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島⑨憧れのハワイ [a landscape]

川畑文子.jpg
♪海の彼方に 想い出は遠し
 今宵もひとり カヌーを漕ぎて
 過ぎ日かの日の 涙の別れ
 思いかえせば 恋しワイキキ

 雨の晴れ間の 麗しのレイよ
 そよげる椰子の 木陰の君よ
 甘きささやき 涙の別れ
 遠く偲べば 恋しハワイよ
(「憧れのハワイ」訳詞:松村又一、曲:、歌:川畑文子、昭和10年)
 
至近の江の島からドドドドドーンと飛んで南の島はハワイ。
ハワイといえばなんといってもハワイアンだが、それは夏にやることにしてここでは和製のハワイの歌をいくつか。

「ハワイ」という島がわたしの頭の中に刻まれたのは昭和30年代のなかほどで、野球と切手によってだった。

野球は巨人軍に与那嶺要と、エンディ宮本(敏雄)という二人のハワイ出身選手がいた。ともに外野手で、与那嶺は昭和20年代から活躍し10シーズンで首位打者2回、生涯打率0.316という巧打者だった。また宮本は8シーズンで打点王2回という勝負強いバッターだった。その名前からもわかるとおりふたりとも日系二世。

切手の方は、当時切手の収集が子供の間で大人気で、わたしもその渦に巻き込まれたクチ。
雑誌の通信販売でクズのような切手をつかまされたり、友達との交換でしてやられたりしているうちに、いつしかすべての切手が手元から消えてしまったのだが、そのなかに昭和35年に発行された「ハワイ官約移住75年記念」という切手があった。
ハワイ島の鳥瞰図に虹がかかったどうということのない切手だったがけっこう気に入っていた。

ハワイと移民と日系二世。当時のわたしの頭ではその実情を理解するところまではいかなかった。

そもそも太平洋のど真ん中にある島がなぜアメリカの領土なのか。
王国であったハワイがアメリカに吸収されたのはそんなに古いことではない。
18世紀後半にはアメリカやロシアをはじめとする白人がハワイへ“上陸”しはじめ、その勢力争いを勝ち抜いたアメリカがその“楽園”をものにしてしまう(100年後にアメリカ政府はハワイ略奪を謝罪している)。
それが19世紀末のこと。日本でいえば明治30年代はじめ。日本の浦賀沖に黒船が現れた40年あまりのちのこと。そう考えると日本だって地理的に近ければ同じ目に遭っていたかも。もっとも、その半世紀後にはあやうくそうなりかけたのだが。

 

ちなみにハワイ最後の国王はあの「アロハ・オエ」をつくったといわれるリリウオカラニ女王

日本人のハワイへの移住は、アメリカの統治がはじまる以前から行われていた。
明治元年(1868)に移民第一弾がハワイへ渡ったといわれるが、ハワイ王国と日本政府との契約による移民は明治18年(1886)が初年。したがって昭和35年(1960)に75周年の記念切手が発行されたわけだ。

明治18年からハワイ王国が滅亡するまでの10年たらずの間に7万人以上の日本人が太平洋を越えていったといわれる。そして大正13年(1924)に排日移民法によって日本人の移民が禁止されるまでに10万人以上がハワイの土を踏んだといわれる。
もちろん旅客機などない時代で、およそ2週間かけて船に揺られて行ったのだ。

その移民者の多くはさとうきび畑の農業労働者として新天地を求めたわけだが、その仕事や生活は低賃金、長時間労働と熾烈なものだったという。

そんな移民のなかにはよりよい賃金を求めてアメリカ本土へ渡るものもあらわれた。
川畑文子の一家もまたそうである。

川畑文子は大正5年ハワイ生まれ。
母親の春代もハワイ生まれというから文子は三世になるのか。
とにかく彼女が3歳のときにロスアンゼルスのリトル東京へ移ったというので、ハワイの記憶はないかもしれない。

文子はその後アメリカのメジャーで大成功をおさめる。
当時全米規模でミュージカルの実演や映画を取り仕切っていたRKO(ラジオ・キース・オーフューム)と専属契約し全米ツアーに参加したのだ。なんと当時13歳。

16歳のとき初めて日本に“帰国”、翌年からレコードの吹き込み、ジャズ、ダンスの公演と芸能活動を開始する。
そして昭和14年、わずか23歳で結婚・引退するが、その2年後に日米戦争が勃発。
戦時中は日本で過ごすが終戦とともに渡米、以後日本に戻ってくることはなかった。

レコードは上にのせた「憧れのハワイ」のほか、「コロラドの月」MOONLIGHT ON THECOLORADO、「沈む夕日よ」ST. LOUIS BLUES、「青空」MY BLUE HEAVEN 、「上海リル」SHANGHAI LIL 、「あなたとならば」I’M FOLLOWING YOU など主におなじみのジャズソングを吹き込んでいる。

彼女に取材を試みた「アリス/ブロードウェイを魅了した天才ダンサー 川畑文子物語」(乗越たかお著)によると平成9年の時点ではロス? で健在とのことだった。それから10年以上が経過したが訃報は届いていない。健在ならば93歳。

その数年後にやはりハワイから帰朝した二世シンガーが大ブレイクする。
それが灰田勝彦
彼の父親は元々シカゴで開業医をしていてその後ハワイへ渡った人。
大正9年にその父親が亡くなり、2年後に納骨のため一家で帰国、そのまま日本へ永住することに。

昭和4年に兄・晴彦がハワイアンバンド、「モアナ・グリー・クラブ」をつくり音楽活動に。その影響で数年後、勝彦も兄のバンドに入り、シンガーとして活動をはじめる。
レコードデビューは昭和11年、兄晴彦の作曲した和製ハワイアン「ハワイのセレナーデ」

その4年後の15年には「燦めく星座」が大ヒット。
以後、「鈴懸の径」、「森の小径」、「新雪」、戦後になって「野球小僧」「アルプスの牧場」「東京の空の下」とヒット曲を連発し昭和歌謡史に残る流行歌手となった。
その高音とクルーンヴォイスは多くの歌手の中でも際立って印象的だった。
昭和57年、71歳で亡くなっている。

川畑文子と灰田勝彦。
ともにハワイ生まれの歌手。同時代を日本で過ごし、終戦も迎えている。
そんな二人だが“遭遇”したり“すれ違った”形跡はみあたらない。ジャズと歌謡曲の違い、あるいはコロムビア(川畑)とビクター(灰田)というレコード会社の違いがそうさせたのかもしれない。

戦時中は二つの故国の板挟みとなり忸怩たる思いがあったはずの二人。戦後ひとりは日本を、もうひとりはアメリカを選択した。

二人が日本で活躍していた昭和10年代を現在から振り返れば、60数年の彼方にかすんでしまっている。
しかし、いま二人の当時の歌を聴くと、わたしにとって未生のはずのモダン日本がノイズとともに甦ってくるから不思議だ。


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