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『けんか』 [noisy life]


♪ けんかしちゃった まだ怒ってるの(女)
  さっきごめんね(男) もういいのよ(女)
  初めてのケンカ

  心じゃとっくに許したくせに
  なんだかとっても悔しくなっちゃた
  アーアーア
  けんかよそう(男) もうしないわ(女)
  約束ゆびきり
(「けんかでデイト」訳詞・みナみカズミ、曲・E.McDUFF, B.SMITH, O.COUCH、歌・田辺靖雄、梓みちよ、昭和38年)

「バカヤロー!」
今朝、電車の中で中年男の怒鳴り声。年に何度かはこういうnoiseを聞きます。混んでる車中、からだのどこかがぶつかったのでしょうか。相手が賢明な“無抵抗主義”だったようで、けんかにならずにすみました。場合によっては罵り合いになったり、次の駅で“決闘”なんてケースもあります。朝からそんなにエネルギー使っちゃって……なんて思うのですが。ささいなトラブルが傷害や殺人の事件になってしまうことは、新聞やテレビがたびたび報道しているとおりです。足を踏んだ、肩が触れたで殺されるのは割りが合わないのはもちろん、そんなささいないきさつで懲役?年というのもばかばかしい話。冷静に考えれば分かることも、いったん頭に血が上るとねえ……。
親子げんか、兄弟げんか、夫婦げんか、恋人同士のけんか、友だちとのけんか、職場でのけんか。だれでもけんかと無縁ではいられない。けんかや諍いのない世界って一見住みやすそうだけど、きっと退屈なんだろうな。しかし、けんかもエスカレートしていくと、いきつくところは……ねえ。腹八分目、いや六分目ぐらいでやらなくちゃ。国同士でもおなじこと。
♪ 核実験よそう もうしないわ
  約束ゆびきり
なんて、むりか……。
北島三郎の「喧嘩辰」は、♪ころしたいほど 惚れてはみたが…… と「男はつらいよ」第一作で寅さんとマドンナの光本幸子が歌っていました。だいたい、“喧嘩にゃ強いが女にゃ弱い”というのが演歌に出てくる渡世人のステロタイプ。
ポップスになると、ふたりの男友達から思いを寄せられるという乙女ごころを歌った河合奈保子の「けんかをやめて」(作・竹内まりや)。いしだあゆみの「喧嘩のあとでくちづけを」は、ケンカをしてもやっぱり好きという女ごころを歌ったもの。海援隊にも「けんかエレジー」が。これは、あの鈴木清順監督の名作「けんかえれじい」とは無関係。昔、親友に譲った女性が不幸なのを見ていられず、その親友に喧嘩を売る男の話。
そのほか思いつくのは、女に出て行かれる「勝手にしゃがれ」(沢田研二)。クルマの中にその歌が流れていたという山口百恵の「プレイバックpart2」。クルマが接触して、女性ドライバーが「バカにしないでよ、そっちのせいよ」と大声を出すというのがユニーク。


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『バスの歌』 [noisy life]


♪ 夕陽の丘のふもとゆく
  バスの車掌の襟ぼくろ
  別れた人に生きうつし
  名残がつらい旅ごころ
(「夕陽の丘」詞・萩原四郎、曲・上原賢六、歌・石原裕次郎、浅丘ルリ子、昭和38年)

久しぶりにバスに乗りました。
大人210円。連れと二人で420円。500円玉と10円玉2枚を料金箱にいれたら、「20円先に入れなくちゃだめだよ」と“ワンマン”運転手に怒られてしまいました。
窓の外の風景を眺めながら、いいもんです。休日でもありけっこう混んでいました。
バスの中にも様々なnoiseがあります。エンジン音、冷房の音、停車を知らせるチャイム、停車場のアナウンス、子供の笑い声、お婆さん同士の世間話。驚いたのはアナウンスの長さ。停留所の名前だけでなく、その近辺の商店や医院などの宣伝。それもひとつの停留所で4~5カ所。後ろの方に座っていたのでエンジン音に負けて明瞭り聞こえませんでしたが。30分足らずで目的地へ到着。
バスが登場する歌もそこそこあります。

昭和30年には♪田舎のバスはオンボロ車 と子供までが歌った「田舎のバスで」(中村メイコ)。32年には「東京のバスガール」(コロムビア・ローズ)、33年にはラジオドラマの主題歌「バス通り裏」(中原美紗緒、ダーク・ダックス)
昭和40年代、50年代になると「夕陽の丘」をはじめ、「バス・ストップ」(平浩二)、「セクシー・バス・ストップ」(浅野ゆう子)、「岬めぐり」(ウイークエンド)、「バス通学」(榊原郁恵)、高校生の淡い恋の想い出を歌った「バス通り」(甲斐バンド)。それに森田童子の、なにもかもいやになったら「ぼくと観光バスに乗ってみませんか」なんていうのもありました。恋人との最終バスでの別離を歌ったのが「別れのバス」(みなみらんぼう)。彼女をバスで見送る切ない気持を歌った、まるでアニメのワンシーンのような「サヨナラバス」(ゆず)も同じテーマ。しかし「別れのバス」に比べて湿度がまるで低いのは、やはり時代の違いでしょうか。

洋楽はあまり知りませんが、すぐ思い浮かぶのがホリーズ「BUS STOP」。これは40年代前半にけっこう流行りました。あとはあまりポピュラーではありませんが、スキータ・デイヴィスが歌ったカントリーソングで「BUS FAR TO KENTUCKY」というのがあります。

バスガールや車掌が消えてワンマンバスになったのは昭和40年代にはいってから。紺のスーツに白いブラウスのぞかせ、頭に小さな帽子をちょこんとのせたバスガールさん。ベルトの前にガマ口を大きくしたようなバッグを提げていた。中には切符と釣り銭が入っていました。鼻にかかったような声で「次は、香取神社前、香取神社前、お降りの方、お早めにお知らせください」。「次ぎ降ります!」「ハイ、了解です」なんてね。


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【赤帽】 [obsolete]


『海堂は、そばを通りかかった赤帽を呼び止めると、いそいで身分証明書を見せた。
「あ……、いま呼んでいたのは―」
「ぼくのことさ……。すまないが、あの二人に注意してほしいんだが……」
「班長さんは?」
「相手が警戒していて、ぼくは近づくことができないんだ」
「だけど、あたしは、駅の外まで追っかけていくわけにはいきませんよ」
「大急ぎで、私服の公安官を頼んでくる。その間だけでいいんだ」
(「0番線」島田一男、昭和37年)

「赤帽」というと、いまや引っ越しや荷物の運送など物流を受け持つ小型トラックのことを思い浮かべる人が多いかも知れない。しかし、ここで言う赤帽はポーターのこと。かつて国鉄(現在のJR)の大きな駅には必ずいた、客の荷物を車内から待合室へやタクシー乗り場へ(その逆もあるが)運ぶ仕事、あるいは運搬する人のこと。目印のため赤い帽子をかぶっていたことから「赤帽」と呼ばれるようになった。
その嚆矢は、明治29年(1896年)というから相当古い。山陽線の主要駅に置かれたようで、当初は“荷運夫”といったそうだ。
近年、エレベーターの普及やキャスター付きの旅行カバンの定着で利用者が減少していった。平成12年には上野駅で、13年には東京駅でそれぞれ「赤帽」が廃止され。現在残っているのは岡山駅だけだそうだ。気になる料金だが、昭和30年代はいくらだったか不明だが(チップ制だった記憶もあるが)、現在は荷物1個につき500円だとか。

島田一男といえば、昭和33年から8年間NHKテレビで放映され、人気を博した「事件記者」のオリジナル・シナリオライターとして知られているが、小説家としてのデビューは昭和22年(雑誌『宝石』への投稿「殺人演出」が入選)と古い。
自らの新聞記者としての経験から「事件記者」のようないわゆる“ブン屋”ものを得意としたが、この「0番線」は鉄道公安官を主人公にしたもの。
「0番線」は、東京駅で“助けて、殺される”とメモされた寝台特急券が拾われるところからはじまる。その落とし主を探す鉄道公安官の海堂は、その先々で2つの殺人事件に遭遇する。そのいずれもが中国服を着た女性だった……。事件の背後には、白金やダイヤモンドなど軍隊の隠匿物資をめぐる欲望が渦巻いていた。
事件の舞台は金沢、富山、黒部、魚津といった北陸路で、鉄道ものだけあって、急行の“能登”“北陸”“立山”“黒部”といった列車がその経路とともに頻繁に出てくる。鉄道マニアにはそれだけでも懐かしい。


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【熱海】 [obsolete]

『内輪の―しかし、世間並みよりはるかに豪華な披露宴のあと、新郎新婦は新婚旅行に旅立つことになった。ゆくさきは熱海だった。
 汽車が入ってきて、武史がちょうど見送りにきた須田家の人々にあいさつしていたときである。改札口からあわててホームへかけこんできた者がある。……
「小早川さん、熱海におゆきになるんですってね」
武史はにがりきった。稲垣刑事は、口から泡をふきながらいった。
「ちょうど、よかった。奥さんらしいひとの屍体が伊豆であがったんです」』
(「鬼さんこちら」山田風太郎、昭和36年)

「熱海」がかつて九州の別府と並んで日本屈指の温泉地だったことを知る人も少なくなったのではないだろうか。「熱海」の知名度は、明治に書かれた尾崎紅葉の「金色夜叉」の舞台となったことでも、戦前から高かったが、戦後、首都圏から近いということもあり、新婚旅行や社員旅行のメッカとなった。それが高度経済成長を経た昭和40年代、50年代ともなると、海外旅行や飛行機を利用しての九州、北海道といった遠距離旅行が増え、「熱海」の利用客は急激に減っていく。それに伴い宿泊施設の倒産、閉鎖が相次ぎ、悪循環となって温泉町のイメージはますますダウンしていった。市の観光課や旅館組合は、「熱海」再生のためにさまざまなアイデアを試行しているが、苦しい実情は変わらないようだ。しばらく前から、温泉付きのリゾートマンションの建設で新しい「熱海」をめざしているということだ。

織物会社に勤める小早川武史には、共働きの妻・滋子がいた。その妻が、ある日会社の給料を持ったまま行方不明になる。誘拐なのか横領なのか、警察の捜査でも滋子の行方は杳としてわからなかった。それから1年余りのち、小早川は自分の勤める会社の重役の娘と結婚した。そして熱海へ新婚旅行へでかけた。東京駅でまさに列車に乗ろうとするかれの元へ刑事があらわれ、元妻らしき遺体を発見したので確認してほしいと言われる。しかたなく現地に赴くが、それは別人だった。その後、小早川夫婦は家を新築し、その祝宴中にまた刑事が現れ、心中死体の片割れが元妻らしいので検分してほしいと言われる。それも別人だった。その後も、彼の昇進祝いの最中に同じような理由で刑事があらわれ小早川はもう辟易していた。そして、妻の出産に立ち会った日、またまた刑事が現れた。おまけに子供は死産だった。滋子らしい死体があるので確認に来てほしいという刑事に対し小早川は、拒否する。そしてこう言うのだった。「……滋子じゃないにきまっています。滋子の死体は僕の家のベランダのある地面の下に埋まっています」
「甲賀忍法帖」や「くの一忍法帖」などで昭和30年代の忍者ブームを仕掛けた山田風太郎のデビューは現代物の推理小説だった。昭和22年雑誌「宝石」に入選した「達磨峠の事件」がそれだ。推理小説の世界では、香山滋、島田一男、高木彬光、大坪砂男とともに“戦後派五人衆”と呼ばれた。「鬼さんこちらは」まさに脂の乗り切ったころの短編推理小説。


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『原爆』 [noisy life]


♪ ふるさとの街焼かれ 身よりの骨うめし焼土に
  今は白い花咲く あゝ許すまじ原爆を
  三度許すまじ原爆を われらの街に
(「原爆を許すまじ」詞・浅井石二、曲・木下航二、昭和29年)

とうとう“暴れん坊将軍”がやってしまいました。
地下実験の爆音は耳には聞こえてこなかったけど、脳みそを四散させんばかりの勢いで頭蓋骨に衝撃が走りました。

“世界の問題児”が何を考えているのか計り知れませんが、願わくばアメリカが実力行使をしませんように。イラクのことを考えたらやりかねないもの。そんなことしたら、日本も尻尾を振って着いていくんじゃないのかな。三度目の朝鮮半島出兵なんて……。そうなると手負いの獅子は核爆弾のボタンを押しかねない。何処へ?。中国、ソ連は半同盟国。隣の韓国は同民族。ならば残る国はひとつ。タタタ、タスケテクレ……。

とにかく、くれぐれも話し合いで解決してくださいね。「それができれば苦労はない」なんて言わないで。ミサイルを落とすことが経済活動でもあるアメリカのいいなりにならず、頭をつかってくださいね。考えてくださいね。それが政治家の仕事なんですから。

「原爆」の歌や楽曲などそうはないだろうと思ったら意外にありました。「原爆犠牲者への追悼歌」とか「原爆小景」「原爆ドームの歌」「原爆で死んだ母と子」「原爆の子」「原爆悲歌」などたくさんあります。なかでも知られているのは上記の「原爆を許すまじ」。「原爆許すまじ」という歌もあるのでややこしい。

「原爆を許すまじ」は原水爆禁止運動のテーマソングのような歌で、運動が盛り上がった昭和30年代には労働組合や市民団体でよく歌われました。いまでも8月6日、9日には当然歌われています。当時ワルシャワで開かれた青年学生友好祭のコンクールで2位に入賞したそうで、作詞の浅井石二は生粋の労働者、作曲の木下航二は都立日比谷高校の先生と二人とも音楽のスペシャリストではありませんでした。木下航二は他に労働歌「しあわせの歌」の作者でもあります。レコードは松平晃の歌で吹き込まれたようですが、残念ながら未聴。

わたしが初めてこの歌を聴いたのはずっとあとで、ピート・シーガーのアルバムに入っていました。たどたどしい日本語だったので、
♪ふるさとの街灯り 身よりの骨埋めし赤土に……
と聞こえ、しばらくそう覚えていました。正確な詞がわかったのはさらに後のこと。風化させないために年に1度でも2度でもいいから歌い継いでいってもらいたいものです。

核実験はたしかに大変なnoiseですが、もうひとつのnoiseが耳からはなれません。
総理大臣も官房長官も、同じ調子で猛抗議。「断じて許さない」「断固制裁を」「全責任をとらす」とまあ、威勢がいい。日本ていつからそんな声高にものを言う国になってしまったのでしょうか。いわば相手が「○○に刃物」なのかもしれないけれど、国のトップのかくまで好戦的な言葉は聞いたことがありません。大日本帝国ならいざしらず。

「美しい日本」の実態が図らずも見えてきました。


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ROSE GARDEN [story]

I beg your pardon, I never promised you a rose garden,
Along with the sunshine, there's got to be a little rain some time,
When you take you got to give so live and let live or let go
oh oh oh ……
I beg your pardon, I never promised you a rose garden,
…………
([(I NEVER PROMISED YOU A) ROSE GARDEN] words & music : JOE SOUTH vocal : RYNN ANDERSON 1971)

『お代わりもらいましょうか』
「はい。同じもので?」
『そう、お願いします』
以前何度か来たことがあったな、この人。このところお見限りだったけど、身体でもわるくしてたのかな。歳は、そうねえオレの親父よりちょい上って感じだから、70、いや64、5ってとこかな。頭はすっかり薄くなっちゃてるけど、顔のつやがいい。いいもの食べてんだろうね。福々しい顔して、笑うと目が一直線になってまるで仏さんみたい。着てるものもこざっぱりしてるし、まあ、見た目中小企業の経営者ってとこかな。で、そろそろ息子に社長の椅子を譲ろうかなんて思ってる。そんな感じだよね。本当のところは知らないけど。えっ? 聞いてみればいいじゃんって? それはできないよ。お客さんのほうからそんな話題が出て、それとなく訊くんなら話は別だけど。「お客さん、何してる方ですか?」って、そりゃ言えない。こないだ来たときはたしか出身が福岡とか言ってた。そうそう思い出した。庭いじりが好きで、バラを育ててるって言ってた。なんだかずいぶんバラの種類をあげてたけど、馬の耳に粘土ってやつ? 植物関係まったく管轄外だもの。でもこのお客さんらしい品のある趣味だよ。

『バーテンさん、なんか気にかかることでもあるんじゃないですか?』
いきなり“社長さん”が笑顔のツッコミ。
「ええっ? 私、なにか不機嫌な顔でもしていましたか? それはどうもすいませんです」
オレはコーヒー濃いめのブラック・ラシアンを入れたロック・グラスを差し出しながらそう言った。
『いや、そうじゃないんですよ。こないだ来たときよりも口数が少ないようだしね。長生きしてると、いろんな人の顔色も見てきてますから、なんとなくそんな気がしましてね。……頭を掻いているところをみると、図星のようですね。彼女と喧嘩でもしたのかな。ハハハハ……』
すげえ。ビンゴ! 今朝、出がけにアイツとケンカしたことすっかり見抜かれてる。それも、奥さんじゃなくて彼女と言ったよ。独身も見抜かれてる。修業が足りないねオレも。まてよ、この人、もしかして占い師、いやそんな感じじゃないな。そうか弁護士とか、精神科医とか、学校の先生とか、まさか刑事……。とにかく人の顔色を見続けてきた人だよ、きっと。

「どうも、お恥ずかしいんですが、おっしゃる通りでして」
『ハハハハハハ……。誰でにもあることですよ。恥ずかしがることはない。どうせ、いま考えれば大した原因じゃないんでしょ?』
「そうなんです、いつものちっぽけなことでして……」
『しかし、どんな小さな火種でも、風の吹きようで街を焼き尽くすような大火になることもありますよ』
「まったくですね。いや、私も足りない頭でいろいろ考えてるところでして……、あ、いらっしゃい」
タイミングがいいというのか、わるいというのか常連の染香姐さんご入店。斜向かいのバー「マリアンヌ」のホステスさん。いつもの定位置を“社長さん”に占領されてるのでカウンターの端っこに。そんなに離れなくたっていいのに。いつものジントニックを出すときにチラッと顔をみたら、うつむき加減でなんかいつもと違う。スネてるのかな。

『まあ、男と女どちらかが折れなきゃ前へは進まない話ですからね。折れた方がより強く愛してるってことです。どちらも折れずにサヨナラになるのはお互いに愛情が薄くなったってこと。まあそれが潮時ってヤツで、あとで後悔したとしても、それもまた仕方ない話です』
「そうですねえ……。そろそろかなあ……」
『どっちにしても無理はいけません。また同じことを繰り返すから。なんて、年寄りの戯言はこの辺にして、そろそろお時間のようですね。はい、お勘定』
「あ、いつもありがとうございます。ただいまお釣りを」
『いいの、いいの。たいした額じゃないんだから』
「すいません、いつもいつも。また、どうぞ」
“社長”さん、中折れ帽を頭の上にのせると、後ろ向きで左手を挙げ、そのままドアを開けて出て行った。チップもらったから言うんじゃないけど、粋だねえ。

『マキちゃん、いまの人知ってるの?』
染香さんがグラスを持ったまま、カウンターの中央のいつもの席ににじり寄って来てそう言った。
「最近来なかったけど、以前2、3度来ましたかね。福相っていうんですか、いい顔してますよね。多分どこかの工場の経営者で、息子に会社をまかせて楽隠居。そんな感じじゃないですかね? そのわりには人を見る目があったりして。いまもね、お姐さんが来る前にいろいろコレのこと見透かされちゃって、ヘヘヘヘ……」
『あらやだ、マキちゃん知らないで話してたの?』
「…………」
『あの人××組の大幹部よ。ウチの店にもたまに来るけど。そうねえ、外であったらわからないかもねえ。舎弟がお供っていうのが嫌いらしくていつもひとり。隠すつもりはないんでしょうけど、ウチの店でもそんなことこれっぽっちも言わないし。でも、ああいう商売って隠せないものなのよねえ。そのスジの人にしてはちょっと変わり者らしいけど……』
「ほんとっすか? いやぁ、やっばいなあ、オレなんか変なこと言わなかったかなあ」
『だいじょうぶよ。ご機嫌で帰ってったじゃないの。チップまでくれて。アハハハハ、意外と気が小さいのね、マキちゃん』

冷や汗ドットコム。ダークスーツにサングラスで店に来てくれりゃいいものを。そんなベタなわけないか。そうだよなあ、オレだって、いまはこうして蝶ネクタイのYシャツにベストっていうバーテンスタイルだけど、私服で街を歩いてりゃ、誰だってバーテンだなんて思わない。どこかのIT企業の……それはないか。染香さんだって、化粧落として地味な服着てりゃ、ただのオバサン、ってこれは言い過ぎ。
とにかく人は見た目じゃないってこと。あの人とも、客とバーテンの関係だったから良かったけど、どこかの飲み屋で隣り合わせになって、酔った勢いで気安く「よお、オッサン」なんて軽い気持で肩叩いた拍子に「なにするんだ、テメエッ!」ブスッ、て一突きなんてね。あーコワっ。でも、今度来たとき、どう応対すりゃあいいんだろ……。そうねえ、植物図鑑でも買って、バラの研究でもしてみっか……。


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『風の音』 [noisy life]

Well, Once I met a pretty little girl and she was fair to see
I fell in love with that pretty little girl She fell in love with me
I kissed her on her dimpled chin While stars in heaven did play
But along came a-howlin' that old NORTH WIND and carried away

NORTH WIND NORTH WIND Bring my baby back again
North wind, where did she go? Nobody but you will ever know
…………
([NORTH WIND] words & music : ROD MORRIS vocal:TEXAS BILL STRENGS, 1953)

犬猫も空に飛ばされそうなすごい風が列島を吹き抜けていきました。街路樹の枝や電線が悲鳴をあげるほどの風も、関東では夕方になってどうやらおさまったようです。雨の次は図ったように「風」。

風の歌も雨にも負けず多い。それだけ詩的な自然の現象なのでしょう。
子供の頃よく歌ったのは、♪北風ぴーぷー の「たきび」、♪どっどど どどーど の「風の又三郎」、そして♪風を呼ぶんだ正義の風を の「風小僧」。大人になってからのヒット曲といえば、フォークなら♪人は誰もただひとり旅に出て の「風」(はしだのりひことシューベルツ)、演歌なら♪人を愛して 人はこころひらき の「すきま風」(杉良太郎)。どこか虚無的な「明日は明日の風が吹く」(石原裕次郎)もよかったな。

洋楽ならボブ・ディランのトピカルソング「風に吹かれて」BLOWIN' IN THE WIND。’70年前後が甦ってくる歌です。でも、最初に耳にしたのはディランではなく、P・P・Mやジョーン・バエズのヴァージョンでした。日本でもカルメン・マキをはじめ、RCサクセション、桑田バンドなどがカヴァーしています。
The answer, my friend, is brownin' the wind The answer is brownin' the wind
という歌詞がとても哲学的というか、思わせぶりというか、とにかく印象的な歌でした。

それと昭和30年代によく聴かれたのが「北風」。カントリー・ソングで、日本では小坂一也のカヴァー曲が32年にヒット。その後黒田美治、ジミー時田、寺本圭一などのカントリー・シンガーもレコードに吹き込んでいます。39年には北原謙二のバージョンも小ヒット。カントリーにはめずらしいマイナーチューンで、日本人には受け入れやすかったのかも。
♪えくぼの可愛い娘だったが 北風がつれていっちゃった 
なんて訳詞も歌謡曲にはぴったりでした。

雨がきて、風がくれば次は雲? それとも空? でもどちらも音がない……。


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『雨の音』 [noisy life]


Listen to the rhythm of the falling rain
Telling me just what a fool I've been
I wish that it would go and let me cry in vain
And let me be alone again
…………
Rain please tell me now does that seem fair
For her to steal my heart away when she don't care
I can't love another when my heart's somewhere faraway
…………
([RHYTHM OF THE RAIN] word & music:JOHN C. GUMMOE vocal:THE CASCADES 1962

よく降ります。風も強くて傘を差していてもずぶ濡れ。ならば「雨の音」。
雨の音といっても、雨そのものの音ではなく、雨が何かに当たる音。木の葉だったり屋根だったり、地面だったり水面だったり、傘だったりレインキャップだったり。クルマが濡れた路面を走る音も雨の日にはつきもの。日本はとにかく雨の多い国。それゆえ、雨の歌も多く、「○○の雨」あるいは「雨の○○」という曲がなんと多いことか。
タイトルに雨がつかない曲でも、「青い山脈」(藤山一郎・奈良光枝)「銀座カンカン娘」(高峰秀子)「踊子」(三浦洸一)「有楽町で逢いましょう」(フランク永井)「黄昏のビギン」(水原弘)江梨子「橋幸夫」「東京の灯よいつまでも」(新川二朗)「夢は夜ひらく」(園まり)「心もよう」(井上陽水)「モナリザの微笑」(タイガース)「愛の奇跡」(ヒデとロザンナ)「長い髪の少女」(ゴールデンカップス)「おふくろさん」(森進一)「結婚しようよ」(よしだたくろう)「くちなしの花」(渡哲也)「いちご白書をもう一度」(バンバン)「別れても好きな人」(ロス・インディオス&シルビア)「恋人よ」(五輪真弓)「恋人も濡れる街角」(中村雅俊)「矢切の渡し」(細川たかし)「川の流れのように」(美空ひばり)「浪漫飛行」(米米クラブ)「真夏の果実」(サザン・オールスターズ)TRUE LOVE(藤井フミヤ)「春よ、来い」(松任谷由実)「君だけを見ていた」(To Be Continued)「うわさのキッス」(TOKIO)と、歌詞に雨が出てくる歌は際限なく。

洋楽だって負けてない。カスケーズの「悲しき雨音」RHYTHM OF THE RAIN はじめ、C・C・R「雨を見たかい」HAVE YOU EVER SEEN THE RAIN? PPM「朝の雨」EARLY MORNIN' RAIN ジョーン・バエズ「雨を汚したのは誰」WHAT HAVE THEY DONE TO THE RAIN B・J・トーマス「雨にぬれても」RAINDROPS KEEP FALLIN' ON MY HEAD ボブ・ディラン「激しい雨」A HARD RAIN'S A-GONNA FALL ウイリー・ネルソン「雨の別離」BLUE EYES CRYING IN THE RAIN などなど。ジャズでも「降っても晴れても」COME RAIN OR COME SHINE 「九月の雨」SEPTEMBER IN THE RAIN 「あの雨の日が」HERE'S THAT RAINY DAY などがあります。その他、ミュージカルでは「雨に歩けば」「雨に唄えば」、シャンソンならティノ・ロッシの「小雨降る径」、カンツォーネはジリオラ・チンクエッティの「雨」、映画音楽でも「シェルブールの雨傘」、「雨の訪問者」ともうキリがない。雨よいい加減にしてくれ! というのはいまの心境。でも予報では明日は快晴だとか。

雨の歌は多すぎて、曲名をあげるだけになってしまいましたが、今の時期聴いてみたい曲を邦洋一曲ずつあげると、冷たい雨とは裏腹に気持が温かくなるような「黄昏のビギン」と雷雨のSEから印象的なイントロがはじまる「悲しき雨音」でしょうか。みなさんはどうですか?


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『落葉の音』 [noisy life]


♪ 雲が流れる公園の
  銀杏は手品師 老いたピエロ
  口上は云わないけれど 慣れた手つきで
  ラララ ラララ ラララ……
  カードを捲くよ
  秋が往くんだ冬が来る
  銀杏は手品師 老いたピエロ
(「公園の手品師」詞・宮川哲夫、曲・吉田正、歌・フランク永井、昭和33年)

もう10月。無謀にも半袖で出かけてしまいました。なんとか“同類”がいないかと探しましたが、雨のせいもあってみんな長袖。そりゃそうだ。しょうがない。
いつも駅に行くまでに公園を二つ横切っていきます。いよいよ落葉が盛りに。サクサクサク。黄色や茶色の落葉を踏みしめる音を聞くと、あらためてやっぱり秋なんだ……と思います。

「落葉」や「枯葉」の歌というと、どこかもの悲しいイメージがあって演歌の“お得意さん”のような気がしますが、あまり聞きません。雨や雪は演歌に欠かせない“小道具”ですが、枯葉や落葉はどうも相性がよくないようです。歌詞の中にはあるのかもしれませんが、ポップス系のほうが多い気がします。

GSならタイガースの「落葉の物語」やヴィレッジシンガーズの「落葉とくちづけ」。フォークでは「風と落葉と旅人と」(チューインガム)、「落葉の季節」(ザ・リガニーズ)、「枯葉のシーズン」(イルカ)、「風」(シューベルツ)、「冬が来るまえに」(紙風船)。ポップスでは「落葉が雪に」(布施明)「終着駅」(奥村チヨ)「学生街の喫茶店」(ガロ)、「恋人よ」(五輪真弓)、「ルビーの指輪」(寺尾聡)、「想い出の九十九里浜」(Mike)、「枯葉のうわさ」(弘田三枝子)などなど。

洋楽では、かの有名な「枯葉」AUTUMN LEAVES でしょう(実は他に知らないのです)。「枯葉」は、それこそ本家本元のシャンソンから始まって、ポップス、カントリー、ジャズ、イージーリスニングと様々にアレンジされて歌い、演奏されています。
イヴ・モンタンやジュリエット・グレコのシャンソンもいいですが、やっぱりジャズ。この曲を“ジャズ化”したマイルス・デイビスもいいですが、ウィントン・ケリー、ビル・エヴァンス、レイ・ブライアントのピアノが泣かせてくれます。フランク・シナトラ、パティ・ペイジ、サラ・ヴォーンのヴォーカルも、これまたジンと来る小島の秋です。

冒頭に紹介した「公園の手品師」は、昭和30年代の歌謡曲ですが、詞もしゃれていますし、メロディーもメジャーチューンで湿っぽくなく、どことなくシャンソンの香りがしてなかなか聞かせてくれます。宮川哲夫は「霧氷」でレコード大賞を獲っている作詞家。他では「街のサンドイッチマン」「湖愁」「東京ドドンパ娘」「美しい十代」など。


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【ピクニック】 [obsolete]


『町の背に聳える山がある。その山へのピクニックに、多摩代を誘った。多摩代は無邪気に承知する。時間を定めて、町はずれで待ち合わせた。久しぶりのあいびきであった。多摩代は白い帽子をかぶって、ぼくを待っていた。にこにこと、いかにもうれしそうであった。
「母をうまくだましてきたの。きょうはゆっくりできるわ」
弁当や水筒やくだものや菓子も、もってきていた。ぼくはその荷物を持った。』
(「恋と少年」富島健夫、昭和38年)

「ピクニック」picnic 直訳では〈野外遠足〉〈野山へ行って遊ぶこと〉となる。つまりただの遠足ではなくて、“野山”であることがピクニックなのだ。正直「ピクニック」が廃語かどうか自信がない。ただ、昭和30年代と比較すると耳にしなくなったことは確かだ。
明治・大正はいざしらず、昭和の初期にはすでに「ピクニック」という言葉はあった。“野遊”などとなかなかいい言葉で訳されていた。当時、はたして欧米のように弁当を持ってどのぐらいの人たちが“野遊”していたのだろうか。
いずれにしろ、戦後になると男女の学生グループ、職場の仲間、恋人たちが大っぴらにピクニックをはじめる。とはいえ“引用”のふたりだけの「ピクニック」は昭和24年頃の話で、町はずれで待ち合わせたとか、母をだましてとか、まだ人目を忍んでという雰囲気がある。小津安二郎の「早春」(昭和31年)では、男女数人の仲間でピクニックに行くシーンがある。同じ年にはピクニックの夜のラヴアフェアーを描いたアメリカ映画「ピクニック」(主演・ウィリアム・ホールデン、キム・ノヴァック)も公開されている。
いまでも、春や秋に仲間で弁当を持って景色のいい野山へ出かけるということはあるだろうが、あまり若い人はやりそうもない。やるとしてもピクニックとは言わないのでは。ハイキングとも言わないか。トレッキングとか山歩きとでも言うのだろうか。とにかく現代ではメジャーなアウトドアでないことはたしか。いまどき「ピクニック」というのは、せいぜい幼稚園の遠足ぐらいかもしれない。それも言わないか。

「恋と少年」は終戦直後の昭和21~25年あたりの話で、当時の高校生の考え方や生活ぶりが随所に描かれている。パソコンもなければ、ケータイもない。CDデッキやi-podはもちろん、テレビやマンガ雑誌すらなかった頃。青春真っ只中の高校生諸君はなにをしていたのか。小説の中からその生態を探ってみると。
まず今も昔もといえるのが「読書」。出てくる作家は西田幾多郎からはじまって、芥川龍之介、北原白秋、森鴎外、太宰治、宇野浩二。外国人ではジャン・コクトー、ロマン・ローラン、ドストエフスキー、ハイネ、サルトル、カミュなど。
主人公の良平が所属する文芸部の部室では「将棋」をさす奴らがいた。また、生徒会の前身のような親睦会ができ、そこが「レコード・コンサート」や「親睦ピクニック」を催す。どんなレコードを聴いていたのか。おそらく流行歌ではなくクラシックだったのだろう。「親睦ピクニック」はいわば現代の合コンのようなものだが、似たものとして「おしるこパーティー」なるものもあった。そのほか、ちょっとさばけた奴はマージャンをしたり映画館へも通っていただろうし、酒、煙草はもちろん売春宿へ通う猛者もいたはずだ。
いずれにしても当時の高校生は、読書は別として、ひとりで何かをして愉しむというよりは、仲間と接しながら、あるいはいろいろな人間を見ながら、悩み考えていたようである。


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【桃色遊戯】 [obsolete]

『……どうせ娘を誘惑して桃色遊戯をしようとしている不良中学生である。娘の父母に面会にやって来るはずがないではないか。めんどうくさくなってちがう相手をさがすにきまっている。しかも世間には、そんな中学生と奔放に遊んでいる女学生は多い。……』
(「恋と少年」富島健夫、昭和38年)

「桃色遊戯」は「若い男女のふまじめな恋愛(性愛)」という意味で、英語ではピンクプレイではなく、セックスプレイだそうだ。ということは桃色がセックスになる。そんなイメージをつけられた“桃色”も気の毒だが、そのせいもあってか“モモイロ”という言葉もあまり使われず、だいたいは“ピンク”で通っている。以前「桃色吐息」というヒット曲もあった。いつ頃から使われはじめたかは不明だが、たしかに昭和30年代には「桃色遊戯」とう言葉がときどき新聞に載っていた。おそらく戦前からあった言葉だろう。
そのうちあまり見かけなくなり、「不純異性交遊」なんていう誰が考えたのかスバラシイ言葉に変わった。その「不純異性交遊」も最近、見聞きしない。なにが“不純”なのかという問いかけに対して社会が解答できなくなったということなのかもしれない。“フリーセックス”が言われるようになった70年代前後から若者の性に対する考え方が大きく変わっていった。

「恋と少年」は富島健夫の“半自伝的”作品。
終戦直後、学制が変わり旧制中学から新制高校へ移行した少年と、それを取り巻く友人たちの学園ストーリー。
主人公の杉良吉は中学校へ編入してきたが、すぐに学制改革で旧制中学5年が新制高校の2年になる。彼の心の中にはいつもひとりの少女が生きていた。それは空想の、理想の少女だった。彼の青春時代はまさにその少女を探す旅でもあった。
旧制中学というと、バンカラつまり男同士の奇態な学生生活が思い浮かぶが、そこへ男女共学が実施されて、良吉の高校へも女学校から女学生たちがどっと入ってくる。男どもがハイテンションにならないわけはない(女どもだって同じだったが)。
良吉は学園でいろいろな友だち、ガールフレンドと知り合い、影響されながら成長していく。中学1年の時に母が死に、継母と妹も事故で亡くなり、唯一の肉親である父親は脳溢血で寝たきりになる。貧しさの中一度は大学進学を諦めるが、父の死後、意を決して東京へと出る。そこでアルバイトをしながら早稲田大学の文学部へ入り、知り合った友人たちと同人誌を刊行するところで物語は終わる。
とにかく、学制改革による男女共学になったことでの少年少女たちの狂騒ぶりがおもしろい。“新しい時代”への幕開けともいうべき時代、新しさと旧さの混在した青春が妙になつかしい。
富島健夫は昭和6年朝鮮生まれ。早稲田大学仏文科卒。在学中同人雑誌に書いた「喪家の狗」が新潮にとりあげられ芥川賞の候補になる。昭和30年代にはジュニア小説、40年代以降は官能小説を多作する。「おさな妻」ほか映画化された作品も多い。代表作は自伝的長編「青春の野望」。平成10年逝去。67歳。


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『カラス』 [noisy life]


街の酒場で 酔いしれた女に
声をかけてはいけない
どんなにあんたが 淋しいときでも
昔あんたが 恋した人に似ていても
声をかけてはいけない
(「翔ばないカラス」詞・真崎守、曲・浅川マキ、歌・浅川マキ、昭和48年)

今日はカラスの鳴き声がうるさかった。昼間ならまだしも、夜中に狂ったように数羽でクァークァーやることがあります。あれと暴走族の爆音はは安眠妨害、堪りません。そういえば、数日前通りの真ん中に原形をとどめないカラスの屍体が。堅い木の実をクルマに潰させようとして舞い降りたところをグシャ。都会慣れしすぎたカラスの悲劇かも知れません。ひとごとではありません。むかしに比べると人間とカラスの距離が近くなりすぎてるのでしょうかね。数メートル前でゴミを漁っていたり、目の前を飛翔するなんてことは以前はなかったもの。ヒッチコックの「鳥」ではあるまいし。
カラスと黒猫は凶兆の二大動物。それに敢然と立ち向かう“クロネコヤマト”はエライとも思わないが、とにかく気の毒な動物二種類。

そんなわけでシンパシーをこめてカラスの歌。
邦楽のカラスの歌は多い。タイトルに“カラス”がつく歌だけでも600曲以上あるそうです。すぐ思いつくのが「七つの子」や「からすの赤ちゃん」など童謡。今の若い人は知らないかも。8年前に流行ったのが堀内孝雄と中澤裕子の「カラスの女房」。そのほか小林旭の「からす」、八代亜紀の「カラス」もある。演歌に多いのかというとそうでもない。ロッケンローラーやフォークシンガー(いますか?)も好きな鳥のようです。
「カラス」はNOKKO、ANARCHY、長渕剛、山崎ハコ、新井英一、三上寛、大塚博堂、さらには加山雄三まで歌っている。モテモテです。なんでこんなに嫌われ者のカラスがもてるのか。嫌われ者だからもてるのかもしれません。
その他タイトルには出てこないが、歌詞に出てくるものもある。たとえば、
♪カラスの野郎どいていな トンビの間抜けめ気をつけろ 
という「ダイナマイトが150トン」(小林旭)。これはいいです。カラスに感情移入してないところが。
洋楽のカラスの歌はあまり聞きません。ERIC ANDERSENに [WILD CROW BLUES]というのがありました。ジャズのスタンダードでHELEN MERRILLやSARAH VAUGHANら多くのシンガーが歌っている[BYE BYE BLACKBIRD]というのがありますが、このBLACKBIRDはカラスではないのでしょうか。カラス以外で黒い鳥というと……。


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【バート・ランカスター】 [obsolete]

『……麻子は映画を見終わると、劇場の前で西田晴夫と別れてきたのだ。
 「とても素敵だったわ」
 と麻子は泉に〈OK牧場の決闘〉の物語りをおしえていた。たしかに映画は面白いものではあった。しかし、横に並んでいる西田晴夫が気になって、バート・ランカスターとカーク・ダグラスの粋な拳銃さばきも、麻子は愉しんで見ることができなかった……』
「輪唱」(原田康子、昭和33年)

アメリカの映画俳優。デビューは33歳と遅かったが印象的な映画に多く出演し、1960年には「エルマ・ガントリー」でアカデミー主演男優賞を受賞。“引用”の「OK牧場の決闘」では主演のワイアット・アープを演じた。ちなみにカーク・ダグラスは相棒のドク・ホリディ。その他「地上より永遠に」「5月の7日間」「終身犯」「泳ぐ人」「山猫」「家族の肖像」など多くの名作に主演している。なかでも悪役になった「ヴェラクルス」でのゲーリー・クーパーとの決闘シーンは、あの死に方とともに印象に残る。そして脇役だったが「フィールド・オブ・ドリームス」でも、少年の頃、野球選手に憧れていたドクター、ムーンライト・グレアムを演じ、幻の中でメジャーリーガーと一緒に野球をして夢を叶えるという重要なエピソードで観客に強い印象を残した。1994年、81歳で亡くなる。

釧路で土建業を営む内藤壮一郎には3人の娘がいる。亡くなった母親の代わりに家事をしながら絵を描いている長女の泉、通信社に勤める次女・麻子、大学浪人中の三女・通子だ。内気な長女、行動的な麻子、明晰な通子と、性格もそれぞれ異なる。それもそのはず、実は、三姉妹の母親はそれぞれ違うのである。そして彼女たちはそのことを知らない。また3人にはそれぞれ恋人やボーイフレンドがいる。ストーリーは3人の恋の行方と姉妹愛が絡み合いながら展開していく。
たとえば、長女・泉の恋人・塩沢医師の亡くなった妻は、内藤壮一郎の昔の恋人で、麻子の母だった。また、通子はボーイフレンドがいながら、麻子の恋人の新聞記者に思いを寄せ、内緒で口づけまでしてしまう。こうして出生の秘密を抱えながら三姉妹の恋愛ゲームが進行していくのである。
読者はその秘密がいつどうやって暴露されるのかと、サスペンス並みにハラハラする。母親が異なる三姉妹という設定はおもしろい。ただ、長女の恋人の元妻が次女の母親という関係はいささか荒唐無稽。しかし、その秘密を次女と微妙な関係にある三女が知るという話の流れからいけば、そういう設定もありなのかなとは思う。
「輪唱」は昭和33年、『週刊女性』に半年間連載された。ベストセラー「挽歌」に続く原田康子の長編。


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【遠藤幸吉】 [obsolete]

『重岡は黙って、直子をプロ・レスのテレビへ出してやったあと、兄の部屋から、修繕の出来た扇風機を借りてきたりして、竜子を待った。竜子の来たのは。八時半すぎだった。
「今、途中でチラッと見たら、遠藤幸吉がオートンをフォールしたらしいわ……暑い、暑い。こう暑くっちゃ、東京でも、ショート・パンツで歩かなくっちゃ」』
「白い魔魚」(舟橋聖一、昭和31年)

「遠藤幸吉」、この名前を知る人はオールド・プロレス・ファン。
戦後はじめてプロレスの試合が行われたのは昭和26年10月。アメリカから本場のレスラーを招いての興行だったが、そのとき日本から出場したのが力道山と「遠藤幸吉」。いってみれば、プロレスの草分け的存在。
もともとは柔道家で昭和28年、力道山の日本プロレス協会設立に参加。街頭テレビから火がついたプロレス・フィーバーに一役買った。引用の「プロ・レスのテレビへ出してやって……」というのは、重岡の妹の直子が近所の家でプロレスのテレビが見たいと言ったので、送り出してやったという意味。それほど一般家庭にテレビは普及していなかったということ。
昭和31年には力道山・遠藤組がシャープ兄弟を破り、NWAタッグ選手権を獲得した。
引用にある「遠藤幸吉がオートンをフォール……」というのはアメリカからの来日レスラー、ボブ・オートンのこと。作者はよほどプロレスが好きとみえて、他にもインド系レスラー、ダラ・シンが出てきたり、エルボー・スマッシュ、ココナッツ・スマッシュなどのプロレスワザも出てくる。
「遠藤幸吉」は力道山のカゲの名脇役で、ワザをかけられると「イテテ……」と大声で叫ぶので“イテテの遠藤”などと言われた。

「白い魔魚」は岐阜から東京へ出て来た女子大生・竜子の自由奔放な生活を描いた風俗小説で昭和31年、朝日新聞に連載された。昭和31年松竹で映画化(監督・中村登、脚色・松山善三、主演・有馬稲子)。
舟橋聖一は明治37年東京生まれ。ともにNHKの大河ドラマ化された「花の生涯」や「新・忠臣蔵」(元禄繚乱)などの時代物のほか、「雪夫人絵図」や「芸者小夏」など現代風俗物も得意とした。「白い魔魚」は作者51歳のときの作品。当時の“現代風俗”の描写や、流行り言葉が〈若者に媚びている〉と感じられるほどよく使われている。
作者はプロレス以外でも競馬好きだったのは有名で、馬主にそしてのちには中央競馬会の理事になったほど。また相撲にも造詣が深く横綱審議委員長までつとめた。


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『秋の歌④』 [noisy life]


アカシア並木の 黄昏は
淡い灯がつく 喫茶店
いつも貴方と 逢った日の
小さな赤い 椅子二つ
モカの香りが にじんでた
「喫茶店の片隅で」(詞・矢野亮、曲・中野忠晴、歌・松島詩子、昭和30年)

とくに歌詞のなかで秋とはうたっていませんが、落葉の季節をイメージしてしまう歌。作られたのは昭和30年ですが、もっと古い戦前の雰囲気を漂わせています。
喫茶店が出てくる歌もそこそこあります。50代前後の人なら「学生街の喫茶店」(GARO、昭和47年)とか「コーヒーショップで」(あべ静江、昭和48年)。40代なら「私鉄沿線」(野口五郎、昭和50年)、「ハロー・グッバイ」(柏原芳恵、昭和58年)。戦前に青春を過ごした大先輩ならコンチネンタル・タンゴの「小さな喫茶店」(中野忠晴、昭和10年)や「一杯のコーヒーから」(霧島昇、ミス・コロムビア、昭和14年)などでしょうか。
最近の流行歌ではどうなのかな。街ではスターバックスやタリーズ、ベローチェなどの格安喫茶店が全盛(わたしも時々使います)。あるいはインターネットカフェとかマンガ喫茶とか、個人仕様の喫茶店が大増殖。昔ながらの店はすっかり少なくなった感があります。しかし、こういう時代に合った“喫茶店”の歌が作られてもいいと思いますが。ドラマにならないか……。
振り返ってみると、われわれはいろいろの喫茶店で様々な人と会ってきました。恋心を打ちあけたり、別れ話を切り出されたり、馬鹿話で盛り上がったり、口論になったり、気まずい沈黙があったり。仕事の打ち合わせだったり、旧友との何年かぶりの再会だったり、待ちぼうけを食わされたり……。毎日のように通った店、珈琲の味が忘れられない店、可愛いウエイトレスがいた店、ジャズ喫茶、名曲喫茶……。ほんとに喫茶店にはいろいろなドラマがありました。40代以上ならほとんどの人が、思い出の喫茶店のひとつやふたつは持っているのではないでしょうか。
そういえば昔よく通った喫茶店があります。いまでも店は残っていて、その町へ行くと立ち寄ります。父親が亡くなる1年ほど前、その喫茶店へ連れて行ったことがありました。とにかく父親に褒められた記憶がないほど出来のわるい息子だったのですが、その時、80歳を過ぎた父親が珈琲を啜りながらほんとに嬉しそうな顔をして「ああ、美味しい」とひと言。つまらないことですが、父親を喜ばせた唯一の親孝行。そんなことはどうでも。
松島詩子は明治38年生まれ。山口県出身で歌手になる前の職業が女学校の音楽教師。昭和11年に「マロニエの木陰」がヒット。タンゴのリズムで女学生の愛唱歌になったとか。戦中、戦後と不遇だったが、昭和30年に「喫茶店の片隅で」が小ヒット。ほかに「夜のささやき」「スペインの恋歌」「私のアルベール」など古賀メロディー全盛の時代にあって洋楽風の歌を多く歌った。平成8年逝去。91歳。


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『秋の歌③』 [noisy life]


Je ne sais pourquoi j'allais danser
A Saint-Jean au musette
Mais quand un gars m'a pris un baiser
J'ai frisonné, j'étais chippée
Comment ne pas perdre la tête
Serrée par des bras audacieux
Car l'on croit toujours
Aux doux mots d'amour
Quand ils sont dits avecles yeux.
Moi qui l'aimais tant
Je le trouvais le plus beau de Saint-Jean
Je restais grisée
Sans volonté Sous ses baisers.
([MON AMANT DE SAINT-JEAN] word:LÉON AGEL music:EMILE CARRARA sing:LUCIENNE DELYLE)

なぜ、サンジャン祭のミュゼットに踊りに行ったのか私は覚えていない でも、たった一度の接吻だけで私の心は恋の虜になっていた 強引に両腕に抱きしめられて平静でいられるわけはない 人はいつも甘い 愛の言葉を信じてしまうのだから 目で語り掛けられればなおのこと あの人を好きになった私 私には彼がサンジャン祭の一番の美男子 酔い痴れたまま理性も失い 彼の口づけに身を任す
(「サン・ジャンの私の恋人」訳:永瀧達治)

夏と言えばハワイアン、秋といえばシャンソン……かな。
なんでシャンソンは秋なのか。春の歌だって夏の歌だってあるでしょうに。やっぱり「枯葉」LES FEUILLES MORTESのイメージが強いのかもしれません。ヒットする流行歌やポップスの条件は歌詞がチープであること。しかしシャンソンは、少なくとも日本の流行歌に比べると、歌詞がすこしディープ。これは国民性かもしれません。

本場フランスでのシャンソンのはじまりは11世紀。フランス革命の頃にはすでにシャンソンが歌われていたことになるのだからスゴイ。
日本でも戦前から淡谷のり子らが歌っていましたが、広まったのは戦後。ブームとなったのは昭和32年、イヴェット・ジローの来日公演からだといわれています。しかし、それ以前の昭和29年頃からダミアやジョセフィン・ベーカーが来日し、コンサートを行っています。つまり、ブームをつくる前段階があったということ。
丸山(美輪)明宏が「メケメケ」で注目されたのもこの年。その他、ブームの渦中にあった日本のシャンソン歌手には、石井好子、高英男、中原美紗緒、芦野宏、ビショップ・節子、岸洋子らがいました。そして、その日本のシャンソン歌手たちがよく聴き、憧れた本場の歌手がリュシエンヌ・ドリールLUCIENNE DELYLE。
ドリールは「ルナ・ロッサ」「ドミノ」「古きパリの岸辺で」「私のジゴロ」など恋のせつなさをうったえる歌をよく歌いました。戦後、フランスでも日本でも人気になりましたが、1962年42歳で白血病で亡くなります。エディット・ピアフやジュリエット・グレコ、ジローらと同様低音が魅力の歌手でした。この「サン・ジャンの私の恋人」、日本では石井好子、美輪明宏、金子由香利、中原美紗緒などで聴くことができます。
キーを叩いているうちに俄然聴きたくなりました。秋の夜長、明日は休日です。ならば久しぶりにダミア、ピアフ、トレネ、ロッシ、ジロー、グレコ、モンタン、ベコー、アズナブール、バルバラ、アダモなんかを聴いてみましょうか。


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『秋の歌②』 [noisy life]

夕空晴れて秋風吹き
月影落ちて鈴虫鳴く
思えば遠し故郷の空
あゝわが父母 いかにおわす
(「故郷の空」 詞・大和田建樹 曲・スコットランド民謡)

秋の歌といえば、次から次と思い浮かぶのが子供の頃に覚えた童謡・唱歌。「赤とんぼ」「紅葉」「村祭り」「野菊」「里の秋」などなど。商売上? 季節のない歌が多い流行歌と違って童謡・唱歌には四季折々の歌があります。スコットランド民謡の「故郷の空」もそんな一曲。
小学生時代、わたしの家の周りも学校の周りも田んぼや畑だらけでした。朝の登校中はそんな余裕はありませんでしたが、下校時、とりわけひとりのときは、“あかまんま”や“じゅずだま”を引き抜いては手で弄びながら、好きなこの「故郷の空」を歌いながら畦道を通ったものです。刈られて丸坊主になった田んぼを囲うように畦には稲架(はさ)が連なり、独特の臭いをただよわせていました。ごくふつうに白鷺が飛び、ごく日常的に青大将やヤマカガシが出没し、驚くほどの赤蜻蛉の大群が空を覆ったこともあった。そんなのどかな田園風景が宅地に変わり、やがて大小の住宅が建ち並ぶのはアッという間でした。

「故郷の空」古い唱歌です。“唱歌”として採用されたのが明治21年。明治の小学生が授業でこの歌を習い、感激して放課後もみんなで歌い続けたという話をどこかで読んだことがありました。
叙情的な歌ですが、昭和50年代に♪誰かさんと誰かさんが麦畑 とドリフターズ(日本の)がコミックソング風に歌ってイメージが損なわれたと思う人もいるかも知れませんが、実はこのドリフ版のほうが原詞に忠実なのです。原曲はスコットランド民謡[COMIN' THRO' THE RYE]で、18世紀、詩人のバーンズによって「ライ麦畑でキスしたら少女は泣くでしょうか……」という詞がつけられました。それを大和田建樹が、まったく別の抒情詩に変えてしまったわけです。
日本でも原詞に忠実な「麦畑」「誰かさんと誰かさん」という曲名でレコード化されたものもあります。♪誰かが誰かと麦畑(むぎばた)で こっそりキッスしたいいじゃないの という具合です。曲調も、「故郷の空」の爽やかな感じではなく、オリジナルに忠実にもっと楽しく弾むような感じです。
悪く言えば原詞を無視して創作してしまった大和田建樹ですが、いまとなっては“素晴らしき改竄”といえないこともありません。なお、大和田建樹はかの新橋から神戸まで60番あるという「鉄道唱歌」の作詞者でもあります。


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『秋の歌①』 [noisy life]


いつもいつも思ってた サルビアの花を
あなたの部屋の中に 投げ入れたくて
そして 君のベッドに 
サルビアの 赤い花 敷きつめて
僕はきみを 死ぬまで 抱きしめていようと
なのに なのに どうして
ほかの人のところへ
僕の愛のほうが 素敵なのに

泣きながらきみの後を 追いかけて
花吹雪 舞う道を 
ころげながら ころげながら
走り続けたのさ
「サルビアの花」(詞・相沢靖子、曲・早川義夫、歌・もとまろ、昭和47年)

街を歩いているとどこからか金木犀の香り。二、三日前あたりから聞こえていたのは虫の声。若い頃は行きかかっている夏を惜しむ気持でいっぱいでしたが、歳を重ねるとともに安堵感の割合が大きくなってきて……。その入り交じった感じがなかなかいいもんです。
で、冬が来ないうちに秋の歌を。まずは邦楽。
秋の歌もいろいろあります。「誰もいない海」(大木康子ほか)、「秋桜」(山口百恵)、「風」(はしだのりひことシューベルツ)、「りんごの花咲く頃」(伊東きよ子)、さざんかの宿(大川栄策)、「公園の手品師」(フランク永井)、「鈴懸の径」(灰田勝彦)などなど。
でも、いちばん秋の気分にさせてくれるのは「サルビアの花」。はじめて聴いたときオリジナリティ溢れた曲もよかったし、詞も新鮮でした。

この歌は名曲だけあっていろいろな歌手が歌っています。やはり聴きなれたせいもあってオリジナル? の「もとまろ盤」はいちばん。競作した「岩淵リリ盤」は、声や歌う雰囲気がやや女っぽすぎて……。本田路津子ヴァージョンはさすが歌が上手なので聴き入ってしまいます。ありがちですが、イントロに教会の雰囲気でパイプオルガンを使っています。変わったところでは、「山本リンダ盤」。「どうにも止まらない」のパンチのきいたヴォーカルもいいけれど、この歌では終始おさえたbaby voice で困っちゃうなって感じです。今の歌手だったら宇多田ヒカルで聴いてみたい。
もともとこの歌は、「もとまろ盤」が出る2年前に、作曲者でもあるジャックスの早川義夫のソロアルバム「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」に入っていたもので、早川義夫がピアノソロの伴奏で歌うバージョンもなかなか聴かせます。男性ヴォーカルでいえば井上陽水も「UNITED COVER」の中でやはりパイプオルガンをバックに歌っています。その他、では「冬のサナトリウム」が後半になって「サルビアの花」に変わるというあがた森魚のライブ盤も。男性ヴォーカルの中では雰囲気いちばん。
「サルビアの花」は詞からもわかるように、少年の失恋ソングなのですが、なぜか自分のことを「僕」というボーイッシュな少女の失恋ソングに聞こえるのは、歌っているのが女性デュオだという理由だけではなく、相沢靖子という作詞家の感性によるものでしょうか。相沢靖子は「マリアンヌ」ほか、ジャックスの曲に詞を提供しています。
なお“もとまろ”はレコードデビューしたにもかかわらず(20万枚売れたそうだ)、プロにはならなかったというめずらしいシンガーズ。
ところでサルビアの語源は、ラテン語で「治療」だとか。ということはあがた森魚のサナトリウムからサルビアというのは、意図的な構成だったのかも。


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【八月十五夜の茶屋】 [obsolete]

『中根は島内登美子と仲がよいが、それは二人とも演劇部に属していてつい最近も「八月十五夜の茶屋」の芸者と通訳の琉球人をつとめることになっているためである。
「どうした、トミー、琉球踊りのお稽古は少しは手に入った? 私一人缶詰で可哀そうだと思わない?」』
(「離情」円地文子、昭和35年)

元々はブロードウェイのヒットミュージカルで1956年MGMによって映画化され、日本でも翌年公開された。主演はグレン・フォード、助演はマーロン・ブランド、日本側から京マチ子、清川虹子、根上淳他が出演。
ストーリーは終戦直後の沖縄。占領軍の大尉(フォード)はある村へ調査と再建を目的に派遣される。それに同行するのがブランド扮する通訳。いちおう設定では現地人ということらしく、メーキャップで日本人になりきっているつもりらしいが、どこからみても怪人以外の何ものでもない。その村で大尉は世話役の芸者(京マチ子)に惚れられたり、泡盛の製造に力を入れたり奮闘する。最後には軍から学校建設用にと送られた建築材で茶屋を作ってしまう。それが八月十五夜。軍の上官はカンカンに怒り、茶屋の取り壊しを命じる。しかし、その直後、本国で大尉の方策が評価され、茶屋は存続されることになって一件落着。
当時、撮影隊が日本を訪れたとき、かのマーロン・ブランドは清川虹子にゾッコン。ずいぶん追い回したという話が残っている。でも、京マチ子ではなくなぜ喜劇俳優の清川虹子? と日本人なら疑問がわく。京マチ子は「羅生門」で国際的な認知度も高かったと思うのだが。ただ、若い頃の清川虹子は、見ようによってはエヴァ・ガードナーに見えないこともない。

日本の短大を出てアメリカへ留学した茉莉子は、大学院を経て今年の秋にも日本へ帰ってくるはずだった。その前に日本の美術評論家・守屋のアメリカ視察の通訳をすることになった。守屋は茉莉子の母の昔の交際相手だった。
学業にアルバイトに、そして友だちとの交流にと精一杯の大学生活を楽しむ茉莉子だったが、その友だちのひとりで白人のスカーレンからプロポーズされる。もうひとりの友だちで黒人のベスも、茉莉子に好意以上のものを感じていた。そのスカーレンには守屋夫妻との視察旅行が終わるまでに結論を出すと答えて出かけていく。その間、茉莉子をめぐりスカーレンがベスを殴打するという事件などがあり、いろいろと悩み抜くが、結局は日本の知り合いで大学助教授の曽根の強いプロポーズを受け入れてしまう。そんな茉莉子に不幸が見舞う。甲状腺ガンがみつかったのだ。帰国してすぐに手術、その後は回復するかどうかもわからない闘病生活が待っている。それでも曽根の決心は変わらなかった。
茉莉子と曽根が帰国する飛行場にスカーレンが見送りに来る。そして飛び立つ間際にはベスも駆けつける。和解した白人と黒人は日本の2人を見送るのだった。
円地文子は明治38年東京生まれ。戦前から作家活動を始めるが、注目されたのは戦後。とりわけ昭和30年代に傑作を多く世に出した。代表作は「女坂」「ひもじい月日」「なまみこ物語」「女の秘密」(エッセイ)、「源氏物語」(現代訳)など。自身にアメリカ留学の経験はないが、昭和33年の3カ月にわたるアメリカ旅行がベースになっているといわれている。


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Sea of Heartbreak [story]

♪ いつか来た丘 母さんと
  一緒にながめた あの島よ
  今日も一人で 見ていると
  やさしい母さん 思われる
「みかんの花咲く丘」(詞・加藤省吾、曲・海沼実、歌・川田正子、昭和21年)

終戦から日本復興へ向けてのシンボルソングといえば、昭和20年10月に封切られた映画「そよかぜ」の主題歌「リンゴの歌」(歌・霧島昇、並木路子)だが、この童謡「みかんの花咲く丘」も敗戦国民の心の支えとなった歌のひとつだ。
ラジオからこの「みかんの花咲く丘」が初めて流れたのは昭和21年の8月、川田正子の歌でだった。翌年に大ヒットしたラジオ「鐘の鳴る丘」の主題歌「とんがり帽子」(これも川田正子)とは異なり、「みかんの花咲く丘」はジワジワと人々に浸透していき、童謡の“スタンダード”となった。
作曲の海沼実は「音羽ゆりかご会」の設立者で、戦前から「からすの赤ちゃん」「あの子はたあれ」「お猿のかごや」などを作曲するとともに、童謡の普及、童謡歌手の育成に努めた。のちに川田正子の母・須磨子と結婚し、正子の養父となる。
加藤省吾は「かわいい魚屋さん」などの童謡の作詞でも知られるが、「怪傑ハリマオ」や「豹(ジャガー)の眼」「隠密剣士/江戸の隠密渡り鳥」など児童向けテレビドラマの作詞も手がけた。
海沼実は昭和46年に、加藤省吾は平成12年に、そして川田正子は今年の1月にそれぞれ亡くなっている。

母の三回忌からひと月あまり経った秋の日、私はおよそ30年ぶりに伊豆にあるあのサナトリウムを訪れてみようと思った。母が亡くなってから、その思いが強くなっていったのだが、なかなかふんぎりがつかなかった。たまたま長く勤めた仕事を辞め、しばらくのんびりするつもりだったので、この機を逃してはという半ば強迫観念に押されるようにして小田急線に乗ったのだった。

母は、ひとり娘であり分身であるはずの私に対しても言葉少ない人だった。
女学校を出て間もなく見合いで父の所へ嫁ぎ、ただひたすら妻として母として生きてきた。父という人は、妻子を自分の付属品のように考え、威圧することでしか自分の存在を明らかにできない人間だった。時には手をあげることも厭わなかった。今思えば、母や私の前でしか“正直”になれない小心で可哀想な人だった。
その父が亡くなったのが4年前。その葬儀で私は泣き崩れた。父が死んだことが悲しかったのではない。前日の通夜からひと粒の涙も見せなかった母の父に対する思いと、そういうかたちでしか自分の意志を表せなかった母の気持が痛いほど伝わってきて、思わず取り乱してしまったのである。

父が死んだ後、母の生活はほとんど変わることがなかった。働くことを許さなかった父の縛めが解けたのだから、「なにか仕事でもしてみたら」という私に対しても「この歳になって、そんなことできないわ」と笑うだけだった。そう、父がいなくなっていちばん変わったことは母の笑顔がふえたことではないだろうか。
母は自分の体験からか、30半ばを過ぎた私に決して「いい人いないの?」とは訊ねなかった。私が妻子ある男性と長い間関係を持ち続けていることは、うすうす感じていたようだが、そのことについても非難めいたことを言われた記憶はなかった。
結局その母も、父が死んでから2年後に脳溢血で急死した。私は今度こそ故人のために涙をこぼした。そして葬儀やその後片づけが済んでしばらくすると、次から次と後悔の思いが私を責め、さらに落涙させた。20年あまり前、勤めに出るようになってすぐ一人暮らしをはじめたのだが、父が亡くなってから、なぜ母と一緒に暮らしてあげなかったのか。母とふたりきりの外出や旅行をなぜもっと頻繁にしなかったのか。いくら母が寡黙の人だったとはいえ、なぜ母にもあったはずの青春の頃の話を訊いてあげなかったのか。まさか父の死から2年で逝ってしまうとは。時間の短さのせいにしても仕方ないことだが……。

妻であり母であった母。女であることを決して見せなかった母。
でも私には、当たり前のことだが母が熱い血を胸に秘めた女であったと確信できる思い出がひとつだけある。それは私が7歳だったから、母が28歳の時のことだった。

役人だった父は年に何度か出張で家をあけることがあった。そんな時のことだったと思う。
行き先も言わず母は私の手を引いて電車に乗った。電車から見える町並みがビルや民家から田や畠に変わっていき、やがて小さな山間を電車は進んでいった。母とふたりだけの外出も新鮮だったが、窓外の風景もめずらしく、私はいつまでも飽きずに見ていた。
ずいぶん長い間電車に揺られていたようだったが、やがて母と私は小さな駅で降りた。駅に覆い被さるように繁っていた青葉が陽の光を受けて美しかった記憶があるので、初夏の頃だっただろうか。
私たちは駅前から乗り合いバスに乗った。私はてきぱきと仕事をこなすバスガールさんに見とれていた。さすがに乗り物に飽きたのか私は眠ってしまったようだ。母に起こされ、眼を擦りながらバスから降りたのは両側に林が繁った白い道だった。母に手を引かれて私は脇道へ入った。その鬱蒼とした林道はゆるやかな坂になっていた。私の耳には母の息づかいがはっきり聞こえてきた。坂をのぼりきると明るい場所へ出た。母はそこで立ち止まった。母の視線の先には静かな海が果てしなく広がっていた。「海だ」私が言うと、母は「そうよ」と言って笑ってみせた。あの時の母の笑顔を今でも思い出すことができる。家では決して見たことのない自信に満ちて、慈しみをたたえたまさにひとりの女性の笑顔だった。

海を見下ろすようにしばらく歩いていくと白い木造二階建ての建物があらわれた。そこが目的地だった。私には学校のように思えたが、中へ入ると消毒液の匂いがし、そこが病院であることが分かった。母は受付で面会にきたことを告げていた。そのとき私の耳には「まさなり」という言葉が聞こえ、母がその人に会いに来たのだということを理解した。
「すぐ戻るから、ここで少し待っててちょうだいね」そう言うと母は待合室から出て行った。待合室には人が何人かいて、私と同年配のパジャマを着た女の子がめずらしいのか私をチラチラ見ていた。
ずいぶん長いあいだ待たされたような気もするが、母は部屋を出て行ったときと変わらない顔で戻ってきた。

私たちは数時間前に来た道を戻っていった。先ほどの見晴らしのいい場所へ来ると母は再び立ち止まり海を眺めていた。するといきなり蹲り、嗚咽しはじめた。私は母と同じようにしゃがみ、しばらくはただ不思議な思いで母を見ていた。なんと声をかけていいかわからなかった。そのうち私の目からも涙が溢れてきた。母の悲しみが悲しかったのである。
それから私たちは黙ったまま薄暗い林道の坂を早足で下っていった。私には林の暗さがとても不安で、早くバスの通る白い道へ出ることを願っていた。そして、幼い私の胸に、母が泣いた原因があの「まさなり」という人なのだという思いが突然浮かんできた。

ワンマンバスを降り、うろ覚えの脇道を探すとそこはすっかり舗装された道路に変わっていた。両側の林も幾つもの別荘が建ち並び昔の面影は消えていた。唯一30年前の名残りはゆるやかな坂であることだけだった。
私はあの時の母のように少し息を乱しながらダラダラ坂を登っていった。後方からクルマの音が聞こえ、間もなく青いセダンが私を追い抜いていった。記憶に刻まれていた以上に長い坂道だった。ようやく登り切り、あの海を見渡せる場所へ出た。林が刈られ2機の双眼鏡を設えた見事な展望台に変身していた。あの時林に覆われていた辺りに土産物店まであった。駐車場には先ほどのセダンをはじめ数台のクルマが停まっていた。私はその店先の床几に座り、冷たいものを注文した。

あの日と同じように空は晴れわたり、海も穏やかだった。でも、あの時の空と海の色はもっと濃かったような気がする。今、眼前に広がる風景の何もかもがハイキーの写真のように明るく感じられた。あの頃撮った写真はいまではセピア色に変色しているだろう。しかし、記憶に映ったあの頃の風景は、時を経てもなおいっそう鮮やかに残っている。
そして、その積み重ねた時間のおかげで、あの時の母の嗚咽のわけが自分のことのようにわかる。
私も近々あの人と別れることになるだろう。でも、母のように泣くことはないはずだ。それはたんに私が、あの時の母よりも10以上も歳を数えてしまったからという理由だけなのだが。

土産物店の主人にサナトリウムのことを訊いてみた。想像どおり、もう10数年前に取り壊され、現在は保険会社の保養所になっているそうだ。話を聞きながらチラリと、顔も知らない「まさなり」さんの姿が脳裏をよぎった。たとえあのサナトリウムが今も残っていたとしても、私は行くつもりはなかった。この見晴台に来てもう一度海を見てみたい、それが目的だったのだから。
店の中から20代と思われる両親と手をつないだ7、8歳の女の子が出てきた。おそらくあの青いクルマで来た家族だろう。3人は展望台の方へ歩いていった。少女が両親に支えられて海に向いた双眼鏡を覗いている。レンズの先には水平線が見えているのだろうか。
「ごちそうさま」
私はそう言って立ち上がり、今度はゆっくり坂を下っていこうと思った。


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『70年代歌謡曲』 [noisy life]

♪ 目を閉じていればいくつも あざやかな場面が
  なつかしい歌につつまれ  色とりどりよみがえる
  あの時は春のおわりの   息づまる青葉に
  おしゃべりのくせも忘れて あなたの手に抱かれてた
  そんな愛の真似事も    忘れられない
  今になれば何もない    おさない愛でも
(「あざやかな場面」詞・阿久悠、曲・三木たかし、歌・岩崎宏美、昭和53年)

なんだか秋へ急降下。公園にははやくも落葉の絨毯。半袖シャツがいささか頼りない。雨も上がったし? 昼食は中華ソバでも。と思って知り合いに電話して、たまに行く中華料理店へ。といってもカウンターが10席ほどの小さな店。わたしはグルメじゃないけれど、一度食べて美味しかったのでときどき行くのです。いつも“ソバ友”と一緒。
今日は肌寒いから海鮮湯麺と水餃子。連れが真似した。いつもは違ったメニューなのですが、きっと考えるのがめんどうくさかったのでしょう。
わたしがこの店を気に入っている理由は、もちろん“味”なのですが、もうひとつ。それは、有線(多分)で1970年代の歌謡曲や日本のポップスが流れてくること。“ソバ友”と食べては喋りの30分足らずですが、その間に6、7曲は聴ける勘定。そのなかには必ずfavorite song が入っています。
今日の話題は共通の知り合いについて。
「こないだ、Gさんに会ったらいきなりHさんの悪口。よっぽどひどい目に遭ったんだな」
とわたし。
「そうなんだよなあ、Hは一見親分肌なんだけど、子分の面倒見ない親分だから評判わるいんだ。子分から巻き上げようって魂胆がいやだね……」

ソバがきたので会話中断。そのとき聞こえてきたのが「あざやかな場面」。

20代の頃、会社の昼休みにパチンコをするクセがついたことがありました。だいたいが換金でしたが、そこのホールはレコードが豊富だったのでよく交換したりもしました。最新のヒット曲はもちろん、それこそローリング・ストーンズやボブ・ディランのLPまでありました。
はじめのうちは、昼食後、仕事がはじまる時間ぎりぎりまでの30分ほど玉を弾いていました。そのうち「10分ぐらい遅れてもいいか」が「30分過ぎたんだから1時間ぐらいいいだろう」になり、「この台は出まくりだ。今やめる手はない」なんて自分に言い訳して、会社に戻ると3時過ぎなんてことも。完全に依存症です。そんなとき戻った事務所の中はなんとなく冷たい風が吹いていました。上司の冷ややかな眼。そりゃそうだ。
そしてついに決定的なことが。わたしも若かったというのかバカかったというのか、その日座ったのがベテラン風俗嬢のような台。出たかと思うとパッと止まり、あきらめかけるとまた出だすという具合。わたしはすっかり翻弄されて、気がつけばなんと午後6時を回っていました。さすがに受け皿の玉を落として交換所へ。結局1箱に満たず、レコードと交換することに。その中の1枚が「あざやかな場面」でした。
会社に戻ると、上司以外は全員帰ったあとでした。上司はわたしを睨みつけ、怒りを必死に抑えていました。
もちろん数日後、わたしは会社を辞めることに(辞めさせられました)。

それから10年間というもの、わたしはパチンコに狂い、一時はそれで生活する時期もありました。それが、40歳を前にして、きっかけもなくまるで憑きものが落ちたようにホールへ足が向かなくなってしまいました。それから現在に至るまで、一度も玉を弾いたことはありませんし、遊んでみたいという気にもなりません。不思議なものです。

「あざやかな場面」を聴くと、パチンコ屋の喧噪と、バカな20代のわたし、そして殺意さえ含んでいた上司のことを思い出します。
ちなみに今日の中華ソバ屋さんで流れていた他の歌は、「あの娘といい気分」(吉田拓郎)、「ひとりぼっちの部屋」(高木麻早)、「恋の風車」(チェリッシュ)、「哀しい妖精」(南沙織)、あとは思い出せない曲やら知らない曲やら。高木麻早は久しぶり。いいなあ。チェリッシュも改めていいなあ。岩崎宏美と南沙織は帰ってCDを聴いてしまいました。


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『ベースボール・ソング』 [noisy life]

Take me out to the ballgame,
Take me out to the crowd.
Buy me some peanuts and Cracker jacks.
I don't care if I never get back.
Oh, it's root, root, root for the home team
If they don't win, it's a shame,
For it's one , two, three strike, you're out
At the old ballgame.
[Take Me Out to the Ballgame](word:JACK NORWORTH, music:ALBERT VON TILZER, 1908)

松井秀喜がようやくヤンキースタジアムへ帰ってきました。それも4打数4安打。クリーンヒットは1本だったけれど、100点満点の復帰ではなかったでしょうか。
メジャーリーグの歌といえば、もちろん「わたしを野球へ連れてって」TAKE ME OUT TO THE BALLGAME です。ファンならごぞんじのとおり、7回表の終了時点、つまりホームチームの7回の攻撃前に球場にこの音楽が流れ、観客は歌いながら背筋を伸ばします。それでこれをセブンス・イニング・ストレッチといいます。
作られたのはほぼ100年前。日本でいえば明治時代。その後、1949年に同名タイトルの映画が作られ、この歌はますます人々に浸透していったそうです。
1994年にアメリカで作られた「BASEBALL」というテレビドキュメンタリーのオリジナル・サウンドトラックではピアノ・ソロ、トランペットのソロ、ヴォーカルなど5つのヴァージョンの「TAKE ME OUT TO THE BALLGAME」が聴けます。これらの音楽を聴いていると古き佳き時代のベースボール、それも映画「フィールド・オブ・ドリームス」に出てきたような球場というよりは原っぱのような場所で、マイナーリーグの試合を観戦しているような、そんなのどかな気分にさせられます。
今日のヤンキースタジアムでもセブンス・イニング・ストレッチはありました。ただ、5年前の9.11から、少し変わってしまいました。それは「TAKE ME OUT TO THE BALLGAME」が流れる前に必ず「GOD BLESS AMERICA」が流れるようになったこと。映画「ディアハンター」の中であれほど感動的な歌だったのですが……。聞けば聞くほど嫌いになっていく歌というのもめずらしい。歌に罪はないのですが。

ところで日本の野球ソングもあります。すぐに思い浮かぶのは♪オー、マイボーイ 憧れの憧れの野球小僧の「野球小僧」(灰田勝彦)、♪かっとばせ フレフレフレー という「ホームラン・ブギ」(笠置シヅ子)。あるいは♪流した涙はうそじゃない という高校球児を歌った「涙の敗戦投手」(舟木一夫)。最近の曲ではコブクロの、社会に出ても“人生を変える一球がある”と信じる高校球児を歌った「背番号1」も野球ソングのひとつ。同じ高校球児を歌ったものでも、40年以上も経つととても現実的になってきます。歌は世につれといいますが、こうして同じ素材を扱った歌を比較してみると、そのことがよくわかります。


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【パン助】 [obsolete]

『「……しかし、あんたは、そういうけれど、ほんとうは何してる? まさか、パン助じゃアないだろうな……?」
「失礼しちゃうわ。あたし、これでもダンサアよ。ただし、どこのホールにいるのかは、訊かないでね」。
 先手を打たれたゴロちゃんは、それでも何度かそのホールを質したけれど、彼女は絶対に教えなかった。』
「日本ロォレライ」(井上友一郎、昭和22年)

「パン助」、「パンパン」あるいは「パンパンガール」のこと。つまり売春婦。なぜ売春婦がパンパンなのか。その語源には諸説ある。てっきり戦後の言葉だと思っていたら南方では戦中から使われていたとか。南方の戦地で日本兵が慰安所をノックした音からきているとか、日本兵が「パンパン」と手をふたつ叩いたら現地の娼婦がやってきたとか。しかし、戦後その言葉を普及させたのはGIたちである。昭和21、2年当時、パンパンのメッカと言えば有楽町、銀座界隈で、その辺りに1000人あまりのパンパン・ガールがいたとか。そのうえ、そこには“ラク町お時”という元締めともいうべき勇ましいお姐さんまでいたとか。さらに、NHKラジオがその“お時”さんにインタビューをし、その赤い気炎が全国に流れたと言うから、なんともすさまじく、また楽しい時代だったようだ。

「日本ロォレライ」は井上友一郎お得意のダンサアもの。水の精ローレライの歌声に聞き惚れた船乗りたちが座礁するという伝説を歌ったドイツ民謡「ローレライ」をヒントに書かれた、“憎めない人々”のストーリー。
戦後、華北から帰還したゴロちゃんは家族との折り合いが悪く、家を飛び出しヤミ屋をはじめた。夜陰にまぎれて米を積んだ船で隅田川を上り下りする。ある晩、川沿いの焼けビルの4階から女性の妙なる美しい歌声が聞こえてくる。もともとバンドマンを夢見るゴロちゃんは、その歌声に聞き惚れる。何度かそんなことがあったあと、ゴロちゃんは舟をその焼けビルの下につけ、4階の女に話しかける。暗くて顔は見えないが、女は自分はダンサーだと言う。でもどこのダンスホールにいるのかは教えない。しかしゴロちゃんは、女が歌った「コロラドの月」を以前あるダンスホールで聞いたことを思い出した。ダンサーが彼の耳元で歌ったのだ。それからゴロちゃんは仕事の合間に幻のダンサーを探し回った。そしてようやくあるホールで小菊というダンサーがそうだと確信する。彼女は否定するがゴロちゃんは信じない。そこで小菊を舟に乗せてあの焼けビルの下へ行ってみることにした。小菊があのダンサーならば、焼けビルには誰もいないはずだ。ところが言ってみると4階の窓に人影が映っていた。小菊はその女はダンサーではなくパンパンだと言い、あの部屋へ行って冷やかしてやろうと言う。ゴロちゃんはしばし考えるが「止そう。つまらねえ……」と言って舟をこぎ出す。そして投げやりな調子で「コロラドの月」を口ずさむのだった。


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『犬の歌』 [noisy life]

You ain't nothin' but a hound dog
Scratchin' all the time
You ain't nothin' but a hound dog, baby
Scratchin' all the time
You ain't never caught no rabbits
You ain't no friend of mine
「HOUND DOG」(ELVIS PRESLEY, 1953)

今日(もう昨日になりました)はお世話になった方の命日。線香をあげに行ってきました。
存命中から住んでいたマンションには今も奥さんと息子さん、娘さんが暮らしています。今年で4年目。遺影に手を合わせたあとは、いつも奥さんと故人を偲びます。毎年故人の知らなかった面を教えてもらい、とても楽しい時間です。で、その話の途中、隣家から犬の鳴き声が。奥さんいわく「ほんとうは、飼ってはいけないんですけどね」。マンションの決まりではそうらしい。「うるさいことはありませんか?」「いえ、よく躾てあるようでめったになかないんですよ。子供たちも好きなものですから、ウチでも飼おうかなんて……」そう言って奥さんは笑っていました。そこで今日のnoiseは「犬」。

犬の歌といえば、まず日本では「いぬのおまわりさん」。これは有名です。あとはチューリップの「しっぽの丸い小犬」。演歌では瀬川瑛子の「小犬の神様」。田宮二郎の「青い犬のブルース」やキングトーンズの「捨てられた仔犬のように」というのもありますが、これは犬の歌というより、人間を犬に見立てた歌。去年の紅白歌合戦でフォーリーブスが歌った「ブルドッグ」は、たんなる語呂合わせで、犬とは関係ない歌詞です。こうみると犬の歌は思っていた以上に少ないようです。もちろんまだあるのでしょうが、思い浮かびません。

洋楽となると、クラシックではショパンの「小犬のワルツ」がありますし、フォスターの「老犬トレイ」もよく知られています。ポップスではなんといってもプレスリーの「ハウンド・ドッグ」HOUND DOGとベンチャーズの「ブルドッグ」BULLDOG、パティ・ペイジの「ワン・ワン・ワルツ」THE DOGGIE IN THE WIDOWがよく知られています。他ではビートルズ「HEY BULLDOG」、1910フルーツガム・カンパニー「HOT DIGGITY DOG」、レッド・ツェッペリン「BLACK DOG 」がありますし、カントリーやブルースでも犬を歌ったものは結構あります。
「HOUND DOG」とはリトル・リチャードやジミ・ヘンドリクスなども歌っていますが、猟犬のこと。そういえば、ローバト・ジョンソンに「地獄の猟犬がつきまとう」HELL HOUND ON MY TRAIL という、せきたてられているような不安な気持ちを歌ったブルースもありました。

人間と犬との付き合いは日本より欧米のほうが古く、そのため歌も沢山あるようです。日本も最近は空前の(ホントかな)ペットブームで愛犬家もずいぶん増えているそうですので、もっと犬の歌が出てきてもよいと思うのですが。


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【西銀座駅】 [obsolete]

『企画部の係長クラスが、彼のために、その夜お別れパーティーを開いてくれると言ったが、亮吉はそれを丁重に断って、帰りを急ぐサラリーマンたちの流れに混じって、地下鉄に乗った。
 降りたのは、二つ目の西銀座駅である。
 彼は、できるだけゆっくり足を踏みしめるようにして、交差点を渡り、銀座の歩道を歩いていった。』
「夜の配当」(梶山季之、昭和38年)

「西銀座駅」というと、東京に住んでいる若い人は「それどこ? 架空の駅?」などと思うかもしれないが、昭和30年代、地下鉄丸の内線にあったれっきとした駅なのである。
池袋駅が始点となった地下鉄丸の内線は、昭和32年の師走ようやく銀座まで延長された。その駅が「西銀座駅」である。その頃銀座線にはすでに「銀座駅」があった。銀座駅の出口が4丁目の交差点付近なのに対し、「西銀座駅」は外堀通りに沿った数寄屋橋あたり。その一帯は戦前から西銀座あるいは裏銀座と呼ばれていた。昭和30年代の小説にはこの「西銀座」というロケーションが頻繁に出てくる。銀座というとまともすぎるが、「西銀座」となると何かドラマを含んだ街のイメージがあったのかもしれない。
♪ABC XYZという歌い出しが印象的だったフランク永井の「西銀座駅前」がヒットしたのは「西銀座駅」が開通した翌年の春のこと。彼の代表曲「有楽町で逢いましょう」が世に出たのはその前の年の暮れ。つまり束の間の西銀座駅が完成したころ。

ところが昭和39年になると、銀座駅と「西銀座駅」の中間に、日比谷線の銀座駅が開通した。これで三つの駅がつながり、丸の内線の「西銀座駅」も改名され、ひとつの銀座駅となった。「西銀座駅」はたった7年の寿命だったのである。
“引用”は会社を辞めた主人公の亮吉が、地下鉄(丸の内線)を使って銀座に出る場面。会社のある丸の内線大手町駅から東京駅を経て2つ目が「西銀座駅」終点だった。

高度経済成長の真っ最中、一匹狼が頭と度胸で成り上がっていく痛快企業小説が多く書かれた。「夜の配当」もそのひとつ。
今で言う大手アパレルメーカーの企画部の社員伊夫伎亮吉は在職13年目にして退社する。一匹狼となった亮吉は、まず自分のいた会社が開発間近の新製品について、商標登録をし、それを300万円で買い取らせた。その資金を元手に企業の問題解決屋“トラブル・コンサルタント”を立ち上げるのだった。そして亮吉は建設業界に目をつけ、秘密談合クラブを作ったり、公開間近の建設会社の新株を大量に入手するなど法律すれすれの綱渡りで多額の金を手にしていく。またプライベートでも、サラリーマンのときの仕事の係わりしかなかったファッション・モデルにプロポーズしたり、元上司の愛人だった料亭の女将を横取りしたり、押しの一手でその欲望を満たしていく。ところが好事魔多しで、陥穽が待っていた。新株の不正取引容疑で逮捕されてしまうのだ。結局無罪放免となったが、金も女も失って振り出しに戻ってしまう。それでも釈放された亮吉は、陰謀渦巻くビル群を見上げながら新たな闘志を燃やしていく。
元トップ屋の作家らしく、ストーリーはめでたしめでたしでは終わらない。それでも全てを失った主人公が、またゼロから一歩ずつあるきはじめるという雑草魂は、自らの姿勢を投影したものだろう。
数年来ハイテク産業の起業ブームで、こうした頭脳と度胸の成り上がりストーリーが受ける土壌があるのではないだろうか。


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【グラマー】 [obsolete]

『「うむ。それよりも君、女の子を集められる自信はあるかい」
「そりゃあ、あるわ」
「美人の、グラマーがいい」
「ありきたりね」
「しかも、金だけで、すべてを割り切れるような女がいいな」
「それ……どういうこと?」
ストッキングのガーター・ベルトをはずしながら、多恵子は振り返った。』
「夜の配当」(梶山季之、昭和38年)

「グラマー」glamour も使う人が少なくなった。もともとは〈魅力、魅了する、魔法、迷わす〉という意味だが、日本ではglamour girl (魅力的な女)、とりわけバストが大きくスタイルのよい女性に使われた。
昭和38年「グラマー大行進」というアメリカ映画が公開され、「グラマー」がその年の流行語になったと書かれている本もあるが、言葉そのものはもっと以前から使われていたようだ。たとえば石坂洋次郎の「陽のあたる坂道」(昭和31年)にも《「……君はすばらしいグラマーだよ……」と、玉吉は手を伸べて、ゆり子の腰にさわった。》と書かれている。昭和27年のイタリア映画「にがい米」に主演したシルヴァーナ・マンガーノからだとする説もある。とにかく当時で言うとブリジッド・バルドーやソフィア・ローレン、マリリン・モンローといった外国女優が「グラマー」で、日本の主演級女優には「グラマー」は馴染まなかった。また、日本人は小柄なので“トランジスタ・グラマー”などという言葉もできた。その後「グラマー」は「ボイン」に、そして「ナイス・バディ」へと変わっていった。

梶山季之というと“トップ屋”というイメージが強いが、「週刊文春」をはじめルポライターとして雑誌に記事を書いていたのは、6年あまりと意外に短い。その間密度の濃い仕事をしたこともあるのだろうが、「データマンからアンカーマン」という雑誌の記事作りのシステムを確立したことで、いまもその名を業界にとどめている。
昭和37年に産業スパイの実情を描いた小説「黒の試走車」が話題になり、作家へ転向した。「夜の配当」はその翌年の作。当初は上記2作や先物取引の相場師の生き様を描いた「赤いダイヤ」に代表される企業小説が多かったが、その後、「と金紳士」「色魔」「ミスターエロチスト」など好色物を多作していく。
昭和50年、取材先の香港で病死。享年45歳


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『コンバット・マーチ』 [noisy life]

今日の午後、たまたま後楽園の東京ドーム付近を通ると、すごい人出。ひとつは公営競馬が行われていた(馬券売場がある)こと、もうひとつはドームでまさに都市対抗野球の決勝が行われていたようです。まったく知らなかった。関心の薄いこと。
家へ帰って夜ニュースを見ると、ドーム内は大盛り上がりで試合が行われていました。スタンドでは応援合戦。そこで流れていたのが今日のnoise「コンバット・マーチ」。

たまたま家にコロムビア・オーケストラの音源があったので聴いてみました。3分半あまりなので、もしかしたら普段聴けないメロディーが入っているかもと期待したのだが、あの10小節の耳慣れたメロディーが延々と繰り返されるのみ。静かな部屋で聴く「コンバット・マーチ」ほど空しい音楽はありません。何もしてないのに応援されてるようで。
ところでこの「コンバット・マーチ」、元々は早稲田大学の応援歌。昭和40年にブラスバンド部員で当時大学4年生だった、三木裕二郎さんによって作られたそうです。その後、プロ野球のチームが、高校野球のブラバンが、そして都市対抗の応援団がというように、応援マーチのベストセラーとなっていったのは、皆さんごぞんじのとおり。まさか、六大学野球の早慶戦で慶應のブラバンが演奏することはないでしょうが、これだけ使われている楽曲なので、気になるのが版権。実情は、「応援を目的とする」演奏ならば、許可を求めなくてもいいのだとか。つまりフリーウェア。さすが、早稲田、太っ腹。
なお、都市対抗の決勝はTDK(秋田・にかほ市)が日産自動車(神奈川・横須賀市)を4―3の僅差で破り初優勝を果たしたそうです。


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Silence is Golden② [story]


Talking is cheap
People follow like sheep
Even though there is no where to go
How could she tell he'd deceive her so well
She'll be the last one to know

Silence is golden
But my eyes still see
Silence is golden, golden
But my eyes still see
(「サイレンス・イズ・ゴールデン」SILENCE IS GOLDEN 詞、曲・CREWE & GAUDIO、歌・THE TREMELOES、1967)

僕が高校へ入って、ギターひとつ弾けないのに軽音楽部へ入ったのは、西田先輩にハートを射抜かれたからだった。
新入生のオリエンテーションで、3年生の彼女は軽音楽部のアピールのため、講堂のステージに立った。ギターとウッドベースの男性2人を従えた変則的なPPMスタイルで。「天使のハンマー」から始まって、「虹と共に消えた恋」「悲惨な戦争」と聴きなれた曲が流れる中、僕の視線は彼女に釘付けだった。マリー・トラヴァースより断然素敵だった。そして躊躇いもなく軽音楽部へ入る決心をしたのだった。西田恭子は僕が生まれて初めて好きになった年上の女性だった。

3年生の彼女はあまり部室へ来なかったが、それでも僕は同じクラブに籍を置いているというだけで満足だった。時々、別校舎にある彼女のいるクラスの前を通ったり、校庭で体育の授業を受ける彼女を2階の教室から探したり……。
彼女は少し変わった女子高生だった。当時、制服から私服に変わる高校が増えていった時代だったのだが、僕の通う高校はいまだ制服のままだった。ところが何人かは、そうした風潮を先取りして私服で登校する生徒がいた。彼女もそのひとりだった。彼女のファッションはたいてい丈の短いコッパンにバシュー、それにボタンダウンのシャツにベスト。とりわけユニークだったのはテンガロンハットと小さな皮のトランク。翌年、我が校の制服が廃止されたのは彼女の行動と無関係ではなかった、と僕は思っている。

「先輩、先輩」
僕は、ステージを見上げている西田恭子に近づきながら声をかけた。振り向いた彼女は一瞬驚いた顔をしたがすぐに笑顔になった。
「どうしたの?」
そう言うと、彼女は焼そばの皿を持ったまま立っている僕に、目で隣の席に座るよううながした。僕はその席に座りながら、初めて彼女がオレンジのビキニスタイルであることに気づいた。すると、もう彼女に視線を向けることができなくなった。僕はひたすらステージを見つめたまま話をした。彼女に訊かれるままに、昨日からクラスメート3人で来て、中澤の別荘で泊まっていることを話した。もちろんガールハンティングのことは言わない。
さり気なく彼女を見た。長い睫毛は天然だったが、日焼けした顔にひときわ目立つピンクの口紅。学校では一度も見ることのなかった美しい唇だった。何だか胸がドクドクと高鳴った。
演奏が終わった。そして、しばらくして再び始まった。高音のギターとハミングのハーモニー。イントロで分かった。トレメローズの「サイレンス・イズ・ゴールデン」
西田恭子の隣に座った僕は、急に言葉が出てこなくなった。ただ、サウンドに合わせてリズムをとっている彼女の肩だけが僕の目の端でふるえている。ふたりともずいぶん長い間黙っていたような気もするが、まだ曲の途中だったのでほんの短い時間だったのかもしれない。突然、海パンにパーカーを羽織った男が彼女の前に現れた。
「まだ聴いていたいかい?」
ロングヘアで背の高い男は、僕を無視して西田恭子に声をかけた。
「ううん。もういくわ。あっそう、この子ね、クラブの後輩」
彼女に紹介されて僕は、生意気にも座ったまま会釈をした。
「彼、三浦さん。K大の2年生。わたしのお友だちなの」
「よろしく。このバンドの連中、俺の知り合いなんだ。けっこう上手だろ?」
男は、ステージを指さしながら笑顔で僕にそう言った。彼女は椅子から立ち上がると、
「いつまでいるの?」
と訊いてきた。
「明日の午後帰るつもりなんです」
「そう、わたしたちは今夜帰るの。じゃあ、今度また学校でね」
そう言うと、西田恭子は男にエスコートされるように去っていった。その後ろ姿に目を奪われながら、彼女の「わたしたち」という言葉が、見事に僕の胸を切り裂いていた。「サイレンス・イズ・ゴールデン」はまだ続いている。

“一念岩をも通す”と言うが、中澤という男はまったく諦めるということを知らない。何組目だったのかは分からないが、僕と別行動をとっているあいだに、とうとうガールハントに成功したのだ。相手は1級上の2年生で、夕方「かもめ」という海の家の前で待ち合わせして、それから別荘へ“招待”するのだそうだ。
問題は相手が3人娘ではなく2人組だったということ。中澤はしきりに恐縮して「あと一人きっと捕まえるから」と言って僕を慰めた。もちろん一人で海に来る娘などいるわけがなく、無理な話なのだが、僕にとってはそんなこともうどうでもよかった。
「なんだか、日焼けしすぎて気分わるいから、今日は早めに寝るよ」
と言う僕だったが、実をいうと頭の中は、西田恭子とあの背の高い男のことでいっぱいだったのだ。

翌日、朝からの雨はあがったが、それでも午後の空はどんより曇っていた。僕は列車の窓から湿気を帯びた田園風景を眺めていた。向かい合って座っている中澤と上野は、しきりに「なんだかわるいことしたな。俺たちばっか」と僕に言い訳をする。しかし、お互いにじゃれ合うその姿には童貞を卒業した清々しさと喜びが充ち溢れていた。
「達也、心配すんなよ。必ず誰か探してやるからさ。そうだ、大晦日、初日の出見にまた九十九里へ来ようぜ。そんときは絶対に6人でな。……おい眠っちゃったのか?」
……ありがとよ、中澤。とうとう僕だけ童貞喪失ストーリーを作れなかったな。でも、僕の瞼の裏を今、「サイレンス・イズ・ゴールデン」をBGMに、オレンジの水着の西田恭子がひとり、砂浜を歩いている映像が流れているところなんだよ。だから、しばらくはそっとしておいてくれないか。


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Silence is Golden① [story]

♪ All down and hurt deep inside
To see someone did something to her
All down in pain to see someone cry
Especially when someone is her

Silence is golden
But my eyes still see
Silence is golden, golden
But my eyes still see
(「サイレンス・イズ・ゴールデン」SILENCE IS GOLDEN 詞、曲・CREWE & GAUDIO、歌・THE TREMELOES、1967)

高校1年の夏。いま思えば、いちばん開放感にあふれていた頃。そりゃそうです。なにしろやっとの思いで入学試験に合格、どうにか高校生活にも慣れはじめ、季節は何かが起こりそうな夏ではありませんか。あたかも鎖から解き放たれた犬みたいな僕たちでした。

夏休みに入って3日目、僕ら3人はさっそく海へ。入学早々なんとなく一緒に遊ぶようになった中澤慎二、上野昇介、そして僕。中澤の家の別荘が九十九里浜にあるというので、そこへ行くことに。佃煮問屋の跡取りである中澤がリーダー格。1学期のあいだ、奥手の僕や上野にエロ本で性教育してくれたのが中澤。しかし、そういう中澤もいまだチェリーボーイ。今回の“海”はその実践というわけだった。

翌日、列車とバスで3時間余り、ようやく到着した別荘にいささかガッカリ。いつか映画で見たような洋風の広い居間のある家を想像していたのだが、ごくふつうの民家。しばらく使っていなかったようで、風呂場やトイレには蜘蛛の巣まで。それでも、3DKの間取りは“目的遂行”には支障なし。
3人は掃除もそこそこに、さっそくオン・ザ・ビーチ。すでに午後の陽高い海水浴場は大にぎわい。特設ステージではローリング・ストーンズのコピーバンドが「ひとりぼっちの世界」を叫んでいる。僕らはそれを横目で見ながら、ビニールシートとパラソルで陣地を設営。中澤が持ってきた缶ビールを配る。僕らはさも手慣れたようにプルトップを引きはがし、ビールをあおる。目の前を、赤、黄、青、白、様々な色のビキニやワンピースが行き交う。僕は太陽の暑さとビールの酔いと女の子たちの眩しさで、頭の中はグルグル、海パンの中はギンギン。そして、いざ出陣。

狙いは3人組み。ファーストコンタクトは、背中にサンオイルを塗りあっている3人。セパレーツの娘が2人、黒のワンピースが1人。切り込み隊長はもちろん中澤。
「ねえ、君たち。泳がないの?」
3人娘はお互いの顔を見合わせて笑っているだけ。
「何処から来たの?」
「何処だっていいじゃない。邪魔しないでよ。あっち行ってよ」
黒のワンピースが自分の腕にオイルを塗りながら言った。ようするにとりつく島がないということ。
「そんなこと言うなよ。ねえ、今晩泊まるとこあるの? 決まってないんなら、僕の別荘に来ない?」
「おことわり。ね、泳ごう!」
そう言って他の2人をうながすと、3人娘は海へ向かって駈けていった。
「なんだ、あのブスども! 声かけてやっただけでもありがたいと思えってんだ」
中澤の負け惜しみに、後ろで見ていた僕と上野は頷くしかなかった。

それでもメゲないのが、我らの隊長のいいところ。“別荘への招待”を最高の武器にナンパしまくったが、下手な鉄砲はいくら撃っても当たらない。しまいには、知らずに母娘3人連れに声をかけ、直後に父親が現れて、ほうほうの体で逃げてくる始末。

その夜、別荘へ戻った僕らは予定していた6人前のカレーを3人前に縮小して“残念会”。
ビックリしたのは上野の酒の強いこと。飲むわ飲むわ、まるで3人分の悔しさをひとりで引き受けたようなヤケ酒。挙げ句の果てが、
「デブの中澤とよォ、ガリガリの達也(僕のこと)とチビの俺じゃ、ナンパなんかできっこねえよォ。さっさと帰っちまうのが正解だよォ……」
とからみだしたかと思うと、「こんなもの、いらねえよォ」と、来るとき列車の中で中澤から配られたコンドームの包みを破り、口につけて膨らましはじめた。一杯の缶ビールでいささか酩酊気味の僕も、面白いので上野を真似てハシャいだ。すると中澤も自棄クソのようにコンドームを膨らましはじめた。結局その夜、気球のようになったコンドームが3つ、3人の爆笑とともに部屋の中を浮遊していたのだった。

しかし中澤の執念には恐れ入る。翌日、朝食を終えるとさっそく砂浜へ。3人娘を物色しては性懲りもなく声をかけ、断られるのだ。僕は早くも脈無しと見切って、彼らとは別行動。せっかくの海、泳がなくてはソンとばかり、沖まで遠泳。泳ぎ疲れて戻ってきたが、彼らの姿は見えない。しかたなく、海の家で焼そばを買い、バンド演奏が行われているステージの前へ行きひと休み。お客さんはまばらだが、ステージのバンドはお構いなしに演奏を続ける。デーヴクラーク・ファイヴの「ドゥ・ユー・ラヴ・ミー」が終わった。ヴォーカルの意外と張りのある声に、焼そばを頬張りつつ、すっかり聴く態勢になっていた。
ネクスト・ナンバー。ママス&パパスの「夢のカリフォルニア」
演奏に聴き入りながら、ふと海の方へ視線を向けると、少し離れた席にコーラを飲みながらバンドに視線を送っている女の娘がひとり。そのセミ・ロングのヘアスタイルに見覚えがあった。僕はたしかめるため、前の座席に移動し、彼女の横顔を見た。やっぱりそうだ。西田恭子だった。


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『夏の歌③』 [noisy life]


♪ 利根の 利根の川風よしきりの
  声が冷たく 身をせめる
  これが浮世か 見てはいけない
  西空見れば
  江戸へ 江戸へと
  ひと刷毛 あかね雲
「大利根無情」(詞:猪又良、曲:長津義司、歌:三波春夫、昭和34年)

二十歳の夏のことです。その年もことさら暑い夏でした。わたしはなぜか東銀座の歌舞伎座で大道具のアルバイトをしていました。どういう経緯でそこで働くようになったのか、不思議なことにまるで記憶がありません。面接の覚えもなく、いきなり尻にトンカチぶら下げて舞台裏を走り回っていた記憶から始まります。はっきり覚えているのは大道具の頭(かしら)がくりからもんもんで、山茶花究みたいな顔をしたコワイおじさんだったこと、それにわたしとおなじようなバイトで、アングラ劇団員や演劇をやってる学生などがいたということ。そうそう、もうひとつ名の知れない歌舞伎役者も。彼らはそっち系の人々が多く、わたしは狙われないよういつも尻に手を当てていましたっけ。
その頃、毎年八月の歌舞伎座は三波春夫ショーと決まっていました。当時流行りの音楽と言えば吉田拓郎、井上陽水、かぐや姫……、洋楽ならジョン・デンバーとかカーペンターズあるいはスティービー・ワンダー。ジャニス・ジョプリンなんかも聞こえていましたっけ。そんな時代でした。
それで三波春夫。♪こんにちは こんにちは は知ってましたし、「お客様は神様です」という“名言”も耳に入っていました。しかし、歌謡曲、演歌の世界は聞き流すどころか耳を塞ぐという年頃。ショーは一部が芝居で二部がヒットパレード。ヒットパレードでは「チャンチキおけさ」「おーい船方さん」などのヒット曲からはじまって得意の歌謡浪曲までびっちり1時間以上。わたしはバックで背景の木や叢を支えながらそれを聴かされているのです。なんと時間の経過が長かったことか。
ところが半月あまり経った頃から、私の中にわけのわからない変化が。歌謡浪曲の「関の五本松」のクライマックスでは背筋がゾクゾク、そして「大利根無情」のサビのところでは胸がジーン。
これは今でもテレビドラマの主題歌や、CMでくどく流れた曲がヒットする「リピート」「刷り込み」と同じ効果です。しかし「大利根無情」を刷り込まれてしまったわたしは、公演が終わる頃にはすっかり三波春夫のファンになっておりました。
「天竜しぶき笠」「一本刀土俵入り」「俵星玄蕃」「雪の渡り鳥」いいなあ。あのキリッとした高音。
♪ おまんたあ~


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