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三つの歌●ラテン歌謡曲 [day by day]

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先日、スカイツリーがオープンした夜、40年来の友人2人と久々に会い、楽しい時間を過ごしました。

もうこの歳になると、つき合いで呑むのはいやだ。気をつかいながら呑むのはいやだ。

やっぱりお互いの長短を知り合った気の置けない同輩と呑むのがいちばん。
そうなるとどうしても相手は限られてしまう。それでもいいんだ。

しかし今考えると、タイムリーなスカイツリーの話、その少し前の天体ショーの話はおろか、原発再起動から消費税UPからAKBから、NOWな話は何ひとつ話題にならなかった。完全に時代から取り残された還暦越えの3人でした。

それはともかく、そのうちのひとりが無類の歌謡曲好き。
その日も、
「いま、サイコーなんが『夜明けのブルース』、五木ひろしのな。知らないの? 今度聴いてみろよ、ワイルドだぜ」
などとのたまっておりました。

とにかく学生の頃、われわれがやれ「吉田拓郎」だ、「井上陽水」だとほざいているなか、
♪コモエスタ セニョー コモエスタ セニョリータ
とうたっていた男なのですから。

その「コモエスタ赤坂」は昭和43年、ロス・インディオスによってうたわれた曲。
ロス・インディオスといえばいまは亡きシルヴィアをまじえての「別れても好きな人」が知られていますが、グループ名からもわかるとおりもともとはラテン音楽を中心にしたバンド。

メンバーで、やはり惜しくも亡くなったチコ本間さんはアルパの第一人者だった。たしか「八月の濡れた砂」のバックでアンニュイ感を漂わしていたアルパの音色は、チコさんによるものだったと。

そうなんです、昭和30年代から40年代にかけて、ロス・インディオスやロス・プリモスあるいは東京ロマンチカなどのラテン系のバンドが歌謡界に進出して、ビッグヒットをとばすというシーンが何度かありました。
そしてそうしたラテンテーストの歌謡曲はムード歌謡などと呼ばれていました。

そもそも日本に最初に入ってきたラテン音楽、ラテンリズムはタンゴで、これは本場アルゼンチンからではなく、フランス、ドイツなどヨーロッパ経由(日本限定でコンチネンタル・タンゴなどといってました)。
そして日本のタンゴ・シンガーといえば関種子。昭和6年の日本初のタンゴ調歌謡曲「日本橋から」「雨に咲く花」などをうたっています。

また1930年前後には世界的にルンバが流行り、歌謡曲でも由利あけみ「ルンバ東京」「長崎ルンバ」、「広東ルムバ」などが嵐の前ののどかな日本の繁華街に流れていましたっけ(見てきたような……)。

というようにラテン風歌謡曲は戦前からつくられていましたが、今回は戦後限定で比較的ポピュラーな3曲をピックアップしてみました。

戦後のラテンといえばまずマンボ。
昭和でいうと24年ごろメキシコ、アメリカで流行り始め、26年には日本に上陸、翌27年にはかの「お祭りマンボ」(美空ひばり)がヒットします。

しかしマンボがさらにブームとなるのは昭和30年代にはいってから。
31年には創始者のひとりであるペレス・プラドが来日。
そんななかでヒットした和製マンボが、
東京アンナ(歌:大津美子、曲:渡久地政信、詞:藤間哲郎)

豊橋市出身の大津美子は「東海のひばり」と呼ばれるほど少女時代からの歌上手で、作曲家の渡久地政信について昭和30年、キングレコードからデビュー。そのとき17歳。
「東京アンナ」は第二弾。
当時かなりヒットしたようで、実現しませんでしたが、アメリカのアーサ・キットがこの歌を聴いて、ぜひ共演したいといったとか。

マンボではじまった戦後昭和のラテン歌謡は、30年代に殷賑を極めます。
それは都会調歌謡曲、そしてムード歌謡と呼ばれるようになります。
その中心にいたのが作曲家の吉田正

彼のヒット曲で、いまだデュエット曲の定番になっている「東京ナイトクラブ」(歌:フランク永井、松尾和子、詞:佐伯孝夫、昭和34年)もスローマンボ。
そしてその翌年にやはり吉田、佐伯、フランク永井のトリオでヒットしたのが、

「東京カチート」
当時、日本でも人気だったナット・キングコール「キサス・キサス・キサス」「グリーン・アイズ」などのラテンポップスをヒットさせていました。そのひとつが「カチート」。
そこからヒントを得て吉田正がつくったのがこの「東京カチート」。

ラテンのリズムに歌謡曲の旋律が融合して典型的なラテン歌謡になっています。
また、「もはや銀座じゃないだろう」と、赤坂をロケーションとした佐伯孝夫の先見性。このあと「赤坂」はムード歌謡の聖地となっていきます。

吉田正といえばラテン歌謡曲の代名詞のような存在ですが、もうひとりラテン歌謡曲を語るうえで欠かせない作曲家がいます。それが浜口庫之助

浜口庫之助、通称ハマクラさんは、戦前からラテンやハワイアンのバンドマンを生業としていて、戦後はラテンバンドを率いると同時に、ソロ歌手としても昭和28年から3年連続でNHK紅白歌合戦に出場しています。
紅白ではいずれも洋楽をうたっていますが、29年には「セントルイス・ブルース・マンボ」というスゴイ歌をうたっている。
残念ながら聴いたことはないが、まぁ、「セントルイス・ブルース」をマンボにアレンジしちゃったのでしょう。(あたりまえだよ)

作曲家に転向したのは34年、その第一作の「黄色いサクランボ」(スリー・キャッツ)は大ヒット。子供だったわたしも訳もわからず「わーかいむすめは うっふん」などと真似ていましたっけ。
これもまさにラテンの匂いのする一曲。

その後、「僕は泣いちっち」、「バラが咲いた」、「夕陽が泣いている」、「星のフラメンコ」、「涙くんさよなら」、「夜霧よ今夜も有難う」などヒット曲を連発していきますが、なかでもラテン歌謡にふさわしいと思う一曲は、
粋な別れ(歌:石原裕次郎)

裕次郎のオリジナルはイントロをはじめとして聞こえるリズムがリズムの宝庫、キューバの「ソン」のよう。かの「タブー」などもそうですね。
では、オマケにボサノヴァにアレンジしたハマクラさん自身の歌も。

裕次郎の名曲でもありますが、ハマクラさん屈指の傑作だと思っております。
和風の無常観を想起させる詞ですが、これまた「粋」という和風の言葉を合わせることでダンディズムさえ感じてしまいます。
「和洋折衷」にこころがけたハマクラさんにふさわしいラテン風味の歌謡曲。

さいごになりましたが、また愛すべきシンガーが亡くなりました。
尾崎紀世彦さん。カントリー出身ということもあり親近感がありました。
70歳前とは、未練が残ったでしょうね、残念です。

尾崎さんを偲んで彼の歌を2曲。
まずは、今回のブログに合わせて最もラテンぽいカヴァー曲、スペイン産の「太陽は燃えている」

もう1曲は、彼の原点、GSのワンダース時代の歌を。
「マサチューセッツ」や「ロック天国」といった洋楽や「白いブランコ」、「風」といった和製フォークのカヴァーをうたっていましたが、数少ないオリジナルからYOU-TUBEにあった「赤い花びら」を。
昭和43年の楽曲で、橋本淳―筒美京平のゴールデンコンビ作。

尾崎さんのご冥福をお祈りいたします。


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