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『夏の歌②』 [noisy life]

♪ 松原遠く 消ゆるところ
  白帆の影は浮かぶ
  干網浜に高くして
  鷗は低く波に飛ぶ
  見よ昼の海 見よ昼の海
「海」(文部省唱歌、大正2年)

TVからこのメロディーが流れてきました。CMです(NOVA?)。もちろんメロディーだけ。それでもなんでまたこの曲。夏だから? 最近CMに童謡・唱歌がよくつかわれていませんか? ♪ 緑のそよ風 とか、♪ 森へ行きましょう とか。
それはともかく、私の子供の頃の夏の歌といえばこの「海」「我は海の子」に尽きます。「我は海の子」は抒情的で、ノスタルジに満ちた美しい情景が浮かび上がってきますが、「海」はもっとリアルで、懐かしい顔が浮かんできます。

♪ 松原トウチャン 消えゆくカアチャア
  白髪のジイチャン バアチャン……
とよく替え歌を歌っていたのが、子供の頃近所に住んでいたヤスイ君。私より4つ年上。複雑な家庭だったようで(その頃は分からなかった)、お父さんはかなり年のいった元柔道師範。わたしも骨折を治療してもらったことがありました。その血を引いてかヤスイ君、小柄だが腕っぷしが滅法強かった。わたしはなぜかたびたび彼の武勇伝に立ち会うことがありました。
いちばんはじめは、ヤスイ君、中学3年の秋のこと。わたしは当然小学5年生。ある時、やがてわたしも通うことになるその中学の校舎裏で学生服のお兄さんが10人あまり。学校帰りのわたしは川をはさんだその異様な光景にしばし立ち止まって見とれていました。よく見ると中に見慣れた長髪の学生が。彼こそヤスイ君。これはビートルズやGSが出てくる前の話。長髪は流行りでもなんでもありません。ヤスイ君は床屋が嫌いでまた家が貧しくて、いつも女と見間違えるほどのロングヘア(手入れ無し)なのでした。
なぜかヤスイ君は他の学生たちに囲まれていました。そのうちその中のひとりが、当時の不良の2大アイテムのひとつチェーン(もうひとつは飛び出しナイフ)を振り回しはじめました。他の人間がパッと散って素手のヤスイ君とチェーンギャングの決闘です。それはあっという間の出来事でした。チェーンギャングが武器を使う間もなく、ヤスイ君は組みつき、ノゲイラも舌を巻くほどの投げ技を数発。さらにヒョードルばりのパンチでとどめ。
あとで聞いたところでは、それが番長対ヤスイ君の決闘だったとか。
次はもっと早い決着でした。それから2年あまりのち。
ヤスイ君は、中学を卒業し高校へ進学したがすぐにやめて家でブラブラ。そのうち腕っぷしを買われて不良グループへ“入会”。それからよく、ヤスイ君より3つも4つも年上の兄貴分と連んで町をのし歩いていました。
しばらくして、その兄貴分がたびたびヤスイ君の家へ訪ねてくるのですが、本人はなぜか居留守を使うようになりました。兄貴分も執こいヤツで、あるとき、ドアを何度も叩きまくり、さらに、硝子戸をガタガタいわせてはずそうとまでします。そして「ヤスイ! 出てこいよ。いるのわかってるんだぞ」とかなんとか近所に聞こえるほどの大声で叫ぶのです。すると家の中からドドドドっと階段を駆け下りてくる音がしたかと思うと、ドアが思い切りよく開けられ、中から木刀を手にしたヤスイ君が飛び出して来ました。兄貴分が何か言葉を発する間もなくその木刀が眉間に炸裂。兄貴分は腰が砕けたように地面に尻餅。二の太刀を浴びせようとふりかぶるヤスイ君の姿に「ウワーッ!」と一声叫ぶと、額から血を吹き上げながら全速力で駆け去っていきました。ヤスイ君に剣術の覚えがあったかどうかは知りませんが、それは見事な木刀さばきでした。
それからしばらくして、ヤスイ君のお父さんが亡くなり、彼はお母さんとともに何処かへ引っ越していきました。その後しばらくは、われわれ地元のガキ連にとってヤスイ君は「番長より強かった男」という伝説の人物として語りつがれました。それから40年あまり、その伝説も風化してしまったようです。それでも私には、この「海」のメロディーが聞こえてくると、チェーンの下をかいくぐって闘うヤスイ君の伝説が甦ってくるのです。


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『夏の歌①』 [noisy life]

♪ …………
  アロハ・オエ アロハ・オエ
  ふるさとの丘の乙女よ
  アロハ・オエ アロハ・オエ
  また逢う日まで
「アロハ・オエ」Aloha Oe(訳詞:堀内敬三、曲:LILIUOKALANI)

やっと夜、セミどもが鳴かなくなった。と書いたとたん外からしぶとい一匹がチッチチッチとやりだしました。もう夏もソロソロという頃に夏の歌を。
いまでこそ夏の歌というとサザンにチューブ(もう古い?)っていうけど、わたしのこどもの頃はハワイアンが定番。「カイマナ・ヒラ」に「アロハ・オエ」「タイニー・バブルス」「小さな竹の橋」「スウィート・レイラニ」「南国の夜」「真珠貝の歌」……。 灰田勝彦、バッキー白片、ポス宮崎、大橋節夫、みんな死んでしまいました。エセル中田、南かほる、日野てる子はどうしているのでしょう。
数あるハワイアンの中でもよく聴いたのが「アロハ・オエ」。これはたしか中学校で習った記憶もあります。作曲者はハワイ最後の女王。あの哀愁に充ちたメロディーを聴きながら、まだ見ぬ常夏の島へ思いを馳せたものでした。いまだに思いは馳せっぱなしなのですが。ウクレレを衝動買いしたのはこの歌が弾きたくてでした。
ところでこの「アロハ・オエ」、のちにセイクレットソングの「偉大なるかな神」HOW GREAT THOU ART を聴いた時、その類似に驚いた記憶があります。近年のハワイアンは、アメリカ本土の音楽の影響が少なからずあるそうですから、そのせいかもしれません。
戦後日本を見舞った洋楽ポップスの洪水の中にハワイアンもありました。そのうちのいくつかのバンドは昭和30年代になって新しい日本の流行歌をつくっていきます。和田弘とマヒナスターズやダニー飯田とパラダイスキングがそうでした。

いまでも純正ハワイアンバンドはあります。ビヤガーデンなどでやっているのでしょうか。どこかの海辺の木陰で、水飴のようにのびるスチールギターが奏でる「アロハ・オエ」を聴きながら、冷たいビールをグビグビして微睡むなんて最高だと思うのですが。


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【混血児】 [obsolete]


『江見信子は今年二十二になる。すきとおるような肌の白い娘で、顔立ちは十人並だが、いつも遠くを眺めているみたいな澄んだ目をしていた。黒い髪の毛が長く、それを肩から胸へ散らしていると、孤独な混血児という雰囲気を漂わせた。』
「雨の中の微笑」(笹沢左保、昭和37年)

日本人と外国人の間にできた子供のこと。いまでこそハーフといえば、美形の代表的なイメージがあるが、昭和20年代、30年代は差別の対象だった。
多くの混血児はアメリカの日本駐留によって生まれた。つまりアメリカ兵と日本人女性の間に生まれたものだ。昭和28年、当時の厚生省の調査ではそうした混血児は3500人あまりと報告されているが、実数はそれ以上といわれた。妻子を連れて本国へ帰った兵士もいたが、多くは妻子を棄てて帰国してしまったり、朝鮮戦争で戦死してしまった。残された母子は誰の庇護も受けられず当然のごとく貧困の奈落へ落とされた。さらにひどいのは、母親までがその「混血児」を棄ててしまったことだ。彼らは養護施設で育てられることになる。沢田美喜によって創られた“エリザベス・サンダース・ホーム”はその代表的な施設だった。
「混血児」という言葉が廃れていったのは昭和40年代あたりからではないだろうか。若者雑誌やテレビにハーフのモデルがそれこそワンサカと登場しはじめた。もちろんそれは白人に限られたのだが。
いまはどうなのだろうか。R&Bやヒップホップなどの音楽を通じて、黒人の人気は若者に絶大だ。さらに、様々な人種の人々が日本で生活をするようになり、国際結婚もふえている。もはや単一民族だなどと言っていられない。いわば肌の色に関係なく「混血児」が平常化してきている。と、楽観できるだろうか。なぜか欧米の白人系には寛大な日本人だが、アジア、アラブ、中南米系に対してはとなると疑問符がつく。国際化と言っている裏でナショナリズムの風が日増しに強くなってきている。何かのきっかけで再び「混血児」への差別が起こらないとも限らない。かつてどこかの国から“準白人”と言われて喜んでいたのは日本人ではなかったか。

「雨の中の微笑」は笹沢左保初期の短編。キャバレーのホステスの信子は、処女を捧げたサブマネージャーの水木との結婚を夢見ている。しかし、水木は遊び人で結婚するつもりはない。オーナーにかなりの額の借金があり、その返済に数年かかるからと出任せでその場をつくろう。本気にした信子は、キャバレーの売上金を奪うことを計画する。売上金は水木か支配人が本社へ運ぶのだが、その日水木は後楽園球場へ巨人戦を見に行くことになっていた。雨の中、売上金を運ぶ車から降りてきた男を信子の運転する車が跳ね飛ばす。信子は数百万円の入ったバッグを持って逃走する。しかし、車に跳ねられたのは支配人ではなく水木だった。雨で野球は中止になっていたのだ。
今なら、後楽園球場ではなく東京ドームなので中止にはならないので、このオチは通用しない。同じ笹沢佐保の短編で救急車の音をパトカーと間違えて殺されてしまう男の話(「夜の声」)があったが、これもいまは明瞭り判別できるので、そのオチも使えない。反対に、それだけこの小説が時代を反映している、とも言える。
笹沢左保は昭和5年東京生まれ。昭和35年「招かれざる客」で小説家デビュー。昭和46年に書いた「木枯らし紋次郎シリーズ」がテレビ化、映画化され大ヒット。平成14年逝去。享年72歳。


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『病院』 [noisy life]

今日のnoiseはあの“ジー”という音。そう、あの夏の名残りのセミの声。ではなくて、似ているけど歯科医院できくあのコワイ音。
今日は歯医者の予約の日。あの切削音はいくつになっても苦手だ(好きな人はいるのかな)。それでも昔と比べると、治療中の痛みが小さくなりました。そのぶん料金が高くなったりして。それになんていうんでしょうか、若い女性の助手さん。渋谷センター街あたりからきたような化粧。一瞬コスプレフーゾクへ来たような感じ。個人的にはキライではありませんが。もしかして、治療代にその分も含まれていたりして。そういえば、今日は先生のほかに助手が二人ついていた。どうりでこないだより高かったわけだ。
前置きはこのくらいで、本題へ。

昔は流行歌にいろいろな職業の歌があった。警官、バスガール、タクシーの運転手、教師、灯台守、踊り子、サンドイッチマン、ガードマン、手品師、道化師、殺陣師、音楽家などなど。しかし歯科医はもちろん医者はというと思い浮かばない。医者と看護婦の恋愛を描いた映画「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」がそうだといえないこともないが、歌を聴いただけではわからない。スパイダースに「恋のドクター」があるが、もちろんこれは医者を歌ったものではない。
「真っ赤なメス」とか「レントゲンの光と影」あるいは「青春の聴診器」、「さらば白衣」、「笑う精神科医」なんて歌があってもいいと思うのだが。なぜか医者は歌のモデルに適していないようで、みつからない。もしかしたら童謡に、と思って探すと「たぬきのお医者さん」というのがあった。昭和10年の作で ♪たんたんたぬきの お医者さん……、鞄かかえて 松林…… これじゃあなあ……。
では病院とか診療所はというと、これはあります。森田童子の「サナトリウム」、たまの「月夜の病院」、カバー曲で浅川マキの「セント・ジェームス病院」。

「サナトリウム」は結核で余命少ない青年と、見舞いに訪れた恋人とのつかの間を歌ったもの。漱石の本を投げ出してキスをしたとか、ソーダ水を二人で飲んだというみずみずしい歌詞が、懐かしいジンタに乗って歌われる。
♪ 頭が割れて月が出た 黄色い地面に血が垂れた というのは“たまワールド”全開の「月夜の病院」。
「セント・ジェームズ病院」はテディ・ウィルソンやジャック・ティーガーデンでお馴染みのジャズのスタンダード。セントルイス・ブルースよりなお暗い曲調で、それを浅川マキがさらに暗く歌っている。

「いや医者の歌はあるぞ」あるいは「病院の歌もっとあるぞ」という方、どうか教えてください。


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【帝銀事件】 [obsolete]

『……三鷹事件とか、帝銀毒殺事件とか、女房子供をナタでぶち殺して、その肉を喰っちゃったとか(なんという国家的屈辱の大嘘を新聞記者はつくものであるか!)強盗は軒並みに襲って来るとか、といった戦慄の大波小波に見舞われている、とね。では、重ねて訊こう。諸兄は、あの帝銀事件の記事を読んだ時本当に肝の底から震えあがったか?』
「デカダン作家行状記」(柴田錬三郎、昭和32年)

昭和23年1月26日、東京豊島区の帝国銀行椎名町支店に白衣を着た中年の男が現れた。男は厚生省の防疫課の者だと名乗り、伝染病対策だとして行員たちに予防薬を飲むようにすすめた。17人の行員たちは男の指示に従って“予防薬”を飲んだ。すると間もなく全員が苦しみ倒れはじめた。男は16万円あまりの現金と小切手を持って行方をくらました。薬は青酸カリであり、結局行員12名が死亡した。これが世に言う「帝銀事件」。
事件から七ヶ月後、犯人として画家の平沢貞通が逮捕された。平沢画伯は一貫して犯行を否認したが昭和30年死刑が確定した。しかし、再審請求、支援運動が盛り上がり、時どきの法務大臣は死刑執行の許可を与えることができず、昭和62年、画伯は95歳で獄死した。なんと39年間という長期にわたる獄舎生活だった。
それを上回るのがいわゆる「袴田事件」。元ボクサーの袴田巌は、昭和41年、静岡の一家4人殺害・放火事件で逮捕され、死刑が確定したが本人および弁護団、支援グループは現在も無罪を訴え続けている。今年で収監40年を数えた。

「デカダン作家行状記」は売れない作家あるいは作家志望の男が遭遇する8つの逸話からなる。それはいずれも人間の欺瞞性をひきはがすような話である。
冒頭の“引用”は第4話で、アパートへ引っ越してきた作家が隣の部屋のラジオの音に悩まされる話。隣人は水商売の若い女性で、朝から晩まで、仕事へ出かけたあともラジオをかけっぱなし。作品が書けない作家はその音にイライラし、何度も抗議する。しかし隣人は夜中、土産の寿司をもって作家の部屋を訪ねるほどで、ラジオのことなど意に介さない。話が急展開して、作家は近所の邸宅に住む婦人に恋い焦がれ、大胆にも直接ラブレターを渡す。ところその告白はがぶざまに失敗する。傷心の作家に隣人の女はミルクの入った2つのコップを持ってきて、そのひとつに毒薬を入れ「どちらか飲みなさい」とすすめる。迷ったあげく男が片方のコップを取り上げ、飲もうとすると、女がそれをたたき落とす。作家は泣きじゃくり、しがみつく女を置き去りにして、女の部屋へ行き、ラジオを壁に叩きつける。そして作家の意識が朦朧としてきたところで話は終わる。ラストがやや舌足らずでした。


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【下山事件】 [obsolete]

『……ナヤミをもっている人間というやつは、電車や汽車がバク進してきたるすると、ついフラフラ飛び込みたくなり、デパートの屋上から下を見おろすと、なんとはなしにふっと飛び降りたくなったりする危険な了簡を起すね。それをひきとめるのがおれたちの役目なんだが、とめるのをふりはらって。アサハカにもパッとやってしまうから――下山事件みたいに、自殺か他殺かなどと、あとで、みんなが余計な苦労をする』
「やくざな神の物語」(柴田錬三郎、昭和32年)

昭和24年7月6日の夜中、常磐線綾瀬駅付近で、当時の国鉄総裁下山定則が轢死体となって発見された。当日は激しい雨が降っていて、総裁の遺体はバラバラに散逸していた。出血が少ないところから死後轢断、つまり他殺説が有力になったが、近所の旅館で休憩していた総裁の目撃者が現れるなど、その後自殺説もでて、真相は迷宮に落ちた。総裁の不可解な死の背景には、当時の人員整理反対を唱える労働組合による国鉄争議があった。自殺説は「総裁が争議に疲弊して」という理由をつけ、他殺説は組合に対して優柔不断な総裁が粛正されたと解釈した。他殺説をとる松本清張はのちに“GHQ陰謀説”を唱えた。半世紀以上を経て真相はいまだ解明されていない。
そのほぼ10日後、国鉄三鷹駅で無人電車が暴走し6人死亡、20余人負傷という、いわゆる“三鷹事件”が起きる。そしてそのひと月後、東北本線松川駅付近で列車が転覆し3人の乗務員が死亡するという“松川事件”が起きた。いずれも国鉄争議が生んだ事件で、国鉄の三大事件といわれた。

柴田錬三郎というと「眠狂四郎」のイメージが強く、時代物を多作したが「図々しい奴」をはじめ現代物も少なくない。「やくざな神の物語」もそのひとつ。
人類の救済を司る天国では、あまりの人間の堕落ぶりに愛想が尽き、その仕事も滞りがちだった。これではいかんと統領である“すにぺ首神”は神々のなかでもとりわけアプレな“またんき”に下界へ降りて人類を救済するように命じる。これが「やくざな神の物語」で、それから4つのいとも奇妙な救済ストーリーがはじまる。
“引用”はその第一話「賭と女」。結核療養所の患者・宗一郎は30歳でいまだ童貞。真面目でカソリック信者。運命で半年後に死ぬことになっていた。“またんき”はせめて死ぬ前にギャンブルと女を味合わせてやろうと考える。療養所には、彼に思いを寄せる子持ち炊事婦がいた。その子の誕生日を一緒に祝ってほしいという炊事婦を振り切って宗一郎は全財産を持って競馬場へと向かう。しかし馬券は紙くずに。ところがそこで来る途中の電車中でひったくりから守ってあげた有閑マダムとバッタリ。マダムは宗一郎のアドバイスで大穴を的中。ふたりは手に手を取ってホテルへ。事が終わったあと、マダムが眠りこけているあいだに、宗一郎は大金を奪ってトンズラ。血を吐きながらタクシーで療養所へ。そして炊事婦の家の前に大金と手紙を置いて何処かへ消えていくのだった。
以上、“またんき”の演出に対し“すにぺ首神”は「お前にしては上出来だ」と。


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Silly Thing [story]

♪ お前が好きだと 耳元で言った
  そんなヒロシに騙され 渚にたたずむ
  踊りが上手で 初心なふりをした
  そんなヒロシが得意な 8ビートのダンス
  …………
  ふたりの仲は 永遠だもの
  ジュークボックス 鳴り続けてる
  だから彼氏に伝えて 口づけだけを待っている
  胸の鼓動が激しい サイケな夏をヨコスカで
「そんなヒロシに騙されて」(詞、曲・桑田佳祐、歌・高田みづえ、昭和58年)

イントロから「スワンの涙」(オックス)。GS風味たっぷりの曲。サザン・オールスターズはデビュー(「勝手にシンドバッド」)からしてタイトルがパロディだし、初期のヒット曲「チャコの海岸物語」などは、日本の60年代ガールポップスのパロオマージュ(こんな言葉はない)だしね。
とにかく、GSが消滅してから15年余、時としてこうした“懐かしのメロディー”が登場してくる。昭和58年当時、「ジュークボックス」も廃物化し、「サイケ」も廃語化していた。……“カテゴリー”が違うようで。
高田みずえはアイドル歌謡全盛時代の昭和52年、「硝子坂」でデビュー。歌手生活10年足らずで元大関・若島津と結婚、相撲部屋のおかみさんに転職した。「そんなヒロシに騙されて」はサザンの原由子も歌っているが、同様なのが「私はピアノ」。ほかにも、「パープルシャドウ」「涙のジルバ」「潮騒のメロディー」「青春Ⅱ」(松山千春のカバー)など結構いい歌をうたっている。ナツメロ番組に出ないのはザ・ピーナッツや山口百恵同様ホントの意味で“卒業”したからでしょうか。

「いらっしゃい、ってお前らか……」
『それはないっすよ、先輩』
「よお、雅美ちゃん、だったよな。まだヒロ坊に飽きないかい?」
「いやだ、飽きませんよ。まだ……、アハハハハ」
「言っとくけど、奥行きないよコイツ」
「ハハハ……、わかってます。そのぶん横幅ありますから」
「ほお、なるほどねえ……。そう見るか……、うん」
『キツイっすよ、それ、先輩。お願いしますよ』

ヒロシ、ヒロ坊。地元の4コ下の後輩。オレが高校でヤツが中学のときからの付き合い。なんだか妙にオレになついてね。みんなで連んでる頃から軽い野郎だったけど、まるで変わらない。高校出て、本人その気がないのに親の無理強いで大学受験。二浪したけど結局ダメはダメ。これまた親の忠告で料理人の専門学校へ通ったけど、場所が悪かった。学校の周辺は金波銀波のネオン街。まじめに通ったのはひと月足らず。そのうち同じ紅葉のあきがきたってヤツ。似たような連中とゲーセン、ヒサロにカラオケ、キャバクラと遊道一筋。家の金まで持ち出して勘当同然。頼りは友だち知人と、塒(ねぐら)定めぬ渡り鳥。やっと落ち着いたところが今いるホストクラブだって。
その時ヒロ坊23歳。それから3年、よほど水が合うのか居心地がいいのか、天気晴朗転職気配なし。
3年も続けりゃ、さぞかしって思うけど、実際はそうでもないらしい。ブランド品で身を固め、札ビラ切ってふんぞりかえってる野郎はほんの一部で、大方はコンビニのアルバイトとさして変わらない実入り。なかには三度の飯にも苦労する極貧ホストもいるとか。普通の人間だったら三月も勤めりゃ向き不向きが分かって進路変更ドロンの巻。

ヒロ坊がまさにその極貧のクチだった。懐かしがってここへ訪ねてきたのが去年の秋。ヨレヨレのスーツに垢のにじんだシャツ、踵のすり減った靴と“金欠病”3点セット。もちろん料金なんて取るつもりはなかったけど。
それから月に2,3度は来るようになった。そのうちナンバーワンとまではいかなくても、ツーいやスリー、フォーあたりになってバリッと変身した姿でドアを開けるかなって思ってんだけど、毎回毎回着た切り雀のホストファッション。“金欠病”ってのは長患いになるんだねえ。オレもヤツが来るたんびに自分のこと棚上げして「そろそろ潮時だよ」と柄にもない説教節。
先々週来るまではそんなだった。それがわずか半月足らずで大変身。最新のヘアスタイルからブランドの靴、スーツ。腕輪、首輪はキンキンギラギラの光り物。まさに成金ホストのそれ。おまけにメイクもファッションも超ケバイお姐ちゃんがご同伴。それがいまもヒロ坊の隣に坐って、真っ白な差し歯を披露しながら煙草のケムリを鼻から噴出している雅美ちゃん。
ヒロ坊を変身させた張本人がその雅美ちゃん。大バコキャバクラのナンバーワンだってさ。ヒロ坊の店に遊びに来た彼女が一目惚れ。それから毎日のように店がハネるとやって来る。もちろん指名はヒロ坊。で、落とす金が半端じゃないらしい。ホステスで稼いだ金のほとんどを使ってるんじゃないかって。ヒロ坊の売上げが1週間で、先月ひと月の10倍になったっていうからスゴイ。とうとう野郎にも運が巡ってきたってことか。
しかし、この二人がまあ驚くほどの似たもの同士。下手な漫才聞くより面白いときてる。
まあ、二人のアホアホトークを聞いてやってください。

「ばかじゃないの?!」
『しょうがねえよ、世話になってんだから……』
「冗談じゃないわよ。アンタの店のオーナーの頼みかなんか知らないけど、アタシに関係ないシ」
『とりあえず50万くれるって。1回で50万だぜ、スゴくナイ? オレが10万もらって、あとの40万がオマエの分。悪くないだろ?』
「底抜けね」
『ハァ?』
「底抜けのバカってことよ」
『それを言うなら底なしのバカじゃないかい?』
「……何だっていいのよ。とにかくバカってこと」
『バカって言うなよ。でも考えてみろよ、そのあと、うまくいけば何もしなくても金が入ってくんだよ。濡れ手で泡だぜ』
「ヌレテデアワって何、それ」
『ことわざだよ。そんなことも知らないのかよ。つまり、その、ふつうの手で泡に触ると濡れちゃうけど、濡れた手で泡を触ってもはじめから濡れてるからどうってことないって意味。早い話苦労しないでうまいことできるってこと』
「それって、途中の意味違くナイ?」
『違くないよ。馬の耳に説教と同じだから』
「バカじゃないの。それを言うなら馬の耳に念仏よ。それに同じって意味わかんない」
『えっ! そうだっけ。……バカって言うなよ。俺だってたまには間違うことあんだから。ほらよく言うじゃない、猿も木からすべるって』
「ハズいよ、アンタ。ほんとに高校出てんの? 猿も木からすべるんじゃなくて、落ちるだろ」
『ハハ、オメエこそ何も知らねえんだから。だってよ、サルスベリって木があんじゃん。あそっからきてんだぜ、このことわざ』
「ええっ、ホントなの? ……そうか、なるほどね。ハハハ……、アタシ今までずっと落ちるだと思ってた。猿も木からすべるなんだ……』
『まあ、それはどうでもいいけど、その話キマリでいいだろ?』
「嫌に決まってんじゃん。なんで、そんな知らないオヤジとやんなきゃいけないのよ」
『声が大きいよ。……だから言ってんじゃん。1回だけだって。それも50万でさ』
「それにアタシ、そんなお金に困ってないシ」

なんだかよからぬ相談してるよ。それにしても、大丈夫かよこの二人。仕事上、喋ることは上達しても、中味がなあ……。ヒロ坊よ、まあ、今が一生に一度の上がり目かもしれないから、つまらない忠告なんかしたくないけどさ。ホスト続けるのもいいさ。けどさ、どんな仕事するにしても、少しは本でも読んでベンキョウしろよ。お猿さんじゃあるまいし。ってオレが言っても説得力ないかあ……。

『先輩、これ酸っぱすぎますよ。ほんとにサイドカーっすか?』
「“カーっすか”って、お前のための特製だよ。コアントロー抜きでね」
『そいつはひでえっすよ』
「何言ってんの。只酒ばっか飲みに来るお前みたいな野郎にゃ、カクテルなんて贅沢な話だ。アルコールが入ってれば十分。グダグダ言ってると、つぎはブランデーも抜くぞ」
『それじゃただのレモンジュースになっちゃいますよ』
「上等だよ」


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【特飲街】 [obsolete]

『登代の歩いてゆく特飲街の橋の外は、小さな酒の店が並んでいるのだ。そのあたりには釣舟宿もみえる。少しゆくと木場に出た。材木の町も不景気なのかひっそりして、河には材木の筏が浮かんでいるきりだった。登代は河岸っぷち歩いて、自転車ですれ違った男に、
「小母さん、危ないよ」
と、声をかけられたので、顔をあげた。』
「州崎の女」(芝木好子、昭和30年)

「特飲街」とは“特殊飲食街”を簡略化した呼称。のちに“赤線地帯”と呼ばれた町のこと。「特飲街」が誕生した経緯は、まず昭和21年1月、GHQが公娼を廃止した。それは娼婦を抱えていた遊郭の廃止も意味した。しかしそう簡単に売春がなくならないことはどこの国でも同じで、その年の12月には、風致上問題のない地域に限り、あるいは娼婦個人の自由意志にかぎっ売春を容認することになった。風致上支障がない場所といえば、従来から遊郭があった場所で、娼婦の自由意志というのも建前にすぎなかった。つまり、敗戦間もなく従来の売春が復活したのである。昭和33年にはその「特飲街」つまり赤線も廃止された。それから約半世紀あまり、その実態は。こればっかりは……。
州崎という町名もなくなってしまった。現在の江東区木場、東陽あたりで、戦前から遊郭があった所。

州崎の特飲街で働く中年娼婦の登代は、若い頃男を追いかけて満州へ行ったり、そこで別の男と所帯を持つが、その男の暴力に泣かされたり、子供と2人で戻った日本では空襲で死ぬ思いをしたりと、戦争に翻弄され精神を病むようになっていた。客には「子供は空襲で死んだ」と話す。しかし実際には息子は生きていて、母の商売を知り縁切りを告げにやってくる。そしてある日の夕方、州崎神社へお詣りに行った帰り、登代は幻覚を見る。爆撃機が空を飛び、登代は幼い息子を背負って海へ逃げる。気がつくと息子がいなくなり、前方の海に手だけが出ている。登代は息子の名を呼びながら、その手を掴もうとして水の中へ入っていった。
芝木好子は大正3年、東京浅草の生まれ。昭和16年、築地やっちゃ場の男勝りの女を描いた「青果の市」で芥川賞受賞。戦後も東京下町を舞台にした作品を書き続ける。昭和29年には「州崎パラダイス」が話題となり、いわゆる“州崎”ものを連作していく。「州崎の女」はそのひとつ。平成3年1月、77歳で「ヒースの丘」を発表するが、その年の8月乳ガンのため亡くなり、遺稿となった。


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【釣瓶】 [obsolete]

『僕らは倉庫の裏の釣瓶が壊れている井戸へ降りていき、蛹の腹部のように膨らんで井戸の内壁の冷たく汗ばんでいる石に両手を支えて水を飲んだ。底の浅い鉄鍋に水を汲みこんでから火を焚きつけると、僕らは倉庫の奥の籾殻の中へ腕を突っ込んで馬鈴薯を盗む。』
(「飼育」大江健三郎、昭和33年)

「釣瓶(つるべ)」は、井戸から水を汲み上げる道具。竿の先に桶を引っかけたものと、ロープに桶を取り付けそれを滑車で巻き上げるものがある。やがて手押しポンプ式の井戸に取って代わられた。その井戸までも無くなりつつある昨今、釣瓶は民俗資料館などへ行かなくてはお目にかかれない。「秋の日は釣瓶落とし」「朝顔に釣瓶とられてもらい水」あるいは「釣瓶打ち」のような言葉や俳句もやがて埋もれていってしまうのだろうか。
井戸が重要な存在だった頃、夏はそこに西瓜やビールを吊して冷やした。“井戸冷やしのビール”なんて言葉もあった。また、井戸と言えば幽霊の出入口でもあった。井戸が消滅した今日、幽霊たちもさぞ困っていることだろう。水道の蛇口から出てきたりして……。

「飼育」を読んでいて気にかかるのは、主人公“僕”の家族である。父と弟と小学生の“僕”の3人。家族の住む村は農業や林業を営む“開拓村”で、町の人間たちからは「汚い動物のように嫌がられている」。そんな村の中で“僕”の家族は共同倉庫の2階、元の養蚕部屋に住んでいる。部屋に家具はまったく無く、猟師である父親の鉄砲だけが光っている。1階には煮炊きする〈へっつい〉か何かがあるようで、時々父親が鉄鍋に入れた雑炊を持って2階へ上がってくる。母親はどうしたのかということも気になるが、家族がなぜこんなあばら屋のような所に、仮住まいのような暮らしをしているのかが気になる。
農業中心の共同体の中で猟師という存在は、異端の人種だったのだろうか。それとも“僕”の一家が他所からの流れ者だったのだろうか。“僕”が「村の子供たち」という対象化するような言葉を使うところも、そう思わせる。
“僕”が黒人兵をどうするのか? と訪ねると父親は「飼う」と答える。飼われることが従属あるいは隷属だとすると、黒人兵は“僕”の父に「飼育」されていたことになる。そして父は村に「飼育」されていたし、村は町に、さらに言えば町は県に、県は軍(国家)に「飼育」されていたといえる。
父親は自分が飼育していた“獣”の反逆をなんとしてでも鎮めなくてはならなかった。だからこそ、息子である“僕”の犠牲を厭わず“獣”を打ち殺したのである。父親の共同体への忠誠は、国家への忠誠でもあった。


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【南京袋】 [obsolete]

『……僕らが再び地下倉へ戻ってみると黒人兵は道具箱からスパナーや小型のハンマーを取りだし、床にしいた南京袋の上に規則正しく並べていた。……黒人兵の黄色く汚れてきた大きい歯が剥き出され頬がゆるむと、僕らは衝撃のように黒人兵も笑うということを知ったのだった。そして僕らは黒人兵と急激に深く激しい、殆ど《人間的な》きずなで結びついたことに気づくのだった。』
(「飼育」大江健三郎、昭和33年)

「南京袋」は太い麻糸で荒く織った袋のこと。丈夫なため、かつては米などの穀物を入れたり、土を入れて土嚢にしたり、よく使われていたが、最近あまりお目にかからない。もっと経済的で丈夫な袋にとって代わられたのだろう。
そもそも“南京”とは、「中国渡来の」という意味。では「南京袋」は中国発なのかとなると、どうもはっきりしない。“南京”のつくものには、南京豆、南京錠、南京虫、南京玉などがある。このうち南京虫は人の血を吸うシラミの一種のことだが、その虫が楕円形をしているところから、女性用の小さな楕円の腕時計を“南京虫”と言っていた。この言葉もまた使われなくなってしまった。

「飼育」はフィクションであり、実際に戦時中民間人が捕虜を監禁したということはないのだろうが、黒人兵を撲殺した村民の行動は、当時の日本人の捕虜に対する意識を象徴していたといえる。
そもそも当時の日本人には捕虜は保護すべきものという意識が薄かった。極端に言えば「捕まえた者は煮て食おうと焼いて食おうとこちらの勝手」という意識だった。軍部からして捕虜の保護を取り決めた国際法を積極的に守ろうという意識が希薄だった。「捕虜は食物を与える以上、労働力として使うべし」といった姿勢であった。
日本軍あるいは日本人による捕虜虐待の例は多い。知られているのが5000人あまりが死んだという炎天下での“バターン死の行進”、アメリカ兵8人を人体実験で殺した九大生体解剖事件(遠藤周作が「海と毒薬」で取り上げている)、あるいは関東軍731部隊による人体実験などなど……。いずれにのケースでも「煮ようが焼こうが……」という意識が感じられる。もちろんこれは、アメリカのイラク人捕虜虐待をみても分かるとおり日本人特有の意識というのではないのだが。
終戦から60年以上を経て、日本人の“捕虜”に対する意識はいくらかは変わったのだろうか。それは次の戦争が起こってみなければわからない。


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【羽目板】 [obsolete]

『眼ざめると朝の豊饒な光が倉庫のあらゆる羽目板の隙間からなだれこみ、すでに暑かった。父はいなかった。壁に銃もなかった。僕は弟を揺り起し、上半身は裸のままで倉庫の前の敷石道へ出た。敷石道や石段に、激しく午前の光がみなぎっていた。子供たちが光の中でまぶしがりながら、ぼんやり佇ったり、犬を寝ころばせて蚤を取ったり、あるいは叫びながら駈けたりしていたが大人たちはいなかった。』
(「飼育」大江健三郎、昭和33年)

「羽目板」は板を張りつけた建物の壁のこと。普通は横に張るのだが、竪に張ったものを“竪羽目”(たてばめ)などという。外壁を木造にした建物が少なくなった昨今、そうした板壁の家も消えていった。現在見られるのは、朽ちかけたよほど古い家か、懐古趣味でわざわざ作った贅沢な家かのどちらか。そんな木造再現家屋の「羽目板」を触ってみたら、プラスチックだったりして。
ところで酒に酔ったりして非常識な振る舞いをすることを「羽目をはずす」(破目とも書く)という。たしかに家の板壁を外すことは非常識だが、由来としてどうもスッキリしない。ある本には「羽目」は「馬銜」(ハミ)の転訛だとしてあった。馬銜とは馬の口に銜えさせる棒のようなもので、手綱に繋がっている。それによって馬を御することができるわけだ。つまり馬銜がはずれると馬が暴走することになる。それで「ハミをはずす」→「ハメをはずす」ということだとか。ほんとかなあ。

「飼育」は終戦間際のある山村での話。“戦争なんて知らないよ”というほどのどかな村に米軍の爆撃機が墜落し、唯一生存していた黒人兵が捕虜となる。村民は県庁が処置を決定するまでその捕虜を“飼う”ことにした。
“引用”は「僕」と父と弟の三人家族が住んでいる村の共同倉庫の2階で、朝、「僕」が目覚めたときの様子。
「飼育」の時間が長くなると共に、飼う者と飼われる者の間に見せかけの親近感が生まれる。「僕」の住んでいる倉庫の地下に閉じこめられていた黒人兵もやがて、自由が与えられ、子供たちと一緒に川遊びするまでになる。
しかし、軍への引き渡しが決まると捕虜は危険を感じて「僕」を人質に倉庫の地下に立てこもる。大勢の村人が見守る中、父が鉈で「僕」の指ごと捕虜の頭を叩き割る。
小説「飼育」の冒頭で「僕」は火葬される村の女を見る。そして虐殺された捕虜、最後に村と町との連絡係だった“書記”の事故死。三度目の死に直面し、涙をためながらも“死”というものに「急速に慣れてきていた」ところで物語は終わる。
大江健三郎はこの年、この作品で芥川賞を受賞。昭和36年には大島渚監督、三国連太郎主演で映画化された。


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Our Last Goodbye② [story]

♪ 風が吹く吹く やけに吹きゃがると
  風といっしょに 飛んで行きたいのさ
  俺は雲さ 地獄の果てへ
  ぶっちぎれてく ちぎれてく
  それが運命だよ
(「風速四十米」詞・友重澄之介、曲・上原賢六、歌・石原裕次郎、昭和33年)

朝目を覚ますと、少し離れたと蒲団の上でシーツにくるまった女が眠っていた。どうやら昨夜ここへ帰ってきてまた飲み、酔いつぶれてしまったようだった。夜中、俺に背を向けて女が濡れた衣類を脱ぎ捨て全裸になったのを覚えている。俺がシーツを投げてやったのを覚えている。「ずいぶん律儀なのね」女がそう言って半笑いしたのも覚えている。
雨はまだ降っているようで、壊れた樋から落ちる水の音が昨夜と同じだった。時計を見ると7時近い。俺は着替え、財布の中の金を全部餉台の上にぶちまけ、食べ物と衣類を適当に買うように書き置きをして部屋を出た。

台風が接近していることを理由に仕事を早めに切り上げた。こんな台風どうってことはない。それよりも部屋に残してきた女のことが気になっていたのだ。そんなわけで、今日は猫目小路にも寄らず、真っ直ぐアパートへ帰った。
4畳半の部屋は、小ざっぱりと片付けられていた。女はいなかった。部屋の真ん中の小さな餉台に簡単な食事の用意がしてあった。その横にメモといくらかの金が残されていた。メモには「お金を借りていきます。ごめんなさい」と書かれていた。何だか気が抜けてしまった。

冷や酒を飲み、寝転んで新聞を読んでいた。ラジオが台風のピークは今夜半であることを告げている。ドアをノックする音が聞こえた。とっさにあの女だと思った。ドアを開けると白のブラウスに紺のタイトスカートを穿き、薄青のビニールのレインコートを羽織った女が立っていた。
「いい?」
俺が頷くと女は笑顔で部屋の中へ入ってきた。俺は訊ねなかったが、彼女がまた駅の改札で誰かを待っていたのだと思った。そして、また待ちぼうけを食わされてここへ来たのだ。
俺は何をしたらいいのかわからなかったので、女に酒をすすめた。
女は遠慮せずにコップ酒に口をつけた。すると饒舌になり、遠慮せずに俺のことをアレコレ訊いてきた。俺は他人に自分のことを詮索されるのは御免だ。しかし、なぜかこの女には正直に訊かれたことを話してもいいような気になっていた。

俺の母親は10歳の時に病気で死んだ。その翌年親父は再婚し、新しい母親と妹ができた。俺は父親と継母を憎んだ。そして中学を卒業すると同時に家を出た。それから6年、一度も家へは帰っていない。
「もう許しているんでしょ。だったら意地を張らずに顔を出してあげたら?」
話を聞いていた女が言った。何かがこみ上げてきて言葉に詰まった。女の言い方が、いつか夢の中に出て来た死んだ母親そっくりだった。外では風が吠え、街路樹や電線が悲鳴をあげていた。俺と女はまるで台風に抗うように酒を飲み、ボソボソと話を続けた。

女は土佐清水の生まれで、名前は菊子。高校を中退し9年前に東京へ出て来た。はじめは友だちのツテで製パン工場で働いていたが、そのうち遊びを覚え、会社を辞めて水商売の世界へ入った。はっきり言わないがどうやら恋人がいるらしい。もしかしたら駅で待っているのが、その男かも知れない。

菊子は故郷の足摺岬から、ひとりで海を見るのが好きだった。
「水平線で区切られた空と海を見てるとね、人間の生き死にがとても自然なことに思えるのよ。ちっとも恐いことではないって思えるの」

窓の外が白みはじめていた。風の叫び吐息に変わり、雨音も弱々しくなっていた。俺は酔って横になっていた。とぎれとぎれの睡魔の中で、菊子が餉台を片付けている音を聞いた。スリップ姿になった菊子が俺に添い寝した。そして俺の胸に顔をのせてきた。
「知らねえぞ、どうなっても……」
「いいのよ。アタシがしたいんだから。それともアタシが嫌い?」
俺は返事をする代わりに彼女の肩を引き寄せた。

菊子はそのあと3日間、俺の部屋にいた。俺が仕事へ行っている間は何処かへ出かけているようだった。それでも夜の10時頃になるとこの部屋に帰ってきた。しかし、4日目の夜、とうとう彼女は戻ってこなかった。書き置きもなかった。

そして、いまだ水嵩の多い逆川下流で彼女の水死体が見つかったのは次の日の朝だった。

俺は菊子を故郷へ帰してあげたくて警察へ行った。そして、彼女から聞いたことをすべて話した。しかし彼女の身元はいつまでたっても判明しなかった。土佐清水に該当者はなく、また彼女の言った製パン工場にも、勤務していた形跡はなかったとか。死因についても、首を絞められたり暴行を受けた痕はなく、誤って川に落ちた事故死だろうということで決着した。俺は菊子と婚約していたと嘘をつき、彼女の遺骨を引き取った。

それから1年が過ぎた。

俺は足摺岬の岸壁の上に座って海を見ていた。早朝の海が硝子の破片を散りばめたように金色に輝いている。ゆっくり立ち上がり、ボストンバッグを開け、中のビニール袋に入っている菊子の遺骨を掴み、海へ向かって投げつけた。ほとんど粉になった骨は強い風に巻かれ崖の上を舞っていた。何度も何度も繰り返し投げた。最後は、ビニール袋を逆さまにして振りながら、それごと放り投げた。
俺はふたたび腰をおろした。そして白く骨粉まみれになった両掌を何度も顔にこすりつけた。海がひときわ燦めき、彼方に100年も200年も見慣れたような水平線があった。すると風に乗って、
「ねっ、人間の生き死にってとても自然なことでしょ?」
という菊子の声が聞こえてきた。


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Our Last Goodbye ① [story]

♪ 風が吹く吹く やけに吹きゃがると
  風に向かって 進みたくなるのさ
  俺は行くぜ 胸が鳴ってる
  みんな飛んじゃえ 飛んじゃえ
  俺は負けないぜ
(「風速四十米」詞・友重澄之介、曲・上原賢六、歌・石原裕次郎、昭和33年)

昭和31年「狂った果実」で主演デビューしてから石原裕次郎18本目の主演作の同名主題歌。この年は前年末からの正月映画「勝利者」をいれると合計10本の裕次郎映画が公開された。最盛期といえる。
映画「風速40米」は、裕次郎が会社乗っ取りを謀る悪と闘いながら、建築技師である父親に協力して、期限が迫ったビルを建てるまでの話。風速40メートルの中、暴漢と闘いながら突貫工事をすすめていく台風のシーンがクライマックス。
この頃は銀幕スターが主演映画の主題歌を歌うのがあたりまえだった。裕次郎もそうだが、彼ほど映画同様主題歌をヒットさせた歌手もいない。「俺は待ってるぜ」「錆びたナイフ」「夜霧よ今夜も有難う」「二人の世界」「赤いハンカチ」「夕陽の丘」「銀座の恋の物語」「嵐を呼ぶ男」などなど。映画の内容は忘れても歌は覚えている。
裕次郎は決して歌唱の上手な歌手ではなかった。しかしあの掠れ気味の低音からあふれる味わいは彼独特のものだった。ときたま今の低音歌手が裕次郎の歌をカヴァーすることがあるが、どう歌っても味気ない。カヴァー歌手が上手すぎるのだ。
美空ひばりのカヴァーはオリジナルが上手すぎて難しい。裕次郎のカヴァーはオリジナルが下手すぎて難しい。

俺の住むアパートの近くに逆川(さかがわ)という、幅10メートルほどの川が流れている。毎朝、隣町にある鉄工場へ働きに行くとき、この川沿いを駅まで歩いていくのだ。
夕方、仕事を終えてK駅を降りる。駅前広場を右に行くとキネマ通り。そこをしばらく行くと逆川に突き当たる。その川沿いを4、5分歩くと地蔵橋。その橋を渡り、ゆるやかな坂を100メートルほど下ったところが俺の住む安アパートだ。しかし、最近はその道順で帰ったことがほとんどない。
駅前広場を突っ切ると、猫目小路という両手を広げると届きそうな飲食店街がある。そこの定食屋や支那ソバ屋で夕食を摂り、行きつけの赤提灯やバーで安酒を飲むというのが、ほぼ日課になってしまっている。
菊子と初めて会ったのは、猫目小路のスタンドバー「シルエット」でだった。

バーに入ると、カウンターの奥に場違いの女がいた。浅葱色のノースリーブのワンピース。ウエーブのついたセミロングの髪。素人の雰囲気ではなかった。
ここの客はほとんど男だ。たまに女も来るが、たいがいは男の連れがいる。女ひとりというのはめずらしい。だから、何となく気になっていた。しかし、すぐにそんなこと忘れて隣の馴染みの客と雑談がはじまる。
「今度の台風はでっかいらしいね。死人もそこそこ出るんじゃないの」
だいたい、ここではハイボール。ふつう2杯で1時間ぐらいもたせる。懐具合がよければ3杯、4杯飲むこともある。とはいえ、そういう日は給料日ぐらいしかないのだが。

「だから、あとで必ず持ってくるからって言ってるじゃないの」
カウンターの奥から女の険を含んだ声が聞こえた。見かけより若い声だった。
「だめだよ。いちげんさんにそんなこと言われて、ハイそうですかって言ってたら商売にならないもの。アンタはじめからそのつもりだったんだろ。変だと思ったもの」
「じゃあ、勝手にしたらいいわ」
そう言うと女は。グラスに残った酒を一気にあおった。マスターは苦笑いしながら受話器に手を延ばした。
「マスター、いくらなんだい? 俺がたてかえとくよ」
何でそんなこと言ってしまったのか。他の客の視線を一斉に浴び、俺はつまらない義侠心に後悔した。
「吉沢さん、やめときなよ。こういうのたいてい常習犯なんだから」
マスターが言った。隣の常連はただ笑っていた。俺は舞台上で見得を切った役者の心境と同じで、その役を演じ続けなければならなかった。
女はマスターから「もう二度と来ないでな」と言われて席を立った。俺と目が合うとなぜかひと睨みして、礼も言わずにドアを開けて出て行った。外から激しい雨の音が聞こえていた。

それから1時間ほどのち、俺は3杯目の酒を呑み干し店を出た。結局マスターは“たてかえの金”を受け取らなかった。なんとなく後味の悪い“舞台”だった。

雨は本降りになっていた。水溜まりのできた猫目小路を抜けて駅前広場に出た。人影もまばらだった。そのとき屋根のあるバス停のベンチに座って煙草を吸っている女の姿が目に入った。さっきの女だ。とうに終バスは出ている時間だった。
俺は小走りで、まるで雨宿りでもするように女の横に座った。
「お兄さんさっきは、ありがとう。助かったわ」
女がさっきとは正反対の笑顔でそう言った。店でのひと睨みのおかげで俺の顔を覚えていたようだ。
「いいんだよ。それよりもうバス終わっちゃったぜ。ヤサはどこなんだよ」
女は二つ先の駅の名前を言った。
「もしかして、誰か待ってるのかい?」
「ええ、友だちを待ってるんだけど……。でも、もういいわ、来そうもないから」
「いいわ、ったって金がないんじゃ、帰れねえだろ。電車賃ぐらいなら貸すぜ」
「ありがとう。でもいいの。今行ったのが終電みたいだから……」
「困ったなあ。持ち合わせがありゃ、宿賃ぐらいなんとかしてやんだけど……」
「いいのよ。そんなこと。気にしないで。でも、親切なのねあんたって」
「へん、しょうがねえよ。いきががりってヤツだから。それよっか、この雨じゃなあ。台風だって言うし……。そうだ、俺んとこへ来ないか。狭いとこだけど、雨露ぐらいはしのげらあ」
「でも……」
「心配すんなよ。誰もいねえし、何もしねえからさ」

俺は勢いよくバス停を飛び出し、駈けだした。振り向くと女が小走りで着いてきた。
「これじゃ、走ったって同じだぜ。ゆっくり行こうや」
髪も顔もずぶ濡れになった女が返事の代わりに笑った。
俺たちは強い雨に打たれながら人気の絶えたキネマ通りを抜け、逆川沿いを歩いていった。


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【温泉マーク】 [obsolete]

『……八重はその日、休みだという小川に誘われて、踏切の近くにできた温泉マークの一軒に入った。小川ははにかみながら、そのことを強要したせいもあったが、八重は何のこだわりももたなかった。自然とそうすることが、自分でもいいと思えたのである。』
(「飢餓海峡」水上勉、昭和37年)

ラブホテルのこと。いつこの新語にとって替わられたのか。トルコ風呂がソープランドに新装したのが昭和59年。それよりはもっと早かった気がする。昭和40年代後半、音楽でいえば、カビ臭い4畳半フォークが無菌抗菌のニューミュージックに取って代わられた頃あたりかもしれない。
「温泉マーク」も戦後の言葉で、昭和24年頃から、地図やガイドブックでおなじみの三本湯気の温泉マークを看板として掲げる「あいまい宿」(これも廃語)が増えていった。昭和33年の赤線廃止によってさらにその数が増えた。もちろん、風呂はあっても温泉などあるはずがない。「温泉マーク」のほかにも「温泉印」、「連れ込み旅館(ホテル)」とか「同伴ホテル」、「さかさくらげ」(温泉マークのこと)などとも言われた。

「飢餓海峡」は昭和23年「フライパンの歌」でデビューした水上勉が、昭和37年週刊朝日に連載した社会派ミステリー小説。未完のまま連載が終わり、その後書き足されて翌年単行本化された。昭和22年津軽海峡で実際に起きた「洞爺丸遭難事件」と北海道の「岩内の大火」を背景に、貧困からの脱出をはかった男の悲劇が描かれている。昭和40年には内田吐夢監督によって映画化された。主人公に三国連太郎、繋がりをもつ娼婦に左幸子、事件を追う刑事に伴淳三郎と高倉健。シナリオも演出も演技も、重厚な映画だった。
事件の起きた昭和22年当時はまだ「温泉マーク」という言葉はなく、左幸子が演じた八重が働く娼館は、小説では「あいまい宿」で、「カフェーの看板が掲げてある」と書いてある。


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【アストラカン】 [obsolete]

『「服なんかいらない」
「お前にはセーターしかないんだろう?」
 わたしは返事をせずに、父から離れて婦人服地をならべているほうへ行った。父は店の奥に勝手に行ってしまった。
 アストラカンのまがいものや、純白のオーバー地や、ウール、ジャージイ、ドスキンなど高価な婦人服地が蛍光灯のともった店内に、ひっそりと美しく並んでいた。等身大のマネキンが、青白く光らせた肩から腰にかけて真赤なタフタをまきつけていた。』
(「挽歌」原田康子、昭和32年)

「アストラカン」astrakhan とは元来、ロシアのアストラカン地方に生息する小羊の毛皮のこと。引用文に“まがいもの”とあるように、流通していた多くのアストラカンは、本物に似せたパイル織りの布地で作ったオーバー。服飾用語は難しいが、パイル織りとは地糸に別の糸を織り込んで輪奈(極小の輪っか)を作ったり、その先端をカットしたもの。例をあげれば、厚手のタオルやコール天のようなもので、厚みがあり軟らかく保温性もあるので、オーバーなどに仕立てられた。
当時は服飾ブームで、この「挽歌」にもそうした言葉が数多く出てくる。引用文でいうと、ドスキンとは繻子ラシャともいわれ、男の礼服などにつかわれる生地。タフタとは、絹や化繊でできた薄地の織物で、イブニング・ドレスの素材などとして使われる。

「挽歌」が大ベストセラーになった要因は三つある。まず、ヒロインの時代を先取した自由で自分に正直な生き方。つぎに、みんなが大好きな不倫ストーリー。そして舞台が当時、今以上にエキゾチックかつロマンチックだった北海道(それも大自然ではなく函館、釧路、札幌といった都会)ということ。この小説のおかげで北海道には第一次の観光ブームが訪れたとか。原田康子はこの「挽歌」で、年上の妻帯者に思いを寄せる兵藤玲子という純粋で、行動的で、感情的で、現代的な、というように単なるアプレゲールを超えた新しいヒロイン像を作ってみせた。
その年、五所平之助監督、久我美子、森雅之主演で映画化された。
また、この作品で女流文学賞をとった原田康子も超売れっ子作家となり、「才女の時代」という流行語まで生まれた。


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【半鐘】 [obsolete]

『ふと、右手の空が赤く燃えているのに気がついた。
 火事であった。
 …………
 そのうちに半鐘が鳴り出し、町はにわかに騒々しくなった。人が駆け出し、消防自動車も非常ベルをガンガン鳴らして走って行った。』
(「青い山脈」石坂洋次郎、昭和22年)

「半鐘」hansyou は鉄製の釣鐘。寺で見かけるあの釣鐘のミニサイズ(50センチ前後)だと思えばいい。いま競輪で使われている最後の一周を告げる“ジャン”はまさに半鐘ではないか。大方は火の見櫓(これも廃物)という木や鉄の梯子の最上部の櫓部分に備え付けられ、監視者が火事を発見すると木槌で半鐘を打ち鳴らし、四方に火事であることを伝えた。半鐘も火の見櫓も江戸時代からのもので、昭和30年代には街中でも見かけることができた。やがて建物の高層化と消防署の充実により、その姿を消していくことになる。
♪ おじさんおじさん 大変だ どっかで半鐘が鳴っている 
と、美空ひばりが「お祭りマンボ」で歌っている。
冒頭の“引用”で気になるのは「消防自動車も非常ベルを」というところ。サイレンではなかったのだろうか。サイレンのことを非常ベルと書いたのだろうか。昭和30年代はサイレンはサイレンでも手動式。消防車に乗った隊員がそのハンドルを回していた。音が大きくなったり小さくなったり。あの“勇姿”に憧れた子供も少なくなかったのでは。

昭和22年6月より朝日新聞に連載され、のちにベストセラーとなった「青い山脈」は石坂洋次郎の代表作。戦後の学園ドラマのバイブルといってもいい。
終戦から2年を経ずして書かれた、地方の高等女学校を舞台としたこのドラマは、日本の新しい流れが旧習を洗い流していく爽快感をもって読者に受け入れられた。その中心にあるのが男女交際、つまり“恋愛”という永遠のテーマで、作者はその理想のかたちを描いてみせた。新子と六助、島崎先生と沼田医師。どちらの女性も当然のごとく自己を主張する。男どもはタジタジである。平たく言えば男女同権、いや女尊男卑の関係こそありうべき姿と作者は言っている。もちろん現実は延々と続いてきた男尊女卑で、昭和20年8月15日を境に変わったわけではなかった。だからこそ、作者はその正反対を描くことで、バランスをとろうとしたのかもしれない。あれから60年、現在はどうだろう。
もうひとつ、戦後間もないこの時期にこれほどのパワフルな青春ストーリーが出てきた背景には、戦前「暁の合唱」や「若い人」を世に出した石坂洋次郎が、戦争の激化につれてその自由主義的な内容が右傾勢力から疎まれ、書きたいものを書けなかったという事情があった。戦後その抑圧から解放されると同時に、作家の情熱が一気に吹き出した。それが「青い山脈」だった。
「青い山脈」は昭和24年に作曲・服部良一、作詞・西條八十、歌・藤山一郎、奈良光枝でレコーディングされ、同時に今井正監督により映画化された。いずれも大ヒットとなった。


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It's A Sin To Tell A Lie [story]

♪ 憎い悔しい許せない
  消すに消えない忘れられない
  尽きぬ 尽きぬ 尽きぬ女の 怨み節

  真っ赤なバラにゃトゲがある
  刺したかないが刺さずにゃおかぬ
  燃える 燃える 燃える女の 怨み節
(「怨み節」詞・佐藤純弥、曲・菊池俊輔、歌・梶芽衣子、昭和47年)

梶芽衣子のデビューは昭和40年。まだ本名の太田雅子で、日活の映画、TVで吉永小百合や松原智恵子の流れをくむ青春スターとしてスタートした。しかし、見ていてなにか違和感があった。まず暗く若さがない。そのくせ向こうっ気が強そうで屈折している。しかし、風は梶芽衣子に吹いた。日活の青春路線が行き詰まり、ニューアクションと呼ばれる路線に転換。そこで「野良猫ロック」シリーズでアブナイお姐さんが当たり役となる。さらに、日活がポルノ路線に転換すると、東映へ移籍。もう梶芽衣子のイメージは固まっていた。「怨み節」は移籍第二作「女囚さそり 701号」の主題歌。結局「さそり」シリーズは4作まで作られることになる。作詞の佐藤純也は同シリーズ3作までの監督。
梶芽衣子の歌はあまりにも「怨み節」の印象が強すぎて、他が聞こえてこないが、シングル12枚、アルバム10枚を出している。その中で八代亜紀の「舟唄」をカバーしてるようで、ぜひ聴いてみたい。

まったく、あのクソ親父ときたら。カレシと遊び行って帰ってきたら大事件勃発。
親父が警察に捕まった。なんでも朝の駅で女子高生の頭を殴ったらしい。相手は17歳。わたしと同い年。それを訊かされたときのわたしの第一声はいつもの親父に対する口癖、
「ばかじゃないの?」

殴られた女子高生が騒ぎ、駅員が警察に通報して即逮捕。その女子高生がかなりゴネたらしいのだが、結局慰謝料を払って示談が成立。留置されることもなく、親父は母に連れられて帰ってきた。母は家へつくなり泣きっぱなし。「もう外も歩けない。情けない……」だって。いつも冷静な兄貴は「まあ、痴漢で捕まったんじゃないだけましなんじゃないの。仕事や家庭のことでストレスが溜まっていたんだろう。おまえも迷惑ばかりかけてんじゃないぞ」って、わたしにとばっちり。

で、親父の弁解。
「魔がさしたんだよなぁ」
〈オイオイ、痴漢じゃないだろ?〉
「電車に乗ろうとしてたんだ。ドアが開いたとたん、その娘が勢いよく降りてきてお父さんにぶつかったのさ。それでお父さんすっとんじゃって……。昔はあんなじゃなかったのになぁ。あれぐらいで倒れるようなヤワなからだじゃなかったのに……」
〈いいから、先、続けろ〉
「それで、彼女がそのまま行こうとしたから。『キミ、ちょっと待ちなさい』って呼び止めたんだ。そしたら彼女が振り返って『うっせえんだよ! クソジジイ!』って怒鳴り返してきてね」
〈ありがちだね。それで?〉
「なんだかなあ。あのひと言で訳分からなくなって……。気づいたら彼女が、『殴られた!』って喚いてんだ。そして、傍にいた40歳ぐらいの男がお父さんの腕を掴んで、『おい、自分の娘ほどの子を殴ってどうするんだ』って言ってるんだ。でも、殴ったことまるで覚えてないんだよ。だってさ、おまえのことだって殴ったことないだろ?」
〈そりゃそうだわなぁ……〉
「お父さん、生まれてこの方、殴られたことはあるけど人を殴ったことなんか一度もないんだ。だから……、殴ってないと思うんだけどなあ……」
〈なら、なんで認めちゃうわけ?〉
「警察連れて行かれてさ、優しい刑事さんが言うわけ。『だいじょうぶ大したケガもしてないし、ここは相手に誠意をもって謝罪すれば大事にはならない』って。でも、殴ったつもりはないんです、って言ったら『困ったなあ。そうなると、2週間ほどここに泊まってもらわなくちゃならなくなるよなぁ』って。そりゃないもの」
〈根性ねえぇ……〉

そんなわけで、先日、親父と母はその女子高生の家へ改めて謝罪に行き、額を畳にこすりつけるばかりに謝って、そのうえ示談金を払ってきたらしい。会社には親父から申告したらしいんだけど、起訴されたわけでもないし、即日釈放されてるってことで、どうやら不問になったようだ。はじめは落ち込んでいた親父も、最近ようやく冗談もでるようになった。あたしも、門限破りで11時頃帰ると親父に軽く怒られるんだけど、そんなときは「やべ、殴られるかと思った」なんて言ってやるんだ。親父笑ってるけど顔こわばってる。あれやこれやで、一件落着、また元通りの生活に……って、そううまくはいかないんだな。納得いかない人間がここにひとり。

どうしても彼女の口から本当のことが聞きたい。で、もし親父の言ってることが正解ならば、一発かましてやりたい。だって、パンチの料金はすでに前払いしてあるんだからね。
わたし、高校では陸上部で短距離やってるんだけど、腕力にはやたら自信あり。なにしろ、ベンチプレスで40キロ上げるのは、女子でわたしだけなんだから。

彼女の住所は母親のメモを見てゲット。N学園っていう女子校に通ってることが判明。N学園には中学時代の友だちがいるので、さっそく情報収集。で、分かったのは相当なワルってこと。噂では男とつるんで恐喝まがいのエンコーやってるって。それでも、学校内では面倒見がいいらしく、リーダー格で人気者らしい。まあ、そんな細かいことはどうでもいいんだ。早い話、彼女がワルだってわかればそれで十分。こっちの闘志が湧いてくるから。

その日、わたしは学校を休んで、友だちから借りた派手な洋服を着て、メイクもバッチリ決めて、彼女の自宅のあるT駅で待っていた。
「あの、桜庭さんですよね?」
彼女は、見ず知らずの女から話しかけられて怪訝な顔をしていた。わたしは、ぜひ相談したいことがあるからと言って、近くの公園へ誘った。彼女は「用事があるから、できるだけ短めにね」と多少迷惑そうだったが、公園へ着いてきた。

ベンチに座ると、わたしは電車の中で痴漢にあって困っていること、それを友だちに話したら、「N高の桜庭さんに相談してみたら」と言われたことを話した。彼女が「その友だちって誰よ」って訊いてきたので、それをはぐらかすのに苦労した。
わたしは、相手の住所をつきとめたので、警察に訴えようと思っているのだけどどうだろうと相談した。すると彼女は、
「警察へ行く前に、あたしの友だちに話つけてもらってやるよ」
だって。わたしは内心「よしよし」と思いながら、
「話っていいますと?」
「慰謝料もらうんだよ。あんただって、さんざんやられたんだから、そのぐらいもらわなくちゃ合わないだろ?」
「えっ!? そんなことできるんですか?」
わたしが無知を装うと、ついに彼女は体験談を話し始めた。
「駅でムカツクオヤジがいてさ、……」
やっぱり、親父は殴るどころか、彼女のからだに指一本触れてはいなかったのだ。
「やっぱりわたしにはそんなことできません」
「なんだよ、あんたから相談してきたんじゃない」
「だって、それって犯罪じゃないですか」
「うっせえんだよ。なら、はじめから言ってくんじゃねえよ」
その悪態に反応するかのように、わたしの右パンチが彼女の顔面を直撃した。ベンチから転げ落ちた彼女は、相当痛かったらしく、しばらくは顔を押さえたまま身動きもしなかった。ちょっと心配したけど、そのうち「なにすんのよぉ」小さい声でつぶやいた。

するべきことをし終えたわたしは、彼女を置き去りにしていった。公園を出るとき振り返ると、ベンチで顔にハンカチをあてて悄然としている彼女が見えた。わたしはなんだか、今晩、親父と顔を合わせたら、理由もなく「ばかじゃないの?」と言ってやりたい気持になっていた。


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【周旋屋】 [obsolete]

『釜ヶ崎周辺には、怪し気な周旋屋が沢山ある。香代はアパート探しを口実に、そのうちの一軒と親しくなり、主人の岡本に若干の金を与え、登記所を調べさせた。驚いたことに、抵当は綺麗に取れている。家の名義人は香代美沙緒であった。香代はこの家で千五百万円ほど借りていたのである。美沙緒は千五百万円もの大金をどうしてつくったのだろうか。』
「背信の炎」(黒岩重吾、昭和39年)

「周旋屋」Syusenyaとは取引つまり“買いたい人”“売りたい人”の仲介に入って話をまとめ、手数料を取る商売のこと。現代風にいえば、エージェントとかブローカーというところ。“周旋”は「とりもつ、世話をする」という意味で、“斡旋”と同義。
“引用”にあるように、不動産の仲介は当時から最もポピュラーな周旋業だった。そのほか結婚紹介所とか、旅行代理店、広告代理店と周旋業花盛りの現代。楽天やライブドアあるいはアマゾンなどは時代の最先端を行く「周旋屋」だろう。
“引用”では「周旋屋」に“怪し気な”という修飾語がついているが、今も昔もそうしたイメージがつきまとう。

自らの会社を破産させた香代達男は失踪し、断崖絶壁に立ち尽くす。しかし身を投げるのを思いとどまり、偽装自殺をして街へ舞い戻る。それは10歳も離れた妻に不貞の匂いをかぎ、会社の倒産に見えざる力を感じたからだった。香代は“引用”にあるような調査をしたのち、確信をもって自らの家の天井裏へ身を忍ばせる。そこで、妻と部下との愛欲シーンを目撃し、さらにふたりの会話から会社の倒産が仕組まれたものであることを知る。香代は部下を殺し、妻を縛り目隠しをして犯す。“強盗”に犯されている妻は、かつて自分との行為では見せなかったほど身もだえる。そのことの虚しさに香代は妻を殺すことをあきらめ、あの断崖へと戻っていくのだった。
天井裏から情事を目撃したり、妻を目隠しして犯したりと、猟奇的要素を多分に含んだ復讐劇。
昭和35年「背徳のメス」で直木賞を受賞した黒岩重吾は、30年代後半から40年代にかけて風俗小説で多くの読者を獲得した。黒岩重吾の小説にはどこか翳りがあるが、それは過酷な戦争体験、そして戦後の浮沈の激しい生活(「背徳のメス」の舞台となった釜ヶ崎での生活)に根ざしているといわれる。50年代になると、突き抜けたように「落日の王子・蘇我入鹿」など古代に材をとった小説を多作するようになる。
平成15年肝不全で死亡。享年79歳。


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【ロイド眼鏡】 [obsolete]

『「東京の人は、お上品じゃけん、そがいなこともあるまいが、わしらは、小麦饅頭やったら、十や十五は誰でも食いますらい。じゃが、二十から先は、ちいと骨が折れる。二十五が関所かいのう。のう、旦那はん?」
 と、坊主頭で、ロイド眼鏡の男が、勘左衛門氏に話しかけた。
(「てんやわんや」獅子文六、昭和23~24年)

「ロイド眼鏡」は太めの縁の丸眼鏡のことである。その名の由来は、アメリカの喜劇役者、ハロルド・ロイドが使用していたからとか、はじめはセルロイド製だったからなどの説がある。永井荷風がかけていたのがまさに「ロイド眼鏡」。
日本で「ロイド眼鏡」がはじめに流行ったのは昭和初期。エノケンの「洒落男」(昭和4年)に ♪ その時の我輩のスタイル 山高帽子にロイド眼鏡 という一節があり、“モボ”の必須アイテムだった。戦後になると「街のサンドイッチマン」(昭和28年、歌・鶴田浩二)で ♪ ロイド眼鏡に燕尾服 などと歌われ、おどけた格好の代名詞になってしまった。
同じ丸眼鏡に“ボストン眼鏡”があるが、つるとフレームの接点の位置が異なる。「ロイド眼鏡」がフレームの真ん中につるがあるのに対し、ボストン眼鏡は上部についている。
眼鏡の流行もうつろいやすく、全盛をほこった小さなフレームの後は何がくるのか。

「てんやわんや」は四国宇和島が舞台。獅子文六一家(夫人と娘)が疎開していた湯河原から夫人の郷里である四国へ移ったのは終戦直後。当時の住宅難、食糧難によるところが大きかったのだが、当の獅子文六にも遠方へ逃避したいという心境があったようだ。転地先は、自然環境、人間環境ともに居心地がよかったようで、2年近く滞在することになる。帰京後間もなく新聞小説として連載された「てんやわんや」だが、作者は「気持ちよく書けた作品」と、感想をもらしている。
そもそも「てんやわんや」とは、『慌て大騒ぎすること』という意味で、笠置シヅ子の「買いものブギ」(昭和25年)にも♪ てんやわんやの大騒ぎ と歌われている。また、昭和30年代から40年代にかけて人気を博した東京漫才「獅子てんや・瀬戸わんや」は獅子文六の「てんやわんや」から命名したものだろう。
小説家は死に、漫才師も亡くなり「てんやわんや」もまた廃語になろうとしている。


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【ズルチン】 [obsolete]

『「ほんとにドッグさんときたら、犬にしても、よっぽど臆病犬だわよ」
 と、じれったそうに、彼女は私を罵(ののし)ったが、私はズルチンの渋さが舌に残るコーヒーを、飲みこんで、返事をしなかった。』
(「てんやわんや」獅子文六、昭和23~24年)

「ズルチン」dulzin は人工甘味料のひとつ。人工甘味料とは食品に甘みを加える添加物のこと。通常甘みはサトウキビや砂糖大根からとれる砂糖、蔗糖が使われるが、人工甘味料はそれらの数百倍甘いといわれる。「ズルチン」はフェネジチンや尿素といった化学物質を加熱してつくられる。砂糖が欠乏した戦中・戦後には、その代用品として広く使われた。その後、発ガン性が指摘され昭和43年に使用禁止となった。
「ズルチン」と同様砂糖の代用品としてもてはやされたのがサッカリン。これも微量で甘みが得られることから随分使われた。現在もチューインガムや漬物などに使用されている。

終戦になり、ドッグこと犬丸順吉は戦前書生として仕えていた翼賛代議士の鬼塚玄三を訪ねる。戦犯になりかねない代議士は犬丸に、お前も危ないからと四国へ身を隠すように命令する。しぶしぶ従う犬丸だったが、行き先は食糧難もなんのその、上げ膳据え膳のたいそうな料理に酒までついて……、というその地方の長者の屋敷だった。
「てんやわんや」は主人公・犬丸順吉の終戦直後一年間の漂流奇談である。
長者の子供たちの家庭教師になった犬丸は、村人からも「先生、先生」と呼ばれ、すぐにうちとけていく。その後、“ヤミ”で儲けたり、選挙に巻き込まれたり、「四国独立」を唱える人物と出会ったり、東京から代議士と以前犬丸がプロポーズした女性が同伴でやってきたり、それこそてんやわんやの生活が繰りひろげられる。
そんなある日犬丸は村人から「遠足へ行こう」と誘われ、いまだ敗戦も知らないという山中の村へ連れて行かれる。そこで「古典的美人」アヤメと一夜をともにすることになる。屋敷へ帰った犬丸だったが、アヤメのことが忘れられない。寝ても覚めてもアヤメのことばかり。ようやく、山中の村へ行ったとき、すでにアヤメは他村へ嫁いだあとだった。そして、四国が大地震に見舞われた三日後、落胆の犬丸は東京へ帰るのだった。
最後に作者は、「これ以上バカバカしい一年は、ありますまいよ」と結んでいるが、どうして、読者にとっては、竜宮城か蓬莱峡かという、うらやましい夢の一年のように思える。
「てんやわんや」は昭和23年から24年にかけて『毎日新聞』に連載された。当時はたいして評判にならなかったが、その後文庫本になったからよく売れるようになったとか。


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The Way We Were [story]

♪ 木枯らしにふるえてる 君の細い肩を
  思い切り抱きしめて みたい けれど
  今日はやけに君が おとなに見えるよ
  僕の知らない間に 君は 急に
  時のいたずらだね にが笑いだね
  冷たい風がいま 吹き抜けるだけ
(「時のいたずら」詞、曲、歌・松山千春、昭和52年)

松山千春は昭和52年1月「旅立ち」でレコードデビュー。「時のいたずら」はその10カ月後の同年11月に3枚目のシングル(「白い花」とカップリング)として発売された。同じ11月には、新宿厚生年金会館小ホールでコンサートを行っている。これが道外での初めてのコンサート。北海道では知る人ぞ知る松山千春が全国区になるのは、その翌年53年8月に出した「季節の中で」の大ヒットによって。昭和53年といえば、キャンディーズが解散し、それに代わるかのようにピンク・レディーが大ブレイク(「UFO」がレコード大賞)した年。
いち時中年太りが著しかった松山千春ですが、さいきんTVで見たらずいぶんスマートになっていた。一念発起してジムにでも通ってるのでしょうか。でも、くれぐれも長渕剛みたいなマッチョにはならないでほしいものです。

今さら言うのも何だが、人と人との出逢いというのは不思議なものだ。

私が中学3年のとき、佐伯清が転校してきた。きっかけが何だったのか、いまとなっては記憶の底だが、とにかく私と彼はお互いに家を往き来するようになった。多くの家がそうだったように私の家も貧しかった。そんな時代だった。だから私は、疑うこともなく中学を出たら働くつもりだった。それが、無理をしながらでも高校、大学へ行こうと思ったのは佐伯の影響だった。もし、彼が私の住む町へ引っ越してこなかったなら、私の人生はまるで違ったものになっていたはずである。

私が初めて佐伯の家へ行ったとき、そこで会ったのが彼の妹・涼子だった。私たちより4つ下の小学5年生。白のブラウスにピンクのカーディガン。それに薄いチェックの紺地のスカートとブルーの靴下。その時の服装のディティールまではっきりと覚えている。
「コイツ、涼子だ。可愛がってやってくれ」
と佐伯のぶっきらぼうな紹介に、硬い表情で、両手を前で揃えて「涼子と申します」と小さな声で頭を下げた。その所作が大人びていてとても可愛いかった。そして、おかっぱの下の切れ長で、その名のとおり涼しげな瞳に不思議な衝撃を受けて、私は返事の言葉すら出てこなかったこともよく覚えている。
佐伯は妹のことをとても可愛がっていた。だから涼子は私たちといつも一緒だった。図書館、プール、スケート場、野球場……。

次の年の春、私と佐伯は別々の高校へ入った。

それから2年後、私が17歳になった夏、佐伯が突然死んだ。ラグビー部の夏の合宿中、心臓マヒで倒れたのだった。彼の葬儀で久々に涼子に会った。少女の2年間というのがどれほどドラマチックなものか、それほど13歳の彼女は眩しく変身していた。そして彼の葬儀を終えて半年ほど過ぎた頃、佐伯家は何処かの町へ引っ越していった。

私は学資を稼ぐため1年間浪人して大学へ入った。そして4年生になり、なんとか卒業のめどが立ったとき、涼子と再会した。私と同じ大学へ1年生として入ってきたのだ。
売店で彼女と眼が合ったとき、はじめに気づいたのは彼女の方だった。もちろん私も髪の長いジーンズ姿の新入生が佐伯涼子であることにすぐ気づいた。
私たちはそれから、たびたび逢うようになった。はじめは佐伯清の思い出話だった。それが何度か逢ううちに、音楽や映画や小説といった、普通の若者同士の話題に変わっていった。キャンパス近くの喫茶店で話をする、ただそれだけのことだったのだが。

私は卒業し、化学薬品メーカーに就職した。そして富山県にある工場へ赴任することになった。東京を発つ前の日、なぜか急に涼子に逢いたくなった。雨の日だった。私はいつも待ち合わせた小講堂の前で彼女を待っていた。しかし、その日ついに彼女と逢うことはできなかった。

富山の社員寮に住む私の元へ、どこで調べたのか涼子から手紙がきたのは入社間もない頃だった。それから文通は2年あまり続いた。春の陽ざしが暖かくなってきたある日、彼女からいつものように近況を伝える手紙がきた。そして、文末に「何事も経験です。お見合いなんかしてみます」と添え書きがあった。私は「GOOD LUCK」と返事を書いた。

夏の暑さがようやく静まりはじめた頃、しばらくぶりに涼子から手紙がきた。そこには彼女が結婚を決めたことが短くしたためられていた。それが彼女からの最後の手紙だった。

それから4年が過ぎ、私は富山で結婚した。そしてその2年後、30歳になってようやく東京の本社へ戻ることになった。
東京の風は涼子の噂を運んできた。大学卒業と同時に結婚。そして2年前、ちょうど私が家庭をもった頃、ひとり娘を連れて嫁ぎ先の家を出たと……。

人生には望むと望まざるとにかかわらず、多くの偶然が用意されているらしい。

私は45歳の誕生日の前日の夜、涼子と三たび逢った。
そこは新橋の小さなバーだった。高校の同窓会から私と数人の旧友が流れ着いた止まり木のママが涼子だった。一目で分かった。20年以上の時を経たからといって、彼女の面差しを忘れるはずはない。生硬な若さから脱皮して、その美しさは最盛を誇っているようにさえ見えた。
それから、しばしば私は涼子の店に通うようになった。私は狂った。妻と子供を、家庭をそして仕事まで棄ててもいいと思った。すでに道半ばにさしかかった今、残りの半分の人生を涼子と生きてみたいと、まるで二十歳そこそこの青年のように思い詰めたのである。しかし、私が真剣になればなるほど、彼女は冷静になっていった。そして最後の晩、笑みをたたえて「もうここへ来ちゃだめ」と私を諭すように言ったのだった。

それから15年、私は仕事も辞めず、家庭も壊さず定年を迎えた。子供たちもそれぞれ独立し、やっとローンの払い終わった家には私と妻だけが残された。風の便りで涼子が2年前に亡くなったことを知った。
そして今年の夏、私もこの世に別れを告げることになった。もちろん、涼子の後を追ったわけではないし、彼女から呼ばれたわけでもない。しかし、彼女の死が私の中で、何かのピリオドを打ったことは確かだった。

その2年後、すでに死んでいる私を驚愕させる出来事が起こった。私の次男・祐介が、涼子のひとり娘・尚子と結婚したのである。ふたりはとあるパーティで知り合ったのだ。そのたった一度の邂逅でふたりは結ばれた。運命が最後にこんな偶然を仕掛けていたとは……。
私は尚子をはじめて見たとき、思わず落涙してしまった。まるで生き写しだった……。もちろん二人はお互いの父親と母親の接点など知りはしない。

すでに死んでしまい、無聊をかこつ私のいまの最大の関心は、若いふたりが、いつか何かのきっかけで私たちの過去を知り、不思議な縁を感じる日が来るのではないかということなのだ。
「ねえ、あなたもそう思いませんか?」
私はとなりで静かに笑っている涼子にそう訊ねてみた。


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【遠眼鏡】 [obsolete]

『半月ほどした、ある土曜日の午後のことである。冷たい風の吹くよく晴れた日だったが、Kは石灰山の中腹で、なにかきらっと光るものを見た。宇然の遠眼鏡が光ったのだろう、するととつぜんたまらなくなってきて、明日はどうしても宇然について山にのぼり、いっしょに遠眼鏡をのぞかせてもらおうと決心した。……』
(「鏡と呼子」安部公房、昭和32年)

「遠眼鏡」(とおめがね)、望遠鏡のこと。「鏡と呼子」が書かれた時代、まだ「遠眼鏡」と“望遠鏡”の2つの言葉が共存していた。
望遠鏡の歴史は17世紀初頭まで遡る。ガリレオが自作して天体を観測したのはよく知られている。日本へは徳川家康の時代に入ってきたというから、当時としては短いタイムラグで伝播したようだ。他の物にもいえることだが、望遠鏡もまた戦争によってその性能が飛躍的に向上したといわれる。
いま、望遠鏡といえば月や星を観察する天体望遠鏡をさすことが多く、廉価のものでも100倍程度の倍率がある。自然や遠方の事物を観察するのには双眼鏡が使われる。こちらは手持ちでブレない7倍前後が一般的で価格も数万円。なんでも100円ショップにも双眼鏡があるそうで、倍率は2.5倍だとか。そういえば、昔(今も)玩具の望遠鏡があった。あれも2倍程度の倍率だったのだろうか。ちなみにこの小説で宇然が使用しているものは、三段式で倍率は5倍。

Kはある村の学校に、教師として赴任した。その村は若者の家出を危惧する校長の思想、家出を監視する人間、そして村人たちの猜疑心の三つのもの、つまり三角形によって成り立っていた。Kは校長の斡旋で年老いた姉弟の家へ寄宿する。姉は綿羊を犬代わり連れて歩く老婆で、弟は毎日山にのぼり遠眼鏡で村中を監視している男・宇然だった。Kの同僚はKが校長と対立することを期待していた。Kもまた家出を促進する「家出相談所」を設置することまで考える。しかし、老婆がクルマにはね飛ばされて死に、その葬式に集まった多くの親戚から、他所者が徹底的に排斥されることを知る。そして、いつか自分が校長と同じように「家出亡国論」になりかかっていることに気づく。
タイトルの「鏡と呼子」は遠眼鏡で村を監視する宇然が、村人に異変を知らせるときの道具。「砂の女」でもみられる閉塞された共同体という設定は安部公房の得意とするところ。


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【丸首シャツ】 [obsolete]

『……太郎はサック・コートをぬいで草むらに投げ出すと、レールの間にうつ伏せに寝て、電車が轢いてくれるのを待っていた。意外にも、電車は背中の皮にも触れずに通りすぎて行った。保線工夫が太郎を抱いてホームへ連れて行くと、駅員にこんなことをいった。
「上着を着ていたらキャッチャー(排障器)にからまれて駄目だっただろう。丸首シャツにパンツだけだったから助かったんだ」』
(「母子像」久生十蘭、昭和28年)

「丸首シャツ」の丸首は襟の形であり、ここでは丸くえぐられた襟をした下着のこと。服飾用語で“丸首”はラウンド・ネックのことで、当然下着だけではなく、丸首セーターもある。丸首の下着は今でもあるが、ほとんど“Tシャツ”と言っているのではないだろうか。ちなみにTシャツのTはシャツ全体の形のことで襟のことではない。
男の下着に限っていえば、昭和30年代は襟の形で丸首のほかにいまでいうVネック(というよりUネック)があった。また、袖の形ではランニング、半袖、七分袖、長袖があった。子供はほとんど夏はランニング、冬は長袖だった。ついでにパンツにも触れると、これは猿股、いまでいうトランクスが多く、ブリーフが一般的になったのは30年代も後半ぐらいではなかったか。そのほか、冬は股引もかかせなかった。下着のシャツにしろパンツにしろ、男物は素材や色づかいが変わってきているようだが、かたちは昭和30年代とくらべてさほど変化がない。変えようがないか。

「母子像」は終戦間際サイパンで母親から殺されそこなった少年・太郎が、“自殺”するまでの話。太郎は幼いころから美しい母親に魅かれていた。自決のため紐で首を絞められるときも、嫌われたくないので嬉々としていたほどだ。瀕死の状態で米軍に助けられた太郎は、戦後日本の施設で教育を受ける。しかし、やはり生き残って銀座でバーをやっている母親をつきとめ、花売り娘になりすまして訪ねる。しかし、母親の性行為中の声を聞いて“マリア像”が崩壊する。冒頭の引用は、太郎が自殺しようと線路に横たわり失敗する場面。
結局焼身自殺にも失敗して補導された太郎は、警官の拳銃を盗み発砲する。しかし反対に他の警官から打ち抜かれてしまう。
久生十蘭はフランスで演劇を学んだ後帰国、昭和12年に書かれた「魔都」によって探偵小説あるいは推理小説作家としての地位を築いた。しかし、作品は時代物、幻想小説、ノンフィクション、純文学と多岐にわたり、その博識とストーリーテラーぶりで異彩を放った。昭和26年、「鈴木主水」で直木賞を受賞。「母子像」は読売新聞に掲載され、世界短編小説コンクールで第一席になった作品。


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【荒物屋】 [obsolete]

『知子には突然、慎吾と暮らした過去の様々な部屋が一挙に思い出されてきた。
 中央線の郊外の欅(けやき)の並木のある街道筋に面した荒物屋の、坊主畳の離れ。駅前商店街の真中の中華そば屋の、かしいだ二階……
 荒物屋では、はじめて慎吾が酔って泊まっていった。……』
(「花冷え」瀬戸内晴美、昭和38年)

「荒物屋」はホウキやチリ取り、ザル、籠などの家庭用品を扱う商店。他にタライや洗面器、刃物、釘など金属製品を扱う金物屋、たわし、ちり紙、柄杓、洗剤などを扱う雑貨屋といった専門店があった。しかし、こうした店の領域というのは当時からあいまいで、「荒物屋」が金盥を扱うこともめずらしくなかった。近年、そうした傾向はさらに顕著になっている。ある「荒物屋」の取扱商品をみると“雑貨、家庭用品、金物”と明示されていた。現在は雑貨店といったほうが聞こえもいいのだろう。かつては町内に必ず一店舗はあった「荒物屋」もいまはスーパーマーケットに追われて姿を消したところが多い。、「荒物屋」で扱う商品は、決して洗練されていないが、生活には欠かせない、値段も手頃な日用品という感じがする。そうしてみると機能的なフォルムに清潔な素材の雑貨を揃えている東急ハンズなどに、「荒物屋」のにおいはしない。

「花冷え」は、「夏の終わり」からはじまり「みれん」、「あふれるもの」と続いた知子と慎吾の不倫ストーリーである。8年間にわたって妻子のある売れない小説家・慎吾は月の半分を染色家の知子の家で過ごす。その間知子は昔の男とよりを戻してみたり、ひとり旅をしてみたり、苦しみからの脱却をはかるが「愛よりも強くなってしまった(慎吾との)習慣」のため、別れることができないでいる。
それが“最終章”ともいえるこの「花冷え」で、知子は新しい家を買い、はっきり慎吾との決別を試みるのである。ラストシーンは、知子と慎吾が連れ立って小田原へ花を見に行くところ。見事な花盛りの中、慎吾と腕を組み歩く知子はようやく慎吾との長い旅の終わりを実感するのだった。
瀬戸内晴美が平泉中尊寺で得度し、法名・寂聴を得たのは「花冷え」を発表してから10年後のこと。


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The Last Thing On My Mind [story]

♪ じれったいほど あの娘のことが
  泣けてきやんす ちょいと三度笠
  逢うに逢えぬと思うほど 逢いたさつのる旅の空
  ほんに なんとうしょう 渡り鳥だよ
「ひばりの渡り鳥だよ」(詞・西沢爽、曲・狛林正一、歌・美空ひばり、昭和36年)。

美空ひばりには他にも「ひばりの三度笠」、「花笠道中」など股旅ものがある。渡世人になりきって歌うのである。歌謡曲や演歌では女の歌い手が「男歌」を歌うことがしばしばある。美空ひばりでいうと「柔」がそうだし、他にも「若衆もの」などがある。
反対に男が「女歌」を歌うというケースも、バーブ佐竹の「女心の唄」や小林旭の「昔の名前で出ています」を例にあげるまでもなく数多くある。演歌の世界ではさほど不思議なことではないらしい。
なぜそういう“倒錯”が通用するかというと、日本にそうした土壌があるからだろう。卑近な例でいえば、歌舞伎の世界や宝塚歌劇の存在がそうだ。
外国はどうか知らないが、アメリカのカントリーやジャズなどでは考えられないことだ。たとえば「TENNESSEE WALTZ」は男性歌手も女性歌手も歌うが、男ならintroduced him 、女ならintroduced her と歌詞を替えて歌う。
倒錯の世界を享受してしまう日本のほうが、アメリカに比べて文化的にも人間的にもはるかに複雑で面白いと言ったらいいすぎか。でも、Jポップをはじめ最近の流行歌ではそういうことがなくなってきているのでは? とすると日本人は単純でつまらなくなりつつあるということになってしまうのだが。

『マキちゃん、聞いてよアタシの最後の恋バナ……』
オレがバラしたシェーカーを洗っていると、カウンター越しに“お嬢”が言った。
さっき作ったばかりのブラック・ラシアンがもう干されている。“お嬢”はこの路地のいちばん奥にある「13」っていうゲイ・バーのオーナーママ。最近は若いオネエさんたちに店をまかせて、どこがいいのかここへ入りびたり。まあ、若いオネエさんって言ったって40は過ぎてるみたいなんだけど。ということは“お嬢”は……。まあ、歳の話はよしましょう。

“お嬢”、若い頃は新宿じゃ知らない者がいないぐらいの「いい女」。今は亡き作家のMが仕事ほっぽらかして夢中になったというほど。そのまま行けば天まで昇る勢いだったらしいけど、何が起こるかわからないのが人生。計算通りいかないのがこれまた人生。
“お嬢”がホレたのが、客だった冴えない中学の先生。周りの反対に背を向けて十近くも上のその先生と“結婚”。「もう戻らないから」って啖呵きって新宿を出ていったって。意地があるから3年頑張った。でも、みんなの予想どおり帰ってきた。家庭も職場も捨てて麻雀三昧の“旦那さん”を養うには仕方ないよね。でも、女の盛りを主婦に費やしたツケは大きかったみたい。今度は新宿の方が“お嬢”を追い出したって。

それから?十年。
でもエライのは旦那さんを捨てなかったこと。旦那さんも調理師の免許取って店を手伝うようになり、この小路で「13」を開店したのが7年前。ほんとに若い頃そのまんまって思える仲の良さで「お嬢」、「ダーリン」って呼び合ってた。働けなくなったらふたりで養老院へって貯金もしてたみたい。おまけに、墓まで買っちゃう念の入れよう。
ところが、思うようにいかないのが賽の目と人の世。旦那さんがちょっと風邪をひいたとか言って寝ついたら、2週間も経たないうちに死んでしまった。それが2年前の春。「墓なんか買ったとんイッちゃったりして」なんて“お嬢”の冗談がホントになっちゃった。

そのときの“お嬢”の落胆ぶりといったら大変なものだったらしい。なにしろ、お店を再開するまで半年かかったっていうから。ウチのオーナーも言ってたもの、「男と女だってあんだけ仲の良い夫婦はいない」って。
ところが、人間の恋路ってのはどこでどうなるかわからない。その“お嬢”がダーリンの三回忌を済ましてから俄然元気になってしまった。なんでも、“お嬢”の後輩が新宿でやってる店の若い子に夢中になってしまったんだとか。それがその“恋バナ”……。

『トシって言うのよね、むかしの錦ちゃんに似ててね……、そりゃもう食べちゃいたいぐらい可愛いのよ……』
「そうですかねえ。私だってたまには男でも、これならいいかな、なんて思うヤツがいますけど、欽ちゃんですか……。まあ、好みはいろいろですから」
『やだ、マキちゃん、錦ちゃんって誰のこと想像してるの?』
「萩本欽一じゃないんですか? まさか愛川欣也?」
『ハハハ……、やだ、この人。だから若い衆とは話が合わないのよね。違うのよ、中村錦之助、萬屋錦之助よぉ、いやだわ。もぉ……』

なんでもそのトシとかいう若い男に相当入れあげてるようで、マンションの頭金まで出してあげたとか。ゆくゆくは自分の家の名義も店の権利もすべてその坊やにあげてもいいとまで思ってるのだとか。お店のオネエさん方が言っていた。

『そうじゃないのよ、マキちゃん。分かってるの。どうせ最後は捨てられるんだってことも。でも、しょうがないじゃない。こんな老いぼれが……』
ああゝ、“お嬢”自分で言って涙ぐんじゃった。
『もう先のないアタシが、トシみたいな若い子をふり向かせようとしたら何がある? お金でしょ、物でしょ。それでアタシなんかの相手してくれるんだったら、惜しくないもの。全部あげて、ホームレスになって野垂れ死んだってかまわない……。アタシ、彼のためだったらなんでもする。人殺しだってやっちゃうかも……。わかる?』
「さあ、…………」

よしてくださいよ、男と女だって複雑なのに、男同士の恋愛なんて皆目分かるわけがない。

『でもね、へんな話だけど、預金通帳の残高がどんどん少なくなっていくでしょ。この先のこと考えると確かに不安なのよ。でもね、……なんていうのかな、そういう身を切られるような痛みが、彼を愛しているっていう実感なのよ。わかる? 愛には代償が必要なのよね……」
「なるほどねえ……」
言ってるだけで、まるで分かってないオレ。あれ、ケイタイ鳴ってる。ああ、“お嬢”にだ。きっと店からだよ。忙しくなったから戻ってこいだな、多分。

『ごめんね、マキちゃん。カエレコール。やんなっちゃう。イチゲンさんだって。ダメなのよねウチの子みんな人見知りで、アタシに似て、だって。キャッハハハ……。そう、そう、今の話ウチの子たちに黙っててネ、ウルサイから。おいじゃねぇ。♪ 惚れた弱みの裏の裏~ぁぁぁ、賽の目までがお見通し……ってか』

黙っててって、その「ウチの子」たちから聞いたんですよ。ハァ……。しかし、いいねえ、あの切り換え。先のこと考えると暗くなっちゃうけど、そんな気分でいられないものね。“それでも船は行く”のだから。しかし、あの歳であれだけの情熱ってのもウラヤマシイわなあ。
きっと恋愛もスポーツなんかと同じで、生まれつき素質のあるヤツがいるんだろうね。素質がなくても数こなして上達するヤツとかね。だからオレみたいに素質もなけりゃ、経験もないって無粋な人間にはカッコイイ恋愛はしょせん無理。だったら選り好みなんかしてる場合じゃないよな。ものは考え様。あのオカチメンコだってオレにはもったいない。うん、そうだよ。今度の日曜思い切って言ってみっかな。「オイ、いいものやろうか? えっ、何をかって? オレの苗字よ」。……でもなあ……。


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【高峰秀子】 [obsolete]

『「あんた、ここデコの家よォ。わからないの、高峰秀子の家よォ」
 金網に薔薇をからませてる以外は、女優らしい浮ついたモダンなもののない地味な家屋だったが、門柱の表札には高峰と平山と書いてあった。平山というのは高峰秀子の本当の姓だというぐらい「明るい星」の読者である二人には、百も承知だった。』
(「わたしが・棄てた・女」遠藤周作、昭和38年)

「高峰秀子」をここに取り上げるのは失礼な話ですが、名女優を未知の方々に伝えたい一心で他意はないことを理解し、許していただければと思います。
彼女の映画デビューは昭和4年の「母」。5歳のとき。子役は大成しないというジンクスを覆した希有な女優。その後、数多くの名作に主演。昭和54年「衝動殺人 息子よ」を最後に55歳で引退。以後「私の渡世日記」などを著し、エッセイストとして現在に至る。
とにかく代表作を選ぶのに苦労する女優で、どれもこれも名作ぞろい。そのいくつかをあげてみると「綴り方教室」(山本嘉次郎監督)、「カルメン故郷に帰る」、「二十四の瞳」、「喜びも悲しみも幾年月」(以上木下恵介監督)、「放浪記」「浮雲」「女が階段を上がるとき」、「乱れる」(以上成瀬巳喜男監督)、「名もなく貧しく美しく」(松山善三監督)など。
決して美人ではないが、多くの人に愛される顔立ちで、どんな役でもほぼ完璧にこなす、器用でかつ抜群の演技力をそなえた女優だった。

「わたしが・棄てた・女」には風俗的おもしろさもある。そのひとつが当時の映画俳優や歌手が実名で登場すること。登場と言ってももちろん本人が出てくるわけではなく、芸能人大好きのミーハー娘・森田ミツの“頭の中”に出てくるのだが。冒頭の“引用”はミツが友だちのヨッちゃんと高峰秀子の自宅を“見学”に行ったところ。当時、俳優のプライバシー保護という考えが希薄で、雑誌などに堂々と住所が紹介されるケースもあった。
高峰秀子以外で出てくるスターは、榎本健一、池部良、杉葉子、津島恵子、石浜朗、田崎潤、三船敏郎、山口淑子、若山セツ子、ディック・ミネ、藤田進、月丘千秋、佐田啓二、岡晴夫、田端義夫、大友柳太朗……。という豪華版。(何人知ってます?)

映画スターの話になったので、最後に映画「私が棄てた女」(監督・浦山桐郎)についても原作と比較しながら簡潔にふれておきます。
原作とのいちばん大きな違いは、小説の底流になっているキリスト教の思想を、映画では「優しさ」「思いやり」といったヒューマニズムに置き換えていること。それによって映画のほうがより普遍的になっている。精製していけばどちらも同じものが残るのだが。
反面、映画ではその信仰をオミットしたことで、原作では重要なファクターであったハンセン氏病をも排除せざるをえなかった。映画が公開された昭和44年当時、ヒューマニズムだけでハンセン氏病という“重い”設定を支えることは無理であったことは確かだ。しかし商業映画の宿命、あるいは限界という指摘は否めない。
もうひとつ付け加えたいのは男と女の描き方、すなわち吉岡とミツの関係である。これは映画の方がより深く描かれている。そのため吉岡の“棄てる”行為とそのことによる“返り傷”がよりリアリティをもって伝わってくる。小説家よりも映画監督の方がはるかに“その道の達人だった”ということだろう。
映画「私が棄てた女」はディティールの不満(ラスト近くの夢幻シーンなど)はあるものの、そのテーマの高潔さ、ふんだんな名場面により、原作に縛られない素晴らしい作品となっている。やはり小説と映画は似て非なるものととらえた方がいいようだ。


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【文化刺繍】 [obsolete]

『一週間たつと、ミツは軽症患者のための食堂にやっと出られるようになった。
 加納たえ子は女子のやる作業のうちで、刺繍をすることをミツにすすめた。ミツの指はまだ神経麻痺がきていないし、健康人と同じように針をもつことができる。もっとも指が屈曲しかかった女性患者は文化刺繍といって、掌で動かす特別の針をつかうのだそうだ。』
(「わたしが・棄てた・女」遠藤周作、昭和38年)

刺繍はその名の通り布地に、針と糸を使って図柄、模様、文字などを縫い込むこと。なかでも「文化刺繍」は、表面からのみ針を刺し、多色の糸をたわませてつくる美しく上品な刺繍。多くの場合、下絵の描かれた布を木枠に貼り、それに従って針を刺していく。いわば、糸で縫う塗り絵のようなもの。熟練というよりも、根気と丁寧さが要求される。
昭和30年代には多くの愛好者がいた刺繍も、生活スタイルが変わり趣味が多様化した現在、その数は減っている。
上の“引用”はハンセン氏病の施設で、先輩の患者が入院してきた森田ミツに刺繍をすすめているところ。十分な援助が得られなかった当時の施設では、症状の軽い患者はこうした刺繍や農作業などで小遣いを得ていたという。

手のアザから始まったミツの不安は、やがて大学病院でハンセン氏病と診断される。絶望の淵に立たされたミツは街中で人目もはばからず泣きじゃくり、死をも考える。それでも死にきれず、「病んだ犬よりみじめな」思いで施設へ向かう。その満員電車の中、誰ひとり席を譲ろうとしない老人に対して、席を譲ってあげる。ミツはそういう人間だった。
施設に入所した当時、泣き暮らしていたミツだったが同室の加納たえ子をはじめ患者や修道女たちに励まされて、ようやく本来の明るさを取り戻していく。どうにか施設での暮らしにも慣れたある日、ミツの病気が誤診だったことがわかる。ミツは他の患者の羨望と敵意の目を感じながら施設を出て行く。しかし駅に着いたミツは電車に乗る気になれない。駅前の映画館で時間をつぶしたり、親に見送られて上京しようとする娘に昔の自分を重ね合わせたりしながら、結局は施設へと戻っていくのだった。そして、施設で働くことを許されたミツは、畠の前で「夕陽の光りの束」を浴びながら、故郷へ帰ってきたような気持になるのだった。
このあと、小説はミツの事故死という悲劇的な結末を迎え、吉岡の心に森田ミツという生涯消えることのない「痕跡」を残すのだが、森田ミツが何者だったのかという答えは、彼女が施設へ戻って来て、光りの束の中に立ち尽くすその姿によって明らかにされている。

ハンセン氏病という現在でもなおデリケートな問題を40数年前に、ストーリーに欠くべからざる背景として描いていることに驚嘆する。施設や患者の描写も具体的な部分があり、よく理解が得られたものだと思う。隔離された患者の絶望的な心情は、加納たえ子がミツに言う「……苦しいのは、誰からも愛されないことに耐えること」という言葉が物語っている。
作者のハンセン氏病に対する姿勢はシンパシーあふれるものであるが、差別に対し抗議、糾弾するという視点まではない。しかし、この小説が書かれた昭和38年という時代を考えれば、無理からぬことだろう。ハンセン氏病に対する差別と偏見を助長した最悪法「らい予防法」が廃止されたのは平成8年、ほんの10年前のことである。
いずれにしても、作者がこうした問題を描きえたのは、個人的にも作品的にもキリスト教(カトリック)というバックボーンがあったからだろう。


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【読者の交歓室】 [obsolete]

『……終わりの黄色いページは読者の交歓室である。佐賀県や長野県から、人気スターに夢中な連中がグループをこしらえ合おうとする。友情は雨の日の水泡のようにたやすく生れ、たやすく消える。愛だって同じことなのかもしれない。
退屈しのぎにその一つ一つを、あくびを噛みころしながら読んでみた。……
「映画の大好きな十九歳の平凡な娘。若山セツ子さんのファンならお便りお待ちしていますわ。東京都 世田谷区経堂町八〇八 新藤進方 森田ミツ」』
(「わたしが・棄てた・女」遠藤周作、昭和38年)

「読者の交歓室」、「お便り交換室」など名称は様々だが、「平凡」や「明星」に代表される当時の芸能雑誌、若者向け雑誌には必ずこうした“文通コーナー”があった。そうして知り合った友だちを「ペンパル」などと言った。驚くことは、当時、投稿者は名前はもちろんフル住所まで書き添えていたこと。プライバシーに敏感な現代では考えられない。現在でも雑誌によってはこうした“文通コーナー”があるものもあるが、住所は記名せず、雑誌の編集部が仲介する方法をとっているはずである。
おそらくこうして文通をはじめた若者は、まだ見ぬ相手に様々なイメージをふくらませ、未知の世界へ思いを馳せていたのではないか。それは、現在のメル友だったり、出会い系サイトで知り合うケースと似ている。ただ異なるのは情報過多、超スピード化の現代のほうがはるかに即物的であり、打算的であるということ。
引用は吉岡が拾った芸能雑誌の「読者の交換室」で森田ミツの投稿を目にしたところ。いってみれば吉岡とミツの運命的な出逢いの始発点である。

吉岡はミツに手紙を出す。目的はセックスだけだった。しかし待ち合わせ場所でミツを見たとたん「三つ編みで背が低い小太り、おまけに団子鼻に汗をかいた」その姿に幻滅する。それでも二度目のデートで目的を果たす。はじめ嫌がったミツが同意したのは、吉岡が足をひきずっている理由が小児麻痺のためだと知った、ただそれだけの理由からだった。ホテルから出た後、今度いつ会えるのかと訊ねるミツの言葉を背に吉岡は去っていく。心の中で「誰が二度と会うもんか、お前なんかと」と思いながら。
そして吉岡がつぎにミツと会ったのは、2年後、大学を卒業し就職してからだった。彼はその会社の社長の姪と相思相愛になり出世コースを歩み始めていた。ミツは吉岡と会う数日前、大学病院でハンセン氏病と診断され、御殿場の隔離病院へ行かなければならなかった。吉岡と会うのは三度目、そしてこれが最後だと思っていた。ミツが感染していることに気づいた吉岡は「気を落とすな」と言いながら足早に去っていった。
こうして吉岡はミツを完全に“棄てた”。吉岡の口癖は「(女を棄てる)こんなことは、男なら誰だってやってることだ」。にもかかわらず、結婚してもなお、時として森田ミツのことが心に浮かび、たまらない寂しさを覚えるのだった。そして自問するのだ。いったい「この寂しさは何処からくるのだろう」と。


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【がめつい】 [obsolete]


『……よっちゃんは練り薬の罐をポンと箱に放り込んで、火鉢の上の湯わかしをとりあげた。
「まだ働く気? あんた。」
「うん。」
 森田ミツは友だちが湯をついでくれた茶碗を受取りながらうなずいた。
「がめついわねエ……近頃どうしたのよ。夜勤料ばっかし溜めて。」
「放っといて。」
「でも遅くなるとお風呂屋の湯がよごれるわよ。それにさ、今朝、田口さんがまた、嫌みを言ってたんだから……」
「なんて」
(「わたしが・棄てた・女」遠藤周作、昭和38年)

昭和34年10月、東京・芸術座で菊田一夫作・演出の「がめつい奴」の公演がはじまった。主演は三益愛子で中山千夏が名子役ぶりで話題になった。そして瞬く間にこの「がめつい」が流行語として全国を飛び回るようになった。意味は「貪欲」、「欲張り」といったどちらかというと軽蔑を含んだ言葉。もともとは大阪の方言らしく、流行語辞典によっては「釜ヶ崎のドヤ街の言葉」としているものもある。いずれにしろ発信地は大阪で、菊田一夫によって全国へ向け送信されたということだ。
この「がめつい」に似た言葉に「ガメる」がある。「わたしが・棄てた・女」でも
『うどん屋からガメてきたドンブリを口に当てた長島は……』というところがある。
「ガメる」は麻雀から出た言葉らしく、「より大きな役をねらって奮起すること」と、「人のものを盗む」という2つの意味がある。引用したのは後者であり、通常はその「盗む」という意味で使われることが多かった。しかし、前者の意味ならば、「がめつい」とも重なるようにも思える。

「わたしが・棄てた・女」は昔、2度読んだ。映画「私が棄てた女」(監督・浦山桐郎)は数回観た。で、今回改めて読み直してみた。1ページ目をめくったのが電車の中。歳のせいですね。涙がこみあげてきて読書中止。冒頭は主人公の吉岡と友人の長島の学生時代。4畳半のアパートで暮らす2人の生活はウジ虫もわこうかという汚さ。まさかそんなシーンで感極まるわけはない。それが呼び水となり、その先のヒロイン・森田ミツとの出逢い、そのまた先、さらにその先、そして結末へという具合に頭の中で超高速にストーリーが展開してしまい思わず……。とにかく家へ帰って仕切り直しとなった。
引用の部分は“我らが”森田ミツが大学生さん・吉岡のために経堂の商店街でみつけた黄色いセーターを買ってあげようと、夜勤で稼いでいるのを友だちのヨシ子に咎められているところ。
その話を少し続けると、やっとの給料日、喜び勇んで買いものへ向かう途中、博打の前借りで給料をほとんどもらえなかった同僚の奥さんとバッタリ。奥さんは子供の給食費を滞納していると愚痴る。ミツはそれどころではないので行きかける。すると「その金であの子と母親を助けるんだよ」という〈誰か〉の声を聞く。ミツは引き返して「おばさん、これね、貸すよ」といって吉岡のセーターを買うはずだった1000円を渡してしまう。
森田ミツの人格を象徴したこのエピソードは、この小説のテーマを端的に表してもいる。
遠藤周作といえば昭和30年に芥川賞を受賞した「白い人」や「沈黙」など信仰をテーマとした重い小説を書く一方、「おバカさん」や「ヘチマくん」などのユーモア小説も得意とした。「わたしが・棄てた・女」は表面上はユーモアふんだんの“軽小説”といった趣だが、そのテーマは純文学と変わらない。むしろ大衆小説のかたちをとっているぶん、そのパワーはよりストレートで強烈。


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The River Of No Return② [story]

♪ お下げ髪 君は十三
  春来れば 乙女椿を
  君つんで 浮かべた小川
  思い出は 花の横顔
(「夕笛」詞・西條八十、曲・船村徹、歌・舟木一夫、昭和42年)

「で、どうしてるんだい?」
「どうって。うまくやってるみたいよ。子供ももう小学生。女の子で美紀そっくり」
「家具屋の倅と結婚したってね」
「そう。照ちゃんがいなくなってからすぐにね。……ねえ、あの時、何があったの?」
「なんだ、美紀から聞いてないのか?」
「美紀、本当のことは何も言わないもの。他に好きな人ができたっていっても、そんな素振りなかった。あまり聞いちゃわるいしね。でも、もう時効でしょ?」
「俺じゃ物足りなくなったんだよ、きっと。もう終わったことだから……。で、旦那の仕事の方、うまくいってるのかい?」
「そうみたいね。去年新町に8階建てだか9階建てだかのビルを建てたみたい」
「“みたい”ってずいぶん他人事なんだな」
「そうね……。女って結婚すると変わるのよ。たまには会うことあるけど昔のようにはいかない。こっちがその気でもむこうがね……」
「なるほど。……で、君のほうはどうなの?」
「えっ、わたし? ハハハ……。わたしのことも気にしてくれるんだ。うれしいな……」
「結婚したんだろ?」
「そりゃ、わたしだって貰ってくれる人ぐらいいるわ。お婿さんだけど、おととしよ……」
「……」
「照ちゃんもいるんでしょ? 奥さん」
「そんなのいないよ」
「なんで?」
「なんでって、ずいぶん残酷なこと聞くな……」
「ええ?……」
「で、どんな彼なんだ」
「平凡な人よ。わたしにピッタリ。フフフ……。トラックの運転手でね、去年独立したんだけどなかなかうまくいかなくて。それで美紀にも何度かお金を融通してもらったんだけど、難しくてね。美紀があんなに嫌な顔をしたの初めて……。嫌われちゃったみたい。フフフ……」

10年前の師走だった。照夫は駅前の喫茶店に美紀を呼び出した。窓の外では朝から降り始めた雪が本降りになっていた。
照夫は思い切るように言った。婚約を解消してくれないかと。美紀は取り乱しそうになるのを一生懸命抑えていた。そして、理由を問い質した。理由はひとつ、照夫が茂世を愛していたから。それも以前からずっと。
長い沈黙のあと、美紀は照夫の申し出を受け入れた。ただし、2つの条件をつけた。ひとつは婚約の解消は自分の方からということにしてほしいということ。そしてもうひとつは、
「絶対に茂世と一緒にならないでほしい。一緒になったら絶対に許さない」
美紀は高校時代から、茂世が照夫のことを好きなのをうすうす感じていた。だから茂世に取られることがいちばん怖かったのだ。それが、まさか照夫の視線が自分ではなく茂世に向けられていたとは……。想像すらしなかった。それはどんなことがあっても受け入れることができなかった。
照夫は美紀の出した条件を了承した。そして町を出た。

「別れちゃえよ、そんな旦那」
川の流れに視線を落としたまま照夫が言った。
「えっ? じゃあ代わりに照ちゃんが貰ってくれる?」
「いいよ、いつだって……」
「まあ、いい加減言ってる。フフフフ……。でもね。あの人、わたしがいないとダメなのよね。なんとかしてあげたいの。もうちょっと頑張ればなんとかなると思うんだ……」
橋の上から流れを見下ろす二人の背後を、ホコリを舞い上げながらトラックが走りすぎていった。
「そうか……。じゃあ、そろそろ行くかな」
腕時計に目をやって照夫が言った。
「そう。美紀に何か言伝てがあったんじゃないの?」
「いや、いいんだ。君の話でだいたい想像がつくから。みんな元気そうでよかったよ。これで心おきなく出かけられる」
「ほんとに? それじゃ、照ちゃんに会ったことだけ伝えておくわ」
「いや、美紀には今日ここで会ったこと黙っておいてほしいんだ。頼む」
「そう。照ちゃんのこと話せば懐かしがると思うんだけど……。いいわ、そんなに言うんだったら。でも、寂しいわね。落ち着いたら手紙ちょうだいね。逢えてうれしかった」
「うん。……じゃあこれで行くよ」
照夫は笑顔でそう言って軽く手を挙げた。茂世も笑顔を返した。そして、さよならの代わりに日傘で顔を隠した。二人はお互いに来た道を戻っていった。

太陽の照りつける橋の上を歩きながら袂まで来たとき、照夫は振り返ってみたい衝動に襲われ立ち止まった。その思いを振り切ろうと2、3歩踏み出したが、誘惑に勝てなかった。遙か橋の彼方を茂世が遠ざかっていく。白い日傘と白いワンピースが午後の光りに融けていくようだった。
次の瞬間、遠ざかる茂世を目指して橋の上を走っていく男の姿が見えた。
「茂世が橋を渡りきる前につかまえなくては」と男は思った。〈つかまえてどうするつもりか〉〈茂世を不幸にするだけだ〉〈自分の人生をまた棒に振る気か〉。風が彼の耳元で詰った。照夫の意識は空中に静止していた。橋の袂で棒のように佇む男、風に乗って橋を疾走する男、そして、日傘の茂世。そのどれもこれもが幻像のように思えた。


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