夏歌①あの娘と僕 [noisy life]
スイム スイム スイム スイムで踊ろう
あの娘もこの娘もピチ娘
♪拗ねて渚に 来たものの 炎のような波頭
追って 来てくれ 来てほしい
感じがでないよ 一人では
青い この海 君のもの
スイム スイム スイム スイムで踊ろう
渚は恋の パラダイス
(「あの娘と僕」詞:佐伯孝夫、曲:吉田正、歌:橋幸夫、昭和40年)
今年もやらねば(義務的)「夏歌」。
今年は夏にふさわしい、あるいは夏を強くイメージさせる歌い手さんを。
平成23年、現代の夏を代表するアーチストといったら誰になるのでしょうか。
しばらくまえだったら、サザンオールスターズやチューブといったいわゆる湘南サウンドがいのいちばんに思い浮かびましたが。
まさか湘南ブランドで、湘南乃風じゃないよね。まさかいまだにサザンやチューブでもあるまいし。
ところで、シンガーあるいはグループが夏向きというか“夏御用達”といわれたのはいつからでしょうか。つまり、流行歌の夏男(女でもいいですが)、あるいは夏バンドの第一号は?
常識的にはサザンやチューブの先輩にあたり、湘南サウンドの創始者といってもいい加山雄三ではないでしょうか。
大ヒット曲「君といつまでも」のひとつまえのシングル「恋は紅いバラ」が発売されたのが昭和40年の6月。
デビュー曲ではありませんが、映画「海の若大将」の挿入歌で、三連のバーラード。まさに夏歌。
この曲からバックを寺内タケシとブルージーンズが担当(のちにランチャーズになるが)。このこと、つまりエレキを前面に出したことで「夏歌」つまり「湘南サウンド」が誕生したといってもいいかも。
ということは、「夏歌」の原点ベンチャーズに行き当たるのですが、今回は「和物」ということで。
で、翌年には「蒼い星くず」、「お嫁においで」、「夜空を仰いで」とヒット曲を連発。映画「若大将シリーズ」やプライベートでの海やヨット好きということも相俟って、「加山雄三イコール夏」というイメージが固まっていったように思います。
そもそも「夏」のイメージといえば、山もありますがやはり「海」なのです。
青い空白い雲、そして真赤な太陽。
青い海に白い砂花、そして真赤な太陽。
これが流行歌の夏のイメージなのです。
ということはビーチつまり、むかし風にいえば「海水浴」があってはじめて、海が夏の「季語」になったわけです。
しかし「海水浴」が一般に普及定着したのはそれほど旧いことではありません。
夏の休日、家族や友人と海水浴へ行くという習慣がではじめたのは、庶民が経済的にも精神的にも余裕がではじめた昭和30年代の半ばごろから。
マスコミはそれを「レジャーブーム」などとあおり、庶民も流行に遅れまいとこぞって海へ殺到したのです。
ということは、加山雄三のまえ、すなわち昭和30年代に、そうした「夏」のイメージを打ち出したシンガーがいてもおかしくはない。
わたしの個人的な印象では、「夏の歌やんけ」(東京育ちです)と感じた流行歌は昭和36年から38年にかけてのガールポップス。
36年は田代みどりの「ビキニスタイルのお嬢さん」や「パイナップル・プリンセス」、そしてツイストが流行った昭和37年に大ヒットした「ヴァケーション」(弘田三枝子ほか)、翌38年には「太陽の下の18才」(木の実ナナほか)というように。
もっとさかのぼれば、昭和32年には浜村美智子が「バナナ・ボート」を、翌33年にはエセル中田が「カイマナヒラ」をヒットさせ「夏歌」で流行歌を盛り上げました。
しかしこれらはいずれも洋楽のカヴァーポップス。
純国産の「夏歌」をうたうシンガー、つまり「夏男」あるいは「夏女」はいなかったのでしょうか。
それが実は(ずいぶんモッタイブッタな)いたのです。
昭和30年代に入って、ロカビリーがきっかけとなり、若者に急速に支持されはじめたアメリカンポップス。
その魅力はなんといっても、聴いてるだけでからだがうごいてしまうビートとリズム。その象徴ともいえるのが、昭和37年、爆発的に流行したツイスト。
ブギウギのリズムに乗って、まさにからだをひねるというダンス。
以後、スカだのシャロックだのパチャンガ、スクスクなどなど、新しいリズムやステップが続々と登場。そのほとんどは線香花火のようにアッという間に消えてしまいましたが。
しかしこのことで、「若者はリズムを求めている」ということを大人(音楽関係者)は理解します。
そして歌謡曲の世界でも、若者を意識した「リズム歌謡」なるものが生まれてきます。
その旗頭になったのが、そのとき歌謡界を席巻していた「青春歌謡」の面々。
なかでも御三家といわれた橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦。
たとえば舟木一夫なら「渚のお嬢さん」とか「夏子の季節」、「太陽にヤァ!」。
西郷輝彦なら「星娘」、「星のフラメンコ」に「恋のGT」。
しかしなんといっても橋幸夫。
昭和39年の「恋をするなら」に始まって、以下のように「リズム歌謡」連発。それもその多くは夏をイメージしたもの。
「ゼッケン№1スタートだ」昭和39
当時若者の間で注目されはじめてきたカーレースを先取りしたもの。残念ながらまだフォーミュラとかF1という言葉はなかった。
「CHE CHE CHE(涙にさよならを)」昭和39
「チェッ チェッ チェッ」と舌打ちを欧文のタイトルにしてしまうという佐伯マジック。むかしビートたけしがギャグにつかっていた。いいセンスしている。
「あの娘と僕(スイム・スイム・スイム)」昭和40
これは、たしかラテン系リズムにオリジナルの振付けをした「スイム」という踊り(その後流行った記憶ない)をお披露目した歌。
それはともかく、このYOU-TUBEはスゴイ。亡くなった人も存命者もほんとにスゴメン。紅白ならでは。
「僕らはみんな恋人さ」昭和40
だいだいは橋幸夫の“座付作者”である吉田正と佐伯孝夫の黄金コンビが作った歌だが、これはいずみたくと岩谷時子という「夜明けのうた」のコンビ。
たしかにメロディーラインはいずみたくのにおい。それとYOU-TUBEのさくらさんのモンキーダンスいいネ。
「恋のインターチェンジ」昭和40
これも黄金コンビではなく、曲はクラリネット奏者の藤家虹二、詞はなんと作家であり実業家でもあった邱永漢。
日本初のハイウェイ、名神高速が開通したのが昭和38年。「インターチェンジ」という言葉もまだ新しかった。
「恋と涙の太陽(アメリアッチ)」昭和41
アメリアッチとはアメリカのロックにメキシコのマリアッチ(演奏形態)をミックスして?つくりあげた吉田正のオリジナル。三田明(恋のアメリアッチ)もうたっていた。
イントロなんか、当時流行ったティファナ・ブラスHARB ALPERT & TIJUANA BRASSの「蜜の味」A TASTE OF HONEY を「いただいて」いる。
「恋のメキシカン・ロック」昭和42
これも吉田正のアメリアッチ。「恋と涙の太陽」から1年経って、「アメリアッチ」があまりにも浸透しないので、もっとわかりやすいメキシカン・ロックに変えたのかな。
以上のように、昭和30年代後半から40年代はじめにかけて、加山雄三を差し置いた「夏男」がいたことがわかっていただけましたでしょうか。
それにしても、これらのヒット曲のほとんどを作詞したのが佐伯孝夫。
明治37年生まれといいますから、この頃は還暦越え。
さすが詞(ことば)の魔術師といえばいえますが、それにしても当時のティーネイジャーたちが60過ぎたオッサンの詞にキャーキャーいっていたと思うと……。
いや、それが流行歌なんです。流行歌だったんです。
ところで「夏男」橋幸夫、いまも健在です。相変わらずリズムに乗りまくっています。
盆踊りとフォークダンスで。
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