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島⑥佐渡情話 [a landscape]

佐渡情話.jpg
♪佐渡の 荒磯の岩陰に
 咲くは鹿の子の 百合の花
 花を摘み摘み なじょして泣いた
 島の娘は なじょして泣いた
 恋はつらいと いうて 泣いた
(「ひばりの佐渡情話」詞:西沢爽、曲:船村徹、歌:美空ひばり、昭和37年)

前回の「佐渡おけさ」は佐渡島という離島から発信され日本全国にいきわたった民謡だが、もうひとつ佐渡島発で世間に知られるようになった言い伝えがある。
それが「佐渡情話」

「佐渡情話」にはいくつかのヴァリエーションがあるらしいが、オーソドックスなものとしては、本土の柏崎から佐渡へやってきた大工の藤吉と島の娘・お弁の話。
ふたりは恋仲になるが、やがて藤吉は仕事が終わり柏崎へ帰ってしまう。藤吉への想いを断ち切れないお弁は毎晩たらい舟を漕いで柏崎まで通うようになった。
しかしその執念を懼れ、疎ましくなった藤吉はお弁が頼りにしていた柏崎の岬の灯を消してしまう。目標を失ったお弁のたらい舟は波間に沈んでしまい、数日後佐渡の海岸にお弁の亡骸が打ち上げられた。

というような話で、その後悲しんだ? 藤吉が海に身を投げて果てるという話も。
ちなみに似たような片恋悲劇話は全国いたるところにあるそうだ。

この伝承話「佐渡情話」が全国的に知られるようになったのは浪花節(浪曲)によって。
昭和6年、浪曲師の寿々木米若がこの「佐渡情話」をアレンジ、さらに「佐渡おけさ」も取り入れながらレコーディングしたところ、これが大ヒット。

主人公は吾作とお光に改名され、ストーリーもお光に許嫁がいてその男が二人の恋路を邪魔したり、お光は死なず気がふれるというように改変されている。また一般受けを狙うため、最後はとおりかかった日蓮上人(実際佐渡へ流島になっている)によってお光が正気に戻るというハッピーエンドで終わる。

この「佐渡情話」あまりにも受けたのでのちにまったく別の話の「新佐渡情話」がつくられたり、後日譚として「七年後の佐渡情話」がつくられたりと、よくある展開。

しかし、今考えると浪花節にそんな影響力があったのか? と思うが、実際あったのだ。

そもそも浪花節の起源は、17世紀ごろ、仏教の僧侶が行う説経をエンターテインメントに仕立てた「説経節」や神仏の礼讃からやがて大道芸となった「祭文語り」(デロレン祭文)、そして木魚などを叩きながら時事ネタなどを節にのせて語る「阿呆陀羅経」(チョボクレ)ではないかというのが定説。

その特徴は落語や講談と同じ語りの部分に加えて、独特の謡うような「節」があること。演目は「金襖(きんぶすま)」と「世話物」にわかれ、かんたんにいうと前者は武家物であり、後者は市井物。その内容の多くは現在でも「浪花節的」という言葉があるように義理人情や修身道徳的要素をふくんだストーリー。
また「曲師」と呼ばれる三味線の弾き手と対で演じるのが基本。

「浪花節」と呼ばれるようになったのは明治以降で、それまでは「ちょんがれ」「祭文」あるいは「うかれ節」「都節」といっていたとか。「浪花節」の由来も諸説あるようだが、明治初期の祭文語り浪花伊助浪花亭駒吉の人気による、という説もある。

明治期に定着浸透していった浪花節は昭和の時代に入って大ブームとなる。
それはまさしく、ラジオおよびレコードの登場と歩調を一にしている。
そのひとつの例として昭和12年にNHKが行ったラジオの番組嗜好率調査では、浪花節がドラマや野球・相撲、あるいは同じ演芸の講談や落語、さらには歌謡曲をおさえて第1位になっている。つまりみんなの好きな番組「浪花節」ということ。

そんななかで生まれたのが寿々木米若の「佐渡情話」。とりわけレコードの売り上げはスゴかったらしい。また、それ以上に人気を博したのがミスター浪曲こと広沢虎造。浪花節は知らなくても広沢虎造の名前と彼の十八番「清水次郎長伝」「石松三十石船」を知っている人は多い、いや多かった(昭和の話ですから)。

こうした浪花節の人気は日本人が価値観の変更を迫られた敗戦によっても衰えなかったというのがスゴイ。生きる方便としての価値観は変わっても、本質的な情感はさほど変わらないということ。

昭和20年代中ごろ、ラジオの民放が相次いで開局すると、各局こぞって浪曲番組を制作。それもゴールデンタイム。ラジオからは毎日のように米若、虎造をはじめ玉川勝太郎、前田勝之助、吉田奈良丸、三門博といった人気浪曲師たちの声が流れていた。
年末年始になるともう浪花節のオンパレード。昨今の“お笑ブーム”も顔負け。

そんなナンバーワン・エンターテインメントに斜陽の影が兆すのは昭和30年代に入ってから。
まさに戦後が終わり、日本が復興へ経済の発展へと踏み出していった頃。さらにいうならテレビの普及がスピードアップしていった頃。エンターテインメントは耳で聞くことから目で見る時代に変わっていったのだ。
昭和30年代、浪花節に代わって芸能の王者になったのが流行歌すなわち歌謡曲。しかし、浪花節の世界からその流行歌の世界へトラバーユしてみごと大成功した歌手が2人いる。それが三波春夫村田英雄。これぞまさに盛衰の象徴的なできごと。

その三波春夫が寿々木米若の一代記をうたったのが「出世佐渡情話」。全盛期の歌舞伎座夏の公演ではその芝居も演じていた。

もはや昔日の面影さえない浪花節の世界だが、今でも日本浪曲協会には数十人が加盟している。女浪曲師が多いというのも近年の特徴で、NHKラジオでは週1回の定期番組(「浪曲十八番」)もあるそうだ。

ほとんど浪曲の話で終わってしまいそうなので軌道修正。ふたたび「佐渡情話」の話に。

昭和30年代に入って人気が凋落していき、忘れられぎみになっていった「佐渡情話」だが、起死回生? の出来事が。
それは昭和37年に発売されヒットした美空ひばり「ひばりの佐渡情話」

これは「佐渡情話」をヒントにしてつくられた歌謡映画の主題歌で、民話とも浪花節とも無関係。ただ、ヒロインのひばりの乗った船が海に流されるという伝説もどきのエピソードがあったり。

この37年という年はひばりが最も活躍した年でもあり、なんとシングル盤12枚、LP5枚をリリースしている。
それだけではない。ふたたびなんと主演映画が計9本。まさに超人的。
ひばり25歳で、心身ともにもっとも充実していた時。

映画とその主題歌の「ひばりの佐渡情話」が世に出たのがその年の10月。そして翌11月には小林旭と結婚している。

ひばりには他にも「佐渡」が出てくる歌がある。
それは「佐渡情話」の前年に出した「ひばりの渡り鳥だよ」。その3番に、
♪雪の佐渡から 青葉の江戸へ 恋の振り分け ちょいと旅合羽
とある。この詞だけから解釈すればこの歌の主人公の渡世人は佐渡生まれということに。
ちなみに作詞は「佐渡情話」同様西沢爽

ともあれ、「ひばりの佐渡情話」のおかげで、伝説「佐渡情話」も浪曲「佐渡情話」も少しだけ息を吹き返した感があった。

そして平成3年には細川たかしによって「佐渡の恋唄」が。
♪佐渡へ佐渡へと 流れる雲に のせてゆきたい わたしのこころ

と、これは伝説の藤吉からお先への想いをうたった歌。この歌のなかでもやはり「佐渡おけさ」の旋律が取り入れられている。

ということは、平成の世になっても「佐渡情話」は細々ながらまだ生きながらえているということになる。

しかし、いくら伝説とはいえ気になるのはお先が毎晩たらい舟に乗って柏崎まで通ったという話。佐渡の小木港から柏崎まではゆうに片道50キロはある。往復なら100キロ。それをほんとうに女手で、櫂1本のたらい舟で漕いでいけたのか。

まぁ、伝説に突っ込むほど馬鹿げた話もないが、実際に実験した人がいたそうだ。結果は無事柏崎まで到着したとか。よほど海が凪いでいたのだろう。
それにしても所要時間は18時間以上だとか。やっぱり伝説だぁ。


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コメント 2

レモン

美空ひばりの「佐渡情話」という歌、実は僕も好きな曲です。あのファルセットで始まる部分から地声に戻るところなんか僕も研究したんですよ。最近はおかげでそれが出来るようになりました。(笑い)
佐渡から「たらい舟」でとは命がけですね。こちらはやってみたくないです。
それから僕のブログの「対談ブリーカーストリート」という記事でmomoさんのコメントを使わせて頂きましたのでよろしくお願いします。

by レモン (2009-03-08 09:08) 

MOMO

レモンさん、こんにちは。

その話で思い出しましたが、むかしから男で美空ひばりの歌マネをする人がいましたが、低音はもちろん「ひばりの佐渡情話」などのファルセットを聞かせどころにしていましたね。
ほんとうはむずかしいのでしょうが、質を落としてもかまわない歌マネならば特徴にはなりますね。

「対談ブリーカーストリート」、じょうずにコラージュしましたね。
どうぞご自由に。わたしもポール・ストゥーキーと同席できて光栄です。
by MOMO (2009-03-10 20:43) 

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