島④奄美大島 [a landscape]
♪奄美なちかしゃ 蘇鉄のかげで
泣けばゆれます サネン花ヨ
ながい黒髪 島むすめ 島むすめヨ
(「島のブルース」詞:吉川静夫、曲:渡久地政信、歌:三沢あけみ、和田弘とマヒナスターズ、昭和38年)
伊豆大島の「アンコブーム」が一段落して、最後の大花火「アンコ椿は恋の花」(都はるみ)が打ち上げられる束の間の昭和37年、もうひとつの“大島ブーム”がやってきた。
昭和30年の「親子舟唄」以来ヒット曲から遠ざかっていたバタヤンこと田端義夫が自前のエレキを胸高に抱えてうたったのが「島育ち」。
♪赤い蘇鉄の 実もうれる頃 加那も年頃 加那も年頃 大島育ち
この「大島」とは奄美大島のこと。
奄美大島は鹿児島から南下すること400キロ弱の海上にある奄美諸島最大の島。その大きさは沖縄本島、佐渡島に次いで日本第三位。
奄美は「島唄」と呼ばれる民謡の宝庫で、その旋律や音色は同じ三線をつかう沖縄とはっきり異なる。その昔は琉球(沖縄)に帰属していながら、江戸期には島津藩の配下になるという異文化の侵入が影響しているのかもしれない。
その奄美の島唄を歌謡曲にアレンジしたのが「島育ち」。それでも、それまでの歌謡曲とは異なる不思議な旋律であり、リズムだった。
実はこの「島育ち」は奄美大島出身の作曲家・三界稔が戦前につくった、いわゆる新民謡なのだ。三界稔には戦前ならば「上海たより」(上原敏)、戦後は「元気でね、左様なら」(青木光一)などのヒット曲がある。
これをたまたま沖縄料理店で聞いた田端義夫がぜひうたいたいと志願。ところが田端はテイチクの専属歌手であり、三界は日本コロムビアの専属作曲家。当時のしきたりでは“他社の歌”をうたうことなどできなかった。
ふたたびところが、幸か不幸か昭和36年に三界稔が亡くなり、田端は遺族と交渉してようやくレコーディングにこぎつけた。
「島育ち」は各レコード会社競作となったが、田端の執念が優り、他の歌手を引き離して50万枚のビッグヒットとなった。週刊誌などは「奇跡のカムバック」と田端の快挙を称えた。
田端義夫はその後の昭和50年にも奄美の南、与論島の民謡にルーツを持つ「十九の春」を小ヒットさせている。これもまた島の歌。
こうして歌謡曲ファンは「島育ち」の新鮮な旋律を受け入れ、酔いしれたわけだが、その余韻が覚めやらぬ翌38年、次なる奄美ソングが登場。それも大ヒットとなった。
それが上にあげた「島のブルース」。
「島育ち」の新鮮さが刺激になったのは歌謡曲ファンだけではなかった。戦後岡晴夫の「青春のパラダイス」や津村謙の「流れの旅路」を作詞した吉川静夫もそのひとり。
さっそく“奄美ソング”を書き上げ専属のビクターへ持ち込む。ビクターには島唄の作曲家にふさわしい男がいた。
それが渡久地政信。彼もまた奄美大島の出身(生まれは沖縄)だった。
戦地で負傷し、帰還して大学へ通っていたが、そのとき一時郷土の先輩である三界稔の家に下宿していたことがある。そこで「島育ち」を何度も耳にしていたという。
そして昭和18年にビクターから貴島正一の名前で歌手デビュー。「壮烈山崎軍神部隊」などの軍歌をうたっていたが病気で療養生活に。戦後も平野愛子とのデュエットソング「花の雨」をリリースするがヒットに至らず。昭和25年ビクターから馘首通告。
歌手への思い断ちがたく、キングレコードで再デビューをはかる。
当時流行っていた“母もの映画”の「母椿」(大映)の主題歌「流れ行く花」は、映画がヒットしたおかげで4万枚のセールスとなったが後が続かなかった。
そしてついに歌手生活に見切りをつけ、作曲家に転向。昭和26年のこと。戦時中から大村能章歌謡学院に通っていたほどで、作曲の素養はあったのだ。
作曲家になったその年、なんと4作目の作品が大ヒットする。それがビロードの歌声といわれた津村謙の「上海帰りのリル」。
そしてその3年後には当時戦後最大のヒット曲とわれた「お富さん」(春日八郎)を発表する。そのあとも「吹けば飛ぶよな」(若原一郎)や「東京アンナ」(大津美子)などヒット曲をつくるが、昭和30年古巣のビクターへ移籍。
ビクターでは「踊り子」(三浦洸一)をはじめ、「夜霧に消えたチャコ」(フランク永井)、「お百度恋さん」(和田弘とマヒナスターズ)、「湖愁」(松島アキラ)とビッグヒットを連発し昭和38年、「島のブルース」をヒットさせ、押しも押されもしない昭和を代表する流行歌の作曲家となった。
また「島のブルース」は当初、松尾和子とマヒナスターズでというレコード会社側の意向があったらしいが、渡久地政信が愛弟子の三沢あけみを推薦し、その意向が受け入れられたという逸話が残っている。
元は東映の女優だった三沢あけみはこの一曲でメジャーシンガーとなり、いまも現役を続けている。
また渡久地政信はその後も青江三奈の「長崎ブルース」や「池袋の夜」などビッグヒットをとばしたが、平成10年81歳で亡くなっている。
「島のブルース」からしばらくは奄美ソングも忘れられぎみだったが、21世紀になって再びスポットライトが当たるようになった。
それは元ちとせや中孝介といった奄美出身シンガーの活躍によって。
元ちとせのあのくどいくらいの声のひっくり返り(カントリーっぽくてキライじゃない)は、たしかに奄美民謡つまり島唄でもしばしば耳にするものだ。
また「島育ち」や「島のブルース」と違うのは、現代のポップスの影響を受けながら、なおかつより島唄に接近しているということ。
たしかに21世紀の奄美ソングのブレイクは沖縄ブームの延長線上にあったのかもしれないが、彼らの歌を聴くと「沖縄とは違うよ」というはっきりした主張が聞こえてくる。
沖縄が日本に返還されたのが昭和47年。奄美大島も戦後はアメリカの占領にあい、昭和28年に返還されている。奄美が戻ってきてからすでに半世紀以上が過ぎてしまった。
昭和30年代の子供たちは、地理の時間に日本最南の市は奄美大島の名瀬市と習ったはず。
そしてその時代、もうひとつ奄美大島で思い出すのが、奄美諸島のひとつ徳之島出身の大相撲の横綱、先代朝潮太郎だろう。2m近い大きな体に太い眉毛ともみあげ、そして胸毛。
巨漢力士だったが取りこぼしが多く決して強い横綱ではなかったが、その脆さもまた魅力で“静かなる力士”は子供にも人気があった。
相撲に興味のなかった子供でも覚えているかもしれない。昭和34年に創刊された漫画雑誌「週刊少年マガジン」の第一号の表紙を飾ったのがその朝潮だったのだ。
ちなみに同じ時期に世に出た「週刊少年サンデー」創刊号の表紙は長嶋茂雄だった。
奄美出身シンガーと言えば・・・・・千賀かほるを忘れないでください。一発屋だったけど(笑)
by tsukikumo (2009-03-02 22:46)
僕の奄美の思い出は劇団時代に公演で行った時の島の高台から眺めです。
真っ青に晴れは渡った空と輝く海、しかもその海の水平線が丸く見えて地球はやはり丸いのだ納得したこと。
初年ジャンプ、とサンデーといえば昔実家には毎号本屋から届けられていてそれを目当ての子供達の溜まり場になっていました。
最初は薄かった本がだんだん厚くなっていったのを懐かしく思い出されます。
by レモン (2009-03-04 00:31)
tsukikumoさん、こんにちは。
千賀かほる、奄美出身だったのですか、知りませんでした。
たしかに「一発屋」かもしれませんね。
でも「真夜中のギター」はいまだファンが多いですよね。フォーク歌謡っていうんですかね。
わたしの知る範囲では当時、地方から東京へ出てきた人に熱烈なファンが多いようです。男女とも。なんとなくわかる気がしますね。
by MOMO (2009-03-05 21:22)
レモンさん、いつもありがとうございます。
海と空との圧倒的な景観というのはわたしも大昔、足摺岬で経験しました。魅入られてしまったようで、いつまでも離れがたかったですね。
そうでした、はじめの頃はサンデーもマガジンも中とじの薄い雑誌でしたね。はじめは30円ぐらいでしたかね。月刊誌の「冒険王」や「少年画報」が120円ぐらいでしたか。月刊誌のほうは付録がたくさんついてました。あのころの漫画は今とちがって他愛のないものでしたね。
by MOMO (2009-03-05 21:31)