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街●谷根千 [a landscape]

街●谷根千.jpg
♪僕がこころの 良人なら
 君はこころの 花の妻
 遠くさみしく はなれても
 泣くな相模の かもめどり
(「新妻鏡」詞:佐藤惣之助、曲:古賀政男、歌:霧島昇、二葉あき子、昭和15年)

昭和の日、警備員の仕事をしている友人と会う予定でしたが、急きょ“代打”でご出勤になるとかでキャンセル。

家でゴロゴロしているにはもったいない天気だったので、先日新聞でみた古本市へ行ってみようと。新聞には「一箱古本市」と書いてありました。

場所は千駄木、なんでも一般人が不要の蔵書をミカン箱程度の入れものに並べて売るのだとか、出店はフリーマーケットのようにエントリー制だとか。
もう何年もやっているとのことですが、出かけるのは初めて。

昼前に千駄木の駅を降りてみましたが、どうもその店が見当たらない。
千駄木は以前2年ほど職場だったところなので土地鑑があり、不忍通りを動坂方面へ行く途中にある古書店でたずねてみようと思い行ってみると、なんとその店先に人だかりが。

近づいてみると数人が本の詰まった箱を前に客と談笑していました。
これが「一箱古本市」かと納得。
さっそくその一店で、日本のフォーク&ロック系のムックに目がいき、手にとってみました。
少し焼けていたので躊躇していたのですが、若い店主が愛想のいい声で、
「これ、僕が以前勤めていたときに編集したものなんです。いまじゃなかなか手に入らないですよ」
と。

「手に入らない」、これが買い手に対する殺し文句なんだなぁ。そんな手には乗らないこともない。というわけで買ってしまいました。おまけに他の本2冊も。

どうやら古本市はそこが出発点のようで、不忍通り沿い10カ所あまりで各数店舗が古本を並べているらしい。

古書店で地図をもらい、いざゆかん古本市巡りへ。

コースは千駄木から根津へそして谷中へ、ふたたび根津へ。
さっそく千駄木から根津方面へ行くとメインストリートの不忍通りはすごい人。
そうだ今日は祝日でおまけに根津神社で「つつじ祭り」開催中だったのだ。
このへんは今でもたまに通るのですが、こんなに人が出ていたのは初めて。

昼どきでもあり、食事処には列ができるほど。名物の鯛焼き屋さんにも長蛇の列。
首尾よく買えた中高年(どっちなんだ)の夫婦が鯛焼きを齧りながらお散歩。
それにこの界隈ではよく和服姿の女性を見かけます。それも若い(といっても30凸凹ってとこですが)素人の女性です。
きょうもいました。たいがいは2人連れ。なかには数名の団体さんも。“きもの連”ってヤツですね。

そんな賑わいを満喫しながら、地図にある古本スポットへ。

何カ所めかで、目についたのがちょっと面白い“書店”。
そこはなんと、親子、兄弟、夫婦などの作家の本を揃えてあるのでした。
たとえば有吉佐和子と有吉玉青、開高健と牧羊子、福永武彦と池澤夏樹、白洲次郎と正子などなど。

30半ばくらいの妖精系、いや陽性系の女性が店主のようです。
わたしが中上健次の「紀州 木の国・根の国物語」を手にしてパラパラめくっていると、うしろから、
「それ、初版なんですけど、帯がないので安くしてあるんです」
と男の声が。
振り向くと人のよさそうな20代後半と見受けられた男性。

わたしは中上健次のファンではありませんが、昔「十九歳の地図」や「枯木灘」などを読んだことがあったので、そんな話をすると、その男性とにかく詳しいこと。彼こそ中上健次ファンなのでした。

しばらく話を続けていると、陽気な女性店主が(どうやら夫婦のようです)、
「よかったね、中上健次のファンがいて」(じゃないって……)
と男性に笑顔を向けました。続けて、
「そっちの方でゆっくり話したら」と。

つまり店先は邪魔だからほかへどうぞ、ということらしい。

たしかにその本は安い値段でした。しかしよく見ると本にシミがあったりヤケていたり。古本の目利きができるほどの知識はないので果たして買い得かどうかはわかりませんが、この男性の人柄と夫婦(多分)の微妙なバランスが気に入ったので買うことに。

でもちょっと気になって男性に
「気に入っている本を手放すのは抵抗があるんじゃないの?」
と言うと、
「いえ、自分が気に入った本をよその人が読んでくれるのはウレシイことですから」
と。

ああ、そういうものなのかなと思いながら、奥さん(多分)に代金を渡すと、彼女が小声で、
「大丈夫なんですよ、もう一冊あるんですから」
だって。
そのときわたしの頭の中には、シミひとつない帯付きのキレイな「紀州」の本が浮かび上がってきましたとさ。

その日、結局諸々10数冊の古書を買って帰ることになりました。
果たして安かったのか高かったのか。
まあ、好天気の谷根千(というようです)を古本ラリーで過ごしたわけで、運動にもなったし、若い人と話すこともできたし、いい休日だったのではないでしょうか。

最後に何か音楽をと思い。今日いちばん印象に残った彼にちなんで中上健次の歌を。なんて中上健次が歌を吹き込んだなんて話はありません。「讃歌」という作品はありますが。

そこで中上健次と“相思相愛”だった都はるみの歌を。中上健次には「天の歌 小説都はるみ」という評伝もありますし。彼女には道浦母都子作詞の「枯木灘 残照」という歌もありますし。

選ぶのに困るほどヒット曲、いい曲はあるのですが、今日のところは、いちじよく聴いた彼女のカヴァー曲を。
いちばん好きだったのがディック・ミネ「人生の並木路」なのですが、残念ながらYOU-TUBEにはありませんでした。
そこで、同じ佐藤惣之助、古賀政男の作詞作曲コンビで、やはり戦前の「新妻鏡」なんかどうでしょう。これも名曲です。
あの一箱古本店の奥さんも新妻の時代があったでしょうということで(無理やり)。

おまけにこんなのこんなのもどうですか。


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喫茶店①ジャズ [a landscape]

千駄木ジャズ喫茶③.jpg

Of all the boys I've known and I've known some
Until I first met you I was lonesome
And when you came in sight
Dear, my heart grew light
…………
"Bei mir bist du schon"
Please let me explain
"Bei mir bist schon" means that you're grand
"Bei mir bist schon" again I'll explain
It means you're the fairest in the land

I could say "Bella, Bella" even say "voonder-bar"
Each language only help me
Tell you how grand you are
I tried to explain "Bei mir bist schon"
So kiss me and say you understand
([Bei Mir Bist du Schon(Means that You’re Grand)]素敵なあなた written by Sholom Secunda, Jacob Jacobs, Sammy Cahn, Saul Chaplin, 1938)

4月半ばでこの寒さ。
無精でダウンをクリーニングに出しそびれていたことが幸いしました。だらしがないこともたまにはいいことがある。

小雨で傘を持たずに外出したので、用事をすませたあと喫茶店へ退避。
スタバ系格安珈琲店以外の喫茶店は久しぶり。ひとりでのコーヒータイムはさらにしばらくぶり。10年いや20年ぶりぐらい? もっとかも。
とにかくひとりだとスタバ系でも入りにくいものなのです。食べ物屋なら平気なのにね。

それが、以前はよくひとりで喫茶店に行ったものでした。
それはジャズ喫茶。あそこは連れだっていくところではありませんから。

新宿、神保町、上野、金町、四谷、水道橋、渋谷……。
20代のころよく通ったなぁ。

いま東京にどのくらいの数のジャズ喫茶があるのかは知りませんが、当時(50年代前後)から比べたら激減していることは間違いないでしょう。

サイトをみたところ30あまりでした(少ない!)。そのうちわたしが行ったことのあるところで残っていたのは一店だけ。
普通の喫茶店でさえ減っているのですからジャズ喫茶が減るのは当然なのかも。

オーディオのハードもソフトも高性能なものが比較的廉価で手に入る昨今、自宅でもそれなりに聴けるということなのでしょうか。かくいうわたしがそうですから。

そんな今は無きジャズ喫茶のひとつで、当時いちばんよく通ったのではないかなと思うところが神田川にかかる橋のたもとにありました。
川沿いに階段を下りていくと突きあたりが入口のドアという、なかなか風情のあるところでした。

たまに午前中に行くと、ドアを開けて真正面に見える席に当時の日本フェザー級チャンピオンが座って新聞を広げていたり。
彼がジャズを好きだったのかどうかは知りませんが、彼の所属するボクシングジムがそばにあったので息抜きに来ていたのかもしれません。

そこで初めて聴いたのが「素敵なあなた」Bei Mir Bist du Schon 。

いまとなってはとっかかりがベニー・グッドマンBenny Goodmanだったのか、アンドリュース・シスターズAndrews Sistersだったのか記憶が“退色”してしまって定かではありませんが、とにかくいちど聴いてすぐにフェヴァリットソングになったことはたしかです。

この「ばいみーびすどぅしぇん」というおかしなタイトルはドイツ系ユダヤ人がつかったというイディッシュ語で、[Bei Mir Bist du Schon(Means that You’re Grand)]というタイトルもあるように、そのまま「素敵なあなた」という意味。
「初めて逢ったその日から」といういわゆる“ひとめ惚れ”ソングであり、「最高」「美しい」「すてき」と褒めまくりの歌でもあり。

もともと全篇イディッシュ語の歌を、サミー・カーンSammy Cahnがタイトル部分だけを残して英語に書き換えたもの。

アンドリュー・シスターズのデビュー曲で、当初B面だったというのは、ありがちでも本当の話。
ラジオで流したところすごい反響でたちまち全米で250万枚が売れてしまったとか。
時は1938年、まさにスウィング全盛期。
後発のベニー・グッドマン楽団の演奏も大ヒット。

スウィングの嵐が去ったあともこの「素敵なあなた」はスタンダードとしていまなおうたい継がれています。

これほどポピュラーで時代の雰囲気をもつ歌ですから、映画のなかで使われるのも当然。実際、わたしは2つの作品で観たというか、聴いたことがあります。実際はもっとたくさんの映画に使用されているのかもしれませんが。

1本目はまさにその時代、第二次世界大戦真っ只中の1940年代を舞台とした「スウィング・キッズ」Swing Kids 。
アメリカ映画ですが舞台はドイツ。ナチスの台頭によりユダヤ人狩りがはげしくなり、若者たちがユンケルスに憧れたという時代。
アメリカに端を発したスウィングの熱波をあびた一部のティーネイジャーたちがダンスに命をかけるという筋でエンディングはビター感覚。これまたありがちなソフトな反戦仕立て。

「素敵なあなた」はたしかラスト間際のダンスホールのシーンにつかわれていました。
仲間が死んだり兵役にとられたりと、ひとりぼっちになってしまった主人公がこの曲にあわせてホールでひとり踊り狂うシーンでした。ナチの手入れがあり、捕まって戦場へ贈られるのを覚悟しているような、まさにラスト・ダンス。

映画のなかのヴォーカルはアンドリュース・シスターズではなく、マンハッタン・トランスファーThe Manhattan Transferのジャニス・シーゲルJanis Siegel だということは、あとになって知りました。

ところで、すこし横道にそれますが(いつもですが)、「スウィング・キッズ」のなかで踊っていた若者のダンス。チャールストンとジルバ(ジタバグ)をミックスしてアクロバチックにしたダンス。リンディ・ホップLindy Hop というのだそうです。
ホップは「飛ぶ」ですが、リンディはニューヨーク―パリの大西洋無着陸横断を成功させた国民的英雄チャールズ・リンドバーグCharles Augustus Lindbergh からの命名。
つまり「リンディの飛行」という意味。当時、それほどこの偉業とダンスがともにホットであったということ。

リンディ・ホップはヒップ・ホップ全盛の現在でも愛好者がいて、大会も開かれているとか。日本でも愛好会のような組織があるようです。

軌道修正。
「素敵なあなた」のつかわれているもう1本の映画はなんと邦画。

薬師丸ひろ子が主演した「メイン・テーマ」
監督はたしか(調べろよ)森田芳光でしたか。
以前テレビで観たのですが、往年のフランス映画のような思わせぶりな映画で、ストーリーはチンプンカンプン。アイドル映画の限界でしょうか。わたしの理解力の限界でしょうか。

とにかくツマラナイ映画でした。そんななかで印象に残ったのが主題歌とクラブシンガーに扮した桃井かおりがうたった「素敵なあなた」。
桃井かおり、歌はうまいとはいえませんが、例によって雰囲気でうたっておりました。タバコ片手にっていうのが、思わずツッコミたくなりますが。

とにかく日本人好み?の曲で、演奏したりうたったりするミュージシャンも少なくないのでは。有名なところでは鈴木章治とリズムエースがいますし、吉田日出子「上海バンスキング」の中でうたっています。YOU-TUBEではこの方々も。

おしまいに話はもどって、当時よく足を運んだ神田川沿いのジャズ喫茶のことですが、なんでも最近話題のベストセラー作家がアルバイトをしていたそうです。その頃のことを書いた著作もあるとか。
もっとも、わたしが通いはじめたときには、すでに辞めたあとだったのですが。

*なお、写真にある店はジャズ喫茶ではありません。ジャズクラブ(ライブハウス)です。


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公園⑩浅草 [a landscape]

浅草雷門.jpg


♪明けても暮れても歌う ジャズの浅草行けば
 恋の踊り子の 踊り子の 黒子さえ 忘られぬ
 楽し都 恋の都 夢のパラダイスよ 花の東京
(「東京ラプソディー」詞:門田ゆたか、曲:古賀政男、歌:藤山一郎、昭和11年)

三社祭が終われば初夏。蝉の声が聞こえてくるまでもうじき。
公園のトリは浅草で。

その浅草といえばいまは、昭和が香る街。
かつてそこに「大池(瓢箪池)」という池があったことを知る人も少なくなった(えらそうにいう、わたしだって見たことはない)。

浅草を昔ふうにいえば「エンコ」。
これは香具師やヤクザの“逆さ言葉”で「公園」のこと。
すでに書いたとおり浅草は明治初期に日本で初めて設けられた公園のひとつ。

公園は七つの区画に分けられ、その「六区」に劇場や見世物小屋を集めた。その際、六区を造成するため、その付近にあった田んぼから土を運んだ。そのあとが穴となり、池となり、瓢箪池と呼ばれるようになった。
当時、瓢箪池は観音さまと並んで浅草のランドマークでもあった。

「参拝と享楽(あるいは行楽)」このふたつを同時に味わえるということで、浅草は日本一の歓楽街となったのだ。つまり、浅草は公園になったゆえ繁栄したということにも。

昭和初年、川端康成の「浅草紅団」にも描かれたカジノフォーリーをはじめ。エンコは映画に演劇にオペレッタにと日本のエンターテインメントのメッカだったのだ。

それから時を経ること80年あまりの平成の世、そんな浅草を“遊び場”にした大人たちもだんだんあちらの世界へお引越しになっちゃって。
で、どれだけ浅草がかつては“東京の顔”だったのかを知るには、古い流行歌を聴くのがいい。

昔から現在に至るまで「東京」をうたった歌は数知れない。
そんななかで流行歌の黎明期である昭和初年にこんな歌が流行った。

♪昔恋しい銀座の柳 粋な年増を誰が知ろ 「東京行進曲」佐藤千夜子
西條八十の作詞でこれは1番。そして2番に丸ビル(日比谷)が出てきて、3番に
♪いきな浅草忍び逢い
と浅草が出てくる。ちなみに4番は新宿。
「日比谷公園」でも少しふれたように、この歌はヒットした昭和4年当時の東京の代表的な街(見どころ)をめぐっているのだ。

この手法がその後、ベーシックな「東京の歌」として受け継がれて行くことになる。
反対に言えば、どんな街がうたわれているかでその時代の活気ある街がどこだったのかがわかるということにも。

ではどんな街が“東京ソング”でうたわれていたのかピックアップしてみると、

昭和5年「夜の東京」(淡谷のり子) 銀座、浜町河岸、神田、浅草
昭和7年「花の東京」(佐藤美子) 銀座、浅草、外苑(神宮)
昭和8年「東京音頭」(三島一声他) 上野、銀座、丸の内、観音さま(浅草) 
昭和11年「東京ラプソディー」(藤山一郎) 銀座、神田、浅草、新宿、
昭和14年「東京ブルース」(淡谷のり子) 銀座、プラネタリアム(有楽町)、浅草、新宿
昭和15年「東京パレード」(林伊佐緒) 丸の内、銀座、浅草

と、ここまでが戦前。
6曲のうち、すべての歌に出ていたのが「銀座」と「浅草」。まさにこの2つの街が明治、大正、昭和を代表する東京の繁華街だったといえる。

では戦後へ。

昭和22年「夢淡き東京」(藤山一郎) 銀座、浅草、神田
昭和24年「東京の屋根の下」(灰田勝彦) 日比谷、上野、銀座、新宿
昭和31年「東京の人」(三浦洸一) 銀座、日比谷、新宿、浅草、渋谷、池袋
昭和32年「東京見物」(三橋美智也) 二重橋、上野、靖国神社(九段)
昭和32年「東京だよ、おっ母さん」(島倉千代子) 二重橋、九段、浅草
昭和39年「東京の灯よいつまでも」(新川二朗) 外苑(神宮)、日比谷、羽田
昭和41年「東京ロマン」(ロス・プリモス) 赤坂、原宿、銀座
昭和42年「盛り場ブルース」(森進一) 銀座、赤坂、六本木
昭和45年「東京の女」(ザ・ピーナッツ) 銀座、赤坂、青山、新宿
昭和50年「カッコマン・ブギ」(ダウンタウン・ブギウギ・バンド) 銀座、原宿、六本木
昭和52年「新東京行進曲」(殿さまキングス) 銀座、新宿、渋谷、赤坂、浅草、上野
昭和55年「別れても好きな人」(ロス・インディオス&シルヴィア) 渋谷、原宿、赤坂、高輪、乃木坂

パーフェクトではないがやはり戦後の昭和でも「銀座」は“東京の顔”だったことを示している。そしてすでに紹介した日比谷がふえていることに注目。

さらに昭和40年代になると、それまでなかった赤坂、原宿、六本木などの新しい“一等地”が登場し、反対に浅草、上野という江戸の名残りの街が“二等地”に落ちるという現象が。

浅草の衰退はまさに昭和30年代後半の経済成長期と重なっている。つまり反比例しているということ。
戦後民主主義によって若者の意識が変わっていった。新しい価値観には新しい街が必要なのだが、浅草は脱皮できなかった。日々新奇なものが登場していった昭和30年代から40年代にかけて、古き良き街は着いていけなかったのだろう。いや着いていく気がなかったのかも。
もうひとついえば吉原が近いだけに昭和33年の売春防止法施行も少なからず影響したのかも。

ではもう少しエンコの歌を。
♪田原町から雷門 あゝ浅草の 宵あかり 「浅草の唄」藤山一郎
前にもとりあげた、浅草の歌の極めつけ。

♪浅草育ちで ちょっぴり美人で お祭り騒ぎが 大好きで 「お祭りマンボ」美空ひばり
お祭りに浮かれているすきに空き巣に入られた間抜けなおばさん。それでも祭囃しが聞こえてくるとじっとしていられないって性分。

♪江戸の名残の浅草は 木遣りくずしの酒の味 「はしご酒」藤圭子
錦糸町、平井、金町など下町の繁華街を織り込んだ歌。好きな演歌のひとつ。

♪二人そろって観音様に 祈る願いは……ただひとつ 「浅草姉妹」こまどり姉妹
浅草で流しの経験があるという双子の姉妹。ほかにも「浅草しぐれ」「浅草の鳩ぽっぽ」がある。

♪幼なじみの 観音さまにゃ 俺の心はお見通し 「唐獅子牡丹」高倉健
ほかにも隅田川や「六区」が出てきて浅草の雰囲気たっぷり。

ところで浅草名物「瓢箪池」がなくなったのは戦後の昭和26年。
消えたといっても、もちろんある日忽然と消えてしまったわけではない。埋め立てられたのだ。なんで?
浅草寺の本堂を再建する費用を捻出するためにその池(土地)を売却してしまったのだ。明治に掘って昭和に元に戻したというわけ。

瓢箪池のあとには東急グループによって飲食店や温泉、ローラースケート場、ゲームセンターをそなえた娯楽施設「新世界」がつくられた。わたしも子供のころ兄哥たちに連れられてよくいきました。その「新世界」もいまはなく、現在JRAの場外馬券売り場が建っている。

わたしは比較的近場に住んでいるのでしばしば足を運ぶ。
昨今の様子は、様々な努力の甲斐があってか活気がある。とりわけ仲見世(ほとんど敬遠している)の混雑ぶりは平日であっても尋常じゃない。

と、人出はあるのだがやはり新宿、原宿に比べると圧倒的に中高年が多い。それもなぜか団体が多い。そして男はなぜか野球帽にリュックサック姿が目につく。これを世間では“カンノン族”と呼んでいる(ウソばっか)。
たまに若いカップルがいたかと思うと、たいがいは遠方からの観光客。まぁ、それはいいことだと思う。それが浅草という街なのだから。だって新仲見世や伝法院通りにパンク野郎やヒップホップ野郎がたむろしていた日にゃ……。


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公園⑨瀬戸内海国立公園 [a landscape]

青江三奈.jpg 


♪夢の大橋 粟島はるか
 いつかの指輪を 捨てきれないで
 船のデッキで 面影呼べば
 死ぬほど燃える 燃えるのよ
 あなたが欲しい 夜の瀬戸内 瀬戸内の夜
(「夜の瀬戸内」詞:吉川静夫、曲:花礼二、歌:青江三奈、昭和45年)

日本に「公園」がつくられたのは明治になってからだが、自然公園の代表「国立公園」ともなると昭和まで待つことに。

そもそも国立公園とは、自然景勝地を国が保護、活用しようという目的でつくられた公園(地域)で、アメリカを習って日本では昭和6年に国立公園法(現在は自然公園法)がつくられた。
実際に国立公園が指定されたのは3年後の9年で、その第一号は瀬戸内海、雲仙天草、霧島屋久の3カ所。以後、北海道の知床から沖縄の西表石垣まで29カ所が指定されている。指定するのは環境大臣で、環境省が管理している。

ちなみに「国定公園」というのもあるが、これは国立公園に準じた景勝保護地で全国に56カ所ある。こちらも環境大臣の指定によるものだが、管理するのは当該の都道府県となっている。

29ある国立公園のなかで最大規模のものが北海道のほぼ中央にある大雪山国立公園。その広さは約2300平方キロメートル、といってもピンとこないが、東京都全体より広いといえばその規模がわかろうというもの。
反対に最小は小笠原国立公園で、61平方キロというから大雪山国立公園の40分の1ほど。それでも青森県の十和田湖ぐらいはある。

瀬戸内海の島々をほとんど網羅してしまうという瀬戸内海国立公園は、630平方キロというからそれほどでもない。ところが、この国立公園、東は大阪府から西は九州の大分県まで一府十県を含む。こんな広域にわたる国立公園はほかにない。

大分県の国東半島や兵庫県の六甲山あるいは淡路島まで含んでしまうスケールの大きさだが、やはり「瀬戸内海」というぐらいなので塩飽、笠岡、日生、芸予といった島々のイメージが強い。

そんな瀬戸内をうたった最も有名な歌といえば「瀬戸の花嫁」小柳ルミ子
♪瀬戸は夕焼け 明日も晴れる 二人の門出 祝っているわ
と観光イメージソング(ではないけど)にはもってこいのハッピーソング。

そんな瀬戸をうたったハッピーソングは昭和30年代にもあった。
♪あゝあゝ 瀬戸はなつかし ほほえみのせて 船はゆく 「瀬戸の恋唄」神戸一郎
まるで新婚旅行のような2人の旅路。スチールギターをフィーチャーしたハワイアン演歌?30年代アイドルも数年前に亡くなった。作詞・西沢爽、作曲・船村徹「ひばりの渡り鳥だよ」(美空ひばり)、「哀愁のからまつ林」(島倉千代子)のコンビ。

そういえば川中美幸にも「瀬戸の恋歌」があった。
こちらは作詞・星野哲郎、作曲・岡千秋によるド演歌。おんなの未練節で、歌詞には弓削島、燧灘、鞆の浦と瀬戸内海の景勝地が登場する。

ほかにも「瀬戸の恋歌」あるいは「恋唄」があるのではないかと調べたら案の定。
倍賞千恵子大川栄策など6曲。音源がないので聴けないが、作曲者が異なるので全然別の歌だと推測できる。

ほかの“瀬戸歌”では、やはり岡千秋がつくった「瀬戸の港」中村美津子が。
♪春はいつ来る 瀬戸内つばめ 飛んでおいでよ ネオンの町に
とこれまた離れた男を偲ぶ演歌節。

同じようにいつ来るか分からない男を待つ酒場女をうたった演歌に「瀬戸のかもめ」水沢明美 がある。

そして極めつけ? は上に詞をのせた青江三奈「夜の瀬戸内」
神戸からはじまって(瀬戸)大橋、香川県の粟島、そして大分の別府へと男をおいかけていく女。まさに瀬戸内海国立公園を舞台にしたラヴ・チェイス。
作詞・作曲は「池袋の夜」のコンビ、吉川静夫渡久地政信

青江三奈は、北の「札幌ブルース」から南の「長崎ブルース」まで、いわゆる“ご当地ソング”の女王で、もう亡くなってから10年近くが経つ。
東京の下町生まれの元クラブシンガーで、シャンソンラテンジャズはもちろん、歌謡曲のカヴァーも器用にこなした。
とりわけ歌謡曲の表現力ではちあきなおみと双璧だった。

今回は「瀬戸」のYOU-TUBEがほぼ全滅なのでフェヴァリットシンガー、青江三奈の魅力をもう少しどうぞ。

そのほか、「瀬戸」が出てくる歌には「南国土佐を後にして」(ペギー葉山)「京都から博多まで」(藤圭子)、「あの娘たずねて」(佐々木新一)などがあるし、淡路島や阿波の鳴門あるいは六甲山、佐田岬、播磨灘、関門海峡など各景勝地をうたった歌はいくつもあり、そのことからも瀬戸内海国立公園の範囲の広さがわかる。

ところで同じ国が管理する公園でも自然公園ではなく、造営公園は「国立」とはいわず「国営」という。つまり「国営公園」。東京でいえば立川に昭和天皇在位50年を記念して造られた昭和記念公園がある。
全国でも16の国営公園があり、21世紀に入ってから指定されたものでも佐賀県の吉野ケ里遺跡周辺の吉野ケ里歴史公園、長野県のアルプスあずみの公園、兵庫県の明石海峡公園がある。

ややこしいのはそのほかに「国民公園」まである。国民公園は国営公園と同じ造営公園だが、「国立公園」と同じく環境省が管理する公園ということ。
国民公園は意外と身近で皇居外苑がそうだし、関東では新宿御苑、関西では京都御所がそう。ただこれだけ、3カ所しかない。

国立公園の国立(こくりつ)といえば、紛らわしいのが東京の「国立市(くにたちし)」。
国立(くにたち)音楽大学なんて、よく国立(こくりつ)に間違えられたり。
国立高校もある。こちらは都立なので「都立国立高校」とややこしいことになる。「市立国立第一小学校」なんていうのもある。
それならもしかして、と思ったがさすがに国立市に「国立公園」というのはないようだ。


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公園⑧セントラル・パーク [a landscape]

セントラル・パーク.jpg

Old friends, old friends,
Sat on their park bench like bookends
A newspaper blown through the grass
Falls on the round toes of the high shoes of the old friends

Old friends, winter companions, the old men
Lost in their overcoats, waiting for the sun
The sounds of the city sifting through trees
Settles like dust on the shoulders of the old friends
([OLD FRIENDS] written by PAUL SIMON vocals by SIMON & GARFUNKEL, 1968)

7月にサイモン&ガーファンクル(S&G)の来日コンサートがあるとか。
まだ稼がなければならない理由があるのか、それとも音楽という“麻薬”の魅力から逃れられないでいるのか。いずれにしてもファンにとっては嬉しいこと。

ウッドストックとともに、ロック、ポップスのシーンで語り草になっているのが50万人の聴衆を集めたというS&Gのセントラル・パークCENTRAL PARKでのコンサート。
もちろんビデオで見ただけだが、ラフでシンプルで感動的なコンサートだった。

日本人にとって前回のマッカーサー・パークはほとんど知られていない公園だが、こちらはニューヨークにある超有名な公園。行ったことのないわたしでも知っている。

そのセントラル・パーク、19世紀後半というから明治のはじめ頃、マンハッタンにつくられた都市公園の原型となった公園で、その大きさは日比谷公園の約20倍。
なかには美術館、博物館などの施設のほか、野外コンサートが行われるスペースもある。

ニューヨーク・フィルをはじめクラシックコンサートがよく開かれるということだが、ポピュラー音楽ではほかにキャロル・キング、シェリル・クロウあるいはバンドネオンのアストール・ピアソラなどのコンサートが知られている。

しかし、やっぱりS&Gのコンサート。
「ミセス・ロビンソン」MRS. ROBINSON からはじまって「サウンド・オブ・サイレンス」THE SOUND OF SILENCEまで彼らのヒット曲を連ねたコンサートはファンを十分魅了した。

そのS&Gのセントラル・パークのコンサートでもうたわれた曲に公園をバックグラウンドにした「旧友」OLD FRERINDS がある。

年老いた友人同士が公園のベンチに座っている。それはまるでブックエンドのよう……ではじまる歌で、その旋律は、人間の晩年を思わせるようでもあり、人生を達観してしまったような、それでいてどこか淋しいような、不思議な趣をもった歌。
もちろん、この公園がセントラル・パークだとはうたわれていないのだが。

またセントラル・パークは、おそらくアメリカの中でも最も知られた公園なので、しばしば映画の舞台にもなっている

有名なのは「ダイハード3」
爆発魔の電話に翻弄される刑事・ジョン・マクレーンがクルマでセントラル・パークを縦断するというカーアクション。
しかし、それよりも有名なのが1971年に公開された「ある愛の詩」LOVE STORY 。

「出逢い→恋愛→結婚→反対→病死」と絵にかいたような純愛悲恋映画の定番。映画のキャッチコピーともなった主人公の言葉「愛とは決して後悔しないこと」なんて中学生が言いそうなセリフも受けてヒット。ノベライズも全米で1000万部に達したとか。

こういう「お涙頂戴ストーリー」は日本人の好むところで、明治30年代の武男と浪子の「不如帰」(徳富蘆花)から昭和30年代のマコとミコの「愛と死をみつめて」(河野実、大島みち子)の空前のヒットをみればあきらか。

その純愛悲恋死別映画は平成の世でも健在で、柳の下の泥鰌が50匹ぐらいいるのではないかと思うほど次から次へと出てきているらしい。

軌道修正。
映画「ある愛の詩」はアカデミー音楽賞を受賞。その音楽を担当したのが「男と女」や「白い恋人たち」でおなじみのフランシス・レイFRANCIS LAI 。

そのテーマ音楽「ある愛の詩」はあまりにも有名だが、サントラ盤ではモーツァルトやバッハ(ヒロインのジェニーが好きな音楽)のほか、レイのオリジナルをいくつも聴くことができる。その中のひとつに「スケーティング・イン・セントラル・パーク」SKATING IN CENTRAL PARKがある。

これは二人の思い出の場所であるセントラル・パーク内にあるスケートリンクをイメージしたもので、恋人たちの幸福感が美しいワルツで奏でられている。

「スケーティング・イン・セントラルパーク」といえばジャズにも同名の曲がある。
MJQ[MODERN JAZZ QUARTET]の作品。作ったのはピアノのジョン・ルイスJOHN LEWIS 。
ミルト・ジャクソンMILT JACKSON のヴァイヴが主導する、こちらも軽快に滑走するスケーターの姿が目に浮かぶようなワルツ。

この曲はビル・エヴァンスBILL EVANSとジム・ホールJIM HALLのコラボでも聴ける。
あたりまえだが、こちらはもう対等な“掛け合い”でピアノとギターのデュオが絶妙な調和をつくっている。
黒人と白人の違いもあるのだろうが、“本家”よりもビル&ジムの方が洗練されていて、よりジャジーに聴こえる。好みもありますが。

ジャズではほかに、コルトレーンJOHN COLTRANE の「セントラルパーク・ウエスト」CENTRAL PARK WEST(YOU-TUBEはコルトレーン風) とニーナ・シモンNINA SIMONEの「セントラルパーク・ブルース」CENTRAL PARK BLUES がある。

どちらも彼らのオリジナルで、前者はソプラノサックスが公園通りののどかな休日の模様を奏でている。背景でマッコイ・タイナーのMCCOY TYNER のピアノが曲に立体感をくわえているのがいい。
後者はニーナのピアノによるインスト。文字どおりブルース。静かに語りかけるような軽いタッチはまるで彼女のヴォーカルのよう。ジャズピアニストとしてのニーナを堪能できる。

邦楽ではミスター・チルドレンMr. CHILDREN の「十二月のセントラルパークブルース」がある。
30男の12月のニューヨークひとり旅。なぜかクリスマスツリーで泣けてきて、
♪ちょっと待った僕はもう30だせ
と。少しホームシックになったり、彼女に会いたくなったり。そんな“寒い”自分もいいなと思うナルシズム。
題名のとおりのブルースギターがイカしている。

インターネットで調べたら日本でも「中央公園」という楽曲があった。うたっているのは藤崎詩織。どんなアイドルだいと思ったらこれが、なんとゲームの中に出てくるキャラクターときたもんだ。いったいどんな曲だろう……、いやいやおじさんにはそこまで付き合う気はないんだ。


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公園⑦マッカーサー・パーク [a landscape]

マッカーサー&トゥルーマン.jpg

Spring was never waiting for us dear
It ran one step ahead
As we followed in the dance

MacArthur's Park is melting in the dark
All the sweet, green icing flowing down
Someone left the cake out in the rain
I don't think that I can take it
'cause it took so long to bake it
And I'll never have that recipe again
Oh, nooooo
([MACARTHUR PARK] written by JIMMY WEBB, vocal by DONNA SUMMER, 1978)

ドナ・サマーは1970年代から80年代にかけてのR&Bシンガー。とりわけ当時全盛だったディスコミュージックでヒットをとばし、「ディスコ・クイーン」と呼ばれ、コンサートでたびたび来日しています。1979年のビルボードチャートでは「バッド・ガール」BAD GIRLS 、「ホット・スタッフ」HOT STUFF、さらにはこの「マッカーサー・パーク」の3曲が第1位に。

その「マッカーサー・パーク」はフィフス・ディメンションTHE 5th DIMENTIONの「ビートでジャンプ」UP UP AND AWAY やグレン・キャンベルGLEN CAMBELの「恋はフェニックス」BY THE TIME I GET TO PHOENIX、「ウイチタ・ラインマン」WICHITA LINEMANなどの作者、ジミー・ウェブJIMMY WEBBの作。

この曲を初めてうたったのは70年代の映画「ジャガー・ノート」や「カサンドラ・クロス」で名脇役ぶりを発揮した俳優のリチャード・ハリスRICHARD HARRIS 。未見ながら「ハリー・ポッター」シリーズで健在ぶりを示しているとか。
リチャードは歌手でもあり、この「マッカーサー・パーク」はジミー・ウェブの作品を集めたアルバム「トランプ・シャイニング」A TRAMP SHINING の中の1曲。

長い曲ですがドナ・サマー、リチャード・ハリス以外では、ジミー・ウェブの曲ではおなじみのグレン・キャンベルフランク・シナトラFRANK SINATRA、コンサート盤に収められたレターメンTHE LETTERMEN、ハーモニーの美しいスリー・ディグリーズTHREE DEGREES、こういううたい上げる歌は得意のアンディ・ウィリアムスANDY WILLIAMSなどがうたっています。
また日本では小柳ユキがカヴァーアルバムのなかでドナ・サマーばりにR&Bを熱唱。

ところでマッカーサーといえば、中高年ならすぐにピンとくるのがダグラス・マッカーサーDOUGLAS MACARTHUR。敗戦後数年間にわたって日本を統治したGHQ(連合国最高司令官総司令部)の総司令官で、昭和天皇と並んで写った大男の姿を覚えている人もいるのではないでしょうか。

フィリピンのコルヒドーレで日本軍に敗退を余儀なくされたとき残した「アイ・シャル・リターン」、あるいは日本統治時に言った「日本人は12歳」、さらには解任後米議会での演説「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」など多くの名言を残しています。

マッカーサー・パークはまさにその将軍の偉業を記念して名づけられた公園。
彼の生誕地であるアーカンソー州のリトルロックにも「マッカーサー・パーク」がありますし、バージニア州ノーフォークには「マッカーサー記念館」がありますが、歌にうたわれた公園はロサンゼルスにある公園だとか。

リトルロック同様米軍の駐屯地跡で、旅行ガイドにも載っていないような地味な公園で、かつてはジャンキーが横行していたなんて話も。

ところでそのマッカーサーについては、一時日本の最高権力者に君臨しただけあって、様々なエピソードや伝説が残されています。

その最たるものが“マッカーサー日本人説”。天皇制維持に寛大だったマッカーサー。その理由として母方の血に日本人が入っているという。つまり父アーサーが日露戦争後に来日(事実)したとき、祇園の芸者に産ませた子供だという噂。

天皇と会見したとき、マッカーサーが土産にチョコレートを手渡したことも。会見後、天皇は侍従に「これもらったよ」と喜々として語ったとか。
ほかにも敗戦による最大の“恩恵”といわれる婦人参政権の施行により日本人女性から幾通ものファンレターが届いたとなどエピソードは数々。

もちろん権力者としてのコワイ一面も。労働組合を認めながら、日本の赤化をおそれて22年2月1日のゼネストを弾圧。当時の左翼にとっては反革命の権化。
翌年には在日のままアメリカ大統領選に参戦。しかし予備選で惨敗して夢叶わず。

そして朝鮮戦争における対中国政策の読み間違えと、中国軍と一戦交えること(原爆行使も)も辞さない姿勢がホワイトハウスの怒りを買い失脚。犬猿の仲といわれたトルーマン大統領との権力争いに敗れたという結果に。しかしアメリカでは国民の三分の二が彼を支持していたとも。そのとき71歳。

1964年3月、黄疸を悪化させて亡くなる。享年84歳。

ベトナム戦争当時、マッカーサーはジョンソン大統領に「アメリカの地上軍をアジアの戦場へ送るべきではない」と語ったというエピソードも。それは太平洋戦争と朝鮮戦争から得た教訓だったといわれています。
いずれにせよ日本にとって「敗戦」という未曽有の体験の中心人物として今後とも語り継がれていく歴史上の人物には違いありません。

ところでそのマッカーサー元帥、実は日本の歌にも登場してました。
戦後、彼にこびへつらう歌だろうって? 残念ながらそうではなく、それは戦前に作られていました。

♪いざ来いニミッツ、マッカーサー 出てくりゃ地獄へさか落し 「比島決戦の歌」

この歌がつくられたのは昭和19年3月。
ニミッツもアメリカ海軍の元帥で、いわば敵国軍隊の象徴2人を地獄へ葬ってやるという、のちに“最悪の軍歌”といわれたもの凄い歌。作詞は西條八十、作曲は古関裕而のゴールデン軍歌コンビ。のちに西條八十は「軍部に半ば強制的に作らされた」と弁明しています。

幸いにも資源不足でレコード化されなかったそうですが、その1年あまり後には敗戦(予期していたのかも)。ニミッツはともかく、マッカーサーが日本へやって来てしまったからさあ大変。作詞、作曲の2人は逮捕を覚悟していたとか。とりわけ西條八十は死刑まで考えていたそうです。

この歌がマッカーサーの耳に入ったかどうかはさだかではありませんが、占領軍は「流行歌に思想はない」と不問に。西條さん、古関さんともども胸を撫で下ろして一件落着。
寛大だったのか見くびられたのか、ともかくそのおかげでその数年後に「青い山脈」「長崎の鐘」がつくられることになるのですから、よかったと思わねば。

そういえば子供のころ、からかい言葉で「お猿のオケツはマッカーサー」なんて意味も知らずに言ってました。くだらないことです、実に。

 


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公園⑥日比谷 [a landscape]

松本楼③.jpg
♪夜霧の日比谷ゆく人も 隅田の流れ見る人も
 恋に身をやく シルエット
 君は新宿 僕は浅草
 しのび泣く 恋に泣く 東京の人
(「東京の人」詞:佐伯孝夫、曲:吉田正、歌:三浦洸一、昭和31年)

前に少しふれましたが、東京で初めての洋風公園、日比谷公園の開園は明治36年6月1日。
前年の起工式からほぼ1年あまりで完成。その形式はドイツの公園を模したもので、広さは約16万平米というから、よく例えにあげられる東京ドームがおよそ3個半分。広いのか狭いのか……。

開園当初は初もの好きの“江戸っ子”や近隣のビジネスマンたちが足を運び、歩行もままならないほどの大混雑だったとか。
現在もあるフランス料理店の松本楼は開園と同時にオープン。

また日比谷公園といえば野外音楽堂が有名ですが、こちらのオープンは2年後。初演奏の栄誉に浴したのは陸軍軍楽隊と海軍軍楽隊で、当日、ロッシーニ「ウイリアムテル序曲」ドビッシー「タンホイザー」などが演奏されたそうです。ただしこれは小音楽堂でのことで、大音楽堂が完成したのはそれからさらに18年後の大正12年。

ところで大昔の日比谷はどんな所だったのでしょうか。
遡って行くと、公園になるまえは陸軍の練兵場、つまり兵士の訓練場でした。その前つまり江戸時代は毛利、島津、鍋島といった大名の上屋敷が置かれていました。さらにその先、江戸幕府以前はというとこれがなんと比々谷村という“漁村”だったとか。
現在でも日比谷公園は皇居の目の前にありますが、当時その付近まで海浜だったというから驚き。

ちなみに比々谷つまり「日比谷」の語源は、海苔などを採取するため海に立てる竹や木を?(ひび)というところからきているといいます。「や」は谷ではなく、同じ生業のひとたちの集まりの「屋」ということ。つまり「?屋」→「比々谷」→「日比谷」に。

いずれにせよ、文明開化の明治より東京の“名所”となった日比谷公園、昭和の時代になると、なぜか男女のデートスポットとして注目されるようになります。
たとえば、大正時代の演歌師がうたった「東京節」(パイノパイノパイ節)(大正7年)には、
♪東京の中枢は丸の内 日比谷公園両議院
と出てきます。

となれば本格的な流行歌の時代、昭和に入ったらさぞや。
ところが、そこそこ知られた歌の中に日比谷公園をみつけることは難しい。というかない。

たとえば昭和4年の大ヒット曲「東京行進曲」(佐藤千夜子)には東京の地名がいくつか出てきます。これは、当時の代表的な“遊興地”をうたうことで、いかにも“東京”を強調しようという意図。
で、その地名とは「銀座」、「丸ビル(丸の内)」、「浅草」、「新宿」の4ヵ所。銀座も丸の内もニアミスだけれど日比谷公園はハズレ。

戦後のヒット曲でいち早く「日比谷」が登場したのは昭和24年の、
♪日比谷は恋のプロムナード 上野は花のアベック 「東京の屋根の下」(灰田勝彦)
佐伯孝夫、服部良一
という「銀座カンカン娘」の作詞作曲コンビで、東京を「希望の街、憧れの都」で「二人の夢の東京」とうたっています。

まさに日比谷公園や上野公園がデートスポットの代表的な場所だった時代。
それで思い出すのが昭和22年に封切られた黒澤明監督の「素晴らしき日曜日」。貧しい恋人同士が束の間の休日をいかに過ごすかというストーリー。
ごくありふれた若者たちの日曜日が天才監督の卓越したアイデアとエピソードで綴られていきます。なかでも印象的だったのかラストシーン。

二人は人気のない日比谷公園の野外音楽堂に入り込む。そして彼が見えない観客を背にして見えない楽団に向かってタクトを振りはじめる。するといきなり彼女がカメラ視線になり「皆さん、日本中の貧しい恋人たちに暖かい拍手をお願いします」「わたしたちが希望や夢を描けるように応援して下さい」というようなセリフで観客(映画を観ている人間に対しても)に訴えかけます。
すると無人の観客席から拍手が起こりはじめ、シューベルト「未完成交響曲」が聴こえてくるという演出。
数多の日本映画のなかでも印象に残るラストシーンのひとつではないでしょうか。

30年代に入って早々の上に詞をのせた「東京の人」も佐伯孝夫の作詞。作曲はその後二人で多くの名曲をつくっていくことになる吉田正
哀調を帯びた曲風ですが、その詞は当時の都会を書かせたらピカ一だった“東京の達人”佐伯孝夫の面目躍如。ちなみに彼が生まれたのは現在の東京駅構内というからさもありなんです。

そしてもうひとつ、東京オリンピックの年にうまれたのが、
♪雨の外苑 夜霧の日比谷 「東京の灯よいつまでも」(新川二朗)
どうやら日比谷は夜霧が似合うようです。そういえば二人の仲をかくしてくれる「夜霧よ今夜も有難う」(石原裕次郎)なんて歌もありました。
昭和39年日本の絶頂期にヒットしたこの歌。とりわけいろいろなかたちで地方から東京へ出てきた人たちに人気があったようです。

いまだにテレビドラマ「電車男」や「HERO」などのロケーションに使われるほど人気の日比谷公園ですが、最近では派遣村や焼身自殺という新聞の社会面にも載って話題に。
よくもわるくも何かと話題になる東京のロケーションのようです。

ところで「日比谷」の名称は、公園はもちろん、その名を冠した公会堂あるいは図書館、通り名、さらには地下鉄の駅名にみることができますが、周囲を囲む有楽町、内幸町、霞が関のように日比谷何丁目何番地という番地名はないのです。
唯一この公園だけが「日比谷公園」とされているのです。つまり所在地でいうと日比谷公園は、東京都千代田区日比谷公園になるのです。やっぱり一風変わった場所です。


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公園⑤鳩 [a landscape]

公園の鳩.jpg
♪アカシヤの雨がやむとき 青空 さして鳩が飛ぶ
 むらさきの羽の色 それはベンチの片隅で
 冷たくなった わたしのぬけがら あの人を
 さがして遥かに 飛び立つ影よ
(「アカシヤの雨がやむとき」詞:水木かおる、曲:藤原秀行、歌:西田佐知子、昭和35年)

もうひとつ公園といえば「鳩」
「○○区立○○西公園」なんていう正式名よりも「鳩ぽっぽ公園」っていう愛称で呼ばれている公園、各地にあるのではないでしょうか。
それほど「公園」に「鳩」は欠かせない生き物。

先日とりあげた「SUNDAY PARK」(さだまさし)にも
♪子供はブランコに飽きて 次の遊び場へ 駆けだしたあとには 鳩が舞い立つ
と出てきます。

日本には4世紀末ごろ中国からやってきたという鳩。
その種類もキジの羽模様に似ているキジバト(山鳩)、明るいグレーのシラコバト、黄緑色のアオバトなど種類もいくつかあるようで。
公園や神社の境内でよく見るドバトは「土鳩」と書きますが、元は「塔鳩」「堂鳩」と表記されたように寺や神社の塔あるいは堂に棲みついた鳩のこと。種類ではなく山から里に棲みついた鳩のことをいうそうで、キジバトをはじめ様々な種類の雑種のようです。

それにしてもよく人間に慣れているもんです。人間がそばを通ってもお構いなし。おそらく野生動物の中ではいちばん人間を警戒していないのではないでしょうか。

人間が鳩に餌をあげる光景はしばしば目にするもので、そうした長年にわたる「餌付け」のたまものなのかもしれません。また、人間と鳩との“友好関係”は昭和30年代あたりまで見られた新聞社などの「伝書鳩」。あるいは「鳩レース」などでうかがい知ることができます。

昭和30年代、近所にも2階や屋根に小屋をつくって数十、あるいは百羽以上の鳩を飼っているお兄さんがいました。
鳩の帰巣本能を利用したレースはいまでも行われているようで、もちろん血統書があり、優秀な鳩は百万円単位の値がつくとか。

それゆえ、通信手段の発達により伝書鳩は廃業に追い込まれ、都市の衛生思想の影響もあって鳩を飼う人口が減った現在でも、鳩と人間との友好関係は続いているようです。

とにかく同じ人間の周辺を徘徊するカラスに比べるとはるかにフレンドリーな鳩。まぁ、平和のシンボルというイメージもありますし、カラスのようにゴミを散乱させたり、人を襲うことはいまのところないようですから。
しかし、この先はわからない。いまだって鳩の糞害で迷惑を蒙っている人もいたり。いくら怒っても当人知らぬ顔。ほんにコイツがハト迷惑って、オチにはまだ早いようで。

では公園を縦横に飛び回る鳩の歌を。まずは彼らが今よりもっと輝いていた昭和30年代から。

♪鳩が飛び立つ公園の 銀杏は手品師 老いたピエロ 「公園の手品師」フランク永井
詞も曲もシャンソンを思わせる秋の歌。逃げるように飛び立つ鳩と降りしきる銀杏の落ち葉がせわしなく過ぎていく秋と、すぐ近くまで来ている冬を感じさせる宮川哲夫の傑作。

もうひとつ30年代では、先日の「ベンチ」でふれた「アカシヤの雨がやむとき」(西田佐知子)。上の詞にあるように死んだ彼女の化身となって空を舞う鳩がうたわれています。

冒頭の「SUNDAY PARK」もそうですが、以上の3曲はいずれも“飛び立つ鳩”。
それはそうかも。鳩が地面の前を突っついている、とか塒の木の枝に止まって眠っているのでは流行歌としてインパクトに欠けますから。
やっぱり静かな公園に羽の音が聞こえてくるような動のイメージ、ということなのでしょうか。

もう1曲もやっぱり鳩が飛びます。

♪青空めざし 鳩がとぶ公園で いつもと同じ ベンチにいるの 「鳩がいる公園」天地真理
こちらも流行歌定番の鳩ブレイク、ではなくてハートブレイクソング。
別れた彼とよく来た公園にひとりで、というこれまたありがちな光景。彼女が諦められないのは初恋だから。もう少しキャリアを積めば……。そんなことないか。

鳩というのは“一夫一婦制”だそう。たしかによくみるとだいたいは番いで行動しています。もちろんなかには異性に興味がなかったり?相棒を亡くしたり、はたまたモテない“独り者”の鳩もいますが。

先日もとある公園で2羽の鳩が嘴を絡ませ合っているのを見ました。それもかなり長い時間同じ所で。よほど愛し合っているのだななんて思いながら。羽色の濃いヤツと薄いヤツ、どっちがオスでどっちがメスだろう、なんて思いながら。

するとその2羽から少し離れたところにいたかなり体格のいい鳩が突然カップルめがけて走ってきました。するとキスしていた鳩のうち色の濃い方があわてて後ずさり、背中を向けて逃げていきます。ああ、アイツがオスなんだなと判明。

ポパイに出てくるブルートのような鳩は、オリーブに近づいてなにやら囁いています。「あんな弱いヤツ見限ってオレのものになれよ」と言っているようです。
ブルートに背を向けてゆっくりもったいつけて歩いているオリーブは「そうネ、考えてあげてもいいワ」とでも言っているよう。もはや元カレには興味がないようで。…………人間顔負け。

ここで一度逃げた鳩がホウレン草ならぬ、ベンチから放られたパン屑でも食べて元気モリモリ、横恋慕の“ブルート”に逆襲の一発でもお見舞いすればメデタシメデタシだったのですが、秩序ある鳩の世界でもそんな絵にかいたような正義は通用しないようで、ポパイ君、未練も残さずその場を去って行きました。多分、新しい恋人でも探しにいったのでしょう。
鳩のポパイ君に幸あれ。

 


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公園④ベンチ(下) [a landscape]

 サンデーパーク.jpg
♪雨が空から降れば 想い出は 地面にしみこむ
 雨がシトシト降れば 想い出は シトシトにじむ
 黒いコウモリ傘をさして 町を歩けば
 あの街は雨の中 この街も雨の中
 故郷も雨の中 電信柱もポストも 故郷も雨の中
 しょうがない 雨の日は しょうがない
 公園のベンチで一人 おさかなをつれば
 おさかなも また雨の中
 しょうがない 雨の日は しょうがない……
(「雨が空から降れば」詞:別役実、曲:小室等、歌:六文銭、昭和45年)

60年代後半から70年代前半にかけて起こった“豊かさ”の中での若者の反乱。
70年安保も反体制の学生、労働者の敗北、体制側の勝利。

西田佐知子「アカシヤの雨がやむとき」が60年安保直後の気分を反映しているのならば、70年安保は上に載せた「雨が空からふれば」
あの街もこの街も雨。しょうがない。という気分が時代を言い当てている。「アカシヤ」ほど流行らなかったけれど。

劇作家・別役実が詞を書いた「雨が空から降れば」は、当時の別の一面も反映させています。

雨の一日に所在なさげで手持無沙汰の若者。彼は学生なのでしょうか。いや、そうではないでしょう。学生ならば友だちに会いにキャンパスへ行けばいい。“たむろ場”になっている喫茶店へ行けばいい。
多分彼は労働者のハシクレなのでしょう。それも、道路工事や建築現場で働く日雇い労働者。今でいえばガテン系のフリーター。当時の言葉でいえば「立ちんぼう」の「土方」。「土方殺すにゃ……」という戯れ歌があるように、雨が降ったらお手上げ。

当時、若者とりわけ学生の間で妙な“肉体労働信仰”がありました。「頭ではなく、からだをつかって生きていくんだ」という意識。
ある者はヴ・ナロードよろしく共同体で農作業を。またある者はスコップ、ツルハシを握っての土方仕事。

“知識”への反抗、自己否定、自虐行動などなど……、理由はいろいろあげられますが要するに“若さゆえ”。良くいえば「若さの特権」、否定的にいえば「若気の至り」。

抜き差しならない状況で土方仕事を余儀なくされている“ホンモノ”に比べたらなんとも脆弱な頭デッカチ。飯場やドヤ暮らしも新鮮なのははじめだけ。1年、2年続けられたら上等で、たいがいは“三日坊主”。
1年続けたとしても、はたしてそこから“社会”が見えたのでしょうか。残ったのは、「もう2度と肉体労働はごめんだ」という意識だけだったのでは。

しかし、“彼”が横道にそれたことを非難できません。少なくともその時は真剣に自分と向かい合っていたはずですから。社会を知ることはできなかったかもしれませんが、少しは自分を知ることができたはずですから。

その肉体によって精神を鍛えようとしたもっと具体的な歌が、「雨が空から降れば」の2年前にヒットした
♪今日の仕事はつらかった あとは焼酎をあおるだけ ……
という岡林信康「山谷ブルース」でした。

そして、
♪公園のベンチで目をさましたとき 噴水のまわりには誰もいなかった 「公園のベンチで」友部正人
もまたそうした若者をうたっています。

70年代、駅前の公園には終電に乗り遅れた学生やサラリーマンがよく寝ていました。会社へ向かう通行人の声で目が覚めたり。もちろん冬は無理ですし、固いベンチの寝心地は決していいものではありません。

ある日彼はドヤをあとにしてヒッチハイクで北へ向かう。そして見知らぬ農家に泊めてもらったり、野宿をしたり、川で泳いだりとまるでホーボーのような暮らし。
♪でも僕は知ってるよ あいつを誰も鎖でつなぐ事はできないよ
と、何ものにも代えがたい自由を謳歌しています。

その後、彼はどうしたのでしょう。自由という川を快適に泳ぎ続ける彼も、やがて社会という岸に上がらなければならなかったのかもしれません。

友部正人には公園がよく似合う。ほかにも「公園のD51」「公園の雨」「公園に行けば」があるそう(聴いたことありませんが)。

しかしそうした若者のある意味純粋な考え、行動もつかの間のこと。時代とともに変わっていきます。

50年代にうたわれた五輪真弓「恋人よ」では
♪雨に壊れたベンチには 愛をささやく歌もない
公園のベンチはやはり恋人同士の“場所”として登場。そして、20年前「雨にうたれてこのまま死んでしまいたい」と嘆いたように、ここでもベンチは失恋の思い出のオブジェとしてうたわれています。20年前と異なるのは、その時間の分だけ朽ちてしまっているということぐらい。

もちろん、ベンチはそんな憂鬱な存在としてばかりではなく、
♪いつも素通りしていたベンチに座り 見わたせば 「口笛」Mr.CHILDREN
のように幸せな恋人同士をみつめる空間としても存在するのです。
つまり、半世紀ぐらい過ぎても人間の営みはそんなに変わらないということ。公園のベンチは今日も明日も相変わらず、恋人たちの囁きを聞き、涙雨を受けとめているのでしょう。

そう考えると、よく独りで公園のベンチに座っている人を見かけますが、あれはベンチがその人の心のつぶやきを聞いてあげているのかもしれませんね。孤独の人は自分の心情をベンチに吐露することで少しだけ心が温かくなったりして。これをベンチウォーマーと言います。けっこう無理矢理。


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公園③ベンチ(上) [a landscape]

荒川アベック.jpg


♪もしもしベンチでささやく お二人さん
 早くおかえり 夜が更ける
 野暮な説教するんじゃないが ここらは近ごろ物騒だ
 話の続きは 明日にしたら そろそろ広場の 灯も消える
(「若いお巡りさん」詞:井田誠一、曲:利根一郎、歌:曽根史郎、昭和31年)

公園に欠かせないものが「ベンチ」
冬の公園は人影も少ないですが、暖かくなるにつれてベンチに座っている人が目につきます。

午前中だと近所の保育園の一行。保母さんに付き添われた幼児たちが喜々として遊んでいます。
藤棚の下にベンチつきの四角いテーブルがあって、昼どきになるとヤングママのグループが遠足気分で弁当を広げていたり、信用金庫の渉外係が自転車を止め、ベンチに座ってひと息ついていたり、その横のベンチにはどこかの女子事務員さんがコンビニの弁当を食べていたり。

街路灯に照らされた夜のベンチには何事かを語らう恋人同士がいたり。

とベンチを利用する人も様ざま。

公園のベンチは、たまには争奪戦もなくはないですが、多からず少なからずのほどよい数。
だいたいは4人掛け。でもリミット座っているベンチはあまりない。ほとんどが2人ないし1人。
“先客”がいるところへは座りにくいのでしょう。ましてや2人、それもアベックだったひにゃ躊躇っちゃう。それでも無頓着なオヤジが端っこにちょこんと座っていることもありますが。とたんに2人の会話も途絶えたり。

考えてみれば公園で走り回ったり、転げまわったりするのは子どもたち。大人はしない。ふつうは。で、大人は何をするかというと、とりあえずベンチに座るしかない。
そんなわけだから、流行歌に出てくる若者や大人にベンチは欠かせない。


「若いお巡りさん」は交番勤務の巡査の仕事ぶりやプライベートをうたったもの。
警官というと戦前からの「オイ、コラッ!」のイメージがあって庶民にはいまひとつ親しみがもてなかった。

いずれにせよ「オイ、コラッ」から「モシモシ」へのイメージチェンジ。レコード発売前から歌手の曽根史郎が警察官に歌唱指導して、まずは身内から浸透。
ステージでは警官のコスチュームで優しさをアピール。それが受けたのか大ヒット。意図したのか否かはしらないが、結果的に民主警察をアピールする“CMソング”に。
この歌が世に出る2年前、警察権力の中央集権化がうかがえる警察法改正が行われ、国会で乱闘騒ぎが起きるほど混乱したという背景があったことも事実。

歌詞には故郷を逃げ出した「家出娘」、早朝の「納豆売り」、タバコ屋の「看板娘」が出てきて時代を反映させています。とりわけ4番は、非番のお巡りさんがタバコを買いに行き、その看板娘に「鎌倉あたりへ行きませんか」と話しかけるストーリー。
お巡りさんだってプライベートではナンパぐらいしますよという話。
最後の決めゼリフ♪浜辺のロマンス パトロール は例によって流行歌にありがちな意味不明。でも雰囲気は十分伝わってきます。

♪雨のベンチでぬれている 思い出さん今日は 「思い出さん今日は」島倉千代子
こちらはベンチで語らう恋人同士が主人公。
あの頃よく逢った公園へ行ってみる。ふたりで肩寄せ合って座ったベンチを見ていると彼のことを思い出す。別れなければならない事情があったのでしょうが、雨の公園で思い出に浸っているということは、まだ未練があるのでしょう。

昭和33年、星野哲郎がまだコロムビア時代の歌。作曲は古賀政男

それから2年。
♪それはベンチの片隅で 冷たくなった わたしのぬけがら…… 「アカシヤの雨がやむとき」西田佐知子

こちらも恋を失くした女のつぶやき。
ただ、西田さんは島倉さんより激情的な性格のようで、「恋しい」「つまんない」では終わらない。
もはや彼なくしては生きる望みも絶たれ、「死んでしまいたい」と。
それでも自分が死んだあと、冷たい眼をして去っていったあの人は「涙を流してくれるでしょうか」と失恋を完全には受け入れられないでいるようで。

ある意味“自虐的”というか“敗北的”な内容。当時の60年安保の挫折感と重なって、多くの若者から支持されたという伝説の歌。

「思い出さん今日は」もそうですが、雨の公園あるいは雨のベンチには悲しい思い出の残像が似合っているようです。

ちょうどこの時代あたりからでしょうか、経済成長の波に乗って町中に児童公園が増えだしていったのは。そして昭和も40年代に入ると、公園は特別の場所ではなく日常的な風景になっていました。


 


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