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太陽がいっぱい Plein Soleil [books]




先日、アラン・ドロンがカンヌ映画祭で引退を表明したというニュースを見ましたが、まだ現役だったのかという思いと同時に、そういう時代になったのだなという感慨がありました。鮮やかな総天然色のスクリーンが時を経て、セピア色に色褪せ、やがて白くフェイドアウトしてしまうような。


小林信彦さんの「ぼくが選んだ洋画・邦画ベスト200」、今回のスクリーンミュージックは1960年に公開されたフランス映画「太陽がいっぱい」。この作品も何度も観ました。


この作品で主演のアラン・ドロンが日本で大ブレイク。今でいう「イケメン」の代名詞となりました。


この頃のフランス映画といえば、トリュフォー、ゴダール、レネをはじめとするヌーヴェルヴァーグの抬頭。観念的、難解な、よくいえば個性的な映画で日本の映画にも少なからず影響を与えました。


「太陽がいっぱい」の監督ルネ・クレマンはヌーヴェルヴァーグの面々よりもひと世代上の監督で、映画の本質であるエンターテインメントに徹した作品を創りました。


代表作はヴェネチアの金獅子賞を受賞した1952年の「禁じられた遊び」。この映画も戦争の悲劇が生んだ小さな恋の物語といったストーリーとともに、ナルシソ・イエペスのギターによる主題歌「愛のロマンス」が印象的でした。


「太陽がいっぱい」はピカレスク映画ですが、その最大の魅力は衝撃のラストでしょう。完全犯罪を成功させたと思い込んでいるドロンが、海辺のレストランのデッキチェアーに座り、ふりそそぐ太陽の光を浴びて、その達成感にしたりながら「太陽がいっぱいだ」とつぶやく。かなりブラックではありますが、いかにもフランス映画らしい粋でウィットの利いた結末でした。


もうひとつあの時代を象徴していたのは、殺人者と被害者との対照がでしょうか。ドロン扮する貧しい若者が、モーリス・ロネ扮する金持のボンボンのすべてを奪ってしまうというストーリー。


1960年といえば世界的な戦争が終結していまだ15年。急激な経済成長が始まっていたとはいえ、まだ多くの人が貧しかった。それはフランスも日本も同じだったのだと思います。


こうした「持たざる者」の「持っている者」への反撃が映画や文学のテーマになりえた、つまり貧しさが豊かな社会へ復讐するという構図の作品が成立した、そんな時代でした。1963年の黒澤明作品「天国と地獄」や62年の水上勉の小説「飢餓海峡」などがそうでした。


話を戻して、「太陽がいっぱい」といえば、ヒットの要素として欠かせなかったのが主題歌、つまりサウンドトラック。その憂いに満ちた旋律はドロン演じる野心のままに行動し、やがて破滅していく青年の心情を奏でるようで、多くの映画、洋楽ファンの琴線に響き、耳に残りました。


当時の洋楽ヒットランキングといえば、ラジオの「ユアヒットパレード」などがありましたが、ポップスとともにスクリーンミュージックが全盛で、この曲もナンバーワンになった(はずです)。まだビートルズ未満の話です。


主題歌の作曲はニノ・ロータ。イタリアの作曲家で、スクリーンミュージックでは1954年のフェリーニの「道」、68年の「ロミオとジュリエット」そして72年の「ゴッド・ファーザー」など、オールド映画ファンには今でもその旋律を聴くと、それぞれの思い出のシーンが甦るだろう数々の名曲を残しています。


ドロンはその後、ギャバンと共演した「地下室のメロディー」(これもラストが衝撃的な映画でした)をはじめ、「冒険者たち」「サムライ」「さらば友よ」など数多くの映画に主演しました。


ところでクールでどこか影があったドロンでしたが、「太陽がいっぱい」公開から数年後、スクリーンの中のあの冷徹な殺人者さながら、実生活のドロンがリアルな殺人被疑者として事情聴取(嫌疑不十分で不起訴)されるというスキャンダルが起きたことも衝撃的なことでした。


とはいえやっぱりオールド映画ファンにとってアラン・ドロンは当時のイケメンの代名詞であり、モテ男であったことは間違いありません。
ロミー・シュナイダー、ナタリー・ドロン、この映画で共演したマリー・ラフォレらと浮名を流したわけですから。そういえば何度も来日して、日本人の女優だかタレントともウワサになっておりました。


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