主流だった都へ行ってしまった「いい人」を思う故郷ソング。作曲は「美貌の都」や「東京のバスガール」の上原げんと。20年代、30年代のコロムビアのヒットメーカー。

●恋しているんだもん
こういうチャンチキぶりもいいもんです。曲は市川昭介、詞は西沢爽。都はるみにカヴァーしてもらいたい。

●星空に両手を
めずらしいデュエットソング。北原謙二とのもありましたが、これが極めつけ。お相手は守屋浩。作曲は守屋の「長いお下げ髪」の神津善行。

●夢飾り
昭和の終わりころにつくられた歌。作曲が「そして、神戸」や「舟歌」の浜圭介なので、いささかポップな感じになってます。ここからハマクラさんの「人生いろいろ」に続いていくのでしょうね。

Mashi☆Toshiさん、前回でのnice!をありがとうございました。

画像認証なんてものが新設されたようで、それ読めないときてます。そこでこの場をかりて返信させていただきました。

 


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その名は●岩谷時子 [the name]

その名は●岩谷時子

君といつまでも.jpg

ブログを復活させて、月に1~2回書こうかなと考えていたのに、まさか1日に2度も書くことになるとは。

岩谷時子さんが亡くなられました。
97歳と聞けば、よく長生きされたなというのが実感です。

いつものように独断でフェヴァリットソングをセレクトしてご冥福をお祈りしたいと思います。

●サン・トワ・マミー

なんといっても越路吹雪への歌詞提供がいちばん輝いている。そのほとんどはシャンソンの訳詩というかたちで。
何年か前に出た彼女の歌詞集のタイトルにもなっている「人生は過ぎゆく」がいちばんふさわしいと思ったのですが、YOU-TUBEに音のいいものがみつからず、アダモのなかではいちばん好きな「サン・トワ・マミー」を選んでみました。

●恋は紅いバラ 

加山雄三のナンバーワンヒットの「君といつまでも」をはじめ、「夕日は赤く」「蒼い星くず」「お嫁においで」「霧雨の舗道」「幻のアマリリア」など若大将とのコンビのヒット曲はあまたありますが、女性の作詞家が男歌でヒットを連発するのはめずらしい。

ほぼ同時期には「青春をぶっつけろ」をはじめ熱血スポーツ教師ドラマの主題歌もてがけていました。布施明の「これが青春だ」をはじめ、竜雷太、浜畑賢吉が主演したシリーズの主題歌の作詞も彼女で、主演俳優がそれぞれうたっていました。

また郷ひろみにも、デビュー曲「男の子女の子」をはじめ「花とみつばち」「裸のヴィーナス」など数曲書いています。

●夢見るシャンソン人形

昭和30年代中頃から後半にかけてのカバーポップスブームで、多くの名訳詞をしてみせた女性作詞家が岩谷時子と安井かずみ。
この二人が女性作詞家の草分けとなります。

岩谷作品で当時いちばん流れていたのは、おそらく森山加代子の「月影のナポリ」でしょう。田代みどりの「ビキニスタイルのお嬢さん」もよく聴こえていました。
今回はフランス・ギャルをミッチー・サハラがカヴァーした「夢見るシャンソン人形」。

ミッチー・サハラは10年ほど前でしょうかハワイから訃報が伝わってきました。声がきれいで歌がうまく、ハーフシンガーのさきがけでした。

●ふり向かないで

ちょうどそのカバーポップス全盛時に、これまた亡くなった宮川泰と組んでつくったのが、ザ・ピーナッツのヒット曲の数かず。
なかでもいまだに多くのシンガーにカバー曲として歌い継がれているのが「恋のバカンス」。日本のオリジナルポップスの原点ともいうべき歌です。

今回アップしたのは「ふり向かないで」。
黒い靴下や、タータンチェックのスカートをなおしているから振り向かないでね、という歌詞には、子供ごころをドキドキさせられたものでした。今考えてもスゴイ歌詞です。

●瞳とじれば

岩谷時子のコンビ(作曲)としていちばんはじめに思い浮かぶのはいずみたく。
ヒット教を多く出したという意味では、やはりピンキーとキラーズでしょうか。
デビュー曲の「恋の季節」をはじめ、そのヒット曲のほとんどはこのコンビで。

ほかにも、「夜明けのうた」(岸洋子)、「いいじゃないの幸せならば」(佐良直美)、「ベッドで煙草を吸わないで」(沢たまき)、「太陽のあいつ」(ジャニーズ)、「太陽野郎」(バニーズ)、前述した「これが青春だ」(布施明)などヒット曲は綺羅、星のごとく。

そんななかでも何度聴いても飽きないのが、わがアイドル(のひとり)だった倍賞千恵子の「瞳とじれば」。

フェヴァリットソングが、とても5曲ではおさまらないヒットメーカーでした。
またいずれの日にか続編をということで、取り急ぎまとめてみました。

日々の生活の中で、岩谷作品からたくさんの潤いをいただいたのは、わたしだけではないはずです。
岩谷時子さま、ありがとうございました。お疲れさまでした。


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●三つの歌 秋はフォルクローレ [day by day]

●三つの歌 秋はフォルクローレ

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ようやく秋になりました。
長時間歩いていても汗をかかないし、日向の道で建物の陰を探すこともないし。

秋は空が、青空が美しい。
そんな清涼な空を見ていると、脳内蓄音機から聴こえてくるのはなぜかは知らねどフォルクローレ。
「花祭り」や「コンドルは飛んでいく」に代表される南米の民族音楽。

 

そんなフォルクローレを3曲。今回はすべてインストで。

まずはじめは、昔よく聴いていたロス・インカスの「カラウアジョの思い出」
ロス・インカスはアルゼンチーノを中心とした民族楽団で、今はしりませんが、当時(っていつよ?)はヨーロッパで活躍していたとか。
「カラウアジョの思い出」の元歌はペルーの民謡で、カラウアジョとはペルーの村あるいは地域の名前だとか。

当時の(またですが)レコードの解説にはカラウアジョの場所は不明と書かれていました。誰も知らない「村」とは。
もしかしたら桃源郷なのかも。
そこへ迷い込んだ男が、まるで竜宮城の浦島太郎よろしく、悦楽の日々を過ごし、やがて生まれ故郷へ戻ったが、カラウアジョのめくるめく日々が忘れられず、再び訪ねてみたが二度とたどり着くことはできなかった。

そこで男は、カラウアジョの黄金の日々をいつまでも記憶に留めようと、旋律として残した。

なんて、空想を呼び起こすような曲です。チャランゴとケーナの調べが美しい。

2番目は、フォルクローレの代表的な楽器のひとつ、ケーナの1曲を。

ケーナといえば、日本ではウニャ・ラモス。
ウニャ・ラモスといえば彼の作でもある「灰色の瞳」ですが、今日はこれもファンにはおなじみの「忘却の種子」という曲を。

印象的なタイトルの意味はわかりませんが、ライナーノーツにはウニャとギタリスト、ラミレス・トーレスとの合作で、タキラリというリズムの曲だとか。ボリビアではダンス音楽としても人気だとも。

最後は、パラグアイを中心にフォルクローレで多用される楽器「アルパ」の演奏で。

日本のアルパの草分けといえば亡くなられたチコ本間。
「コモエスタ赤坂」や「別れても好きな人」で知られるロス・インディオスに在籍していました。ちなみに、ロス・インディオスは元来アンデス音楽のバンドだったそうです。

かの名作、名曲である「八月の濡れた砂」のイントロや間奏でアンニュイな雰囲気を醸し出しているアルパの調べはたしか、チコ本間の演奏だと記憶しています。

そのチコさんの弟子でいまや日本のアルパの第一人者といえるのが、ボリビア生まれのルシア塩満。

その代表的なフォルクローレといえば「鐘つき鳥」や「カスカーダ」。
ですが、ひねくれ者のわたしは「八月の濡れた砂」を聴いてみたい。
しかし、残念ながらYOU-TUBEにはない(彼女のCDには収められています)。

そこで、体操の白井健三クンには及びませんが、2回ひねりの荒業を。

その結果がジャズピアニストの松岡直也がつくった名曲「薔薇ホテル」

ところで、毎年秋口に香ってきたキンモクセイはどうなっているのでしょうか。
もう終わっている? これから?
それとも去年の夏に引っ越したので、今いるところがキンモクセイの匂わない環境なのかな。
どちらにしても、束の間の秋が来ていることには変わりはないのですが。


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その名は●岡本敦郎 [the name]


有馬稲子.jpg

岡本敦郎さま、素晴らしい歌をありがとうございました。


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TOKYO●銀座② [a landscape]

雨の銀座.jpg

電柱に 止まりそこねて 暑さかな

いやぁ暑い日々が続いております。

こんなときは一日冷房のきいた部屋で過ごすのがいちばんなのでしょうが、そうもいきません。
徘徊老人は今日も逝く、じゃなくて往く。
場所と時間によっては目の前に続く道に日蔭がまったくなかったり。
ハレーションを起こさんばかりの道が延々と数百メートルも続いている。

若い頃だったらへのかっぱ。
でも、歳ですねぇ。普段曲がらない角を曲がっての日蔭探し。
結局は遠回りになって、陽射しを浴びる時間もさほど変わらなかったりして。

で、こんな酷暑の昼日中、銀座といえども人出は少ないんじゃないんでしょうかね。実際に行っていないのでわからないけど。

いまと比べてはるかに冷房のある店も少なかった昔の銀座。銀ブラ連はいかにしていたのでしょう。デパートや喫茶店あるいは、昼日中でもビヤホールなんかに避暑していたのでしょうか。
そして、日が落ちる頃、“お二人さん”は心地よい川風(昔は高層ビルもないから風通しもよかった)に吹かれながらメインストリートを一丁目方向へ、あるいは八丁目方向へそぞろ歩いて行ったのでしょうか。夜店の名残の屋台をひやかしながらね。

昭和40年代の初めの頃でしたか、銀座で生まれて初めて散水車なるものを見たのは。ということは確実に真夏ですね。今でもこの時期、散水車が出てるのでしょうか。数年前、四谷で見かけたから“健在”かもしれません。

ちょうどその頃、中学生のわたしは血のつながらない2歳上の“兄貴”のお供で銀座へ行ったことがありましたっけ。
そしてそこで兄貴は、ちょっと年上のキレイなお姉さんに声をかけられ、「イカしてる」だの「イイ靴はいてる」だのおだてられ、安っぽい紙製の映画鑑賞クラブの会員証と引き換えに、小銭を巻き上げられたのでしたっけ。

そんな40年代、歌謡曲の“聖地”として銀座はいまだ健在でした。
そんなわたしの中学時代である昭和40年代初頭に発売されたザギン・ソングをいくつか。

銀座ブルース 松尾和子&和田弘とマヒナスターズ
4月にリリースされたマヒナ・フィーチュアリング・レディの1曲。
レディはもちろん松尾和子。

松尾和子&マヒナといえば、昭和34年のレコード大賞曲「誰よりも君を愛す」がありますが、39年にはこれまた大ヒットとなった「お座敷小唄」も。

「銀座ブルース」はそれを受けてのレコーディング。もちろん大ヒットとなりました。
色っぽい松尾の和子姐さんはムード歌謡の女王でした。

設定はクラブのホステスと客。
この頃からこういう設定が多くなってきたような気がします。
右肩上がりの景気によって、サラリーマンにとって銀座のクラブやバーがサラリーマンにとってもさほど難攻不落の場所ではなくなってきていたのでしょうか。
もちろん、接待したりされたりの社用族ではありましたが。

それでも夜の蝶とお近づきになり、あわよくば……、なんて男ごころをくすぐったのでしょうね、こうした歌が。

この頃あたりはまだ「ムード歌謡」とは呼ばれていなかったと思いますが、その雰囲気十分で、この曲ものちにその範疇に入れられることになります。

ビクターといえば吉田メロディーですが、この歌の作曲は鈴木道明。ということは競作だったのかな。松尾&マヒナ以外の記憶はありませんが。

どこかジャジーな感じのするいかにも鈴木道明らしい曲で、アレンジもその線の寺岡真三

ちなみに鈴木道明の“東京関連”ヒット曲としては、ほかに「ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー」「赤坂の夜は更けて」が。

二人の銀座 山内賢、和泉雅子

「銀座ブルース」とほぼ同時期に発売されたベンチャーズのヒット曲。
このブログでも何回かとりあげた記憶がありますが、作詞は永六輔
ついでにいうとアレンジは第一人者で作曲家でもある川口真

歌詞に出てくる「みゆき通り」は銀座の5丁目、6丁目、松坂屋本店の裏通り。
この歌がヒットする2年前、つまり東京五輪が開催された昭和39年、みゆき通りあたりにロングスカートやコッパンにズック、手には大きな紙袋といういでたちの男女が出没しました。彼らは「みゆき族」と呼ばれていましたが、オリンピックが終わり、秋風が吹くころにはどこへともなく……。
わたしのそばにもみゆき族の“兄貴”がいましたが、それはまたいつか。

ごぞんじのように山内賢は昨年亡くなりました。
そろそろ一年が経とうとしております。

数年前までナツメロの番組でよく二人の姿をみかけました。
あまり歌のうまくないマコさんでしたが、銀座育ちということもあってか、この歌はよくうたっていました。

でもこのうたはやっぱり彼、山内賢の歌であり、マコさんにはわるいけど、代打はきかない。だからマコさんもテレビで歌う機会がなくなっちゃうかも。さみしいこってす。

それにしても、北原三枝、芦川いずみ、浅丘ルリ子、吉永小百合、和泉雅子、松原智恵子……すごかったなぁ日活。(忘れちゃいけない太田雅子

雨の銀座 黒沢明とロス・プリモス

最後はムード歌謡コーラスの草分け。
わたしの記憶ではムード歌謡という言葉がつかわれ始めたのは、黒沢明とロス・プリモスの「ラブユー東京」からだったような。

リリースは昭和41年4月のことでした。
この1曲でロス・プリモスは全国区に。

♪七色の虹が 消えてしまったの
恋をなくした女性の歌ですが、聞きようによってはホステスさんの嘆きのようにも。
そんなところが、夜の蝶や、そのハンティングに夜な夜な彷徨う男どもに受けたのかもしれません。

「雨の銀座」は二番目のヒット曲。
銀座の街角で雨に濡れながら、おそらく来ないだろう彼を待つという、いかにも淋しい、歌謡曲にはうってつけの歌。

実はこの歌のリリースが、42年の11月。
ということは、つまり「ラブユー東京」が発売されてからヒットするまでに1年以上かかったということ。今の時代じゃ考えられない。……演歌ならあるか。

作詩は富樫政子
当時よくあった芸能雑誌の作詞コンペでの入選者。
その「涙でしあわせを」はロス・プリモスのシングル第二弾。
そのあとお嫁にいってしまったのか、フェイドアウト。

作曲は「ラブユー東京」に続いて中川博之
CMソングをつくっていた人で、歌謡曲デビューは「ラブユー東京」。
プロ野球でいったら、初打席でサヨナラ満塁ホームランを打ったようなもの。

でもビギナーズラック(一発屋ともいう)ではなかった証拠に、ロス・プリモスではやはり銀座ソング「たそがれの銀座」「恋の銀座」それに「さよならは五つのひらがな」があるし、それ以外でも「夜の銀狐」(斎条四郎)、「さそり座の女」(美川憲一)、サザン・クロス「足手まとい」「意気地なし」「好きですサッポロ」などヒット曲を多発。ムード歌謡をけん引したひとり。

YOU-TUBEの「雨の銀座」がすべてガセだったので、「たそがれの銀座」他をどうぞ。

雨……雨……雨……
雨は林檎の香のごとく
冬の銀座に、わが胸に、
しみじみとふる、さくさくと。

古い本のなかから見つけた北原白秋の詩「銀座の雨」の最後の一節です。

それにしても暑かった。
今日は銀座は銀座でも戸越銀座、五反田あたりを徘徊してまいりました。

こんなに暑いとシャワーというか、雨のひとつも乞いたくなります。
「戸越銀座の雨」なんてね。

残念ながら雨は降りませんでしたが、その代わりびっくりするものが降ってきた。
それがなんと蟬。

落下したというより、まさに天から降ってきた感じでアスファルトに激突。
実は昨日も同じ光景に立ち会いました。
なもので、もしかしたら、蝉の“集中豪雨”が来るかも、などと怖れながら空を見上げましたが、その心配はないようでした。蟬しぐれってヤツですね。意味が違うか。


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TOKYO●銀座① [a landscape]

銀座パレード.jpg

今日銀座をオリンピックのメダリスト(だけじゃないけど)たちがパレードしました。

テレビのニュースで見ましたが、ものスゴイ人で。嘘か実か50万人だとか。
数年前にも読売ジャイアンツの祝勝パレードがありましたが、いいですよねこういうハデでノーテンキなイヴェントは。
平和な証拠。大事件があったり、大災害があれば自粛自粛で即中止。
“お祭り”ができるということは幸せだと思わなくては。全般的には。

銀座のパレードというのは、以前はよく行われていたようです。
とりわけテレビ前史である戦前とか、昭和20年代などは、行かなきゃ見れない祝賀パレードってなわけで、多くの見物客が集まったとか。

当時の花型スポーツのひとつだったボクシングなど、対戦する外国人選手と日本人選手が別々のオープンカーに乗って、試合前の宣伝を兼ねたお披露目をすることもたびたび。
それが世界タイトルマッチならいざしらず、いまじゃテレビの生放送さえしないという東洋タイトルマッチクラスでも“銀パレ”(こんな略し方ありません)し、そこそこの観衆が集まったそうです。

そんなわけで今日はとり急ぎ、東京シリーズ(やってんのかよ)は銀座の第一回目を。

銀座がタイトルにつく歌、あるいは歌詞に銀座が出てくる歌は“ご当地ソング”ではもちろんナンバーワンの多さで、ある本によればそれは1000曲以上だとか。そうかもしれないなあ。いやんなもんじゃないかも。
J-POPはほとんど知らないけど、原宿、渋谷は出てきても銀座は出てこないだろうなぁ。というより歌詞に地名を入れるのがもはや“ダサイ”のかもしれない。

それはともかく、そもそも銀座の歌の第一号は、「銀座雀」という歌。
大正八年に楽譜が出版され、十四年に鳥取春陽によってレコーディングされています。
作曲はかの中山晋平、作詞は劇作家の鈴木善太郎

森繁久彌の名唱で「銀座の雀」という歌がありますが、これとは別。
残念ながらYOU-TUBEにはないようで、

その後、モダンボーイ・西條八十が当時の銀座をみごとに活写した「当世銀座節」「東京行進曲」がでてくるのですが、それは後回しにして、今日は昭和30年代にヒットした“銀座の歌”を3曲。

銀座の蝶 大津美子 昭和33年

昭和30年の「東京アンナ」に次ぐ大津美子の大ヒット曲。
銀座の蝶とはバーやクラブ、キャバレーのホステスのこと。今では常識なのでしょうが当時としてはとても新しい言葉。
命名したのは作家の川口松太郎。雑誌の連載した銀座のホステスを描いた小説「夜の蝶」からそういわれるようになったとか。

流行歌が好んで描く女性の職業と言えば「水商売」。
彼女たちは一見派手で、バックグラウンドにはなにかいわくがありそうで、かつまたラヴアフェアー必至となれば、やっぱりヒロインになってしまうのでしょうね。

「銀座の蝶」の作詞作曲は横井弘桜田誠一。キングの主力で、ふたりのコンビとしては「川は流れる」(仲宗根美樹)や「君が好きだよ」(佐々木新一)などがある。

銀座九丁目水の上 神戸一郎 昭和33年

「銀座の蝶」とほぼ同時に発売されてヒットしたのがコロムビアの若手ナンバーワンだった神戸一郎のこの歌。

ロンドン五輪メダリストたちは中央通りを銀座一丁目から八丁目までパレードしたわけですが、九丁目は行かなかった。というか九丁目などはじめから存在しない。

作詩の藤浦洸がしゃれて八丁目の先の汐留川(これもいまはなく高速道路になっている)のことをいったもの。作曲は神戸の師匠の上原げんと
「別れたっていいじゃないか」ほか神戸のヒット曲以外でも、「東京の花売り娘」(岡晴夫)、「港町十三番地」(美空ひばり)、「逢いたいなァあの人に」(島倉千代子)、「東京のバスガール」(コロムビア・ローズ)、「美貌の都」(宝田明)などヒット曲は多い。

昭和33年は長島茂雄がジャイアンツに入団した年で、秋には現天皇、皇后のご成婚が発表されるなど、明るい話題で盛り上がってました。ほとんど記憶にない。

フランク永井の「西銀座駅前」もこの年で、同じく「有楽町で逢いましょう」も前年つまり32年の暮れに発売され、この年の大ヒットとなった。
しかし、西銀座(駅)はもはやなく、有楽町も銀座っ子にいわせると、「一緒にしないでくれ」とのことなので、番外としました。

銀座の恋の物語 石原裕次郎、牧村旬子 昭和36年

かつてのカラオケ・デュエット曲の定番。
「東京ナイトクラブ」(フランク永井、松尾和子)と双璧でした。

裕次郎主演で映画にもなった「銀座の恋の物語」。
わたしも観ましたが、この歌が主題歌となった映画は、実はその1年前に封切られたやはり、裕次郎主演の「街から街へつむじ風」だとか。

それがこの曲ばかりあまりにもヒットしてしまったので、アナザストーリーをつくって映画化したのだとか。
牧村旬子はいまでは、「じゅんこ」になっているそうだが、当時は「みつこ」だった。
「旬子」を「みつこ」と読ませるのは定着しなかったようです。むりだよ。

「みっちゃん」は元々キャンプなどで洋楽をうたっていて、17歳でテイチクにスカウトされ、いきなり裕次郎の相手役に大抜擢。
しかし、あまりにもこの歌のイメージが強すぎたのか、のちのヒットには恵まれていない。

♪心の底まで しびれるような
と牧村の声ではじまる歌に、「ふつう裕次郎からだろう」と、はじめレコード会社も異論を唱えたが、作詞の大高ひさおが「歌の流れからどうしても女性が先」と譲らなかったとか。
大高ひさおといえば、エト邦枝の「カスバの女」もそう。

作曲は日活の映画音楽を担当した鏑木創(はじめ)。
やはり日活映画の主題歌「男の怒りをぶちまけろ」(赤木圭一郎)がそうだし、テレビドラマの主題歌「少年探偵団の歌」も(勇気凛々ではないほう)つくっている。

昭和30年代なかばの銀座。
夜の蝶たちの生活には翳の部分もあったでしょうが、なんとなくそこにはまだ“純情”という言葉が生き残っていたような気がします。歌を聴くと。

経済成長の恩恵を受け、銀座の景気もどんどん良くなっていきます。それにつれて街の様子も外観ばかりでなく、変わっていきます。
次回はそんな昭和40年代の銀座へ行ってみよう、と思っています。


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三つの歌●ボクシング [day by day]

②村田ロンドン五輪1勝.jpg

村田諒太がやってくれました。

準々決勝あたりから接戦続きで、運もありましたが、それを味方にするのもチャンピオンになる条件。

報道で繰り返されていますように、東京オリンピックの桜井孝雄以来、48年ぶりの金メダルで、銅メダルの清水聡ともども久びさにアマチュアボクシング界が盛り上がり、注目を集めています。

村田のなにが超快挙かというと、まずミドル級での優勝。
ミドル級はその名のとおり、世界では中量級なのですが、日本では重量級。
中量級は最もスピードと迫力が反映されるクラスで、体格的にも世界で最も層が厚い、つまり強豪がひしめいているといわれています。

日本人で、プロの世界であまたいる世界チャンピオンでも、ミドル級クラスになると数えるほどしかいないことでも日本人が中量級で頂点に立つことのむずかしさを証明しています。

もうひとつは桜井孝雄のように地の利をいかした地元開催ではなく、異郷の地での優勝ということ。
はじめに接戦といいましたが、試合を見ていて(みびいきは多少あるけど)ジャッジが村田というか東洋人に厳しすぎる傾向があるような気がしました。そのなかでの金メダルですからさらに価値がある。

かつての桜井孝雄はもちろん、ローマの田辺清、メキシコの森岡栄治を見てきた人間としては、まさか一度に二人もメダリストが誕生するとは考えも及びませんでした。

とにかく村田、清水の快挙はそれだけを“肴”にして一杯呑めるほどの“旨さ”でした。

それにしてもロンドン大会は過去最多のメダル獲得数だそうで、まぁ、大健闘といえるのではないでしょうか。ただし金が少なかった。
事前の識者の予想でもほとんどが10数個というもので、わたしも柔道であと3~4個を期待していました。

しかし、金メダル7個のうち6個までが格闘技というのもスゴイ、というか偏りすぎ。

日韓サッカーの3位決定戦で韓国選手の試合後の政治的デモンストレーションが問題になっていますが、ほぼオリンピックは何事も無く終了しました。
次のリオが待ち遠しい、って気が早すぎるか。

とにかく村田の快挙はひさびさにこの数日間心たのしくさせてくれる出来事でした。

その金メダルを祝して、今回はボクシングに関する歌を三つ。

日本でいえばまぁ、一番人気が「あしたのジョー」のテーマでしょうが、二番、三番が出てきません。
たとえばマニー・パッキャオのように歌うチャンピオンというのも日本ではあまり聞きません。
具志堅用高あたりCDを出しているような気もしますが、知りません。

唯一知っているのは伝説のボクサー・ピストン堀口が戦前にレコーディングした「リングの王者」という歌。何度か聴いたことがありますが、およそボクサーとは思えない(どんなイメージだ)やさしい声でした。作曲は売れっ子古賀政男。

そんなわけで邦楽はあまりでてきそうもないので、いくらか知ってる洋楽を。

洋楽でもっとも知られたボクシングミュージックといえば、なんといっても映画「ロッキー」のテーマ。いまだにスポーツ番組やバラエティで使われているぐらいポピュラー。ただしこれはインストなのでパス。

つぎに有名(だと思う)なのはサイモンとガーファンクルSimon & Garfunkelの
「ボクサー」 The Boxer

都会に出てきた貧しい青年の苦闘の日々と哀感を、打たれつづけながらもいまだ戦いをやめないボクサーにたとえて歌っている。
Lie la lie ……
というリフレインが印象的かつ象徴的。

1969年に発表された曲ですが、若者が都会に出てきて戦いつづける(負けることの方が多いのだが)という構図はいまも変わらないような気がします。

カヴァーするシンガーも多く、カントリーではエミルー・ハリスアリソン・クラウスなど女性がお気に入り。

次はボブ・ディランBob Dylan 。

ボブ・ディランのボクサーといえば、殺人容疑で投獄された元ミドル級ボクサー、ハリケーン・カーターの無実を訴えた「ハリケーン」Hurricane でしょう。
映画化もされ、この歌の力だけではないですが、その後ルビン・カーターは無罪釈放されています。

しかし、この歌は以前とりあげたので、今回はもうひとつのディランのボクシングミュージックを。
誰がデビー・ムーアを殺したか Who Killed Davey Moore

これまた「殺人」の歌ですが、「ハリケーン」のような犯罪ではなく、リングの中での「殺人」つまり「リング禍」をうたったもの。

1963年に行われた世界フェザー級タイトルマッチで起きた事故。
チャンピオンはアメリカのデビー・ムーア。チャレンジャーはメキシコのシュガー・ラモス。

どちらも日本でタイトルマッチを戦ったことのある名ボクサーです。

試合はラモスのTKO勝ち。
負けたチャンピオンはその後死亡。原因は最後の10ラウンドに挑戦者のパンチを受けてダウンし、そのとき後頭部をロープにぶつけたことといわれています。

ダウンを喫したムーアは立ち上がったもののグロッギー。にもかかわらず、レフリーは試合を続行。そのことも後日問題になりました。

とにかくこの世界戦での「リング禍」は社会問題となり、ディランも無視できず歌をつくったというわけでしょう。

その後、リングのロープが三本から四本になったり、硬いスチール製から緩衝性のある素材に変えたりと、ボクサーの生命を守る対策が講じられるようになりました。しかし、それでも「リング禍」が完全になくなったわけではありません。

三曲目も、やはり「ボクサーの死」にまつわる歌。

といってもこちらはリング禍ではなく、飛行機事故で死んだチャンピオンの歌。
チャンピオンはマルセル・セルダン。こちらも村田諒太やハリケーン・カーターと同じミドル級の世界チャンピオン。

うたったのは彼の恋人だったエディット・ピアフEdith Piaf 。
といえば御察しのとおり歌は
愛の賛歌 Hymne a  l amour

♪あなたの燃える手で わたしを抱きしめて
という越路吹雪の名唱、岩谷時子の名詞でしられています。
原詞は「天が落ちようと、地球が割れようと あなたさえ愛してくれれば かまわない」
「あなたのためなら 盗みだってするし 国を捨てたっていい」 というさらに激しいもの。

ピアフは、激愛していた恋人の死後、失意のなかでつくったといわれています。
マルセルの乗った飛行機はニューヨークで公演中のピアフに逢いにいくための便。ピアフが「迎えに来て」といったという話も。
ピアフの嘆きが大きかったわけは、そのことへの後悔があったからかもしれません。

でももし、マルセルが事故に遭わなかったら「愛の賛歌」は誕生しなかったかもしれない。
皮肉なことです。

最後にもういちど村田諒太選手の話題を。

どうしても気になるのが「プロ転向」。
かつてのメダリスト3人は、金メダルの桜井孝雄をはじめすべてプロの道を選んでいます。
3人ともプロで金メダルは獲れませんでしたが、好成績をのこしています。

で、村田選手にもそうした勧誘はこれからもあるはずで、契約金も億単位になるかもしれません。「プロ入り」すれば必ず世界チャンピオンになれると太鼓判を押す現役世界チャンピオンもいるほど。
ただ、村田選手にはいまのところ(これが重要)プロへ行く気はないようで、自分に続くアマ選手を育てたい、というのが希望だとか。

個人的には彼がいうとおりアマチュアの世界にとどまってほしい。
今はそういうことはないでしょうが、桜井がプロ入りしたときはトラブル(アマだけですが)になりました。
やはり、アマチュアの世界でいつまでも褪せない「輝ける星」、伝説のボクサーになってほしいというのが願望です。

最近亡くなったオリンピックを三度制したキューバのステベンソンはアメリカからのプロへの勧誘を最後まで断り続けアマに徹しました。プロへ転向し、モハメド・アリとの試合が見たいというファン(わたしもそう)も多かったのですが、自分の意思をつらぬきました。それはそれでカッコよかった。

村田選手は現在、自身在籍した東洋大学の職員であり、同ボクシング部のコーチをしているそうなので、それを続けてほしい。そして有能な指導者になって次なるゴールドメダリストを育ててほしい。

聡明そうな奥さんには、キッチンの冷蔵庫に貼るポスターに「プロで世界チャンピオンになりました」などと書かずに、「金メダリストを育てました」という未来予想をしていただきたい。


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三つの歌●Three Country Girls [day by day]

connie smith.jpg

福原愛、石川佳純、平野早矢香の卓球三人娘は頑張ったね。はたして銅メダルが取れるだろうか、と思っていただけに銀は大健闘。

数日前のマラソン三人娘は残念(とはいえ予想通り)だったけど、アーチェリーでも早川漣、蟹江美貴、川中香緒里の洋弓三人娘が大殊勲をあげましたし。
世はただいま、幾たびかの「三人娘時代」をむかえております。んな、いいかげんなことを言ってはいけませんが。

ところで「東京の歌」もこれだけ続けると飽きます。
負け惜しみ気味でいえば、まだまだネタはあるんですけど。

ちょっと休憩して、きょうは「三人娘」がキーワード。

三人娘といえば元祖は美空ひばり、江利チエミ、雪村いずみの「ジャンケン三人娘」。
ちょっと古すぎるか。

なら、中尾ミエ、伊東ゆかり、園まりの「スパーク三人娘」。
たいして変わらない?そうか。

じゃ、小柳ルミ子、南沙織、天地真理の「アイドル三人娘」でどうですか。
ダメ? それじゃ、山口百恵、桜田淳子、森昌子の「花の中3三人娘」なんかは。

……もはやそういう時代ではないのかな。
最近聞かないものね、三人娘なんて。
AKBなんて48人(ちがう)だもんね。四十八人娘なんて……。

いや、正直「東京の歌」で歌謡曲ばかり続けてきたもので、ここはひとつ洋楽を“食して”みたいって気分でして。洋楽の三人娘ということで……。
ならはじめからいえばいいじゃないか、ってなもんですが、そこはお話の順序というのがあるわけでして。

とにかく洋楽を。
洋楽は洋楽でもこのクソ暑さにふさわしい洋楽といえばもうカントリーしかありません。(テキトーいってます)それもここではいつものカントリー・クラシックス。

あまたいるわが愛すべきカントリー娘のなかから2012年8月の冷房を止めたウダル暑さの部屋の中で厳選した三人娘を、三つの歌で。

まずはナッシュビルの大姐御といった貫禄充分のパッツィ・クラインPatsy Cline。
惜しくも30歳の若さで飛行機事故で亡くなりましたが、生きていればおそらくカントリーの枠にとどまらず、ポップスの世界でも世界を魅了する偉大なシンガーになっていたのではないでしょうか。

また現役時代は短期間ではありましたが、直接、間接にその影響を受けたシンガーもたくさんいました。ブレンダ・リーBrenda Leeとかk.d.ラングLang とかリアン・ライムスLeAnn Rimesとか。

そのヒット曲も数多く、とりわけ知られている(カントリーファンにですが)ところでは「ウォーキン・アフター・ミッドナイト」Walkin' After Midnight とか「アイ・フォール・トゥ・ピーセス」I Fall To Pieces、それにウィリー・ネルソンWilly Nelsonの「クレイジー」Crazy など。

ほかでは「色褪せし恋」Faded Love や「テネシー・ワルツ」Tennessee Waltz なんかもいいなぁ。

でも今回選んだのはセブン・ロンリー・デイズ」Seven Lonely Days。
「あなたに別れを告げられた日から一週間泣きっぱなしなのよ」
という失恋ソング。

オリジナルはわかりませんが、1954年にポップシンガーでラテンナンバー「火の接吻」Kiss of Fire のヒットで知られるジョージア・ギブズGeorgia Gibbsがうたっています。もちろんパッツィはその後。
カントリーではジーン・シェパードJean Shepardもうたっています。
やっぱりいちばんはじめに聴いたパッツィ盤がベスト。

2人目の娘は、チャキチャキの? ケンタッキーガール、スキータ・デイヴィスSkeeter Davis。
彼女も数年前に亡くなっています。

スキータといえばデュオグループ「デイヴィス・シシターズ」(実際の姉妹ではない)から1958年にソロデビュー、カントリーの殿堂グランド・オール・オープリーの常連となったシンガー。

なんといっても最大のヒット「この世の果てまで」The End of World はカントリーだけではなく、ポップスとしても世界的に知られています。
ほかでは「ラスト・デイト」My Last Date With You が泣かせます。
アン・マーグレットAnn Margret やコンウェイ・トゥイッティConway Twittyなど多くのシンガーのカヴァーも。

今回のセレクションではその2曲を差し置いて「アンダー・ユア・スペル・アゲイン」Under Your Spell Again 。
こちらも失恋ソングで、もういちどその魅力で僕を夢中にさせておくれよ、という
1959年のバック・オウエンスBuck Owens のヒット曲。

女歌にもアレンジできるナンバーで、前述のジーン・シェパードやシェルビー・リンShelby Lynne などがうたっていますが、個人的にはポップ感の強いスキーター盤がいい。

で、3人目のカントリー・ガールは、以前「その名は●コニー」のところでとりあげたコニー・スミスConnie Smith。
1941年インディアナ州エルカート生れで、御歳71歳。もちろん健在です。

彼女のデビュー曲であり最大のヒット曲は、コニーを発掘したカントリー・シンガー、ビル・アンダーソンBill Anderson が書いた「ワンス・ア・デイ」Once a Day 。全米カントリーチャートのナンバーワンに。

このときコニーは23歳で、なんと結婚をしていて子供もいたとか。
そんな若い主婦が一夜にしてメジャーのカントリーシンガーになれば、それこそ生活一変、トラブル、離婚と話はすすみそうですが、彼女はそうはならなかった。あくまで家庭をいちばんに考えていたから。

旦那さんに「歌をほめてくれるより、料理をほめてね」と言ったとか。
彼女の人柄がしのばれます。

「ワンス・ア・デイ」はフェヴァリットソングですが、今回はもうひとつの愛聴歌を。

1965年のアルバム[CONNIE SMITH]に入っていた「青いトランジスタラジオ」Tiny Blue  Transistor Radio 。これまたカントリーというよりはポップスといったほうがいい一曲。

ハイスクール時代、彼から誕生日にプレゼントされた青いラジオにまつわる思い出。
恋は長く続かず、やがて新しい彼女をみつけて去っていった彼。
そんなときもラジオからは、彼と私が好きだったナンバーが流れていたっけ……。
なんていう胸キュン(古い!)ソング。

ライターはやはりビル・アンダーソン。

いやあ、泣けてきますね、この時代のカントリー・ミュージック。それもカントリー娘たちの哀愁にみちた歌声が胸にしみます。
カントリーの嫌いな方々には申しわけありませんが。
次回からはまた、せっせと「東京の歌」を“掘りつづけて”いきますので。

村田諒太は清水同様銅メダルが確定して、10日の準決勝へ。勝てば銀以上。
カッコいいボクサーだね。ミドル級っていうクラスもいい(いつもフライ、バンタムだもん)。

どこか赤木圭一郎の面影がある。
村田の試合を見ながらトニーの映画「打倒(ノック・ダウン)」を思い出してしまいました。

清水ともどももうワンランク、いやツーランク上の成績を期待しております。


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TOKYO●東京'64 [a landscape]

東京の灯よいつまでも.jpg

オリンピックが佳境です。

ただ各局のメダリストたちの生出演には辟易。どこか一局というわけにはいかないのかな。
選手たちも内心ツライものがあるのでは。同じ質問に同じ答え。

柔道、水泳は終ってしまいました。
期待していた柔道は金わずかに1個。正直ガッカリ。

「2番ではいけませんか」という声が聞こえてきそうですが。
まぁ、こちらの勝手な期待でしたが。男子はともかく女子は軽量級の福見、中村をはじめ3~4個の金メダルを期待してたので残念。
松本薫が反則勝ちしなければ、金ゼロの可能性だってあった。

その金ゼロだったのが水泳。ただこちらは想定内。

もちろんメダルを獲っても獲れなくても選手たちには拍手拍手なんだけど。どうも、柔道はいまだ“お家芸”という呪縛が。

柔道が初めてオリンピックの正式種目になったのが昭和39年(1964)の東京五輪から。
当初は、軽量、中量、重量、無差別の体重別4クラスでした。また男子のみで女子はまだなかった。
日本はそのうちの無差別級をのぞく3階級で金メダルを獲得。残る無差別級は神永がヘーシンクに敗れての銀メダルでした。

ちなみに水泳は唯一男子4×200mリレーでの銅メダル1個という低迷ぶり。

話はとびますが、今日8月6日の広島の式典を中継していたのはNHK唯一。
民放はこぞってフェンシング団体の銀メダルとボルトの2連覇にうかれ興奮しておりました。
まぁ、時代の流れといえばそうですし、ある意味これが健全なかたちなのかもしれません。

そんなわけで、このところ、小雨模様(ポツポツ)ですが続けている“東京の歌”は東京オリンピック開催の年、つまり昭和39年(1964)のヒット曲を。

「東京の灯よいつまでも」 新川二郎
♪雨の外苑 夜霧の日比谷
という思わず情景が浮かんでくる歌い出しが印象的。
3番に羽田空港が出てくるのも、空の旅時代を予兆した当時の気分が伝わってきます。
歌い手は石川県出身で、その2年前「君を慕いて」でデビューした新川二郎。

東京で一時暮し、やがて故郷へ帰っていった人たちの思い出の歌、という印象が。亡くなった作家の立松和平さんが、以前テレビでこの歌をフェヴァリットソングにあげていた。

作曲は佐伯としお。ほかでは三橋美智也「センチメンタル・トーキョー」、「東京見物」、三船浩「東京だより」がある。
作詞は昨年亡くなった藤間哲郎大津美子「東京アンナ」、デュークエイセス「東京808」など。

「サヨナラ東京」 坂本九
永六輔、中村八大の、いわゆる六八コンビの作品。
東京オリンピックに合わせて作られた楽曲で、オープニングの10月にさきがけて7月に発売。
「始まる前からサヨナラかよ」と突っ込みたくなりますが、スポーツの祭典も2週間あまりで終る、そのときのために……と思ったかどうかはしりませんが、永さんらしいといえばらしい歌。

「ウナ・セラ・ディ東京」 ザ・ピーナッツ
恋のバカンス」「ふり向かないで」などと同じく詞・曲は岩谷時子・宮川泰のコンビ。

前年に「東京たそがれ」でレコード化したがヒットせず、タイトルを変えたリメイク盤がヒット。ビギンのリズムのポップ感が当時はとても新鮮だった。
また和田弘とマヒナスターズ西田佐知子、イタリアのミルバらの競作でした。

良き楽曲はカヴァーされるの理どうり、ほかでも越路吹雪、フランク永井、石原裕次郎、美川憲一、井上陽水、園まり、カテリーナ・バレンテらがレコーディングしている。

「東京ブルース」西田佐知子
和製ブルース数々あれど、屈指の名曲で、ブルーズ(憂鬱)というよりは“女のニヒリズム”が漂っている。
戦前、ブルースの女王・淡谷のり子がうたった「東京ブルース」とは同名異曲。

作詞作曲は彼女の代表曲「アカシヤの雨がやむとき」と同じく、水木かおる藤原秀行
このコンビのヒット曲にはほかにド演歌「裏町酒場」、抒情歌「エリカの花散るとき」、コワイ女の「死ぬまで一緒に」などが。

またほかでも、東京の鉄道や駅をうたった「恋の山手線」(小林旭)「ああ上野駅」(井沢八郎)がヒットしたのも47年前のオリンピックイヤー。

ふたたびロンドン五輪の柔道の話。

テレビの放送がさほど深夜に及ばなかったので、ほんとんどの階級での日本人選手の試合は見ました。
つらつら思ったのは、柔道という格闘技が年々つまらなくなっているということ。

立ち技での一本勝ちが激減していることもそうですが、明確な根拠のとぼしい「指導」なるものによって勝敗が左右されてしまうという理不尽さ。
なかには「指導」狙いで試合を運ぶ選手も。解説者も“唆す”ようなこと言ってました。

よほどの実力差がないかぎり、ほとんど技がかからずに試合が終わることも。ワザが決まっても受け手が腹ばいになればポイントなしというのも納得がいかない。

もうすこしポイントの基準を明確化(視聴者でも分かるように)するとか、延長戦でははじめからの組手を義務化するとか、ルールを見直さないと本人たちは一生懸命たたかっているのに、見ていて少しもおもしろくない試合ばかりになってしまっている。
そのことはファンばなれにつながる。

それと十字固めを含めた関節技は禁止したほうがいいと思う。それも技術のひとつとは思いますが、キケンでひとつ間違えれば大けが、後遺症につながりかねない。

ファンゆえの苦言ということでここはひとつ。

もひとつオマケに。
サッカーがメキシコ以来44年ぶりのメダル、と話題になっていますが、ボクシングでもバンタム級の清水聡がメダルを確定して、やはりメキシコ依頼の快挙を達成しました。

明日早朝にはミドル級の村田諒太の2戦目があるし、ウェルター級の鈴木康弘も残っているし。夜更かし(最近ことさら辛い)の日々が続きます。


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TOKYO●東京ワルツ② [a landscape]

井上ひろし.jpg

♪燃える夜空の ネオンは移り気
 捨てられた 花束が 泣き濡れて
 七色の雨に 歌う ああ 東京ワルツよ
 メトロで帰った君よ 君よさようなら
 ………………
(「東京ワルツ」詞:西沢爽、曲:服部レイモンド、歌:井上ひろし、昭和36年)

前回でふれたように、西沢・服部コンビの「東京ワルツ」のオリジナルは昭和29年、コロムビアの新人千代田照子によってうたわれたもの。

昭和29年という時代。
敗戦から9年目。
東京にはいまだその残滓がみられた。焼跡こそほとんど消えていたが、そのあとの原っぱには防空壕の残骸があったし、駅前で靴みがきの子供や傷痍軍人の姿をみかけることは、ごくあたりまえのことでした。

それでもプレ経済成長期であり、東京の街は空襲以前にも増してモダンな様相に再構築されていきました。
ひと昔前の敵国アメリカから金髪の美女マリリン・モンローが来日し、街頭テレビではアメリカのシャープ兄弟と力道山が喧嘩まがいの試合(実はなれ合いなのだが)を行い、観客は神業・空手チョップに留飲を下げていたり。

10年前ほんとうに日本はアメリカと戦争をしていたのだろうか。
鬼畜米英を叫び、一億総玉砕も辞さずという大和魂で臨んだあの“大喧嘩”の遺恨がわずか10年で霧散してしまうものだろうか。
そんな疑問が浮かぶほど、日米の関係は修復されてしまっていました。
そのおかげで、日本の驚異的な経済発展がはじまることになるのですが。

西沢爽が書いた「東京ワルツ」には、そうしたプレ経済成長期の東京の断片がちりばめられています。

日本一の歓楽街のナイトライフは完全に復活し、おびただしいネオンのまたたきが男女の本能を刺激する。

東京の地下鉄は、昭和2年の銀座線にはじまるのですが、この29年、戦後初の路線として丸ノ内線が開通。サラリーマンにとっては通勤ばかりでなく、ナイトライフにも欠かせない“足”がふえたことになったのです。
そしてこのあと、東京の地下はモグラが爆走するように掘り進められ、いくつもの路線が誕生していくことになります。

♪メトロで帰った君よ
とうたわれた、「君」はオリジナルでは男のこと。昭和30年代あたりまでは、女性も愛しい男性のことを「君」と呼ぶことがめずらしくなかった。

楽しいデイトが終り、地下鉄で家路につく彼氏を彼女がホームで見送るというストーリー。ふつう逆のような気もしますが、そういう男女関係があったって不思議じゃない。

でも見送った彼女はどこへどうやって帰ったのか。
もともと都心に住んでいたのか。はたまたデイトではなくホステスさんで、店を抜け出して思い入れのある客を見送りに来たのか。まぁ、余計なことですね。

街角に捨てられた花束。これも時代を反映しています。
当時歓楽街には“花売り娘”と呼ばれた女の子が生活のため、酔客相手に花を売っていたのです。♪花を召しませランララン なんてね、違ったかな。

そして、鼻の下をのばしたオヤジどもが気前よくそのブーケを買い求め、気に入ったバーやキャバレーのホステスにプレゼントするのです。もちろん無償の行為なんかじゃないんだけど。

女は誰でも花をもらえば喜ぶと思ったら大間違い。
なかには、男を捨てるようにポイと路上に投げ捨てるお嬢さんだって。

また、東京の街のあちこちでビルが建ちはじめ、それがまさに復興の象徴でした。
それでも現在のような高層ビルなどなく、日本一の高さをほこるビルヂングは丸ビルの9階。建築基準法でそれ以上はご法度だった。

いまでは何のことはない話ですが、当時は大きなガラス窓があるビルではたらくことがモダンであり、昭和29年という時代の最先端をゆく東京人のステイタスだったのでしょう。

そして、再びそんな歓楽街にうごめく男と女。
それは客とホステスという関係かもしれないが、つきつめれば男も女も愛情を求め、愛情に飢えている可愛い存在であることは今も昔もなのです。

“疑似恋愛”の終った夜ふけ、疲労感に足をひきずりながら帰る男にも女にも、夜空の星たちが(当時の夜空は今よりはるかに星が瞬いていた。多分)、「きっと明日はいいことがあるぜ」と囁きかけてくれているよう。

そんな歌が「東京ワルツ」。


昭和29年、もちろんわたしは生まれていたが、ヨチヨチ歩きでほとんど記憶もない頃。

それでも、この歌を聴くと、昭和29年、20代のサラリーマンであるわたしが夜な夜な東京を彷徨っている光景が浮かんでくる。それが不思議と心地よい。
だから好きな歌でもあるのですが。

実は、西沢爽はとても好きな作詞家で、今日7月19日は彼の命日。
彼が近世歌謡に関する大書を著し、博士号を得たことや、作詞家以外でも数々の類まれなる才能を発揮したことに興味のある方は、ウィキペディアでも見ていただくことにして、今回の主題である、西沢爽の「東京ワルツ」以外のフェヴァリットソング5曲を、短い?能書きとともに紹介してみたいと思います。

さすらい(小林旭)昭和35年
日活映画「さすらい」の主題歌。
映画は観てませんが、歌は憂愁たっぷりでいいです。
アキラの“流れ者三部作”のひとつ(と勝手に呼んでます)。

西沢爽の歌詞はとにかく暗い・昏い・クライ。
29歳と決して早くない作詞家デビューの41歳のときの歌。
どれほど暗い青春(たしかに戦争真っ只中だった)を送ってきたのかと思ってしまう。

日本人の憧憬である「流れ者」、「漂泊者」の歌ということもありヒット。個人的には小林旭の代表曲。ほかでは「ギターを抱いた渡り鳥」をはじめ「アキラのダンチョネ節」、「アキラのズンドコ節」など「アキラの」と冠がつく歌のほとんどが西沢の作詞。

曲はパブリック・ドメイン、つまり伝承歌というより日本のクレジットでは「作者不詳」。
編曲(これが素晴らしい)の狛林正一が補作しています。

ひばりの渡り鳥だよ(美空ひばり)昭和36年
思わずバカ踊りをしたくなるようなノリのいい歌。それでいて哀愁がこもっている。
こういう歌はすきだな。三波春夫「チャンチキおけさ」と双璧。

もちろん美空ひばりのなかではナンバーワン。
西沢爽の「股旅もの」はめずらしい。
戦前から戦後も昭和30年代前半あたりまでは歌謡曲のなかでも「股旅もの」「時代もの」は盛んでした。

高度経済成長とともに映画のなかでもまず時代劇が斜陽となり、それとともに流行歌の時代もの、とりわけ股旅ものも廃れていきました。
大ヒットということでいえば昭和35年の「潮来笠」(橋幸夫)が最後でしたか。
平成になって演歌の星・氷川きよし「箱根八里の半次郎」で奇跡の一発をかましましたが。

「ひばりの渡り鳥だよ」は「潮来笠」の翌年のリリース。
曲は、前述の狛林正一。ドドンパのリズムが時代を感じさせる。そのノリのよいアレンジは若き日の市川昭介

ひばりの歌も数多く作詞している西沢爽ですが、ヒット曲では「波止場だよお父っあん」「ひばりの佐渡情話」がある。

恋しているんだもん(島倉千代子)昭和36年
ひばりよりも詞を書いた数が多いのが島倉千代子。
初のヒット曲が昭和33年の「からたち日記」。その後名コンビとなる遠藤実(当時は米田信一)の作曲。

翌年には船村徹と組んだ「哀愁のからまつ林」がヒット、そして36年には「思い出日記」(遠藤実)さらに市川昭介との「恋しているんだもん」と続く。

この幼児言葉をつかったハッピーカマトトソングがヒット。
♪小指と小指からませて
♪地球もちいちゃな星だけど 
と当時としては歌詞がユニーク。

その後もお千代さんとのコンビで、「星空に両手を」(with守屋浩)、「ふたりだけの太陽」、「涙の谷間に太陽を」などのヒットを。

仲間たち(舟木一夫)昭和38年
昭和30年代後半になると青春歌謡全盛に。当時のコロムビアの看板といえば舟木一夫。
その舟木一夫では3つの西沢爽のヒット曲がある。
38年の「仲間たち」、40年の「ああ青春の胸の血は」、おなじく「あありんどうの花咲けど」の3曲。作曲はいずれも遠藤実。

どれも抒情作詞家・西沢爽の本領が発揮された名作ですが、今回はいちばん古い「仲間たち」を。
「下駄を鳴らして」とか「帽子まるめて」とバンカラ学生が描かれているが、この歌がつくられた昭和38年にはほぼ絶滅していたはず。
当時40代半ばの西沢にしてみれば、戦前の自身の学生生活をノスタルジックに書いたものなのでしょう。おそらく。(それから10数年後でも、♪下駄を鳴らして奴がくる なんて歌がつくられてるんだから、いいよね)

おさらば故郷さん(加賀城みゆき)昭和41年
さいごは昭和40年代のこの歌を。

加賀城みゆきはその名のとおり、金沢の出身。
金沢生まれの先輩と飲んで、ナツメロの話になると必ず彼女の名前が出てきます。なんでも高校の同級生だったとか。それはともかく。

千代田照子や島倉千代子と同じく、コロムビアの歌謡コンクールで優勝。
翌年19才のデビュー曲としてうたったのがこの「おさらば故郷さん」。
曲は「新宿ブルース」(扇ひろ子)和田香苗

東京生まれの西沢爽が、忘れがたき故郷をしのびつつ都会で生きていく女性の複雑な気持ちを書いています。
なによりも44歳という若さで亡くなった加賀城みゆきの声と歌唱がすばらしい。生きていれば60代なかば。きっと演歌の頂上にいたはず。

いつものごとく長くなりすぎましたが、まだまだヒット曲の多い西沢爽。
とりあげることができなかった好きな曲をせめてタイトルだけでも。(聴きたい方はYOU-TUBEで探してみてください)

リンゴちゃん(神戸一郎)、ひとりぼっちのガキ大将(北原謙二)、哀愁海峡(扇ひろ子)、明日は咲こう花咲こう(吉永小百合、三田明)、女の爪あと(水原弘)、青春の城下町(梶光夫)、「春を待つ少女」(安達明)…………。


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TOKYO●東京ワルツ① [a landscape]

井上ひろし02.jpg

「○○東京」、「東京○○」という歌がいかに多いかということは前々回ですこしふれましたが、そのなかに楽曲の様式やリズムの種類がくっつくこともよくある。

たとえば、これも再三例にだしますが流行歌の嚆矢「東京行進曲」(佐藤千夜子)がまさにそう。
ほかにも、戦前ならば「東京ラプソディー」(藤山一郎)があるし、「東京セレナーデ」(二葉あき子)山口淑子「東京夜曲」(セレナーデ)もある)、あるいは「ルンバ東京」(由利あけみ)などが。

戦後ではなんといっても「東京ブギウギ」(笠置シヅ子)
また他のご当地ソングでも人気のブルースは「東京ブルース」として戦前の淡谷のり子、戦後の西田佐知子盤がある。

そして今回ピックアップした「東京ワルツ」も戦後の歌。

「東京ワルツ」というタイトルの歌はいくつかあるようで、もっとも古いのは昭和27年に洋楽カヴァーの「テネシー・ワルツ」をヒットさせて“ワルツの女王”になった(かどうかしらないけれど)江利チエミが翌昭和28年にキングでレコーディングした「東京ワルツ」

作詞作曲は、「憧れのハワイ航路」(岡晴夫)「赤いランプの終列車」(春日八郎)の作曲で知られる江口夜詩

楽しい思い出の追憶ソングで、聴いてわかるとおり、あきらかに「テネシー・ワルツ」の影響が感じられます。

その翌年、つまり29年に発売されたのがコロムビアの「東京ワルツ」
うたったのは、コロムビアの新人コンクールで優勝した千代田照子
低音で感情過多とも思える泣き節が印象的です。

ただ歌手活動は短かったようですぐに引退(結婚でもしたのかな)。
なんでも、彼女の子供たちは芸能活動をしていた(いる?)ようで、そのうちのひとりがワイルドワンズに後年加入した渡辺茂樹だと、どこかのブログに書いてありました。

作詞は西沢爽。まだ新人の頃で本名・西沢義久のクレジットで。
作曲は戦前からのコロムビア専属で、昭和26年久保幸江のお座敷ソング「ヤットン節」がヒットしたレイモンド服部(服部レイモンドとも)。ハーフでもなんでもなく純日本人で本名は服部逸郎。

NHKのアナウンサーから作曲家になった異色で、30年代には小坂一也の「ワゴン・マスター」がヒット。中島そのみ、コロムビア・ローズ、富永ユキ、並木路子、前田通子らに楽曲を提供した。
オールドファンなら懐かしい小坂一也のTV主題歌「無敵のライフルマン」も服部の作。

そして、この「東京ワルツ」はそれから7年後の昭和36年、当時のリバイバルブームにのって井上ひろしがカヴァー。そこそこヒットした。

当時の東京の雰囲気や恋人事情が彷彿されるフェイヴァリットソング。

そのあとも藤圭子キムヨンジャ&鳥羽一郎で「東京ワルツ」がつくられましたが、もう1曲特筆したいのが、由紀さおり「TOKYOワルツ」

耳にのこって思わず口ずさんでしまう曲は、昭和50年代のメロディーメーカー・宇崎竜童による。失恋女の愚痴を口当たりの良いストーリーに仕立てたのがなかにし礼(休業中ですが、だいじょうぶなのでしょうか)。
個人的には世界の由紀さおりのなかにあっても十指に入る名曲です。

そういえば、以前、東京駅の発車チャイムに「東京ワルツ」がつかわれていた、という話を聞いたことがあるのですが、どの「東京ワルツ」なのでしょうか。実際に聞いたことはないのですが。

それはそれとして、千代田照子の「東京ワルツ」をリメイクした井上ひろし。
ごぞんじの方もいるでしょうが、ロカビリー出身で水原弘、守屋浩とともに“三人ひろし”と呼ばれていました。甘いマスクで女性ファンが多かった。
三人それぞれがロカビリーの嵐が去ったあと、歌謡曲でヒット曲をだしたのだからたいしたもの。

井上ひろしの最大のヒット曲はこの「東京ワルツ」ではなく、やはり戦前のリバイバルの「雨に咲く花」。そのほかにも「並木の雨」、「別れの磯千鳥」、「山のロザリア」、「幸せはここに」など、リメイク盤うたっていました。
もちろんオリジナルでも「地下鉄(メトロ)は今日も終電車」とか「煙草が二箱消えちゃった」などの小品がありましたが。

残念ながら44歳で早世。
生きていれば70歳をちょい越えたところ。水原弘も42歳の若さで。
夭折した人間というのは、俳優・歌手にかぎらず悲哀感がついてまわりますが、太く短くというのであれば、それはそれで。

「長生きも芸のうち」というけれど、それはあくまで健康であってのこと。半年前に認知症で寝たきりの母親を看取った経験からいいますと、少なくとも自分に関しては延命治療は絶対にNO。
そろそろだなと思ったら、それこそ内外のワルツなどを聴きながら、あちらの世界へズンタッタズンタッタとフェイドアウトしていきたいものだと思っております。


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