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【遠藤幸吉】 [obsolete]

『重岡は黙って、直子をプロ・レスのテレビへ出してやったあと、兄の部屋から、修繕の出来た扇風機を借りてきたりして、竜子を待った。竜子の来たのは。八時半すぎだった。
「今、途中でチラッと見たら、遠藤幸吉がオートンをフォールしたらしいわ……暑い、暑い。こう暑くっちゃ、東京でも、ショート・パンツで歩かなくっちゃ」』
「白い魔魚」(舟橋聖一、昭和31年)

「遠藤幸吉」、この名前を知る人はオールド・プロレス・ファン。
戦後はじめてプロレスの試合が行われたのは昭和26年10月。アメリカから本場のレスラーを招いての興行だったが、そのとき日本から出場したのが力道山と「遠藤幸吉」。いってみれば、プロレスの草分け的存在。
もともとは柔道家で昭和28年、力道山の日本プロレス協会設立に参加。街頭テレビから火がついたプロレス・フィーバーに一役買った。引用の「プロ・レスのテレビへ出してやって……」というのは、重岡の妹の直子が近所の家でプロレスのテレビが見たいと言ったので、送り出してやったという意味。それほど一般家庭にテレビは普及していなかったということ。
昭和31年には力道山・遠藤組がシャープ兄弟を破り、NWAタッグ選手権を獲得した。
引用にある「遠藤幸吉がオートンをフォール……」というのはアメリカからの来日レスラー、ボブ・オートンのこと。作者はよほどプロレスが好きとみえて、他にもインド系レスラー、ダラ・シンが出てきたり、エルボー・スマッシュ、ココナッツ・スマッシュなどのプロレスワザも出てくる。
「遠藤幸吉」は力道山のカゲの名脇役で、ワザをかけられると「イテテ……」と大声で叫ぶので“イテテの遠藤”などと言われた。

「白い魔魚」は岐阜から東京へ出て来た女子大生・竜子の自由奔放な生活を描いた風俗小説で昭和31年、朝日新聞に連載された。昭和31年松竹で映画化(監督・中村登、脚色・松山善三、主演・有馬稲子)。
舟橋聖一は明治37年東京生まれ。ともにNHKの大河ドラマ化された「花の生涯」や「新・忠臣蔵」(元禄繚乱)などの時代物のほか、「雪夫人絵図」や「芸者小夏」など現代風俗物も得意とした。「白い魔魚」は作者51歳のときの作品。当時の“現代風俗”の描写や、流行り言葉が〈若者に媚びている〉と感じられるほどよく使われている。
作者はプロレス以外でも競馬好きだったのは有名で、馬主にそしてのちには中央競馬会の理事になったほど。また相撲にも造詣が深く横綱審議委員長までつとめた。


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