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公園②SUNDAY PARK [a landscape]

サンデー・パーク02.jpg


♪公園のベンチで僕は 過ぎた愛の哀しさを数える
 ひとりそんな午后 子供はブランコの順番争い
 所詮 僕の愛も それと同じ重みかしら

 別れた人の横顔を 思い出せば いつも涙顔
 SUNDAY PARK
(「SUNDAY PARK」詞、曲、歌:さだまさし、昭和52年)

わたしの家の近所にも大小いくつもの公園があって、出かけるときに必ず横切るという公園もあります。

といっても実は、公園で休憩したり寛いだりということはほとんど未経験。もちろんベンチに座るという経験も、まったくないことはないのでしょうが、ここ最近記憶になし。

ところで、子供はともかく大人たちはそれぞれ公園でいったい何をしているのでしょう。

こんなブログを書いたのも何かの縁、大人どもの生態を観察に(大袈裟)公園へ行ってみよう。昨日の雨から一転、良い天気だし、日曜日だし、いつも素通りする駅前の公園へいざ。

やっぱり日曜日、いますねぇ人間が。平日はこんなにいないもの。
サッカーのピッチぐらいの広さで、公衆トイレもあれば、遊具もあり、おまけに小さなステージまであるという公園。SUNDAY PARK


真ん中あたりではお父さんと娘2人、お父さんと息子の2組がバドミントン。子供はいずれも小学生。お母さんは家で掃除洗濯でもしているのかな。
日曜日の公園にお父さんという絵柄はまったくもって自然。
そういえば、わたしにもそういう時があったし、もっと遡って父親とキャッチボールをしたことまで思い出してしまいました。まだ公園がそれほどない時代で、路上でやったのでしたが。

端っこにはブランコ、スベリ台、砂場の“3点セット”が。そのテリトリーはお母さんと幼児たちが占領。

いくつもあるベンチにはリュックを横に置いた若いお母さんが砂場の幼子を見守っている。談笑している若い男女もいれば、サンダル履きと軽装の老夫婦もいる。
日曜日ですが、仕事をしている人もいます。青いジャンパーの30代後半とおぼしき男。傍らの黒い鞄から何やらファイルを取り出してめくりはじめています。これからどこかを訪ねるのでしょうか。時間が早いのでその準備でもしているのでしょう。
まだ昼には間がありますが、昼どきになれば弁当を広げる家族もいるはず。
もう少し暖かくなったら、ひとときのうたた寝なんていうのもいい。混んでいるときは迷惑ですが。とにかくいろいろな人が集まるところ、それが公園。

♪こんな青空の日には外食が似合うのさ ブランコに揺られながらのLunchはゴキゲンだぜ 「公園」THE BLANKEY JET CITY
久しぶりの公園で彼女とサンドイッチと牛乳のランチ。ブランコに揺られると子供の頃が甦ってくる。それはとても気分のいいこと。

♪2千何年かの 晴れた日曜の午後 誰もいない小さな公園に 俺はいる 「200X年…公園」JAY WALK
あの時ふたりで来た公園に独りで来てみる。あの時ふたりで座ったベンチに独りで腰かけてみる。すると別れの日の苦い思い出がまざまざと甦る。「待っている」って言ったのに。小さな憾みと小さな後悔。

彼は、もしかしたら彼女も同じ思いで公園に来るのではないかという100万分の一の奇蹟を信じてやって来たのかもしれません。

残念ながらこの日のサンデー・パークには独りでベンチに腰掛ける若い人はいませんでしたが、人目の少ない平日ならきっといるはず。もしかしたら、公園で出会って恋に落ちたふたりだって。

♪君と初めて会ったのは 夏のあの公園だった 「ひとりぼっちで」ふきのとう
語り合いながら小径を歩いたり、池でボートに乗ったり。

彼もまた公園に辛い思い出を残したひとり。あの日雑木林に刻んだふたりのイニシャル。自分のイニシャルだけをナイフで削って……。悲しい話です。
そんなに辛ければ来なきゃいいのに、と思うのですが、公園には不思議な魔力があってなぜか足が向いてしまう。でも、それはだいたい男。女の記憶からはきれいさっぱり消去されているのかも。

もちろん、公園に独りで来るのがすべて“失恋男”とは限らない。

♪ポケットに忍ばせた文庫本 さっきまで娘たちがいた その場所で読み始める思いは 「夕焼けの三角公園」小椋佳
娘たちが蝶の舞う様子をみてはしゃいでいる。その蝶はベンチに座った老人の肩にとまる。それを眺めていた彼はズボンのポケットから文庫本を取り出し読み始める。しかし、なぜかあの老人のことが気になる。

そうだなぁ、気候がよければ公園で読書っていう手もありますね。そういう人ってもう若くはない、かといって老けこんでもいない、20代後半から30代のサラリーマンでしょうか。となるとやっぱり日曜日。いや土曜日かもしれない。

土曜の公園といえばシカゴCHICAGOの「サダデー・イン・ザ・パーク」SATURDAY IN THE PARKがあったっけ。
7月4日の独立記念日の公園をウォッチングしている男の歌。やっぱりベンチで独り座っているのでしょうね。
日本ではつなき&みどりがカヴァーしていました。

いざベンチに座ったものの、もはや居心地がわるくなってきてます。新聞でも持ってくればよかったのかな。なにもせずにボンヤリしてるのは頭で考えるほど気楽ではありません。
興味本位で来たものの20分も経たずに退散。
男の“公園デビュー”にはまだほど遠いな。


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公園①受験生ブルース [a landscape]

西新橋桜公園.jpg
♪おいでみなさん 聞いとくれ 僕は悲しい受験生
砂をかむよな味気ない 僕の話を聞いとくれ

朝は眠いのに起こされて 朝メシ食べずに学校へ
一時間目が終わったら 無心に弁当食べるのよ

昼は悲しや公園へ 行けばアベックばっかりで
恋しちゃならない受験生 ヤケのヤンパチ石投げた
 (「受験生ブルース」曲:中川五郎、詞・歌:高石ともや、昭和43年)

桜が終わればつつじが満開。日本の四季というのはまったくもって几帳面なものです。多少の早い遅いはありますが。
現在、東京では下町の根津神社で「つつじ祭り」が行われていますが、わざわざ足をのばさなくても近所の公園へ行けば赤白のものがたいがいは植わっています。
ということで、これからしばしツツジではなくて公園のお話を。

今、日本で最も有名な公園といえば赤坂の「檜町公園」。
微罪ではあるけど、酒の上ではあるけど、大馬鹿野郎であることには変わりない。だから「何やってんだバカヤロー!」と一喝して幕でいいんじゃないかな。つまり愚行なんだから叱らなくては。

テレビを見ている限り、叱ったのはあの法務大臣時代“死刑執行職務”に忠実だった現総務大臣ただひとり。いささか叱り方がキツかったけど叱るのは当然のこと。
あとは誰もが半ば擁護論。あれがたとえば、警察官や教師などの公務員だったらニュースショーのキャスターやコメンテーターは「まったく非常識な」とか「酒の上とはいえ情けない」とのとまったのではないかな。やったことは同じであっても。

まぁ、相手が大手芸能事務所所属だったからとは思いませんが(?)、たしかに叱りにくい「いい人」だったということはあるのでしょうが。やっぱりバカなことしたらまずは叱ってやらなくては彼もかわいそう。

そうそう、こんなことを話すはずではなかった。軽口注意。
この事件があったから「公園」をとりあげたのではなく、はじめから予定していたことでして。ちょっとフライングぎみではあるけれど。

公園とはその字のとおり、公(おおやけ)のスペー スで、大きく分けて自然公園と都市公園があります。前者の代表的なものが国立公園であり、後者が児童公園やアスレチックス公園。

日本に名称としての「公園」が設けられたのは明治になってから。
具体的には明治6年、東京、大阪、山形、千葉、広島、大分など全国で25の公園が設置されます。東京は金竜山浅草寺、東叡山寛永寺、三縁山増上寺、富岡八幡宮、飛鳥山の5カ所。今でいえば順番に、浅草、上野、芝、深川、王子。
これらはいずれも、江戸時代からの行楽地、まぁいってみれば丁髷時代の公園。

あらたに造成した公園ということになると明治9年の横浜公園が第一号といわれています。それ以前に同じ横浜の山手公園がつくられていますが、これは当初外国人専用の公園だったとか。

東京ではその後の西洋式公園の規範となった日比谷公園がつくられますが、それはさらに後の明治36年のこと。

児童公園については車や馬車の往来が激しくなった大正期、その必要性が語られはじめますが、実際に完成をみるのは昭和に入ってから。

戦前は公園でデートとか、逢引きなんて石でも投げられかねない。だから流行歌の中で「舗道」や「並木路」は出てきても「公園」や「ベンチ」など一向に出てこない。

唯一みつけられたのが昭和9年の藤山一郎とカリフォルニア出身の二世シンガー、ヘレン隅田による「公園で」
これがなかなかスインギーなイカした曲。それもそのはず、これは前年アメリカで封切られた映画「ゴールド・ディガース1933」の挿入歌[PETTIN’ IN THE PARK]佐伯孝夫が訳したのも。作曲は「瞳は君ゆえに」「チャタヌガ・チューチュー」ハリー・ウォーレンHARRY WARREN。

それでもクサナギくん(まだ言ってる)の例を俟たずとも公園にはさまざまなドラマがある。

それでは公園の一日を。まずは朝。
♪朝もやのたちこめた 静かな公園で 内緒話をしましょう 「朝もやの公園で」五輪真弓
60年代のアメリカンフォークソングの香りがする曲。ヒロインは朝の公園を散歩でもしていたのか、はたまたジョガーなのか。そこで初めて会った人としばしの語らい。なんとも大胆な。一目ぼれ? そういえば「恋人よ」でも「雨にぬれたベンチ」とか「マラソン人」(ヘンな言い方)など公園を思わせる歌詞が出てくる。

続いて昼間。
上に詞をのせた「受験生ブルース」高石ともや
受験生の心理をついた和製フォークの傑作。昭和40年代前半の曲で、その受験生に支持されてヒット。上にのせたのは3番までで、♪勉強ちっともしないで こんな歌ばっかり歌ってるから…… の10番まである。

やがて夕方。
♪日の暮れた公園で ギターを弾いて 「嫁に来ないか」新沼謙治
素朴な青年の素朴なプロポーズソング。モテモテ男の「お嫁においで」から10年後の歌。作詞作曲は阿久悠と川口真。

そして夜。
♪公園のフェンス越しに 夜の風が吹いた 「夜空ノムコウ」スマップ
これは彼と彼女の歌。やっぱり公園は誰かいい人と一緒のほうが楽しいよね。

それにしても出会い、モヤモヤ嫉妬、プロポーズ、 失恋と、公園のあちこちでドラマが展開されている。これからしばし、そんなさまざまな公園をのぞいてみます。

 


 


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島⑩ハワイの夜 [a landscape]

ハワイの夜2.jpg

♪ハー ハワイ みどりの夜
 月も宵から 波間に燃えて
 あゝ パパイヤは 仄かにあまく
 君慕うウクレレ やさしのハワイ
 あゝ ハワイ
(「ハワイの夜」詞:佐伯孝夫、曲:司潤吉、歌:鶴田浩二、昭和28年)

日本からの移民の歴史をもつ“遠くて近い島”ハワイ。
最盛期ほどではないが、いまだ年間100万人以上の日本人観光客が訪れる南の島・ハワイ。
戦時中は敵国の領土であり、日米開戦の端緒となった真珠湾をもつ島。いわば「鬼畜米英」「撃ちてし止まん」のターゲットとなった島でもあった。
それが敗戦となり、真珠湾攻撃から7年しか経ていない昭和23年、
♪晴れた空 そよぐ風 港出船の ドラの音愉し 「憧れのハワイ航路」岡晴夫
とお気楽にうたってしまう日本人の変わり身の早さ。その節操のなさは反面ひとつの長所ともいえるのだが。

この「憧れのハワイ航路」のヒットをいちばん喜んだのはハワイ在住日系人たちではなかっただろうか。

いまとなっては船でハワイへ行こうというのはよほど金と暇のある人間が周遊のクルーズで行くぐらいだろうし、日本―ハワイの定期航路などない。
しかし当時は、歌にうたわれたようにあったのだ。というか、飛行機でいくことが、普通の人間ではほとんど不可能な時代だったのだ。

ちなみに初めてハワイの土を踏んだ芸能人は川上音二郎貞奴で明治32年のこと。もちろんハワイでの舞台興行が目的だった。
流行歌手では「東京行進曲」をヒットさせた佐藤千夜子が昭和3年に訪問している。

戦後では「憧れのハワイ航路」のヒットの翌年つまり昭和24年、「アメション」の流行語まで生んだ女優の田中絹代が第一号。25年には美空ひばり、笠置シヅ子がそれぞれ興行を行っている。
その後芸能人がこぞってハワイを目指すのは昭和29年以後、アメリカの規制がゆるくなりJALの定期便が飛ぶようになってから。
一般人は昭和39年に観光用ビザが解禁されてからいざハワイへと。この頃、テレビで「アップダウンクイズ」というクイズ番組があり、10問正解するとハワイ旅行へ招待というのがビッグな賞品だった。ハワイは夢から現実のものへとなっていったのだ。

ところで、岡晴夫から40年余りを経た昭和62年、TUBEが同名異曲の「憧れのハワイ航路」をリリースしている。
♪Hawaii Hawaii 前途洋々で……海が待っているよ just sailing
ということは豪華クルーズの旅をうたったものか、というとそうではなく航路は航路でもこちらはエアラインのこと。タイトルだけレトロで遊んでみたということだろう。
生き方は変わってもハワイへの憧れは変わらないという話。

TUBEには「いいじゃん・ハワイ」もある。
これは「ハワイよいとこ一度はおいで」といった内容のハワイ賛美・歌。

ふたたび岡晴夫の「憧れのハワイ航路」に戻って、その昭和20年代、もう一曲ハワイをうたった歌がヒットした。
それが上に詞をのせた鶴田浩二「ハワイの夜」
同名映画の主題歌で、映画も鶴田浩二が主演している。
映画は戦後はじめてのハワイロケが敢行されている。もちろんこの時代では船ではなく飛行機でロケ地に向かった。

鶴田浩二は戦後の「歌う映画スター」第一号。
かつて日本映画が隆盛を極めていた戦前から昭和30年代ころまで、映画の主役級俳優はほとんどが歌をうたわせられた。
鶴田浩二は師匠である高田浩吉のすすめで昭和26年「男の夜曲」でポリドールレコードからデビュー。その後、コロムビアを経て灰田勝彦の誘いでビクターへ。
ビクターでリリースしたこの「ハワイの夜」は、やはり映画主題歌「弥太郎笠」に続くヒットとなった。そして同じ28年、吉田正作曲の「街のサンドイッチマン」の大ヒットへと続く。以後、吉田―鶴田のコンビは「赤と黒のブルース」、「好きだった」とヒット曲を続ける。
その後、歌は小休止、東映任侠映画で活躍するが、昭和45年にはその延長線上で「傷だらけの人生」をヒットさせ歌手としての健在ぶりを示した。

右手にハンカチを巻いたマイクを握り、バンドの演奏を聴くために左手を耳に添える歌唱スタイルがユニークだった。

また作曲の司潤吉は戦前戦後をとおして日本で活動した韓国人作曲家。「カスバの女」(エト邦枝)や「木浦の涙」(菅原都々子)を作曲した久我山明とは同一人物。
平成11年に亡くなっている。本名は孫得烈。

実は鶴田浩二の「ハワイの夜」が発売される前にもうひとつの「ハワイの夜」がレコード化されている。こちらはコロムビアで古賀政男が作曲、霧島昇がうたった。霧島盤は聴いたことがないが、残念ながらヒットしなかったとか。

そして平成11年にも「ハワイの夜」がリリースされている。
♪ハワイ ハワイ ハワイに身を潜め 残された人生を賭けた この俺さ

「この俺さ」という言い回しがいかにも古くさく、犯罪者の逃避行をにおわすストーリーがいかにもらしい、クレイジーケンバンドの一曲。

「ハワイの夜」はいまも昔もドラマチックという話。行ったことないけど。

ではそれ以外の戦後のハワイアン・ソングを。といってもあまりないのだが。

まずはこれも映画主題歌で舟木一夫本間千代子が共演した「夢のハワイで盆踊り」
♪ハワイよいとこ 夢の国 アロハの ハワイで盆踊り
祖父が暮らすハワイで盆踊りをさせてあげようと、主人公とその仲間たちが奮闘する青春映画。うたったのは舟木、本間のほかに二代目コロムビアローズ高橋元太郎の四人。
昭和39年の映画で、この時代まではまだハワイは憧れであり夢の存在だったことがタイトルからもわかる。作曲は船村徹。

♪月が出た出た カメハメハ 椰子の葉ゆれる カメハメハ
殿さまキングスがうたうのが「ハワイ音頭」。これまたハワイで盆踊りというコンセプト。
殿さまキングスには、
♪人食いアマゾン ピラニアさえも うかれとろけて チョイトカーニバル
という「ブラジル音頭」もあった。
ブラジルも日系移民の多い国で、どちらも日系人狙いがミエミエ音頭。

その殿さまキングスの元リーダー、長田あつし杏しのぶと結成したオヨネーズには「憧れのハワイ空路」がある。
「麦畑」のペアお米と松っつあんのハワイ珍道中といった内容。
一字違い、前後賞的なふざけたタイトルだが、作詞が「憧れのハワイ航路」(岡晴夫)と同じ石本美由起なのだから、誰も文句はいえない。

まだまだ行ってみたい島はある。
たとえば沖縄の島々、小豆島、八丈島にあゝ松島。外国ならばスコットランドにアイルランド、シシリー島にマンハッタンなどなど。
とはいえそろそろ春も、いや飽きもきているのでまたいずれということに。ではアロハ。


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島⑨憧れのハワイ [a landscape]

川畑文子.jpg
♪海の彼方に 想い出は遠し
 今宵もひとり カヌーを漕ぎて
 過ぎ日かの日の 涙の別れ
 思いかえせば 恋しワイキキ

 雨の晴れ間の 麗しのレイよ
 そよげる椰子の 木陰の君よ
 甘きささやき 涙の別れ
 遠く偲べば 恋しハワイよ
(「憧れのハワイ」訳詞:松村又一、曲:、歌:川畑文子、昭和10年)
 
至近の江の島からドドドドドーンと飛んで南の島はハワイ。
ハワイといえばなんといってもハワイアンだが、それは夏にやることにしてここでは和製のハワイの歌をいくつか。

「ハワイ」という島がわたしの頭の中に刻まれたのは昭和30年代のなかほどで、野球と切手によってだった。

野球は巨人軍に与那嶺要と、エンディ宮本(敏雄)という二人のハワイ出身選手がいた。ともに外野手で、与那嶺は昭和20年代から活躍し10シーズンで首位打者2回、生涯打率0.316という巧打者だった。また宮本は8シーズンで打点王2回という勝負強いバッターだった。その名前からもわかるとおりふたりとも日系二世。

切手の方は、当時切手の収集が子供の間で大人気で、わたしもその渦に巻き込まれたクチ。
雑誌の通信販売でクズのような切手をつかまされたり、友達との交換でしてやられたりしているうちに、いつしかすべての切手が手元から消えてしまったのだが、そのなかに昭和35年に発行された「ハワイ官約移住75年記念」という切手があった。
ハワイ島の鳥瞰図に虹がかかったどうということのない切手だったがけっこう気に入っていた。

ハワイと移民と日系二世。当時のわたしの頭ではその実情を理解するところまではいかなかった。

そもそも太平洋のど真ん中にある島がなぜアメリカの領土なのか。
王国であったハワイがアメリカに吸収されたのはそんなに古いことではない。
18世紀後半にはアメリカやロシアをはじめとする白人がハワイへ“上陸”しはじめ、その勢力争いを勝ち抜いたアメリカがその“楽園”をものにしてしまう(100年後にアメリカ政府はハワイ略奪を謝罪している)。
それが19世紀末のこと。日本でいえば明治30年代はじめ。日本の浦賀沖に黒船が現れた40年あまりのちのこと。そう考えると日本だって地理的に近ければ同じ目に遭っていたかも。もっとも、その半世紀後にはあやうくそうなりかけたのだが。

 

ちなみにハワイ最後の国王はあの「アロハ・オエ」をつくったといわれるリリウオカラニ女王

日本人のハワイへの移住は、アメリカの統治がはじまる以前から行われていた。
明治元年(1868)に移民第一弾がハワイへ渡ったといわれるが、ハワイ王国と日本政府との契約による移民は明治18年(1886)が初年。したがって昭和35年(1960)に75周年の記念切手が発行されたわけだ。

明治18年からハワイ王国が滅亡するまでの10年たらずの間に7万人以上の日本人が太平洋を越えていったといわれる。そして大正13年(1924)に排日移民法によって日本人の移民が禁止されるまでに10万人以上がハワイの土を踏んだといわれる。
もちろん旅客機などない時代で、およそ2週間かけて船に揺られて行ったのだ。

その移民者の多くはさとうきび畑の農業労働者として新天地を求めたわけだが、その仕事や生活は低賃金、長時間労働と熾烈なものだったという。

そんな移民のなかにはよりよい賃金を求めてアメリカ本土へ渡るものもあらわれた。
川畑文子の一家もまたそうである。

川畑文子は大正5年ハワイ生まれ。
母親の春代もハワイ生まれというから文子は三世になるのか。
とにかく彼女が3歳のときにロスアンゼルスのリトル東京へ移ったというので、ハワイの記憶はないかもしれない。

文子はその後アメリカのメジャーで大成功をおさめる。
当時全米規模でミュージカルの実演や映画を取り仕切っていたRKO(ラジオ・キース・オーフューム)と専属契約し全米ツアーに参加したのだ。なんと当時13歳。

16歳のとき初めて日本に“帰国”、翌年からレコードの吹き込み、ジャズ、ダンスの公演と芸能活動を開始する。
そして昭和14年、わずか23歳で結婚・引退するが、その2年後に日米戦争が勃発。
戦時中は日本で過ごすが終戦とともに渡米、以後日本に戻ってくることはなかった。

レコードは上にのせた「憧れのハワイ」のほか、「コロラドの月」MOONLIGHT ON THECOLORADO、「沈む夕日よ」ST. LOUIS BLUES、「青空」MY BLUE HEAVEN 、「上海リル」SHANGHAI LIL 、「あなたとならば」I’M FOLLOWING YOU など主におなじみのジャズソングを吹き込んでいる。

彼女に取材を試みた「アリス/ブロードウェイを魅了した天才ダンサー 川畑文子物語」(乗越たかお著)によると平成9年の時点ではロス? で健在とのことだった。それから10年以上が経過したが訃報は届いていない。健在ならば93歳。

その数年後にやはりハワイから帰朝した二世シンガーが大ブレイクする。
それが灰田勝彦
彼の父親は元々シカゴで開業医をしていてその後ハワイへ渡った人。
大正9年にその父親が亡くなり、2年後に納骨のため一家で帰国、そのまま日本へ永住することに。

昭和4年に兄・晴彦がハワイアンバンド、「モアナ・グリー・クラブ」をつくり音楽活動に。その影響で数年後、勝彦も兄のバンドに入り、シンガーとして活動をはじめる。
レコードデビューは昭和11年、兄晴彦の作曲した和製ハワイアン「ハワイのセレナーデ」

その4年後の15年には「燦めく星座」が大ヒット。
以後、「鈴懸の径」、「森の小径」、「新雪」、戦後になって「野球小僧」「アルプスの牧場」「東京の空の下」とヒット曲を連発し昭和歌謡史に残る流行歌手となった。
その高音とクルーンヴォイスは多くの歌手の中でも際立って印象的だった。
昭和57年、71歳で亡くなっている。

川畑文子と灰田勝彦。
ともにハワイ生まれの歌手。同時代を日本で過ごし、終戦も迎えている。
そんな二人だが“遭遇”したり“すれ違った”形跡はみあたらない。ジャズと歌謡曲の違い、あるいはコロムビア(川畑)とビクター(灰田)というレコード会社の違いがそうさせたのかもしれない。

戦時中は二つの故国の板挟みとなり忸怩たる思いがあったはずの二人。戦後ひとりは日本を、もうひとりはアメリカを選択した。

二人が日本で活躍していた昭和10年代を現在から振り返れば、60数年の彼方にかすんでしまっている。
しかし、いま二人の当時の歌を聴くと、わたしにとって未生のはずのモダン日本がノイズとともに甦ってくるから不思議だ。


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島⑧江ノ島② [a landscape]

弁天小僧.jpg

♪以前を云やァ 江の島で
 年期づとめの お稚児さん
 くすねる銭も だんだんに
 とうとう島を 追われ鳥
 噂に高い 白浪の
 オット俺らァ 五人男の切れはしさ
(「弁天小僧」詞:佐伯孝夫、曲:吉田正、歌:三浦洸一、昭和30年)

江の島Vol.2は時代をずずずーっと遡ってみることに。

「江ノ島」が出てくる古い歌といえば、明治43年につくられた「真白き富士の嶺」がある。
♪真白き富士の嶺 緑の江の島 仰ぎ見るも 今は涙

これは同年、七里ヶ浜から江ノ島へ向かってボートを漕いでいた逗子開成中学の学生12人の遭難(全員溺死)を悼んでつくられたもの。
曲はアメリカ人インガルスがつくった賛美歌を元にして、鎌倉女学校の教師・三角錫子が詞を書き、遭難2週間後の追悼式で同校の女学生たちによって披露されたという。
そのあまりにも哀調のこもった旋律と詞に感動した女学生たちがうたい継ぎ、全国に広まったといわれている。

この「真白き富士の嶺」は別名「七里ヶ浜哀歌」とも呼ばれたが、昭和20年代にも江ノ島を舞台にした哀歌つまりエレジーがあった。
それが菅原都々子のうたった「江の島エレジー」。これは中学生の受難事件とは無関係で、
♪さらば情けの江の島の 緑哀しきわが恋よ
とうたうトーチソング。

この歌のヒットにより、そのあと菅原都々子は「江の島夜曲」、「江の島月夜」と江の島ソングを連発。どれだけうたっても叶わぬ恋の悲恋の歌だったが。

菅原都々子の最大のヒット曲といえば、「江の島エレジー」の4年後の昭和30年に発表した「月がとっても青いから」だが、実はその昭和30年にもうひとつ「江の島」を舞台にした歌が流行った。
三浦洸一がうたった「弁天小僧」

「弁天小僧」は歌舞伎の名作「弁天娘女男白浪(べんてんむすめめおのしらなみ)」に出てくる盗賊のひとり弁天小僧菊之助をうたったもの。
この演目は幕末に河竹黙阿弥が書いたピカレスク芝居で、尾上菊五郎の当たり役。正式な外題は「青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)」。

主人公は5人の白浪つまり盗賊。菊之助のほかは首領の日本駄右衛門以下、忠信利平、赤星十三郎、南郷力丸。これが白浪五人男。

歌にうたわれたストーリーは二幕一場の「浜松屋」。
娘に化けた菊之助が呉服店の「浜松屋」でわざと万引きを疑わせるひと芝居。
怒った店の番頭に眉間を割られた菊之助はお供の南郷とともに「どうしてくれる」とゴネてユスる。しかし店に来ていた侍が菊之助の刺青をみつけ男と見破る。
そこで居直った菊之助が名ゼリフ「知らざぁ云って聞かせやしょう……」と。以下上にのせた歌詞にあるような長セリフを続ける。

仕方なく菊之助たちは10両というはした金で引き下がる。ところが菊之助を見破った侍が実は日本駄右衛門。はじめから二段仕掛けの悪だくみだったのだ。

ところがところが、話は起承転、転、転……と意外な展開に。

5人の白浪のなかでも人気はこの弁天小僧菊之助がダントツ。
稚児をしていたので今でいうオネエ系なのかもしれないが、とにかくイケメンで女装させれば「イイ女」。それでいてワルというキャラクター、作者もよく考えたもの。

弁天小僧をうたった歌はほかにもある。
同じ昭和30年には春日八郎「浜松屋(弁天小僧)」を。
やはり歌舞伎の人気演目である「与話情浮名横櫛」を“原作”にした「お富さん」を大ヒットさせた春日(オードリーじゃないよ)の歌舞伎シリーズ第二弾(第三弾はないっていう話ですが)。前作のような手拍子あり、三味に太鼓というご陽気ソングだったが、ヒットとはいかなかった。

また34年には美空ひばり「ご存じ弁天小僧」が。
♪花のお江戸でその名も高い 俺ら御存じ弁天小僧菊之助

春日版も美空版も残念ながら「江の島」は出てこない。

ほかにこの「弁天娘女男白浪」を題材にした歌では「白浪五人男」がある。
これは「浜松屋」とともに演じられることの多い二幕三場「稲瀬川勢揃いの場」をうたったもの。5人それぞれが口上を述べるクライマックス。これもなぜか昭和30年の発売。

歌い手は歌に合わせて5人という豪華版。各キャラクターと歌手は以下のとおり。
日本駄右衛門 霧島昇、弁天小僧 久保幸江、忠信利平 高倉敏、赤星十三郎 岡本敦郎、南郷力丸 若山彰
弁天小僧はなぜか女性歌手。高音の男の歌手のほうが自然だったかも。中島孝みたいな。

その久保幸江は、
♪さてその次は江の島で 普段着なれた振袖姿……
とうたっている。

さしてヒットしなかったようだが、作詞が正岡容というのが特筆もの。
正岡は落語、浪曲、講談などの演芸に通じていた作家で、歌舞伎の原作も書いたとか。
ちなみに作曲は古賀政男

「弁天小僧」は当然映画にもなっている。
古くは初代「流し目」の長谷川一夫が演じているが、昭和30年代ならば大映の市川雷蔵
歌舞伎役者でもあり、女装の美しさもハマリ役だった。「お嬢吉三」や「切られ与三郎」も演じていた。

現代の「菊之助」といったら誰かな。やっぱりジャニーズ系か……。そういえばスマップは5人組み、彼らを白浪五人男にたとえるならば、……よく知らないんだ実は。


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島⑦江ノ島① [a landscape]

江の島.jpg
♪……
 江の島が見えてきた 俺の家も近い
 行きずりの女なんて 夢を見るように忘れてしまう
 
 さっきまで俺ひとり あんた思い出していた時
 シャイなハートにルージュの色が ただ浮かぶ
 好きにならずにいられない お目にかかれて
 
 今何時? そうねだいたいね
 ……
(「勝手にシンドバッド」詞、曲:桑田佳佑、歌:サザン・オールスターズ、昭和53年)

江ノ島(正式名称は「江の島」)は神奈川県藤沢市にある周囲4キロほどの小島。
片瀬海岸から弁天橋を渡って数分で行ける。渡りきると土産物屋や海鮮料理店があり、その先には弁財天を祀った江島(えのしま)神社がある。
ほとんど陸続きの島ということから、江戸時代から遊興地として知られた。最寄りは江ノ電の片瀬江の島駅で、沿線には鎌倉もあって東京から近い観光地としていまだ人気がある。

「江ノ島」の音楽といえばなんといっても湘南サウンド。その湘南サウンドのなかでも「江の島」のイメージを強烈にファンに植え付けたのがサザン・オールスターズ。サザンについては詳しいブログがいろいろ書いている(多分)ので多言は無用。

デビュー曲の「勝手にシンドバッド」を聴いた時の印象は、とにかく早口ソングで歌詞が聞き取れないところが多かった。しかし聞き取れた中では当時とても新鮮に思えるフレーズがあった。


たとえば「今何時? そうねだいたいね」という消化不良になりそうなところ。また「胸さわぎの腰つき」という古くて新しいフレーズ。いずれも印象的でメロディーともども思わず口をついて出てくる歌詞だった。

おそらくサザンにはほかにも「江ノ島ソング」があるのだろうが、実はあまりよく知らないので。ただ、これは知っている。

♪江の島が遠くに ぼんやり寝ている 「夏をあきらめて」研ナオコ

サザンに続く湘南サウンドといえば「TUBE」。
♪はよ着け はよ行け 江ノ島ブギウギ 「江ノ島ブギウギ」

夏が待ち切れずに梅雨が開けるとすぐ、ビーチへとクルマを走らせるナンパ野郎のブギウギ。去年の失敗にもめげることなく妄想タップリのポジティヴ野郎の歌。

そういえばエレキの神様・寺内タケシにも「イケイケ江ノ島」があった。
作曲はもちろんテリーで、イケイケガールスという三人娘がうたっている。ふたりの恋人と江の島でサザエの壺焼を食べるという、二股娘のなんとも腹立たしい歌。

寺内タケシとブルー・ジーンズの「NOTTEKE WAVE」というアルバムに入っている。
このアルバムサーフィンあり、稲村ケ崎あり、江の島ありと、コンセプトは湘南サウンド。しかしテリーが湘南かねぇ。彼のあの訛りはどう聞いてもU字工事の天敵方面だと思うけど。

ほかではサニーデイ・サービスの「江ノ島」。
TUBEの「江ノ島ブギウギ」と同じく海へクルマを走らせるストーリーだが、こちらはふたり連れ。ニヒトノイエスといった感じの無風の日常を描いたストーリーは今風? 
音楽ともどもパステル画のようでけっこう気に入ってます。

おまけは残念ながら聴いたことがないが、電車の中で見た広告のタイトルでウケたASIAN KUNG-FU GENERATION というバンドがうたっている「江ノ島エスカー」。
江の島に行ったことのある人なら分かると思うが「エスカー」とは、江の島の展望台付近へ続くエスカレーターのこと。

エスカレーターをエスカーっていっちゃうのもスゴイけど、これがなんと有料。たしか300円ほどとられる。徒歩でも10数分、ロープウェイ作るにゃ短すぎるからいっそエスカレーターにしちゃおう、なんて。
当然1機のエレベーターで終点までいくわけではなく、機を乗り継いでいく。

♪そりゃないよエスカーさん 只にしとくれ江ノ電さん
って歌かどうかわからないけど、「江ノ島エスカー」ぜひ聴いてみたい。

最後に久々に「勝手にシンドバッド」を聴いて思い出したむかし話を。

ちょうどこの歌が流行りだした頃、勤めていた会社の事務員の女の子で、サザンのメンバーの誰かと友だち、と自慢げに話す娘がいた。米軍払下げだというブカブカの破れたGジャンが似合う明るい娘だった。
ちなみにこの娘、いつも♪胸騒ぎの 腰ふり とうたう。何度も「腰つき」だよと教えてあげてもかまわずそううたっていた。まぁ似たようなもんだけど。

で、わたしが毎度毎度の“長い昼食”タイムをとって親指運動に励み、“戦利品”として世良公則とツイストのアルバムを抱えて会社に戻ってきた日のこと。

その日の仕事が終わり、皆でいきつけの店で飲んでいたとき、酔った彼女がわたしに「さっき獲ってきたLPちょうだいよ」とからんできた。どうやら世良が好きらしい。
わたしはツイストのファンでも何でもなかったのだが、意地悪で「見返りは?」と言ってやった。

彼女、しばらく考えてから「じゃあ、庄野真代と取っ換えっていうのは?」と。わたしが庄野真代のファンだというのを知っていたのだ。
「いいよ」と即答したかったのだが、酔いも手伝って「え、それだけじゃなぁ……」ともったいつけてやった。

すると彼女いきなり立ち上がり、
「じゃあ、こいつでどうよ!」
と着ていたGジャンを脱ぐやわたしに投げつけた。
あまりの男っぷり、いや女っぷりの良さに圧倒され、わたしは投げつけられたGジャンを受取ったままただ頷くだけだった。

その夜、トックリセーター一枚で帰って行った彼女にはすこし気の毒だったが、以後その袖のちぎれそうなGジャンはわたしのお気に入りとなった。

その後、あのユニークな娘がどうなったのか、あれだけ気に入っていたGジャンの末路がどうだったのかまったく記憶にない。
彼女の顔もおぼろげなのだが、あのとき交換した庄野真代のLPは手元にまだある。

サザンにツイストに庄野真代。そんな時代だった。


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島⑥佐渡情話 [a landscape]

佐渡情話.jpg
♪佐渡の 荒磯の岩陰に
 咲くは鹿の子の 百合の花
 花を摘み摘み なじょして泣いた
 島の娘は なじょして泣いた
 恋はつらいと いうて 泣いた
(「ひばりの佐渡情話」詞:西沢爽、曲:船村徹、歌:美空ひばり、昭和37年)

前回の「佐渡おけさ」は佐渡島という離島から発信され日本全国にいきわたった民謡だが、もうひとつ佐渡島発で世間に知られるようになった言い伝えがある。
それが「佐渡情話」

「佐渡情話」にはいくつかのヴァリエーションがあるらしいが、オーソドックスなものとしては、本土の柏崎から佐渡へやってきた大工の藤吉と島の娘・お弁の話。
ふたりは恋仲になるが、やがて藤吉は仕事が終わり柏崎へ帰ってしまう。藤吉への想いを断ち切れないお弁は毎晩たらい舟を漕いで柏崎まで通うようになった。
しかしその執念を懼れ、疎ましくなった藤吉はお弁が頼りにしていた柏崎の岬の灯を消してしまう。目標を失ったお弁のたらい舟は波間に沈んでしまい、数日後佐渡の海岸にお弁の亡骸が打ち上げられた。

というような話で、その後悲しんだ? 藤吉が海に身を投げて果てるという話も。
ちなみに似たような片恋悲劇話は全国いたるところにあるそうだ。

この伝承話「佐渡情話」が全国的に知られるようになったのは浪花節(浪曲)によって。
昭和6年、浪曲師の寿々木米若がこの「佐渡情話」をアレンジ、さらに「佐渡おけさ」も取り入れながらレコーディングしたところ、これが大ヒット。

主人公は吾作とお光に改名され、ストーリーもお光に許嫁がいてその男が二人の恋路を邪魔したり、お光は死なず気がふれるというように改変されている。また一般受けを狙うため、最後はとおりかかった日蓮上人(実際佐渡へ流島になっている)によってお光が正気に戻るというハッピーエンドで終わる。

この「佐渡情話」あまりにも受けたのでのちにまったく別の話の「新佐渡情話」がつくられたり、後日譚として「七年後の佐渡情話」がつくられたりと、よくある展開。

しかし、今考えると浪花節にそんな影響力があったのか? と思うが、実際あったのだ。

そもそも浪花節の起源は、17世紀ごろ、仏教の僧侶が行う説経をエンターテインメントに仕立てた「説経節」や神仏の礼讃からやがて大道芸となった「祭文語り」(デロレン祭文)、そして木魚などを叩きながら時事ネタなどを節にのせて語る「阿呆陀羅経」(チョボクレ)ではないかというのが定説。

その特徴は落語や講談と同じ語りの部分に加えて、独特の謡うような「節」があること。演目は「金襖(きんぶすま)」と「世話物」にわかれ、かんたんにいうと前者は武家物であり、後者は市井物。その内容の多くは現在でも「浪花節的」という言葉があるように義理人情や修身道徳的要素をふくんだストーリー。
また「曲師」と呼ばれる三味線の弾き手と対で演じるのが基本。

「浪花節」と呼ばれるようになったのは明治以降で、それまでは「ちょんがれ」「祭文」あるいは「うかれ節」「都節」といっていたとか。「浪花節」の由来も諸説あるようだが、明治初期の祭文語り浪花伊助浪花亭駒吉の人気による、という説もある。

明治期に定着浸透していった浪花節は昭和の時代に入って大ブームとなる。
それはまさしく、ラジオおよびレコードの登場と歩調を一にしている。
そのひとつの例として昭和12年にNHKが行ったラジオの番組嗜好率調査では、浪花節がドラマや野球・相撲、あるいは同じ演芸の講談や落語、さらには歌謡曲をおさえて第1位になっている。つまりみんなの好きな番組「浪花節」ということ。

そんななかで生まれたのが寿々木米若の「佐渡情話」。とりわけレコードの売り上げはスゴかったらしい。また、それ以上に人気を博したのがミスター浪曲こと広沢虎造。浪花節は知らなくても広沢虎造の名前と彼の十八番「清水次郎長伝」「石松三十石船」を知っている人は多い、いや多かった(昭和の話ですから)。

こうした浪花節の人気は日本人が価値観の変更を迫られた敗戦によっても衰えなかったというのがスゴイ。生きる方便としての価値観は変わっても、本質的な情感はさほど変わらないということ。

昭和20年代中ごろ、ラジオの民放が相次いで開局すると、各局こぞって浪曲番組を制作。それもゴールデンタイム。ラジオからは毎日のように米若、虎造をはじめ玉川勝太郎、前田勝之助、吉田奈良丸、三門博といった人気浪曲師たちの声が流れていた。
年末年始になるともう浪花節のオンパレード。昨今の“お笑ブーム”も顔負け。

そんなナンバーワン・エンターテインメントに斜陽の影が兆すのは昭和30年代に入ってから。
まさに戦後が終わり、日本が復興へ経済の発展へと踏み出していった頃。さらにいうならテレビの普及がスピードアップしていった頃。エンターテインメントは耳で聞くことから目で見る時代に変わっていったのだ。
昭和30年代、浪花節に代わって芸能の王者になったのが流行歌すなわち歌謡曲。しかし、浪花節の世界からその流行歌の世界へトラバーユしてみごと大成功した歌手が2人いる。それが三波春夫村田英雄。これぞまさに盛衰の象徴的なできごと。

その三波春夫が寿々木米若の一代記をうたったのが「出世佐渡情話」。全盛期の歌舞伎座夏の公演ではその芝居も演じていた。

もはや昔日の面影さえない浪花節の世界だが、今でも日本浪曲協会には数十人が加盟している。女浪曲師が多いというのも近年の特徴で、NHKラジオでは週1回の定期番組(「浪曲十八番」)もあるそうだ。

ほとんど浪曲の話で終わってしまいそうなので軌道修正。ふたたび「佐渡情話」の話に。

昭和30年代に入って人気が凋落していき、忘れられぎみになっていった「佐渡情話」だが、起死回生? の出来事が。
それは昭和37年に発売されヒットした美空ひばり「ひばりの佐渡情話」

これは「佐渡情話」をヒントにしてつくられた歌謡映画の主題歌で、民話とも浪花節とも無関係。ただ、ヒロインのひばりの乗った船が海に流されるという伝説もどきのエピソードがあったり。

この37年という年はひばりが最も活躍した年でもあり、なんとシングル盤12枚、LP5枚をリリースしている。
それだけではない。ふたたびなんと主演映画が計9本。まさに超人的。
ひばり25歳で、心身ともにもっとも充実していた時。

映画とその主題歌の「ひばりの佐渡情話」が世に出たのがその年の10月。そして翌11月には小林旭と結婚している。

ひばりには他にも「佐渡」が出てくる歌がある。
それは「佐渡情話」の前年に出した「ひばりの渡り鳥だよ」。その3番に、
♪雪の佐渡から 青葉の江戸へ 恋の振り分け ちょいと旅合羽
とある。この詞だけから解釈すればこの歌の主人公の渡世人は佐渡生まれということに。
ちなみに作詞は「佐渡情話」同様西沢爽

ともあれ、「ひばりの佐渡情話」のおかげで、伝説「佐渡情話」も浪曲「佐渡情話」も少しだけ息を吹き返した感があった。

そして平成3年には細川たかしによって「佐渡の恋唄」が。
♪佐渡へ佐渡へと 流れる雲に のせてゆきたい わたしのこころ

と、これは伝説の藤吉からお先への想いをうたった歌。この歌のなかでもやはり「佐渡おけさ」の旋律が取り入れられている。

ということは、平成の世になっても「佐渡情話」は細々ながらまだ生きながらえているということになる。

しかし、いくら伝説とはいえ気になるのはお先が毎晩たらい舟に乗って柏崎まで通ったという話。佐渡の小木港から柏崎まではゆうに片道50キロはある。往復なら100キロ。それをほんとうに女手で、櫂1本のたらい舟で漕いでいけたのか。

まぁ、伝説に突っ込むほど馬鹿げた話もないが、実際に実験した人がいたそうだ。結果は無事柏崎まで到着したとか。よほど海が凪いでいたのだろう。
それにしても所要時間は18時間以上だとか。やっぱり伝説だぁ。


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島⑤佐渡おけさ [a landscape]

佐渡おけさ.jpg
♪こいつを歌うと 泣けるのさ
 遠くはなれて 想うのは
 鷗とぶとぶ 松原よ
 おいら二人で 逢ったとこ
 あの娘はこの唄 好きだった 好きだった
(「おけさ唄えば」詞:佐伯孝夫、曲:吉田正、歌:橋幸夫、昭和35年)

佐渡島は新潟の両津港から西へ70キロあまりの日本海上にある島。
その大きさは東京23区の1.5倍あまりといわれ、日本の島でも沖縄本島に次いで2番目の広さ。

佐渡の大きな特徴のひとつとして豊かな芸能と祭りがあげられる。
「鬼太鼓(おんでこ)」「佐渡おけさ」「文弥人形」「のろま人形」「能楽」のほか、祭りや神事がいくつもある。

なぜ離島でこれほど文化が栄えたかといえば、人間の往来が頻繁にあったから。
当然佐渡島も奈良時代から「流人の島」であり、そのことも少なからず影響している(流人のひとりに世阿弥がいる)が、それ以上に古くから交易船や渡航船の“風待ち港”として利用されていたことが大きい。北九州や中国地方あるいは朝鮮半島からと、様ざまな人々が佐渡にやってきた記録が残っている。

さらに決定的なのが17世紀初頭に起こったゴールドラッシュ。
おかげで金脈銀脈が発見された寒村・相川は5万人の町(当時の長崎に匹敵)に変貌を遂げてしまったというからスゴイ。
金銀の採掘に功績のあった佐渡奉行が巨万の富を得たり、彼の死後富の隠匿が発覚し幕府から没収されただけでなく、奉行一族が処刑されたりと、欲が絡みに絡んだドラマが展開されたりもした。

こうなると佐渡へ佐渡へと草木もなびく勢い。
ひと山あてようとか、ここが勝負と算盤をはじいた商人、さらには彼らから小銭を吸い取ろうとする芸人、やくざ者など、それこそ有象無象が佐渡へとなびいていったのだった。

そうやって異国の人間が集い、異文化が交わることで新しい芸能も生まれてくることに。
そのひとつが「佐渡おけさ」

「佐渡おけさ」は新潟県というか佐渡島は相川で育った民謡。
民謡とは伝承歌。そこまで説明する必要ないか。
とにかく民謡は日本各地にあり、その数6000あまりといわれている。
なかでも「佐渡おけさ」はその哀調を帯びた旋律つまり節で、地元以外でも多くの人の知るところとなっている。

民謡といっても明治以降につくられ作者もわかっている新民謡(たとえば静岡県の「チャッキリ節」や山梨県の「武田節」など)もあるが、ほとんどは作者不詳。
ある意味自然発生的に生まれ、節も文句もマイナーチェンジを続けながらやがて固まっていくというかたちで残ってきたのだろう。

しかしこの「佐渡おけさ」は、九州は天草にある牛深(うしぶか)でうたわれていた「ハイヤ節」がその起源というのが定説なっているつまり地元で生まれた節ではないと。
はじめにも触れたように、異郷の「民謡」が交易船によって佐渡へ運ばれてきたのだ。それがいつしか「佐渡おけさ」として定着していくことに。
それは ♪佐渡は居よいか 住みよいか とか ♪島の乙女の黒髪恋し またも行きたや 佐渡島 という文句にみる、“よそ者”の視点からもわかる。

また「おけさ」は「佐渡」はかりでなく、やはり佐渡島の小木に伝わる「小木おけさ」あるいは「新潟おけさ」などいくつかある。
で、気になるのは「おけさ」の意味。

残念なことにこれがまったくわからない。これほど佐渡界隈で頻繁につかわれた言葉の意味が不明とは。なかには「桶屋の佐吉」で「おけさ」なんて訳のわからない解釈まであったり。
お隣の秋田県には「おこさ節」なんていうのもあるけれど、こちらも意味不明。「おけさ」に「おこさ」、「おとさ」に「おかさ」なんてくだらないことをいってる場合じゃない。

いずれにしてもこの「佐渡おけさ」が、民謡の中でもとびきりの“全国区”になったのは相川の“歌い手”村田文蔵が、大正から昭和にかけてラジオ出演や“全国ツアー”を行ってその普及に努めたことが大きい。

そんなわけで佐渡島と「佐渡おけさ」はしばしば流行歌にも取り上げられている。

古いところでは昭和8年に、「島の娘」勝太郎姐さんが「佐渡を想えば」を出しているし、偽芸者の音丸「佐渡は四十九里」東海林太郎「佐渡小唄」もある。
ほかでも戦前には「おけさ人形」美ち奴、「おけさ旅情」井田照夫、「佐渡の故郷」北廉太郎、「佐渡の故郷」青葉笙子 などなどと。

そして昭和31年、一世を風靡したのが三波春夫「チャンチキおけさ」
♪……知らぬ同士が 小皿たたいて チャンチキおけさ

佐渡から都会へ出てき幾歳月。あの頃は大きな夢もあったけれど、いまだ日陰の身。
そんな男の屋台酒。ついつい出るのが「おけさ節」。気がつけば見知らぬ隣人も手拍子に茶碗と箸の馬鹿ばやし。調子にのって声を張り上げればまぶたに浮かぶのは故郷に残した懐かしき人びとの顔また顔……。

そんな切ない男の望郷歌。間奏には「佐渡おけさ」がつかわれ(佐渡をうたった歌には多い)、イントロの浮かれ囃子もどこかジンとくる。美声を聞かせるのは浪曲師出身の三波春夫。彼のデビュー曲でもあり、この一曲で流行歌のメジャーシーンに。

「もはや戦後ではない」時代となっても庶民はまだまだ貧しかった。
三橋美智也春日八郎の「望郷歌謡」全盛の時代、佐渡に限らずどれだけ多くの人間が地方から夢を抱えて都会へ出てきたことか。
そんな彼らの共感を得て「チャンチキおけさ」は大ヒットした。

ほかでは上に歌詞をのせた橋幸夫「おけさ唄えば」
これもまた「チャンチキおけさ」同様、佐渡から都会へ出てきた男の悲哀歌。
揃いの浴衣で一晩中「おけさ」であの娘とダンシングオールナイト。今すぐに飛んで帰りたい。けど、いまだ夢の途中。男には帰りたくても帰れない理由があるのです、なんて歌。
間奏でしっかり「佐渡おけさ」がうたわれています。

またほかでは北島三郎「ギター仁義」でも、
♪おひけえなすって 手前おけさおけさの 雪の越後にござんす
と仁義を切っている。
主人公は5年前に都会へやってきたものの「とんと浮き目の出ぬ」流しの歌手。

佐渡を出て望郷の念にかられているのは男ばかりではない。
♪おけさ懐かし……娘十九の ああ渡り鳥 「おけさ渡り鳥」こまどり姉妹
志を抱いたのか、ただ花の都に魅かれて来たのか。いずれにしろ故郷をあとにした女性も少なからずいたはず。

では反対に都会から佐渡へというパターンは? これがあるんですね。
♪生まれは越後の 佐渡だといっていた 「東京へ戻っておいでよ」守屋浩
佐渡から東京へはたらきに来ていた娘。その娘に惚れたけれど、なぜか事情があって故郷へ帰ることに。駅のホームで涙の別れ。「待つぜ」と言ったら頷いたあの娘だったがそれっきり……。それでも何度も夢に見る男。早く帰って来てくれと未練はつのる。
きっと佐渡に許嫁でもいたのでしょう。いやそんなわけはない、今ならともかくあの頃の娘はもっと純情だったから。ほんとかねぇ。

もう1曲。
♪今日は淡路か 明日は佐渡か 遠い都の恋しさに 「涙を抱いた渡り鳥」水前寺清子
これは「渡り鳥」、のちにいう「流れ者」のうた。
「乙女心の一人旅」って女の流れ者もいたんですね。どんな仕事をしていたのか、ドサ回りの歌手か、流れのホステスさんか、はたまた女壺振り師か……。妄想いや想像はふくらみますが。

そうそう学生の頃の話。
夜を徹して友人2人とワイ談、いや議論を闘わしていたと思いなせえ。
そのうちいちばん真面目で口数の少ないヤツがボソっと。
「僕のオヤジ、実はサドなんだ……」
「………………」

瞬間、部屋の空気が凍ったね。
わたしともうひとりの友人は同じことを頭に描いたのでした。で、言葉の継ぎ穂をみつけることができなかった。
賢明なる友人はその空気を察知して
「いやいやいや、オヤジ、佐渡島出身なんだよ」
って。

自分の父親の出身地をそんなに深刻な顔で言うなっつうの。
しかし、あの頃のわたしももうひとりの友人も、佐渡島よりサド侯爵のほうがはるかに身近だったんだなぁ、という清掃のいきとどいた下水管のような話。


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島④奄美大島 [a landscape]

 朝潮vs若乃花.jpg

♪奄美なちかしゃ 蘇鉄のかげで
 泣けばゆれます サネン花ヨ
 ながい黒髪 島むすめ 島むすめヨ
(「島のブルース」詞:吉川静夫、曲:渡久地政信、歌:三沢あけみ、和田弘とマヒナスターズ、昭和38年)

伊豆大島の「アンコブーム」が一段落して、最後の大花火「アンコ椿は恋の花」(都はるみ)が打ち上げられる束の間の昭和37年、もうひとつの“大島ブーム”がやってきた。

昭和30年の「親子舟唄」以来ヒット曲から遠ざかっていたバタヤンこと田端義夫が自前のエレキを胸高に抱えてうたったのが「島育ち」
♪赤い蘇鉄の 実もうれる頃 加那も年頃 加那も年頃 大島育ち

この「大島」とは奄美大島のこと。
奄美大島は鹿児島から南下すること400キロ弱の海上にある奄美諸島最大の島。その大きさは沖縄本島、佐渡島に次いで日本第三位。
奄美は「島唄」と呼ばれる民謡の宝庫で、その旋律や音色は同じ三線をつかう沖縄とはっきり異なる。その昔は琉球(沖縄)に帰属していながら、江戸期には島津藩の配下になるという異文化の侵入が影響しているのかもしれない。

その奄美の島唄を歌謡曲にアレンジしたのが「島育ち」。それでも、それまでの歌謡曲とは異なる不思議な旋律であり、リズムだった。
実はこの「島育ち」は奄美大島出身の作曲家・三界稔が戦前につくった、いわゆる新民謡なのだ。三界稔には戦前ならば「上海たより」(上原敏)、戦後は「元気でね、左様なら」(青木光一)などのヒット曲がある。

これをたまたま沖縄料理店で聞いた田端義夫がぜひうたいたいと志願。ところが田端はテイチクの専属歌手であり、三界は日本コロムビアの専属作曲家。当時のしきたりでは“他社の歌”をうたうことなどできなかった。
ふたたびところが、幸か不幸か昭和36年に三界稔が亡くなり、田端は遺族と交渉してようやくレコーディングにこぎつけた。

「島育ち」は各レコード会社競作となったが、田端の執念が優り、他の歌手を引き離して50万枚のビッグヒットとなった。週刊誌などは「奇跡のカムバック」と田端の快挙を称えた。
田端義夫はその後の昭和50年にも奄美の南、与論島の民謡にルーツを持つ「十九の春」を小ヒットさせている。これもまた島の歌。

こうして歌謡曲ファンは「島育ち」の新鮮な旋律を受け入れ、酔いしれたわけだが、その余韻が覚めやらぬ翌38年、次なる奄美ソングが登場。それも大ヒットとなった。

それが上にあげた「島のブルース」
「島育ち」の新鮮さが刺激になったのは歌謡曲ファンだけではなかった。戦後岡晴夫「青春のパラダイス」津村謙「流れの旅路」を作詞した吉川静夫もそのひとり。
さっそく“奄美ソング”を書き上げ専属のビクターへ持ち込む。ビクターには島唄の作曲家にふさわしい男がいた。

それが渡久地政信。彼もまた奄美大島の出身(生まれは沖縄)だった。
戦地で負傷し、帰還して大学へ通っていたが、そのとき一時郷土の先輩である三界稔の家に下宿していたことがある。そこで「島育ち」を何度も耳にしていたという。

そして昭和18年にビクターから貴島正一の名前で歌手デビュー。「壮烈山崎軍神部隊」などの軍歌をうたっていたが病気で療養生活に。戦後も平野愛子とのデュエットソング「花の雨」をリリースするがヒットに至らず。昭和25年ビクターから馘首通告。

歌手への思い断ちがたく、キングレコードで再デビューをはかる。
当時流行っていた“母もの映画”の「母椿」(大映)の主題歌「流れ行く花」は、映画がヒットしたおかげで4万枚のセールスとなったが後が続かなかった。

そしてついに歌手生活に見切りをつけ、作曲家に転向。昭和26年のこと。戦時中から大村能章歌謡学院に通っていたほどで、作曲の素養はあったのだ。

作曲家になったその年、なんと4作目の作品が大ヒットする。それがビロードの歌声といわれた津村謙「上海帰りのリル」
そしてその3年後には当時戦後最大のヒット曲とわれた「お富さん」(春日八郎)を発表する。そのあとも「吹けば飛ぶよな」(若原一郎)「東京アンナ」(大津美子)などヒット曲をつくるが、昭和30年古巣のビクターへ移籍。

ビクターでは「踊り子」(三浦洸一)をはじめ「夜霧に消えたチャコ」(フランク永井)、「お百度恋さん」(和田弘とマヒナスターズ)、「湖愁」(松島アキラ)とビッグヒットを連発し昭和38年、「島のブルース」をヒットさせ、押しも押されもしない昭和を代表する流行歌の作曲家となった。

また「島のブルース」は当初、松尾和子とマヒナスターズでというレコード会社側の意向があったらしいが、渡久地政信が愛弟子の三沢あけみを推薦し、その意向が受け入れられたという逸話が残っている。

元は東映の女優だった三沢あけみはこの一曲でメジャーシンガーとなり、いまも現役を続けている。
また渡久地政信はその後も青江三奈「長崎ブルース」「池袋の夜」などビッグヒットをとばしたが、平成10年81歳で亡くなっている。

「島のブルース」からしばらくは奄美ソングも忘れられぎみだったが、21世紀になって再びスポットライトが当たるようになった。
それは元ちとせ中孝介といった奄美出身シンガーの活躍によって。

元ちとせのあのくどいくらいの声のひっくり返り(カントリーっぽくてキライじゃない)は、たしかに奄美民謡つまり島唄でもしばしば耳にするものだ。
また「島育ち」や「島のブルース」と違うのは、現代のポップスの影響を受けながら、なおかつより島唄に接近しているということ。

たしかに21世紀の奄美ソングのブレイクは沖縄ブームの延長線上にあったのかもしれないが、彼らの歌を聴くと「沖縄とは違うよ」というはっきりした主張が聞こえてくる。

沖縄が日本に返還されたのが昭和47年。奄美大島も戦後はアメリカの占領にあい、昭和28年に返還されている。奄美が戻ってきてからすでに半世紀以上が過ぎてしまった。
昭和30年代の子供たちは、地理の時間に日本最南の市は奄美大島の名瀬市と習ったはず。

そしてその時代、もうひとつ奄美大島で思い出すのが、奄美諸島のひとつ徳之島出身の大相撲の横綱、先代朝潮太郎だろう。2m近い大きな体に太い眉毛ともみあげ、そして胸毛。
巨漢力士だったが取りこぼしが多く決して強い横綱ではなかったが、その脆さもまた魅力で“静かなる力士”は子供にも人気があった。

相撲に興味のなかった子供でも覚えているかもしれない。昭和34年に創刊された漫画雑誌「週刊少年マガジン」の第一号の表紙を飾ったのがその朝潮だったのだ。
ちなみに同じ時期に世に出た「週刊少年サンデー」創刊号の表紙は長嶋茂雄だった。


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島③伊豆大島 [a landscape]

伊豆大島三原山.jpg
♪海は夕焼け 港は小焼け
 涙まじりの 汽笛がひびく
 アンコ椿の 恋の花
 風も吹かぬに 泣いて散る
 東京の人よ さようなら
(「東京の人さようなら」詞:石本美由起、曲:竹岡信幸、歌:島倉千代子、昭和31年)

「大島」はその名のとおり大きな島のこと。といってもそれは相対的な場合が多く、島が点在するなかでいちばん大きい島を「大島」と呼んだり。
したがって日本にはたくさんの「大島」が存在する。
たとえば鹿児島県の奄美大島があり、福岡県には筑前大島があり、山口県には周防大島、宮城県には気仙沼大島が……、というように。おそらく当地ではたんに「大島」と呼んでいるはず。

そんななかで地元の民謡は別としてもっとも早く流行歌としてとりあげられたのが、東京の伊豆大島。そしてその歌が前々回ふれた昭和3年の「波浮の港」

「伊豆大島」は東京都(大島町)に属し、伊豆七島最大で、かつもっとも本土に近い所に位置する。それでも東京の竹芝からだと高速艇で2時間弱かかる。以前はその倍以上かかっていた。今でもゆったり8時間かかる夜行便もあるとか。
で、船はかの波浮港に着くのかと思うとそうではない。大島には元町港と岡田港の二つがあり、潮の加減でどちらかに停泊するという。波浮港はもともと風待ち港で、いまでは漁港やマリーナになっているそうだ。
また熱海からなら1時間足らずだし、およそ30分という飛行機(羽田、調布でともに1日2便)もある。

「伊豆大島」は当初「流人の島」として存在した。伊豆七島の中でもいちはやく流刑の島として利用された。そのはじめは7世紀まで遡る。
有名なところでは修験道の開祖といわれる役行者(えんのぎょうじゃ)、源為朝、キリシタンのオタ・ジュリア、赤穂浪士の遺児たちなどがいる。
しかし18世紀になって「大島では近すぎる」という意見が出たかどうかはしらないが、さらに遠方の三宅島や八丈島にとって代わられることになる。

この島は三宅島と並ぶ火山島で、島のほぼ中央にある標高800m弱の三原山からはときおり火柱があがり(御神火といって崇められた)、時には大爆発を起こす。最近では昭和61年に大噴火があり、島民1万人(ほぼ全員?)あまりが本土へ避難した。

その三原山の御神火と椿、そしてアンコがかつては大島の三大キーワードとされたようで、大島をうたった歌詞の中にもしばしば出てきた。
椿は島の代表的な花卉で、毎年2、3月に「椿まつり」が開かれている。とりわけ泉津をはじめとする「椿トンネル」が壮観とか。

もうひとつの「アンコ」とは島の娘のこと。「姉っこ」の訛りだといわれ、紺絣に赤い前垂れ、頭には絞りの手ぬぐいという独特のスタイル。
今の若い女性はそんな恰好はしないが、観光客用にそんなコスチュームの島娘が出迎えてくれる。

と観光案内はこれくらいにして。

昭和3年の「波浮の港」以来、ちょっとした大島ブームが起こり、8年には「燃える御神火」(藤山一郎)「大島おけさ」(小唄勝太郎)などいくつかの大島ソングが世に出た。その8年というのは三原山での自殺が“流行”した年でもあり、不本意ながら伊豆大島はいちやく“全国区”になってしまった。

以後地元の民謡歌手大島里喜がうたう伝承歌「大島節」「大島あんこ節」が巷に流れ、新民謡ブームで「音頭」や「小唄」や「くずし」がいくつも作られた。
流行歌でも「夢の大島」(松平晃)、「大島月夜」(南邦雄、市丸)、「大島つばき」(青葉笙子)などが発売され、「島唄」といえば伊豆大島というイメージが定着したほど。

戦後になっても大島ソングは健在で、昭和23年には、
♪出船の汽笛のむせぶを聞けば 島の娘のあゝ目がうるむ
という和製ブルースの「大島ブルース」(林伊佐緒)があるし、翌年には
♪たそがれは 紅の花散る波浮港
という純日本調の「大島情話」(小唄勝太郎)が。
「大島情話」は同名映画の主題歌で作曲は「かえり船」(田端義夫)倉若晴生。うたった小唄勝太郎は前々回でふれたとおり、「島唄」最初のミリオンセラー「島の娘」をうたっている。

またその翌年の昭和24年には岡晴夫「アンコ可愛いや」が。
♪島の御神火 燃えたつ夜は……
以後「アンコ」が大島ソングには欠かせないキーワードとなる。

そして上にのせた「東京の人さようなら」も。
前年「この世の花」でデビューした島倉千代子「りんどう峠」に続く3番目のヒット曲。

旅の男と島の娘アンコとの束の間の恋。二人の想いは海に隔てられ、汽笛にかき消されて行く……という「島唄」の定形。
それを岡晴夫は男の立場から、島倉千代子はアンコの立場からうたっている。
以後大島ブームというより「アンコブーム」に。

♪燃える三原の 御神火ながめ 「アンコなぜ泣く」藤島桓夫 昭和32年

♪島の娘は他国の人に 惚れちゃならぬと 「アンコ悲しや」松山恵子 昭和35年

♪赤い椿に アンコさんが泣いたエ 「島のアンコさん」小宮恵子 昭和39年

と続いて昭和39年にはメガヒット「アンコ椿は恋の花」(都はるみ)が。
♪三日おくれの 便りをのせて 船が行く行く 波浮港
都はるみの原点。当時アンコのコスチュームに身を包んだ少女が精いっぱい唸っていた姿が思い浮かぶなぁ。

しかしこの歌以後「伊豆大島」や「アンコ」の歌はフッツリ。
まさに日本の経済発展と歩調を同じくして大島から観光客の数が減っていった。世はレジャーブーム、さらにはディスカバージャパンが連呼されるものの、人々のめざす島は沖縄へ、サイパンへ、ハワイへと。

こうしてみると、なんだか昭和40年を境に日本がガラッと変わってしまったような気がする。いい方向に変わってきたと思いたいけど。

そうそう、話は変わって、伊豆大島は日本一の女性の喫煙者が多いところらしい。
だって言うでしょ、
♪俺のアンコは煙草が好きで いつもプカプカプカ
って。……ウソですよ。伊豆大島の女性のみなさんスイマセン。


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