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春の歌●春の日 [noisy life]

六・八・九.jpg

♪上を向いて 歩こう
 涙が こぼれ ないように
 思い出す 春の日 一人ぼっちの夜
 ………………
 幸せは雲の上に 幸せは空の上に
 上を向いて 歩こう
 涙が こぼれ ないように
 泣きながら 歩く 一人ぼっちの夜
(「上を向いて歩こう」詞:永六輔、曲:中村八大、歌:坂本九、昭和36年)

油断していたわけでもありませんが、いきなり春がやって来てしまいました。

道端ではタンポポを見つけ、青空を仰げば薄桃の桜が今年も咲いております。

最近の出遅れグセは毎度のことですが(ゲート審査が必要かも)、今年はなぜかことさら憂鬱かつ怠惰な毎日で、ふつうなら期日内に終わらせているはずの確定申告もいまだ道なかば。

それでも、ブログの「春の歌」はやっておかねばという強迫観念がありまして、2つばかりひねり出すことにいたしました。

まずはじめは“直球”で「春の日」

「春の日」が出てくる歌もそこそこ。

「雪の降る街を」(高英男)、「惜春鳥」(若山彰)、カヴァー曲でも「ドミノ」(ペギー葉山)、カレンダー・ガール(坂本九)などが。
GSならブルー・コメッツの「甘いお話」があるし、フォークならフォーク・クルセダーズの「青年は荒野をめざす」や加藤和彦の「不思議な日」があるし、演歌なら小林幸子の「雪椿」にも。
さらに、大人の胸キュンソング「春の日の花と輝く」もありますし。

そんななかいちばんタイムリーなのが日本唯一の世界的ヒット曲「上を向いて歩こう」ではないでしょうか。

最近よくテレビCMで流れています。
「ウィ・アー・ザ・ワールド」We are the world 方式っていうのでしょうか、タレントたちが一節ずつ歌ってリレーしていく方式。「見上げてごらん夜の星を」版もありますね。

「上を向いて……」は、タイトルだけ聴くと「うつむかないで顔をあげて生きていこうよ」っていう前向きな歌のように思えますが、実はそれほどポジティブな歌ではない。

よく聴くとわかるとおり、上を向くのはただ涙が頬を伝うのがイヤなだけ。

青年は孤独なのです。
こころウキウキの春だというのにひとりぼっちの淋しい夜を過ごさなくてはならない。

どんな辛いこと、悲しいことがあったのでしょうか。
すこしも楽しくない。幸福なんてはるか彼方にあって自分とは無縁。

そんなネガティブというか、どこか屈折している歌なのです。
しかし、この歌がつくられた昭和30年代なかば、そんな青年はめずらしくなかったのかも。

そんなどこにでもいた青年の気持ちを代弁したのが永六輔
ついでにいえば、作曲は中村八大、歌は坂本九の六・八・九トリオ。

ちなみに昨今のCMの「見上げてごらん……」も作詞は永六輔、歌も坂本九、ただし作曲は“相棒”中村八大ではなく、もうひとりの“相棒”いずみたく

永六輔のヒット曲の“相棒”はほぼこのふたりといっていい。

永六輔はラジオの投稿マニアから放送作家になった人間。
作詞家になるきっかけをつくったのは中村八大。

当時すでにビッグ4のジャズピアニストとして名を知られていた中村八大が映画音楽を担当することになり、そのなかでの挿入歌を10曲ほどつくることになったとか。
それが昭和34年のこと。

中村としても初体験で、プロの作詞家にどう頼めばいいのか悩んでいたそうで、そんなとき銀座でバッタリ会ったのが、NHKで時々みかけた若き放送作家の永六輔。

そこで単刀直入に歌づくりに付きあってほしいと請願。
中村のファンだった永六輔はふたつ返事。なんでもそのときがはじめて会話を交わしたというのだから運命ですね。

そして、中村八大のアパートでつくったうちの一曲がその年新設されたレコード大賞の受賞曲となった「黒い花びら」(水原弘)。

さらに38年、この作詞作曲コンビは「こんにちは赤ちゃん」(梓みちよ)でふたたびレコード大賞という快挙。同じ年、「上を向いて歩こう」が「スキヤキ」のタイトルでビルボード週間1位に輝いたことはよく知られています。

いずみたくとの出会いは逆。

ともに一時期、三木鶏郎率いる「冗談工房」にいたのですが、一緒に仕事をすることはなかったとか。

いずみたくが「冗談工房」を辞めたあと、ラジオ番組の音楽をやってみませんかと声をかけてきたのが永六輔。
そのときの永は、ラジオ、テレビの売れっ子構成作家で、前述したとおり作詞家としても華々しくデビューしていた。

そんな縁で「黒い花びら」の翌年、ふたたび永六輔の提案で実現したのがいずみたくのライフワークとなるミュージカルの第1回、「見上げてごらん夜の星を」。
そしてその3年後、その主題歌「見上げてごらん夜の星を」が坂本九によってレコーディングされることになります。

さらに昭和40年から各都道府県に1曲という壮大な計画でスタートした「にほんのうた」も永六輔の企画で、作詞作曲はもちろん「永・いずみ」コンビ。
デューク・エイセスの歌唱で、そのなかから「いい湯だな」などいくつかのヒット曲が生まれることに。

昭和40年代に入り、しばらくして作詞家活動を廃業してしまった永六輔ですが、当時の既存のプロ作詞家と比べても、そのみずみずしい歌詞には才能が煌めいていました。

それにつけても、作詞家は作曲家あっての歌詞であり、その両輪がうまくまわることがヒット曲につながるのでしょう。もちろんその逆もいえることなのですが。

そういう意味でも永六輔は、中村八大といずみたくという素晴らしい“相棒”にめぐりあったことが「名詞」をつくらせたのではないでしょうか。

永ちゃん、じゃなかった永さん、現在ガンで療養中の身だとか。明るくて、それでいて頑固で、どこか屈折している部分もあったりして、昭和のかたまりみたいな人で、いいですね。いつかテレビで見たように、またパリ祭で司会する姿を見てみたいな。

それでは、中村八大、いずみたくそれぞれでの「永六輔作品」のいくつかを。

●中村八大篇
「一人ぼっちの二人」(坂本九)
「遠くへ行きたい」(ジェリー藤尾)
「恋のカクテル」(水原弘)
「いつもの小道で」(マイ・カップル)
「ウエディング・ドレス」(九重佑三子)

ほかにも「黄昏のビギン」(水原弘)や「おさななじみ」(デューク・エイセス)、「帰ろかな」(北島三郎)あるいは「夢で逢いましょう」(坂本スミ子)などのヒット曲がありますし、「若い涙」(ジャニーズ)、「芽生えて、そして」(菅原洋一)なんてYOU-TUBEにはない名曲もありました。

●いずみたく篇
「女ひとり」(デューク・エイセス)
「ともだち」(坂本九)
「私の好きなもの」佐良直美)
「別れた人と」(デューク・エイセス)
「いい湯だな」(ドリフターズ)

それではオマケに中村八大、いずみたく以外のいい作品、いや永作品を。
「二人の銀座」(山内賢、和泉雅子 曲:ベンチャーズ)
「若い季節」(ザ・ピーナッツ 曲:桜井順)

都知事選、なんでも現職が当確だとか。
あゝ……。
まぁ、現職以外っていわれても、一票投じるに値する候補者がいないじゃん、って話もなくはないわけで。無難なんだろうけど……あーあ。

震災の影響もなくはないかも。
誰も新しい風なんか望んじゃいないものね。現状維持、いやせめて現状回復を願っているんでしょうから。

はじめにも書いたように、今年の春はことさら憂鬱。
都知事選の結果が出て、またひとつ憂鬱のタネが増えました。
まさに「ブルー・スプリング」、スプリング・ブルー? いやブルー・スプリングでしょう。直訳すれば青い春、つまり青春?
そうか、青春とは憂鬱な春のことだったのか。


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VOICE⑩幼声(ベイビーヴォイス)▼洋楽篇 [noisy life]

dolly and porter.jpg

You say tomorrow you're goin'
It's so hard for me to believe
I'm making plans for the heartaches
‘Cause you're making plans to leave

The tears for me will be falling
Like a tree shedding its leave
I'm making plans for the teardrops
‘Cause you're making plans to leave
([MAKING PLANS] written by JOHNNY RUSSELL and VONI MORRISON, 1966)

ようやく「ヴォイス」の最終回。 

洋楽での極私的ナンバーワン「ベイビーヴォイス」といえば、メリー・ホプキンMary Hopkin 、ダニエル・ビダルDaniele Vidal も捨てがたいのですが、やはりドリー・パートンDolly Parton でしょうか。

往年のハリウッド女優をカリカチュアライズしたようなヘアスタイル、メイク、そしてグラマラスなボディ。そしてあのバカっぽくて可愛い笑い声。

「バストの大きい女性は×××が良くない」という俗説がありますが、ドリーはそんなことありません。なぜならあの豊満なバストは整形のたまものなのですから。そんなことはどうでも。

とにかくカントリーシンガーとしては異色のヴィジュアル。まるで、そのベイビーヴォイスに合わせたような外見。

それでも、ドリーのあふれんばかりの才能を知ればだれもが認めてしまうのです。
その歌唱力、パフォーマンス、そして何よりもソングライティング。

テネシー生まれのドリー。
12人兄妹で、ハイスクールへ行けたのはドリーだけという典型的なプアホワイト。
母親が作ったツギハギだらけの服を着て小学校へ通ったというエピソードは彼女のヒット曲「コートはカラフル」The coat of many colors でよく知られています。

その後のグランド・オール・オプリでの強引な売り込みなど、ドリーのサクセスストーリーはアメリカではつとに有名で、それもこれも極貧生活を味わったハングリー精神と生来の陽気な性格によるもの。もうひとつ加えるならば、並々ならぬ努力。

ちなみに成功してからのドリー、子供時代の貧困生活について、
「自慢することではないけど、恥ずべきことでもない」
と。

彼女のヒット曲といえば、1970年初のナンバーワンヒット(カントリーチャート)になった「ジョシュア」Joshua 、その3年後にポップスとしても大ヒットとなった「ジョリーン」Jolene 、さらには74年にやはりナンバーワンヒットとなった「オールウェイズ・ラヴ・ユー」I will always love you 、そして前述した「コートはカラフル」などなど。

とりわけ「オールウェイズ・ラヴ・ユー」は82年にセルフカヴァーで再び第1位に。さらには洋楽ファンなら周知のとおり、1992年には映画「ボディガード」に主演したホイットニー・ヒューストンWhitney Houstonが主題歌としてうたい世界的なヒットに。
もちろんライターはドリー。

とにかくカントリーチャートでナンバーワンに輝いた曲は20以上といいますから、まさにカントリーの女王。

こうしたヒット曲もいいのですが、カヴァー曲がまたいい。
内外を問わずカヴァーが上手ということは、歌唱力があるということでも。

そうしたカヴァーの中にもヒット曲は少なくありません。

そもそもドリーがカントリーシンガーとして全米で認知されるきっかけになったのは、当時人気だったポーター・ワゴナーPorter Wagoner のTVショーに相手役として抜擢されたことからでしょう。

そしてポーターとのデュオアルバムを何枚もリリースし、その中からヒット曲もいくつか生まれています。

そのなかには64年にトム・パクストンTom Paxton で大ヒットした「ラスト・シング・オン・マイ・マインド」The last thing on my mindや「プリーズ・ドント・ストップ・ラヴィング・ミー」Please don't stop loving me 、「ビフォア・アイ・メット・ユー」Before I met you などがありますが、
個人的なベストフェヴァリットはオールドカントリーの匂い芬々の「メイキング・プラン」Making plans。
ブルーグラスやカントリーロックもいいけれど、齢を重ねるとこうしたオールドファッションのカントリーが心に沁みてくるんだなぁ。

自分の元を去っていく恋人に、「傷心に備えなくては」「あなたを忘れないようにしなくては」「あなたのいない孤独にたえなくては」と心の準備を吐露する健気なハートブレイク・ソング。
いにしえの時代にならって邦題をつけるなら「覚悟はできてるわ」ってとこでしょうか。

元は1960年代にウィルバーン・ブラザーズWilburn Bros. がリリースしたもので、ドリー&ポーターのデュオがヒットさせたあとも、1987年のドリー、エミルー、リンダのアルバム「トリオ」Trio の中にも収録されています。このときはエミルーEmmylou Harrisがリードヴォーカルを担当。

もうひとつ付けくわえると、この「メイキング・プラン」の作詞作曲コンビの最大のヒット曲はバック・オウエンスBuck Owensの「アクト・ナチュラリー」Act Naturally(のちにビートルズによってヒット)。

さて、ドリーとポーターの“蜜月”は8年間続きますが、ドリーの飽くことのない向上心は、カントリーの枠を飛び出し、ポップスへさらにはハリウッドへと向かっていきます。

そのハリウッドでは映画ファンならご存知のとおり、「マグノリアの花たち」や「9時から5時まで」などで並いる芸達者にまじって一歩もひけをとらない演技力で観客を魅了し、才能豊かなところさらにアピールしました。

恩人・ポーターを超えて全米的シンガー、アクトレスになったわけですが、そのポーターに感謝の意味をこめてつくったのが「オールウェイズ・ラヴ・ユー」だといわれています。

それではカントリーファン以外でも知っている、ドリーのカヴァーソングのいくつかで、そのスイートヴォイスをどうぞ。

「孤独の影」Games people play
「転がり込むんだ恋人の腕に」Rollin' my sweet baby's arms
「風に吹かれて」Browin' in the wind
「アメージング・グレイス」 Amazing Grace                               「悲しき天使」Those were the days

ポーター・ワゴナーも、バック・オウエンスも、ジョニー・ラッセルも、いまはもうみんないません。でもドリーは健在。……女は強し。


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VOICE⑨幼声(ベイビーヴォイス)▼邦楽篇 [noisy life]

中島そのみ.jpg

♪花の都のどまんなか ソレ
 ザギンのちゃんねだ 任しとキ
 解りゃいんだが 解らなきゃ
 解るまで教えてやってもいいんだぜ
 ぐづぐづいうない 任しとキ ソレ
 モタモタしてると明日になっちゃうぜ
 何でもかんでも 任しとキ
 お色気戦術任しとき
 フンフン ウンウン ウンウン
 ザギンのトップレディ お姐ちゃん
(「お姐ちゃんに任しとキ」詞・曲:神津善行、歌:中島そのみ、団令子、重山規子、昭和35年)

「まだやってんのかよ」
という声が聞えてきそうですが、まだやるんです。といっても今回と次回の2回、キリのよろしい10回で打ち止めということに。

いろいろ理屈をこねてまいりましたが、最後はベイビーヴォイスで。

ベイビーヴォイスとは、舌足らずといいますか、甘え声といいますか、直訳の赤ちゃん声っていうとちょっと違うようで、まぁ「幼声(おさなごえ)」ですか。「ようせい」なんて読んでいただいても結構ですけど。
そして、例外もありますが、ふつうはまぁ高めの声ですね、なにしろ「幼声」ですから。

男はだいたいそうしたベイビーヴォイスが好きなんじゃないんでしょうか。
「俺はそんな甘ったれた声はごめんだね。低くて艶のある声のほうが理知的でいい」
なんて、のたまっていても、いざ「幼声」があらわれて眼の前で「ふにゃふにゃふにゃ」なんて調子で喋られた日にゃ、思わずニッコリの骨抜きもんでしょう。

それでも頑なに「ベイビーヴォイスなんて、かんべん」とおっしゃる御仁も、これから紹介する「米兵衛ズ」の歌の数々を聴けば、「イカすぜベイベー」と思ってくれるはず(だと思うんですけど……。

J-POPでもいますね、ベイビーヴォイスが。
悲しいかな名前が出てこない。

ついこないだもブック・オフへ行ったらBGMでJポップが流れていました。
でも、どれもこれも同じに聞えちゃう。ちゃんと聴こうという気がないからですね。

どの曲もサビが終わったあたりで「冷やし中華、はじめました」って続きそうな気がしちゃったり。

こんなこと書いてるから長くなるんだよな。

ちょっと前ならCharaがそうですよね。これはかなり強烈なベイビーヴォイスでした。

でも、例によってこのブログに出てくるのは古い人や古い歌手。あしからず。

古いといっても戦前までは遡らない。
だいたい渡辺はま子にしろ李香蘭にしろ、高音ではありますが、舌足らずって感じじゃありません。
ベイビーヴォイスっていうのはいわば「ファニー・ヴォイス」でもあるわけで、クラシック畑か花柳界からのトラバーユが主流だった戦前の歌謡界では、そういう幼声は嫌われたのかも。

そんなわけで、以下紹介するのは、わたしがリアルタイムで聴いた戦後のベイビーヴォイス。

いちばん古いのは昭和29年デビューの雪村いづみ
元祖三人娘のひとり。ほかの二人つまり美空ひばり江利チエミが天才肌だったのに対して彼女は努力で歌唱力を磨いてきた人。

当時はたいへんな美少女で、それに加えてのベイビーヴォイスですから、男がほうっておくわけない。浮名を流した数も三人のなかではいちばん。

その少し後に出てきて、超売れっ子になったのが中島そのみ

長野の出身で昭和20年代後半、当時流行の最先端だったドレメに通うべく上京。
それがどこでどういう風が吹いたのか、チャック・ワゴン・ボーイズというカントリーバンドのヴォーカルに。
当時はベイビーヴォイスなんていわずに、「突飛な声」なんていわれてました。

師匠はどうやらレイモンド服部のようで、「チャチャチャ天国」「西部のM型娘」など彼の作品を多くレコーディングしています。
ということは小坂一也の妹弟子にあたるわけで、彼とのデュエット曲をレコーディングしたり、ジョイントコンサートをしたり。

昭和32年、日本ポップスの夜明けともいうべき第1回ウェスタン・カーニバルにも出演しています。
そのままいけばロカビリアンに、さらには歌謡界へなんてことも可能だったかもしれませんが、あまりロカビリーが好きじゃなかったようで、バンドを離れて独立。

しかし、その特異な声とキャラクターが買われて映画に出演。
34年には東宝の団令子、日劇ダンシングチームの重山規子とトリオを組んだ「大学のお姐ちゃん」がヒット。そこで中島そのみも全国区に。
以後「お姐ちゃんシリーズ」として8作公開されたとか。そのなかで「お姐ちゃんに任しとキ」など主題歌をレコーディングしています。

もうすこしカントリーを極めてほしかったですが、シンガーとしての最大のヒット曲はテレサ・ブリュワーTeresa Brewerのカヴァー「フラフープ・ソング」だそうです。

そして38年、テレビ局のディレクターと結婚し芸能界を引退。

そのほか30年代では、ガールポップスの田代みどり斎藤チヤ子
田代みどりは当時ローティーンということもあって、ベイビーヴォイスあたりまえかなとも思いますが。斎藤チヤ子はカントリー娘らしく鼻にかかった感じがなんとも幼声。

もうひとり歌う映画スターの本間千代子も。
童謡歌手だった幼い頃そのままの声だけ成長が止まってしまったって感じ。……ちょっと大げさですが。三島由紀夫は彼女のことを「杏のような少女」と称しました。座布団七枚。

40年代になるとなんといっても山本リンダ
わたしとほぼ同年代だと思いますが、「困っちゃうな」で出てきたときは「何言ってんだかこのカマトト娘が」と思ったものです。

雌伏6年、一発屋の危機を「どうにも止まらない」でみごとに乗り切りました。
それもカマトト娘がカマキリ女?に大変身して。
でも、どんなにスゴんでみてもベイビーヴォイスは隠せません。
還暦になろうというのにいまだにだもの、スゴイよなぁ。

ほかではチェリッシュ悦ちゃん日吉ミミ、さらにはテレサ・テンも40年代組の幼声。

50年代あたりからベイビーヴォイスに興味がなくなってくるのですが。
多分、アイドル歌謡全盛で「ブリッ子」なんて言葉が流行ったように「作られたベイビーヴォイスの時代」だったからかもしれません。

それでもベイビーヴォイスだなぁと思えたのが舌たらずの太田裕美石川ひとみ。二人とも歌い方がとてもナチュラルでしたよね。

石川ひとみといえば、先日、某作家の本を読んでいたら出てきました。その著者、わたしより10は若いですから、石川ひとみと同世代なのでしょう。そしてファンだったのでしょう。わざわざ書くくらいですから。

で、彼曰く(手元に本がみあたらないので記憶に頼って)はじめは可愛かったけど、しばらく経つと妙に“しょんべん臭い”女に思えた、と。

読んでて思わずツッコんだね。
〈三十過ぎまで童貞だったおめえが言ってんじゃねえよ〉って。

これはちょっと暴言、いや“暴想”だったかもしれません。
たしかに、当時でも時代の最先端をいくような派手さはなかったかも。でもそういうところがよかったんじゃないの。

そして著者はさらに、でも今時々ナツメロ番組で見る石川ひとみはいい女になっていた、とフォローしていました。

思わず本から眼をあげてまたまたツッコんだね。
〈そいつはお前さんが、たんに歳をとったってことだよ、アハ〉って。

まぁどうでもいいことですが。

50年代で追加しておきたいのは鮎川誠の女、シーナ山下久美子

そして60年代になるのでしょうか、演歌畑からもひとり、香西かおりを。
演歌のベイビーヴォイスっていうのもめずらしい。そのミスマッチがGOOD。もうひとりあげるなら、森山愛子。彼女の場合どちらかといえばベイビーフェイスかも。

ところで音楽のメディアはレコードからはじまって、テープ、CD、MD、さらにはiPodなどのデジタルプレイヤーと変遷をかさねてまいりました。で、ベイビーヴォイスの魅力が最も再現されるのはどれだと思います?

人肌感のあるアナログのレコードじゃないかって? 
残念でした。正解はCD。
だって言うじゃないですか、“ベイビーCD”って。張々。


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VOICE⑧波声(ヨーデル) [noisy life]

リアン・ライムス.jpg

I wanna be a cowboy's sweetheart
I wanna learn to rope and ride
I wanna ride through the plains and the desert
Out west of The Great Divide
I wanna hear the coyotes singing
As the sun sets in the west
I wanna be a cowboy's sweetheart
That's the life I love the best.
([(I WANT TO BE )A COWBOY'S SWEETHEART] written by PATSY MONTANA, 1935)

一回寄り道しましたが、もう少々「VOICE」を。

前回が裏声だったので今回はヨーデル

ヨーデルで思い出すのは、いまから半世紀ほどまえのできごと。
小学校5、6年の頃、ある日突然、クラスにヨーデルブームが巻き起こったのです。
落合くんという、いつも上履きをはかずに裸足でいるという不思議な級友が、休み時間に突然「ユーレイティー」と見事なヨーデルを一節。

それから、クラスのお調子ものがこぞってヨーデルにチャレンジ。わたしも負けずに。
それから2、3日は休み時間や下校時間になるとアチコチで「ユーレイティー」が聞えていました。さすがに女子はやる人はいなかったけど(帰って家でやってたりして)。

まぁ、こうしたクラスの小さなブームっていうのは時々起ってました。
たとえば、指笛だとか、床に仰向けになって足の振りと背筋で手を使って一瞬で起き上がる(プロレスのドン・レオ・ジョナサンがやっていた)ワザとか。
だれかひとりがはじめると、「そんなの俺だってできる」ってアチコチではじまるんですね。
でも、たいがい2、3日で飽きてブーム終焉に至るわけです。

「ヨーデルブーム」も、だれかが「ノドを傷めるぞ」とかなんとか言いだして風船がしぼむように終わってしまいました。

しかし、落合くん、なんでまたヨーデルなんて始めたのでしょうか。おそらくテレビかラジオで観たか聞いたかして、魅せられてしまったんじゃないでしょうか。

そもそも、ヨーデルの嚆矢はアメリカではなくヨーロッパはオーストリアやスイスなど、アルプス山麓地域。で、「アルペン・ヨーデル」とかオーストリアの地域名をとって「チロリアン・ヨーデル」なんていったりします。
簡単にいうと、裏声と表声(とはいわない、地声ですね)を交互につかう発声法。

もとは羊などを飼育する牧童たちの連絡用の呼び声として発生したものらしいのですが、それがやがて民族音楽へと発展していったのだとか。

ウィーン少年合唱団で知られるようになった民謡にヨハン大公のヨーデルがあります。

のちにスイスの芸人たちが、そのヨーデルをひっさげてアメリカへ行き、「カントリー・ヨーデル」になったのだというのですが。

なかには、いや「南部の農民が山のこだまを真似たもの」とか「農民たちのコーラスで、女性役でファルセットをつかったのがキッカケ」あるいは「カウボーイが牛を呼ぶときに発する声がはじまり」などと、チロリアン・ヨーデルとはまったく別で、独自に発達した、という説もあります。

カントリー・ミュージックにヨーデルがつかわれだしたのは1920年代。
つまり、ほとんど民謡にちかかったマウンテン・ミュージックやヒルビリー・ミュージックがレコードやラジオによってコマーシャリズムにのるあたりから。
わかりやすくいえばカーター・ファミリーの時代(わかりやすくないか)。

“張本人”は「カントリー音楽の父」ことジミー・ロジャーズJimmie Rodgers。
1927年、ヴィクターレコードのオーディションに受かり、初めて吹き込んだのがその後ヒットした「兵士の恋人」The Soldier’s Sweetheart と「ねんねしな」Sleep, Baby, Sleep 。
その「ねんねしな」のほうにすでにヨーデルがつかわれています。

ジミーは1897年、ミシシッピーはメリディーン生まれ。
親子二代にわたる鉄道マンで、その時代に線路工夫だった黒人たちからブルースやゴスペルを習います。
彼の代名詞になっている「ブルー・ヨーデル」は、そのブルースとヨーデルを組み合わせたもの。「ブルー・ヨーデル」はデビューしたその年に大ヒット。ジミー・ロジャーズの名前を全米に知らしめることに。

元来からだの弱かったジミーは1933年、ニューヨークのホテルで亡くなります。
わずか6年あまりの歌手生活でしたが、その間「ブルー・ヨーデル№3」Blue Yodel No.3やのちに様々なシンガーにカヴァーされる「ミュール・スキナー・ブルース」、「列車を待って」Waiting for a Train、「奴はただいまムショの中」In the Jailhouse Nowなど100曲以上を書きあげたといわれています。

ジミーの功績は名曲を遺したことだけではなく、エルトン・ブリットELTON BRITTやスリム・ホイットマンSLIM WHITMANらのヨーデラーはもちろん、ハンク・スノウHANK SNOWやアーネスト・タブEARNEST TUBBなど、少なからず彼の影響を受けたカントリー・シンガーを生みだしたこと、そしてその後のカントリー・ミュージック発展の礎になったことでしょう。

では、好きな(というか知っている)カントリー・ヨーデルをいくつか。

「カウボーイの恋人になりたいの」I want be a cowboy’s sweetheart
パッツイ・モンタナPATSY MONTANA の自作自演ヒット曲。タイトルからわかるとおり、女性シンガー限定の曲。パッツイ・クラインPATSY CLINEほか多くのカントリー娘にカヴァーされているが、いちばんゴキゲンなのはリアン・ライムスLEANN RIMES。彼女のヨーデルは、ラヴシック・ブルースでも聴ける。YOU-TUBEが若い!

「彼が教えてくれたのよ」He Taught Me How To Yodel
女性のナンバーワン・ヨーデラー、ロザリー・アレンROSALI ALLENのビッグヒット。この歌は男性シンガーもよくうたう。その場合はもちろん「She Taught……」となる。でないとややこしくなるので。日本では「スイスの娘」として知られている。

「大空に投げ縄を放れば」I'm Casting My Lasso Toward The Sky
ブルー・ヨーデラー、スリム・ホイットマンのヒット曲。スリムは1924年生まれで健在。元メジャーリーガーという変わり種。ほかでは「インディアン・ラヴ・コール」INDIAN LOVE CALLも知られている。

「キャトル・コール」Cattle call
1955年にエディ・アーノルドEDDY ARNOLDがうたってビルボードのカントリー部門トップに。ハンサム、いやロンサムな牛追いをうたったカウボーイ・ソング。エディの主演映画の主題歌で、のちにバート・ランカスターが主演した「ケンタッキー人」でもつかわれたとか。

「ラヴシック・ブルース」Lovesick Blues
もうここで何度もとりあげている王様・ハンク最大のヒット曲。そういえば大昔、「ラブシックブルース」という競走馬で万馬券を獲ったことがある。たしか社台(こういう名前をつけるのはそうだよね)の馬だった。関係ないか。いらぬ情報をば。

「山の人気者」Alpine milk man
日本でもカントリー好きでなくとも知っている(だろうか)曲。日本のナンバーワン・ヨーデラー、ウィリー沖山の十八番。古い歌で、なんと昭和10年に中野忠晴がうたっている。残念ながらヨーデルはつかわれていないが。

ついでといっては失礼だが、最後に日本のヨーデラー(最近の人は知りませんが)も。
大野義夫、ジミー時田トミ藤山灰田勝彦

これだけまとめてヨーデルソングを聴くと辟易もんでしょ?
キーボードたたいているだけでノドが痛くなってくるもん。どいつもこいつもヨーデラーって、いっちゃいけないダジャレが出たところで自・演怒。


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VOICE⑦裏声・其の二 [noisy life]

和田弘とマヒナスターズ.jpg 

♪あきらめられないこの願い
 泣いて船場のこいさんが
 芝居の裏の雨の夜
 お百度まいりの法善寺
 くすり問屋のあの人に あの人に
 どうぞ 添わせて
 どうぞ添わせて おくれやす
 おくれやす
(「お百度こいさん」詞:喜志邦三、曲:渡久地政信、歌:和田弘とマヒナスターズ、昭和35年)

前回、カントリーとハワイアンで「裏声」が頻繁につかわれていたことにふれましたが、実はカントリーよりもハワイアンの方が日本では“先輩”なのです。

そもそもカントリーが日本に入ってきたのは戦後ですが、ハワイアンは戦前からすでにあったのです。

明治期にはじまった移民により、日本とは因縁浅からぬ関係にあったハワイ。
大正時代に本場のハワイアン・バンドが来日し、演奏をしたという記録があるそうですが、日本初のハワイアン・バンドが誕生したのは昭和4年。
本場ハワイ生まれの灰田有紀彦率いる「モアナ・グリー・クラブ」がそのバンドでした。
そして、そこでヴォーカルをつとめていたのが弟の灰田勝彦
本場仕込みの裏声を十二分に披露していたわけです。

しかし、“遠くて近い国”といっても戦争となれば別、アメリカの領土であるいじょう敵国に変わりはないのです。
当然ジャズと同じくハワイアンも“敵性音楽”として封印されてしまいます。

それではいうことで、灰田兄弟は昭和15年から17年にかけて歌謡曲をつくります。そしてヒットしたのが「森の小径」「鈴懸の径」

そして終戦。灰田兄弟は晴れてハワイアンを演奏できるようになり、洋楽というか音楽そのものに飢えていたファンが日劇をはじめ、実演の行われる劇場に殺到します。
なにしろ「ぜいたくは敵」の戦時中、音楽もまた“ぜいたく品”だったのですから。

そんな劇場の観客席の中に、灰田兄弟のハワイアン、とりわけスチールギターに酔いしれ、いつか自分もハワイアンを演りたいと考えていた若者がいました。
それが、のちに自らのバンドで一時代を築くことになる和田弘

和田弘がバッキー白片とアロハ・ハワイアンズをやめ、マヒナスターズを結成したのは昭和28年。当初は先輩の山口銀次がいて、「山口銀次とマヒナスターズ」というバンド名でした。1年後に山口が脱退し、「和田弘とマヒナスターズ」と改名。
そのときに、ヴォーカルの松平直樹やウクレレとバックコーラス、とりわけ「裏声」の佐々木敢一らが加入します。

マヒナスターズの仕事場は主にダンスホール。また夏場になるとお決まりのビヤガーデン。
もちろん演るのはハワイアンですが、レパートリーを広げるため、また客へのサービスとして石原裕次郎のヒット曲など、歌謡曲も演るようになっていきます。これには歌謡曲通だった松平によるところが大きかったとか。

そのマヒナの歌謡曲を聴いて「いける!」と受け止めたのがビクターのプロデューサー。
さっそく契約、そしてレコーディングへと話がすすみます。それが昭和32年のこと。

当初は、ビクターのヒット曲、それも「哀愁の街に霧が降る」とか「東京の人」、あるいは「好きだった」などの吉田メロディーのヒット曲。
これがなかなか好評で、翌33年に初めてのオリジナル「泣かないで」をリリース。

はじめはさほどでもありませんでしたが、その4カ月後に出した「夜霧の空の終着港(エア・ターミナル)」がNHKでうたったこともあって大ヒット。その影響で「泣かないで」も注目されることに。

同じ年の松尾和子をフィーチャした「誰よりも君を愛す」がレコード大賞を受賞。
以後、
35年 お百度こいさん
36年 北上夜曲(feat.多摩幸子)
37年 寒い朝(feat.吉永小百合)
39年 お座敷小唄(feat.松尾和子)
40年 愛して愛して愛しちゃったのよ(feat.田代美代子)
41年 銀座ブルース(feat.松尾和子)

とヒット曲を連発。のちのムード歌謡といいますか、ムードコーラスの原形をつくります。またメインヴォーカルに女性をフィーチャするというスタイルもマヒナによってつくられていきます。

そしてこれらのヒット曲には、ときには前面にときにはさり気なく佐々木敢一の「裏声」を聴くことができます。

その後、41年には黒沢明とロス・プリモス「ラブユー東京」で、43年にはロス・インディオス「コモエスタ赤坂」とラテン出身のコーラスグループがヒットを放ち、44年には「長崎は今日も雨だった」内山田洋とクール・ファイブが、49年には敏いとうとハッピー&ブルー「わたし祈ってます」が続き、ムードコーラスは全盛をむかえます。

そして、彼らの歌の多くは「女歌」で、そのひとつのテクニックでもあるかのように「裏声」がつかわれていました。
また、44年にはソロでも箱崎晋一郎「熱海の夜」で「裏声」を聴かせてくれました。

いまではあたりまえの、ソロにしろコーラスにしろ男がうたう「女歌」の原点もおそらくマヒナの「裏声」にあったのではないでしょうか。
さらにいえば、その後演歌はもちろん、フォークやニューミュージックでうたわれた男の「女歌」のはじまりもマヒナだったのではないでしょうか。
さすがに「裏声」はほとんど聴こえませんでしたが。

さいごにつけ加えておきたいのは「日本の裏声」。
元ちとせ中孝介で広く知られるようになった奄美諸島の民謡、島唄
なぜ沖縄になくて奄美諸島だけにあるのか不思議ですが、その「裏声」はカントリーやハワイアンより頻繁に駆使され、まるでヨーデルに近いものまであったり。

奄美民謡で「裏声」がつかわれるようになった理由はいくつかあるようですが、そのひとつは神に近づく巫女のように「男が女を真似る」ということ。
つまり、のちのムードコーラスの発想と同じ。
そういえば、男がうたう「女歌」の原点のひとつマヒナスターズの「お百度こいさん」を作曲した渡久地政信は奄美大島育ち。
…………なんとなく話がととのったようなととのわないような。ユーレイヒー……。


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VOICE⑥裏声・其の一 [noisy life]

坂本九.jpg

 おまえは 僕を 泣かしたけれど
 いまでは 彼に 棄てられ泣いてる
♪HATS OFF TO LARRY 
彼はもう 君のもとには 帰らない
辛いだろうね さあお泣き CRY CRY CRY
涙が 涸れるまで

君は僕に 冷たい言葉で
サヨナラを 言ったね
HATS OFF TO LARRY
彼もきっと 冷たい言葉で 別れを言った
辛いだろうね さあお泣き CRY CRY CRY
すべてを わすれるように
(「花咲く街角」詞:漣健児、曲:DEL SHANNON、歌:坂本九、昭和37年)

いよいよVOICEも佳境に入ってまいりました(何のことやら)。

今回は「裏声」「ファルセット」なんていったりしますね。
声楽家や音声学者の方々にいわせると、いろいろその定義も難しいようですが、ここはラフに裏声=ファルセットということで。
つまり、音域のリミットを超えて出るひっくり返った声、つまり裏声ということ。

Jポップがたまに耳に入ってくるのですが、けっこう裏声をつかうシンガーいますね。名前がわからないのが恨めしいのですが(曲名もだろ)。

まぁ、若ぶっていえば平井堅なんてそうですし、ちょっとまえならミスターチルドレンとかL’Arc-en-Ciel のヴォーカル(知ってるけどいわない)も駆使してました。

裏声ってセクシーなんでしょうか。それになんとなく歌が上手く聴こえたり。
カラオケでも上手にうたいこなせばヤンヤヤンヤ(死語か)だったり。

その裏声、すなわち声をひっくり返すといえば、カントリー・ミュージックがおなじみ。といってもそれは古の、つまりいまでいうカントリー・クラシックの時代の歌でありシンガーの話。
いまのポップスやロック(ヒップホップだって)に接近したカントリーでは無用の長物と化しているのかもしれませんが。

とにかく戦後、昭和20年代に、ジャズやハワイアンとともに日本に上陸し、一部の洋楽ファンから熱烈に支持されたのがカントリー&ウエスタン。
カントリーに心を奪われた当時の青少年諸君は、あの「裏声」にシビレちゃったのではないでしょうか。

そんな日本のカントリーシンガーのなかから人気者(アイドルなんていわなかった)が出てきます。それが小坂一也

昭和29年、和製カントリーの「ワゴン・マスター」でレコードデビュー。小坂の師匠であるレイモンド服部の作曲で、見事に「裏声」が取り入れられています。

32年にはなんと古賀メロディー「青春サイクリング」がヒット。さすがに、古賀政男が直接歌唱指導したとあって「裏声」は封印されていますが。なんでも師匠は歌謡曲をうたうことを強く反対したとか。

その後は映画会社松竹と専属契約を結び、歌よりも役者稼業に力を入れるように。

33年に爆発した「日劇ウエスタン・カーニバル」に出ていないのは、その時すでに“ビッグ”になっていてマネジメントができなかったからでしょうか。
ある雑誌で「日劇」を観た感想を「俺ももう引退かな」なんて冗談半分にいってたり。

平成9年に病死しますが、晩年はカントリーシンガーとしてのコンサートに積極的だったり、ファンには嬉しい姿をみせてくれました。
自作で「グッド・ハーテッド・ウーマン」を彷彿とさせる「パパはシンガー」なんていう泣かせる曲もうたっていました。

カントリーはすぐにロカビリーに取って代わられてしまい、そのロカビリアンたちも歌謡曲やポップスに転向を余儀なくされるのですが、そうした元カントリー・シンガーたちが、別の“土俵”にあがっても、むかしとったなんとやらで「裏声」を披露してくれることがありました。以下のふたりもそんなシンガー。

「骨まで愛して」 城卓也
「どうにかなるさ」 かまやつひろし

またロカビリーはテレビの時代になって「カヴァーポップス」として延命していきますが、そんななかにも「裏声ソング」があふれていました。その多くはカントリーの影響を受けた“小裏声”でしたが。

弘田三枝子「ルイジアナ・ママ」九重佑三子「シェリー」清原タケシ「恋の一番列車」などはいずれも印象に残っています。

そんななかでも“裏声大将”といってもいいのが坂本九
たとえば「花咲く街角」、たとえば「ステキなタイミング」、たとえば「カレンダー・ガール」など。そしてかのオリジナル「上を向いて歩こう」だって、ところどころにその片鱗が。

ところで前述したように、戦後日本に津波のようにやってきた洋楽。そんななかで「裏声」が聴けたのはカントリーばかりではありません。

ザビア・クガートペレス・プラード、あるいはトリオ・ロス・パンチョスの来日で、昭和20年代後半から30年代にかけてブームが起きたのがラテン。
日本人でもアイ・ジョージ坂本スミ子宝とも子らが人気に。

そんななかで「裏声」といえば、やはり「ラ・マラゲーニャ」。これはカントリーのような「小裏声」ではなく、どこまでのばすの? というほど長い裏声。その部分にくると観客はヤンヤヤンヤ(まだいってる)。

そしてもうひとつ、昭和20年代から30年代にかけてカントリーと比肩するほど人気が高かったのがハワイアン。
あれからウン十年、みんなどっかへ行ってしまいましたが、大橋節夫ポス宮崎バッキー白片……。ヴォーカリストならエセル中田南かおり、そして日野てる子

そのハワイアンでもときおり「裏声」を聴くことができました。日野てる子はオリジナルの歌謡曲「夏の日の想い出」でも。

こうしてみると日本の「裏声」は戦後、洋楽が運んできたと思いがちですが、そんなことはありません。
日本の歌謡曲にもファルセットを頻発する、それもとびきりの上手さでうたう「裏声シンガー」がいるのです。
そうです、かの女王・美空ひばりです。

たとえば「哀愁波止場」だったり、「ひばりの佐渡情話」だったり、「りんご追分」だったり、「津軽のふるさと」だったり、「みだれ髪」だったりと。
これはもう「ひばり節」といっていいほどですね。

どれもこれもいまの演歌歌手がカヴァーしたがる歌。みんなあのファルセットに魅かれてうたいたくなっちゃうんでしょうか。とにかく流行歌手として、ファルセットの精度と美しさに関しては日本一といってもいいんじゃないでしょうか。

それはさておき、昭和30年代から40年代にかけて、美空ひばりとはまた違った歌謡曲のなかでの「裏声」の流れが起こります。
残念ながら、時間となりました(勝手に決めてます)。この続きは次回ということで。


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VOICE⑤ハスキー/女編 [noisy life]

私は泣いています.jpg

♪私は泣いています ベッドの上で
 私は泣いています ベッドの上で
 あなたに逢えて 幸せだった
 昼も夜も 帰らない
 あなたがいたから どんなことでも
 なりふりかまわず 歩いてきたの
(「私は泣いています」詞、曲、歌:りりィ、昭和49年)

女性もそうかもしれませんが、多いですね、ハスキーヴォイスが好きだという野郎どもは。
なんででしょうか。
前回もらしきことをいいましたが、乱調の美というのか、不良への憧憬のようなものがあるのでしょうか。

また、ハスキーヴォイスには夜やアバンチュールの匂いがあって、それが人間のもっている不道徳な部分を刺激してきたり。またそういうシンガーはそういった歌をうたうんだ、これが。(あくまでわが貧困なるイメージの話ですからね)
能書きはどうでも。

ハスキーヴォイスで注目されたのは、男が森進一なら女はやはり青江三奈姐御でしょうか。

青江三奈。元祖茶髪ですね。
半世紀近く前に、黒髪を金や茶色に染めていたのですから、かなり前衛的でした。

デビューは森進一と同じ昭和41年。ハマクラメロディーに川内康範が詞をつけた「恍惚のブルース」。たしか、川内康範が週刊誌で連載していた小説を歌謡曲にしたもので、青江三奈という名前もヒロインかなにかから命名したものではなかったでしょうか。

森、青江ともにビクターレコードで、当時はハスキーヴォイスとはいわずに“ため息路線”なんていってました。

まぁ、パツキン、ハスキーとくればキワモノの一発屋でもおかしくなかったのですが、そこはナイトクラブやライヴハウスで鍛えた歌唱力、そんじょそこいらの新人歌手とは集合住宅、いやダンチ。

デビュー曲はそこそこヒットして紅白歌合戦出場をはたしましたが、第二弾でつまずいて翌年はサッパリ。
ところが43年になるといきなりかの「伊勢佐木町ブルース」が大ヒット。
同じ年に「札幌ブルース」「長崎ブルース」とヒットを連発してブルースの女王に。

さらに翌44年には彼女の最大のヒット曲となる「池袋の夜」をリリース。一時代を築くシンガーとなります。
下地のあったジャズをはじめとする洋楽や、歌上手ならではのナツメロをはじめとするカヴァー曲も聴かせてくれます。

60歳を前に亡くなってしまいましたが、もっといろいろな曲を聴きたかった。とりわけ古賀、吉田、服部メロディーのカヴァーで聴きたい曲はいくつも。
決して美人ではないけれど、庶民的な(なんて表現)顔立ち。話す言葉のはしはしから感じられる気さくで人のよさそうな性格。ファンはそんなところに魅かれたのでしょう。もちろん、ハスキーヴォイスにもですけど。

それでは、そのほかの“愛すべきハスキーヴォイス”の数々を。

戦前の擦声女性歌手は思いつきませんが……、笠置シヅ子は近いけどハスキーっていうほどでもないし。

戦後になってもやはり、プロの歌手とは美声というか滑らかな声があたりまえ、という風潮。そんななかで出てきたのはやっぱり洋楽系。
それはヘレン・メリルHelen merrillやジュリー・ロンドンJulie Rondonといったスタンダードをうたうヴォーカリストの影響が少なからずあったのでしょう。
「ああ、ハスキーでもいいんだ」というよりは、ハスキーの方がああした彼女たちの魅力に迫りやすいということだったのでは。

江利チエミ その代表が彼女でしょう。昭和20年代後半から30年代にかけて、洋楽ファン以外の日本人にもジャズやスタンダードヴォーカルの魅力を教えてくれたのが彼女ではなかったでしょうか。洋楽系では沢たまきも、江利チエミよりはさらに大人の雰囲気で男どもを魅了したハスキーヴォイスでした。

浅川マキ 昭和40年代というよりは西暦の60年代から70年代にかけて、アングラシーンで女王に君臨したのがこの人。ロングヘアに眼が隠れるほどのつけ睫毛、そして闇に溶けそうな黒のロングドレスときたら、声はもうハスキーに決まっている。

りりィ 前回私的「ミスター・ハスキー」がもんたよしのり、といいましたが、「ミス・ハスキー」はシンガー・ソングライターのりりィ。デビューしたての頃はスージー・クワトロSusi Quatro のようにベースをかかえてうたっていました。自作の「私は泣いています」は名曲中の名曲。
現在は女優の方がめだちますけど。

大信田礼子 りりィより少し早く歌謡ポップス「同棲時代」をヒットさせました。この頃まで常識だったいわゆる「歌う女優さん」。歌手としては決して上手ではありませんでしたが、独特の雰囲気を醸し出していたのはやはりハスキーヴォイスだったから。

葛城ユキ ポップコン出身で、80年代に入り「ボヘミアン」でブレイク。ロック系といいますか、シャウトするシンガーにはハスキーヴォイスはうってつけ。ほかでは元バービーボーイズの杏子、SYOW-YAの寺田恵子とか山下久美子中村あゆみとか。

八代亜紀 青江三奈も「演歌」にジャンル分けされますが、どうしてもポップスやスタンダードの雰囲気が残ります。そういう意味では「純演歌」のハスキーヴォイスといえば八代亜紀。
2人を比較すると、八代亜紀の場合は“可愛い女度”が強すぎて、青江三奈のような大人の雰囲気がないような。言い方をかえれば青江三奈がドライなのに対して、八代亜紀はウェット。……どちらも好きですが。なもんで、いまとなっては2人のデュエットは貴重中の貴重。ハスキーの狂犬、じゃなくて共演を。

ケイ・ウンスク 演歌ではこの人も。八代亜紀以上にそのハスキーヴォイスを前面に押し出して、つまりウリにしている歌手。
ご存じのように何年か前に覚醒剤で事件を起こして、しばらくは来日できないようです。韓国ではもはや歌手活動を始めているということも聞きますが、日本では未だ。たしかビザが下りないのが5年だったはずですから、そろそろ復帰するかもしれません。もっとも日本のメディアが受け入れればですが。

ところで、何気なく流行歌を口ずさむような人間にとっては、誰もが歌を好きだろうと思いがちです。ところがさにあらず。なかには流行歌なんてまるで興味がないという人間だって。

わたしの知り合いの兄哥にもそういう“話せない”人間のひとり。
職人なのでなおさら解せない(それも偏見。職人だって演歌嫌いはいるし、趣味クラシックという御仁もいる)。

そんな兄哥が酒の席で、わたしを流行歌好きと知っていて言ったひとこと。
「演歌は好きじゃないけどよぉ、ケイ・ウンスクはいいよなぁ」
聞けばあのハスキーヴォイスが「堪らん」とか。

もちろん、兄哥がケイ・ウンスクを好きなのは、ハスキーヴォイスがだけではなく、その容姿や雰囲気もあるだろうし、うたっている楽曲に魅かれたということもあるでしょう。
しかし、もしケイ・ウンスクがハスキーヴォイスでなかったら、はたしてわざわざCDプレイヤーまで買っちゃうほど好きになっていたかどうだか。

音楽嫌いまで“吸引”してしまうハスキーヴォイスの“魔力”たるや想像以上にスゴイのかも。それともかの兄哥が人並みはずれてハスキーヴォイスに共振する人間なのか。
今度会ったとき、青江三奈のCDでもプレゼントして、その感想でも聞いてみようかな。


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VOICE④ハスキー/男編 [noisy life]

ダンシング・オールナイト.jpg 

♪チイタカタッタ チタカタッタ 笛の音が
 ビルの窓から 飛び出して
 暗い夜の空へ 流れていく
 僕の姉さんの住んでる 遠い国
 ヤイヤイヤ ヤイヤイヤ ヤイヤイヤイヤイヤ
 僕も行きたいな 夜空をかけて
(「夜空の笛」作詞・作曲:浜口庫之助、歌:守屋浩、昭和34年)

ハスキーヴォイスとは、声帯から音(声)がもれてしまうことで発せられるノイジーな声のことで、擦(かす)れ声あるいは嗄(しゃが)れ声ともいわれています。ただ濁(だみ)声とは違うのだそうです。
個人的認識では擦れ声の度を越したものが濁声だと思っていたのですが、声帯的あるいはノドの構造に違いがあるのでしょうか。

よくわかりませんが、ここは研究所ではなく音楽の広場(ウソつけ)、先を急ぎましょう。

今回はハスキーヴォイスを。それもまずはメンズから。

ハスキーヴォイスにしろ、ダミ声にしろ、いわゆるノイジーな声というのはクラシックはもちろん流行歌の世界でもかつては悪声といって“御法度”でした。

テノールにしろバリトンにしろ声の高低はともかく、とにかく滑らかな声こそが、聴く人の耳触りがよく、歌唱にふさわしい声といわれていました。

それがいつのころからノイジーな声もひとつの個性だと認知されるようになったのでしょうか。
多分、美声に飽きた聴き手が「よく聴けばなかなか味があるじゃん」なんていって、そうした“異声”を歓迎するようになったのではないでしょうか(そんなことないか)。

では、日本初のハスキーヴォイス・シンガーは?
「ウィキペディア」をのぞいたら、「森進一」という説がのっていました。

わたしの印象でもたしかに。
森進一がデビューしたとき、そのノイジーな声に耳を奪われたことを覚えていますから。

デビュー曲「女のため息」は昭和41年のことでした。
当時、ほぼ同時期で次回ふれるかもしれない青江三奈もデビューし、洋楽ではアダモが人気で、「ハスキーヴォイスのトレンドがきたか」(こんな言い方はしないけど)なんて思った記憶があります。

しかし、ほんとうに森進一以前にハスキーシンガーはいなかったのでしょうか。

まずは「欲しがりません勝までは」の戦前をみてみると。

たしかに美声第一主義。右を向いても左を見ても美声というか滑らかな声の持ち主ばかり。
しかしいました、唯一の例外が。
日本の喜劇王といわれたエノケンこと榎本健一が。

……ダミ声じゃないかって? たしかに。まぁ、「これがハスキーかよ」ってツッコまれたら「パピプペ パピプペ パピプペポ」になっちゃいますけど。

では戦後はどうでしょう。
「もはや戦後ではな」くなっちゃった30年代。

たとえばレコード大賞第一号の水原弘。そしてアイドル的人気を得た守屋浩。どちらもロカビリー出身というのが当時の流行歌としては新しかった。

どうでしょうか。
水原弘はどちらかというとダミ声にちかいかも。しかし守屋浩はそこはかとなくハスキーの調べが。
当時、素人の歌真似番組で守屋浩のマネをする人が少なからずいました。それは、ハスキーヴォイスをマネたというよりは、息を吸い込むような独特の歌唱法をマネしていたという印象でした。

ちょっと森進一に比べるとそのハスキー度がソフトフォーカスのような気もしますが、決して滑らかな声ではなくノイジーであることは間違いないでしょう。

もうひとり30年代で忘れられない声といえば、一節太郎がいました。
これは…………。
もはや浪花節のつぶれた声ですね(浪曲師がすべてこういう声ではないですよ)。これをハスキーというにはちょっと……。
ちなみに一節太郎は遠藤実門下で、浪曲師の経験は皆無。なんとか売れたくてわざわざ声をつぶし特徴を出したのだとか。
その思惑がみごとに当たって「浪曲子守唄」は大ヒット。ただその後のヒットが出ず名前どおり一節で終わってしまいましたけど。

その一節太郎はともかく、水原弘をハスキーとするならば、第一号候補は水原か守屋かということに。
デビューはともに昭和34年。ただしレコードのリリースが、守屋は9月、水原は7月ということで、その“栄冠”は水原弘に。(大げさ)

といいたいところですが、実は昭和30年代にもうひとりハスキーヴォイスの大物が。

それが昭和31年「太陽の季節」で銀幕デビューし、同年「狂った果実」(主演)で同名のレコードデビューも果たし、以後映画とレコードで頂点を極めた石原裕次郎
裕次郎のレコードはエコーを効かしているので、ややわかりにくいところもありますが、セリフ入りのものを聞くと地声からしてハスキーなのがよくわかります。

で、結論。日本のハスキーヴォイス第一号は石原裕次郎ということに。

強引な結論を出したところで、とり急ぎわが愛するメンズ・ハスキーヴォイサー(そんな言葉はない)を。

三島敏夫 裕次郎で思い出すのがこの人。ハワイアン出身で「面影」がヒット。裕次郎の「俺はお前に弱いんだ」はこの人がオリジナル。

矢吹健 デビュー当時は森進一のエピゴーネンのような感じでしたが。もし、森進一がデビューしていなかったら矢吹健のヒットもなかったかも。それだけハスキーシンガー・森進一の存在は大きかった。ムード歌謡系ではニック・ニューサも。

西城秀樹 歌謡曲のアイドル系ではめずらしいハスキーヴォイス。のちに日本のロッカーが彼の歌をカヴァーしているのを何度か聞いたが、納得。

もんたよしのり 個人的にハスキーヴォイスと聞いてすごぐ思いつくのがこの人。ポップスの“一節太郎”。一発屋ってか? じゃなくてつぶした、いやつぶれた声が。

桑田佳祐 ハスキーヴォイスっていうのはいっけん物真似しやすく思える。その代表格が桑田佳祐。ハスキーの部分を強調してごまかせるから。でもよく聴くと似てなかったりして。同じ湘南系では前田亘輝も。

大木トオル 日本のブルース系ロック系シンガーは概してハスキー。ほかでも有名どころでは上田正樹木村充揮桑名正博世良公則そして柳ジョージ
でも、彼らはハスキーというよりダミ声にちかいのかも。

甲斐よしひろ 声質でいうといちばん好きなハスキー。これぞ正統派ハスキーといってもいいのではないでしょうか。

萩原健一 甲斐よしひろが出れば当然この人も。とりわけテンプターズ時代の若いハスキーヴォイスがなんとも色っぽい。

なんでもいまは、ヒップホップ系のハスキーヴォイスが人気のようで、ああしたノイジーな声に憧れる若者もいるとか。

でも、ハスキーヴォイスっていうのはマイノリティだから聴いていても飽きないんだよね。誰もかれもが萩原健一みたいなハスキーヴォイスだったら、食傷しちゃうよきっと。
とはいえ、一度全員萩原健一みたいな声っていう男性コーラスで「野ばら」か何か聴いてみたいね。ウィーン・ショーケン合唱団みたいな?

さてと、これからTVでサッカー見なきゃ。でも明日朝早い用事があるんだよな。できたら早めに終ってくれないかなってムリだよなぁ、ボクシングじゃないんだから。

 


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VOICE③低音・女編 [noisy life]

モロッコ1931.jpg 

♪涙じゃ ないのよ 浮気な雨に
 ちょっぴり この頬 濡らしただけさ
 ここは 地の果て アルジェリア
 どうせ カスバの 夜に咲く
 酒場の 女の うす情け
(「カスバの女」詞:大高ひさお、曲:久我山明、歌:エト邦枝、昭和30年)

そもそも声の高い低いはいろいろの要素が関係しているようですが、ひとつの目安としてよくいわれるのが声帯の長短。
つまり、声帯の長い人は低く、短い人は高くなるということ。

さらに、概して背の高い人は声帯も長く(つまり低音)、背の低い人は短い(高音)というのが一般的だとか。
もちろん例外は何にでもあるわけで、身の回りを見渡せば、誰しもがそうした例外的な人に思い当たるのではないでしょうか。

しかし一般的には、たしかに背が高いのにハイトーンで喋る人というのはあまり見聞きしたことがありません。

そこで女性の場合も背の高い歌手は声が低いという「定説」が当てはまるのかも。で、思いつくのが和田アキ子

たしかに女性にしては大柄で、地声も歌声も低い。

しかし昭和の歌姫・美空ひばりは身長150センチあまりでしたが、どちらかといえば低音でした。
ということは、大柄な人の高音はあまり聞かないが、小柄な人は高音、低音いずれもいるということでしょうか。

まぁ、身長・体重無関係に低音の女性歌手を探していくことに。

女性の“低音シンガー”を探す目安のひとつに“物真似”があります。
つまり男の物真似芸人がレパートリーとする女性シンガーということです。

現在の歌真似事情にはとんと疎いのですが、かつて男の声色師に真似された女性シンガーの“御三家”といえば、一に美空、二に淡谷、三に和田アキ子。

淡谷のり子は、「高音天国」の戦前にあって、持ち前のロウトーンで異彩を放った数少ない人気シンガーでした。

とにかくシャンソンやタンゴなど洋楽系の歌が多く、「雨のブルース」、「別れのブルース」など日本のヒット今日もジャジーな服部良一の楽曲が多かった。
当時主流だった古賀メロディーもうたわないではなかったが、戦中の歌手で最も軍歌の似合わないシンガーでもありました。

“物真似”のほかにも、もうひとつ女性の低音シンガーをあぶりだすヒントがあります。
それはズバリ楽曲そのもの。つまり、低音シンガーが好む歌があるのです。
それが昭和30年につくられた「カスバの女」

うたったのはエト邦枝
れっきとした純日本人で、エトは彼女の本名。
当時の多くの歌手がそうだったように、彼女もまたクラシック出身。大蔵省に勤めていたという経歴も変わっている。

作曲の久我山明は韓国人で、本名は孫牧人(ソン・モギン)。ほかに菅原都々子李成愛がうたった「木浦の涙」菊池章子「さよならマンボ」などをつくっています。

大高ひさおは、戦後の昭和20年代、30年代に活躍した作詞家で、代表曲はこの「カスバの女」と「銀座の恋の物語」(石原裕次郎、牧旬子)。変わったところでは昔なつかしい、トミ藤山がうたった「オリエンタルカレーの唄」もつくっている。

そもそもこの「カスバの女」、「カスバ」はもちろん「アルジェリア」や「チュニス」、「モロッコ」が出てきたり、あげくの果ては「セーヌ」や「シャンゼリゼ」まで出てくるという、まったくもって無国籍流行歌。

内容は酒場の女と外人部隊の兵士との刹那的な恋をうたっています。
まさか、アチラ方面へ日本の女性が流れていったという話はききませんし、これはまさにフィクション中のフィクションですね。

それも、戦前ゲイリー・クーパーとマレーネ・デイトリッヒが共演した「モロッコ」を下敷きにしているんでしょうね。
ただ、疑問に思うのはなんでそんな古い映画のストーリーを昭和30年に蘇らせたのかということ。それもまるで唐突に。当時リバイバル上映でもあったのか。

なんか、またまた話の軌道が大きくはずれてきているようで。
「低音シンガー」の話でした。

このエト邦枝がまず低音。
そしてこの名曲(当時はヒットしなかった)をカヴァーしている女性歌手があらかた低音なのです。
つまり、『低音シンガーは「カスバの女」をカヴァーしたがる』という“定説”。

すでに名前をあげたところでは美空ひばりがカヴァーしています。

ほかでは、もはやカヴァーというよりオリジナルにしてしまっている緑川アコ
さらには、ちあきなおみ竹越ひろ子

ポップス系では岸洋子浅川マキなどなどいずれ劣らぬ低音の魅惑。

まあいること、いること女性の低音シンガー。
でも「カスバの女」以外でもまだまだいるのです。
毎度毎度の予定オーバーなので、“特別快速”で終点まで。

戦後間もなくでは「岸壁の母」菊池章子がいますし、30年代では今なお現役の大津美子が。

またその頃のポップス系でも、築地容子、坂本スミ子、江利チエミ、浜村美智子、沢たまきとなぜかこちらは「低音天国」。

今でも「高音天国」の演歌では扇ひろ子がいるし北原ミレイも。

そしてアイドル系ならこのふたり。山口百恵中森明菜

それ以外でも思いつくのが松尾和子もそうだろうし、研ナオコもかなりの低音。

Jポップはよく知らないけど、日本のニーナ、UAはそうじゃないでしょうか。

まだまだいるのでしょうが、このぐらいにしときましょう。

しかしまぁ、高音がいいか低音がいいか、というのは多分に好みの話もあるでしょうし、楽曲とマッチしていればそれでよしってこともいえるでしょうし。

とはいえ、共通認識として男は低音、女は高音というアバウトなイメージはありますね。

歌ではなく映画やテレビドラマの主人公などは、だいたいが低音ですね。
前回の「男編」でいえば裕ちゃんも健さんも哲兄ぃもみんな低音。
健さんが「唐獅子牡丹」のなかで、安田大サーカスのクロちゃんばりの高音で「死んで貰います」なんて言ったって、「おめえが死ね!」って突っ込まれるのがオチ。やはり決めぜりふはドスを効かせなくては。

いまでいえば、キムタクだって、福山雅治だってそうですしね。
高音で主役は張れるのは、昔でいえば例外中の例外の小林旭と、喜劇は逆に高音歓迎ということでの渥美清ぐらいじゃないでしょうか。

そうそう今回は低音シンガーの「女性編」でした。

上にあるように低音シンガーをラインナップしてきてわかることは、だいたいがよくいえば大人の雰囲気をもった、わるくいえば暗いイメージの歌手が多いということ。
つまり暗い歌には低音シンガーを、ということですね。

「カスバの女」がまさに、低音シンガーによくあう湿った楽曲なんだ。ちょっと人生の辛酸をなめているような、なげやりな感じのね。
それをたとえば由紀さおりばりに♪涙じゃ ないのよ なんて天井突き抜けるような声でやられた日にゃ、「カスバの女」が「春日の女」になっちゃたりして。誰だい、それ。


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VOICE②低音・男編 [noisy life]

水原弘.jpg

♪泣いてる 娘に グラスをすすめ
 今夜は 飲みなと 振るシェーカーは
 恋にやぶれたこの俺の せめておごりにしておくぜ
 苦い 酒だよ 恋のカクテル
(「恋のカクテル」詞:永六輔、曲:中村八大、歌:水原弘、昭和37年)

正月休みが長すぎて、いまだ調子の波に乗り切れないのですが(なぜかキイボードを叩くと睡魔がやってくる)、しばらくは「声」についての駄文を書き散らかしていこうと思っています。

で前回の「高音」に続き、今回は魅惑の「低音ヴォイス」を。

低音といえば、また訃報。
俳優の細川俊之さんが亡くなりました。

細川さんといえば、若い頃観た映画「エロス+虐殺」で大杉栄に扮した姿が、吉田喜重監督の美しい映像、そして一柳慧の印象的な音楽と共に思い起こされます。

あの低くソフトな声はまるでビロードの手ざわり。耳元で囁かれたいと思う女性は少なくなかったのでは。

音楽ファンならばごぞんじでしょうが、細川さんあの魅惑の低音でレコードを出しています。ソロでも出していますが、ヒットしたのは中村晃子とのデュエット(ダイアローグ)「あまい囁き」
これはダリダDalidaとアラン・ドロンAlain Delonによる「パローレ」Paroles Paroles のカヴァー盤。
細川さん、ドロンに負けないシブイ声で囁いています。

もうひとつ最近「低音」で話題になったのがアメリカのホームレス、テッド・ウィリアムス氏。
MLB最後の4割バッターと同じ名前だが、もちろん無関係。

元ラジオのDJをやっていたというだけあってなかなかの低音美声。
その声と映像がYOU-TUBEにのって、あたかもスーザン・ボイルのように時の人になったとか。

実際に聞いてみるとたしかにいい声。
どこかで聞いたことがある……と思って思い出したのが昔しばしば観たというか、聞いた洋画の告編のナレーション。子供ごころにも「シブイ」、……とはいわなかったな、「イカス」声でした。

話がどんどん明後日の方へ行っておりますので軌道修正。

前回いったように、戦前および昭和30年代あたりまでの流行歌の世界は高音が主流でした。
しかしいつどこであっても例外はあるわけでして、主流があれば当然のごとく傍流もまたあるのです。

まず戦前、低音でヒット曲を連発したのがディック・ミネ

昭和9年に「ダイナ」でデビュー。
以後、「二人は若い」、「人生の並木路」「林檎の木の下で」「上海ブルース」、「旅姿三人男」などをヒットさせ、戦前の歌謡界を盛りたてました。

ディック・ミネはステージネームで本名は三根徳一と、生粋の日本人。
「ディック」の由来は当時のアメリカの人気俳優、ディック・パウエルからとったとか。
戦後ものちに石原裕次郎がカヴァーした「夜霧のブルース」をヒットさせている。

数少ない低音シンガーですが、ほかでは昭和15年、「暁に祈る」、「熱砂の誓い」、「高原の旅愁」とたて続けにヒットをとばしたスゥイートバリトン、伊藤久男がいます。

戦後も菊田・古関の「君の名はコンビ」の「イヨマンテの夜」「君、いとしき人よ」をはじめ、叙情歌謡「あざみの歌」「山のけむり」(いずれも八洲秀章作曲)など、20年代にいくつものヒット曲を連発。昭和の歌謡曲を語るうえで欠かせない歌手のひとり。

昭和も30年代になると流行歌の世界も百花繚乱。
伝統的古賀メロディーありの、カヴァーポップスありの、望郷歌謡ありの、ムード歌謡ありの……。
そんな昭和30年代、「低音ブーム」の津波(というほどデカくはなかったか)がやってきます。

「お笑い芸人」はいまでも人気ですが、当時もスターが何人もいました。
そのひとりがウクレレ漫談という新境地を開拓した牧伸二(いまも現役です)。

ハワイ民謡「タフアフアイ」のメロディーにのせて小咄仕立てのネタをやるのですが、そのひとつに以下のようなものがありました。
「フランク永井は低音の魅力 神戸一郎も低音の魅力 水原弘も低音の魅力 漫談の牧伸二低脳の魅力 あああ やんなっちゃった あああ おどろいた」

と、このネタに出てくる3人のはいずれも当時の人気歌手で、順番にいうと、

まず32年の12月にコロムビアの歌謡コンクールで優勝した神戸一郎「十代の恋よさようなら」でデビュー。これがヒットして以後アイドル歌手として「銀座九丁目水の上」「ひとみちゃん」、「別れたっていいじゃないか」、「恋人をもつならば」をヒットさせると同時に、映画にも出演し、甘いマスクと低音で若い女性ファンを魅了しました。

ほぼ時を同じくしてすでにジャズ歌手としてレコードデビューしていたフランク永井「有楽町で逢いましょう」が大々ヒット。
以後、ムード歌謡の旗手として「君恋し」、「西銀座駅前」、「東京ナイト・クラブ」、「好き好き好き」「東京カチート」などのヒットを連発し、ムード歌謡の旗手として一時代を築いていくことは、このブログでもたびたびとりあげました。

そして3人目、ロカビリー出身の水原弘は34年7月に「黒い花びら」でデビュー。これがいきなり大ヒット。おまけに第一回のレコード大賞まで射止めてしまいます。

その後、「黄昏のビギン」や「恋のカクテル」の、あるいはハマクラさんの「愛の渚」など小ヒットはありましたが、ビッグヒットにめぐまれず「一発屋」予備軍に。しかし42年に川内康範らのバックアップで「君こそ我が命」をヒットさせ、レコード大賞歌唱賞をも射止めてみごとにカムバック。

しかし、親しみをこめて「おミズ」と呼ばれ、気風がよく、酒好きで豪放磊落、無頼派、破滅型と称された歌手はそのイメージどおり、昭和53年公演先のホテルで血を吐き客死します。

以上3人のほかにも、この年代、「低音の魅力」でファンをシビレさせたシンガーが何人かいます。

歌謡曲畑では柔道の有段者で“空気投げ”の三船久蔵十段から名前をとった三船浩。演歌調では、浪曲出身で数々のビッグヒットをとばした村田英雄

昭和30年代といえばカヴァーポップスも。
そんななかでは和製プレスリー(何人もいた)として売り出した佐々木功
ラテンブームの火付け役となり、カーネギーホール(日本人初?)へも出演したアイ・ジョージ

30年代末期の青春歌謡でも、その看板シンガー、舟木一夫西郷輝彦はやはり低音の部類でしょう。

そして忘れてならないのが、昭和を代表する歌う銀幕スターたち。
石原裕次郎高倉健。いいねぇ、どちらも。さらに渡哲也を加えれば文句なし。

どうですか、牧伸二じゃないけど低音の魅力、シビレますね。
シビレるのを通り越して、聴いているだけでからだが熱くなってきたりして。これがホントの低温ヤケド、なんて……。


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