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『指笛』 [noisy life]


♪ 指笛吹いて 帰ろう
  揺れながら
  星屑わけて 街をはなれて
  忘れない 花のかずかず
  まぶたをとじて 帰ろう
  思い出の 道をひとすじ
(「星屑の街」詞・東条寿三郎、曲・安部芳明、歌・三橋美智也、昭和37年)

指笛というと、先代の江戸家猫八師匠の“物真似”はみごとでした。小指を口の端に加えて、鳥の囀りや虫の声を再現してみせてくれました。
しかし、わたしの記憶の中にある「指笛」はそういう芸術ではなく、もっと俗っぽいもの。そう、古いアメリカ映画によくある、女の子をひっかけるとき、注意を惹くために指をくわえて「ピーッ」と音を鳴らす、アレです。

子供の頃、一緒に遊んでいたアニキ連がよくやっていました。カッコよかったなあ。それでわれわれガキ連も、なんとかマスターしようと練習したものです。あの「指笛」にはふたつの方法がありました。ひとつは片手の親指と人差し指で円をつくります。そう、みんなの好きな“¥マーク”。ふたつの指の間を少し開けて、それをベロの下に入れます。そしてほっぺを膨らます感じで息を吐き出します。すると「ピーッ」と甲高い音が出て成功です。もうひとつは、両手の人差し指と中指をつかいます。ちょうどジャンケンのチョキの指をくっつけたかたちです。それをやはりベロの下に入れて息を吹き出すのです。
どちらもカッコよかったのですが、横着なわたしとしましては、手軽つまり片手で出来る方を選びました。スジがいいのか(そんなものあるのか)、意外と早くマスターしました。しかし、いま思えば、あの泥だらけの手を平気で口の中に入れて、所かまわずピーピーやっていたのですから、時代とはいえ、子供とはいえ、不潔きわまりない。
で、マスターしたあと実践してみたのかというと。それはなし。だいたい日本の男で、「指笛」をナンパに使ってるヤツなど見たことがない。せいぜいコンサートやイベントで拍手代わりに使うぐらいでしょうか。

「指笛」の歌などそうあるものではありません。冒頭の「星屑の街」ぐらいしか知りません。そこで、指が出てくる歌ということにすると、これはそこそこあります。多いのは「指切り」そして「小指」。指切りもだいたい小指でするものですから、歌に出てくる指はほとんど小指といっていいかもしれません。
題名になっているのは伊東ゆかりの「小指の想い出」、谷啓の「小指ちゃん」、ピチカート・ファイブの「指切り」、ピンキーとキラーズの「ゆびきりげんまん」があります。
歌詞に出てくるものでは、まず『小指』が「精霊流し」(グレープ)、「ブランデーグラス」(石原裕次郎)、「小麦色のマーメード」(松田聖子)、「人生いろいろ」(島倉千代子)など。『指切り』は「悲しき口笛」(美空ひばり)、「好きになった人」(都はるみ)、「夜空の星」(加山雄三)、「氷の世界」(井上陽水)などがあります。

話を戻して「指笛」に。
しかし、指笛も自転車や水泳と同じように一度マスターすれば、永久につかえるものなのでしょうか。もはや(はじめから)使い道のなくなってしまった指笛ですが、先日まだ吹けるかどうか試してみました。深夜、誰もいない部屋でひとり。指をくわえて思い切り吹いたところ、「ピーッ」ともの凄い音が。思わずヒヤリ。なんだか近所迷惑のような気になり、その一回でやめておきました。


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『口笛』 [noisy life]

♪ 煙草ふかして 口笛吹いて
  あてもない夜の さすらいに
  人は見返る わが身は細る
  町の灯影の 侘びしさよ
  こんな女に 誰がした
(「星の流れに」詞・清水みのる、曲・利根一郎、歌・菊池章子、昭和22年)

先日、横断歩道で信号が変わるのを待っていたら後ろから口笛が。私の知らない曲なのか、“演奏者”が下手くそだったのか、曲名は不明。いまどき白昼に口笛を吹くのはどんな人間かと思い、信号が青になってからゆっくり歩き出すと、30代サラリーマン風の“演奏者”がわたしを追い抜いていきました。それにしても、最近は口笛を聞きません。

口笛はいちばん手軽な音階の出る“楽器”ですね。わたしは今でも時々、つい口笛を吹いてしまうことがあるのですが、昔にくらべ、口笛を吹く人間が少なくなったのはウォークマンとカラオケのせいだと勝手に思っています。

口笛を吹くとき、その曲はだいたい好きな曲か、気になる曲です。そして、口笛人間はほんとうは歌詞をつけてその好きな歌を歌いたいのです。しかし、人通りのある戸外で ♪愛してるわ~ とか ♪好きで別れて~ なんて恥ずかしくて歌えません。だから、メロディーだけの口笛でガマンしているのです。ところがカラオケが普及してから、場所限定ではありますが、好きな歌をめいっぱい歌える環境ができあがりました。もはや欲求は解消され外で口笛を吹く必要性もなくなったわけです。
もうひとつ、口笛は、吹くことにも意味があるのですが、自分の口笛を耳で聞いてもいるのです。つまり口笛は、そのメロディーを聞きたいから吹くということがあります。いわば“自演自聴”とでもいいましょうか。ですから、ウォークマンなど携帯用オーディオでいつでも何処でも好きな曲が聴ける昨今、口笛を吹く必要がなくなったわけです。
こうしてみると、やがて口笛を吹く人間は絶滅してしまうのではないでしょうか。いまの若い人の中にはすでに口笛が吹けない人がけっこういるのでは。そんなバカな。

口笛はオールド・ファッションになるくらいですから、口笛の歌というと古い歌が多いのは当然です。戦前にも中野忠晴の「口笛がふけるかい」(洋楽のカヴァー曲)とか東海林太郎の「丘の口笛」などがありますが、戦後はなんといっても美空ひばりの「悲しき口笛」。
昭和30年代になると日活アクションで聞こえてきます。石原裕次郎は「口笛が聞こえる港町」、小林旭は「口笛が流れる港町」とか「口笛の凍る町」というように。40年代以降ではカーナビーツがカヴァーしたWhistling Jack Smithの「口笛天国」I Was Kaiser Bill's Batmanはラジオ深夜放送のテーマソングにも使われ、耳に残っています。

しかし、口笛の歌でいちばん印象的なのは坂本九の「上を向いて歩こう」でしょうか。間奏で九ちゃんがみごとな口笛を聞かせてくれます。それで思い出したのが洋画のテーマソング。クリント・イーストウッドが主演した「荒野の用心棒」、それに早川雪洲も出ていた「戦場に架ける橋」の主題歌「クワイ河マーチ」。これらも耳に残り、ときとして口笛となって出てくる音楽です。そういえば、数年前のミスター・チルドレンに「口笛」という曲があったのを思い出しました。

いろいろと適当なことを言ってきましたが、“口笛人間”のわたしが経験上言えることは、「口笛が出る時は、決して気分的に不愉快なときではない」ということです。はい。


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【さいづち頭】 [obsolete]


『「さいづち頭というんでしょ?」
「さいづち頭? 村ではあんた、子供たちらは軍艦あたまちゅうて、いじめました。学校もよう出けたええ子ォですがな。いつやらほどから自分の名の捨吉という名が気にいらんちゅうて、お父うにとりかえてちゅうてきかなんだといいますがな」』
(「雁の寺」水上勉、昭和36年)

「さいづち頭」は才槌頭。才槌とは小さな木槌のことで、おでこと後頭部がともに出っ張った頭を「さいづち頭」という。体格の小さい子供時代、に目立ち、からかいの対象になったりする。さいづち頭の反対は“絶壁(ぜっぺき)”で、こちらは後頭部が丸みを帯びておらず、まさに絶壁のように平らなかたちをいう。これまた、子供たちの間ではからかいの対象になる。出っ張ってても平でも笑われるのだ。適度に出ているもの、つまり中庸がいいということなのだろうが。また、さいづちや絶壁でなくても、ただ大きいだけで、“頭でっかち尻つぼみ”とか“鉢が広い”などと、やはり嘲笑される。自分では直しようがない肉体の部分だけに、言われほうは辛い。とにかく子供は、頭に限らず他人の肉体的特徴をあからさまにからかいの対象にする。大人になると分別で抑えるが、本質的にはたいして変わっていない。

「さいづち頭」とは慈念のことである。
慈念は、「背が低く」「頭の鉢の大きな」「額が前へとび出ている」「奥眼な」小坊主と書かれている。若狭の寺大工の子で名は捨吉、十歳のときに両親と離れ、寺へ来たということになっている。しかし、実際は村の阿弥陀堂に居ついた乞食女が産んだ父親不知の子だった。それを寺大工の夫婦が拾った、だから捨吉なのだ。
慈念はそのことに気づいている。それもまた肉体同様逃れられない宿命なのである。慈年の心にはそうした孤独と怨念がマグマのように蠢いている。慈海はそれに気づかないが、慈念のことが気になってしょうがない里子は「おそろしい子や」と言って、その本質を感じ取っている。
里子に抱かれて女を知った慈念は、同時に彼女から生まれて初めて母親の愛情をも知らされる。“近親相姦”に近い関係といってもいい。したがって、もはや恩師・慈海は自分と“母親”とを分け隔てる存在でしかなかった。慈念は酔って帰ってきた慈海を刺し殺す。そして、折しもあった檀家の葬式で、棺の中に慈海の死体も押し込んでしまうのだった。「やけに重い」棺はふたつの死体を入れたまま土葬される。
慈海の“失踪”は、慈念の証言で寺を捨て雲水になったということで落着する。しかし、それからしばらくして、慈念も忽然と寺から姿を消してしまうのである。慈念がいなくなった後、雁が描かれた襖のうち、子供にエサを与える母願の絵だけが何者かによって破り取られていた。
「雁の寺」は昭和37年に大映で映画化。監督、川島雄三、出演は若尾文子、高見国一、三島雅夫他。


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【コレラ】 [obsolete]


『……頑健であったはずの梨枝は、里子の六つのときにコレラで死んでいた。避病院の金具の錆びた寝台で死んでいた母は、生きているようにふくよかだったと里子は思う。母親もむっちりして、小太りだった。器量よしだった。里子はその血をうけていたのである。』(「雁の寺」水上勉、昭和36年)

先日36年ぶりに、狂犬病患者があらわれニュースになったが、「コレラ」もまた最近聞かなくなった伝染病だ。
「コレラ」cholera は人間の腸内にコレラ菌が入り、コレラ毒素を出すことによって起こる伝染病。症状は激しい下痢と嘔吐、それに脱水症状だが、早期治療により死亡率は5%あまりときわめて小さい。ただし、慢性胃疾患をもつ人は重症になりやすいとも。また、感染経路は食品で、人から人への感染は少ないといわれる。現在日本でも年間10人ぐらいの患者が出るが、そのほとんどは先の狂犬病同様、海外での感染だという。なお、コレラ菌は200パターンぐらいあって、そのうちコレラ毒素を出すものによる感染のみを「コレラ」といい、それ以外のコレラ菌による感染は単なる食中毒で「コレラ」とはいわないそうだ。
現在ではちょっとひどい下痢といった感じの「コレラ」だが、かつてはペストや天然痘と並ぶ“死に至る伝染病”だった。
19世紀中頃インドで発生した疫病からコレラ菌を発見したのはイタリアの医師・パチーニで“コレラ菌”と命名した。その30年後にドイツの細菌学者・コッホが「コレラ」の病原体として再発見した。
インドから始まったコレラの大流行は日本にも及び、安政年間には江戸で10万人の死者を出す大流行となり、発症するとコロリと死ぬので“狐狼狸”と呼ばれて怖れられた。明治大正にも流行があったが、徐々に防疫体制が整い、流行を見なくなっていった。昭和30年代にはほとんど発症しなくなっていたが、それでも、天然痘や狂犬病と並んでその名を聞くだけで怖ろしい病気だった。
人間と細菌やウィルスの闘いはまだまだ続く。征服したかのように見える細菌も、強力な耐性をもった新種があらわれないとも限らない。最終的には人類が細菌に滅ぼされてしまうなんてことにもなりかねない。

水上勉の小説には、性を引きずり、運命に縛られた哀しい女が描かれることが多い。彼女たちが美しいのは、その姿に“滅び行く日本の女”を映しているからである。
「雁の寺」では里子がそうだ。小説の中では「……三十二だが、小柄で、ぽっちゃりとしており、胴のくびれた男好きのするタイプで、かなり美貌であった。……」と書かれている。画家に囲われ、その死後、僧侶に囲われる一見奔放な女だが、その生い立ちは暗い。“引用”にあるように、幼くして母親を亡くし、十三で奉公に出され辛酸をなめてきた。だからこそ、なにかにつけて似た境遇の慈念のことが気になるのだった。しかし、それが仇となり、慈念と過ちを犯すことになる。
里子が慈念に慈海殺しを唆したわけではない。しかし、結果的には里子の幻影にとりつかれた慈念は、慈海をナイフで突き殺すまでに至ってしまうのである。もちろん、里子がそのことに気づくのは、慈念も慈海もいなくなった「雁の寺」でであった。


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【百目蝋燭】 [obsolete]


『慈念は蝋燭に火をつけた。中座にきて、また観音経を唱じだした。
 ねんぴかんのんりき、とうじんだんだんえ、わくしゅう、きんかあさ、しゅうそくしちゅうかい、ねんぴかんのんりき……
 と、慈念は唱じながら横目で襖をみていた。が、急に唱経をやめた。慈念の眼が百目蝋燭の炎のゆれる中でキラッと光ったのはこのときであった。』
(「雁の寺」水上勉、昭和36年)

現代においては蝋燭そのものが怪し気な雰囲気をもつのに、「百目蝋燭」となるとオカルトの世界のような字面だが、そうではない。「百目蝋燭」とは“百匁蝋燭”のことで、ロウソクの大きさからきている。一匁(いちもんめ)が3.75グラムなので、「百目蝋燭」は375グラムというから、かなり大きな和ロウソクである。
ロウソクの始まりは奈良時代と言われている。しかし、当時使用していたのは貴族や寺院で、一般庶民の家へ普及するには江戸時代まで待たなければならなかった。その江戸時代にしても、やはり長屋住まいの町人には高価なもので、だいたいは小皿に油を入れ、灯心に火をともして明かりとしたようだ。
さすがに昭和の時代になると、家庭の必需品となる。戦後でも、昭和30年代ぐらいまでは、雷が鳴るたびに停電が起きたので、箪笥の抽斗にはマッチとセットでロウソクが入っていた。現在では、せいぜい仏壇の燈明として使用するぐらいかもしれない。
ロウソクの蝋は櫨の実から抽出し、それを溶かして芯となるい草の上に何度も何度もかけて作られる。「百目蝋燭」があるのなら「千目蝋燭」もあるのかというと、これがある。3.75キロの巨大なロウソクで、もちろん寺社などで使われるもの。
最近ではロウソクといえば、パラフィンからつくる洋ロウソクつまりキャンドルのこと。結婚式、クリスマスでもおなじみ。またインテリアとしての洒落たフォルムのもの、アロマを染みこませたものなどや、アウトドアで使うための虫除け効果があるキャンドルなど多様。

時代は昭和8年。「雁の寺」は京都の寺、孤峯庵で起こった怖ろしくも哀しい物語である。
話は孤峯庵の住職・北見慈海の呑み友だちで日本画家の岸本南嶽の臨終から始まる。
「雁の寺」とは、南嶽が孤峯庵の襖に描いた雁の絵に由来する。その南嶽は生前、30そこそこの里子という女性を囲っていた。そしてもし自分が死んだら、あとの世話を見てほしいと慈海に頼んでいた。南嶽の死後、里子も当然のように孤峯庵に身を寄せた。独身の和尚・慈海は毎朝晩、里子のからだを求めた。里子もそれが苦痛ではなかった。寺に二人だけしかいなければ、好色な和尚と女盛りの情婦の生活は平穏に続いていたはずである。
ところが寺にはもうひとりの人間が住んでいた。13歳で得度したばかりの小坊主・慈念である。
慈念は身寄りがなく10歳の時に孤峯庵にもらわれてきた。寺から中学へ通っているが秀才で、ゆくゆくは立派なお坊さんになると、周囲から期待されている。しかし、厳しい修業をしながらも、衣を脱げばひとりの孤独で愛と性に飢えた少年である。その少年は里子という女性の出現によって、その抑圧されていた愛と性が一気に顕わになる。そして、やがて悲劇へとつながっていくのである。
「雁の寺」は直木賞受賞作。少年時代、寺で生活していたという水上勉らしく、本堂、庫裡などの描写が細かく、また住職の生活ぶりや小坊主の勤行ぶりもリアリティに富んでいる。「雁の寺」の2年後に書かれた「五番町夕霧楼」や、そののちの「金閣炎上」でも寺を舞台にした修業僧の悲劇を描いている。


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『ピアノ』② [noisy life]


♪ 花深きこの庭 草萌ゆるかの丘よ
  やさしき夢語らいし 友よいざさらば
  今日こそ さだめの 別れの日となりぬ
  いまこそ かたみに祈らん
  親しき命に つきせぬ幸あれと
  さらば わが友よ
  いざ さらば さらば
(「別れの曲」曲・ショパン、詞・水口幸子)

ひとくちで言えば「縁がなかった」ということなんでしょうか。彗星の大接近のように急激に近づき、あっという間に宇宙の彼方へ消えてしまった、そんな友だちがいました。

中学時代のことです。
やっと月賦で買ってもらったポータブルプレイヤーで聴く音楽といえば、せいぜい流行歌。洋楽は映画音楽や流行はじめていたモダン・フォーク。クラシックなど知っているのは音楽の授業で習ったものか、せいぜいギャグで使われていた「運命」「白鳥の湖」ぐらい。そんなわたしが、なぜかクラシック好きの級友と仲よくなったから不思議です。昼休みになると彼はわたしを音楽室へ誘います。男二人が誰もいない音楽室で……、なんて不純な考えはまるっきりなかったな。
そこで彼はピアノの蓋をあけ、流れるような指さばきで弾き出すのです。初めて聴いた「月光」や「別れの曲」。わたしはその旋律に聴き惚れ、彼の腕前に見とれていた次第です。そして、放課後になると彼は「家へ来ないか?」と誘います。「ノン」と言えないわたしは、カバンを持ったまま彼に着いていきます。
彼の家は4畳半一間。そこで母親とふたり暮らし。母親は働いていて、わたしは逢ったことがありません。で、彼の家で、なぜかわたしは部屋には上がらず、外から開け放たれた窓に凭れて、部屋の中の彼と話をするのです。彼は小さなプレイヤーにLPレコードをのせ、針を落とします。流れてきたのはなんともセンチメンタルなクラシック。回るレコード盤を見下ろすように、彼は透明のタクトを振り始めます。陶酔しきった顔。わたしは初めて出会った人種を見たときのように、不思議な思いで見とれていました。それがメンデルスゾーンのバイオリン協奏曲ホ短調作品64だということを、そのあと彼から教わりました。

そういうことが4、5回もあったでしょうか。そのうちわたしは、なぜか音楽室や彼の家へはいかなくなっていました。彼が誘わなくなったのか、私が断ったのか、それともクラブ活動が忙しくなったのか……。
知り合ったのも曖昧ならば、離れていった理由も霧の中。ただ、いま言えることは、彼はわたしを含めたクラスメートたちの誰よりも、頭ひとつ大人だったということでしょうか。孤独がなんたるかを知っていた分、その孤独に耐える方法を知っていた分。結局、そういう“大人”の友にわたしがビビってしまったということなのかも。
そういう断絶があったせいかどうか、その後、わたしがクラシックに興味を持つまでにかなりの時間がかかってしまいました。ただ、その空白の期間であっても、メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲ホ短調作品64だけは、ときおりわたしの頭の中のプレイヤーで鳴ってはいたのですが。

いまでもブラームスやショパンを聴くと、カラヤンになりきってオーケストラを指揮する彼の顔が浮かんでくることがあります。そして、人と人とのつながりの頼りなさと、親友になれなかった友に対する苦い思いを感じるのです。


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『ピアノ』① [noisy life]


Hit the road Jack and don't you come back
no more, no more, no more, no more
Hit the road Jack and don't you come back no more,
……
Oh woman, oh woman, don't treat me so mean,
you're the meanest old woman that I've ever seen
I guess if you say so
I'll have to pack my things and go.
……
([HIT THE ROAD JACK]旅立てジャック words & music:P. MAYFIELD, vocal:RAY CHARLES, 1961)

先日の日曜日、近所の家からピアノの音色。習いたての子供でしょうか、それとも50の手習いでしょうか……。最近の楽器はなんでもサイレント仕様があるようですが、まあ、休日の午後延々と弾くわけではなし、いいじゃありませんか。

ピアノとは無縁のわたしですが、その音色を聴いて思い出す顔が2つあります。今日の話はそのうちのひとり。
彼は小中学校時代、近所に住んでいた同級生の弟。わたしたちより1才下で盲学校へ通っていました。わたしの家もそうでしたが、その友だちの家も貧乏人の共稼ぎ。で、下校してからその弟の世話は当然兄貴が。よく3人で遊びました。といっても弟はほとんど“お客さん”。わたしも友だちも草野球で明け暮れていたので、弟は草むらに座っての“ゲーム観戦”。わがチームが攻撃のときは、わたしが彼の横に座って実況解説。わたしの話すあることないことを嬉しそうに聞いていた彼の顔は今でも思い出せます。

中学へ入ってから、その友だちの家にピアノが運び込まれました。ふた間のうちのひと間をほぼ占領してしまったピアノ。もちろん盲目の弟のため。かれの演奏をよく聴きました。エチュードやクラシックだったのでしょうか、どんな曲を弾いていたのか覚えていませんが、鍵盤を見ずに弾くその姿に見とれていました。そういえば、彼は点字を打つのもびっくりするほど早かった。とにかく、目が見えないのにどうして、鍵盤が分かり、点字の位置がわかるのか不思議でした。その頃はレイ・チャールズもスティービ・ワンダーも知りませんでしたから。
しかし、1年も経たないうちに彼はピアノを弾かなくなりました。休みの日など朝から晩まで猛烈な勢いで弾きまくる彼のピアノに近所から苦情がでたのです。ピアノ殺人などという怖ろしい事件が起こったのは、その数年後。たしかに隣人にとっては苦痛だったかもしれませんが……。

そのうちわたしの家も彼の家もその町から離れ、会うこともなくなりました。風の便りで、兄貴はヤクザ者になってしまったとか。あんな明るい男が。弟の消息が分かったのは十数年前。新聞の地域版に彼の写真と、近くクラシックのピアノコンサートをするというニュースが載っていました。盲学校の先生をしながら、ピアニストとしても活動していると。何とはなしにうれしかった。

ピアノといえば、やっぱりジャズ。好きなピアニストはたくさんいますが、ひとりあげれば、テディ・ウィルソンTEDDY WILSON 。[I GOT RHYTHM][SWEET GEORGIA BROWN][BLUES IN C# MINOR][AFTER YOU'VE GONE][][TAKE THE "A" TRAIN][RUNNIN' WILD]など好きな曲も限りなく。
「よお、坊主。俺のピアノを聴くかい? で、気に入ったら他のやつらの演奏も聴いてみなよ」と言って、わたしにジャズの愉しさを教えてくれたのがテディ・ウィルソン。BAD POWELL, BILL EVANS, RAY BRYANTはもちろんDJANGO REINHARDT, BENNY GOODMAN, LESTER YOUNG, JOHN COLTRANE, SONNY ROLLINS, 北村英治など様々なジャズメンを紹介してくれたのが彼でした。

何十年も逢っていない盲目の彼は、レイ・チャールズばりにジャズやR&Bも弾くのでしょうか。もし、そうなら聴いてみたいな。


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『ギターの音』 [noisy life]


♪ ヘイ、ママ、ママギター、ヘイ、ママギター
  素晴らしいその音色 私の恋人
  ママギターその甘く歌う音色は
  恋に甘えるあの女心のように
  やさしく抱こうと 膝にのせよと 
  頬ずりしようと お気にめすまま
  ママギター やるせないその音色よ
  …………
(「ママ・ギター」MAMA GUITAR 詞、曲・T.Glazer, B.Schulberg 訳詞・音羽たかし、歌・ペギー葉山、昭和33年)

生まれて初めてギターに触ったのは小学校の時。叔父の家になぜか置いてありました。青のボディで、弦はスチール。叔父はそんな趣味のある人間ではなく、はたしてあれは誰が弾いていたのか、いまだに不明。

はじめてギターを買ったのは高校に入って間もない頃。誰に影響されたとか、どんな曲を弾きたくてとか、そういうことはなく、ただ通学路にあったディスカウントショップに一台だけ吊されていたギターが欲しかった。3000円くらいでしたか、小遣いを貯めて買いました。ガットギターでした。さっそく教本を買ってベンベンベン。なぜか練習曲は♪うさぎ追いし の「ふるさと」。最後は定番「禁じられた遊び」へ至るというテキスト。スジが悪いのかさして上達しませんでした。
そのうちフォーク、エレキ、ふたたびガットと買い換え、数年前にフォークのサイレントギターを買ったのが最後。現在部屋の中には、スタンドに置かれたサイレントが、まるでインテリアのように沈黙しています。押入の中には3体の死体が。
いつかテレビで誰かが、「淋しいときはギターが友だちだった。いつも手元にあった。そのギターを弾かなくなったとき、僕は大人になったような気がした」と言っていました。なるほどなるほど。

大人になりそこなったわたしは、いつか好きなドク・ワトソンやジャンゴ・ラインハルトのように流れるような旋律を弾いてみたいと夢想しているのです。そういいながら、触るのは年に何度か。ホコリを掃除するだけだったりして。いいんです。たまに同類の友だちがやってきて、何気なくギターを手にして何気なく弾き、何気なく歌います。そういうもてなしのためにもギターを置いてあるのです。それは真っ赤なウソ。

「ママ・ギター」はロカビリーサウンドで、初めて聴き入ったギターの歌。子供の頃、近所のお姉さんがよく口ずさんでいました。ギターと言えばやっぱりベンチャーズかスプートニクス。「ドライヴィング・ギター」「さすらいのギター」「涙のギター」「二つのギター」。もちろん邦楽にだってあります。「真夜中のギター」(千賀かほる)に「白いギター」(チェリッシュ)。北島三郎の「ギター仁義」もあるし、小林旭の「ギターを持った渡り鳥」もありました。エレキ弾かせりゃバツグンなのが「フリフリ」(スパイダース)。


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Flee as a bird② [story]


♪ 楽しげな笑顔もいつかは
  涙がきらりと光るもの
  誰もがみんなで 手をつなごう
愛されているのに 寂しい僕
  愛しているのに 悲しい僕
一人ぼっちの 二人
(「一人ぼっちの二人」詞・永六輔、曲・中村八大、歌・坂本九、昭和37年)

「あなたは僕のとうさんですか?」
黒い鳩に向かって突然、頭に浮かんだ質問をしてみた。
〈いや。残念ながら。私の知る限り君のおとうさんは鳩にはなっていないよ〉
「そうですか。でも、あなたは以前は人間だったのでしょ?」
〈それも君の思い違いだ。私は以前は鼬(いたち)だった。ある日、ノネズミを追いかけて谷底へ落ちたんだ。背骨を折ったようで動けなかった。エサをとることも水を飲むこともできず毎日毎日空ばかり見上げていた。陽が昇って間もない頃、山鳩の群れが東から西へ飛んでいき、陽が落ちる頃帰って来るんだ。もう目の玉しか動かなくなっていた私には、その飛翔を見るのだけが楽しみだった。美しかった。鼬になんか生まれてくるんじゃなかった、と思った。それでも10日間生きた。最後の記憶は涙が一粒こぼれたこと。それが空腹のためなのか、山鳩の美しい姿のせいだったのかはっきりとは思い出せない。気がついたら私は山鳩の群れにいた。いずれにしても、もう80年も昔の話だ〉
「80歳?、ずいぶん長生きなんですね」
〈いや、私だけ特別なんだ。ほかの仲間はせいぜい15年も生きれば長命っていわれる〉
「鳩に変わっていくときの記憶は、ほんとうに無いんですか?」
〈ああそうだ。でも今なら分かる。80年間、数え切れないほどの転生を見てきたから。でも、あまり愉快な話ではないから、知らない方がいい〉
「僕も鳩になるんですね」
〈多分。それが君の意志なのだから〉
「仲間を連れてきてはいけませんか」
〈別れ難い人がいるんだね〉
「できるならば……」
〈その人は女性なんだね。その女性は多分、君とは違う考えの持ち主だと思うよ。君はその女性を愛していないし、彼女だって君のことを愛していない〉
「そうかもしれません。とても親切にしてくれた……」
〈君がどうしてもというのなら、反対はしないけれど〉

母が死んでひと月あまり経った頃、房子さんは会社の寮を出て、僕のアパートで一緒に暮らすようになった。
ようやく蝉しぐれも絶え、公園のプラタナスが黄色く変色しはじめた頃、房子さんは会社を辞めた。そして、僕たちの部屋から一歩も外へ出なくなった。死んだ母親と違うのは、母は僕が傍にいてもまるで無人の空間に身を置いているかのように、黙ってブラウン管を見つめていたが、房子さんは僕が会社から帰って来るなり、息つく暇もなく僕に話かけることだった。どこかで殺人事件があったとか、子供が行方不明になったとか、ジャンボジェットが墜落したとか、テレビで見たというそんな暗い話題ばかりを。僕が食事の用意をしてる時から、食べてる最中はもちろん、後かたづけをしている間もずっと。僕は彼女の尽きることのない饒舌な話を聞きながら眠りに落ちるのが常だった。
いつだったか、夕方会社から帰ってきて、ドアのノブに手をかけようとしたとき、部屋の中から房子さんの大きな笑い声が聞こえた。誰かお客さんでも来ているのかなと思い、入るのを躊躇っていると、こんどは彼女の話し声が聞こえてきた。相手はどうやら僕のようだった。
あるとき、僕はずっと考えていたことを思いきって訊いてみた。
「ねえ、房子さん。空を飛んでみたいって思ったことない?」
「ないわ。飛んだらきっと目が回ってしまう。それより、深海魚になってとてつもなく深い海底を泳ぎ回れたらって思うことはあるわ」

その日は、朝から空は鉛色の厚い雲で被われ、季節はずれの嵐のような強い風が電線や木立に悲鳴をあげさせていた。
目覚めた僕は、老衰しきった人間のように疲れ果てていた。それでも房子さんのお経のような激励の言葉を背に、会社へと出かけていくのだった。いまにも暗転しそうな空を夥しい鳥たちが東へ向かって飛んでいく。まるで川が流れていくように。僕はヨロヨロと歩きながら、寿命が尽きていくのを感じていた。心臓の鼓動はおろか、自分の足音さえも聞こえなくなっていた。歩いているというよりは浮遊しているという感覚だった。公園を横切り、林の方へ導かれていった。最後のエネルギーが燃焼され僕は林の中に倒れた。そして仰向けに向き直ったところで僕の寿命は尽きた。それでも僕の五感はまだ流れる雲、風のにおい、落葉の湿り気、鳥の羽ばたきを感じていた。
しばらくすると僕の胸の上に一羽の鳩が舞い降りた。鳩は少し羽ばたいて僕の横に降りた。そしてその鋭い嘴で僕の右手の甲を突っついた。相当深く突いたようで、皮が破れ真っ赤な血が30センチほど吹き上げた。しかし、痛みはまるでなかった。僕はようやく、これから自分の身に起きることが理解できた。やがて数十羽の鳩が僕のからだの周りに集まってきた。鳩はさらに増え、身体に乗っているものもたくさんいた。鳩の啄みが始まった。服の上から、ズボンの上から、靴を突くものまでいた。そして額に乗った鳩が僕の右の眼球に嘴を突き入れた。白と青が斑になった美しい雌鳩だった。僕は眼球を突かれながら、もしかするとこの雌鳩とつがいになるのかもしれない、という漠然とした予感を覚えていた。

新しい年のはじまりは、水色の空と太陽の恵みからだった。僕の気持ちがこれほど清々しく、抑えられないほどのエネルギーが湧き上がってくるのは、年が改まったからではなく、僕自身が風を切り、天空を飛んでいるからなのだ。僕らの群れは、整然と連なり、翼をきらめかせながら空を舞う。そしていつもの公園に舞い降りる。僕は相棒(妻のことだ)の毛づくろいをしてあげる。
ベンチに老夫婦が座っている。
「めずらしい鳩だよ。青と白なんて初めて見た」
「ほんとですね。もう一羽も真っ黒で、まるでカラスみたい」
男性がバッグの中からカメラを取りだして僕らに向けた。相棒は反射的にカメラのレンズを見る。彼女は自分が人気者だっていうことを知っているのだ。僕はひと言彼女に耳打ちして飛び上がった。老人がカメラで僕を追おうとしたが諦めた。別に意地悪をしたわけではない。僕にはこれから行くところがあるのだ。

僕は2年前まで住んでいた自分のアパートの上空を旋回していた。あの部屋にまだ房子さんが住んでいるのを知っている。彼女は僕がいなくなってから、昔覚えのある美容師に戻っていた。時代遅れのチェックのオーバーに身を包んだ彼女が出勤していく。電車でふたつめの町にある病院の中の美容院だ。
電車中で、房子さんは必ずドア際のコーナーに貼り付き、窓の外の景色を眺めている。僕はもう4日も前から、彼女の視線に入るように電車と並行して飛んでいるのだが、彼女はいっこうに気づかない。昨日などは、翼が車体に触れるのではないかと思うほど接近するというスリルを味わった。

高架を走る電車のドアに寄りかかっている房子さんが見える。彼女はいつも視線を落としている。何を見ているのだろうか。僕は10メートルぐらいの間隔を開けて電車と併翔している。やがて電車が鉄橋にさしかかった。僕は鉄のアーチすれすれに飛ぶ。彼女は相変わらず一点を見つめている。鉄橋を渡りきったときだった。彼女が顔をあげ、僕を見た。確かに見た。電車がスピードを落とした。僕はホバリングをして速度を合わせ、彼女に視線を向けた。彼女も僕を見つめていた。僕は嬉しくなって笑いかけた。彼女の頬が緩んだ。しばらく僕らは見つめ合っていたが、やがて房子さんは小さく首を振り、笑いながらひとすじ涙を流した。
僕はプラットホームの屋根に激突する寸前で急上昇して空へ還った。相棒との約束の時間をはるか過ぎていた。早く帰らねば。戻ったら巣造りのための小枝集めがまっている。来月、僕たちの新しい生命が誕生するのだ。


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Flee as a bird ① [story]

♪ 幸せな朝が来たように 
  悲しい夜が来ることがある
  そのときのために 手をつなごう
  愛されているのに 寂しい僕
  愛しているのに 悲しい僕
  一人ぼっちの 二人
「一人ぼっちの二人」(詞・永六輔、曲・中村八大、歌・坂本九、昭和37年)

いくら鈍感な僕でも3度も同じことが起これば気づく。
はじめは一昨日だった。会社帰り、冷房のききすぎている電車の中で、僕はいつものようにドアの端に立ち夕暮れの町並みを見下ろしていた。次が僕のアパートのあるW駅。墓石がひしめき合う寺院、鍍金工場の煙突、主婦たちがベランダの洗濯物をとりこんでいる団地、小さな郵便局……。見慣れた風景が流れ去っていく。やがて川にさしかかり、力強い音と共に鉄橋を渡りきったとき、僕の視線の中に、突然黒い物体が飛び込んできた。鳩だった。
黒い鳩は電車のスピードにシンクロさせるように、何度か消え、また現れた。そのうち羽を水平に保って四角い窓ガラスの中に静止した。その間10秒あまりだろうか、鳩は電車と並行して飛んでいた。やがて駅が近づき、小さな林を背負った公園が見えると電車は速度を落とし、鳩は僕の視界から消えていった。
はじめは、冒険好きの鳩が電車とスピードを競っているのかと思った。しかし、翌日また同じことが起こった。まったく同じ時間の電車で、やはり鉄橋を過ぎるとその黒い鳩は現れ、同じように僕の目の前でホバリングをしてみせたのである。
そして今日。僕はある考えに思い至って、夕方仕事を終えたあと、駅から電車に乗る時間を10分ほど遅らせた。電車の鉄橋を渡る音と振動が始まったとき、僕の心臓も異常事態を告げるブザーのように高鳴った。そして、鉄橋の音が止んだとき、映画のスクリーンのような車窓に黒い鳩の飛翔が映った。
僕はようやく悟った。あの鳩が“冒険者”などではなく、僕に気づかせるために電車と並んで飛んでいたのだということを。

半月ほど前、母が死んだ。僕と母はずっとアパートで二人暮らしだった。父親は僕が2歳の時に病死したというのだが、記憶はない。
母は僕が小学5年生のとき、突然話をしなくなった。それまで勤めていた会社を辞め、アパートの部屋から一歩も外へでなくなったのだ。僕は仕方なく買いものをし、食事を作り、掃除洗濯をするようになった。友だちと遊ばなくなったのもその頃からだった。母はいつもパジャマ姿で、一日中テレビを見ていた。全くの無表情で、僕がチャンネルを替えても黙って見続けるだけだった。僕は、母がテレビとのにらめっこに疲れて眠るまで、部屋の隅で図書館から借りた本を読んでいるのが常だった。
僕が中学を卒業して今の会社で働くまで、生活保護を受けていた。僕が働くようになっても、母の様子は変わらなかった。万年床に横たわってテレビを眺めているのだ。立ち上がるのはトイレに行くときと風呂に入るときだけだった。僕の作った食事を「おいしい」とも「ありがとう」とも言わずに、黙々と食べ続けた。

僕は変わり者だろうか。たしかに母の世話をするため、中学ではクラブ活動もできなかったし、友だちから遊びに誘われても断ってきた。はじめクラスメートの何人かは、あの手この手で僕を仲間に引き入れようとした。しかし、僕にその意志がないと分かると諦め、干渉しなくなった。僕は空気のような存在となった。それを望んでいたのかもしれない。
働くようになっても同じだった。会社の人たちに母のことを隠さなかった。というより、様々な誘いを断るために、自分から“母と僕との生活”を暴露してみせた。入社して2週間も過ぎると、会社の上司や同僚たちは仕事以外で僕に話しかけなくなった。僕はやっぱり空気になった。

ただひとりの例外が、総務課の房子さんだった。彼女は僕と同期の入社だったが、歳は4つ上で、会社の寮住まいだった。理由はわからないが、入社以来なにかと僕に干渉してくる。
寮は会社の傍にあるのだが、退社時間が一緒になると僕に話しかけてくる。時々は、わざわざ同じ電車に乗って僕の降りる駅まで着いてくる。そして、買い物を付き合ったあと、「10分だけ」と言って喫茶店に誘うのだった。
房子さんは猛烈なお喋りである。喫茶店でも(たいがいは30分ぐらいに引き延ばされた)終始喋りっぱなしだった。内容は僕の知らないテレビの番組や映画俳優についてだった。相づちしかうたない僕なので、話が途切れると、アパートでの僕と母の生活ぶりについて質問してきた。僕は最小限の言葉で、変化の乏しい日常を正直に話すのだった。

房子さんの社内での評判は、あまり良いものではなかった。同僚の話では虚言、多弁、強情がその理由だそうだ。僕も彼女と喫茶店で時間を過ごすことが疎ましいと感じることがあったが、それは会社で仕事をしている時も、家で母の食事を作っている時も同じようなもので、苦痛と感じるほどではない。それに、彼女が遠慮なく話をできる人間が僕しかいないということは、よく分かっていた。

母が死んだ時、質素な葬式を手伝ってくれたのは房子さんだった。僕と房子さん、それに民生委員とアパートの管理人、それだけの葬儀だった。親戚も来ず、読経はもちろん、仏壇もなければ戒名もないという30分あまりのセレモニーだった。事情に疎い僕に代わって房子さんは役所への届けから、焼き場の手配まで付き合ってくれた。火葬場の待合室で、数年前に父親を亡くした時、母親に代わって手続きを代行したという話を洩らしていた。

車窓から黒い鳩が消えたあと、僕はいつもの駅で下車した。いつもなら駅前のスーパーで惣菜などの買い物をして帰るのだが、その日は鉄道の高架沿いを鉄橋の方へ戻っていった。
山毛欅や楢の生い茂る林を抜けると小さな公園に出る。西空にわずかに残る入り日が公園内の微かな明るさを保っている。僕は藤棚の下のベンチに腰を下ろす。人の気配はなく、鳩たちも塒に帰ってしまったのか、その姿は見えなかった。
しばらくすると視線の端を鳥影がよぎった。あの黒い鳩だった。鳩は僕から2メートルほど離れた地面に蹲った。そして僕の言葉を待つようにじっと僕を見つめていた。


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【房錦】 [obsolete]


『結城はるかはポメラニアンの小犬を引いていた。体格はすこぶるいい。背丈は八千代とあまり変わらないのに、横幅は房錦ばりに小太りである。そんなスタイルのくせに、毛糸であんだ、ゆるやかなツーピースが巧みな着こなしで何気ない。』
(「黒い扇」平岩弓枝、昭和35年)

昭和33年から34年にかけての角界。「褐色の弾丸」の異名で一世を風靡した関脇「房錦勝比古」。時は“柏鵬”時代の到来前、栃錦、若乃花の両横綱による“栃若時代”。そんな時代に突如スポットライトを浴びたのがこの「房錦」。弱冠23歳で関脇まで登りつめた。身長176センチと関取にしては小柄だが、ずんぐりしていてとにかく相撲はスピードを活かした押しの一手。小気味がよかった。また今で言うイケメンで、そんなところも人気になった理由。
しかし結局、大関には届かず、優勝もできないままマゲを切った。そんな力士の映画が作られたというから驚き。大映制作の「土俵物語」で、いかに「房錦」が当時人気だったかがわかる。いくら朝青龍が強くても映画になることはないだろう、大相撲が娯楽の王様だった時代ならではのエピソード。
昭和40年に引退。山響、若松と親方になるが、平成2年に廃業。同5年、57歳で亡くなっている。

平岩弓枝といえば、テレビでもドラマ化された「御宿かわせみ」や、「はやぶさ新八御用帳」などの時代物で知られるが、「黒い扇」のような現代物も少なくない。また、小説以外でもテレビの脚本を多作するという器用な作家である。とりわけヒットしたのが昭和43年から45年まで3年間続いた「肝っ玉かあさん」で、平均視聴率が30%に達したといわれる。一時低迷していたホームドラマを復権させたのがこの番組だといわれる。東京・下町の日本そば屋を舞台に、体格のいいお母さんがホームドラマに欠かせない些細な問題に頭を悩ませ解決していくという話は、その後のホームドラマにも影響を与えた。そのお母さん、つまり主人公は京塚昌子。新派の役者でテレビでは無名の新人。それが大ブレークし、「肝っ玉かあさん」終了後にもテレビドラマに出ていた記憶がある。しかし、いつの間にか見なくなった。どうしたのかと思って調べてみたら昭和61年に病気で引退し、平成6年に亡くなられたそうだ。巨漢で女相撲なら横綱級の女優だった。


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【私の秘密】 [obsolete]

『……ドラマは勿論(もちろん)、ちょっとした舞踊劇程度のものにも断りをいっていた勘喜郎が、とにもかくにもテレビに出てみようという気になった理由を、息子の能条寛は、それがいわゆる娯楽番組でも、ドラマでもなく「私の秘密」というゲーム番組のゲストとしてだったからだと解釈していた。NHKでは最高の番組でもある。』
(「黒い扇」平岩弓枝、昭和35年)

「私の秘密」は昭和30年代のNHKの人気クイズ番組。
昭和27年にテレビ放送を開始したNHKが、「私の秘密」を放送したのが昭和30年4月。昭和42年まで12年間続く長寿番組となった。初代司会者の高橋圭三アナウンサーの「事実は小説より奇なりと申しまして……」というイントロダクションではじまり、珍しい体験や名前をもつ人が現れ、その秘密を数人の有識者があてるという形式だった。画期的な構成で高視聴率をとった番組だったが、実はこれには“下敷き”があった。アメリカのテレビ番組「マイ・シークレット」の日本版だったのだ。それ以前NHKラジオのクイズ番組として大成功した「二十の扉」もアメリカやイギリスで放送されていた「トゥエンティー・クエスチョン」を模したものだった。そういえば、「ミリオネア」をはじめ現在放送されているクイズ番組もアチラの“パクリ”が多いという話も聞く。まあ、いいものは万国共通ということかもしれない。

「黒い扇」が書かれた昭和35年は、テレビの一般家庭への普及が急速にすすんでいった時代である。その普及に一役かったのが前年の皇太子御成婚だった。NHKの受信契約数(この頃は100%に近かった)は昭和33年に100万台を突破。1000万台に達するのが昭和37年なので、この35年は300万台近くにまでのぼっていたのではないだろうか。値段も昭和30年頃20万円あまりだったものが、35年には6万円程度に下落している。そうした普及の背景もあって、この「黒い扇」にもよく“テレビのあるシーン”が出てくる。
まず、殺人が起こった修善寺の旅館の部屋は、「三間続きの奥にテレビが」あった。ただし、すべての部屋にあったわけではなく宿泊料の高い部屋だけだろう。また“引用”のテレビ番組を(尾上)勘喜郎の家族は茶の間のテレビで見ていた。歌舞伎役者の家庭には当然あった。そのほか、銀座のあるバーには「店の角に小型のテレビが置いて」あった。そこではナイターやボクシングの中継を見ていたようで、それを目当てに来る客もいたとか。作者の平岩弓枝はテレビドラマの脚本も書いていたので、ことさらテレビには関心が深かったようだ。


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【黄色いサクランボ】 [obsolete]

『窓の外を焼き芋屋の車が、小石をふみじにって通りすぎると店内は、又、ひっそり閑となった。
「あのねえ、レコードかけてよ。ん、なんでもいいわよ。どうせ南国土佐か、黄色いサクランボぐらいしかないんだもんね」
ミルクを運んできた女の子に、染子はずげずけと言いつけた。』
(「黒い扇」平岩弓枝、昭和35年)

「黄色いサクランボ」は昭和34年にヒットした歌謡曲。歌ったのはスリー・キャッツという女性3人コーラス。当時、アンドリュース・シスターズばりの女性トリオがブームになったが、そのひとつ。♪若い娘がウッフン というため息まじりの歌い出しから、途中♪つまんでごらんよワン しゃぶってごらんよツー という意味深な歌詞があったりで、NHKでは放送が自粛された。また、その年のディスク大賞にもノミネートされたが、清潔な審査員によって否決された。それでも当時で25万枚のセールスというのだから、ビッグヒットである。作曲はこの曲でブレイク、翌年には「僕は泣いちっち」、そのあと「バラが咲いた」「夜霧よ今夜も有難う」「涙くんさよなら」「夕陽が泣いている」「人生いろいろ」などを作った浜口庫之助。作詞は「みだれ髪」や「風雪ながれ旅」など演歌一すじの星野哲郎。
なお、“引用”にある「南国土佐」は「南国土佐を後にして」で、やはり昭和34年の発売。その年最大のヒット曲となった。高知県の「よさこい節」をフューチャーした民謡調の歌謡曲で、歌ったのはなんとジャズシンガーのペギー葉山。本人はこの歌を歌うのがいやでいやでたまらなかったというからわからないもの。

平岩弓枝は昭和32年、25歳で小説家デビュー。34年の作品「鏨師」で直木賞を受賞。その翌年にこの長編「黒い扇」を書いた。この作品は地方紙数紙で連載された。
伊豆修善寺の旅館の風呂で邦楽作曲の死体が発見されるところからこの「黒い扇」は始まる。花柳界、日本舞踊、歌舞伎、映画、テレビなど当時最も華やかだった世界を舞台に連続殺人事件が起きる。その謎を解くのは梨園の御曹司で人気映画スターの能条寛と新橋芸者の浜八千代。二人は好き合っているくせにケンカばかりという、よくある設定。結局犯人は女にふられた男とその娘で、“探偵コンビ”がそれをつきとめる。そして二人も結婚へゴールイン。「女にふられたぐらいで何人も殺すか?」とか、「殺人事件につきものの刑事がほとんど出てこないぞ」、などしっくりいかない部分はあるものの、今のテレビドラマにもありがちなストーリーでエンターテインメントの要素は十分。
昭和33年に松本清張が「黒い樹海」「黒い画集」を発表し、翌年には水原弘の歌う「黒花びら」がレコード大賞を受賞と、“黒いブーム”が湧き起こった。この「黒い扇」もその時流に乗ったもの。


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『70年代の歌謡曲②』 [noisy life]


♪ やっぱり あの人は
  わたしを送りに来なかった
  賑わう夕暮れ 人混みのなか
  わたしは ただバスを待つ
  悲しみだけを 道案内に
  想い出色の 洋服を着て
  辛くないと言えば嘘だわ
  あの人のことが 気がかりだけど
  わたしは いまバスに乗る
(「挽歌」詞・千家和也、曲・浜圭介、歌・由紀さおり、昭和49年)

きょうの昼、オールディーズが流れる中華食堂へ行ってきました。いつものようにいつもの相棒と一緒です。いつもより早めだったせいか、店内は満員。といってもカウンターのみ10席足らずの小さな店なのですが。
その店は坂の下にあり、相棒の会社は坂の上にあります。わたしは降りた地下鉄の入口でいつも待っています。相棒は坂の上から自転車で下ってくるのです。ところが今日は徒歩。なんでも自転車を盗まれたとか。わたしが知ってるだけで6台盗難にあっています。自転車には鍵をかけない。そういう性格の相棒なのです。
ドアを開けるとタイミング良く帰る客2人。席に座るなり聞こえたきたのが西島三重子の「池上線」。この歌を聴くと、子供のころ遊んだ街(沿線にあった)の夕景が浮かんできます。西島三重子はまだ歌っているのでしょうか。
今日はうすら寒いので迷わずに海鮮湯麺。相棒はマーボ茄子。そしていつものように水餃子をひと皿。それをふたりで食べます。めんどうなのは、ひと皿5個入りということ。わたしはそれほど大食漢ではないので、いつも2個と決めています。相棒はかつて大食漢でしたが、最近ドクターストップで減らしています。ならば水餃子は注文しなければいいのですが、必ず「あと、水餃子ね」というのが相棒の決まり文句。
わたしは2個食べ終わり、相棒はもっとはやく2個食べ終わっています。ふたりの間の皿には水餃子が1個。「俺もう食べられないよ」とわたし。「あ、そう」と言いながら相棒が箸で水餃子を挟みます。これがいつもの“儀式”。なんだか変だと思いますが、相棒は私が辞退宣言しなければ決して食べないので、仕方ない。
「これから、一度家へ帰ってシャワーを浴びて会社へ出直すんだ」
と相棒。昨晩は仕事で徹夜だったようです。そんなわけで、いつもなら中華食堂を出た後、珈琲店で雑談をするのですが、今日はなし。

今日は店が混んでいて、他のお客さんの話し声が飛び交い、また座った場所もわるく、有線があまりよく耳に入らなかったのですが、はっきり聞き取れたのは「池上線」以外では上条恒彦と六文銭の「だれかが風の中で」。木枯らし紋次郎ですね。懐かしい。それに西城秀樹の「恋する季節」、そして由紀さおりの「挽歌」、それに郷ひろみの名前が思い出せなかった曲。
なかでは「挽歌」がフェヴァリット・ソングの1曲。家でもしばしば聴くので新鮮味はありませんでしたが、好きな歌を思いがけないところで聴くというのはやはりうれしいことです。この歌を聴いていると必ず昔好きだったひとの顔が浮かんできます。ただたんに、彼女が由紀さおりにどこか似ていたというだけなのですが。でも昔のひとの顔や仕種や言葉を思い出すというのは決して気分のわるいことではありません。

帰宅してから、気になっていた郷ひろみの歌を思い出すため、MDを聴いてみました。わかりました。「あなたがいたから僕がいた」という曲でした。やはり筒美-橋本コンビの曲でした。MDには西城秀樹の曲も入っていたのでついでに聴いてしまいました。実をいうとこの時代あまり歌謡曲を積極的に聴いていなかったのですが、今聴くと、なかなかいいですね。郷ひろみも西城秀樹も声が若い。あたりまえ。曲もメロディーもさることながら、ストリングスやラッパを駆使した編曲が意外に凝っている。もちろん昭和、アナログの匂い芬々の曲ばかりでした。


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【愚連隊】 [obsolete]


『その夜はクリスマスであった。難波や梅田など都心の繁華街は、ジングル・ベルのメロディーで溢れ、三角帽を被った男たちや、家族へのプレゼントを抱えた人々で賑わったが、飛田界隈も、商店街だけが儲けるために、空しいメロディーを流した。
 が、街を通る人々は、クリスマスとは無縁であった。愚連隊だけが酒に酔って三角帽をかぶり、暴力沙汰をあちこちで起こした。』
「流木の終駅」(黒岩重吾、昭和38年)

「愚連隊」、〈おろかにつるんでいるやから〉とはうまい漢字をあてたものである。愚連とは何か。これは「グレる」からきているらしい。「グレる」とは〈不良になる、ワルくなる〉といった意味。これもあまり使われなくなった。さらにつっこめばなぜわるくなるのが「グレる」なのか。これは結構深い。その語源は「グリハマ」で、それが「グレハマ」になり「グレる」になった。でその「グリハマ」とは、貝のハマグリの逆さ言葉。ハマグリの1対ある貝殻をひとつ逆さまにするとピッタリ合わなくなる。つまりダメになる。そこから食い違ったりダメになることをグリハマといい、それが転訛してグレるになったと言われている。江戸時代の後期には使われていたとか。
ヤクザや暴力団、あるいはチンピラを「愚連隊」と言ったのは戦後になってから。昭和31年は、「もはや戦後ではない」という流行語が生まれるほど、経済的に戦後の“トンネル”から脱出した年だが、なぜか愚連隊が全国的に大発生した年でもある。連日のように彼らが起こした事件が新聞紙上を賑わせていた。経済が豊になると悪がはびこり出すのか、悪が活動しはじめると経済が上向きになるのか。

中川一雄は西成・飛田遊郭の傍でトランプ占いで生計をたてていた。かつてはヤクザ者でトラブに巻き込まれ左手は鉄製の義手だった。そんな彼が愛したのがバーのホステスのひなえだった。ひなえもまた中川を愛していた。そのひなえがある日突然失踪する。そして中川のひなえ探しの物語が始まる。そのなかで知らなかったひなえの過去があきらかになっていく。また、中川に近づく男娼や、麻薬中毒患者の疑いのあるひなえの父親、あるいは中川の住むアパートの住人たちが登場し、話は核心に迫っていき、意外な結末を迎える。
「流木の終駅」は博打、売春、麻薬、暴力団とダーティな世界の中で、同じ希望にしが
みつきながら、それを手にすることができなかった男女の悲劇が描かれている。
作家になるまで波瀾万丈の人生を歩んできた黒岩重吾は、実際、西成でトランプ占いをしていたことがあるという。それだけに主人公の中川はもちろん、人生の吹きだまりに生きる登場人物たちもリアリティをもって伝わってくる。


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【デコラ】 [obsolete]

『二人はいそぎ足になり、甲州街道へと出て行った。広い甲州街道ぞいのその店にたどりつくと、明るい店のなかに並んでいる六つばかりのデコラのどのテーブルにも客は居なかった。雨のせいかひどく閑散な店の窓ぎわのテーブルにつき、お茶を運んできた女の子へ、「ラーメン二つ」
と常夫が指を立てて註文してから、やっと落ち着いた気分が二人の間を流れはじめた。』
(「結婚までを」藤原審爾、昭和35年)

「デコラ」といっても怪獣ではない。家具などの表面に張られた光沢のある化粧合板のこと。日本独自のもので、昭和30年代に入ってから一般に普及した。色がきれいなうえに、ものをこぼしても拭き取りが簡単で、引用にあるような中華そば屋など、当時は飲食店のテーブルに用いられた。また、裕福な家庭では「デコラ張り」の家具を使用していたところもあった。木製のお膳や餉台しかしらなかった当時の人間にはとても高級感があった。いまでも探せばどこかの食堂に「デコラ」は存在しているかもしれない。しかし、時の流れにより高級感より低級感がまさっていることは間違いない。

「結婚までを」は、倒産の危機をはらむ出版社で人員整理の心配をしながら働くタイピストの主人公が、周囲をとりまく人たちの小事件に遭遇しながら、ようやくフィアンセとの結婚を思い切るまでの話。敗戦から10数年、まだこれほど貧しかったのかと思わせられる。たとえば、主人公の家族は5人で父は職人として仕事をしているにもかかわらず、食器が3人分しかないので食事の時間をずらしたり、貧しいためなかなか結婚に踏み切れない。上の引用部分は、フィアンセとデートをして中華そばを食べるのだが、その前に肉屋で焼豚と卵を買い、ラーメンにトッピングするというシーン。
藤原審爾は昭和27年に「罪な女」で直木賞受賞。代表作は「秋津温泉」「赤い殺意」。その他、シリーズ化された「新宿警察シリーズ」が知られている。


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『電話』 [noisy life]


♪ リンリンリリン リンリンリリンリン
  リンリンリリン リンリリリリン
  ……
  明日は卒業式だから これが最後のチャンスだよ
  指のふるえをおさえつつ 僕はダイヤル回したよ
  君のテレフォンナンバー6700  OH! HELLO!
  あなたが好き 死ぬほど好き
  この愛受け止めて ほしいよ
  男らしく いきたいけど
  ドキドキときめいて 言えない
  ……
(「恋のダイアル6700」詞・阿久悠、曲・井上忠夫、歌・フィンガー5、昭和48年)

今日は休日にもかかわらず、電話が多かったなあ。間違い電話、セールスも含めて。最近パソコンをはじめたというおばさんが、「わるいねえ」といいながら分からないことを何度も聞いてきたり。相手の顔が見えない電話はどうも苦手。

いままででいちばん辛く悲しかった電話は、やっぱり別れの電話。「もう、電話してこないでね」ガチャ。これはキツイ。しばらく立ち直れません。それと、親しい人が亡くなったという電話。数年前、尊敬する先輩がガンで入院したという電話を奥さんからもらいました。さっそく見舞いにいきました。余命1年。本人は知りません。ただ、病床で握手したときの先輩の顔が、いままで見たことのないような表情。病院から帰ってから数日後、ふたたび奥さんから電話があり、先輩が急死したとことを告げられました。1年と言っていたのに……。あのときの顔が忘れられません。
それにひきかえ、うれしい“幸福の電話”のなんと少ないことか。そういえば去年の春、思わぬ人から電話が。中学時代のガールフレンド。同窓会の誘いです。もう30年以上は会っていません。不思議なものですね。電話の向こうには50歳を過ぎた女性がいるはずなのに、わたしの頭の中の映像には15、6の少女が話しかけてきます。仕事の都合で参加できなかったのですが、残念だったのか、良かったのか。

電話の歌で印象的だったのは、ポール・アンカの「電話でキッス」KISSIN' ON THE PHONE。
もちろん聴いたのは日本語のカヴァー曲。たしか、パラダイスキングや飯田久彦、それに今年亡くなった“謎のドイツ人”フランツ・フリーデルなんかが歌っていました。恋人と電話越しにキスをするのが、なんともコミカル。当時(今でも?)日本人でそんなヤツいなかったですから。
だいたい日本の歌の場合、電話は悲しいシチュエーションが多い。「悪女」(中島みゆき)は友達に電話して、男と遊んでる妄想話をする女の話だし、「悲しみがとまらない」(杏里)では、ある日突然電話があり、見知らぬ女から今の彼と別れてほしいといわれ、「飛んでイスタンブール」(庄野真代)では電話で彼から別れを告げられる、といった具合。
最悪なのは「ホテル」(島津ゆたか)で、不倫相手から、手紙や電話はするなと言われている悲しい女の話。とどめを刺すのは「帰らざる日々」(アリス)。自殺する前にかつての恋人に最後の電話をするという救いのない話。あゝ、もういやだ。
だから電話はキライなんだ……。


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『石焼きいも』 [noisy life]

♪ かきねのかきねの まがりかど
  たき火だたき火だ 落ち葉たき
  あたろうか あたろうよ
  北風ぴいぷう 吹いている
(「たき火」詞・巽聖歌、曲・渡辺茂、昭和16年)

「いしや~きいも~」の声。もうそんな季節になりました。
石焼きいもをはじめ、最近の物売りの声はほとんどがテープを使ったアナウンス。同じ声質、同じ声量で同じ文句を繰り返すだけ。ときにはトチったり、その日の天気なんかのアドリブを入れればそれなりにおもしろいと思うのですが。

あの屋台の石焼きいも屋が現れたのは戦後だそうです。もちろん焼きいも屋は戦前からあり、窯や壺のなかにサツマイモをぶら下げて焼いていました。
最盛期は昭和30年代で、東京だけでも流しの石焼きいも屋さんが2000人からいたとか。いまのように軽トラックではなく、みんなリヤカーでした。荷台に張った鉄板に丸い小石を敷きつめてその中にサツマイモを転がしておく。それを下の釜で薪を燃やして焼くわけです。おじさんは軍手をして、熱くなった石を掻き回していもがよく焼けるようにする。子供にはスゴイ職人技に見えました。あの煤けた軍手がカッコ良かった。
石焼きいも屋の衰退の原因のひとつはハンバーガーやホットドッグなどのファーストフード店ができたことだといわれています。まあ、食生活が変わったのですね。焼きいももそうですが、子供の頃よくおやつで食べた干しいもだって食べる人が少なくなってる。
それでも、ここ数年、なんとなく石焼きいも屋さん復活の兆しが。中には女性もいるとか。まだ見たことないけれど。
あらためて考えると、火を燃やしながら車で走るんだから危ないといえば危ないですよね。
なんでも、年に何件かは屋台が丸焼けになる火災があるのだとか。想像するだけでスゴイ光景です。いもだけに“への用心”なんて、古いダジャレを言ってる場合じゃない。

で、焼きいもにまつわる歌ですが。
♪思いっきり、思いっきり、大きな口あけて ガブリ!ムシャムシャ! ガブリ!もぐもぐ! 焼きいも、大好き という「焼きいもの歌」が幼稚園で歌われているそうですが、流行歌では見あたらない……。聴いたことはありませんが「焼きいも屋のくる夜更け」という歌があるそうです。なんとなくいろいろなドラマを想像させてくれるタイトルで、ぜひ一度聴いてみたい。
じゃがいもなら、森進一が作った「じゃがいもの唄」があるし、古くは田代みどりがカヴァーしたイタリアンポップス「小つぶのじゃがいも」PATATINA があります。ちっちゃくてえくぼのある女の子をじゃがいもにたとえているのですが、果たして褒め言葉になるのか。なぜかドドンパのリズムというのもおもしろい。それに、遠藤賢司の「カレーライス」にはじゃがいも、にんじん、玉葱が入ってました。
そうそう、石焼きいも屋さんの中には値段をふっかける業者がいて、1本2、3000円とられたなんて話も。値段を明記いていない屋台が多いようですが、相場は100グラム100円ということで、大きさにもよりますが1本300円程度ではないでしょうか。買うときはくれぐれも値段を確認してからのほうがよろしいようで。


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『選挙の歌』 [noisy life]


The other night dear as I lay sleeping
I dreamed I held you in my arms
When I awoke dear I was mistaken and
I hung my head and cried

YOU ARE MY SUNSHINE my only sunshine
you make me happy when skies are gray
You'll never know dear how much I love you
Please don't take my sunshine away
([YOU ARE MY SUNSHINE] words & music : JIMMIE DAVIS, CHARLES MITCHELL, vocal : JIMMIE DAVIS, 1940)

アメリカの中間選挙では民主党が大勝利。ブッシュさんは国防長官を更迭して失地回復に全力投球。まあイラク政策の劇的な方向転換は望めないでしょうが、少しはイラク国民にとってもアメリカ兵にとっても好ましい方向にむかうのでは……。それにしてもノンキな安部さん。「アメリカとの関係は変わらない」ってそんなわかりきったことを。そんな大ざっぱな言い方を。

で、選挙の歌。
とはいえ、日本は真面目な選挙に流行歌などとんでもない! という意識があるようです。
もはや過去の人ですが小泉純一郎氏、プレスリーがすきならば選挙中に[A fool such as I]とか[Don't be cruel]なんかを流せばよかったのに。現首相ならば「美しい祖国」(マイク真木)とか「美しい十代」(三田明)なんか。やっぱり選挙も音楽を活用してもっとショーアップしたほうが楽しくなるし、投票率も上がると思うのですが。

アメリカはかなり古くから選挙に音楽を利用しています。リンカーンとかルーズベルトなど人気のあった大統領は必ず、彼らのための歌が作られましたし、そうでなくても、選挙用の応援歌を作って、演説中に流すのはごく当然のことだったようです。あの名曲[You are my sunshine]の作者でありカントリー歌手だったジミー・デイヴィスは、選挙中その歌を目一杯流し続けてルイジアナ州の知事に当選したそうです。
最近で(もないか)は、1980年代レーガン大統領が選挙中、ニュージャージーを訪れたとき、当地のミュージシャン、ブルース・スプリングスティーンの曲を使って州民の歓心を買おうとしたことが話題になりました。結局反対派の共和党議員のクレームで実現しなかったそうですが。当のスプリングスティーンはまるで関心がななかったとか。

まあ、日本とアメリカの国民性の違いですかね……、とキーを打ったところで思い出しました。日本でも選挙に流行歌というかポップスを利用した政治家がいたことを。
そうですあの鈴木宗男さんです。協力したのは松山千春さん。好き嫌いはともかく、政治家と歌手のコラボ、決してわるくはないと思うのですが。よくかかっていた曲は何でしたか覚えていませんが、多分、お気に入りの「大空と大地の中で」だったかも。それよりも“泣き虫ムネオ”のために「旅立ち」なんかもかかったかもしれない。宗男さんが演説中、感極まって落涙したところで、♪ 私の瞳が濡れているのは…… なんてね。
とにかく、政治家は流行歌を利用すべきですね。その選曲でその人間のセンスや好みもわかりますしね。ご一考を。誰に言ってんだか。


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『豆腐の歌』 [noisy life]


♪ のぼりの汽車がピーポッポ
  とんびもつられて笛吹いた
  ホーイのホイ
  あんちゃはどうしているんだい
  ちょっぴり教えてくんないか
  あぶらげ一丁進上よ
  ホーイのホイ
「夕焼けとんび」(詞・矢野亮、曲吉田矢健治、歌・三橋美智也)

最近あちこちで見かけるのが「豆腐屋」。昔でいう箱をつけたリヤカーのようなものを引っぱっている。のぼりを立てているのも同じで、どこかのチェーン店がやっているのでしょうか。豆腐屋の象徴でもあるラッパの音も聞こえるし、豆腐以外でも厚揚げ、薄揚げ、湯葉、納豆、豆乳などを扱っているとアナウンスしていました。

その「とーふぃー」のnoiseを耳に甦らせて、豆腐の歌を考えてみました。
「豆腐へ行きたい」「豆腐で汽笛を聞きながら」なんてダジャレはともかく。あるわきゃないよ、と思っていたら、昨今の食品ソングブームで豆腐もありました。地域限定ではいくつかあるようですが、全国区ではNHKみんなの歌で放送された吉幾三作、自演の「TOFU(豆腐)」。未聴ですが、なんでもラテンのリズムで世界各国の豆腐の食べ方を歌っているとか。2年前に作られて、♪さかな さかな さかな~ のように全国制覇を目論んだようですが、不発に終わったようで。

そういえば子供の頃、自転車で豆腐を売りに来ていたお兄さんがいました。いつもニコニコしていて。夕方前、我々が遊んでいる広場に来てはあぶら(揚げじゃない)を売っていました。野球をしたり、ベーゴマに参加したり。いつも豆腐を入れた箱の脇に黒いボクシングのグローブをぶら下げていて、たまには中学生のアニキ連とスパーリングなんかしちゃったりして。いま思えば、集団就職で地方からやってきたんでしょうね。豆腐屋の小僧はしていても、いつかはチャンピオンになるんだ、なんて夢を抱いていたのでしょうか。
実はわたし、あの豆腐を入れた箱に憧れていたのです。白木造りで、角や抽斗に赤銅を使っている。上蓋をスライドさせると中は水槽、いくつもの豆腐が魚のように泳いでいて。小さな抽斗が3つ4つ。そこには薄揚げ、厚揚げ、がんもどきなんかが入っている。お兄さんはまるで手品師のような慣れた手つきでその抽斗を開け閉めする。
そんなもの、手に入れて家へ持って帰ってどうしようという思案もないまま、ただただその“魔法の箱”に目を奪われていましたっけ。豆腐屋になろうという了見ではなく、ただただあの箱がほしかったのです。

とにもかくにも日本人は豆腐がすきですね。夏なら冷や奴。これからは湯豆腐。味噌汁の具としては季節に関係なく定番です。その“相棒”としては葱だなやっぱり。若布もいいなあ。三つ葉も結構おいしい。油揚げは同類だけど意外と合う。焼きたての厚揚げに葱と生姜をのせて、醤油をたらしてもいい。これからは鍋もいいし、焼き豆腐のすき焼きもいい。昨日の晩のすき焼きの残りに、軽く溶かした玉子をかけ火にかけてとじる。熱々のところを酒やビールの肴に。あゝなんだか腹いっぱいになった気分です。当分豆腐はいいや……。


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【失敬】 [obsolete]


『「……夜八時に、常務の新入社員の引見があり、そのとき社員証を渡すことになるが、それまでは別に用もないから、ゆっくり昼寝でもしていたらいい。今後、この部屋は君の部屋だから、自由に使ってもらって構わないんだ。じゃ、失敬する。七時半に迎えに来るからね……」』
「パニック」(安部公房、昭和29年)

〈暇乞いをする〉、〈別れる〉という意味。そのほか「失敬」には、「失敬なヤツだ」などという使い方で、〈失礼〉、〈無礼〉という意味、また「財布から失敬する」というように〈盗む〉という意味がある。ほとんどは男ことば。
昭和30年代ごろまでは、日常会話としても頻繁に使われていたのだが、どういうわけか使われなくなってしまった。子供でも、相手に迷惑をかけたとき「シッケイ、シッケイ」などと言う大人びたヤツもいた。なぜ使われなくなったのかよくわからないが、「敬」は「礼」よりも堅苦しく大げさなイメージがあるので、嫌われたのかも知れない。
現在では、別れる場合、「失礼」あるいは「失礼します」ということもあるが、親しい間柄ならば「じゃあね」「またね」などですましている。無礼な場合は、「失礼なヤツだ」だろうが、もっと乱暴に言うなら「バカじゃないか」。盗むという場合は、そのまま「盗む」とか「取る」。あるいは「拝借する」。「拝借」も使わないかな。

失業中の“私”は職業安定所を出たところで「パニック商事」の求人係と名乗る男から声をかけられる。そして就職試験の申込用紙を渡される。そしてその用紙に従って夜、酒場でKという男と会う。酒で前後不覚になった“私”が目を覚ましたのはアパートの一室っだった。そこには血まみれのKが横たわっていた。おそろしくなった“私”は逃げだした。そして女房の待つ家へも帰らず、街を彷徨していた。そのとき何者かが自分を尾行していることに気づいた。それから4日目、女房に金を渡そうと思い、見知らぬ家の玄関にあった靴を盗もうとしたところ、そこの女主人にみつかった。女が叫びだしたので“私”は傍にあったナタを彼女の頭に叩きつけた。その時、尾行者が姿を現し、“私”を連れて逃げた。尾行者は死んだはずのKだった。Kはこれが入社試験で、“私”は合格したのだという。ドロボウが業務だという「パニック商事」への入社を断ると、Kは女を殺したのは事実だから、君は逮捕されると言う。実際、しばらくして2人の刑事がやってきて“私”は逮捕された。“私”は「パニック商事」の話をして必死で弁解したが聞き入れてもらえなかった。証拠になるはずの申込書も紛失していた。それは2人の刑事のどちらかが「パニック商事」の社員だからだと“私”は思っている。
現実と非現実が交互に現れ、錯綜し、やがて現実が非現実に、非現実が現実になり、しまいにはその境界すら不明になってしまうというアヴァンギャルドな物語。その中で主人公は身に覚えのない罪をきせられ、疎外されていく。これもカフカに通ずる安部公房ワールド。作者29歳のときの作品。


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【しましてよ】 [obsolete]

『「お願いよ、叔母さま」
 れい子はこう甘ったれてから、
「切りましてよ、電話を」
と言った。
「ずるいわね、まだ引き受けてはいないわ」
それから、その声といっしょに向こうから電話は切れた。』
「青衣の人」(井上靖、昭和31年)

「~しましてよ」、「切りましてよ」という言い方は、自分の意志を相手に伝える女言葉で今風に言えば「~しますよ」あるいは「~しますからね」となる。「結構でしてよ」「よくってよ」などと使われた。語尾に“よ”がつくのだから、決して丁寧な言葉ではないが乱暴な言葉でもない。また、比較的若い女性が使った言葉のようで、どこか気取りがあり、生活水準や教養水準が高めの女性が使う言葉というイメージがある。間違っても下町のおばちゃん、姐ちゃんたちには無縁の言葉だった。東京弁なのか、あるいはいつごろから使われはじめたのかは不明だが、昭和40年代にはほぼ廃れかかっていたのではないだろうか。やはり女言葉で、いつしかお笑いやギャグの対象になってしまった“ザアマス言葉”もほとんど消えかかっている。
現代、とりわけ若者の間では、「じゃん」「とか」「みたいな」「ちげえよ」と全国共通男女差無しの言葉一色になり、女言葉があまり聞こえてこないのは寂しい。「うるせえよ」など、女性が男言葉を使うのは、たんに女が男を真似ているだけで男女平等でもなんでもなく、男性優位社会に追従しているだけだと思うのですが。

「青衣の人」は井上靖お得意の“大人の恋の物語”である。
陶工の道介は気分転換で出かけた琵琶湖で自殺しようとしていた若い女性・れい子を助ける。そのことが縁で、10年前思いを寄せていたれい子の叔母・暁子と再会する。道介には療養所で静養している妻がいる。そして大学教授である暁子の夫がパリへ出かけている三カ月の間、この不倫ストーリーは展開する。
お互いに魅かれながらも自分の気持ちを抑制する。抑えれば抑えるほど愛の炎は広がっていく。薄い壁一枚が取り除かれればふたつの炎は一緒になるのに。「どうなってもいい」思い切って跳んだのは男だった。しかし女は跳べなかった。男は去っていく。それを女が追う。後日、暁子は道介を伊豆へ誘い、自分の思いを正直に打ち明ける。そして「私の心の全部を差し上げた」と言う。
暁子は夫が帰国する前に、れい子に自殺をほのめかす手紙を残して旅に出る。暁子を探す道介とれい子を乗せたタクシーが天城峠にさしかかったところで話は終わる。
まどろっこしい話である。肉体のともなわない精神だけの高揚など今では信じがたい話かも知れない。今だったら、即セックス、お互いにさっさと離婚して新しい人生を、となる。そうすると「青衣の人」はファンタジーのようなまったく別世界の話に思えてくる。しかしこれは江戸でも明治でもない、ほんの半世紀前に書かれた物語なのだ。


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LIVE YOUNG [story]

Palm Spring   Palm Spring
Let yourself go and you'll find out what you've been missin'.
Live young, you'll like a butterfly trying its wings
Love young and you'll discover such fabulous thing
Don't be afraid to give your heart away,
Why save your love and kisses for a rainy day?
…………
Live young and let me show you how sweet life can be.
Love young, the world's a wonderland share it with me.
Let's start tonight and make a memory you and me
Let's dream young love young live young
([LIVE YOUNG]恋のパームスプリングス words:LARRY KUSIK, music:PAUL EVANS, vocal:TROY DONAHUE, 1963)

中学へ入ると、僕は躊躇うことなく野球部へ入部した。
わが野球部は昨年、春の県大会でベスト4に残った強豪だ。数年前まではよくても3回戦あたりで敗退してしまう弱小チームだった。それが、県屈指のチームになったのは、僕の入学と同時に卒業していった吉原先輩のおかげだった。

吉原先輩はピッチャーで4番、新入生のときからレギュラーになり、その非凡な才能をグラウンドで開花させていった。おまけに当時人気だった俳優のUに似た顔立ちは女子生徒の憧れの的だった。つまり、吉原先輩はわが中学、わが町のヒーローだったのである。
なにをかくそう、実は僕も吉原先輩に憧れて野球部へ入ったのだ。4つ上の姉と吉原先輩がクラスメートで、小学生の頃から“ヨシハラクン”の話を聞かされ、密かに憧れていた。
「吉原クン、きっとプロ野球へ行くわ。みんなそう言ってるもの……」
そんな話をしていた姉も、密かに先輩に想いを寄せていた一人だったのかも知れない。

吉原先輩は母子家庭。お父さんは彼が小学校5年生のときに病気で亡くなったそうだ。お母さんと3つ上のお兄さんが近所の鉛筆工場で働いている。先輩も中学を出たら就職するつもりだったが、卓越した野球センスを周囲が放っておかなかった。入学金、授業料免除の特待生として野球の名門・T高校に招かれたのである。

夏休みになり、毎日午前中から夕方まで、僕らはカンカン照りに焼かれながらグラウンドを走り回っていた。吉原先輩が新人戦でノーヒット・ノーランを成し遂げたという話が伝わってきたのはその頃だった。しばらくはその話でもちきりだった。僕らのあいだで吉原先輩はますます神格化されていった。

その“神話”が崩れたのは秋季大会で、わが中学があっけなく4回戦敗退して間もない頃だった。はじめは吉原先輩がT高校の野球部をやめたという噂だった。それだけでも僕らにとっては大きな衝撃だった。それがしばらくすると、T高校を退学になったという話が伝わってきた。そして、僕は2年生の先輩から「誰にも言うなよ」と前置きされたあと、吉原先輩が数人の友だちと女子高生を強姦して警察に捕まったことを聞かされたのだった。まったく信じがたい話だったが、その話は野球部員だけでなく、全校生徒にあっという間に広まっていった。噂とは残酷なもので、被害者の女子高生の身元まで暴いてしまう。被害者は姉の通っていた高校の同級生だった。

中学を卒業すると僕は県立の工業高校へ入った。己の野球の能力にはとっくに見切りをつけていたので陸上部へ入った。まあ、有り余ったエネルギーを消費するためのスポーツであり、勝敗や記録に対するこだわりはまったくなかった。ただグラウンドを走ること、乳酸と闘うことだけに生きがいを感じていたというわけだ。それと友だちの影響で映画の愉しさを知った。陸上と映画館通い、大袈裟に言うとこれが僕の高校生活のすべてだった。

忘れていた吉原先輩の噂を聞いたのは、2年の夏だった。
吉原先輩があの事件のあと、東京へ行き小さな鉄工場へ就職したという話は誰からともなく聞いていた。その先輩が東京でプロボクサーになり、ウエルター級の日本ランキング6位になっているというのだ。中学時代の友人に会うと、かならずその話になった。
「凄いぜ。9戦9勝でKO勝ちが7回。近々日本チャンピオンに挑戦するってよ」
ボクシング好きの友人はそんな情報を披露した。そして、
「タイトルマッチが決まったら、ぜったい東京へ応援に行こうな」
と僕を誘った。もちろん僕は同意した。

ちょうどその頃、姉が、先輩たちに暴行された例の友だちが自殺したことを教えてくれた。葬儀に参席した姉は、そこで亡くなった友だちのたったひとりの兄が取り乱し、傍目も気にせず男泣きしていた姿が見ていられなかったと涙をこぼした。僕は「先輩のことが原因かどうかわからないよ」と姉に反論した。そのときの姉の僕を蔑んだような眼と、言うべきではないことを言ってしまったことで口の中に広がった苦みをいまでも覚えている。

吉原先輩は次の試合で負けた。そしてその後3連敗してリングを去った。結局タイトルマッチまでたどり着けなかった。僕らが試合を見に行く機会もなくなったのだ。

その後しばらくして吉原先輩はこの町に戻ってきた。僕が高校3年になった春だった。
それからは頻繁に先輩の噂が耳に入ってきた。誰と喧嘩をしたとか、誰を脅かしたとか、耳を塞ぎたくなるような話ばかりだった。町の愚連隊に入ったらしく、いつも仲間と連んで駅前の繁華街をのし歩いていた。僕も何度か見かけたが、短髪に派手な服、足元は雪駄という出で立ちはいかにもその筋の人間で、目を逸らさずにはいられなかった。

僕は高校3年になって急に方向転換した。大学へ行きたくなったのだ。もちろん僕の通っていた高校は受験校ではないので、進学は厳しい。しかし、浪人してもいいから行こうと思った。大学受験のスタートに出遅れ、おまけに工業高校というハンデを克服するためには相当な努力が必要だった。授業が終わると町の図書館へ直行。閉館まで勉強して、家へ帰ってまた勉強という毎日だった。


夏休みになると図書館通いは朝からになった。今考えても、あれほど勉強に時間を費やした時期はなかった。図書館ではよく、中学時代の友だちと一緒になった。彼らもやはり大学を目指していたのだ。ある夜、図書館の帰り道、僕はその友だちのひとりSと一緒だった。彼はボソッと言った。
「吉原先輩のこと知ってる?」
「いや」
「クルマにはねられたって」
「ええっ?」
「先週の土曜日。夜中家に帰る途中だって。轢き逃げだってさ」
「それで?」
「一時は助からないって言われたけど、奇跡的に命はとりとめたって。悪運だよな」
僕は直感的に先輩を轢いた人間は、自殺した被害者の兄ではないかと思った。もちろんSにそのことは話さなかったのだが。結局、いまもって轢き逃げ犯人は捕まっていない。

年が明け、寒さの残る2月、僕は3つ目に受験した大学に運良く合格することができた。
高校の卒業式も終え、大学の入学手続きもすべて済ませた。あとは4月の入学式を待つばかり。高校生でも大学生でもない弥生3月。とても中途半端で、とても愉快な時間。僕は受験勉強中自ら禁じていた好きな映画を観まくることにした。もっとも小遣いが限られているので封切館は行かず、3本立て、4本立ての二番館三番館専門だったのだが。

明日、大学の入学式という日だった。大学へ入ったら学費を稼ぐためにアルバイトをしなくてはならない。しばらくは映画も見納めだという思いで、僕は朝から駅前のオデヲン座へ出かけていった。

その日は平日で、朝一番ということもあり、館内はガラガラだった。上映開始前に到着したので僕は休憩所の長椅子に腰掛け、入館時に渡されたプログラムを見ていた。すると僕の視線に人影が入ってきた。少し視線をあげると、松葉杖をついた男の下半身が見えた。右足のヨレヨレのズボンの裾が結ばれていた。隻脚だった。男は身体を投げ出すようにしてソファに座った。松葉杖を揃えて脇に置くと、背広のポケットから“新生”を取りだし、1本口にくわえるとマッチで火を点けた。そして大きく煙を吐き出した。
「よう、アンちゃん、1本どうだい?」
そう言って男は僕の目の前にクシャクシャの新生の箱を差し出した。僕は顔をあげて首を振った。……吉原先輩だった。頬がこけ精気のない顔はとても20代前半には見えなかった。しかしその鋭い眼差しはたしかに吉原先輩だった。
「そうかい。高校生かい? 真面目だな。ハハハハ……」
そう言って笑うと、先輩は松葉杖を掴んで器用に立ち上がった。
「すいません」
僕の言葉には返事をせず、煙草をくわえたまま背を向けた。まだ鼻で笑っていた。床につく杖と片足の音が交互に聞こえた。そのたびに背中が大きく揺れていた。僕は、はじめて吉原先輩と言葉を交わしたことに気づいた。そして、見たこともないユニフォーム姿の吉原先輩がマウンドで大きく振りかぶる姿が浮かんできた。

Live young


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『ねずみ』 [noisy life]


♪ ドブネズミみたいに 美しくなりたい
  写真には写らない 美しさがあるから
  リンダリンダ リンダリンダリンダ
  リンダリンダ リンダリンダリンダ
  もしも僕がいつか君と出会い話し合うなら
  そんな時はどうか愛の意味を知って下さい
  ……
(「リンダ・リンダ」詞、曲・甲本ヒロト、歌・BLUE HEARTS、昭和62年)

猫の次はねずみ……。連想ゲームじゃないけれど、今日たまたまねずみを見たました。
地下鉄の線路脇にいたドブネズミ。ホームにかなりの乗客がいてもいっこうに逃げようとしません。そのうち電車が入ってきたが慣れているのか平気の平左。
そういえば、近頃すっかりねずみを見る機会が少なくなりました。昭和30年代では、たいがいの家庭が天井裏にねずみを“飼って”いた。好きこのんで飼っていたのではないのですが。夜、蒲団の中に入ると天井裏でねずみたちが走り回る音が。“ねずみの運動会”なんていってました。金網式あるいはバネ式のねずみ捕り、富山銀山は毒団子などを天井に放り上げ、なんとか駆逐しようとやっきになっていました。
その効果があったのかいつの頃からか、彼らは家を追われていきました。それでも現在、たとえば東京なら人口の5~10倍、つまり5千万~1億匹のねずみがいるといわれています。人類が滅亡してもねずみは残る。しぶとい。

佐渡山豊の「ねずみ」。シンプルなアメリカンフォークのメロディーで、
♪おいらの家の屋根裏にねずみの親子が住んでいる
という歌い出し。そのねずみはやがて人間を滅ぼすほどの猛毒をもつようになる。ねずみは戦争の象徴。となれば思い浮かぶのがカミュの「ペスト」。
ある日街中でねずみの死骸がみつかり、その数が日を追うごとに増えていく。やがて国民の半分、あるいは三分の二が死ぬほどの伝染病が広がっていく。実際にヨーロッパで起きた黒死病の恐怖は同時に、ジワジワと迫り来る戦争の恐ろしさを象徴していました。
加藤登紀子の「ひとり寝の子守唄」は、まさに天井裏の“運動会”を聞きながら眠るという寂しさを歌ったもの。
唱歌の「城ヶ島の雨」には“利休鼠”が出てきます。しかしこれはねずみではなく、色つまりカラーのこと。緑がかった鼠色を“利休鼠”といいます。色ならばパフィーも「サーキットの娘」で♪ねずみ色したアスファルトの と歌っています。

それにしてもドブねずみや家ねずみにいいイメージはありません。そういえば「真夜中のカーボーイ」でダスティ・ホフマン扮するイタリア系のホームレスはラッツォ(ねず公)と呼ばれていました。ミッキーマウスだってねずみなのにえらい違いです。そのドブネズミを美しいと言った甲本ヒロトは、紛れもないロッケンローラー。


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『猫の声』 [noisy life]


♪ ふしあわせと いう名の 猫がいる
  いつもわたしのそばに ぴったり寄り添っている
  ふしあわせと いう名の 猫がいる
  だからわたしはいつも ひとりぽっちじゃない
  このつぎ春が来たなら 迎えにくると言った
  あの人もうそつき もう春なんか来やしない 来やしない
(「ふしあわせという名の猫」詞・寺山修司、曲・山本幸三郎、歌・浅川マキ、昭和45年)
  
駐車場で弱々しい猫の鳴き声を聞きました。その方を見ると、一匹の黒っぽい猫が横たわり、頭だけもたげています。びっくりしたのは胴体がぺっちゃんこになっていること。車に轢かれたのか……。しかし、近寄ってみるとそうではなく、ただ寝そべっているだけでした。それにしても、そのぬいぐるみの中味を抜いたような痩せ方は尋常ではありません。病気なのかも。
その猫を見ていて、昔の友人を思い出しました。
ある晩、いい気持ちで飲み屋から出てきたその友人が下宿へ向かっていると、途中の道で車に轢かれた猫を発見しました。下半身はグチャグチャになって内蔵も露出していたとか。それでも頭は無事で、猫は何かを訴えるようにしきりに鳴いています。動物など飼ったことのない友人でしたが、とっさに彼はその猫に近寄り、両手で内蔵ごとすくいあげ、道端の草むらに置いてあげたそうです。「あのままでは次ぎに来る車に頭も轢かれてしまうから……」と。酔った勢いがあったにしても頭が下がります。私にはとてもできない。
あの友人は、いまどうしているのか。生きているのか、どこで何をしているのか……。

♪あたいは淋しい牝猫だよ と歌うのは「淋しい牝猫」(西田佐知子)、都会の重圧に押しつぶされそうな恋人の肩を優しく抱きしめてあげたいという「群衆の中の猫」(尾崎豊)。男に尽くし捨てられた三十女が「男なんかみんな同じなんだから抱きたいなら誰だっていいよ」とうそぶくのは「捨て猫」(永井龍雲)。猫の歌はどれもこれも、本物の猫ではなく女性を猫に見立てたものばかり。それも、捨てられたり、傷ついたりした可哀相な女ばかり。多分痩せてるんでしょうね。太ってたり健康的な女は猫にたとえてもらえない。太った猫だっているのに……。まあ、童謡・唱歌を除いて、純粋な猫の歌といえば「黒ネコのタンゴ」ぐらい? ちょっと変わっているのは遠藤賢司の長大作「猫が眠っている」。シタールを取り入れたサウンドとねじれた現実を歌った詞は、ほとんどマリファナによるトリップ状態の歌。それにしても日本の歌で“猫”といえばほとんど女。

洋楽で“猫”といってすぐ思い浮かぶのがトム・ジョーンズの「何かいいことないか仔猫チャン」 WHAT'S NEW PUSSYCAT。日本と同じで仔猫ちゃんは女の娘のこと。ローリング・ストーンズの「ストレイ・キャット・ブルース」STRAY CAT BLUES の野良猫も“俺を引っ掻いたり噛んだりする彼女”のこと。ではイギリスやアメリカでも猫はすべて女のことかというとそうでもない。たとえばアメリカのトラディショナルソング「トム・キャット・ブルース」TOM CAT BLUES のトム・キャットはpussycat(女の娘)を狙う男のことだし、カントリー・ガゼットの「ホンキー・キャット」HONKY CAT はガキ大将のこと。アメリカには、日本と違ってちゃんと雄猫と雌猫がいるようです。


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『川の音』 [noisy life]

♪ The water is wide, I can't cross over
And neither have I wing to fly
Give me a boat can carry two
And we shall row, my love and I.
([THE WATER IS WIDE] TRADITIONAL)

秋のうららの隅田川沿いを散歩しました。流れは静かで上り下りの旅人はいません。子供の頃いっ時川沿いで暮らしていたのですが、その頃とのいちばん大きな違いは、護岸がしっかりして川辺に遊歩道ができたこと。でも、それ以上に時代を感じるのがにおい。あのドブ川独特のにおいがきれいに消えてしまったこと。まさに除菌消臭時代のひとつの象徴です。こうなると反対にあのにおいが懐かしかったりして……。
都会を流れる川は、周囲の雑音がうるさくて沈黙しているように思えますが、耳をそばだてると確かに水の流れる音が聞こえてきます。

その「隅田川」をはじめ、「信濃川」「千曲川」「長良川」「石狩川」「利根川」「天竜川」「淀川」「加茂川」など歌にうたわれた川は数多くあります。なかでもいちばんヒットしたのが「神田川」(南こうせつとかぐや姫)でしょうか。
日本人は川が好きですね。「川の流れのように」(美空ひばり)や「花/すべての人の心に花を」(喜納昌吉)のように川に人生を重ね合わせなくても、その流れに無意識のうちに哲学的な印象を感じ取るからではないでしょうか。生だったり死だったり、時間だったり宇宙だったり存在だったり。
古い歌では、辛い世の中を嘆かず、明日を生きようと歌う「川は流れる」(仲宗根美樹)、歌声喫茶でよく歌われた初恋の歌「北上夜曲」があり、洋画の主題歌では「クワイ河マーチ」(伊東ゆかり)、「河は呼んでいる」(中原美紗緒)などが思い浮かびます。
ほかにも川に浮かんだプールで泳ぐという「リバーサイド・ホテル」(井上陽水)やアルバムタイトルにもなっているヒーリングの歌「Deep River」(宇多田カオル)。恋人との別れの夜を歌ったのは「大阪ビッグ・リバー・ブリース」(憂歌団)。
また、川を“試練”ととらえる歌もあります。川を渡りきることで試練を乗り越えるとか、あるいはその深くて急流という困難に立ち向かうとか。人は涙の川を渡って大人になっていくという「冬の駅」(小柳ルミ子)。男と女の間にある深くて暗い河、それでも船を漕ぎ出すという「黒の舟唄」(野坂昭如)、ひとつの国を分け隔てる恨みを歌った「イムジン河」(フォーク・クルセダーズ)などがそう。

洋楽で川を試練にたとえたのがサイモン&ガーファンクルの「BRIDGE OVER TROUBLE WATER」やゴスペルの「DEEP RIVER」。同じゴスペルでも「DOWN BY THE RIVERSIDE」はよく知られた反戦歌。
ポップスではヘンリー・マンシーニの「MOON RIVER」があり、ロックではブルース・スプリングスティーンの「THE RIVER」があり、ジャズなら「OL'MAN RIVER」や「CRY ME A RIVER」。
川の名前のついた歌では、アメリカだけでも、スワニー、ミシシッピー、シェナンドー、オハイオなどの川が歌われていますし、世界に目を向ければ、ボルガ、アムール、ドナウ、セーヌと、われわれがその存在を歌で知った川がいくつかあります。

ところで「川」と「河」の違いは。辞書では同義となってます。日本の川はすべて川で、“多摩河”あるいは“江戸河”とは書かない。地図や教科書では外国の川もすべて「川」。“インダス川”とか“モルダウ川”とか。中国の黄河と長江はなぜか例外。しかし、歌の世界ではあえて「河」を使うことがしばしばあります。中島みゆきの「おもいで河」がそうだし、高田恭子の「河を野菊が」や谷山浩子の「河のほとりに」もある。外国の曲なら「アムール河の波」「ドナウ河のさざなみ」「帰らざる河」「赤い河の谷間」と、外国のRIVERは「河」なの? と思うほど多い。しかし、セーヌ川やミシシッピー川もあります。単なる気分で使い分けているのでしょうか。セーヌ河でもミシシッピー河でも見慣れれば違和感はない。しかし隅田河、利根河はなにか流れが滞っている感じで……。人の苗字だって川上さんと河上さんがいるし、河村さんや川村さんもいますし、どちらか一方というのを探す方が難しい。字面的にはシンプルな川がいい。


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【れんじ窓】 [obsolete]


『……少年は、まだお母さんが好きであった。お母さんを思い出すことだけが、少年のたったひとつのたのしみになっているのであった。老婢の部屋の片隅の少年の場所には、明かりとりのれんじ窓から、雨の日は、崖肌の雫がこぼれ落ちて来た。その雫に濡れながらでも、その自分の場所にいさえすれば、少年は、気ままにお母さんを思い出すことが出来た。……』
(「小さな赤い花」田宮虎彦、昭和36年)

「れんじ窓」は「櫺子窓」あるいは「連子窓」と書く。木や竹の細い格子がいくつもはまった窓のこと。明かり取りであり、通気口であった。また「れんじ窓」そのものに外から室内を見えにくくする構造があるが、格子を対にすることで開閉ができるようにした「無双櫺子窓」もある。
窓の「ま」は目であり、「と」は所。つまり家の目が窓ということ。いまはほとんどガラス窓だが、以前は障子窓もあった。また、回転窓、高窓、天窓、円窓など構造や取り付ける場所によって様々な窓があり、古人の住まいに対する文化の高さがわかる。窓はプライバシーを守る場所であり、侵す場所である。ヒチコックの「裏窓」は足をケガしたカメラマンが窓から隣の家の殺人事件を目撃するというサスペンスだった。

母親を亡くした少年はいつも、家にいる老婢の部屋で母から教わった影絵遊びをしている。そこへ老婢の孫の足の不自由な少女がやって来る。3人はひとつの蒲団で眠るようになる。少年は、はじめ、自分の世界に進入してきた少女を苛めるのだったが、そのうち2人は仲よくなる。少女は少年に駄菓子をくれたり、朝鮮の歌をうたってあげた。少年は母親から教わった童話を話してあげる。そして足が不自由で長く歩けない少女を小さな山へ連れて行く。少女は最後のひとつになった飴玉を少年にあげる。少年は少女が寝ている間に、彼女が好きだという赤いひなげしの花をからだのあちこちに飾ってみる。
そんなある日、少女の母親が彼女を連れに来る。少女は「ぼんといたい」と泣きながら訴える。少年は引きずられるように去っていく少女をいつまでも見ている。
「小さな赤い花」は母親を亡くした少年と母親に捨てられた少女の交流を描いた物語。愛情から隔てられたふたりが、新しい愛の対象をみつける。そこには幼いながらも“性のめざめ”がある。少年と少女のふたりだけに焦点を合わせ、それ以外の大人たちはまるでアウトフォーカスのような描き方をしているのが印象的な大人の童話。


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【行李】 [obsolete]


『片づけると言っても、行李ひとつに楽に詰められる程度の品物しか無いのだから、五分とかからなかった。その行李を箱橇に入れて、上に玉夫を坐らせて押していけばいいのであった。
「自分が押します」
 吉田英吉はたくましい腕で軽く橇の押手を握った。……』
(「りんごの花咲くころ」石坂洋次郎、昭和21年)

「行李」は竹や柳の皮で編まれた洋服などを入れておく籠のこと。柳のものは「柳行李」とも言う。また、行李の上等なものを葛籠、さらに上等なものを長持ちといった。以前は各家庭の押入にひとつやふたつはあったはずで、当時の貧乏学生など蒲団をのぞけば、引っ越しは行李ひとつですんだ。
「行李」に入れたのは洋服ばかりとは限らない。「飢餓海峡」(水上勉)の元売春婦・八重は、殺人犯樽見京一郎からもらった大金と、彼が売春宿で使った安全剃刀を大事にかくしていた。また実録としては、その手頃?の大きさから死体を梱包するのに使われ、新聞に「行李詰め殺人」などと見出しが打たれたことも。今でもプラスチック製の衣裳ケースが行李の代用をつとめているが、便利で掃除も簡単な分安っぽい。

「りんごの花咲くころ」は雑誌『主婦之友』の昭和21年5月号に掲載された。終戦からまだ1年を経ていない時期である。
フィリピン戦線で命からがら生還した吉田英吉は、戦地で命を救われた上官の遺髪をたずさえてその妻を訪ねた。しかし、妻はすでに上官の家から離縁させられ、息子とふたりで暮らしていた。ここまで書くともうストーリーは読めてしまう。そのとおりで、初対面からなにかれと世話をする夫の元部下にいつしか妻は魅かれていき、英吉もまた自分の気持ちをごまかせない。そして未亡人は英吉のプロポーズを受け入れ、子供と3人で夫の墓参りに行こうと話し合う。そこにリンゴの花びらが散ってきて物語は終わる。
ここにも戦争の悲劇のひとつが描かれている。そして、それを克服して生きていこうとする人々の姿も描かれている。
シチュエーションは違っても骨組みは「無法松の一生」。無法松は死ぬまでストイックだったが、戦後民主主義は男女にもっと寛大だった。山田洋次で言えば「馬鹿まるだし」から「男はつらいよ」がまさにそうしたオールド・ファッションのラブ・ストーリー。
昭和8年、「若い人」が認められたとき石坂洋次郎は33歳。この「りんごの花咲くころ」は46歳のときの作品。戦後の青春小説のバイブル「青い山脈」はこの翌年に発表された。


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【松葉ボタン】 [obsolete]

『あれは何月ごろだったか、この前、ここをのぞいた時は、石畳の両側に、色さまざまな松葉ボタンが、厚いじゅうたんを敷いたように、花やかに咲き乱れていたっけ……。松葉ボタンはいつ咲く? 六月?……七月?……。』
(「光る海」石坂洋次郎、昭和37、38年)

たけの低い(20センチほど)南アメリカ原産の一年草。夏から秋にかけてに赤、黄、白の五弁の花をつける。花は昼間開き夜閉じる。葉が線状なので「まつば」の名がついたのだが、松葉ほど細くはない。ちなみに同じように葉が線状の花に「松葉ぎく」がある。また「松葉ボタン」は〔すべりひゆ科〕で、牡丹は〔きんぽうげ科〕であり、同種ではないが、花びらのかたちが似ていることからその名になった。
昭和30年代ぐらいまではごく一般的な庭の草花だったが、最近は他の花に押され気味。「松葉ボタン」はまだ、花屋によっては置いてあるところもあるがあまり見ない。鳳仙花などはほとんど消滅してしまった。花にも流行り廃りはあるようだ。最近は、外国から多種多様、新種珍種の花が入ってきて園芸好きの人気をさらっている。花屋の店先、あるいは各家庭の前に並べられたプランターには冬でも色鮮やかな花が咲いている。
花は気分転換や目の保養になるし、季節を感じさせてくれる。しかし、なんでもそうだが、花もまた種類(情報)が増えすぎると辟易することがある。

石坂洋次郎の小説の特徴のひとつは、登場人物のファッション(衣服)の描写が細かいことがあげられる。それと同時に、庭木や草花の具体的な名前が頻繁に出てくることも目につく。〈庭には色とりどりの花が咲いていた〉ではすまされない。たとえば、初夏なら「グラジオラス、ほうせんか、松葉ボタン」、秋なら「さざんか、きく、きんせんか、サフラン」というように。
「光る海」は大学を卒業した学友とその家族たちの青春群像。1年年間にわたって朝日新聞に連載されたものだが、「セックスの感覚」だとか「セックスの処理」など性に関するかなり際どいセリフが出てくる。当時の新聞はいまよりもはるかにラジカルだったのだなと感心してしまう。というより、現在の新聞が自己規制をしすぎているのかも。
38年には監督・中平康、主演・吉永小百合、浜田光夫で映画化されヒットした。


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『汽車の音』 [noisy life]


♪ Choo Choo train a chuggin down the track,
gotta travel on never comin' back, Woo-oo
Gotta one way ticket to the Blues
Bye bye love my baby leaveth me ,
now lonely tear drops are all that I can see, Woo-oo
Gotta one way ticket to the Blues

I'm gonna take a trip to lone some town,
gonna stay at Heart break Hotel
A fool such as I there never was
I cry a tear so well
……
「ONE WAY TICKET」(words & music:HANK HUNTER, JACK KELLER, vocal:NEILE SEDAKA, 1959)

今、列車の走る音が聞こえてきました。家から2,300メートル離れたところにJRの高架があります。どういう加減か、時たま聞こえきます。風のせいなのか、周囲の雑音が途絶えたしじまなのか不明ですが、聞こえるときと聞こえないときがあるのはたしか。真夜中に聞こえるのは間違いなく貨物列車。

 

昔は高架ではなく、土手でした。そこを蒸気機関車や貨物列車が走ってました。踏切もあって、何年かに一度ははねられる人がいたり……。子供たちは土手に登って、汽車の煙に追いかけられたり、貨物列車の貨車の台数を数えたりしたもの。100台を越えるとうれしくなり、20台ぐらいで終わるとがっかりして。いま思えば、なんてことはない“遊び”です。それでも不思議なもので、今でもたまに、駅のホームを貨物列車が走り抜けると、無意識で数を数えてしまったりして……。

今ほどスピードアップされていない昔、汽車での移動はたいへんなことでした。飛行機などは金持ちしか乗れなかった。人間が遠くへ行ったり、帰ったり、逃げたりするときは汽車。そこにはドラマがありました。汽車や駅がしばしば流行歌のローケーションに使われるのはそのため。

 

汽車の窓からハンカチふりながら「高原列車は行く」、上りの急行がシュッシュラシュと行っちゃって「僕はないちっち」。就職列車が着いたのは「ああ上野駅」だし、汽車は行く汽車は行くのは「修学旅行」。ほかにも「哀愁列車」や「赤いランプの終列車」もあった。また1960年代のカヴァーポップス「トレイン3部作」といえば、「恋の汽車ポッポ」「恋の片道切符」「恋の一番列車」。そのほか、恋人を駅に残して汽車に飛び乗ったのは「喝采」だったし、浮気をした恋人のママに会って告げ口をするために乗ったのは「ルージュの伝言」でした。

それ以外でも、栄光に向かってどこまでも走って行くのが「TRAIN TRAIN」。切符のいらない不思議な「恋の列車はリバプール発」、踏切のそばのコスモスを揺らして走りすぎる貨物列車を見送ると「思えば遠くへ来たものだ」。そういえば「Choo Choo Train」なんてのもありました。

洋楽にも汽車、列車を歌った歌は多い。思わずからだが動き出す「SOUL TRAIN」(THE THREE DEGREES)、シーナ&ロケッツもカヴァーしている「TRAIN KEPT A ROLLIN'」(YARDBIRDS)、日本限定ヒットの「THE TRAIN」(1910 FRUITGUM COMPANY)。カントリーからロックまでほんとに“TRAIN SONG”は尽きません。

なかでも聴いた回数の多さではDUKE ELLINGTONの十八番「TAKE THE "A" TRAIN」。OSCAR PETERSONのピアノもいいし、SARAH VAUGHANのボーカルもいい。美空ひばり、これががまたイカしてる。
ただ、"A" TRAIN というのは、夜行列車かなにかと勝手に想像していたら、なんとニューヨークの地下鉄のことだとか。なあ~んだ。


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