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●歌謡曲が聴こえる⑥番外・純情篇 [books]

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片岡義男の「歌謡曲が聴こえる」もそろそろ終わりにせねばなりません。

まだまだ魅力的な素材はあります。

ベンチャーズがエレキブームを煽ったその10年以上前から、ステージでエレキギターでの弾き語りを看板とした田端義夫。
あのギターを胸高に抱いて、「オッス」といいながら♪なみのー せえのーせにいー 
とうたいだす独特のスタイルでファンを魅了しましたっけ。

また、日本での活躍が少なかったため、認知度もいまひとつでしたが、女優としてもアカデミーの助演女優賞をとったナンシー梅木。
ナンシー梅木については、ずいぶん調べているようで(他もそうですが)読みごたえがありました。俳優でアカデミー賞を受賞した日本人は彼女以外いまだいません。

ほかでは最もページをさいたと思われる、美空ひばり、そして片岡義男がほかの本で「歌謡曲の頂点」と表現した、ムードコーラスの嚆矢、和田弘とマヒナスターズのことなど。

しかし、この本を読み終えてなにか物足りなさを感じたことも事実。

もちろん、この本は戦後およそ20年あまりの歌謡曲を総花的に綴ったものではありません。
昭和37年、大学生だった片岡義男が、フェリーボート船中の歌謡ショーで見たこまどり姉妹の「ソーラン渡り鳥」にヒントを得て、焼跡間もない時代に向かってタイムトラベルしていったわけで、そこで彼によって掬いあげられた名曲の数々は、あくまで作家のセンスによるものです。

ですから、その時代時代をうたった歌手ということであれば、藤山一郎を、島倉千代子を、近江俊郎を、そしてなにより三橋美智也をとりあげてもおかしくありません。
なんとなく片岡義男は〝古賀政男の系譜〟が好きではないのかという疑問も残りますが、それらは彼の耳に〝聴こえなかった歌謡曲〟なのだから仕方ありません。

それでもこの曲だけは触れてほしかったという歌がひとつあります。
それは、「リンゴの唄」に匹敵する、あるいはそれ以上にかつて国民に愛された戦後の歌謡曲で、服部良一が曲を書き、西條八十が詞を書いた「青い山脈」

歌手は藤山一郎と奈良光枝のデュエット。これは戦前からの定番。
もうひとつ付け加えれば、これも戦前から主流だった映画とのコラボつまり主題歌として劇中でうたわれ、のちに巷で流行るというかたち。現在でも映画がテレビにかわっただけで、流行歌の販促としては欠かせない方法としていかされています。

昭和22年に石坂洋次郎が書いた「青い山脈」がいかにかつての日本人に愛されたかは、文庫本で版を重ねること100を越え、たび重なる映画化ということが物語っています。またその主題歌「青い山脈」がいかに国民の愛聴歌・愛唱歌になりえたかということを示す数字があります。

1980年 1位
2000年 40位
2007年 100位以下

これはテレビ局や文化庁が行ったいわゆる〝愛唱歌・愛聴歌〟アンケートにおける「青い山脈」のランキング。
歌に寿命があることは間違いありませんが、1949年に世に出た歌謡曲「青い山脈」が約30年を経た1980年でも国民的歌のナンバーワンとして存在していたことに驚かされます。それほど、その30年の時の流れがゆるやかだったということでしょう。
半世紀を経た2000年でも数十万か百万かは知らないが数多世に出た流行歌のうちの40位というのもスゴイこと。
しかし、その7年後には100位以内から消えており、おそらく100年経てば歌謡史には残っても一般的にはほとんど知らない・聴くことのない歌になってしまうでしょう。それが流行歌の寿命というものでしょうから。

とはいえ、そんな時代を大きく反映した歌について、片岡義男が「歌謡曲が聴こえる」のなかでなぜ、ひとこともふれなかったのか。
その真意はわかりませんが、彼の別の著書『「彼女の演じた役」原節子の戦後主演作を見て考える』の中で1949年に作られた「青い山脈」についても書いてあり、主題歌「青い山脈」についても、わずかですがふれています。

それによると「青い山脈」について「文句なしに傑作だ。」「ひとつの時代を背景にして……国民的なヒットソングとなった」と絶賛しています。
そして三番の「雨に濡れてる焼けあとの」という歌詞をとりあげ、「『青い山脈』という歌がどの時代のどうような人たちのものであるのか、誰の目にも明らかなように、宣言してある」と書いています。
そして最後に、この「青い山脈」を「国民的なヒットにするほど、人々は純情だった」と結んでいます。

「純情だった」ということは、もはや純情ではないということでしょう。
片岡義男のやはり音楽に関する著書「音楽を聴く」はジャズやポップスの洋楽を主体とした本ですが、3部構成のさいごに歌謡曲がとりあげられていて、その見出しが「戦後の日本人はいろんなものを捨てた 歌謡曲とともに、純情も捨てた」。

純情とともに捨てられたのは歌謡曲ばかりではなかったでしょうし、日本および日本人が発展・進化していくためには、それこそ「古い上着よさようなら」とばかり、とっかえひっかえ〝おニュー〟に袖をとおしていかねばならなかったのです。

昭和30年代なかば、ジャーナリスト・大宅壮一が言い、流行語となった「一億総白痴化」という言葉が思い出されます。
これは当時急激かつ爆発的に〝国民の友〟となったテレビ文化を揶揄したものですが、いまとなって考えれば、「一億総白痴化」ではなく、「一億総博士化」ではなかったのかと。
つまり、テレビから流れだす様々な情報は、たんにわれわれの知識欲を満たしただけではなく、実生活にとって便利なものとしても役立てられていきました。たとえそれが生活のパターン化であっても、それらの〝知識〟をもたないということは、〝無知〟とされたのです。われわれはテレビによって実体の伴わない〝にわか博士〟に仕立てられていったのです。
「一億総博士化」は現代において、さらにパソコンあるいはケータイ・スマホによってさらに進行しています。

片岡義男のいう捨てられた「純情」とは「白痴」あるいは「無知」と限りなくイコールだったのではないでしょうか。つまりわれわれはその純情と引き換えに多くの知識を、快適な生活を得たということなのでしょう。

片岡義男には「彼女の演じた役」のほかに、もうひとつ映画女優をとりあげた本があります。それが「吉永小百合の映画」という実にストレートなタイトルの一冊。

それならば1963年に浜田光夫と共演した「青い山脈」についても書かれているのではないか、と思いましたが、「青い山脈」についてはひと言もふれていません。
それもそのはずこの「吉永小百合の映画」という本、1959年の銀幕デビュー作「朝を呼ぶ口笛」から、女優開花した1962年の「キューポラのある町」までを取りあげたもので、63年の「青い山脈」は〝寸どめ〟されているのです。残念。わたしにとって「青い山脈」は原節子―杉葉子ではなく、芦川いづみ―吉永小百合なのですから。

それでは、昭和20年代前半の純情歌謡曲3連打を。

「東京の屋根の下」灰田勝彦
「青い山脈」が出る前の年、昭和23年につくられた歌。作曲も服部良一。どちらかといえばこちらのほうが服部メロディーといえます。この翌年やはり服部―佐伯コンビで「銀座カンカン娘」がヒット。
「なんにもなくてもよい」という歌詞がいかにも純情です。
昭和のあいだは「君さえいれば」とか「あなたひとすじ」なんて歌詞がまかりとおっていましたが、いまとなってはそんな無知な言葉は流行らない。

「さくら貝のうた」辻輝子 
作曲の八洲秀章はほかに「あざみの歌」、「山のけむり」などで知られる抒情作曲家。歌詞は八洲の初恋の相手を喪うという実際にあった純情物語をベースに友人の土屋花情が詞を書いたもの。
もともと戦前につくられたものですが、「青い山脈」と同じ昭和24年にNHKの「ラジオ歌謡」として小川静江によってうたわれました。レコード歌手となった辻輝子は声楽畑のひとで、のちにこの歌のプロデューサー的役割をはたしたといわれる山田耕筰と結婚しています。

「水色のワルツ」二葉あき子
「青い山脈」の翌年、昭和25年に発表されヒットした歌。
作曲は歌謡曲嫌いの高木東六。作詞は戦前なら「別れのブルース」、戦後は「愛のスイング」、「東京キッド」、「さよならルンバ」、「懐かしのブルース」など、ヒットメーカーとなった藤浦洸。30年代はNHKの「私の秘密」などのクイズ番組に出るなど一般的な知名度も高かった作詞家でもあります。
二葉あき子は戦前戦後を通じての人気歌手。そういえば戦前のヒット曲で「純情の丘」がありました。


歌に寿命はありますが、延命策はカヴァーされること。
「青い山脈」も多くの歌手がカヴァーしています。

それでは最後にそのカヴァーを演歌歌手アイドルグループで。


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