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公園⑦マッカーサー・パーク [a landscape]

マッカーサー&トゥルーマン.jpg

Spring was never waiting for us dear
It ran one step ahead
As we followed in the dance

MacArthur's Park is melting in the dark
All the sweet, green icing flowing down
Someone left the cake out in the rain
I don't think that I can take it
'cause it took so long to bake it
And I'll never have that recipe again
Oh, nooooo
([MACARTHUR PARK] written by JIMMY WEBB, vocal by DONNA SUMMER, 1978)

ドナ・サマーは1970年代から80年代にかけてのR&Bシンガー。とりわけ当時全盛だったディスコミュージックでヒットをとばし、「ディスコ・クイーン」と呼ばれ、コンサートでたびたび来日しています。1979年のビルボードチャートでは「バッド・ガール」BAD GIRLS 、「ホット・スタッフ」HOT STUFF、さらにはこの「マッカーサー・パーク」の3曲が第1位に。

その「マッカーサー・パーク」はフィフス・ディメンションTHE 5th DIMENTIONの「ビートでジャンプ」UP UP AND AWAY やグレン・キャンベルGLEN CAMBELの「恋はフェニックス」BY THE TIME I GET TO PHOENIX、「ウイチタ・ラインマン」WICHITA LINEMANなどの作者、ジミー・ウェブJIMMY WEBBの作。

この曲を初めてうたったのは70年代の映画「ジャガー・ノート」や「カサンドラ・クロス」で名脇役ぶりを発揮した俳優のリチャード・ハリスRICHARD HARRIS 。未見ながら「ハリー・ポッター」シリーズで健在ぶりを示しているとか。
リチャードは歌手でもあり、この「マッカーサー・パーク」はジミー・ウェブの作品を集めたアルバム「トランプ・シャイニング」A TRAMP SHINING の中の1曲。

長い曲ですがドナ・サマー、リチャード・ハリス以外では、ジミー・ウェブの曲ではおなじみのグレン・キャンベルフランク・シナトラFRANK SINATRA、コンサート盤に収められたレターメンTHE LETTERMEN、ハーモニーの美しいスリー・ディグリーズTHREE DEGREES、こういううたい上げる歌は得意のアンディ・ウィリアムスANDY WILLIAMSなどがうたっています。
また日本では小柳ユキがカヴァーアルバムのなかでドナ・サマーばりにR&Bを熱唱。

ところでマッカーサーといえば、中高年ならすぐにピンとくるのがダグラス・マッカーサーDOUGLAS MACARTHUR。敗戦後数年間にわたって日本を統治したGHQ(連合国最高司令官総司令部)の総司令官で、昭和天皇と並んで写った大男の姿を覚えている人もいるのではないでしょうか。

フィリピンのコルヒドーレで日本軍に敗退を余儀なくされたとき残した「アイ・シャル・リターン」、あるいは日本統治時に言った「日本人は12歳」、さらには解任後米議会での演説「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」など多くの名言を残しています。

マッカーサー・パークはまさにその将軍の偉業を記念して名づけられた公園。
彼の生誕地であるアーカンソー州のリトルロックにも「マッカーサー・パーク」がありますし、バージニア州ノーフォークには「マッカーサー記念館」がありますが、歌にうたわれた公園はロサンゼルスにある公園だとか。

リトルロック同様米軍の駐屯地跡で、旅行ガイドにも載っていないような地味な公園で、かつてはジャンキーが横行していたなんて話も。

ところでそのマッカーサーについては、一時日本の最高権力者に君臨しただけあって、様々なエピソードや伝説が残されています。

その最たるものが“マッカーサー日本人説”。天皇制維持に寛大だったマッカーサー。その理由として母方の血に日本人が入っているという。つまり父アーサーが日露戦争後に来日(事実)したとき、祇園の芸者に産ませた子供だという噂。

天皇と会見したとき、マッカーサーが土産にチョコレートを手渡したことも。会見後、天皇は侍従に「これもらったよ」と喜々として語ったとか。
ほかにも敗戦による最大の“恩恵”といわれる婦人参政権の施行により日本人女性から幾通ものファンレターが届いたとなどエピソードは数々。

もちろん権力者としてのコワイ一面も。労働組合を認めながら、日本の赤化をおそれて22年2月1日のゼネストを弾圧。当時の左翼にとっては反革命の権化。
翌年には在日のままアメリカ大統領選に参戦。しかし予備選で惨敗して夢叶わず。

そして朝鮮戦争における対中国政策の読み間違えと、中国軍と一戦交えること(原爆行使も)も辞さない姿勢がホワイトハウスの怒りを買い失脚。犬猿の仲といわれたトルーマン大統領との権力争いに敗れたという結果に。しかしアメリカでは国民の三分の二が彼を支持していたとも。そのとき71歳。

1964年3月、黄疸を悪化させて亡くなる。享年84歳。

ベトナム戦争当時、マッカーサーはジョンソン大統領に「アメリカの地上軍をアジアの戦場へ送るべきではない」と語ったというエピソードも。それは太平洋戦争と朝鮮戦争から得た教訓だったといわれています。
いずれにせよ日本にとって「敗戦」という未曽有の体験の中心人物として今後とも語り継がれていく歴史上の人物には違いありません。

ところでそのマッカーサー元帥、実は日本の歌にも登場してました。
戦後、彼にこびへつらう歌だろうって? 残念ながらそうではなく、それは戦前に作られていました。

♪いざ来いニミッツ、マッカーサー 出てくりゃ地獄へさか落し 「比島決戦の歌」

この歌がつくられたのは昭和19年3月。
ニミッツもアメリカ海軍の元帥で、いわば敵国軍隊の象徴2人を地獄へ葬ってやるという、のちに“最悪の軍歌”といわれたもの凄い歌。作詞は西條八十、作曲は古関裕而のゴールデン軍歌コンビ。のちに西條八十は「軍部に半ば強制的に作らされた」と弁明しています。

幸いにも資源不足でレコード化されなかったそうですが、その1年あまり後には敗戦(予期していたのかも)。ニミッツはともかく、マッカーサーが日本へやって来てしまったからさあ大変。作詞、作曲の2人は逮捕を覚悟していたとか。とりわけ西條八十は死刑まで考えていたそうです。

この歌がマッカーサーの耳に入ったかどうかはさだかではありませんが、占領軍は「流行歌に思想はない」と不問に。西條さん、古関さんともども胸を撫で下ろして一件落着。
寛大だったのか見くびられたのか、ともかくそのおかげでその数年後に「青い山脈」「長崎の鐘」がつくられることになるのですから、よかったと思わねば。

そういえば子供のころ、からかい言葉で「お猿のオケツはマッカーサー」なんて意味も知らずに言ってました。くだらないことです、実に。

 


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