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THANK YOU FOR SPLENDID SONGS [day by day]

都電の踏切町屋②.jpg

今日、6月10日は「路面電車の日」だそうだ。
日本初の路面電車が6月10日に走ったのかな、と思ったらそうではない。

日本の路面電車の嚆矢は京都電気鉄道で、明治28年の2月1日に開業している。
なぜ6.10なのかと思ったら、なんのことはない「路電」だから「6」(ろく)、「10」(てん)だって。笑点のシャレよりも笑えない(スミマセン笑点の師匠連さま)。

東京で唯一残っている路面電車が三ノ輪と早稲田を結ぶ都営荒川線。
久しく乗っていません。あの鉄道は、忙しないときや急いでいるときはだめ。気持ちに余裕があるときに乗るもの。
ということは、ここしばらく心に余裕がないということになる。嗚呼。

そうそう、路面電車の話ではなかった。
今日6月10日は、わたしの好きな流行歌の作曲家3人の命日なのです。
で、彼らの作品をYOU-TUBE(でなくてもいいけど)で聴き、在りし日を偲ぼうという趣向。いざ。

まずは、古賀政男、服部良一とともに昭和の三大作曲家といわれる吉田正。平成10年に亡くなっています。

吉田正といえば、元祖ムード歌謡といえる存在。
モダンで時流に乗ったメロディーラインで昭和30年代の都会のナイトライフやラヴアフェアーを再現してみせました。
ほかにも「いつでも夢を」に代表されるような明朗な青春歌謡や、「潮来笠」をはじめとした昔ながらの“股旅もの”も。器用ですね。

吉田正のデビューは「異国の丘」で、そのドラマチックな登場はウィキペディアでも見ていただくとして、ビッグヒットに結び付かなかった昭和20年代の作品を聴くと、歌謡曲の王道だった「古賀メロディー」のシッポが残っています。

それが昭和30年代に入って独自の吉田メロディーを確立していったのは、やはり戦後、洪水のように日本に入ってきたジャズ、シャンソン、ラテンなどの影響があったからではないでしょうか。

このブログでも頻繁にとりあげる吉田メロディーですが、今回は男女のデュエットを3曲。

デュエットといえば「東京ナイトクラブ」(フランク永井、松尾和子)「いつでも夢を」(橋幸夫、吉永小百合)が双璧でしょうが、今回はそれらをパス。

で、まず一曲目は「若い二人の心斎橋」(三田明、吉永小百合)
“吉田学校”の門下生・吉永小百合の相手役といえば、当時のビクターの若大将・橋幸夫ですが、ナンバー2の三田明にもこの歌や「明日は咲こう花咲こう」がある。
作詞は吉田メロディーに欠かせない相棒・佐伯孝夫
東京生まれでほとんど東京の街を書いていた佐伯にとって珍しく関西を舞台にした昭和39年の歌。

もうひとつ青春歌謡のデュエットを。
やはり39年に発売された「恋旅行」(久保浩、小川知子)
当時吉田正が凝っていたアメリアッチのリズム歌謡。昭和43年「ゆうべの秘密」でブレイクする小川知子の東芝に移籍する前のビクターでの吹き込み。
これも作詞は佐伯孝夫で「有楽町で逢いましょう」同様、企業(小田急鉄道)とのタイアップで作られた。この話は以前やりましたので、詳細は割愛。

3曲目は、もう少し大人の雰囲気で。お得意のムード歌謡。
女性が松尾和子というと、相手はフランク永井といいたいところですが、前述したように毎度毎度なもので、今回、和子さんに浮気してもらって、違う相手と。
「FA(エールフランス)機が呼んでいる」(松尾和子、藤田功)

昭和36年の作品ですが、なぜエールフランスなのでしょうか。
羽田への乗り入れはもう少し前に完了してますし、小田急同様タイアップだったのかも。外国ブランドがカッコイイといのは今も昔もです。

松尾和子の相手役の藤田功はのちに「夢は夜ひらく」を作曲(採譜)した曽根幸明の歌手時代のステージネーム。若い頃は不良だったようで、最近亡くなった安岡力也をビビらせたという芸能界最強伝説が残っている。

2人目は演歌。平成5年に亡くなった猪俣公章。55歳という若さで。

福島県出身で、その訛りになんとも愛嬌がありました。
上京して名門・開成高校から第二志望の東大医学部をめざしたが、古賀政男に弟子入りして、無事第一志望の作曲家になったとか。
古賀政男の弟子として、自分から頼んで大作曲家の楽譜の整理をしたとか。それが作曲家・猪俣公章のどれほどの“栄養剤”になったことか。

とにかく明朗闊達な性格で、酒と女と(バクチはポリシーでやらなかったと)演歌をこよなく愛したとその自伝に書いてあります。

作家として2曲目の「女のためいき」(昭和41年)が初ヒット。森進一のデビュー曲。
その3年後、初のミリオンセラーとなったのが「港町ブルース」

♪背のびしてみる 海峡を

ではじまる名作。作詞の深津武志は当時よくあった雑誌「平凡」の読者作詞コンクールの入選者。なかにし礼が補作詞している。

猪俣の死後、かれがよく通った銀座のクラブ「姫」の元ママであった作家の山口洋子が「背のびしてみる海峡を」というタイトルの本の中で彼の評伝を書いている。

山口洋子は作家になる前、作詞家として活躍したが、それをすすめたのが猪俣公章。ふたりが組んだヒット曲に「噂の女」(内山田洋とクール・ファイブ)、「一度だけなら」(野村将樹)がある。
なんでも、猪俣と山口洋子は遠い親戚にあたるのだとか。

その翌年に書いたのが藤圭子「女のブルース」
前年、「新宿の女」で衝撃的なデビューをした「不幸な少女」藤圭子の第二弾。

作詞は藤の師匠の石坂まさお
四行詩で一番は♪女ですもの が4度び繰り返される印象的な詞は猪俣が出したアイデア。前作を上回るヒットとなり、本格的な藤圭子ブームとなった。

昭和40年代後半からはじまったのが天地真理南沙織、小柳ルミ子に代表されるアイドル歌謡。曲調は演歌というよりポップスだが、猪俣にもそんな路線の依頼が。

デビュー曲が散々だった香港の新人、テレサ・テンの本邦二曲目。
猪俣いわく「コニー・フランシスの線」(そうかな?)という「空港」は大ヒット。
その後、4年あまりの間に、テレサのために数曲書いたがまったくヒットしなかった。そのうちテレサが、レコード会社を変わってしまい、ふたたび猪俣と組むことはなかった。

ほかにも水原弘、五木ひろし、弟子の坂本冬実、マルシアなどにヒット曲を提供していますが、もうひと方とりあげなければならないので、また後日ということで。

最後は中村八大。平成4年、61歳でした。もう20年、早いもんです。

中村八大もこのブログでは“相棒”だった永六輔ともども、何度もふれてきましたし、曲もとりあげてきました。

もはや聴きあきたという感もなきにしもあらずですが、今回はしぼってNHKTV「夢で逢いましょう」の「今月のうた」で紹介された八大・六輔作品を三つピックアップしてみます

かのコーナーから生まれた名曲といえば、唯一ワールドワイドでヒットした日本の流行歌「上を向いて歩こう」(坂本九)ほか、レコード大賞獲得の「こんにちは赤ちゃん」(梓みちよ)、「遠くへ行きたい」(ジェリー藤尾)「ウェディング・ドレス」(九重佑三子)などがありますが、今回こうしたヒット曲はパス。ここではあまりとりあげる機会のなかった名曲を。では。

「故郷のように」(西田佐知子)
西田佐知子が八・六作品をうたうなんて、こうした企画ならではでしょう。
彼女のノンビブラートの澄んだ声がこの曲にふさわしい。
この曲はマーチなので、曲調が似ているというわけではないですが、なぜか彼女の「エリカの花散るとき」を連想してしまいます。

「若い涙」(ジャニーズ)
いずみたく
「太陽のあいつ」と並ぶ初代ジャニーズの名曲です。

もくろんだわけではないですが、これもマーチ。
曲を聴いているだけで、ステージで躍動していた4人の姿が彷彿としてきます。

いまだ勢い衰えないジャニーズグループですが、この初代ジャニーズやフォーリーブスが暗黙の了解のごとく“無視”されているのは、なにか違和感が。
一部のメンバーとのトラブルが原因なのでしょうが、やっぱり大芸能プロダクションの歴史なのですから、元メンバーとしてテレビやイベントに出てきてもいいような気がしますが。

「芽生えて、そして」(越路吹雪)
これも名曲です。
残念ながら越路吹雪盤のYOU-TUBEがなかったので、菅原洋一盤で。
今となっては菅原盤で聴いたことのある音楽ファンのほうが多いかもしれませんが。

永六輔の詞は、愛は愛でもどちらかというと“人間愛”といったイメージが強いのですが、この歌はまごうことなき男女の愛。
永さんのラヴソングとしてはこの歌がベストではないでしょうか。

それにしても改めて感じるのは、中村八大という作曲家のスゴさ。
幅が広いというのか、奥行きが深いというのか。たいしたエンターテイナーです。

今回もずいぶん長くなってしまいました。
それにしても三者三様の作曲家。彼らの遺してくれた流行歌はわたしにとって死ぬまでエヴァグリーン。(あたりまえだね)
でも、うらやましいですね、肉体は滅んでも彼らの創造したものがわたしをはじめ多くの他人を楽しませてくれるのですから。
最後お三方にこういいたい。 Thank you for splendid songs.


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