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●谷間/邦楽篇 [a landscape]

谷①.jpg

♪みどりの谷間に 山百合ゆれて
 歌声ひびくよ 観光バスよ
 君らの泊まりも いで湯の宿か
 山越え 谷越え はるばると
 ランラララ…… 高原列車は
 ラララララ 行くよ
(「高原列車は行く」詞:丘灯至夫、曲:古関裕而、歌:岡本敦郎、昭和29年)

いきなり連想ゲーム。
「豊、幹一、佳知、桃子、晃」の名前に共通した苗字は?

もう少しかんたんにすると、
「ナオミ、亮子、隼人、啓、トニー」

で、わかりますね。というかタイトルではじめからバレバレ? そりゃそうだな。

今回の“お題”は何の脈絡もなく「谷」
まぁ、強いていうなら「山」も「川」も「丘」もすでにやったから。

「谷」とは説明の必要もないでしょうけど、かんたんにいえば、山と山など高い地形の間にある窪みや低地。
そこには当然のごとく川が流れていて、集落が形成されていることも。

やがてそうした人の住む「谷」には名前がつけられたり。
東京でいえば「四谷」があり、「千駄ヶ谷」があり、「阿佐ヶ谷」があって「渋谷」もある。
ほかにも下谷、雑司ヶ谷、谷中、世田谷、雪谷などと各所に地名として残っています。
東京がどれだけ凸凹だったかということ。

長くなりそうなので「枕」はこのへんにして、さっそく「谷」の歌を。

「山」や「谷」の歌、ということになるとストレートにうたわれるのが自然讃歌。
たとえば、
♪箱根の山は天下の嶮 函谷関(かんこくかん)もものならず 萬丈(ばんじょう)の山千仞(せんじん)の谷………… 「箱根八里」(作詞:鳥居忱、作曲:瀧 廉太郎)

というのがありますが、あくまで人間が主人公の流行歌では、登山の歌か、そうした「谷」に住む人たち、あるいはかつてそこに住んでいた人間が彼の地を懐かしんで、つまり望郷の思いでうたうというケースが多くなります。

ところが、流行歌の発生した昭和初期から終戦までのおよそ20年あまり、「谷」が出てくる歌はおもいのほか多くありません。
それでもいくつか拾ってみると、昭和18年の「木曽の山唄」(田端義夫)の
♪木の間隠れの 谷間から 今日もせせらぎ さらさらと
以外は以下のとおり。

♪谷の朝霧 隈なく晴れて 「明日はあの山」(東海林太郎) 昭和9年
♪夏の谷間の 山ざくら 「北の国境線」(東海林太郎) 昭和11年
♪あの谷川に 昔ながらの 月が出る 「ふるさと恋し」(東海林太郎) 昭和13年
♪峰よ谷間よ 独り往く 「落葉街道」(東海林太郎) 昭和15年

と、なぜか東海林太郎ばかり。
おまけに東海林太郎は、昭和9年にアメリカ民謡の「谷間の灯」もカヴァーしていました。

その「谷間の灯」以外は、聴いたことのない歌ばかりで、YOU-TUBEにだってない。

しかたないので、とりあげるのは戦後の歌、ということに。

敗戦後いちはやくヒットした「谷」が出てくる歌はこれ。
♪遥か谷間より こだまはかえり来る 「山小舎の灯」近江俊郎

敗戦から2年後、山登りの歌。2年前は登山すらできなかったのですから、その解放感が歌詞から伝わってきます。

その2年後の昭和24年には“青春讃歌”の代表曲ともいうべき「青い山脈」が映画とともにヒット。
♪青い山脈 緑の谷へ 「青い山脈」藤山一郎・奈良光枝

昭和20年代はまさに“遅れてきた青春”を取り戻そうとばかり、戦闘機も軍艦もない流行歌の中で自然がうたわれ、そのなかに「谷」も欠かせないローケーションとして登場していきます。
♪あの山もこの谷も 故郷を 想い出させる 「ハバロフスク小唄」近江俊郎 24年

♪谷影にともる灯も レイホー レイホー 「アルプスの牧場」灰田勝彦 26年

♪谷の真清水 汲み合うて 「山のけむり」伊藤久男 27年

♪みどりの谷間に 山百合ゆれて 「高原列車は行く」岡本敦郎 29年

昭和30年代になると「花の都」の反動で故郷の良さを見直そうという「ふるさと歌謡」が盛り上がり、それは40年代になっても、地元に生活の基盤を置く人ばかりでなく、都会に出て生きる人たちの琴線にふれる歌として、支持されていきます。そしてそんななかに「谷」も。

♪ハッパの音が 明けりゃ谿間に せきたてる 「あゝダムの町」三浦洸一 31年

♪谷の瀬音が 心にしむか 「山の吊橋」春日八郎 34年

♪谷間の春は 花が咲いてる 「銀色の道」ダーク・ダックス 41年

♪緑の谷間 なだらかに 「ふるさと」五木ひろし 48年

♪小さな家が 谷間に見えて 「若草の髪かざり」チェリッシュ 48年

そして、昭和50年代。西暦でいえば1970年代後半から80年代、流行歌の主流はいまでいうところの「J-POP」に取って代わられていきますが、そこで「谷」はどのようにうたわれていったのか、いや、はたして生きのびることができたのか、事情に疎いわたしとしては知る由もありませんが。もはや出る幕がないのかもしれません。

ところで「人生山あり谷あり」といいますが、人生にあるという「山」と「谷」、どちらが苦労の時なんでしょうか。
ふつうに考えると、景気を示すグラフやバイオグラフでも「山」が好調時で「谷」が不調時で、人生でいえば当然「谷」が「冬の時代」ということに。

しかし、現実に登山をすると、これはあきらかに「山」に登る方がキツイ、苦しいということに。反対に平坦な谷を歩いた方が鼻歌が出るぐらい楽。

まぁ、「人生山あり谷あり」は登山にたとえていったわけじゃないんでしょうが。
でも、どんなに高みを極めている人でも、谷底を徘徊している人でも、死んでしまえば同じ。
みんな谷よりさらに深い「奈落」へと落ちていくのですから。


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街▼秋葉原 [a landscape]

秋葉原.jpg

仕事が一段落したので、神田佐久間町まで用足しに。

遅く家を出たので、用事が終わったのが午後2時近く、そのままメトロの日比谷線に乗って帰宅するには中途半端な時間。それに昼メシも食べてないし。

そうだ湯島へ出てラーメンでも食べて行こう、と思いたち、JRの高架下を通り、アキバのメインストリート中央通りへと。

秋葉原の電気街はほんとに久しぶり。
というか、若い頃はレコードを買うにつけ、オーディオ製品やその備品を買うにつけ出かけるところは秋葉原だった。

そのむかし、秋葉原はもうすこし大人の街だった。
それが若者それもティーネイジャーにシフトしていったのは、パソコンが普及したことによってだと思う。そのあとテレビゲームがあっという間に広がって。

中央通りをそぞろに歩いていると、すれ違うのは圧倒的に二十歳前後の若者。それも男。それも単独行動が多い。彼らはよくいわれる「アキバ系」。

古い人間には「アキバ系」の定義はわからないけど、その「様子」をみるとなんとなく理解できるような気がする。

仕事でよく渋谷のセンター街や池袋のサンシャイン通りを通るけど、そこで見る若者たちとは全然違う。まるで人種が別のよう。

センター街はカップルも含めて女の娘が多い。その女の娘を求めて男どもが集まる。その男どもを求めて女の娘どもがやってくる。
目的はナンパ。ならばめいっぱい今風のオシャレをしなくは。俺もアタシもと。

久しぶりに秋葉原の中央通りを歩いてみたかぎり、センター街でみかけるような流行のファッションを身にまとった男どもはいなかった。
坊主頭も髭も見なかった。ヒサロ焼けやピアス、タトゥーなんてとんでもない。
紙袋は持っていなかったけど、服装は年寄りのわたしでさえ「もうすこし何とかなんないかい」といいたくなるほど地味。

でもキミらは、ナンパ目的じゃないんだから、そんなにヘアスタイルや服装に気をつかうこともないか。そりゃそうだ。

もうひとつセンター街と秋葉原の若者で大きく違っていたのは、彼らの表情。
センター街でみかける若い男は全部ではないにしろ、目つき顔つきに余裕がないというのか、緊張感を漲らせている奴らがほとんど。なかにはあきらかに戦闘モードに入っている野郎もいたり。
肩でもふれようものなら「チョットマテヨ!」と呼びとめられそう。

何と闘っているのか。
ナンパがすなわち戦闘ゲームなのか。メスを争って死闘をくりかえす動物のように、センター街は戦場なのか(そなアホな)。

秋葉原のヤングマンはというと、すれ違うどの顔も笑みさえ浮かべていないものの、一様に穏やか。その顔はまるで「ボク、争いごとはキライです」といっているよう。
原発でいえば、推進派と反対派、……なんてそんな単純じゃなか。

まぁ、どちらも現代の若者の一面であることは間違いないのだけれど、かつて繁華街といえばほとんどセンター街のようなところばかりだった。
だから、いわゆる「アキバ系」の青年たちはコワくて近寄らなかった(今でもそうかも)ものだ。それが21世紀になって彼らが主流となる新都会が生まれた。これは画期的なこと。

どちらがいいわるいとはいわないが、とにかくオラオラ系(っていうのかな)中心ではない繁華街があり、そこで青春を満喫する青年がいるということはいいことなんじゃないでしょうか。

中央通りを歩いているあいだ、さすがに声をかけてはくれなかったけれど何人ものメイドさんをみかけたり。お決まりのAKBのヒット曲が大音響で流れていたり、そこは新秋葉原の雰囲気に満ち溢れておりました。

そして広小路から湯島へ向かい、かの有名なラーメン店へ。
2時をまわっていたので、さすがにと思っていたが3人ばかりが店の外に並んでいました。

それでもすぐに入店となり、カウンターで腹ごしらえ。
ひところは月に一、二度は来ていた店ですが、ここ半年あまり遠ざかっておりました。

店内の様子は同じですが、店員さんが変わってました。それにラーメンの器も。
味は変わっていなかったのでひと安心。

醤油ラーメンを食べ始めて気付いたのは、かすかに聞こえるBGM。有線でしょう。
以前はなかったと思うのですが。

そのBGMがなんと演歌。
残念ながら音量が小さすぎるのか、わたしの耳が遠くなったのか、はっきりとした歌詞は聴きとれません。しかし、都はるみの「涙の連絡船」もどきのメロディーが耳の穴にしみこんできます。

ラーメン店、それも人気でこれまた客は若者中心というのに演歌とは。
気取ったラーメン店といえばBGMはジャズなんだけど(飯田橋にはカントリーを流すラーメン店がある)、演歌とはどういう狙いなのでしょうか。

さいごに秋葉原にちなんだ音楽を。
というとAKB48となるんだろうけど、オッサンにはチトつらい。

すぐに思い浮かぶのは、
♪ぼくはいささか 秋葉原
という小林旭「恋の山手線」
でもこれは秋葉原の歌ではなく、山手線全駅を読みこんだ(西日暮里が抜けてる)歌なのでいささか苦しい。

というわけでYOU-TUBEの力を借りて広瀬香美「ビバ☆秋葉原」なるものをみつけました。
新しすぎて着いていけないというご同輩には、なつかしのこんな歌でどうでしょう。「ビバ☆秋葉原」に通ずるものがあるでしょ? ないか。

追記

しばらく書いていなかったブログを強迫観念にかられて書かなくてはと思いたったのが秋葉原を歩いているとき。
帰宅して夕食前に夕刊の記事が目をひいた。
あの「秋葉原殺傷事件」が起きたのがちょうど3年前の今日だったのです。
現場には花も供えられていたそうですが、まるで気付かなかった。
小さな偶然とはいえ、いささか驚きました。

しかし犯人はなぜ犯行場所にセンター街ではなく秋葉原を選んだのでしょうか。
ほんとうのところはわかりませんが、もしかしたらセンター街などコワくて足を踏み入れたことがなかったのかも。

ということは彼もまた「アキバ系」だったのかも。
となると、「仲間」を襲ったことに。だとすると被害者にとってはもちろんですが、犯人にとってもよけいに「悲劇的」に思えてきます。
まぁ、想像にすぎませんが。


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●下宿 [a landscape]

下宿.jpg 

♪可愛いあの娘に声かけられて
 頬を染めてたうぶな奴
 語り明かせば下宿屋の
 おばさん酒持ってやってくる
 ああゝ 恋よ良き友よ
 俺はいまでもこの街に住んで
 女房子供に手を焼きながらも
 生きている
(「我が良き友よ」詞・曲:吉田拓郎、歌:かまやつひろし、昭和49年)

友達ができるのは、小中学校ではほとんど地元の人間。
高校になるといくらか地域が広がり、東京ならば他区の人間と親しくなり、学校外でも行き来する仲になると、当然行動範囲も広がる。

これが大学や会社ともなるとさらに広がる。
とりわけ東京、大阪など大都会では、それこそ北は北海道、南は沖縄の人間と親しくなることもある。彼らとの交流の中でときとして小さなカルチャーショックがあったり。

大学に入りたての頃、真っ先に親しくなったのが山形の男。
あるとき、他の学友も含め4、5人で彼の所で酒をのもうということになった。
そのときの彼の誘い文句が、
「なら、俺の下宿でやろうか」

「下宿?」。
わたしの頭の中には賄い付きの部屋に間借りしている彼の姿が。てっきりアパート暮らしだと思っていたので意外だった。
他人の家ならあまり羽目も外せないな、と思いつつ行ってみると、なんのことはない普通のアパート。

そのときは「こいつ、アパートのことを下宿なんて言ってるぜ」
と思ったものですが、彼の言葉づかいは間違いではなく、「下宿」とは長期間提供された宿泊施設のことで、必ずしも賄い付きとは限らず、アパートもまた下宿なのだ。
わたしが知らなかっただけの話。

ムッシュかまやつがヒットさせた「我が良き友よ」に出てくる「下宿」は、おばさんが登場するように、わたしのイメージにあった賄い付きの間借りのこと。

カントリー、ロックと洋楽系のムッシュがセピア色の歌をうたうというミスマッチがおもしろかった。

つくったのはご存じ吉田拓郎で、「旅の宿」もそうだが、“いにしえの日本”に対する懐古趣味があったのか、あるいは“現代”へのアンチテーゼとして悦にいっていたのか。
というか、あの頃のフォークソングじたいが、その存在意義として反社会ならぬ“反現代”のようなフンイキをどこかに保持していたような気がします。

それにしても当時でも、戦後30年も経とうというのにバンカラとは。

たとえばわたしの中高校時代、すでにバンカラは死滅していました。
バンカラはいわゆる旧制中学の産物で、学制改革が行われた戦後の昭和22年に引導をわたされることに。

それからしばらくは“残党”もいたのでしょうが、男女共学が止めをさすことに。
腰に手拭ぶらさげて、下駄を鳴らすヤツなんかモテるわけないもの。

それでも、たとえば北杜夫の小説「どくとるマンボウ青春記」や鈴木清順の映画「けんかえれじい」(今ならフルヴァージョンのYOU-TUBEが見られますよ)で垣間見た♪嗚呼玉杯に花うけて の世界には少なからず憧れがあったものです。

吉田拓郎はわたしより5つほど年上(生誕の月日は同じなんですが。どうでもいいこと)ですが、おそらくバンカラ現役世代ではないはず。
しかし地方では昭和30年代半ばぐらいまで生息していた可能性もあるので、東京の人間よりはバンカラを身近に感じていたのかもしれませんが。

……これでは「我が良き友よ」一曲で終わってしまう。
軌道修正。

で、その「我が良き友よ」の「下宿」が前述したように「賄い付き間借り」なのに対し、「下宿」イコール「アパート」なのが「神田川」(南こうせつとかぐや姫)

♪三畳一間の 小さな下宿

これはおばさんのいる「貸間」ではありませんね。安アパートですね。

それにしても三畳とは。
そうなると、おそらく彼と彼女は同棲していたのではないんじゃないかな。二人で銭湯通いをしているけど、彼女が“通い妻”だったんでしょう。

前回出ましたが、「赤ちょうちん」ではアパートでしたが、この「神田川」では下宿。
作詞はどちらも喜多條忠。このことからも当時、同じ集合住宅にふたつの言い方があったことがわかります。

この「神田川」がつくられたのが昭和48年。「我が良き友よ」の1年前です。

それよりさらに1年古い「下宿」物語がまたまた登場、三上寛「五所川原の日々」

♪80円の平凡パンチ 買って下宿で読んだ

喫茶「カルネドール」、「ツルツネ書店」、レストラン「富士」……。懐かしい。

「下宿」していたのは高校生。
当時、地方で自宅から学校まで距離のある高校生の下宿はめずらしくなかった。で、そのほとんどは賄い付き。
切ない歌でした。とくに三上寛がうたうとリアルだよね。

最後に、さらに古い「下宿」ストーリーを。
♪暗い下宿の 四畳半 「あれから十年たったかな」(春日八郎)

昭和34年のヒット曲です。

春日八郎は福島県出身で、デビューは昭和27年の「赤いランプの終列車」。これがいきなりヒットするというラッキーボーイでしたが、年齢は28歳とこの世界では遅咲き。所属レコード会社(キング)と契約したのが24年で、その間の3年、レコーディングもできない低迷時代もあったとか。

しかし本物が一度ブレイクすると止まらない。
28年には「街の灯台」がヒット、そして翌29年は歌舞伎「与話情浮名横櫛」をモチーフにした「お富さん」が歌謡史上最大のヒットに(当時)。
キングレコードでは三橋美智也と二枚看板でその人気を競ったもの。

以後、
30年 「別れの一本杉」
31年 「別れの波止場」
32年 「あんときゃどしゃ降り」
33年 「別れの燈台」「居酒屋」
34年 「山の吊橋」「足摺岬」
36年 「長良川旅情」
38年 「長崎の女」

とコンスタントにヒット曲を連打。昭和30年代の歌謡曲黄金時代の一翼を担ったシンガーのひとりでした。

「あれから十年たったかな」は昭和34年、下積み時代を含めて歌手生活10年目の記念曲だったそうです。
いまやこの歌から半世紀以上。途方もない時間です。
「春日」でグーグル検索しても、オードリーのはるか下まで辿らないと出てこない。
「お富さん」を知る人もマイノリティ。あゝ「泣けた 泣けた」。

春日八郎が艱難辛苦に耐えた「下宿」。
これもまたアパートではなく、間借りだったような気がします。

昭和の20年代から30年代にかけては、学生に限らずサラリーマンでも間借りが多かった。今のように外食屋さんがふんだんにある時代ではなかったし、“男子厨房に入らず”の時代でしたから。

だから当時の小説や映画にはよくそんなサラリーマンが出てきました。
で、その下宿屋の娘さんと懇ろになるなんてストーリーがあったり。
場合によっちゃ娘さんじゃなくてそこの奥方だったり。

そんなストーリーで昭和40年代から50年代に花咲いたのが日活ロマンポルノは「未亡人下宿」シリーズ。愛染恭子さんとかね、エロエロおりました。
で、こちらの下宿では「賄い」はもちろん“デザート”までついてたって話。


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●アパート [a landscape]

アパート.jpg

♪二人暮らした アパートを
 一人一人で 出て行くの
 すんだ事なの 今はもう
 とてもきれいな 夢なのよ
 貴方でなくて できはしない
 すてきな夢を 持つことよ
 もうよしなさい 悪い癖
 爪をかむのは よくないわ
(「爪」詞・曲:平岡精二、歌:ペギー葉山、昭和34年)

4月も終わろうとしています。
学生、社会人の新人もひと息つけるゴールデンウィークも迫っています。
はじめて一人暮らしをはじめた若者も少なくないんじゃないでしょうか。
思い出すなぁ、わたしにもそんな時代が……。まっ、カビの生えたような話はどうでも。

ひと月経って、新しい環境にも慣れ、なんとか生活のリズムもでてきたり。

いまはワンルームマンションが主流なのでしょうか。フローリングのね。バス・トイレ付きはあたりまえ。エアコン・給湯器も必須。

ひと頃はマンションが主流だったけれど、いまでは「それももはや古い」といわんばかりにハイツだのコーポだのメゾンだのビラだのって訳のわからない言葉を綴ったプレートが掲げられています。

でも、そうした集合住宅に住む人でも、「どんなとこに住んでるの?」って聞かれると「うん、マンションなんだ」と答える。「ハイツだよ」、「コーポに住んでるんだ」なんていう奴はまずいない。
やっぱりマンションという言葉が定着しているようで。

わたしらの頃はアパート。一辺倒。
なんもなかった。畳敷きの4畳半か6畳。ややもすれば3畳だったり。
名称も「××アパート」なんてめったになくて、ほとんどは「××荘」。

現在でもアパートっていう言葉は残っているけど、あんまり見栄えのいい建物にはつかわない。念を押すように木造アパートなんていったり。
昭和30年代、40年代はほとんどがそうでした。よくてモルタル塗りの木造2階建て。
それでも、はじめてひとり暮らしをはじめた若者のウキウキ気分は、今と少しも違わなかったはず。多分。

そもそもアパートとは複数世帯の居住空間を仕切りによって分けた集合住宅をさすアパートメント・ハウスの和製語。

そのアパートが日本に登場したのは、明治43年(1910)だそうで、場所はいまの上野公園の傍、その名も「上野倶楽部」といったとか。
木造5階建てで、63世帯が入居可だったそうだが、どんな人たちが住人となったのか、そこまでは書いていなかった。

ただまだアパートという呼称はなかっただろうし、その後あちこちに普及していったということもなかったよう。
アパートがポツポツあらわれるのは関東大震災以後といいますから、大正末期から昭和にかけて。

有名なのは昭和2年につくられた本所と青山の同潤会アパート。
鉄筋造りでいまの感覚でいえば超高級マンション。
その後都会では木造もふくめたアパートがつくられていくのですが、やはり昭和も戦前はそれまでの借家、間借り、下宿といった賃貸スタイルが主流。
市民のライフスタイルをも変えてしまう、アパートが増えていくのは、終戦後の昭和20年代。

そして、30年代となると団地ブームとともにアパートが建築されていきます。その多くは木造で家賃も手ごろな庶民的アパート。
32年には9階建てでホテル並みの施設が整った「三田アパート」が話題に。そうしたアパートは「高級アパート」などと呼ばれたり。さすがに木造アパートを「低級アパート」とはいいませんでしたけど。

そんなアパートの普及を察知したかのように流行歌のなかにも「アパート」があらわれはじめます。(ようやく本題だ)

ちなみに戦前の歌謡曲の歌本をめくってみましたが、「アパート」の4文字をみつけることができたのは14年の「東京ブルース」だけ。

♪雨がふるふる アパートの 窓の娘よ なに想う
うたったのは淡谷のり子。さすがモガの本領発揮。
作詞は西條八十。さすがモボの面目躍如。

冒頭に歌詞をのせた「爪」のアパートはかつて恋人同士の愛の巣だった部屋。

「だった」と過去形であるように、流行歌の定番の別離の歌。

それもどうやら修羅場はなかったようで、合意のうえのお別れ。
女性の方が「夢をもつのよ」とか「子供じゃないんだから爪を噛むのはやめてね」と、別れ際にしては妙に余裕をかましています。

年上なのかもしれませんね。どことなく教養も滲んでいたり。
もしかしたら、女性の方から愛想尽かししたのかも。
一週間後に街でバッタリ会ったら、ほかの男と腕組んでたりして。そんなことないか。

作詞・作曲は平岡精二
青学出身で、ペギー葉山の先輩。ペギーの歌では「学生時代」も平岡の作品。
ほかに「爪」とは“兄妹ソング”でジャジーな「あいつ」(旗照夫)とか、ラシアンミュージック風な「君について行こう」(シャデラックス)なんていい歌もありました。

同じように愛の巣だった「アパート」がでてくる歌に「赤ちょうちん」(かぐや姫)が。

こちらも主人公は女性で、アパートでの同棲時代を回想しているという設定。
彼女にとって彼との別れはかなり痛手だったようですが、どうにか時が思い出にかえつつあるという感じ。それでも、二人で行った赤ちょうちんに彼があのときのままいるんじゃないかっていう、未練が少し残っていたり。

「爪」と比べてみると、「爪」が詞も曲も粋なシャンソン風なのに対して「赤ちょうちん」は純日本的弩演歌風ラブソング。いちおうジャンルはフォークなのですが。

日本のフォークと演歌はどこかで通低している。その中間にいたのが三上寛。なんて。
そういえば三上寛の「夢は夜ひらく」のなかにも、
♪四畳半のアパートで それでも毎日やるものは
と出てきます。

もうひとつ「愛の巣」としての「アパート」をうたったものが八代亜紀「花水仙」
こちらは、同じ別れでも、男が突然消えてしまった(多分)という設定。
女は健気に消えた男を待ち続ける。つまり彼女にとっては今でもアパートは愛の巣。
これは名実ともに演歌の世界。

例によって「定量超過」ぎみですので、とり急いで「アパート」がでてくる歌を。

“4畳半フォーク”といわれたように70年代前半のフォークでは「アパート」は必須アイテムだと思ったのですが、あたりまえすぎて歌詞にしなかったのか、あまり出てこない。
(かの「神田川」のように「下宿」といういい方もあるけど)←予告編
思いつくのは友部正人「長崎慕情」(演歌っぽいね)と「夢のカリフォルニア」(4畳半ではなく6畳だけど)、それになぎらけんいち「葛飾にバッタを見た」(柴又の傾いたヤツね)。

歌謡曲では、都会でアパートひとり暮らしの孤独のなかでも、故郷にいる弟を心配する姉をうたった「弟よ」(内藤やす子)

「アパート借りてふたりで暮らそうよ」と熱々カップル(いまどきいうか?)をうたった「よろしく哀愁」(郷ひろみ)

アパートひとり暮らしの健気なホステスに惚れてしまうというよくいる男をうたった「そんな夕子にほれました」(増位山大志郎)
「サライ」(加山雄三、谷村新司)にもチョロっと出てきますね。

そもそもアパートApart の意味は「別れて」とか「ばらばら」ってこと。
つまり愛し合った二人もアパート暮らしをしたときから別れは宿命になっていたのかも。

わたしの家の近所にも時代に取り残されたようなアパートが頑固に建っていますが、よくよく眺めてみると、男と女の数々の悲喜劇の残滓がしみついたモニュメントのように思えてくるから不思議です。


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喫茶店●ジュークボックス [a landscape]

喫茶店●ジュークボックス.jpg

The train is comin’ down the track
It’s bringin’ my baby back
She been gone so long
But now the train is bringing her home

Oh train hurry up, bring my baby back
Hallelujah, look, it’s comin’ on down the track
Train hurry up, bring my baby back
Hallelujah, look it’s comin’ on down the track
…………
([THE TRAIN] written by R.CORDELL, J.KATZ, J.KASENETZ, vocals by 1910 FRUITGUM COMPANY,1969)

「喫茶店」の最終回は個人的な体験を。

ところで喫茶店の初体験はというと、高校の時でした。「奥手だなぁ」って? ええ、まぁ女性と同じで……。

いやぁ、中学まではコーヒー牛乳は飲んだことがあっても、コーヒーなんか飲んだことなかったなぁ。
まして喫茶店に入るなんて不良のすることだと思っていたもんね。

それが高校へ入ると悪い友だちがおりまして(人のせいにしてる)、煙草を教えられーの、酒を教えられーの、麻雀を教えられーの、○○を教えられーのって…………。いまでいう高校デビューっていうんですか。ま、そんな15歳でした。

そんなわけで喫茶店も初体験ということに。

高校の最寄りの駅前にビルがありまして、その最上階が喫茶店になっていました。ワンフロアすべてという大きな喫茶店で、そこへ学生服のまま数人で陣取っていたのですから、いま考えると豪気なものです。
喫茶店に入ることが学校で禁止されていたのかどうか、記憶がないのですが。常識的に考えるとあの時代なら禁止だったのでしょう。校規は破るために存在するなんて……、そんな年頃でした。

で、何が楽しかったのかといえば、もちろん「ダベリ」でしょうね。どんなことを話したのかほとんど覚えていませんが。
コーヒーも苦いばかりで、砂糖を2杯も3杯も入れて、その旨さがわかるにはまだまだ修行が足りない未熟者でした。

とはいえ「ダベリ」だけを目的に、しょっちゅうそんな所へはいきません。好きな女の子が一緒ならともかく、野郎ばかりだったのですから。

実はたびたび行きたくなる「お楽しみ」があったのです、その喫茶店には。
それがジュークボックス

そこで好きなレコードをかけてそれをBGMに「ワイワイガヤガヤ」やるんです。

いろいろその頃流行っていた音楽をかけていたのでしょうけど、行くたびに何度もジュークボックスにコインを落としていました。いくらぐらいだったのでしょうか。コーヒーが100円ぐらいで、ジュークボックスは30円とか、いや3曲で100円とか、そんな感じじゃなかったかな。
それだって高校生にとっては結構な負担で、夜、ガソリンスタンドでアルバイトをはじめたのもその頃でした。

で、そのジュークボックスの話ですが、どんな曲をかけていたのかほとんど忘れてしまっていますが、鮮明に覚えている曲が2つあります。

1曲は当時日本で大ヒットした1910フルーツガム・カンパニー1910 FRUITGUM COMPANYの「トレイン」The Train 。

これはほんとに仲間みんなが好きでした。
たとえばわたしがコインを落とし、曲が流れ、やがて終了すると、友だちの誰かが席を立ってコインを落としてくる。するとまた「トレイン」が流れはじめる、といった具合に。

フルーツガム・カンパニーのヒット曲といえば「サイモン・セッズ」Simon Saids ですが、日本では「トレイン」のほうがはるかにヒットしたように記憶しています。

もう1曲は森進一「命かれても」。ドドドド演歌ですね。
森進一はデビュー間もない頃で、当時「港町ブルース」とか「花と蝶」なんかと一緒にこの「命かれても」も流行ってました。

そのきっかけが友だちのT。
彼は洋楽一辺倒で、大の演歌嫌い。
とにかく言うことやることがキザでイヤミな野郎。

そんな彼が年上の女性にふられたとかで、ふだんのおしゃべりはどこへやら、喫茶店でも意気消沈のたそがれ坊や。
はじめはポーズかな、なんて思っていましたが、そのうち涙がツーッと。

あまりふさぎこんでいるので、他の連中と相談して、何か励ましになるレコードをかけてやろうということになりました。そして、その選曲をなぜかわたしが引き受けることに。

そこで選んだのが森進一の「命かれても」。
もちろん彼の演歌嫌いを知ってのイタズラ。友だちがいのないヤツでしょ。

ところがジュークボックスから流れる演歌を聴いていた彼、今度は嗚咽しはじめたではありませんか。

ひとしきり泣いた後、彼がポツンと言った言葉。
「……森進一って、よく聴くといいなぁ」
だって。

そんな彼だから立ち直るのも早く、そのあと“おしゃべり野郎”復活。
しかし、彼女が別れ際に「アタシより、もっとあなたにふさわしい女性をみつけてね」と言ったとかどうとか。そこでまた思い出したのか泣きじゃくって。そんな話を延々続けられて……こっちはもう。

そしてその数カ月後、その彼はオートバイに乗っていて車と衝突し救急車で病院に運ばれたものの、3日で退院するという離れ業を演じることになるのですが。それはまた別の機会に。

とくべつ仲が良かったわけでもないのですが、“サテン友だち”のなかではなぜか彼のことをよく覚えているのです。不思議なことに。
ラジオの公開番組に狂ったり、突然「なぜ鳩が平和の象徴なのか」なんて講釈をたれはじめたり。とにかくキザでしたが、いま思うとオモロイ男でした。

その後、われわれは無事高校を卒業し、しばらくして駅前が再開発されそのビルもさらに高いビルへと建て替えられ、その喫茶店も消滅してしまいました。

それから世間からもわたしからも忘れられた存在になっていきましたね、ジュークボックスは。レコードが消え、カセットテープが消え、CDまでが消え去ろうという昨今、もはや粗大ゴミ、いや骨董品的存在となりにけりでしょうか。

それでも数年前、飛び込みで入った有楽町のスナックで久々の対面をいたしました、ジュークボックス嬢と。レトロを演出するインテリアとしてではなく、実際に機能しているのがウレシかった。
興味津津の知り合いがサザンをかけていましたっけ。
もちろん「トレイン」も「命かれても」も入ってはいませんでしたが。

では最後にわが「ハイスクール・グラフティ」を。
はっきり覚えているわけではありませんが、多分ジュークボックスで聴いたであろうその頃巷に流れていて好きだったポップスのいくつかです。
並べてみるとあらためてわかるなぁ、ミーハーだったなって。

●プラウド・メアリー(CCR)
友達で黒人とのハーフの“まっちゃん”に彼の女神・ティナ・ターナーを“紹介”されて「こっちの方が断然イカしてらぁ」と思ったのは社会人になってから。

●くよくよするなよ(P.P.M.)
ギターの上手な友達にスリーフィンガーで教えてもらいました。ですから「ドント・シンク・トゥワイス」といえばディランではなく、こちらの方。

●天使のらくがき(ダニエル・ビダル)
夢見るシャンソン人形みたいに可愛かったなぁダニエル。フランスじゃ女でもダニエルがあるんだものね。この歌の元歌がロシアの歌だそうです。アレンジがいいんだ、また。

●雨に消えた初恋(カウシルズ)
これもよく聴いたなぁ。TVの「ビートポップス」でしたっけ、司会の大橋巨泉が「牛も知ってるカウシルズ」なんて言ってね。雨の歌といえば「悲しき雨音」と双璧。

●ドッグ・オブ・ザ・ベイ(オーティス・レディング)
ドゥワップの良さはベルベッツ「愛しのラナ」プラターズの一連のヒット曲で知っていましたが、R&Bのシブさを知ったのはこの曲。

●ルビー・チューズデイ(ローリング・ストーンズ)
高校時代のストーンズはこの曲と「テル・ミー」「ひとりぼっちの世界」この3曲に尽きます。

●あなただけを(ジェファーソン・エアプレイン)
これは当時のガールフレンドが大好きだった歌。入り方も変わっていてちょっと不思議な歌でした。こういうのをサイケって言ってたんですよね。

●ストップ・ザ・ミュージック(レーン&ザ・リー・キングス)
もしかしたら流行ったのは中学のときだったかも。ダンパでよく下手なバンドが演ってました。日本のカヴァはどれもダサかったけど斎藤チヤ子は歌謡曲にしてるので逆にGOOD。大甘。

●ハンキー・パンキー(トミー・ジェームズ&ションデルズ)
なぜかはじめて聴いたのはお祭りの日の神社の特設舞台で。素人バンドでしたが結構うまかった。おまけに女の娘のバックダンサーが2人いたのがミスマッチで印象的でした。

●サイレンス・イズ・ゴールデン(トレメローズ)
これは高校時代のベストソング。ですからこの歌を聴くと高校生活のいろいろなシーンがよみがえってきます。あれからずいぶん時間が経ってしまいました。やだやだ。

●マサチューセッツ(ビージーズ)
この歌を聴くとなぜかスコット・マッケンジー「花のサンフランシスコ」が思い出されます。そして数珠つなぎで当然の如くママス&パパス「夢のカリフォルニア」も。涙。


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喫茶店●うたごえ [a landscape]

うたごえ喫茶.jpg

♪いつかある日 山で死んだら
 旧い山の友よ 伝えてくれ
 母親には 安らかだったと
 男らしく死んだと 父親には
 
伝えてくれ いとしい妻に
 俺が帰らなくても 生きて行けと
 
息子たちに 俺の踏みあとが
 ふるさとの岩山に 残っていると
(「いつかある日」詞:深田久弥、曲:西前四郎)

いやぁ、前回は予定外といいますか、脱線してしまいました。
昭和30年代の喫茶店といえば「深夜」ではなく、やっぱり「うたごえ」ですね。

「うたごえ喫茶」というのは、かんたんにいうとコーラスを楽しむ喫茶店ということ。
店のなかには演奏者と歌唱指導をするリーダーがいる。
「出発の歌」上條恒彦「青葉城恋唄」さとう宗幸がそうしたリーダーだったのはよく知られた話。

演奏は大きな店ならちょっとしたバンドが入り、ちいさな所はアコーディオンだけだったり。
客はそこでコーヒーやアルコール(安いハイボールが人気だったそう)を頼み、特製の歌集(1部10円)を買い、その頁をめくりながらうたうわけです。

コーヒー、ハイボールがともに50円(昭和32年)というから、当時の物価から考えて特別高いということもない。ただ、昭和34、5年の最盛期のころは大混雑で入れ替え制をとった店もあったとか。

そもそも「うたごえ喫茶」の第1号は昭和31年にできた新宿の「灯(ともしび)」だといわれています。ただ昭和20年代後半に、池袋の「どん底」で左翼系の芸術家や学生の客がうたいはじめたという話もあり、こちらは「うたごえ酒場」と呼ばれています。

「灯」はもともとロシア民謡のレコードを流すロシア料理店で、「どん底」のスタイルをヒントに“うたえる喫茶店”をスタートさせたのかもしれません。

「灯」にせよ「どん底」にせよ“うたえる飲食店”は突如発生したわけではありません。

戦後焼け跡の臭気いまださめやらぬ昭和23年、合法化された日本共産党はその文化芸術活動の一環として青共中央合唱団を組織します
これが「うたごえ運動」のスタートでした。
その実質的指導者が声楽家で戦前からの筋金入りの活動家(プロレタリア音楽同盟委員長)の関鑑子(あきこ)。

やがてその功績を讃えられ、ソビエト連邦から「レーニン平和賞」を受賞する彼女については、つづけると長くなりますし、いずれふれることもあるでしょうから今回はふれずにおきます。

とにかく関鑑子主導の「うたごえ運動」は職場へ、学校へと浸透していきます。
そこには党による共産主義の啓蒙という最大の趣旨があったのでしょうが、そうした思想を超えて「うたごえ運動」は広がっていったように思えます。

敗戦によってすべて奪われ、満腹感を得られないという肉体的な辛さと同時に、先が見えない、明日どうなるかわからないという精神的な不安をいだいていた人々は、せめてうたいたいという思いがあったんじゃないでしょうか。

カラオケなんてない時代、歌といえば学校の音楽の時間にしかうたったことがない、という人がほとんどだったのではないでしょうか。それが、職場にコーラス部ができて指導者のもと昼休みや仕事のあと、みんなでうたえる。参加した人はその楽しさ充実感を胸いっぱいに味わったはずです。

共産党の拡大には限界がありましたが、コーラスの普及は学校、職場、地域、同好サークルと現在に続いています。ま、それはどうでも。

つまり、そうした「うたごえ運動」という地盤の上に「うたごえ喫茶」が発生したということです。

今と比べてはるかに楽しみが少なかった時代、若者全部とはいいませんが、その一部が「うたごえ喫茶」に熱狂したことは十分想像できます。

ある雑誌には当時「うたごえ喫茶」に通いつめていた若者の話として次のようなことが書かれていました。
「仕事はだいたい夜の八時、九時まで残業。それから行っても間に合わない。だから週に一日だけ五時であがらせてもらい、夕食も食べずに電車に飛び乗って新宿へ行くんです。毎週それが待ち遠しいくらい楽しみでした」

従業員5、6人の零細企業に勤める彼の職場にはコーラス部もない。それでもいつか行った「うたごえ喫茶」の魅力にとりつかれてしまった若者。やっぱり彼もうたうことに飢えていたんでしょうね。これも青春です。

そんな「うたごえ喫茶」が出てくる小説に曾野綾子「ぜったい多数」(昭和40年刊)があります。
雑誌に連載された長編で、昭和39年の東京オリンピックを間近に控えた東京が舞台。

大学を卒業して就活に失敗したヒロインが偶然のいたずらで歌声喫茶につとめることに。そしてそこの仲間や、大学時代の旧友との交流のなかで自分のすすむ道をみつけ、やがてひとりで旅立っていくというストーリー。
恋愛はもちろん、喧嘩、妊娠、別れ、友人の死と青春ドラマにありがちな事件に加えて、時代を反映するような労働争議まであったりして。

同年松竹で映画化もされました。監督は中村登。ヒロインは桑野みゆき。ほかに北村和夫、田村正和、伊藤孝雄などの出演とのこと。映画は観ていませんので。

まぁ小説のほうは雑誌で毎月少しずつ読む分にはいいかもしれませんが、一挙に読むにはいささか疲れるというかダレる小説ではあります。

しかし昭和の“風俗ウォッチャー”(ウソだろ)としては、昭和30年代末の、そして歌声喫茶の雰囲気が伝わってきてGOODでした。それはともかく。

そんな「うたごえ喫茶」も昭和40年代に入ると退潮の兆しが見えはじめます。
その原因はいろいろあるでしょうが、テレビの普及も大きかった。
テレビは映画をはじめそれまでの“娯楽”を根こそぎなぎ倒して、娯楽の王様に成り上がったモンスターです。

先ほどの青年の場合も、工場の食堂にテレビが置かれるようになって、仕事のあと仲間と歌番組やクイズ番組、あるいは野球のナイターを見ることが楽しくなったのでしょう。それでもはや「うたごえ喫茶」に通わなくなって……、なんてことも想像できます。

では最後に、「うたごえ喫茶」で実際にどんな歌がうたわれていたのか。
「うたごえ運動」の流れで革命歌、労働歌、平和の歌があり、童謡、抒情歌、外国の民謡があり、民謡や流行歌と幅広く。そしてなぜか山の歌も。いずれの歌も健全、健康というのが条件のようです。

それではということで、前述の小説「ぜったい多数」のなかでうたわれていた、あるいは会話のなかに出てきた歌のいくつか(YOU-TUBEにあるもの)をピックアップしてみました。

かつてかの場所に身を置いた方はその想い出に、わたしを含め未体験の人たちはその雰囲気にひたってください。
なお、「うたごえ喫茶」の現在は、常設の場所はききませんが、週に1日あるいは不定期で開催している店はあるようです。以前コメントをくれた「カチューシャ」さんもそのひとつです。

「いつかある日」
山岳の名著「日本百名山」の著者である登山家の深田久弥がフランスの登山家ロジェ・デュブラの原詩を訳したもの。
作曲の西前四郎も登山家で、かの植村直己が行方不明となったアラスカ・マッキンリーの初登頂に参加しています。

「手のひらを太陽に」
今や子どもの歌としてうたわれているエヴァグリーンソング。作曲はいずみたく、作詞は「アンパンマン」のやなせたかし

「月の沙漠」
明治44年作の童謡。哀調を帯びた旋律とエキゾチックな歌詞は大人にも人気。カヴァー?する歌手も男女を問わず多く、森繁節がなかなかいい。

「ロシア民謡」
“うたごえ喫茶”の定番。共産党主導の“うたごえ運動”の影響とはいえ、思想を離れ当時の日本人の心情にフィット。いまはどうなの?

「山男の歌」
ダークダックスで流行しました。「いつかある日」もそうですが、「うたごえ喫茶」には山の歌が多い。アメリカ民謡に詞をつけた「雪山讃歌」もよく聴きました。原曲は軍歌だそうです。

「原爆を許すまじ」
もちろん広島・長崎に投下された原爆反対のうた。作曲の木下航二は夜間中学の先生で「しあわせの歌」(知らないか…)も作っている。初めて聴いたのはP・シーガーで。

「北上夜曲」
“うたごえ喫茶”発信のヒット曲のひとつ。当時は作者不詳でしたが、のちに戦前に東北の学生二人によって作られた歌と判明。歌謡曲としてもヒット

「幸せなら手をたたこう」
場を盛り上げるには格好の歌。「足鳴らそう」「肩叩こう」など歌詞を替えて延々と。昭和39年、坂本九の歌でヒット。元はスペイン民謡だとか。

「こんにちは赤ちゃん」
赤ちゃん讃歌。信じられないが童謡ではない。それも合唱とは……。そんな時代でした。なんたってレコード大賞受賞曲なのですから。六八コンビ梓みちよの歌唱。

「川は流れる」
これは「ぜったい多数」には出てきませんが、よく歌われたという歌。昭和36年のヒット曲。うたったのはウチナーシンガーの魁、仲宗根美樹。泣かせる詞はキングのヒットメーカー横井弘


 


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喫茶店●深夜 [a landscape]

喫茶店●深夜.jpg

♪夏の陽を 浴びて
 潮風に揺れる 花々よ
 草蔭に結び 熟れてゆく 赤い実よ
 夢は遠く 白い帆に乗せて
 消えてゆく 消えてゆく
 水の 彼方に
(「狂った果実」詞:石原慎太郎、曲:佐藤勝、歌:石原裕次郎、昭和31年)

喫茶店も商売。お客さんを呼ぶためにはいろいろなことを考えます。
つまりお茶を提供するだけではなく、プラスαの付加価値を考えるのです。

大昔のカフェの時代からオーソドックスにあったのがレコードつまりクラシックや流行歌を流すこと。いまならだれでもいつでもどこでも音楽が聴けるので、どうということはないですが、蓄音器だってめずらしい時代は十分それで商売が成り立ったということ。

戦後、心身ともに国家権力の束縛から解放された庶民は嗜好も多様になり、そうした人々を取り込もうという商売も様々なアイデアで対応します。喫茶店だって。

では昭和30年に爆発的に開店した喫茶店といえば。
タイトルでバレバレ。そのとおり「深夜喫茶」です。

ではその「深夜喫茶」とは何ぞや。
その名のとおり、深夜まであるいは明け方まで営業する喫茶店のこと。
しかしこれが大変な社会問題に。

まず青少年とりわけ未成年が入りびたるということ。
これだけでも問題ですが、それに加えて店内で堂々といかがわしい(?)行為が行われていたこと。つまり喫茶店がラブホテル化(当時は“温泉マーク”とか“連れ込み(旅館)”なんていってました)してしまったこと。

ボックス席を背凭れの高いペア席に改造し、周囲から遮断するようにカーテンを引いての個室化とやりたいほうだい。

東京ではさすがに翌年都条例で十八歳未満の出入りを禁止しますが、さして効果なし。
東京オリンピックを間近に控えた39年の夏、国も「こんな光景を外国人には見せられない。国辱ものだ」とばかり、営業時間を午後11時までとする風営法を成立させ、ようやく歯止めがかかることに。

しかし、昭和40年代に入っても、カーテンは消えたものの背凭れの高いシートはそのままで“同伴喫茶”なんて名称で恋人たちの“逢瀬の場”は存在しつづけました。彼らがもっと豊かになってラブホに行けるようになるまで。

また、恋人のいない男をターゲットにしたのが、古くは「美人喫茶」、40年代に入ると「水着喫茶」さらには「ノーパン喫茶」と、「どこまで行ったら気がすむんや」とツッコミたくなるほど、とどまるところをしりませんでした。

いまは「メイド喫茶」でしょうか。ずいぶん大人しくなりました、若者が。
それでも「マンガ喫茶」や「インターネット・カフェ」よりも人とのダイレクト・コミュニケーションがとれるだけましですか。

とにかく、昭和30年という年は若者のエネルギーが大爆発を起こした年なのですね。
翌31年に出版された石原慎太郎のベストセラー小説「太陽の季節」はまさに、そうした社会、若者の動きを反映していました。

しばらく前にふれたアメリカ映画「暴力教室」の公開も30年でしたし。
そして愚連隊が社会問題になっていくのもこの頃で、全学連が政治の季節に突入していくのもまたそうでした。
日本史上かつてないほど若者たちがエネルギーを爆発させた“反抗の時代”が昭和30年からはじまっていたのです。

戦前は教育、社会道徳によって若者はギチギチに拘束されていました。したがってヤクザなどのアウトローなんかになるのは限られたごく一部の人間。あとは不平不満を抱えつつ社会の一員に。

それが戦後10年、いってみればようやく軍国主義、帝国主義の魔力から解放されたのですね。学校でも世間でも若者たちがルールを道徳を破るのに躊躇しなくなったのです。それどころか、そうすることが若さの特権だとばかり。

現在そうした彼らのエネルギーはどのように消費されているのでしょうか。
まさかゲームやケータイで使い尽くされていたりして。
それはそれでいいじゃないかって? そりゃまぁ……。

では「深夜喫茶」全盛だった昭和30、31年に巷に流れていた歌のいくつかを。
エラそうなこといってきましたが、その頃はまだヨチヨチ歩きの洟垂れ小僧だったんですけど。

狂った果実 石原裕次郎
素敵なランデブー 美空ひばり
哀愁列車 三橋美智也
この世の花 島倉千代子
別れの一本杉 春日八郎
東京アンナ 大津美子
東京の人 三浦洸一
ケ・セラ・セラ ペギー葉山
チャチャチャは素晴らしい 雪村いづみ
哀愁の街に霧が降る 山田真二


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喫茶店●想い出 [a landscape]

喫茶店想い出.jpg
♪それは去年のことだった 星のきれいな宵だった
 二人で歩いた思い出の小径だよ
 なつかしいあの 過ぎた日のことが浮かぶよ
 この道を歩くとき なにかしら悩ましくなる
 春先の宵だったが

 小さな喫茶店に  入ったときも二人は
  お茶とお菓子を前にして  ひとこともしゃべらぬ
  そばでラジオが甘い歌を やさしく歌ってたが
  二人はただ黙って 向き合っていたっけね
(「小さな喫茶店」訳詞:瀬沼喜久雄、作曲:フレッド・レイモンド、歌:中野忠晴、昭和10年)

「学生街の喫茶店」は、卒業して社会人になった男が学生時代によく通った喫茶店を訪れ、サークルかなにかの仲間だった彼女を偲ぶという歌です。
「あの頃は恋だとは知らないで」なんてずいぶん鈍感な男ですけど。それはともかく。

つまり、この歌は遠い近いはともかく、過去の想い出のロケーションとして「喫茶店」がうたわれているわけです。

もちろん「まちぶせ」「ハロー・グッバイ」のようにほぼ現在進行形で「喫茶店」が出てくる歌もありますが、ノスタルジーが重要なコンセプトになっている流行歌では、ロケーションはしばしば「想い出の場所」として登場してきます。
そしてその「想い出」とは、ほとんど恋あるいは異性がらみのメモリー。

上に詞をのせた「小さな喫茶店」はまさにそうした歌。

戦前の歌。当時は大変なタンゴブームで、この曲も「碧空」「夜のタンゴ」と同じドイツ発、つまりコンチネンタル・タンゴで、中野忠晴がうたう前年にマレーク・ウェーバー楽団Marek Weber Orchestraの「カフェーの魅惑」In einer kleinen Konditorei として発売されています。

歌詞もあって、瀬沼喜久雄の訳詞は原詞をほぼ忠実にたどっているそうです。
その訳詞の内容からすると、今も仲睦まじいカップルが、なれ染めの頃を回想しているという感じでしょうか。

瀬沼は本名を青木爽(ただし)といって「乾杯の歌」「青空をひと握り」などオペラの訳詞家で、タンゴではほかにこの曲のB面で淡谷のり子がうたった「ドンニャ・マリキータ」にも詞をつけています。

中野忠晴は愛媛県出身、戦前屈指のジャズシンガーで、武蔵野音楽学校を出て、山田耕筰の肝いりでコロムビアへ入ったというエリート。
初のヒットはこの前年の「山の人気者」

中野のもうひとつの功績はジャズ・コーラスを育てたことで、本場のミルス・ブラザーズThe Mills Brothersにならってコロムビア・リズム・ボーイズを結成。
その垢ぬけたコーラスをバックに「タイガー・ラグ」をはじめ数々のジャズソングをレコーディングしてます。

そのなかの「ミルク色だよ」はアメリカのトラディショナルソングを元につくられた「ラヴレス・ラヴ」Loveless Love のカヴァーで、なにやらいつかトラブルになったあの曲に似ています。

またディック・ミネで知られる「ダイナ」も“競作”していて、自ら詞をつけています。
♪ダイナ歌ってちょうダイナ 踊ってちょうダイナ
という有名な韻を踏んだ詞は彼のアイデア。

その後服部良一と組んでオリジナルの「バンジョーで歌えば」、「チャイナ・タンゴ」、「山寺の和尚さん」などをヒット。
当時の歌謡曲を「ダッセェ」と言ったかどうかは知りませんが、とにかくそんなモボ、モガたちを夢中にさせた歌手でした。

戦後は喉をいためて作曲家に転向。
これがポップスかと思いきや、純然たる歌謡曲。今でいえば演歌なんですから驚き。

三橋美智也の大ブレイクにひと役かったひとりで、
「達者でナ」、「あゝ新撰組」、「おさらば東京」、「赤い夕陽の故郷」などを作曲しています。

三橋美智也といいますからキングレコードの専属で、ほかでは
「おーい、中村くん」若原一郎
「男の舞台」春日八郎
「幸せを掴んじゃおう」金田星雄、小宮恵子

なども。

当時彼は、
「ほんとうは、ジャズやシャンソンをつくりたいんだけど、それじゃ食べていけないからね。でもやっているうちに歌謡曲もおもしろくなってきましたよ」
と雑誌で話しています。

しかし、彼のつくる曲はほとんどがメジャーチューンで、戦前戦後主流だったマイナー調の古賀メロディーとは一線を画していた感があります。
「赤い夕陽の故郷」などは、まぁアレンジの妙もありますがアメリカ民謡というか、カントリーの匂いがしますからね。

そして、その作曲した歌謡曲のなかに「喫茶店」を舞台にしたヒット曲がひとつ。
昭和32年、松島詩子によってうたわれた「喫茶店の片隅で」

♪アカシヤ並木の たそがれは 淡い灯がつく 喫茶店

ではじまる美しいメロディーはタンゴ調。「小さな喫茶店」をイメージしたのでしょうか。

♪いつもあなたと 逢った日の 小さな赤い 椅子ふたつ

でも、こちらは今は別れてしまった二人。
まだ彼への想いが残っている彼女が、想い出の喫茶店へやって来たという設定。
矢野亮の詞もノスタルジックですが、メロディーがグッと胸にきます。

そのほかでは、戦後間もない昭和22年に楠木繁夫がうたった「想い出の喫茶店」も、
♪君と僕との喫茶店 ひとりさみしく訪れて 過ぎた昔をなつかしむ
と男女が逆転していますが、やはり成就しなかった恋の想い出がうたわれています。

日本の流行歌ではこうした“失恋の回想”が主流のようです。
「今も幸せだけど、あの頃も幸せだったよね」なんて“想い出ストーリー”は、おもしろくもなんともないんですかね。

♪僕の街でもう一度だけ 熱いコーヒー飲みませんか
という「私鉄沿線」野口五郎(昭和50年)
もそうしたイメージの歌でした。

そういえば、その「私鉄沿線」が巷に流れていた頃、わたしにも“想い出の喫茶店”がありました。

以前勤めていた会社で好きな娘がいまして、辞めてからその彼女を御茶ノ水のとある喫茶店に呼び出したと思いなせえ。
もちろんその喫茶店はわたしにとって、決死の告白の場所。

で、逢うなり彼女、やおら大きなバッグから本のようなものを数冊。それがなんとアルバム。
聞けば彼女、お姉さんとヨーロッパ旅行をしてきて数日前に帰って来たのだとか。
「へえ」と興味のあるような返事をしたのが運のつき。それから延々2時間にわたって写真一枚一枚の説明ですよ、先輩。

まぁ撮りに撮ったり100枚、いや200枚、いや300枚はあったでしょうか。ローマで男に声をかけられたとか、ドイツのメルヘン街道がどうのアウトバーンがどうのって、それどころじゃありませんよ。
こちとらどうやって告白しようかそのことで頭がいっぱいだったんですから。

結局、「あ、そろそろ行かなくちゃ」の彼女のひとことでオシマイ。
せめて「で、きょうなにか話でもあったの?」って聞いてくれればまだしも、「じゃね、またね」だって。

彼女が帰って残されたわたしはしばし呆然。
そのあと飲んだ、手つかずで冷めたコーヒーのなんとも味気なかったこと。
ほんと、苦い想い出でした。

もう少し「喫茶店めぐり」をしてみます。


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喫茶店●学生街 [a landscape]

喫茶店●学生街.jpg
♪君とよく この店に 来たものさ
 お茶を飲み わけもなく 話したね
 学生で 賑やかな この店の
 片隅で 聴いていた ボブディラン

 あのときの歌は 聞こえない
 人の姿も 変わったよう
 時は流れた
(「学生街の喫茶店」詞:山上路夫、曲:すぎやまこういち、歌:ガロ 昭和47年)

「ジャズ喫茶」が出てくる歌でもうひとつ思い出すのが森田童子「ぼくたちの失敗」(昭和51年)。
♪地下のジャズ喫茶 変われない僕たちがいた

独特の森田童子の世界。
ここに出てくる「ジャズ喫茶」はもちろん前回のようなロカビリアンたちのライブハウスではありません。
正真正銘?のジャズレコードをかけてくれる喫茶店のことです。

ジャズではありませんが、森田童子にはもうひとつ喫茶店が出てくる歌があます。
♪夏休みのキャンパス通り コーヒーショップのウインドウの向こう 「さよならぼくのともだち」(昭和50年)

この歌も「ぼくたちの失敗」同様友人との別れがうたわれています。
2つの歌に共通していることは、どちらも「ぼく」に対する「きみ」が「やさしかった」ということ。そのやさしい「きみ」と決別しなくてはならなかった「ぼく」とは何ものだったのか。
おそらく「ぼく」とは若さゆえの優柔、臆病、頑な、傲慢といった未熟な精神を象徴していたのではないでしょうか。

森田童子の歌には恋愛であれ学生運動であれ、青春の挫折が多くうたわれています。
これもまた形は違えど「夏だ海だサーフィンだ」や「冬だ雪だスノボーだ」と同じ青春の歌ではあるのです。

いってみれば多くの人にあったであろう青春の影の部分であり、そういう歌にこだわって歌い続けたからこそ、森田童子というシンガーが特異な存在として、のちのちの時代まで光彩を放ち続けているのではないでしょうか。

話が軌道を逸脱しそうな予兆なので(いつもだ)、強制終了。

気をとりなおして、「さよならぼくのともだち」に出てくる喫茶店、つまりコーヒーショップはキャンパス通りにあります。

そうでした学生の街にも喫茶店は欠かせないロケーションでした。いまはどうなんでしょうか。

昭和40年代、50年代はゲーセンもなければケータイもインターネットもなかった。授業の合間や休講になったときなどヒマをつぶしに行く場所は喫茶店。
珈琲や紅茶がおいしい、あるいはゆっくり本を読むためにという場合もなくはなかったでしょうが、だいたいは友だちに会うことが目的。

行きつけの喫茶店に行けば誰かしらはいたもので、そこで情報交換したり、最近観た映画の話をしたり、恋愛話をしたり。

授業を受けるよりも、友だちとそんなとるに足らない会話をすることを目的に学校へ来ていたような(わたしの場合は)。

そう考えると当時の喫茶店は、下宿(アパート)、教室とともに学生生活にとって欠かせない場所であったことがわかります。

したがって学生が主人公の歌にはしばしば喫茶店が出てくることに。

なかでもいちばんポピュラーだと思われるのが、上に歌詞をのせた「学生街の喫茶店」(ガロ)。ストレートなタイトルですね。

リアルタイムで聴いていたときは、メロディーがいささか甘すぎると思っていましたが、歳をとったいまはほどよい甘さ加減に。そんなことはどうでも。
昭和40年代、50年代に学生だった方々は、この歌が流れてくると、当時の思い出の1ページや2ページぐらいは頭に浮かぶのではないでしょうか。なかには本一冊分浮かぶ人もいたりして。

作曲のすぎやまこういち、「モナリザの微笑み」「白夜の騎士」「花の首飾り」「君だけに愛を」などタイガースの一連の曲や、「恋のフーガ」「ローマの雨」などザ・ピーナッツの曲を作っています。またベンチャーズもカヴァーした「涙のギター」(寺内タケシとブルージーンズ)も名曲でした。
ガロでもほかに「学生街の喫茶店」の補足的なストーリー「君の誕生日」なんて小ヒット曲があります。

作詞の山上路夫もGSからアイドル歌謡、ニューミュージックまで幅広くかつ多くのヒット曲を書いていますが、フェヴァリットが多すぎて長くなりそうなのでいずれまた(あてにならない)ということで。
でも当時けっこう好きだった川口真とのコンビのこの曲だけでも。

急いで他の“学生街の喫茶店”の歌を。

ガロの「学生街の喫茶店」の翌年にリリースされたのが
♪古くから学生の街だった 数々の青春を知っていた
というあべ静江「コーヒーショップで」
これは、フォークギターを弾くという“わけありそうな”マスターが出てくるストーリーで、作詞は阿久悠、曲は三木たかし、どちらも故人となってしまいました。

「城跡」とい言葉が出てくるので地方の「学生街」ということなのでしょう。
城があれば城下町、寺社があれば門前町が形成されたように、学校があれば学生街ができるのは自然のなりゆき。

ほかでは、
♪夕暮の街角 のぞいた喫茶店
という「まちぶせ」(石川ひとみ他)も、とくにことわっていませんが、学生街のフンイキがあります。ユーミンがうたったほうがよりキャンパスっぽくなるかも。

また、
♪紅茶のおいしい喫茶店 白いお皿にグッバイ バイ バイ
という柏原芳恵「ハロー・グッバイ」アグネス・チャンなら「ハロー・グッドバイ」)も学生街っぽいですが、こちらはもしかしたら大学の街ではなく高校の街かな。

前述しましたが、わたしにも当時よく足を運んだ学生街の喫茶店が何軒かありました。
なかでもよく覚えているのが「H」という店。
地下にあって(こういう異空間が良かったんですね)30代の若い夫婦がやっている店で「ナポリタン」が美味しかった。内装やカウンター、椅子の感じなんかもよく覚えています。それとそこでよくダベっていた友だちの顔も。

大学を“早期卒業”して数年後、当時の友だちと会うためその学生街へ。
わずかの時間だと思っていたところが、学生街はたいへんな様変わり、当時なかった舗道や洒落た街路灯ができてたりして。
それどころか、友人と会って行ってみようということになった「H」までもが別の店に変わっていました。

ガロの「学生街の喫茶店」では
♪人の姿も変わったよ
とうたっておりますが、もはや「街の姿も、店の姿も変わったよ」なんて具合で、ちょっとした喪失感があったのを覚えています。


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喫茶店●ジャズ② [a landscape]

ジャズ喫茶2.jpg
♪ABC XYZ 若い二人はジャズ喫茶
 ひとりの 俺の行く先は
 信号灯が 知ってるはずさ
 恋は苦手の 淋しがりやだ
 いかすじゃないか 西銀座駅前
(「西銀座駅前」詞:佐伯孝夫、曲:吉田正、歌:フランク永井、昭和33年)

前回のジャズ喫茶では「素敵なあなた」だけで終わってしまいましたが、今回は日本の流行歌の話を少々。

その前に、少し前の話の補足をしておきますと、そもそも「ジャズ喫茶」とはふつうジャズのレコード(いまは他の音源を使っているところもあるかも)を流している喫茶店のことで、おそらく日本独自のものではないでしょうか。

日本最古のジャズ喫茶は横浜野毛にあった「ちぐさ」だそうで、オープンは昭和8年だとか。つまり戦前からジャズ喫茶はあったわけです。

ご存じのとおり日米戦争によって一時空白期間ができますが、昭和20年以後ふたたびファンは自由にジャズを聴くことができるようになり、ジャズ喫茶もまた復活するわけです。

東京では戦後まもなく有名な「イトウ」が上野にオープンします。
そして、ジャズ喫茶が隆盛をきわめるのは昭和30年代から40年代にかけて。大学生あるいは20代の若者たちがジャズにとり憑かれていったのです。

ところが、そうした薄暗い喫茶店で身体を揺らしながらジャズの海を泳いでいた青年よりも少し若い少年少女たちもまた“ジャズ音楽”に酔い痴れていいたのです。さらに激しく。

つまり上にのせた「西銀座駅前」の歌詞にあるようなスイングあるいはモダンジャズやビバップとは別の“もうひとつのジャズ喫茶”があったのです。

レコードで本場のジャズを聴くのもいいけれど、できることなら生演奏が聴きたい、という青年だって。そんなファンのために銀座みゆき通りにできたのが「テネシー」。
これぞ“もうひとつのジャズ喫茶”の第一号。昭和は28年のこと。

そこでは当初、その名のとおりジャズバンドが出演していました。当時はビッグ・フォージョージ川口(ds)、中村八大(p)、松本秀彦(ts)、小野満(b))がアイドル的人気をほこり、ほかにも渡辺晋とか、鈴木章治とか、穐吉敏子とか、守安祥太郎とか、吉屋潤、海老原啓一郎などなどの面々が「ジャズ喫茶」で演奏していました。
大橋巨泉が司会をしていたというのも有名な話。

ところが出演するのはジャズだけかというとそうではなく、当時人気だったカントリー&ウエスタンやハワイアンのバンドも。
とりわけカントリーは、「テネシーワルツ」がヒットしたり、ワゴンマスターの小坂一也というアイドルシンガーが登場してちょっとしてウエスタンブームに。
そうなるとジャズ喫茶でもカントリーバンドを多く出演させるようになるのは商売の道理。

それでも「ジャズ喫茶?」というご不満もあろうとは思いますが、戦前からの習慣しで、カントリーだろうがポップスだろうがハワイアンだろうが、アメリカの音楽はすべて「ジャズ」なんて無茶苦茶なことをいっておりました。
昭和30年あたりまではまだそれが通用したということです。

そんなカントリーに母屋を占領された感のある「ジャズ喫茶」ですが、それからまもなく、具体的にいいますと1955年つまり昭和30年、カントリーもまた次なる新しい音楽に取って代わられることになるのです。

その年の夏、まさに若者が狂う季節に、日本でアメリカ映画「暴力教室」が公開されます。わたしも観ました(リアルタイムじゃないですよ)、シドニー・ポワチエがカッコよかった。

それまで日本で高校を舞台にした青春ものといえば、「青い山脈」に代表されるような進歩的な学生たちが旧習をうちやぶるという反抗ドラマというのが常識。
それが「暴力教室」では文字どおりのバイオレンスあり、レイプありで正真正銘のワルが出てくるのですからまさにぶっ飛びもの。

まぁ、その後の“荒れる教室”のルーツとでも申しましょうか。この映画を観て「ああそうか、俺たちも学校で暴れてもいいんだ、先公を殴っても構わないんだと“開眼”しちゃった中高生が出てきたことは想像がつきます。その当時、日本の不良中高生のあいだで飛び出しナイフが流行ったのはこの映画の影響があったのかも。

なにせPTAからのクレームで上映中止になったとかならなかったとかいうぐらいのスゴイ映画だったそうです。

その映画の中でうたわれていたのがビル・ヘイリーと彼のコメッツBill Haley & His Cometsの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」Rock Around the Clock。これが映画以上に衝撃的でした。とりわけ若いミュージシャンや音楽関係者には。
おそらくこれが一般的には日本のロックンロール初体験といってもいいのではないでしょうか。プレスリーの“日本デビュー”に先駆けること約半年のこと。

で、「ジャズ喫茶」も一夜にして(これは大袈裟だ)カントリーバンドからR&Rバンドに。当時はロカビリーなんていいました。
これはカントリーが追い出されて新たにロカビリーバンドが採用されたのではなく、カントリーバンドが一夜にして(まだいってる)ロカビリーバンドに変身してしまったのです。
だってロカビリーのルーツのひとつはカントリーなのですから。
それがミドルティーン、ハイティーンに大ウケ。

そのようにして銀座「テネシー」からはじまった「もうひとつのジャズ喫茶」は、ACB(新宿・銀座)、ニュー美松(銀座)、ドラム(池袋)、テアトル(渋谷)、新世界(浅草)などあちこちの繁華街に誕生し、やがて地方都市へと広がっていきます。

そんな「ジャズ喫茶」の中はどうなっていたのか。
ステージは? 座席は? と興味が湧きますが。もちろんわたしも行ったことはありません。どうしても知りたいという人は映画「嵐を呼ぶ男」「陽のあたる坂道」(どちらも石原裕次郎主演の日活映画)に出てきますので、DVDででも観てください。

そして、そんな「ジャズ喫茶」のなかからスターや人気バンドが出てきます。
それが平尾昌章とオールスターワゴンミッキー・カーチスとクレージー・ウエスト山下敬二郎とウエスタン・キャラバンなどなど。
そして平尾、ミッキー、山下はのちにロカビリー3人男なんていわれるようになったり。

彼らに続くのが水原弘、坂本九、ジェリー藤尾、守屋浩、かまやつひろし、佐々木功森山加代子飯田久彦弘田三枝子田代みどり、佐川ミツオ、鈴木やすし、ほりまさゆき、紀本ヨシオといった若きロカビリアンたち。

そして「もうひとつのジャズ喫茶」とほぼ時を同じくしてはじまった「ウエスタン・カーニバル」が昭和33年に「日劇ウエスタン・カーニバル」という一大イヴェントに発展し、3人男をはじめとするロカビリアンたちの聖堂となっていくわけです。

こうしてはじまった「もうひとつのジャズ喫茶」はロカビリーからカヴァーポップスへ、さらにはグループサウンズへと延命を続けますが、GSの衰退とともにその看板を下ろすことに。

しかし、その後もフォーク、ロックと時代が要求する音楽を生で聴きたいというファンは絶えることはなく、それに応えるようにさまざまな「ライヴハウス」が生まれていきます。
それはまさに、「もうひとつのジャズ喫茶」の流れをくむものであり、昭和20年代後半のカントリー&ウエスタンのバンド、あるいは30年代前半のロカビリアンたちが熱唱熱演した空間こそ、現在のライヴハウスのルーツなのです。

最後に気を取り直して? いま流行りのナゾかけをひとつ。
「ロカビリアン」とかけまして、
…………(この間10分以上、ここが本家と違うところ)
ととのいました。
「ロカビリアン」とかけまして、「キリスト教徒」とときます
(そのこころは)
「ミサのもとに集まります」
クズっちで~す。


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