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YELLOW/れもん② [color sensation]

レモン2.jpg

When I was just a lad of ten, my father said to me,
"Come here and take a lesson from the lovely LEMON TREE."
"Don't put your trust in love, my boy", my father said to me.
"I fear you'll find that love is like the lovely LEMON TREE."

LEMON TREE very pretty and the lemon flower is sweet
but the fruit of the poor lemon is impossible to eat.
LEMON TREE very pretty and the lemon flower is sweet
but the fruit of the poor lemon is impossible to eat.

([LEMON TREE]words & music by WILL HOLT, vocal by THE KINGSTON TRIO, 1961)


そもそもレモンは日本人にとってそれほど親しみのある果物? ではなかった。
丁髷人がレモンのスライスを焼酎に入れて飲んだとか、焼いた秋刀魚に垂らしたなんて話は聞いたことがない。
それもそのはず、日本に入ってきたのは明治のはじめというからリンゴと同じ。出所はアメリカというからこれまたリンゴ並み。今でも輸入先は大半がアメリカ。次いで多いのがなぜかチリ。

しかし、みかんのようにムシャムシャとはいかない。そこがレモンの嫌みというか気取ったところで、料理にたらして味を引き立たせるのがせいぜい。あとは、レモネード、レモンスカッシュ、レモンライムなど飲み物で。

子供の頃の夏、よく食べたかき氷のレモン水、あれはどこまで本物のレモンが入っていたのか。でもだいたいはイチゴ、たまにレモン、飽きるとメロンの順だった。水(すい)は絶対に食べなかった。色気がないというか味気がないというか。

軌道修正。
とにかく梶井基次郎が題材にしたようにレモンは明治、大正の世すでに八百屋の店先に並んでいた。しかし当時は歌に出てくるほど日本人にとって親しみのあるフルーツではなかった。大輸入先のアメリカと一戦構えた戦時中はもちろん、戦争が終わってうたわれたのは、「リンゴ」であり「みかん」であって、「レモン」ではなかった。

ヒット曲の中に「レモン」という言葉が出てきたのは昭和26年の「憧れの郵便馬車」(岡本敦郎)あたりではないだろうか。
♪レモンの花の咲く道を 郵便馬車は日に一度
ちなみにレモンの花は見たことはないが、紫色だとか。

そんなわけで? はじめ“レモンの歌”は海の向こう(古い!)からやって来た。
昭和30年代の後半というから1960年代前半、
♪Johnny boy, take it slow  don't you know, don't you know
というヴァースが入って、
♪恋をした女の子 誰でもが好きなこと
と始まる「レモンのキッス」ザ・ピーナッツ伊藤アイコが歌っていた。
これはナンシー・シナトラNANCY SINATRA[LIKE I  DO]のカヴァー。内容は恋敵に対して「彼女も私のように彼にキスをするけど、決して私ほど彼を愛していないわ」というティーネイジャーの気持ちをうたったもの。
「レモン」などどこにも出てこない。安井かずみの詞では、恋する女の子の歓びが♪甘いレモンのキッス とうたわれている。レモンは甘くないぞ、甘いのはレモン水だろうが、というツッコミも“安井かずみ”さんならば言わずにおきましょう。

もうひとつ付け加えると、この歌はバレエ音楽の「時の踊り」DANZA DELLl' ORE をベースにしている。「時の踊り」はディズニーの名作「ファンタジア」でも使われていた。

その少しあとに出たやはりカヴァーポップス「ロリーポップ・リップス」LOLLIPOP LIPS(九重佑三子&パラダイスキング)でも冒頭に、
♪オレンジ、パイナップル、チェリー、レモン
と「レモン」が出てくる。オリジナルはご存じコニー・フランシスCONNIE FRANCIS で上の歌詞は原語どおり。

そしてそのアメリカからモダンフォークブームに乗ってやってきたのが「レモン・トゥリー」LEMON TREE 。これはピーター、ポール&マリーのデビュー曲(1962年)。

「僕が10歳のとき父親がレモンの木の話をしてくれたんだ……」という出だしではじまり、父親は「レモンはキュートで、その花はいい香りがする。でも実際に囓ってみるとほろ苦い味がするんだ。だから気をつけな……」と息子に諭す。
それから僕は大きくなり、恋をして、失恋してはじめて父親の言った意味がわかった。
というような内容の歌。

ほかにキングストン・トリオKINGSTON TRIOトリニ・ロペスTRINI LOPEZなどがうたっていた。

なぜか、P.P.M.のヒット曲は日本でのカヴァー盤が少ない(小室等のいたPPMフォロワーズというバンドもあったが)。アマチュアバンドではずいぶんコピーされたと思うのだが、この頃から洋楽カヴァーというスタイルが減少していったのかもしれない。

そのほかでは、ジャズにウディ・ハーマン楽団WOODY HARMAN ORCHESTRAの演奏で知られる「レモン・ドロップ」LEMON DROP。アドリブの天才エラ・フィッツジラルドELLA FITZERALDがカーネギーホールのコンサートで全編スキャットでうたっている。

またロックなら「ベッドの中でお前がオレをレモンみたいに絞りとるたびに、夢中になる……」というレッド・ツェッペリンLED ZEPPELIN「レモン・ソング」THE LEMON SONG が。

その歌詞で思い出すのが、日本のシーナ&ロケッツ「レモン・ティー」
♪絞って 絞って 僕のレモンを 好きなだけ……
印象的なリフと思わせぶりな歌詞で彼らの代表曲になっているが、ロックファンならご存じのとおりこれもカヴァー。
本歌はヤードバーズYARDBIRDS「トレイン」TRAIN KEPT A ROLLIN'

まだ見たことのないLEMON TREE を一度見てみたい。
国内でもずいぶん生産されているようで、みかんの産地広島、愛媛に多いという。実が成るのは秋口ではじめはよくスーパーでもみかける緑色。秋が深まるにつれて黄色いレモンが見られる。みかんや柿とはまた違った風景だろう。
レモン・トゥリーといえば遊佐未森の歌に「レモンの木」があり、そのはじまりは♪一口囓ったら…… レモンは青春(便利な言葉だ)の象徴。
なんでも、ほんとうに、そうして囓れるほど酸味を抑えたレモンもあるそうだ、これも囓ってみたい。


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YELLOW/れもん① [color sensation]

檸檬2.jpg

♪ 食べかけの檸檬聖橋から放る
  快速電車の赤い色とそれがすれ違う
  川面に波紋の広がり数えたあと
  小さな溜息まじりに振り返り
  捨て去る時はこうして出来るだけ
  遠くへ投げ上げるものよ
  ……
(「檸檬」詞、曲、歌:さだまさし、昭和53年)

色というのは見る人によって様々なイメージを喚起させるが、それでも最大公約数的な共通認識がある。ある調査によると「黄色」YELLOW のイメージは「明朗」、「光明」、「希望」、「溌剌」などでほとんどがポジティヴなイメージ。ネガティヴなイメージとしては「嫉妬、軽薄」など。また中には「危険」などというものもあるが、これは信号からのイメージで「黄色」そのものが危険というより危険を伝達する色ということだろう。

その黄色も明度や彩度の違いでそれこそ色々ある。たとえば金糸雀色は鮮やかな黄色。黄檗色は強い黄色、梔子(くちなし)色といえば赤みがかった黄色になる。
そんな中に「レモン色」がある。これは彩度が高くやや緑がかった黄色のこと。

そのレモンを「檸檬」と漢字で書けば思い浮かぶのが梶井基次郎の短編。
かつてあの夢想的テロリストの心情に共感した若者は何人もいたはずなのだが、いまは。

リンゴやミカンやモモのように手軽で食べるという果物ではないレモン。
にもかかわらずその鮮やかな色と独特な形、さらにはあの思い出しただけで口腔に唾のわき出る酸味で強烈にアピールをしてくるレモン。
それだけに、歌にうたわれることも少なくない。なぜか。やはりあの色と形が若さや明るさを象徴していたり、あの酸っぱさが青春のちょっとした蹉跌を思わせるからかもしれない。たとえそれらが後付であったとしても、あの味覚と同じように鮮明な記憶として“あの頃”が残っているからなのだろう。

多く歌われてきた、またこれからも歌われるであろう「レモン」だが、今回は漢字「檸檬」とタイトリングした歌(もいくつかあるが)を4曲選んでみた。

岩崎宏美「檸檬」
♪ 青い青いレモンを あなたの胸に投げたい
1980年代のアイドル歌謡。
この歌でうたわれている「檸檬」は未成熟な少女のこころ。
好きなのに知らん顔、ならまだしも、わざわざ相手を傷つけてしまう。そのことが自分を傷つけることになるのがわかっていても。そんな、アンビバレンツな思いが交錯するのは大人になっていく途中だから。そういう幼い恋のエンディングを阿久悠が書いている。

さだまさし「檸檬」
♪喰べかけの檸檬 聖橋から放る
70年代を彷彿とさせる重めのメロディー。言葉のジャグラー(言い過ぎかな)さだまさしらしい、カラフルで象徴的なWORDSが散りばめられている。主人公は女性、多分梶井基次郎のファンかもしれない。だから、失恋し心が砕けそうになったとき悪気もなく檸檬を盗む。そして、聖橋の上から空へ向かってその檸檬を投げる。「捨て去るときは遠くへ……」。何を捨てようとしたのか。

それほどさだまさしの歌を偏向して聴いているわけではないが、こういうアナーキーな心情をうたった歌というのはほかにもあるのだろうか。だいたいは“善意”に貫かれた歌だと思っていたのだが。主人公が女性というのもおもしろい。

気になったのは彼女と一緒にいる男の存在。彼女をふった男なのだろうか。そうだといささか違和感があるが、たぶんそうではないのだろう。たんなる“お友達”なのだろう。ただ、彼は彼女のことが好きなのだ。支えてあげたいと思っているのだ。しかし、そういう気持ちを伝えられない。とくにいまは。おそらく、彼女はそういう彼の気持ちを知らない。そこが女の、いや彼女の残酷なところでもある。

とにかくとりあげた4つの檸檬の中では最も“原作”に近いアナーキーなストーリー。


来生たかお「檸檬」
♪檸檬がいくつか 籠の中に 重なって 輝いて
軽快なポップスチューン。軽くさわやかなメロディー。重たくもなく、明日になればきっと忘れてしまうだろう、しかしその時は少し刺激的な出来事のスケッチ。

電車で向かい合わせになった女性の手にした籠に檸檬が入っている。檸檬がなければ「ああ、美人だなぁ」で終わってしまうのだが、その檸檬の色と匂いが見慣れた電車の中の空間を不思議な世界に変えてしまう。やがて彼女は降りていき、檸檬の残り香が。それも電車を降りればすぐに消えてしまうのだが。

全10曲すべて来生兄妹の好きな小説のタイトルで構成したアルバム「アナザー・ストーリー」の1曲。ほかに椎名麟三「永遠なる序章」吉行淳之介「不意の出来事」などがある。(YOU-TUBEも試聴もないのがクヤシイです!)

加藤登紀子「檸檬 Lemon」
回想をイメージさせる軽やかでなつかしいメロディー。大切なメモリーを愛おしむように歌っている。とくにヤマ場があるわけではなく、たんたんと思い出を語るように歌っている。
掛け替えのない人を失い、うちひしがれた日々もあったが、なんとか立ち直ってひとりで歩いていこうと思っている、そんな再び訪れた平穏の日常がうたわれている。
檸檬の木は亡くなった人との思い出だろうか。たぶん、それは彼の亡くなったあとに植えられたものではないか。ただ、そこには残された者の思いと、消え去った者の思いがそれぞれ少しずつ宿って成長を続けている。そんな小さな檸檬の木。その木に実が成ることのささやかな喜びが伝わってくる。

特別意図したわけではないが、こうして4つの異なった「檸檬」を並べてみると、4人の女性がひとつの人格に統合されてしまうような気がしてくるから不思議だ。

つまり、ある女の人生の一面を観賞した思いになるのだ。この4つの曲の主人公たちの“人格”には梶井基次郎が描いた「檸檬」の主人公の資質が、少しずつ内包されているように感じられるのだが。


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YELLOW/ひまわり③ [color sensation]

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♪ 時は流れる 光の中に
  あふれる 哀しみを 胸に抱いて
  探し続けた 愛はむなしく
  めぐり逢いし今は はるかな人
  
  二度と 帰らぬ夢
  あなたに 愛を残して
  …………
  夏の輝く 光の中で
  静かに ひまわりは 風に揺れる
(「ひまわり」詞:直村慶子、曲:ヘンリー・マンシーニ、歌:大木康子、平成元年)


いまさらですが、「ひまわり」ってどんな花なんでしょう。
たしかに子供の頃からありました。夏になるとそこかしこにニョキニョキあらわれて、派手な花を咲かせていました。雑草なのか。

植物学的にはキク科の一年草で、学名はHelianthus annuus。ヘンリアンサスとは「太陽の花」という意味だとか。あの大きな花は実は、いくつもの花が集まっているのだそうです。原産地は北アメリカ。
時代劇でひまわり畑で斬り合いがあったり、横丁の路地にでかいのが1本咲いてて、恋人同士の待ち合わせの目印になっていた、なんて話は聞かない。だから日本に入ってきたのは明治以降? と思ったらあにはからず、17世紀というから江戸時代の前半にはすでに存在していたとか。元禄時代には「ひまわり」という言葉もあったというのだから、せめて浮世絵かなんかに残しておいてほしかった。まぁそれはどうでも。

で、ひまわり植えてどうするのかというと、これがなんと食用。
種をそのまま食べたり、紅花や菜の花のように油をしぼったりと。そういえば、メジャーリーグの選手たちがよくひまわりの種を食べている。もちろん生ではなく炒ってあるんでしょう。袋から取り出し口に含んでモグモグと。そのあとプッと皮だけ器用に吐き出しいる光景がテレビによく映し出されていた。

そんなひまわり、日本でも北海道や香川県など全国各地で栽培されているが、世界最大の生産地はロシア。広大な地域だけに広大なひまわり畑がひろがっているのでしょう。

そういえばビットリオ・デ・シーカ監督の映画「ひまわり」I GIRASOLI。ロシアが舞台で、画面一杯に果てしないひまわり畑が広がっていました。あんな光景初めてだったので、それだけで圧倒されたものでした。

イタリア映画「ひまわり」は戦争に翻弄された夫婦の悲劇を描いた作品。夫婦を演じたのがマルチェロ・マストロヤンニソフィア・ローレンの名コンビ。ロシアの娘を演じたリュドミラ・サベリーエワも綺麗だった。デ・シーカ晩年の作品だが、やはり全盛期の迫力はなかった(あたりまえか)。
その少し前に観た、似たような設定のベストセラー小説を映画化した「25時」のほうが心に染みた。主演のアンソニー・クインの木訥とした演技がいまも記憶に残っている。悲劇の奥さんはたしかビルナ・リージだった。同じくイタリア映画だったが。

しかし、映画音楽となると断然「ひまわり」ヘンリー・マンシーニHENRY MANCINIの哀調を帯びた主題歌「ひまわり」LOVE THEME FROM SUNFLOWERには酔わされました。画面から流れてくるとストーリーが一気に盛り上がって。これぞ映画音楽のなせるワザ。

ヘンリー・マンシーニといえば「ピンクの豹」THE PINK PANTHER をはじめ「ムーン・リバー」MOON RIVER 、「酒とバラの日々」DAYS OF WINE AND ROSES、「シャレード」CHARADE など映画を離れても聴けるすばらしい作品がありました。

そのなかでも「ひまわり」はイタリア映画ということも意識したのかめずらしいマイナーチューンの作品。
この美しい映画音楽に「愛の喪失」LOSS OF LOVE というタイトルをつけてうたったのがスコット・ウォーカーSCOTT WALKER (実はこれはYOU-TUBEで初めて見ました)。

ジャズではマッコイ・タイナーMcCOY TYNERのグループがやはりLOSS OF LOVE という曲名で演奏している。意外にも?“直球”という感じでアントニオ・ハートANTONIO HARTのアルトサックスがここちよい。

ジャズといえば、日本では寺井尚子のヴァイオリンで聴ける。ヴォーカルでは仲宗根かほる。ともに邦題は「ひまわり」。仲宗根盤の
Love is storm and wind and tide で始まる歌詞はスコット・ウォーカーと同じ。

同じヴォーカルでも訳詞というか日本語詞ならば上にのせた大木康子盤。
大木康子は現役のシャンソン歌手。昭和40年に「誰もいない海」を初めてレコーディングした歌手としても知られている。

もうひとりこの映画主題歌の「ひまわり」を、
♪くるくる回る ひまわりの花……
と自作の日本語詞でうたっているシンガーがいる。それがなんと筋肉少女帯。もちろんヴォーカルは大槻ケンジ
メタル「ひまわり」ってどう? と思って聴いたらこれもまた“直球”(チェンジアップかも)。ロック・ギターの片鱗も少しはあったが終始オーケストラありバックコーラスありで、無事演奏終了。
なんで? という疑問。よほど映画「ひまわり」に感動したのか、それともスコット・ウォーカーのファンだったのか。どうせならいっちょう派手にやってもらいたかったな。

去年まで人家が立っていた所が空き地になったと思ったら、今年の夏突然ニョキニョキとひまわり群があらわれた。まだ花は小さく、来年が楽しみだなぁと思っていたら、いつのまにか整地されあとかたもなく消えてしまっていた。
それでもことしは、なぜか空き地でひまわりをよく見かける。どれも、丈の長い割に花は小ぶり。子供の頃に見た幹のぶ太いヤツとは種類が違うのか。
そんな、ひまわりもそろそろ終わりの季節となりました。まぁ今年は充分楽しませてもらいました。来年またな。


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YELLOW/ひまわり② [color sensation]

ひまわり2.jpg

♪ 夢を見ていました あなたと暮らした夏
  それはかけがえのない 永遠の季節のこと
  まっすぐにのびていく ひまわりのような人でした
  黄昏に頬染めてひざ枕 薫る風 風鈴は子守唄
  …………
(「ひまわり」詞、曲:福山雅治、歌:前川清、平成14年

「ひまわり」はポップス専科ではありません。
歌謡曲・演歌でもあることはある。というのはきわめて少ない。
戦前や昭和30年あたりではまず聴いたことがない。とりわけヒット曲では。

歌詞の中に出て来るものでも覚えているのは昭和18年の高峰三枝子がうたった「南の花嫁さん」。♪くるくるとまわるよ 赤い向日葵の花 というのがあるだけ。これも舞台が本土ではなく、南の島という設定だから。
およそ、昭和40年代ぐらいまで「ひまわり」に日本の花としての“市民権”はなかったのでは。そう思ってしまうほど。

昭和40年代後半の「ひまわりの小径」(チェリッシュ)「ひまわり娘」(伊藤咲子)あたりから“解禁”となって出始め、平成になるとこれが堰を切ったようにドドドっと。
吉田拓郎「夏休み」(昭和46年)のなかにも♪ひまわり 夕立ち セミの声 と出てくるが、これなど古いほう。

これが演歌になると昭和40年代、50年代でもさっぱり。
やはりあの湿度の高い世界を語るのに「ひまわり」は不似合いだったのかもしれない。
といっても、演歌だって生き延びるためには新しいものを取り入れて行かなくてはならないし、「ひまわり」もこれだけ定着して流行歌の夏の“季語”として浸透してくれば、放っておくわけにもいかない(いい加減なこと言ってます)。そんなこんなでボチボチと。

では、歌謡曲・演歌の「ひまわり」をいくつか。

前川清「ひまわり」
さびのメロディーが印象的。和風で懐かしい(聞き覚えのある?)。
福山雅治の楽曲提供ということで話題になりヒットした。福山自身もうたっている。
昔の恋人との夏の思い出をうたっている。夏の風物詩風鈴が出てくる。ほかにも宵祭り、蛍火、氷菓子、夕涼みと夏のキーワードがちりばめられている。
〈あなたがそばにいてくれるだけで本当によかった〉とむかしを回想するヒロイン。別れて何年も経ちそれでも、相手のことをそう思える女性がいるのかなぁ。いてほしいなぁ。
でも「ひまわりのような男」ってどうなのかなぁ……。細かいことか。
この歌の「ひまわり」は思い出。

門倉有希「ひまわり」
♪あんたの胸に綺麗に咲いた あたしひまわりひまわりだった
「どこへでも行け」「不幸になればいい」と、男の不実に愛想をつかしながらも未練を残す女の気持ち。演歌の定番。作詞は「からすの女房」荒木とよひさ
この歌のひまわりは自分で、男が太陽。太陽が消えればひまわりも枯れると。

キム・ヨンジャ「ひまわり」
♪心に咲いたひまわり あざやかな笑顔で
シングアウトするサビから入るノリのいい演歌。階調もメジャーで「いつも心に太陽を」という歌詞にあるように演歌によくみられる“人生の応援歌”。「ひまわり」は自分の心の中に咲かせたい前向きな気持ち。
この歌、作詞は違うが作曲は門倉有希盤と同じ浜圭介。曲調も明暗じょうずに分けて。

あべ静江「ひまわり」
♪ひまわりが咲いている別れ道 手をつなぎ歩いてる泣きながら
何度聴いても、今日の日はさようならなのか、永遠の別れなのかわからない歌。明るい曲調なので、とりあえずまた明日ネということなのかも。最後は「愛している」の連呼で終わる。作詞作曲は彼女のヒット曲「みずいろの手紙」「コーヒーショップで」と同じ阿久悠・三木たかしのコンビ。阿久悠にしては平凡な作品。

「ひまわり」が男の気持ちだったり、女の気持ちだったり、明るさだったり不安だったりと演歌も頑張っております。

知り合いに教えてもらったのだが、韓国映画に「ひまわり」というのがあるらしい。ヤクザ者が社会で更正する話らしく、その主人公がはたらく所が「ひまわり食堂」。
「ひまわり食堂」という名の飲食店は日本でも全国各地にけっこうあるようだ。以前勤めていた会社があった下町にもありました。昼飯時はよく利用したもの。で、人気のメニューは定食類。なかでもよく食べたのが日替わり定食。ひまわりだけに。


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YELLOW/ひまわり① [color sensation]

ひまわり①.jpg

♪ 夏に爛れた 交叉点の黄昏
  今、たしかに見かけた 木綿のシャツに
  刺繍は向日葵 あの女さ……

  愛につけ込む 意地汚い男には
  俺、なれなかった 胸を叩かれても
  あいつは親友 恋してた……
  …………
(「向日葵」詞:ちあき哲也、曲、歌:矢沢永吉、平成2年)

花は昔からよく歌にうたわれる素材。
では、どんな花が最もうたわれているのだろう。
別に統計をとったわけではないが、やはり「サクラ」ではないだろうか。「バラ」は多そうでそれほどでもない。印象が強すぎるのかもしれない。また「サクラ」と違って季節感に乏しいのも多くない理由なのかも。

「サクラ」に匹敵して多いと思われるのが「ひまわり」。これも季節感ならサクラに負けていない。もしかしたら、サクラより多いかも知れない。

その「ひまわり」、たとえばチェリッシュの「ひまわりの小径」のように「ひまわりの××」と修飾語としてつかわれているものではなく、ズバリ「ひまわり」あるいは「向日葵」とタイトリングされた歌だけでも気の遠くなるほどある(大袈裟ですがほんとう)。
そういう意味では「さくら」あるいは「桜」を凌いで、最も多く歌の題名になった花といえるかもしれない。

青い空と白い雲をバックに、われわれを見下ろすほどに育った黄色い花弁のひまわり。その派手やかさ力強さは、夏の象徴として、あるいは“陽性”のキーワードとして流行歌の中でしばしば使われている。そしてその使われかたつまり「ひまわり」の意味も様ざま。

それでは夏が終わってしまう前に百花繚乱「ひまわり」をポップスの世界から。

矢沢永吉「向日葵」
かつて好きだった人を交叉点でみかける。〈マブダチのスケにゃ手を出せねえ〉なんて粋がって身を引いたものの、やっぱり忘れられないというよくある話。今なら思い切って……と思ったり、ダッシュボードにはあの時出しそびれた手紙があったり……。そんな遠い昔ではない思い出。彼女のシャツにプリントされていた「向日葵」。ひまわりのように明るく、人目を惹く存在だったのでしょう彼女は。ひまわりは憧れ。
作詞は永ちゃんではおなじみのちあき哲也。演歌でもポップスでもOKの貴重な作詞家。

Kiroro「ひまわり」
♪太陽に向かって咲くあのひまわりのように ……あなたに会いに行くわ
彼との関係がうまくいっていないわけではない。でも、自分の思いが100%伝わらない不安。明日になったらひまわりのような笑顔で彼に会いに行こう。ひまわりは勇気の象徴。
つまずいても転んでも笑顔で……、とKiroroらしい前向きな歌。同世代の同姓に呼びかけている。

中島みゆき「ひまわり“SANWARD”」
♪あのひまわりに訊きにゆけ どこにでも降り注ぎうるものはないかと
「今日も銃声は鳴り響く」という歌詞があるように反戦のメッセージソング。何に刺激されてこの歌をつくたのか。この歌が出たのは平成6年(1994)。90年代に起こった戦争といえば湾岸戦争とボスニア紛争があるのだが。「ひまわり」をキーワードとすれば後者かもしれない。
花はどんな庭でも香り続けるだろうとうたっているように、「ひまわり」は平和というかヒューマニズムの象徴。
メッセージソングに「ひまわり」が使われるのはめずらしい。

チューブ「ひまわり」
♪あの太陽に もう一度咲かせたいよ 強い風にも負けない ひまわり
夏らしいチューブの歌。一度なくした愛を修復したい再生したいという男の願いをうたっている。ひまわりは愛情。〈今年の夏、ぜったいやり直せる……〉っていささか自信過剰。そういうところが彼女に嫌われたんだって、それは余計なこと。
種をまいて、つぼみになって、もう一度咲かせる……って、やっぱり未練なのは男なんだなぁ。このフレーズよく使うなぁ。自戒。

さだまさし「ひまわり」
♪あんな風に咲けよと 指さした花は 一輪のひまわり
こちらはヒロイン。「ひまわり」は別れた彼が自分に教えてくれた“生き方”。今でも彼を愛している、でもそれはそれ、自分は思い出の街を遠く離れて生きている。彼に言われたとおりひまわりのように前向きに。
もし、彼に伝えることがあるとしたら、「まだ愛している」ではなくて、あなたの言ったとおり「ひまわりのように生きています」と。このへんが女なのかなぁ。
さだまさしには「精霊ながし」の逆バージョンともいえる「向日葵の影」もある。

松山千春「ひまわり」
♪ひまわり ひまわり 時を超え 心に 心に 咲き誇れ
ひまわり畑をふたりで歩いた夏の日。彼女のあどけない笑顔とひまわり。そのときそれぞれ別の道があるのだということを知った。
それでも彼女への愛が色あせぬようにと願う。それは彼女への未練というより、彼女と自分そしてひまわりがあった夏の日、つまり“青春”をいつまでも忘れないように心に刻んでおこうという若者の願い。

山崎ハコ「ひまわり」
♪季節が変わらないうちに 私はひまわり
自分はひまわりだという女性。太陽を追いかけるのだと。では太陽とはなんだろう。男? でもなさそうだ。自然の摂理とか真実とかそういった哲学的なことなのかもしれない。
ひまわりを人間にたとえて、人生を一度の季節になぞって、たった一度しか咲けないそのときを精いっぱい生きたいと叫んでいる。
暗いメロディーはいつものこと。山崎ハコの情念が聞こえてくるよう。

長渕剛「ひまわり」
♪もしも私が風ならば 真夏の空へひまわりを咲かせたい
〈北へ南へ東へ西へ〉ではじまる知られた曲。ケーナ、チャランゴとフォルクローレ思わせるイントロ、伴奏は大自然をバックグラウンドにした曲想なのかも。
〈見上げる空にはひまわりが咲き ひまわりはやがて土に抱かれて眠る〉
と、あるがままに生きて自然に還っていこうとうたっているように聞こえる。ということは「ひまわり」はやはり人間の生き死に、つまり人生。

高田渡「ひまわり」
♪ そうしてそのあと ふかく頭をたれて死んでいった ひまわりたちよ
自分の住む丘に呼びもしないのやってきて、花を開き、やがて枯れてしまったひまわり。ただそれだけの情景を独特のユックリズムでたんたんとうたっている。
高田渡はたびたび内外の詩人の作品にメロディーをつけて発表しているが、この「ひまわり」もバーナード・フォレストというアメリカの詩人の翻訳だそうだ。
「ひまわり」の歌数あれど、風景画を見ているようなもっともシンプルな歌。高田渡の本領発揮。

遊佐未森「ひまわり Napraforgo」
♪あてない旅は黄色いまどろみ 窓の外は ひまわり ひまわり
列車の発車する音ではじまる。窓外に広がるひまわり畑。乗り合わせた若い兵士。きっと休暇で故郷へ帰るのだろう。彼の遠い眼差しがそう語っている。果てしなく続く黄色の中に溶け込んで、やがて現実と幻想の境があやふやになって微睡みの世界に。そんなヨーロッパへのひとり旅の情景が歌われている。ナプラフォルゴとはベルギーの言葉でひまわりのことだとか。
ソビエト映画の「誓いの休暇」のあの人のいい若い兵士を思い出した。あの映画にはひまわり畑のシーンはなかった(と思う)が。構成がすばらしく、戦闘シーンなどみじんもなかったが(多分)強烈な反戦映画だった。
作詞者(工藤順子)もこの映画の記憶があったのかも。

まだまだあるのですが、もういいでしょう。もう食傷気味ですよね。こんなにとりあげるつもりはなかったんだけど、止まらなくなってしまいました。
これほどひまわりづくしだと、夜夢にまで出てきそう。って一度ひまわり畑を歩いてみたいのでむしろ歓迎。


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RED/靴 [color sensation]

赤い靴B.jpg

♪ あなたがわたしにくれたものグレイス・ケリーの映画の券
  あなたがわたしにくれたものヴィヴィアン・リーのブロマイド
  あなたがわたしにくれたものバディー・ホリーのドーナツ盤
  あなたがわたしにくれたものヘッブバーンの写真集
  あなたがわたしにくれたものお菓子のつまった赤い靴
  あなたがわたしにくれたものテディ・ベアーのぬいぐるみ
  あなたがわたしにくれたものアンデルセンの童話の本
  あなたがわたしにくれたもの夢にまで見た淡い夢
  大好きだったけど彼女がいたなんて
  大好きだったけど最後のプレゼント
    bye bye my sweet darlin'
    さよならしてあげるわ
(「プレゼント」詞、曲:破矢ジンタ、歌:ジッタリン・ジン、平成2年)

今は夏休み。
小学生から大学生まで、学生にとってはひと月もふた月も“学び”という日常生活が途絶える(開放されるともいう)不思議な時間であり、季節。
そこで、人間個人が質的変換をとげることがある。外的刺激が内的変革をもたらすのだ。何をいってんだか。

先日の午後、道を歩いていたら前を小学校高学年らしき少女がひとり歩いていた。
背中にリュックを背負っていて、多分旅行か林間学校の帰りなのだろう。彼女に目がいったのはその足元と靴音。
彼女が履いていたのは5センチほどのヒールの赤い靴。歩を進めるたびに、コン、コンと心地よい音を立てている。

ごく年相応の服装とその赤い靴がいかにもアンバランス。そう思うのはわたしだけでない証拠に、彼女とすれ違う大人の女性がことごとくその赤い靴に目をやっていた。なかには立ち止まって、後ろからいつまでもその“不自然”な光景を眺めている人まで。

小学生の彼女にとってヒールの高い赤い靴が何なのかは解説する必要もないが、人間には常識的に不自然なことがとても自然に思える時がある。
むかし小学校時代、シームの入ったナイロンストッキングを履いてきた女の子がいた。当然の如く級友たちから白い眼で見られ、翌日からは履いてこなくなった。おそらく母親か年の離れたお姉さんのものを身につけてみたのだろう。彼女の気持ちが理解できるようになるまでには数年かかった。おそらく他の級友たちもそうだっただろう。
とにかく“赤い靴履いてた女の子”はわたしにとってとても微笑ましい光景だった。

すべての女性とはいわないが、老いも若きも女にとって「赤い靴」(その昔は赤い鼻緒)は、男には測り知れない特別の“物”なのではないだろうかなんて、勝手な想像をしてみたり。

歌で「赤い靴」といえばあの
♪赤い靴 はいてた 女の子 異人さんに連れられて いっちゃった
という野口雨情作詞、本居長世作曲の童謡が思い浮かぶ。
このストーリーについては、実在の人物がいたということでテレビ番組が作られたり、銅像が建てられたり、あるいはまったくのねつ造だったとする本が出たりとひと悶着あった。

ただ、それが実話であろうと、フィクションであろうとかまわない。
わたしを含め多くの子供(とりわけ昭和の)にとって「赤い靴」は、見知らぬ外国人に連れられて船で海を渡った“同輩”が、今頃はもう、青い目になっちゃたんだろうな、というファンタジー。それはいつまで経っても変わらない。

もうひとつ「赤い靴」で思い浮かぶのが敗戦から間のない昭和23年に封切られたイギリス映画「赤い靴」
残念ながらまだこの世に存在していなかったので、のちに観たのだが。
ストーリーは不思議な赤い靴に魅せられたバレリーナの悲劇。アンデルセンの童話をベースにしていて、昔からあるフェティシズムやアミニズムを内包した物語。

映画はヒットしたようで、リアルタイムで観たという大先輩の話ではラッシュアワー並の大混雑で、映画どころではなかったとか。

その映画に触発されて昭和25年、西條八十が書いたのが「赤い靴のタンゴ」(奈良光枝)。作曲は古賀政男。映画に負けじと歌もヒットした。
♪誰がはかせた 赤い靴よ 涙知らない 乙女なのに
と、こちらは流行歌らしくショーダンサーをヒロインにしている。

その翌年のヒットソング「東京シューシャイン・ボーイ」(暁テル子)にも、
♪赤い靴のあのお嬢さん 今日もまた銀ブラか
と出てくる。これは当時多かった靴磨きの少年をうたったもの。もはや大人の靴磨きも見かけなくなった。どこかにいるのかもしれないが、時代を感じさせる歌だ。

「赤い靴のタンゴ」の前の年にレコード化され、やはり大ヒットした「銀座カンカン娘」(高峰秀子)の1番は、
♪赤いブラウス サンダルはいて……
だが、2番に
♪傘もささぜに 靴まで脱いで
とあり、この靴は書いてはいないが、おそらく「赤い靴」のはず。

敗戦の痛手癒えぬ昭和20年代のなかば、いまだ国防色の服に身を包んでいた男どもをしり目に、女性たちは何のためらいもなく「赤い靴」を履き、さっさと復興の道を歩いていったのである。

では暮れゆく昭和を飾った「赤い靴」の歌をチラホラ。
まずは昭和40年代のGS。加瀬邦彦とワイルドワンズ「赤い靴のマリア」
♪いつでも忘れないさ おまえの赤い靴
なぜか船で去っていくマリアちゃんに未練たっぷりの歌。サウンドはワイルドワンズというよりテンプターズ風。

50年代には松田聖子「赤い靴のバレリーナ」
♪赤い靴で 踊るように 街を歩けば 風もはしゃぐわ 私恋してるのよ
ヒロインは実際のバレリーナではなく、恋をして満たされている少女。前髪を切って赤い靴を履くと映画の主人公になったような気がして、恋もうまくいくように思う。そんな少女ごころを甲斐ヨシヒロが書いている。

60年代、昭和の掉尾を飾るにふさわしのが阿久悠が書いた「赤い靴はいてた淫らな娘」(松坂慶子)
もうタイトルだけで放送自粛になりそうな歌。
♪赤い靴 はいてた 淫らな娘と ひとは云うけれど
見てくれやツッパリ言葉とは裏腹な不器用な生き方しかできない女の歌。こういうのは阿久悠の得意とするところ。
歌詞に「厄年」が出てくるが、女の本厄は19歳とか33歳らしいが、19では若すぎるから33歳? 「このあたりで赤い靴をぬぐ」という歌詞もあるのでそうかも。この頃の松坂慶子が19の乙女ごころなんて歌わないものね。
ノリのいい明るい曲調は小林亜星。「北の宿から」のコンビ。

最後は平成に入ってから。さだまさし「赤い靴」
♪菜の花の向こうに 飛行機雲の白と 君の赤い靴
かつての恋人へのノスタルジー。二人で見ていた港や白い外国船、そして誰かが君を連れてってしまうのではないかという不安。そうしたエピソードが童謡「赤い靴」に重なる。

だだまさしでは「もうひとつの雨やどり」のなかにも、♪赤い靴の似合う素敵な娘だったらと出てくる。

さだまさしの「赤い靴」と同じ年にリリースされたのがジッタリン・ジン「プレゼント」
この歌の中に出てくる赤い靴はどうやら、サンタクロースの赤い靴で、クリスマスプレゼントということらしい。
よくもまあ彼氏はプレゼントをしたもので、上の詞は2番でその3倍の物を彼女に贈っている。
その中にホンモノの靴もある。それが「中国生まれの黒い靴」。

プレゼントは贈る人のセンスもわかるが、贈られる人の人柄も推測できる。彼はなかなかいいセンスをしているし、黒い靴の似合う彼女もまたイカした娘だ。
そんなふたりが別れるんだから世の中うまくいかない。


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RED/風船 [color sensation]

赤い風船.jpg

♪ 赤い風船 手に持って
  走ったりころんだり 笑ったり
  いつもひとりで たわむれている
  可愛い坊やは 空が好き
  
  赤い風船 手を離れ
  青空にふわふわと 飛んでった
  坊やびっくり 追いかけようと
  大きな通りに 飛びだした
(「赤い風船」詞:水木かおる、曲:小林亜星、歌:加藤登紀子、昭和41年)

アルベール・ラモリス「赤い風船」がリバイバル公開(同監督の「白い馬」と併映)されているとか。

1956年というから昭和31年に制作された短編映画。
わたしごとだが、この「赤い風船」は記憶の中でもっとも古い映画なのである。

まだ小学校へ上がる前だったと思うが、父親に連れられて見に行った記憶がある。その父親の話では、それ以前にも西部劇などに連れていかれたそうだが、その記憶はない。

とにかく幼いなりに強烈な印象が残った映画だった。
これから観る人もいるだろうから、内容を話すのは差し控えるが、とにかく笑いがあって、悲しみがあって、驚きがあってというファンタジー。

成人してから再び見る機会があったので、その時の記憶はたぶんに大人の感性で書き換えられてしまったきらいはあるが、赤い風船と少年の織りなす悲しみや驚きの出来事は5、6歳の記憶として残っていると思っている。とくに赤い風船と青い空の印象は憧憬ともいえる映像として脳ミソに刻まれている。

今、風船というと銀色のビニールやアルミ地に画や文字がプリントされているものが大半(UFO風船というらしい)だが、むかしは赤、白、黄、青、緑など原色のゴム風船ばかりだった。
なにかの拍子に突然音を立てて破裂したり、“主人”の手からスルリと抜けて空に飛び上がっていったり、あるいは部屋の中で手で突いて何日も遊んでいたら、ある日シワシワになって萎んでいたりと、子供に対して小さなドラマを作ってくれたのも風船だった。

そもそもゴム風船の歴史はそれほど古くはないらしい。
今から70年あまり前というから日本でいえば昭和10年代前半、アメリカでつくられたという。しかし、明治42年に出版の滑稽話を集めた「うしのよだれ」という本の中に大道でゴムの風船玉売りのことが書かれているそうで、そのゴム風船とはどんなものだったのだろう。

そういえば、戦前の日本で子供が風船で遊んでいたという話は知らないし、小説や童謡にも登場したという話は聞いたことがない。太平洋戦争末期には風船爆弾などという物騒なものも存在したので、一部にはあったのかもしれないが、一般的になったのは戦後なのかもしれない。

歌で「赤い風船」といえば上にのせた加藤登紀子のものと、その7年後の浅田美代子のものが思い浮かぶ。
加藤盤は、デビュー曲でたしかその年のレコード大賞新人賞受賞作品だった。加藤登紀子はシャンソンコンクールで優勝して、石井好子の秘蔵っ子として登場したが、歌謡曲でもなく、ポップスでもない独自の歌をうたってきた。
その間「ひとり寝の子守唄」「知床旅情」「愛のくらし」「灰色の瞳」「百万本のバラ」と不定期ながらヒット曲を続けてきたのは幸運というかみごとというのか。

この「赤い風船」は風船に夢中になって交通事故に遭う子供の悲劇をうたったもの。結末は違うがラモリスの映画の影響が感じられる。

作曲は「北の宿から」「ピンポンパン体操」「レナウン娘」と多彩な才能をもつ小林亜星
作詞の水木かおるは大正15年の東京生まれ。昭和20年代、30年代には歌謡詞の同人誌というのがあり、彼もそうした同人誌の出身。
「アカシアの雨がやむとき」「東京ブルース」(西田佐知子)「霧笛が俺を呼んでいる」(赤木圭一郎)「くちなしの花」(渡哲也)「みちづれ」(渡哲也、牧村三枝子)などのヒット曲がある。10年ほど前に亡くなった。

浅田美代子の「赤い風船」は、彼女の出演したテレビ番組でうたわれたもの。
音程が不安定で、よく笑いの対象にされていた。それでもシングル、アルバムを出し続けていったのだから豪気、というかそれでもいいというファンがいたのだろう。

こちらはなぜか握りしめていた風船が、手をすり抜けて……という淋しい少女の話。それでも、
♪もうじきあの あの人が来てくれる きっとまた 小さな夢もって
と希望を捨てない。

作詞はこういう少女の気持ちを“映像化”するのが上手かった安井かずみ
作曲は筒美京平。めずらしくメジャーコード。「お世話になりました」(井上順)とか「真夏の出来事」「フレンズ」(平山みき)とか「さらば恋人」(堺正章)などもそうだが、筒美京平のメジャーコードはなかなか。

また「赤い風船」といえば西岡たかし率いるフォークグループ「五つの赤い風船」がある。
その最大のヒット曲「遠い世界に」には、
♪遠い世界に 旅に出ようか それとも 赤い風船に乗って……
昭和40年代の雰囲気あふれた和製フォーク。よくフォークコンサートのエンディングにつかわれたり。

ほかでは飯田久彦が出演した映画の主題歌「あの娘に幸せを」には、
♪青い夜空に 飛んでいく 真っ赤な風船……
が出てくる。

話は戻ってラモリスの映画「赤い風船」だが、観に行こうかどうか迷っている。
30年ぶりに3度目の鑑賞をすべきか、はたまた見送るべきか。

有名な比喩で、人生とは両手にいっぱい風船を持った子供が歩いていくようなものだ、というのがある。子供が成長するにつれて風船はひとつまたひとつとその子の手からはなれて空へ消えていってしまうというのだ。
そして、やがて子供の手からすべての風船が消えてしまう。その時が大人になったとき。

たしかに大人に風船は似合わない。しかし、なかには成長してもいまだに風船を手放していないと思っている大人がいる。それはたんなる錯覚かも知れないのだが。
実はわたしの中にもそうした“錯覚”がたぶんにあって、映画「赤い風船」を観ることで、握っていたはずの風船が無いことに気づかされるようで決断がつかないのである。


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GRAY/灰色の瞳 [color sensation]

灰色の瞳.jpg

♪ 枯野に咲いた 小さな花のように
  なんて淋しい この夕暮れ
  とどかない想いを 抱いて
  なんて淋しい この夕暮れ
  とどかない想いを 抱いて

  私の大事な この笛のうたう唄を
  あなたは聞いて いるのだろうか
  …………
(「灰色の瞳」詞:加藤登紀子、曲:ウニャ・ラモス、歌:長谷川きよし、昭和49年)

瞳の色、最後は「灰色の瞳」

これはなんとなく分かるような気がする。
黒みがかった薄い青色(無理やり灰色を作ってしまいました)。西洋人でそういう眼をした白人を映画でも見たことがある。誰と言われると困るけど。

実際この「灰色の瞳」Aquellos Ojos Grisesウニャ・ラモスUNA RAMOSがフランス人の奥さんをイメージしてつくったもの。その当時彼はフランス在住で、CDもフランスで発売。ということはシャンソン? にしてはフランスのシンガーがうたったのを聞いたことがない。

そもそも日本でフォルクローレがブームになったのは1970年代に入って間もなく。
ロス・インカスLOS INCAS「コンドルは飛んでいく」El Condor Pasaがきっかけだったように思う。その独特のメロディーに加えて、葦笛のケーナをはじめ、日本の笙のようなサンポーニャ、アルマジロの甲羅をボディにした弦楽器チャランゴなどの素朴で響き渡る音色の民族楽器がが日本人の心をとらえた。

「コンドルは飛んでいく」はペルーに侵攻したスペイン軍に対し、反乱を起こし処刑された英雄、トゥパク・アマル(ホセ・ガブリエル・コンドルカンキ)のことを歌ったもの。
死後、彼はコンドルに生まれ変わって空の上からペルー人を見守っている、というロマンあふれた内容。

同じ頃、サイモン&ガーファンクルSIMON & GARFUNKEL「コンドルは飛んでいく」もヒット。そもそもこれはポール・サイモンがロス・インカスの演奏を聴いて感銘を受けたことから、レコーディングとなったもの。このS&Gのヒットがさらに日本のフォルクローレブームを助長したことは間違いない。

ちなみに「コンドルは飛んでいく」はペルーの民俗学者で作曲家でもあるダニエル・アローミア・ロブレスDANIEL ALOMIA ROBLESによって採譜作曲されたものだが、うたっているロス・インカスはフランス在住のベネズエラ人やアルゼンチン人のグループ。
大昔の話だが、「カラウアジョの想い出」Recuerdos de CalahuayoユパンキATAHUALPA YUPANQUI でも知られる「我が影に寄せて」Vidala Para Mi Sombra という曲が好きで何度もくり返し聴いていたものだった。

ちなみにウニャ・ラモスもアルゼンチン人。

フォルクローレとは民間伝承ということで、音楽でいえば民謡。これはほぼどこの国や地域にもあるものだが、この頃から現在に至るまで、なぜか中南米とりわけペルーやボリビアなどアンデス地方の伝承歌をフォルクローレと呼ぶようになった。

70年代以前のフォルクローレとして日本で知られているのが「花祭り」El Humahuaqueno 。いかにも“アンデス民謡”を彷彿とさせるメロディーだが、これがなんと1940年代にアルゼンチンで作られた曲。
それがフランスでヒット。つまり日本へはフランス経由ということに。中原美紗緒芦野宏といったシャンソン歌手がカヴァーしていた。

そして、「灰色の瞳」もまたフランス経由のフォークロア。
この歌に注目して日本へ持ち込んだのが加藤登紀子
シャンソンから出発した彼女は、いわゆるワールドミュージックに眼を向けていて、そのサーチライトの中にウニャ・ラモスの「灰色の瞳」を“発見”したということ。

自ら日本語詞をつけ、レコーディングはなんとやはりシャンソンを歌い「別れのサンバ」のヒットがある長谷川きよしとのデュエットで。
そのプロモートはみごとに当たってヒット。のちにそれぞれソロとして自分のレパートリーに加えることに。
ちなみにデュエットした「灰色の瞳」のB面は「黒の舟唄」。これもまた、のちにそれぞれがソロでうたっている。

加藤登紀子の詞は、離ればなれになった恋人への想いをうたった内容で、その恋人の瞳の色は出てこない。しかし、「灰色の瞳」というタイトルは、決して幸福ではない現在を象徴しているようで、その詞にマッチしている。

この「灰色の瞳」加藤登紀子と長谷川きよし以外では、ボニー・ジャックスがうたっているし、椎名林檎草野マサムネとのデュオも)もカヴァー。

洋楽ではペレス・プラード楽団PEREZ PRADO AND HIS ORCHESTRA で聴くことができる。
しかしこの「灰色の瞳」、演奏にしろ歌唱にしろオリジナル以外の洋楽ではほとんど聴いたことがなく、よくある日本限定のヒット曲なのかも。

そうであっても「灰色の瞳」の良さが半減するものではない。ワールド・ワイドでヒットしないと“名曲”とはいえない、という風潮がないわけではないが、日本でこれだけヒットしたのですから名曲に間違いない。
その良さが欧米人には理解できないんだ、気の毒に……と思えばいいのでしょう。


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BLACK/黒い瞳② [color sensation]

黒い瞳②.jpg

Where the northern lights
Gleam in the Russian skies
On one night of nighrs
I found paradise
Through the fields of snow
As the swift sleigh flies
I recall the glow
Of your dear dark eyes
([DARK EYES] TRADITIONA, play by CHUCK FOSTER ORCHESTRA, vocal by DOROTHY BRANDON)

ロシア民謡「黒い瞳」は、その美しい旋律から20世紀以後各国の演奏家がとりあげるところとなった。

日本では前回ふれたように戦後、“歌ごえ運動”とともに広まったこともあるが、ドイツのアルフレッド・ハウゼ楽団ALFRED HAUSE ORCHESTRAのタンゴ「黒い瞳」Schwarze Augen としても親しまれた。
そのタンゴ「黒い瞳」はロシア民謡「黒い瞳」とイコールではなく、オリジナルの旋律にロシア民謡を挿入したもの。

作られたのも戦後ではなく、戦前の1920年代。
そもそも19世紀末期にアルゼンチンで萌芽したタンゴがヨーロッパで一大ブームを起こしたのは、1925年のフランシスコ・カナロ楽団FRANCISCO CANARO ORCHESTRAの遠征以後だといわれる。

日本でいえばまさに昭和の黎明期。その日本へタンゴはヨーロッパから渡ってきた。そうしたヨーロッパ大陸からのタンゴを日本ではコンチネンタル・タンゴと呼んだ。
とりわけ多かったのは日本と友好国の関係にあったドイツ発のタンゴ。
昭和10年(1935)にはドイツ映画「黒い瞳」も日本で公開され。その中にタンゴ「黒い瞳」もつかわれていた。ディック・ミネがそれをカヴァーしていることは前回ふれた。

「黒い瞳」がアレンジされたのはタンゴだけではない。
1935年、アメリカにおいて音楽革命(大袈裟)が起こった。スイングの爆発である。
夥しいダンスホールとビッグバンドが生まれ、狂喜乱舞のスイングシーンが展開されたのだ。
モンスターと化したスイングは、あらゆる音楽を呑み込んでいった。つまりなんでもかんでもスイングにしてしまうのだ。ベートーヴェンだろうが、バッハだろうがおかまいなし。フォスターはもちろんスコットランド民謡まで。さらにはロシア民謡も。

「黒い瞳」は人気バンド、トミー・ドーシーTOMMY DORSEY 楽団によってヒットした。
そのほか、「バンブル・ブギー」Bumble Boogieでおなじみのフレディ・マーチンFREDDY MARTIN 楽団チャック・フォスターCHUCK FOSTER 楽団などによって演奏された。
これらはタンゴのようにオリジナルのメロディーの間奏につかうのではなく、オリジナルのメロディーをそれぞれのアレンジで演奏している。

ビッグバンドばかりではない。戦後、ジャンゴ・ランハルトDJANGO  REINHARDT「黒い瞳」Les Yeux Noirs(Dark Eyes)としてとりあげている。ロマの血をひくジャンゴにはうってつけの曲で、ジャンゴ風に演奏するギタリストも少なくない。
ジャンゴ風ではないが、ギターの教科書チェット・アトキンスCHET ATKINS も。これはYOU-TUBEで見たというか聴いたもの。

トランペットはサッチモLOUIS ARMSTRONG[Otchi-Tchor-Ni -Ya](ロシア語?)というタイトルであのヴォーカルも聴ける。スローではじまって、途中でデキシーランドになるのがまた楽しい。デキシーの「黒い瞳」はよくあるようで、大昔名もない楽団で聴いたことがあった。

ピアノなら、ウイントン・ケリーWYNTON KELLYオスカー・ピーターソンOSCAR PETERSON[Dark Eyes]
前者はソロで、メロディアスで叙情的な演奏(これが最高だけどYOU-TUBEにはなかった)。後者はクラシックのヴァイオリニスト、イツァーク・パールマンITZHAK PERMANとの競演。こちらも軽やか。

そして1980年代にはポップスにも。
スペインのフリオ・イグレシアスJULIO IGLESIASが82年にヒットさせた「黒い瞳のナタリー」Nathalie
これもロシア民謡「黒い瞳」をアンコにしたオリジナル。日本では松崎しげる郷ひろみ(「哀しみの黒い瞳」)がカヴァーしている。
“耳さわり”のいい曲で、カヴァーも少なくない。とくにヨーロッパでは人気のようで、トルコのアジダ・ペッカンAjda pekkan、ヤシャールYasar、フンダ・アラルFunda Ararといったシンガーもうたっている。

ウイントン・ケリーをはじめ、英語圏での「黒い瞳」のタイトルは「ダーク・アイズ」Dark Eyes で「ブッラク・アイズ」とはいわない。
ブラック・アイとは、殴られて目の周囲が内出血をおこして黒ずんでいる状態のことをいうのだそうだ。
それならシャナイア・トゥエインSHANAIA TWAIN「ブラック・アイズ、ブルー・ティアーズ」Black Eyes Blue Tears は殴られ悲しくて泣いているという意味の歌?


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BLACK/黒い瞳① [color sensation]

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♪ 輝くは汝が瞳 惑わしの黒き色
  今もなお 忘られぬ 思い出の瞳

  汝が黒きその瞳 底知れぬ海の色
  黄昏に夢見るか 憧れの汝が瞳
  輝くは汝が瞳 惑わしの黒き色
(「黒き瞳」訳詞:堀内敬三、曲:ロシア民謡、歌:ボニー・ジャックス)

「黒い瞳」はロシア民謡。
はじめて聴いたのは小学校低学年の学芸会(いまでもそう呼ぶのかな)のとき。
それは6年生の劇で、題名や内容は覚えていないが、その一場面だけを鮮明に記憶している。

ウグイスだったか、とにかく鳥の顔をかたどった帽子を被った主人公の男子が寂しげに歌うシーン。
♪うつくしい ひとみです……
とにかくその“寂しい”歌が印象に残った。あとで分かったのだが、その歌が「黒い瞳」だった。いつどうやって判明したのかは記憶の底。

その「黒い瞳」がロシア民謡であることが分かったのはさらに後だったと思う。
ただ、その頃ラジオからは、♪りんごの花ほころび 「カチューシャ」とか♪雪のしらかば並木 「トロイカ」という歌が流れていたことはたしか。

そして音楽の授業で「ボルガの舟唄」「ステンカ・ラージン」を習ったのは小学校だったか中学校だったか。
「『黒い瞳』なんか聴き飽きたね。『黒い瞳の』ってヤツを聴いてみろよ」
などと生意気なことを言っていた妙に大人びた学級委員の顔を思い出す。
「黒い瞳の」もロシア民謡で、独唱向きなのか今ではこちらの方をうたうシンガーやグループが多い。

いずれにせよ昭和30年代という時代は、ロシア民謡がいまよりもはるか身近にあった。

広大な地域にわたるロシアにはスラブ人をはじめ、多くの民族が住んでいて、それぞれの地域で、世界人類共通の農作業や祭祀のためのフォーク・ソングが生まれただろうことは想像がつく。帝政時代の16世紀には、ロシア民謡の特徴のひとつでコサック合唱団赤軍合唱団にみられる独唱と合唱が混合する歌唱様式もすでにかたちづくられていたという。

ただ、日本でいう「ロシア民謡」とは、そうしたフォーク・ソングがベースになっている唄もあるが、「ともしび」や「カチューシャ」「バルカンの星の下に」のような20世紀、つまりソビエト連邦時代につくられたポピュラー・ソングもふくまれている。ということは民謡によくある“作者不詳”ではなく作詞作曲者が明記されている曲も多い。

さらにいえば、日本の場合「ロシア民謡」は、戦後の「歌ごえ運動」さらには「歌ごえ喫茶」とともに広まったもので、そこには社会主義国家ソビエトへの憧れがあった。したがって、その歌は「カリンカ」「赤いサラファン」のような叙情歌ばかりでなく、「仕事の歌」などの労働歌も少なくなかった。
そのほかにも「コロブチカ」「ポーリシュカ・ポーレ」「一週間」「すずらん」……と日本人に好まれたロシア民謡は多い。
ロシア民謡につきものの楽器といえばバラライカだが、「歌ごえ喫茶」でもおなじみのアコーディオンやタンバリンも欠かせない楽器になっている。

で、「黒い瞳」だが、メロディーはロシアに住むロマ(ジプシー)によって演奏されていた民謡だという。そして、原詩は19世紀中盤、ウクライナ人のエヴゲーニイ・グレビョンカによってつくられた。黒い瞳に恋い焦がれる男の気持ちをうたったもので、上にのせた堀内敬三の訳詞も、ほぼその内容を伝えている。
なお、昭和30年代には題名を「黒い目」としていたものもあったが、現在では「黒い瞳」になっている。

また堀内敬三には、
♪ 黒い目 君の目よ 狂おしく 燃える目よ
  いつまでも まぼろしに うかぶのは 黒い目よ
という別の訳詞もある。

そのほか、
♪ 美しき黒い目よ 燃え立てる君が目よ
  焦がれては忘れ得ぬ わが君の黒い目よ
という門馬直衛の訳詞もある。こちらはダーク・ダックスが歌っている。

戦前に「黒い瞳」がうたわれたかどうかは不明だが、昭和10年にディック・ミネが歌った♪黒き汝が瞳 なやましや という「黒い瞳」ストーンGregory StoneとホーリックHarry Horlickの作詞作曲によるタンゴのカヴァー曲。間奏としてロシア民謡「黒い瞳」がつかわれている。

また昭和4年に二村定一がうたった「黒い眸」は堀口敬三作詞作曲のオリジナル曲。この歌はまた「黒い瞳よ今いずこ」という題名で天野喜久恵田谷力三によって歌われている。

そのほか最近(でもないか)では、♪黒い瞳 アモーレミオ というロマミュージックの香りが漂う佐藤隆「黒い瞳」もある。

残念ながら♪美しいひとみです…… というわたしが聴いた歌詞はない。空耳だったのか、はたまた演劇用に作詞されたものなのか……。永遠の謎。


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