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Sea of Heartbreak [story]

♪ いつか来た丘 母さんと
  一緒にながめた あの島よ
  今日も一人で 見ていると
  やさしい母さん 思われる
「みかんの花咲く丘」(詞・加藤省吾、曲・海沼実、歌・川田正子、昭和21年)

終戦から日本復興へ向けてのシンボルソングといえば、昭和20年10月に封切られた映画「そよかぜ」の主題歌「リンゴの歌」(歌・霧島昇、並木路子)だが、この童謡「みかんの花咲く丘」も敗戦国民の心の支えとなった歌のひとつだ。
ラジオからこの「みかんの花咲く丘」が初めて流れたのは昭和21年の8月、川田正子の歌でだった。翌年に大ヒットしたラジオ「鐘の鳴る丘」の主題歌「とんがり帽子」(これも川田正子)とは異なり、「みかんの花咲く丘」はジワジワと人々に浸透していき、童謡の“スタンダード”となった。
作曲の海沼実は「音羽ゆりかご会」の設立者で、戦前から「からすの赤ちゃん」「あの子はたあれ」「お猿のかごや」などを作曲するとともに、童謡の普及、童謡歌手の育成に努めた。のちに川田正子の母・須磨子と結婚し、正子の養父となる。
加藤省吾は「かわいい魚屋さん」などの童謡の作詞でも知られるが、「怪傑ハリマオ」や「豹(ジャガー)の眼」「隠密剣士/江戸の隠密渡り鳥」など児童向けテレビドラマの作詞も手がけた。
海沼実は昭和46年に、加藤省吾は平成12年に、そして川田正子は今年の1月にそれぞれ亡くなっている。

母の三回忌からひと月あまり経った秋の日、私はおよそ30年ぶりに伊豆にあるあのサナトリウムを訪れてみようと思った。母が亡くなってから、その思いが強くなっていったのだが、なかなかふんぎりがつかなかった。たまたま長く勤めた仕事を辞め、しばらくのんびりするつもりだったので、この機を逃してはという半ば強迫観念に押されるようにして小田急線に乗ったのだった。

母は、ひとり娘であり分身であるはずの私に対しても言葉少ない人だった。
女学校を出て間もなく見合いで父の所へ嫁ぎ、ただひたすら妻として母として生きてきた。父という人は、妻子を自分の付属品のように考え、威圧することでしか自分の存在を明らかにできない人間だった。時には手をあげることも厭わなかった。今思えば、母や私の前でしか“正直”になれない小心で可哀想な人だった。
その父が亡くなったのが4年前。その葬儀で私は泣き崩れた。父が死んだことが悲しかったのではない。前日の通夜からひと粒の涙も見せなかった母の父に対する思いと、そういうかたちでしか自分の意志を表せなかった母の気持が痛いほど伝わってきて、思わず取り乱してしまったのである。

父が死んだ後、母の生活はほとんど変わることがなかった。働くことを許さなかった父の縛めが解けたのだから、「なにか仕事でもしてみたら」という私に対しても「この歳になって、そんなことできないわ」と笑うだけだった。そう、父がいなくなっていちばん変わったことは母の笑顔がふえたことではないだろうか。
母は自分の体験からか、30半ばを過ぎた私に決して「いい人いないの?」とは訊ねなかった。私が妻子ある男性と長い間関係を持ち続けていることは、うすうす感じていたようだが、そのことについても非難めいたことを言われた記憶はなかった。
結局その母も、父が死んでから2年後に脳溢血で急死した。私は今度こそ故人のために涙をこぼした。そして葬儀やその後片づけが済んでしばらくすると、次から次と後悔の思いが私を責め、さらに落涙させた。20年あまり前、勤めに出るようになってすぐ一人暮らしをはじめたのだが、父が亡くなってから、なぜ母と一緒に暮らしてあげなかったのか。母とふたりきりの外出や旅行をなぜもっと頻繁にしなかったのか。いくら母が寡黙の人だったとはいえ、なぜ母にもあったはずの青春の頃の話を訊いてあげなかったのか。まさか父の死から2年で逝ってしまうとは。時間の短さのせいにしても仕方ないことだが……。

妻であり母であった母。女であることを決して見せなかった母。
でも私には、当たり前のことだが母が熱い血を胸に秘めた女であったと確信できる思い出がひとつだけある。それは私が7歳だったから、母が28歳の時のことだった。

役人だった父は年に何度か出張で家をあけることがあった。そんな時のことだったと思う。
行き先も言わず母は私の手を引いて電車に乗った。電車から見える町並みがビルや民家から田や畠に変わっていき、やがて小さな山間を電車は進んでいった。母とふたりだけの外出も新鮮だったが、窓外の風景もめずらしく、私はいつまでも飽きずに見ていた。
ずいぶん長い間電車に揺られていたようだったが、やがて母と私は小さな駅で降りた。駅に覆い被さるように繁っていた青葉が陽の光を受けて美しかった記憶があるので、初夏の頃だっただろうか。
私たちは駅前から乗り合いバスに乗った。私はてきぱきと仕事をこなすバスガールさんに見とれていた。さすがに乗り物に飽きたのか私は眠ってしまったようだ。母に起こされ、眼を擦りながらバスから降りたのは両側に林が繁った白い道だった。母に手を引かれて私は脇道へ入った。その鬱蒼とした林道はゆるやかな坂になっていた。私の耳には母の息づかいがはっきり聞こえてきた。坂をのぼりきると明るい場所へ出た。母はそこで立ち止まった。母の視線の先には静かな海が果てしなく広がっていた。「海だ」私が言うと、母は「そうよ」と言って笑ってみせた。あの時の母の笑顔を今でも思い出すことができる。家では決して見たことのない自信に満ちて、慈しみをたたえたまさにひとりの女性の笑顔だった。

海を見下ろすようにしばらく歩いていくと白い木造二階建ての建物があらわれた。そこが目的地だった。私には学校のように思えたが、中へ入ると消毒液の匂いがし、そこが病院であることが分かった。母は受付で面会にきたことを告げていた。そのとき私の耳には「まさなり」という言葉が聞こえ、母がその人に会いに来たのだということを理解した。
「すぐ戻るから、ここで少し待っててちょうだいね」そう言うと母は待合室から出て行った。待合室には人が何人かいて、私と同年配のパジャマを着た女の子がめずらしいのか私をチラチラ見ていた。
ずいぶん長いあいだ待たされたような気もするが、母は部屋を出て行ったときと変わらない顔で戻ってきた。

私たちは数時間前に来た道を戻っていった。先ほどの見晴らしのいい場所へ来ると母は再び立ち止まり海を眺めていた。するといきなり蹲り、嗚咽しはじめた。私は母と同じようにしゃがみ、しばらくはただ不思議な思いで母を見ていた。なんと声をかけていいかわからなかった。そのうち私の目からも涙が溢れてきた。母の悲しみが悲しかったのである。
それから私たちは黙ったまま薄暗い林道の坂を早足で下っていった。私には林の暗さがとても不安で、早くバスの通る白い道へ出ることを願っていた。そして、幼い私の胸に、母が泣いた原因があの「まさなり」という人なのだという思いが突然浮かんできた。

ワンマンバスを降り、うろ覚えの脇道を探すとそこはすっかり舗装された道路に変わっていた。両側の林も幾つもの別荘が建ち並び昔の面影は消えていた。唯一30年前の名残りはゆるやかな坂であることだけだった。
私はあの時の母のように少し息を乱しながらダラダラ坂を登っていった。後方からクルマの音が聞こえ、間もなく青いセダンが私を追い抜いていった。記憶に刻まれていた以上に長い坂道だった。ようやく登り切り、あの海を見渡せる場所へ出た。林が刈られ2機の双眼鏡を設えた見事な展望台に変身していた。あの時林に覆われていた辺りに土産物店まであった。駐車場には先ほどのセダンをはじめ数台のクルマが停まっていた。私はその店先の床几に座り、冷たいものを注文した。

あの日と同じように空は晴れわたり、海も穏やかだった。でも、あの時の空と海の色はもっと濃かったような気がする。今、眼前に広がる風景の何もかもがハイキーの写真のように明るく感じられた。あの頃撮った写真はいまではセピア色に変色しているだろう。しかし、記憶に映ったあの頃の風景は、時を経てもなおいっそう鮮やかに残っている。
そして、その積み重ねた時間のおかげで、あの時の母の嗚咽のわけが自分のことのようにわかる。
私も近々あの人と別れることになるだろう。でも、母のように泣くことはないはずだ。それはたんに私が、あの時の母よりも10以上も歳を数えてしまったからという理由だけなのだが。

土産物店の主人にサナトリウムのことを訊いてみた。想像どおり、もう10数年前に取り壊され、現在は保険会社の保養所になっているそうだ。話を聞きながらチラリと、顔も知らない「まさなり」さんの姿が脳裏をよぎった。たとえあのサナトリウムが今も残っていたとしても、私は行くつもりはなかった。この見晴台に来てもう一度海を見てみたい、それが目的だったのだから。
店の中から20代と思われる両親と手をつないだ7、8歳の女の子が出てきた。おそらくあの青いクルマで来た家族だろう。3人は展望台の方へ歩いていった。少女が両親に支えられて海に向いた双眼鏡を覗いている。レンズの先には水平線が見えているのだろうか。
「ごちそうさま」
私はそう言って立ち上がり、今度はゆっくり坂を下っていこうと思った。


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