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●谷間/番外篇 [a landscape]

ビルの谷間.jpg

谷間のおまけ。

実際の地形としての谷間ではなく、修辞的につかう「谷間」というのがあります。
………………。
いや、いまあなたが考えているその「谷間」ではないんです。
わたしはそういう人間ではありませんから。(ウソばっか。もはやバレバレ)

だいたい、あなたが考えている「谷間」なんか、歌になりませんし。

わたしが考えている「谷間」とは「ビルの谷間」のこと。

昭和20年代の後半から30年代全般にかけて、流行語とまではいきませんが「ビルの谷間」というフレーズが流行歌でよくつかわれていました。

というか、戦前から「ビル」あるいは「ビルディング(ビルヂング)」という言葉がモダンで軽佻浮薄の流行歌には欠かせない言葉だったのでしょう。

代表的なビルとしては、昭和4年の「東京行進曲」(佐藤千夜子)にも
♪恋の丸ビル あの窓あたり
とうたわれた「丸ビル」。正式には「丸の内ビルヂング」で、大正末につくられたモダンの象徴的建造物。
地上9階というから、いまから考えれば郊外のマンションよりもはるか低い。これでも当時の建築基準ギリギリで、誰もが「スゲェー」と見上げた花の都のランドマークだったのです。

そのビルが一挙に巨大化したのが、いまでは高層ビルのベスト50にも入らなくなってしまった虎ノ門に近い霞が関ビル。
地上36階というから丸ビルの4倍。
そんな巨大建築物が東京オリンピックの翌年に出現したのだから、驚いたね、都民は。
まさに経済成長の象徴的建造物でした。

皮肉なことに、そのあたりから、つまり高層ビルが建ちはじめ、やがて林立していくようになると、なぜか流行歌の中の「ビルの谷間」は消えていきます。

では昭和の「ビルの谷間」はどのようにうたわれていたのでしょうか。

まず旧いところでは昭和29年、幻のシンガー・千代田照子がうたった「東京ワルツ」にでてきます。
♪ビルの谷間の 小さな陽だまり

この「ビルの谷間」は、ふたりの思い出の場所ですね。

余談ですが、YOU-TUBEにオリジナルがなく、井上ひろし盤もないので小柳ルミ子嬢に登場ねがいました。
でも2番間違えてますね。
♪七色の雨にうたう あゝ東京ワルツよ
と一番を重複してます。正確には
♪あの窓の思い出は あゝ東京ワルツよ
です。
そして最後も
♪雨のつゆ草
ではなく♪夢のつゆ草ですね。

好きな歌なのでついつい「アラサガシ」をしてしまいました。

当時としてはモダンな旋律は小坂一也の「座付作曲家」でもあった服部レイモンド。そしてかの時代の都会の青春模様を上手に綴った詞は「ひばりの佐渡情話」やアキラの「さすらい」で知られる西沢爽。まだ新人で本名の義久で書いていました。

「東京ワルツ」に関してはもう少し能書きをたれたいのですが、まだ、先が長いのでこのへんで。

昭和30年代に入ると、男がうたう「ビルの谷間」が続出します。

まずは33年、超低音で女性をシビレさせた? 三船浩(近年亡くなりました)の「東京だより」

♪かるく車の アクセルふんで ビルの谷間を まっしぐら

主人公は地方から都会に出てきて、夜学に通いながら運転手として働く若者。
この頃は「僕は流しの運転手」(青木光一)とか「ハンドル人生」(若原一郎)などタクシードライバーの歌がトレンドのひとつだったので、この「東京だより」の青年も「運ちゃん」かもしれません。

母親への便りというかたちで自分の近況、そして東京見物をさせたいという孝行ぶりを吐露しています。
「東京見物」というのもこの時代のキイワード。

三橋美智也「東京見物」島倉千代子「東京だよおっ母さん」がヒットしました。
いずれも東京に働きに来てひと息つき、故郷の母親を東京観光に招待するという、孝行息子、孝行娘の話。
なぜか呼んでもらえるのは母親で、「東京だよお父っつあん」てのはない。
父親は田舎でお留守番? ならいいほうで、「東京だより」では死んでたり……。

その3年後の36年。
「ビルの谷間」ではありませんが「街の谷」が仲宗根美樹「川は流れる」に出てきます。
♪病葉(わくらば)を 今日も浮かべて 街の谷 川は流れる

これもヒットしました。
これは街の中を流れるほんとうの川をうたっています。
東京でいったら、隅田川か、目黒川か、神田川か。

♪思い出の 橋の袂(たもと)に 錆(さび)ついた 夢のかずかず
という名詞は「哀愁列車」(三橋美智也)「下町の太陽」(倍賞千恵子)横井弘

38年には北原謙二(この方も亡くなっています)の「ひとりぼっちのガキ大将」

♪ビルの谷間に 沈む陽も 燃えて明日は また昇る

子どもの頃は「お山の大将」だった男も成長すればフツーのサラリーマンに。
それでもいつか、子どもの頃のように部下を引きつれて「出世階段」の頂点に立ってやるという心意気がうたわれています。
いかにも激動の昭和30年代のサラリーマンを象徴した歌です。

北原謙二はカントリー&ウエスタン出身のシンガーで、大阪のジャズ喫茶ナンバ一番でスカウトされる前は、かの浪商(浪華商業高校)、それも野球部。ウソかマコトか同級の張本勲や山本集を差しおいて番長だったとか。

翌39年の田辺靖雄「二人の星をさがそうよ」では、

♪ビルの谷間の 小さな空にも 星は生まれる 愛の星

と。
田辺靖雄も洋楽(カヴァーポップス)出身で、デビュー当初は梓みちよとのコンビ、マイ・カップルポール&ポーラ「ヘイ・ポーラ」「けんかでデイト」をカヴァーしていました。

そのマイ・カップルに「12と13」という歌があります。
♪12と13 ふたりは友だち ただそれだけ
というワンフレーズだけを旋律とともに覚えています。

この歌、当時のテレビドラマの主題歌らしいのですが、実はドラマを見たことも、歌を聴いたこともないのです。
なのになぜ覚えているかというと、中学時代の遠足のバスの中で、クラスのマドンナがこの歌をうたったのです。わたしは特にマドンナに関心はなかったのですが(好きだったのは別のクラスの娘でした)、なぜか、この歌のワンフレーズだけが耳に残り、なんと半世紀ちかくも残りっぱなしになってしまったというわけ。

CDは昔出たようですが、いまではほとんど入手不可能。いまだフルヴァージョンで聴いたことがない。まぁ、別段どうしても聴きたいというわけでもないのですが。

田辺靖雄と聞くと、必ずこの「12と13」を思い出すという話。

もう完全に予定オーヴァー。でもあと1曲。

昭和も40年代に入り、昭和元禄などと呼ばれた「昭和の春爛漫」を過ぎてさらに50年代へ。

「東京見物」させたいほどの魅力的だった都会も、住みついて20年、実は享楽歓楽の街の素顔は実に冷たく味気ないものだと気づきます。
それでも離れられないのならば、それはその人たちにとって「魔性の街」なのかも。

そんな歌が「東京砂漠」内山田洋とクールファイブ
♪ビルの谷間の 川は流れない 人の波だけが 黒く流れていく

これ以後、「ビルの谷間」なんて言葉、あるいは言い方は聞かなくなりました。
さらに平成になった20年以上が過ぎ、もはや「死語」と化してしまっているのかもしれません。

ところで、はじめにふれた「あなたが想像した“谷間”」、そんな歌などないと思ったらありました、それも昭和30年代に。

「東京だより」でふれた三船浩の「男のブルース」(昭和31年)。
♪胸は谷間だ 風も吹く

と。しかしよくよく詞を読むと、これは「あの谷間」ではありません。
つまり地形的な隆起を意味する谷間ではなく、「淋しい場所」という意味でつかわれているようで。

月亭可長「嘆きのボイン」なんていうのもありますが、あれはモロママで、「谷間」なんてもんじゃないし。
じゃ、こんなのどうですか。「谷間」という直接的な言葉はでてきませんが。
これで谷間を想像するのはわたしだけ?


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