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【木の下闇】 [obsolete]

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『……自分ひとりで、その木の下闇にはいってゆくことが、恐ろしかったからである。だが、いつかひるま来たときには、園子はその松林がそれほど深いとは思わなかった。すずしい木陰が半町ばかりつづくだけであった。……』
(「まごころ」田宮虎彦、昭和25年)

「木の下闇」konositayami とは読んで字のごとし、樹木の下の陰になっている部分である。ただ昼間はあまり「木の下闇」とは言わない。やはり木陰だろう。「木の下闇」は夕暮れや、夜の木陰のこと。「木の下闇」、何か謎めいていたり、事件が起こりそうな雰囲気があったりしてなかなかいい言葉だと思うのだが、あまり使われなくなった。

大岡昇平の「武蔵野夫人」では、夜、恋人たちが語らう木の下闇の場面が出てくる。付近には街灯があるのだが、恋人たちによって“邪魔者”の電球は割られてしまう。付け替えてもすぐに割られてしまうというようなことが書かれていた。

“引用”は主人公の園子が、夜一人で木の下闇を往く場面である。その闇の中でヒロインは一生忘れられない事件に遭遇する。まさにその直前のシーン。
半町は距離のことで、町が単位。一町が約109メートルなので半丁は50メートルあまり。

総合病院の事務を勤める園子は、陰で“鬼瓦”と言われるほど器量のわるい娘である。本人もそのことを知っている。彼女が無口なのはそのせいである。そんな彼女にも憧れの人がいる。研修医の修一郎で、園子とは遠い親戚にあたる。修一郎は毎年夏になると園子の勤める病院へ実習に来ることになっていた。

ある年の夏、休暇をとった園子は病院の別荘へ出かけた。そこは毎年、従姉の雅江や修一郎のほか数人の若者が集まるのだ。修一郎たちは海で釣りをしたりモーターボートに乗ったり、麻雀に興じたりして休暇をエンジョイする。だが園子は、植木の世話をしたり洗濯をしたりと輪の中へ入っていけない。ある日、修一郎から声をかけられる。なんてことはない挨拶だったが、園子には飛び上がらんばかりにうれしいことだった。

それぞれが明日、病院へ帰るという夜、園子は開放感から海辺を散歩する。その松林の続く木の下闇で突然背後から誰かに抱きしめられる。園子はそれが修一郎だと直感する。そして無抵抗のまま身を委せる。

やがて戦争が激しくなり、修一郎も戦地へ行く。園子は彼に慰問袋を送り続けるはじめは名前を書かなかったが、やがて修一郎の知るところとなった。修一郎からは好意的な返事が来るようになった。しかし、修一郎は戦死してしまう。

戦後、園子の所へ彼の両親がやって来る。そして、息子に慰問袋を送り続けてくれたことへの感謝の言葉を言う。それとともに、修一郎から生きて帰ったら園子と一緒になりたいという便りが来ていたことを知らせる。それを聞いた園子はただ泣き崩れるばかりだった。

30歳近くになってもいまだ独身の園子は、あるとき従姉の雅江を誘って展覧会へ行った。そして、そこでいままで誰にも言わなかった修一郎との一夜の想い出を雅江に聞かせるのだった。それを聞いた雅江は、「本当に最後の夜のこと?」と聞き返した。その夜、雅江と修一郎は他の2人を交えて徹夜で麻雀を打っていたからである。

なんとも微妙な話だ。女性にやさしい作者にしてはいささかヒロインの扱いが非道い。園子の誤解を知った従姉がそのことを言わなかったのは、作者のやさしさだが、知らぬが花なのが本人だけなのだから辛い。園子にとって、これからその幻を上まわるだけの男は現れないだろうと予測できるだけに、美しき誤解だけではすまされないものが残る。ただストーリーとしては面白い。

タイトルの「まごころ」のありかは、はたして何びと、いずくにありや。

この年に流行った歌

服部良一、古賀政男、古関裕而は、戦前からの昭和流行歌3大作曲家だが、鮮度の落ちない点では服部良一がいちばん。社会現象になるほど有名になったこの歌手だが、昭和32年に引退したあとは、俳優ひとすじでステージはもちろんテレビでもいっさい歌をうたわなかった。


 


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【商人宿】 [obsolete]

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『行商に出たまま、幾日も神戸の家には帰らないで、さびしい村の商人宿にとまったこともあった。埃っぽい街道から、親子三人の泊まっている、何のかざりもない部屋の、赤茶けた襖や畳に、馬糞くさい砂ぼこりが舞いこんでいた記憶もある。……』
(「波子の幸福」田宮虎彦、昭和26年)

「商人宿」は、行商人や商用で出張してきた会社員が宿泊した宿。いまでいえばビジネスホテルということになるが、この小説の時代、つまり戦前では四畳半、あるいは六畳一間の畳敷きがほとんどだった。「何のかざりもない……」と“引用”にあるように、家具調度などはほとんどなく、押入に布団が入っているだけの部屋で、トイレも風呂も共同というのが一般的。ただ寝るための宿泊施設で木賃宿、安宿と変わらなかった。

もちろんなかには、食事を用意するところもあったが、もちろんその分料金は高くなる。気になるのは宿泊料金。はっきり数字が出ているわけではないが、たとえば昭和15年の地方公務員の初任給が45円、帝国ホテルの一泊料金が10円というところから推理すれば、1円前後だったのではないだろうか。

商用で出てくる人間が最も多いのが東京。それは今も昔もで、そのため「商人宿」も多かった。とりわけ上野あたりは、そうした宿が軒を連ねていたという。現在ではすっかり清潔なビジネスホテルやカプセルホテル、あるいはサウナに押されて姿を消した感があるが、ときおり、連れ込みでもない雰囲気で看板に「○○旅館」と書かれた家が裏町にあったりする。それが「商人宿」の名残りなのだろう。

「波子の幸福」は講和条約が結ばれた翌年、雑誌『小説公園』で発表された短編。

他人からお姫さまみたいだと褒められるほどの可愛い波子はものごころつくと、五十過ぎの行商人の両親に育てられていた。その両親は彼女が十歳のときに相次いで亡くなる。幸いにも父母の客だったキリスト教の婦人伝道師・ようが波子を引き取る。彼女はなんの抵抗もなくようを「お母さん」と呼ぶ。

教会の宿舎から女学校へ通うようになったが、ある日突然ようが教会を出ることになり、波子も女学校をやめた。ふたりはようの実家の信州へ身を寄せる。しかし、ふたりは歓迎されざる“客人”で、やがて波子は東京にあるようの知り合いの大工の棟梁の家へ行くことになる。

職人を何にも使う棟梁は、昔、ように世話になった人間で、娘がいないこともあり波子を歓迎する。そこで再び女学校へ通うようになった波子は何不自由なく暮らす。そして、良縁に恵まれ、まさに結婚というときに棟梁である父親が仕事に失敗し破談となってしまう。それでもやがて波子は、棟梁の遠縁の男と結婚する。幸福な結婚は7年続いたが、不幸は突然やってきた。ある日夫が交通事故で亡くなってしまったのだ。

そのときになって波子は、はじめて自分の幸福だった人生に疑問を抱く。幼い自分を残して相次いで死んでしまった行商人の両親、実家に戻りながら冷遇されていた二番目の母・よう、会社を潰してしまった棟梁、そして交通事故に見舞われた夫。すべて自分のせいではないのか、自分の幸福と引き換えに周囲の人が不幸になっていくのではないのか、そう考えるようになったのである。

30歳になった波子は自立を決意した。亡くなった夫の会社の便宜で満州の工場に就職することになったのだ。そして、満州で3年目に母・ようを呼び寄せた。涙ながらに喜んだようはその3年後に静かに人生を終えた。

そして波子が40歳になったとき、以前から結婚を申し込まれていた工場長と結婚した。戦争が終わり、東京へ戻った波子は夫と幸福な生活を送っていた。そして余裕ができたとき自分の両親のことが気になり、出身地である広島県のある村へ調べに行った。そこで、自分が両親から拾われた捨て子だったことがわかる。

夫をみつめる波子は、また何かの不幸がこの人を見舞わないだろうかと、ときどき不安になるのだった。

幸不幸、運不運というのは不平等に訪れる。「波子の幸福」のヒロインの人生は捨て子という不幸からスタートした。そして“禍福はあざなえる縄の如し”の言葉どおり幸不幸が彼女にやってくる。しかし、まだ道半ばにせよ、誰一人恨むことなく人生を歩んできた波子は題名が示すとおり幸福だったのだろう。


昭和26年、この年流行った歌
プロ野球はセ・リーグの巨人軍がパ・リーグの覇者南海ホークスを破って日本一になった。
監督は水原茂。巨人の主軸は赤バット・川上哲治。打率3割7分7厘でシーズンの首位打者とMVPを獲得。
風呂屋の下駄箱16番争奪戦が行われたのもこの頃で、今でも使われる(?)「弾丸ライナー」という言葉は川上の矢のような鋭い打球から生まれた。

なんて講釈師のようなことをのたまっております。


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【ラバーソール】 [obsolete]

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『ふと、背後の足音が耳についた。ひそかな軽い靴音だ。ラバーソールかゴム底の靴音だ。おれとおなじリズムの靴音だ。
 おれはぱっとそばの塀に背中をはりつけた。すると足音もピタッとやんだ。横目をつかってふりかえると、二軒おいた家の塀ぎわに駐車中の車があった。おそらく奴はその車の陰だね。』
(「空巣専門」原田康子、昭和39年)

「ラバーソール」Rubber sole ゴム底の靴のこと。もともとは運動、ハイキング用のカジュアルシューズ。「ラバーソール」およびその言葉は戦前からあったようで「浮雲」(林芙美子、昭和26年)にも戦前の場面で『洒落たラバーソールをつっかけて』という記述がある。一般的になったのは戦後で、昭和27年ごろ先の丸いラバーソールが流行った。

ある本には「品のよくない男たちが履いていた」と書かれている。小津安二郎監督の「麦秋」佐野周二がラバーソールは履いていて、それを品がわるいと批判されたとか。いつの時代でも、スターは監視されている。

また30年代になると、マンボ族、太陽族に愛用され、大きめの上着に細いズボン、そして厚底のラバーソールがロカビリアンの定番スタイルとなった。とにかく活動的オシャレで昭和30年代の若者には欠かせないファッションアイテムだった。おそらく昭和30年前後の風俗映画に出てくる若者の足元を見れば、様々なラバーソールを見ることができるはず。

その後もかたちは変わっても厚底のラバーソールはパンクやロックのミュージシャンに愛用され続けているとか。ミュージシャンだけではなく、そのコンサートに駆けつける少女たち(バンギャルとかバンギャとかいうそうです)の中にも超厚底のラバーソールを履いている者も。なにかにこのラバーソールのことを、“Lover soul” と書いてあった、なんとなく頷けるようでも……。
ちなみに、現在、トレッキングやウォーキングなどで使うシューズもラバーソールという。

「最初(はな)っからやばいとは思ったね」
ではじまる「空巣専門」は、空き巣に入った先で殺人事件と遭遇してしまい、犯人から生命を狙われる羽目になった男の独白小説。

自称バーテンダー、その実体は空き巣狙いの“俺”は、その日仕事をするつもりである家に忍び込んだ。ところが、いきなり拳銃を発射される。白いシーツをかぶったノッペラボーが銃口をかまえていた。4発撃たれたが、1発がラバーソールの踵にあたっただけで“俺”は命からがら逃げ延びた。

翌日新聞を見るとその家の主婦が拳銃の弾2発を打ち込まれた死体でみつかり。元射撃選手の夫が逮捕された記事が出ていた。“俺”は真犯人別にいると思った。なぜなら、あのノッペラボーは元射撃選手にしては腕が下手だったから。

“俺”の推測どおり、真犯人は口封じに出てきた。尾行されて住まいを突き止められたのか、銃口を向けられている気がした。そして、ついに犯人とおぼしきクルマに轢き逃げされた。運良く軽傷ですんだ“俺”は警察(サツ)に泣きついた。もちろん空き巣に入ったことは言わず。しかし、警察は現場に残されたラバーソールの踵の破片から“俺”が現場にいたことをすぐにつきとめた。そして、“俺”を囮にして犯人を捕まえる計画を立てた。
いやならお前を逮捕すると言われ、“俺”はしぶしぶ同意した。そのかわり刑期を軽減してやると刑事は言った。

“俺”はその家へ二度目の“空巣”に入ることになった。しかしドアを開けたとき、その前に若い女が立っていて、その手には拳銃が握られていた。その銃口が火を吹く寸前、別の銃声がして、彼女の拳銃をたたき落とした。
結局犯人は、逮捕された夫の従姉で、横恋慕が動機だった。“俺”はどうやら1年、あるいは半年ぐらいの刑期になりそうだった。そのぐらいだったらいい休養になるからいいかなと思った。

作者にはめずらしいソフトな犯罪推理小説。そのため警察や犯罪者の隠語がふんだんに出てくる。ゴト(仕事=犯行)、ハジキ、ガイシャ、サツ、ホトケ、ホシ、タタキ、マエ(前科)、サス(密告する)、ムショ、ジュク(新宿)、ブクロ(池袋)、アマなどなど。

この年流行った歌。「歌詞がヘン」と話題になった。

 


 


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【朝日】 [obsolete]

『「おじちゃんは山へお母ちゃんと行っとります。……しばらく待っていて下さい」
 みんがそういうと、男はにやりと口ひげをうごかしてうなずいた。瞬間、チラッと疑い深い目をしてみんをにらんだが、上がりはなに腰かけると、背広のポケットから巻タバコの朝日をとり出してすい口をひとひねりしてから、口にくわえた。』
(「有明物語」水上勉、昭和40年)


「朝日」はタバコの銘柄。
いまや蛇蝎の如く嫌われているタバコだが、その歴史は酒にくらべると浅い。西洋にタバコが伝えられたのは、かのコロンブスによってという話は知られているが、日本に伝わったのは江戸時代、鉄砲、キリスト教に続いて。したがって300年程度の歴史しかない。それがもはや滅びようとしている。

「朝日」は明治後半、政府によってタバコの専売制度が敷かれた時に発売された紙巻きタバコ5銘柄のうちのひとつ。他は“敷島”“チェリー”“大和”“スター”の4銘柄。

紙巻きタバコには“両切り”と“口付き”があった。両切りというのは現在のショートピースのように、両端が切り落としてあるもの。口つきは片方に吸い口という厚紙が付いているもの。いってみれば、今のタバコのフィルター部分が外側のみで中味のないようなかたち。もちろん、当初はフィルター付きなどなかった。

「朝日」は口つきで、明治、大正期は“口つき”が主流で、両切りが増えていくのは昭和になってから。“敷島”にくらべると庶民的なタバコが「朝日」だった。

昭和40年代でも、吸う人はいたようで、煙草店の店先に置かれていた。若い頃、この口つきの朝日と両切りのゴールデンバットを買ってみたことがあったが、どちらもまずいタバコですぐにやめた。

口付きの朝日は、“引用”にあるように、吸い口をクシャとひねってから銜え、火をつけるのが粋な吸い方。実は、東映映画「昭和残侠伝」池部良がさり気なくそういう吸い方をしていたのを見て真似したことがあった。その「朝日」も昭和50年代に入ると製造中止になってしまった。

「有明物語」は昭和40年に発表された水上勉の作品。透明感のある民話風のストーリーで、著者お得意の健気な女性が描かれている。また、戦後20年を経てもなお、戦争の傷跡がくっきりと刻み込まれている作品でもある。

奥信濃の有明村というところに、紬を織る小菅しんと、その娘で15になるみんという美しい母娘が住んでいた。昭和13年のことだった。しんの夫・豊蔵はみんが5歳のときにぜんそくを悪化させて亡くなった。そんな女ふたりの暮らす家へ、あるときひとりの男が訪ねてきた。男は橋爪庫造といい、まだ豊蔵が生きている頃、何度か訪ねてきた仲買人だった。庫造はそのままみんの家に居ついてしまった。といっても、庫造の部屋は納戸だったのだが。

奥信濃の冬は厳しく、薪造りひとつとっても女所帯には辛かった。それが庫造が来たおかげでしんもみんも力仕事から解放された。それと同時にみんは50近い母がめっきり若返ったように感じていた。そんなある夜、みんは水車小屋で抱き合う母と庫造を目撃してしまう。それからしんと庫造は夫婦同然となり、村人たちもそれを公認する。みんも母親を奪われたわだかまりを抱きながらも認めるのだった。

しかし不孝は突然やって来た。庫造は実は脱走兵で追っていた憲兵に逮捕されてしまったのである。それから間もなく庫造の跡を追うようにしんが亡くなった。

天涯孤独となったみんは、ひたすら紬を織り続けた。その美しい姿は、家の前を通る村人の足を止めるほどだったという。みんの心の中に時折、あの水車小屋で抱き合う母・しんと庫造の姿が浮かんだ。それをみんはとても美しいものと感じていた。
戦後、みんの織った有明紬が全国民芸展で金賞を受賞した。そしてその年の冬、みんは肺炎で亡くなった。男も知らず、機を織る以外楽しみを知らない28年だった。


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【鉄漿(おはぐろ)】 [obsolete]

 

『「出来たってええでねえか。好きな亭主の子じゃもン、おしんさん。みんな子ォ産みとうても、相手のない女もこン中にいるだわ」
 他所者の女たちは鉄漿(おはぐろ)のはげたまだらな歯をみせてけらけら笑った。』
(「越後つついし親不知」水上勉 昭和38年)

「鉄漿(おはぐろ)」は“かね”ともいい、かつて日本で行われていた歯の化粧のこと。
“芸能人は歯がいのち”ではないが、白い歯が美しいとされる現代とは正反対に“カラスの濡れ羽色”のような黒い歯が美とされた時代があった。

「鉄漿」の起源は古く、南方あるいは朝鮮半島から伝播したといわれるが定かでない。一説には聖徳太子も愛用していたとか。残念ながら“笑う聖徳太子”の肖像が残っていないのでこれも確証がない。

当初は男女を問わず貴族の間で行われていたが、江戸時代になって庶民に普及した。この頃になると鉄漿を用いるのは女性、それも既婚者、成人(18歳以上)、遊女などに限られた。明治になるとすぐに貴族、皇族に対して“鉄漿禁止令”が出た。時の政府が「西洋に対して恥ずべき風習」と考えたのだろう。元来面倒くさい習慣であったことから、やがて一般庶民のあいだでも旧習とされ、やめる女性が増えていった。歯磨き粉が登場したのが明治の中期なので、そのことも「鉄漿」衰退を後押しした。

“引用”の「越後つついし親不知」の時代設定は昭和12年。地方ではこの頃まで残っているところがあったことがわかる。

「鉄漿」は焼いた鉄片を濃い茶の中に入れ、酒や飴などを加えて発酵させた黒い溶液と、五倍子粉(ふしこ)というタンニンを含んだ粉を混ぜてつくる。虫歯の予防にもなったということだが、それを毎日あるいは数日に一度鉄漿用の筆で歯に塗るのである。手入れを怠ると“引用”にあるような見栄えのわるい歯になってしまう。

いま考えると、どえらい化粧法だが、ピアスやネイルアートが普及している現代なら、歯の化粧だって流行るかもしれない。ピンクの歯だとかブルーの歯だとか、七色の歯だとか。あるいはワンポイントでゴールド(?なんか昔あったような……)なんて。そんななかでブラックがいちばんはやったりして。歴史は繰り返すって、ね。

「越後つついし親不知」は昭和10年代の新潟を舞台にした、出稼人の悲劇を描いた小説。“つついし”も“親不知”も当時の越後の寒村である。

当時、農家の生活は苦しく、農閑期の冬になると男たちは出稼ぎに行った。越後で多かったのが京都の灘や伏見の醸造元ではたらく杜氏(とうじ)。親不知で妻のおしんと母と三人で暮らす瀨神留吉もそんなひとりだった。

悲劇は留吉が伏見に出かけたある冬に起こった。杜氏仲間の権助が、母危篤の報せを受けて村へ帰ることになった。気性が荒く評判のよくない権助はまだ独り者。そんな権助が帰った村の雪道で、ひとり村の作業場から家へ帰るおしんと出逢った。以前から美人の女房をもらった留吉を妬んでいた権助は、欲望のまま雪中でおしんを犯してしまう。いまの平和を壊したくないおしんはそのことを留吉に言えるはずがなかった。

さらに権助は、留吉が杜氏として昇進したことを妬み、彼におしんが菰(こも)を買い付けに来る若い男と浮気していると告げる。家へ帰った留吉は妻に問い質すが、否定される。一度はおしんの言葉を信じた留吉だったが、やがて妻が妊娠し、その時期から自分の子供でないことが分かる。逆上した留吉は畑でおしんの首に両手をかけ、「ほんとうのことを言え!」と叫びながら思わず力を入れてしまうのだった。

昭和39年、東映で映画化(監督・今井正)。出演は、おしんが佐久間良子、留吉が小沢昭一、権助が三国連太郎。まさに3人とも適役。この年の日本映画ベストテン6位。


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【ボヘミアン】 [obsolete]

『私が何故、柄にもなく芝居をしたか。演劇青年も、文学青年も、ボヘミアン風の装いも、デカダンスを気取った盛り場の夜の彷徨も、みんなきらっていた私が、何故芝居をし、彼らの仲間であったか。それは、退屈だったからだった。』
(「されど われらが日々――」柴田翔、昭和38年)

「ボヘミアン」Bohemianはボヘミア人、ボヘミアのという意味。かつてボヘミアはチェコの西部から中部一帯の名称だった。10世紀にはボヘミア王国が誕生している。
その後、ボヘミアは周辺の様々な国の支配を受けながらも繁栄をとげていくが、16世紀、ボヘミア諸侯が信仰するプロテスタントと国王の支持するカトリックの対立が激化し、“30年戦争”が起きる。結果ボヘミアは敗れ、ハプスブルグ家の属国となり、貴族をはじめ多くのボヘミア人が国外へ逃れた。このことからボヘミアンつまりボヘミア人を流浪の民とか放浪者と呼ぶようになった。
またボヘミアでは牧畜が盛んで、牧童たちのベストに皮のズボンと帽子、というスタイルが南ヨーロッパに伝わり、そうした服装を好んだ芸術家や自由人たちをボヘミアンと呼んだ。

上に紹介した例文の“ボヘミアン”もボヘミアン・ファッションのことで、自由で芸術家を気取った服装(ルパシカのような?)をする人のこと。

現代でも、数年前にはロマンティック・ボヘミアンというジプシー風のエスニック・ファッションが流行ったそうですし(知りません)、今ニューヨークでは「ブルジョワ」Bourgeoisと「ボヘミアン」Bohemiansを合わせた「ボボス」bobos という言葉が流行っているとか。これは仕事で成功しながら、自由な精神を持ち合わせた人間のことだそうだ。

ボヘミアンという言葉そのものは戦前(明治時代にも?)からあったようだが、ファッションで言われるようになったのはいつ頃からなのか。昭和20年代、30年代にはしばしば使われていたことは間違いない。40年代半ばのヒッピーとかなり接近したイメージではないだろうか。まあ、日本の場合、ボヘミアンにしろヒッピーにしろ果たして自由だったかどうかは不明だが。

「されど われらが日々――」に描かれている2種類の青年の“空虚”。ひとつは共産党員で非公然活動までしながら「六全協」によってアイデンティティを失った党員の空虚。もうひとつは、主人公・大橋文夫がもつ「一時的、状況的なものではなく」自分と同義としての、つまり資質としての空虚。これは後者の空虚のほうが奥深く、絶望的だといえる。なぜならばアイデンティティを失くした空虚は、あらたなる自分を獲得することで満たされる可能性を秘めているのだから。

それでも、この小説に光明が見えるのは、節子の存在である。彼女は自分を感化してくれた歴研のキャップや許婚である文夫に同化することが共有だと錯覚していたことに気づく。そして親を捨て、許婚を捨て、自らの足で歩き始めようと地方の教職へと旅立つのである。節子は最後の文夫への手紙の中で、こう言っている。
「どんな苦しくとざされた日々であっても、あなたが私の青春でした」

砂糖のききすぎたセリフではあるが、これは置き去りにしてきた者への“餞別”でもなければ、乙女の感傷でもない。幼い自分を独り立ちするまでに育ててくれた青年たちや時代への偽らざる感謝の思いなのである。
その手紙を読んだ文夫は、
「私たちの中にも、時代の困難から抜け出し、新しい生活へ勇敢に進み出そうとした人がいたのだと。」
「私は、いや私たちは、そういう節子をもったことを、私たちの誇りとするだろ」
と、節子の想いを受け止めるのである。

この作品が芥川賞をとったのが昭和39年。そのときどれだけ話題になったのかは不明だが、それから6年後の昭和45年(1970)、再び政治の季節が巡ってきたときベストセラーとなった。それは時代の気分をふんだんに含んだ叙情小説だったからだろう。

昭和46年に「別れの詩 されどわれらが日々―より」として東宝で映画化。監督は森谷司郎、出演は小川知子、山口崇、藤田みどり、高橋長英 木内みどり、 北村和夫ほか。


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【六全協】 [obsolete]

 

『結局、現在の佐野の消息は判らなかった。Aは、佐野たちが潜った時も大学に残り、一九五五年、節子が大学二年の夏、共産党の第六回全国協議会の決定で、軍事組織が解体され、佐野たちが大学に戻った時、彼らを迎えた。その時、佐野は多くの他の学生たちと一緒に、共産党を抜けた。
 六全協による打撃は、
「ぼくも含めて、党と革命に自分の生活の目標を見出していた学生にとっては、殆ど致命的なものに思えました」
 とAは書いていた。
(「されど われらが日々――」柴田翔 昭和38年)

“例文”にもあるように、「六全協」とは“共産党第六回全国協議会”の略。
日本共産党の全国大会は、例外もあるが2~3年に1度行われている。最近は昨年の1月に第24回大会が開かれた。
「六全協」がなぜ政治史あるいは社会史のなかでカッコ付きで記されているのかは、その大会によって決定されたことが、その後の共産党の進むべき道を大きく変え、さらにはその周辺の左翼運動にも大きな影響を及ぼしたからである。

戦前非合法だった日本共産党は戦後、合法化される。徳田球一書記長を中心に、政治活動、労働運動を活発化させていき、昭和24年の総選挙では35議席を獲得。さらなる飛躍が予想されたが、ソビエトのコミンフォルム(共産党情報局)からその平和路線が批判され、党はそれを全面的に受け入れてしまう。さらにアメリカでのマッカーシズムが日本にも波及し、党員、シンパの馘首、追放は公職だけにとどまらず、マスコミをはじめとする民間企業にまで及んだ。つまり米ソ冷戦の影響をモロに被ったのである。

そんななか、昭和26年に四全協、五全協が立て続けに開催され、日本共産党は武装闘争、暴力革命の方針を決めた。それによって各地で火炎ビン闘争が活発化し、運動は激化していった。しかし、そのことによって国民の支持を失い、昭和27年10月の総選挙では党員全員が落選した。

これらのことを踏まえて開かれた30年の六全協では、武装闘争、極左冒険主義が自己批判され、それにのっとった新活動方針が採択された。
この六全協を境に、日本共産党は“国民に支持される党”を目指していくのだが、この大きな路線変更は一部のコミュニストにとっては“裏切り行為”であり、知識人を含め多くの党員が脱退していき、“反日共系”あるいは“反代々木系”という新左翼が勢力をのばしていくことにもなった。そうした意味でも六全協は、左翼運動の大きなターニングポイントとなったのである。

柴田翔によって書かれた「されど われらが日々――」は、60年安保(昭和35年)“前夜”の話。
主人公の大橋文夫は東大大学院生で、来春地方の大学への就職が決まっている。文夫には佐伯節子という幼なじみの許婚がいる。節子は女子大を出て商事会社に勤めているが、来春文夫と結婚して、地方で新生活を送る予定であった。
それが、ある日文夫が古本屋で、ある全集を「意志に反して」購入してしまったことから、ふたりの思いがけない話が展開していく。ふたりは、その全集により数年前の自分を見つめなければならない羽目になり、その過去が現在を揺るがすことになっていくのである。
「されど われらが日々――」は、“空虚”にとらわれ、あるいは直面してしまった若者たちの話である。

文夫は身体の関係のあったガールフレンドの自殺によって、自分の中にある空虚が“本質的”なものであることを確認する。節子に好意を抱いていた文夫の同級生・佐野は卒業後、就職してしばらく後に、やはり自殺する。また節子が好意を抱き、強い影響を受けていた「歴研」のキャップ・野瀬は、何も判っていなかったくせに、判ったふりをして人の受け売りをしていただけだ、と独白して彼女の前から去っていった。佐野も野瀬も「六全協」によって党を離れた人間だった。ふたりの“空虚”は目標を喪失したことによるもので、その対応は、自殺するか隠遁するかの違いでしかなかった。

2つの空虚に直面した節子は、もうひとつ、文夫の空虚と対峙しなくてはならなかった。彼女は来春、その空虚を共有しながら新しい生活に踏み出そうとしていたのだ。しかし……。

柴田翔は昭和10年東京生まれ。東大、同大学院を出て昭和39年、「されど われらが日々――」で第51回芥川賞を受賞。その後、ドイツ文学者としていくつかの大学で教鞭をとりながら作家活動を続ける。ほかに「贈る言葉」「立ち尽くす明日」などの作品がある。


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【輪まわし】 [obsolete]

 

『青年に送られて帰った夜がよみがえると、べつのある情景が私の目に浮かぶようになった。
 やはり人気のない深夜の街である。ごつごつした固い線を持った石造の建物が道の両がわにならび、女の子がひとり路上で遊んでいる。輪まわしの輪をまわして遊んでいる。……そして女の子の行手には、影が大きく道路にのびている。男の巨大な黒い影だ。……
 キリコの「街の神秘と憂鬱」という絵に描かれた情景である。』
(「街の神秘と憂鬱」原田康子、昭和40年)

「輪まわし」は子供の遊び。たとえば、道で自転車のリームのような輪を棒きれなどで押しながら駆けまわること。
西洋では16世紀に子供たちが「輪まわし」で遊んでいたという記録があるらしいが、日本での起源は不明。だいたい子供の遊びの嚆矢などを決めるのが無理なのかもしれないが。ただ、「おもちゃの歴史」のサイトを見たところ明治33年に鉄製の輪回しが流行ったという記述があったので、明治時代には存在していたことがわかる。ただそれ以前、たとえば江戸時代にあったのかどうかはわからない。樽や桶のタガで「輪まわし」をしたという文献もあるので、江戸時代にも行われていたかもしれない。

戦後、とりわけ質量共に物が増えてくる昭和30年代にはどうだったのか。少なくともわたしおよびその周辺では「輪まわし」をしたり見たりの経験はない。主流はメンコ、ベーゴマ、ビー玉というギャンブルだった。昭和33年に流行った“輪回し”といえばフラフープ。しかし、これは弊害をいわれ短命に終わった。わたしが初めて「輪まわし」を見たのは、イタリアン・ネオリアリズムか何かの外国映画の中でだったと思う。

日本の各地で頻繁に遊ばれていたのは昭和も戦前までだったのではないだろうか。その頃、登校時、学校まで「輪まわし」で行き、その輪を校庭に転がしておいて、下校のときまた回しながら帰った子供たちがいたという話が残っている。多くはタガで、お金のある子は鍛冶屋で特注として作ってもらったそうだ。自転車のリームを使い出したのはずっとあとのことだとか。また、親たちは「輪まわし」を歓迎しなかった。なぜかというと、草履が早く減るからだという。このへんにも時代を感じる。

なお、キリコ(デ・キリコ)は20世紀のイタリアの画家、彫刻家でシュールレアリスムに影響を与えたことで知られている。「街の神秘と憂鬱」はその代表作。

原田康子の小説に出てくる女性でとりわけ魅力的なのは、少女でも女でもないその間に精神がぶらさがっている女性である。この作品の主人公・元子もそうだ。彼女たちの多くに共通しているのは芸術の中にアイデンティティを見いだそうとしている、あるいはしていたことと、同世代の恋人がいながら年上(それもかなりの)の男に魅かれるということだ。
「挽歌」で妻子ある建築家と不倫する兵藤玲子は絵を描いていたし、「犬を飼う男」の主人公・和子はジャズシンガーで、帰郷した実家の敷地内で犬を育てている中本という中年男になぜか心魅かれていく。そしてこの「街の神秘と憂鬱」の元子もまた、詩の中で“彷徨”っている。彼女は婚約者がありながら中年の刑事・木次のことが気になるのだ。ただ、それが玲子のように激しい思いではない。イージーな言葉で言えば恋愛未満というか、恋愛に発展する可能性を秘めた感情なのである。
以上のヒロイン(作者)たちにファザーコンプレックスがあったのではないかという疑問に対しては、否定するつもりはないが、それだけではないような気がする。自分の存在に対して不信や不安を抱く人間は先へ先へと人生を急ぐのである。元子をはじめ彼女たちがまさにそうで、だからこそ、自身の存在の解答を求めて芸術の中を彷徨ったり、はるか先を歩もうとする。中年男は少なくとも自分よりは2歩も3歩も先を歩いている人間なのである。
ただ、「挽歌」から6、7年たって原田康子の描くヒロインは、その分かなり分別がつき大人になっている。それは言い方を変えれば臆病になっているということでもある。


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【ステットソン】 [obsolete]

 

『……。その夜、行きつけの屋台の飲み屋ではじめて会った男だった。黒のステットソンをあみだにかぶり、目のうごきと赤すぎる口がいやしくて、一見して町の不良だとわかった。私のでたらめははじめてではなく、したたか酔ったうえでのことではあったけれど、会ったばかりの男に、しかもやくざと承知のうえで、軀をまかせようとした無茶はさすがにはじめてだった。』
(「街の神秘と憂鬱」原田康子、昭和40年)

「ステットソン」Stetson は日本で言うテンガロン・ハットあるいはカウボーイ・ハットのブランド名。
実際にカウボーイあるいはその時代の人間たちが被っていた帽子は一様ではなく、クラウンと呼ばれる頭を被う部分やプリム(つば)の大きさ、反り具合などの違う様々なものがあった。「ステットソン」は現在、西部劇映画で見られる最も一般的なかたちのカウボーイ・ハットだが、作られたのは19世紀中ほど、帽子職人のジョン・バターソン・ステットソンJohn Batterson Stetson によってだった。もちろん、それ以前からカウボーイやガンマンたちは似たようなハットを被っていたのだが。現在アメリカではこうしたカウボーイ・ハットのことを「ステットソン」あるいはたんに「ハット」と呼ぶそうである。
なお、テンガロン・ハットはクラウンがやや長いカウボーイ・ハットの一種で、映画に見る一般的なカウボーイ・ハットとは異なる。日本では「ステットソン」のこともテンガロン・ハットと呼んでいるが、これは間違い。また、テンガロン・ハットの由来がクラウン部分に水が10ガロン入るからというのも誤り。なにしろ1ガロンは3.8㍑なのだから、38㍑の水が入る帽子などありえない。これはテンガロンの由来となっているgalon(スペイン語で編むという意味)と単位のgallon を取り違えたためといわれている。

「街の神秘と憂鬱」原田康子の短編。
芸術(詩作)にとらわれ、酒に溺れ、男との刹那に身を任す中流家庭の娘が主人公。原田康子の作品ではおなじみのナイーブで真っ直ぐな性格の女性。当時で言えば(今でも?)“不良少女”ということになる。
そんな彼女・元子があるとき、本物の不良たちから強姦されそうになる。それが上の“引用部分”である。
彼女は間一髪助けられ交番に保護される。そのとき彼女は交番の外から自分の名を呼ぶ声に気づく。見知らぬ青年だった。青年は以前、彼女の家の近所に住んでいたというのだが彼女の記憶にはなかった。青年に家まで送ってもらいながら、彼女はひどくみじめな思いになり彼の胸に顔を埋めて泣きじゃくる。青年の名前は分からない。翌日、母親に訊ねてみてもそんな「男の子はたくさんいたわね」と言うだけだった。しかし、それを機会に彼女の青春の“彷徨”は終わり、詩作仲間の紹介で小さな新聞社の取材記者の職を得た。
記者になって2年後、報道部から警察まわりへ移った。婚約者もできた。しかし、その婚約者との会話が途絶えたとき、女の水死体を見たとき、そしてあの夜、彼女を強姦しそうになった不良のひとりを警察署の中で見たとき、彼女は自分を保護してくれた青年の姿、そしてなぜかそれと対になって現れてくるデ・キリコの「街の神秘と憂鬱」のイメージが浮かんでくるのだった。それが彼女が“描く”ことができた唯一の青春の詩だった。
それから1年、警察まわりから社会部へ移ることになった彼女は、惜別の思いで、以前から気になっていた中年刑事・木次を酒場に誘う。ぶっきらぼうな刑事と短い時間を過ごし、肩を並べて夜道を帰りながら、彼女は3年前の夜のことを想い出そうとした。しかし、あの青年の顔も、「街の神秘と憂鬱」に描かれた輪まわしをする少女の姿もどこかへ消えてしまったようで、自分と刑事の足音が聞こえているだけだった。


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【プレハーノフ】 [obsolete]

『「ねえヒロシ(彼女はいつもぼくを呼びすてにする。ぼくのほうではいつも彼女を森さん、というのだが。それは彼女が二十二歳の僕よりも十五も年長であるからでなく、有衣チャン、なぞと呼ばせるような可憐な風情はとっくの昔に失っているせいである)、プレハーノフって何なの?」』
(「感傷旅行(センチメンタル・ジャーニー)」田辺聖子、昭和39年)

「ゲオルグ・プレハーノフ」Georgij Valentinovich Plekhanovは1856年生まれの、ロシアの社会主義者。1882年にマルクス&エンゲルスの「共産党宣言」を翻訳し、ロシアで初めて出版し、マルキシズムの啓蒙に力をそそいだ。当初はレーニンのボルシェヴィキ(過激な革命主義)を支持したが、後に政治的に異なった立場に立つ。そのことで1917年の十月革命以後出国を余儀なくされ、翌年フィンランドで病死する。

「感傷旅行」にはやたらと社会主義、共産主義に関する言葉が出てくる。それはこの小説がそういう思想の裏付けをもつものだから、ということは全くなく。たんに、ヒロインである森有衣子女史が、“前衛党”の闘士・ケイに夢中で、その影響を受けまくっているからにほかならない。
たとえば、彼女はぼく(ヒロシ)に「レーニン選集」や「マルクス・エンゲルス集」など多くの社会科学の本を売りつけた。また党の講演会にまで連れて行った。また、ケイの言葉を必死に理解しようとする彼女は、「弁証法的唯物論と唯物論的弁証法」ってどう違うのとか、トロツキーって善玉それとも悪玉? などとヒロシに聞くのだった。

そのうち、プレハーノフって人の名前なの? と言ってた彼女が、「すべての人民は資本家階級の搾取と収奪に対し、団結してたたかうべきよ」などとのたまうようになる。
そして、闘士ケイに捨てられると血迷って、「バカ! 何が団結なのさ!」とばかり、ヒロシの部屋の本棚にあった「レーニン選集」をはじめとする社会科学書を、手当たり次第ヒロシに投げつけるのである。

「感傷旅行」でヒロシと有衣子は放送作家という設定。そのためラジオやテレビのスタジオがしばしば出てくる。プロデューサーや顔見知りのジャズ歌手(有衣子の元つばめ?)なども出てくる。それは田辺聖子がこの小説を書く前から、テレビやラジオの台本を書いていたからである。小説の中には「……ライター(台本書き)なんて文化的にはほど遠い。およそ町工場の臨時工なみの給料と、それに反して過重な労働である……」などと描かれている。ほんとに昔はそうだったのか? 彼女は当時、テレビ「東芝日曜劇場」の台本も書いていたとか。


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