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Tragic Love [story]


♪ 燃える夜空の ネオンは移り気
  すてられた花束が 泣き濡れて
  七色の雨にうたう あゝ東京ワルツよ
  地下鉄(メトロ)で帰った君よ 君よさようなら 

「東京ワルツ」(詞・西沢爽、曲・服部レイモンド、歌・井上ひろし、昭和36年)。
当時の盛り場の情景や恋人たちの心情(こちらは今とさほど変わっていないが)が偲ばれる昭和の名曲。千代田照子という歌手については福島県出身ということ以外はよくわからない。コロムビアのコンクールで優勝してデビューしたということを何かで読んだような記憶もあるが、定かではない。それから7年後、リバイバルブームに乗って井上ひろしがカヴァーした。このほうが知られているかもしれない。歌はカヴァーされないと死んでしまう。いい曲なので歌い継いでもらいたいと思うのだが。わたしが聴いたのは大月みやこと大川栄策。
今は地下鉄の会社名に使われているが、メトロという響きがとても懐かしい。ちなみに日本で初めて地下鉄が開通したのは、浅草-上野間(のちの銀座線。わずか2.2㎞)で昭和2年のことだから、まさに地下鉄の歴史は昭和の歴史そのもの。大阪では6年に御堂筋線が開通。東京、大阪ともに経済発展の著しかった30年代にその路線を大幅に延ばすことになる。掘って掘って掘りまくったわけだ。そして名古屋に地下鉄が開通したのが32年だそうだ。

わたしは、東京から逃げ出すつもりだった。行く先は決めていなかった。この鬱陶しい街以外ならどこでもよかった。
まず、百数十万円の借金の返済を迫られている友人のSから逃亡したかった。そして一緒に暮らしているM子から逃げたかった。さらには2年勤めていっこうになじめない業界紙の営業という仕事から逃げ出したかった。唯一の心のこりは、会社の女上司であるTのことだった。

Tは30代半ば、わたしとはひと回りも違うのだが、独身のせいか20代後半にしか見えない。長く付き合っている恋人がいるという話だが、見たことはない。髪をアップにして頭頂で団子のようにまとめたヘアスタイルが彼女のトレードマーク。仕事ぶりはいたってクール。部下の扱いも極めてクールで、注意の仕方も結構キツイ。馴れ馴れしい新人でも一週間もすれば調教されてしまう。ただそれだけなら“いやな奴”なのだが、彼女の場合、仕事を終えたあとのフォローがとても上手いのだ。
いきつけの居酒屋へよく部下たちを連れて行ってくれる。そこでの彼女は、酔うほどにオフィスとはまったく別人になってしまう。「……そうじゃないもん」とか「やーよ、恥ずかしいわ」などと仕事中は決して使わない女らしい言葉で部下たちとうち解ける。そうした二面性を臆面もなくさらけ出すからこそ、彼女は部下たちから愛されているのである。

社長に辞表を出した後、Tのところへ挨拶にいった。あらかじめ話してあったので、ありきたりの労いの言葉。送別会の話が出たところで、わたしは冗談半分に「個人的な送別会もやってくれないかな」と言ってみた。すると「いいわ」と思ってもみなかった応えが返ってきた。

いつもとは違う飲み屋で待ち合わせをした。Tは10分ほど遅れてきた。驚いたのは彼女が髪を下ろしていたこと。肩まで伸びた髪の彼女を見たのは初めてだった。それに合わせたのだろうか、薄いグレーのブラウスもオフィスで着ていたものより女らしかった。
誘った手前、話をリードするのはわたしだ。ただ、20代半ばの経験不足の男にとって、こういう舞台はいささか荷が重かった。結局、話はいつもの居酒屋と同じ、仕事の話になってしまうのだ。彼女はしきりに辞めた後のわたしのことを心配してくれた。別の仕事を紹介しようかとまで言ってくれた。もちろん逃亡者志願のわたしは丁寧に断った。
2軒目のパブでも仕事や同僚の話を肴にしながら時間が過ぎていった。そして3軒目のスナックでシンデレラタイム。
店を出た後、Tは地下鉄、わたしはJRと別々に。しかし、わたしは彼女を駅まで送って行くことに。これがラストチャンスだ、と思った。まだ宵の口で街は人で賑わっている。地下鉄の入口までの距離はとても長かった。肩を寄せて歩きながら、最後の言葉を言おうとしたとたん、M子の顔が脳裏いっぱいに浮かんできた。そして思いとは裏腹に、つまらない2年間の思い出話が口から出た。しばらくすると彼女は立ち止まり、「じゃあ、終電に間に合わなくなるから行くわ」と言って、小走りで地下鉄の階段を降りていった。そう言ったときの彼女の顔と言葉はオフィスにいるときそのままだった。

あれから30年あまり、結局わたしは東京から逃げ出すことはできなかった。いや、借金からも、M子からも逃げ出せなかったのだ。ただM子に関してはそれから数年後、彼女のほうから逃亡してしまったのだが。上司Tについては、会社を辞めてから数年後、一度だけ見かけたことがあった。やっぱり地下鉄の中だった。彼女は相変わらずアップに団子というヘアスタイルで、吊革につかまっていた。そしてわたしに気づかず次の駅で降りて行った。


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When You And I Were Young, Maggie [story]

♪ 名残惜しいはお互いさ 
  涙は門出に不吉だよ
  皆んながジロジロ見てるから
  悲しいだろうがニッコリと
  笑っておくれよ お花ちゃん
  泣いたって泣いたって
  あゝすっかだなかんべさ

「お花ちゃん」(詞・矢野亮、曲・吉田矢健治、歌・三橋美智也&斎藤京子、昭和31年)。
2番以降にも「浮気を起こしちゃなんねえど」とか、「馬コで峠を越えて来な」とか「握った手と手を放すべや」など、東北弁を連発しているが決してコミックソングではない。掛け合いのデュエットソングで、手拍子も自然に出るノリノリの編曲もいい。三橋美智也の高音で軽い感じも曲に合っている。平成元年に出たオヨネーズの「麦畑」はあきらかにこの歌を意識したもの。
この少し前あたりから、地方の若者が大挙して東京へ向かうという現象がはじまっていた。それは高度経済成長を経て昭和40年代まで続く。都会に働きに出て行く男と故郷で待つ恋人。当時はこういう構図の歌がよく目についた。「お花ちゃん」では、男は恋人に、故郷に錦を飾り、お前を嫁にもらうから待っていてくれと誓っているのだが、果たして誘惑の多い都会へ出て行った男たちのどれだけが、その約束を守ったのだろうか。社会的にも個人的にも故郷というものが、今以上に大きな比重を占めていた時代である。

千葉・F市の繁華街から少し離れたところにある「辰ちゃん」は屋号そのままの辰ちゃんと奥さんの静子さんでやっている居酒屋。店内は5坪足らず、客が10人も来れば満席になってしまう小さな店だが、昨年開店35周年を祝った。
辰ちゃんは元ボクサー。ゴールデンタイムにテレビ中継まであったという昭和30年代、辰ちゃんはチャンピオンになった。倒し倒されというファイトぶりで人気を博し、オールドファンならばその名を聞けば頷くはずである。ひしゃげた鼻と、カリフラワーになった耳が、当時の激闘ぶりを物語っている。

東北生まれの辰ちゃん、小学生時代は優等生(本人曰く)、家が貧しく中学卒業と同時に東京へ出てきた。昭和28年のことだった。仕事は印刷会社の植字見習。会社の先輩がボクシングジムに通っていたので、辰ちゃんも軽い気持で見習った。子供の頃からケンカは苦手の辰ちゃんだったが、ボクシングセンスはよかったようで、気がつくと先輩を差し置いてプロのリングに上がっていた。そして数年後にはチャンピオンに。もちろん印刷会社は辞めていた。
「あの頃は一試合すると、ファイトマネーで家一軒建ったんだよなあ」と回想する辰ちゃん「分不相応に入ってきた金は、ちゃんと出て行くんだから、よく出来てるよ」。
回りからチヤホヤされ、酒に女にギャンブルにと、湯水のごとく金を使いまくった。当時有名だった女優の誘いに乗ったこともあったとか。
ボクサーの終着点は悲しい。嫌というほど殴られ、うんざりするほど倒され、ようやくグローブを外す決心をした。引退したとたんに、誰もが忘れてしまったかのように辰ちゃんに声をかけなくなった。
「みんな無くなっちまったけど、それでもここを開く金と、コイツが残ったんだから、マア良かったんじゃねえの」故郷を離れて半世紀以上経っても抜けないナマリのままに、そう言って笑う。
“コイツ”とは現役時代に知り合い、引退後に結婚した愛妻・静子さんのこと。店を開いた当初、経営など知らないから売り上げのすべてを使ってしまった辰ちゃん。そんなダメ主人の手綱を取って店を軌道に乗せたのが静子さんなのだ。今では料理はすべて奥さん任せ。辰ちゃんはお客さんとお喋りばかり。「接待もたいへんなんだよ」と口は減らない。
辰ちゃん、いい気持ちになるとカラオケのマイクを握る。大好きな三橋美智也のヒットパレードだ。「りんご村から」、「哀愁列車」、「夕焼けとんび」……。そしていよいよクライマックスは「お花ちゃん」。静子さんとのデュエットだ。「今日はいいわよ」と軽く拒否しながらも歌の嫌いでない奥さんも調理場から出てくる。静子さんは少し俯き加減で、辰ちゃんはノリノリで歌いはじめる。そして歌が3番に入ると辰ちゃんの目がうるむ。
♪ …………
  握った手と手を放すべや
  別れはまったく辛いもの
  泣いたって泣いたって
  あゝすっかたなかんべさ

果たしてそのとき辰ちゃんの脳裏にはどんな情景が流れていたのか。チャンピオンとしての栄光の日々か、苦しかった少年時代か、それともいつか話していた故郷での初恋物語なのか。手拍子を合わせるお客さんたちには、もちろんうかがい知ることができない。


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Sweet Little Sixteen [story]


♪ 黒襟すがたに洗い髪 明治の名残りの黄楊の櫛
  鬼灯を かみながら ホテルの粋なバルコンで
  リルケの詩集を読む美人
  あゝ…… 恋人をもつならば 
  夢のある夢のある そんな人

「恋人をもつならば」(作曲・上原げんと、作詞・西條八十、歌・神戸一郎、昭和33年)。歌謡曲黄金時代の昭和30年代はじめ、アイドル的存在だったのが神戸一郎。他に「銀座九丁目は水の上」、「別れたっていいじゃないか」などのヒット曲がある。たしか後年、ウクレレ漫談の牧伸二が、♪ フランク永井は低音の魅力、神戸一郎も低音の魅力…… などとギャグっていた。それほど知名度のある歌手だったのだが、全盛期が驚くほど短く、疾風のように消えてしまった。不思議なことに最近はナツメロ番組でも見かけない。
作詞の西條八十は、詩人あるいはランボーの研究者として知られるが、歌謡曲の作詞家としても草分け的存在。昭和4年の「東京行進曲」からはじまって、戦前は「旅の夜風」、「誰か故郷を想わざる」、「サーカスの唄」など、また戦後は「青い山脈」「この世の花」、「王将」、「夕笛」など数多のヒット作を手がけている。佐伯孝夫、阿久悠と並ぶ昭和の三大歌謡作詞家のひとり。だいたいこの作詞家は美男美女が好きなようで、神戸一郎もそのひとり。

その神戸一郎命だったのが当時、芳紀16歳のサーちゃん。大きな自動車部品工場のお嬢さんで、花の女子高生。切れ長の目に、口元のホクロが実に艶っぽかった。お嬢さんの常でピアノ、お茶、お華、日本舞踊と習い事が多かった。とりわけ日舞の稽古に通う時の着物姿に薄化粧の様子は見とれるほどだった。
サーちゃん、芸能が大好きで平凡、明星が愛読書。わたしに歌謡曲の魅力を指南してくれたのも彼女。サーちゃんの家へ遊びに行くと2階の自分の部屋へ案内してくれる。そこには4本足の電蓄がドデンと。そこで聴かされたのが、神戸一郎だったり、コロムビア・ローズだったり、島倉千代子だったり。サーちゃんは映画も大好き。ところが一人で映画館に入ることは学校で禁止されていた。そんなとき、サーちゃんは「○○ちゃん、映画連れてったげるから行こ」と〈断ったらヒドイから〉という口調でわたしを誘うのだ。つまりわたしは補導避けの同伴者。もちろん親にも内緒で。行くのは大概平日の昼過ぎ。川を渡り、わざわざ遠回りして駅前の映画館へ。帰りはきまって甘味処でぜんざいや団子などをご馳走してくれる。さすがお金持ちのお嬢さん。
どんな映画を観ていたのかほとんど覚えていないのは、おそらくわたしにとってとても退屈なストーリーだったからだろう。それよりもある時、帰り道で彼女が言った言葉を今でもはっきり覚えている。
「ねえ、神戸一郎って鶴田浩二と宝田明を足して二で割った顔してるよね」
悲しいかな、当時8歳・小学2年生のわたしには神戸一郎は分かってもあとの二人はわからなかった。

それからほどなくわたしの一家は、その町を引っ越した。その後しばらくして、サーちゃんのお父さんの工場が倒産し、一家は故郷である長野へ帰ったという父と母の会話を耳にした。ちょうどテレビやラジオでピンキーとキラーズの「恋の季節」が流れている頃だった。


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Dance with Me [story]

♪ 小箱の中にはキャラコと錦(にしき) 
  肩にめりこみそうだ労っておくれ
  夕陽が沈んだら逢いにおいでよ
  麦の穂波たつ畑の中へ

テレビから懐かしい音楽が流れてきました。CMです。音も映像もすぐに消えてしまったので、何のコマーシャルだか覚えていませんが、漏れ流れていた曲はまごうことなく「コロブチカ」(行商人)。このロシア民謡はてっきりインストゥルメンタルだと思っていました。ロシア語の原詩はもちろん、日本語の歌詞があると知ったのはずっとあとのこと。

忘れもしません。「コロブチカ」は高校三年の文化祭の夜、片想いの彼女と踊ったフォークダンスの曲です。中学、高校とスポーツに明け暮れて硬派を気取っていたわたしには、フォークダンスなどというものは軟弱そのもの。100歩譲っても、それは見るものであってもやるものではないはずでした。

文化祭の後夜祭、辺りが暗くなっても帰ろうとしなかった。高校生最後の文化祭。去りがたい何かがあったのでしょう。薄闇の中、照明に映える校庭では大きな輪ができてフォークダンスが始まっていました。私の親友のKが彼女ともどもやってきて「踊ろう」と私を誘います。私は辞退します。私の内心を知っているKはさらに強引に誘います。私はしぶしぶ彼らに着いていきました。Kの彼女の親友が、わたしの片想いのN子だったからです。
「マイム・マイム」、「オクラホマ・ミクサー」、そして「コロブチカ」。慣れない私は完全にあがっていました。相手の顔を見る余裕などなく、リズミカルに動く相手の黒い靴と、踝のところで折られた白いソックスばかりを見ていました。見知らぬ下級生の女の子から「痛い」と非難されました。あまりにあがっていて、彼女の手を強く握りすぎていたようです。
そしてパートナーは巡り巡ってN子に。胸はドキドキです。もちろん視線を合わすことなどできません。手をつなぐとわたしの心臓の鼓動がそのまま伝わりそうで……。柔らかな手でした。彼女とのペアの時間は30秒足らず。やがてN子は前の男子生徒へ移動。と思った瞬間、後ろにいたKとKの彼女が、私とN子の手を取ってダンスの輪から引き離しました。あとは4人だけのフォークダンスです。恥ずかしいやら嬉しいやら……。高鳴る胸を抑えながら周囲を見ると、4人だけのフォークダンスがあちこちで始まっていました。どのくらい踊っていたのか。いつKたちと別れたのか、N子にどんな別れの挨拶をしたのか、そしてどうやって家まで帰ったのかまるで覚えていません。
結局、翌年の春、N子には想いを打ち明けることもなく高校を卒業しました。

しかし、いま思い出しても、あのフォークダンスの夜は我がハイスクール・ライフの最も輝ける日でした。ハイライトでした。それにつけても朋友Kの、あの時の気の利いた「演出」にはどれほど感謝したことか。
いまでも「コロブチカ」の軽快なアコーディオンが聞こえると、あの夜の4人だけのフォークダンスが思い出されるのです。


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TALKIN' ABOUT THAT RIVER [story]


♪ ねえ君 二人で何処へ 行こうと勝手なんだが
  川のある土地へ 行きたいと思っていたのさ
  街へ行けば人が死ぬ 街へ行けば人が死ぬ
  今は君だけ思って生きよう
  だって人が狂いはじめるのは
  だって狂った桜が散るのは三月

「桜三月散歩道」(詞・曲・歌・井上陽水、昭和48年)。LP「氷の世界」に入っていた1曲です。たしか「氷の世界」はLPで初めて100万枚セールスしたのではなかったかな。あまりラジオやテレビで見聞きした記憶がないのは、1~3番を通じて「狂う」という言葉が出てくるからでしょうか。マスコミの自主規制ですか。考え過ぎかな。

この歌が聴こえてきたとき、私はちょうど一人暮らしをはじめたばかりでした。男でも女でも、初めての一人暮らしっていうのは、人間として独立する喜びと不安を抱いているものでしょう。また、どんな街のどんな部屋にするのかを決めるのもワクワクしたものです。
引っ越しを終え、掃除も済まして初めての夜。蒲団の上で手足をめいっぱい伸ばします。ひとりでに笑みが浮かんできます。本当の自由を獲た、そんな気持でした。

ところでわたしのアパート選びの条件。現実的なものとしてはまず家賃5000円、部屋の広さ6畳。実際は家賃6000円の所になったのですが。その条件に合うアパートを見つけるのはさほど苦労しませんでした。でも、他にも譲れない条件が2つありました。まず、街の名前が美しいこと。これはかなり主観的な選び方です。で、わたしが美しいと思ったのは東村山市の「秋津」。別に日本の古名の秋津島から連想したわけではありません。強いて言うなら岡田茉莉子が悲しくも美しかった映画「秋津温泉」(監督・吉田喜重)のイメージがあったのかもしれません。もちろん秋津温泉は架空の温泉で、秋津に温泉などないのですが。
もうひとつの条件はアパートの傍に川が流れている所ということ。わたしが育った所にも川はありましたが、たいていは堤を混凝土で固めた都会の川。そうではなく、わたしが住みたいと思ったのは、堤が草木に覆われた川です。それもせせらぎではなく、そこそこの川幅をもった流れ。わたしが借りたアパートの裏には、秋津と埼玉の所沢を区切るように柳瀬川というまさに希望どおりの川が流れていました。休日は徒歩や自転車で川沿いを散歩したものでした。
そうして選んだアパートで陽水のこの歌を聴いたとき、♪川のある~ という部分にとても共感したというわけです。結局そのアパートには5年あまり住んでいましたが、今思えば色々なことがあってとても凝縮された5年間でした。それはまた別の話ですが。

あれから30年あまりが経ち、一度も訪れたことはないけれど、秋津もずいぶん変わってしまったことでしょう。そういえばそのLP「氷の世界」は、当時付き合っていた彼女に貸したまま。彼女とは音信不通。まあ、1枚のレコードと想い出を交換したと思えば安いものですが。


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再会③ [story]


次ぎに玲子と会ったのは、それから3年後の夏。巷には「軽薄短小」という言葉がもてはやされていた。休日で、わたしは駅前のロータリーでバスを待っていた。その時も声をかけてきたのは彼女からだった。こざっぱりしたスポーツシャツにスラックス姿の彼女だったが、化粧っ気のない顔は年齢よりはるかに老けて見えた。まだ強い光をたたえている瞳や、高い鼻がかつての美しさを物語っていて、よけいに無惨に思えた。
玲子は振り返って「○○さん」と男の名を呼んだ。浅黒く精悍な顔の男が戦闘態勢に入った様子でわたしに近づいてきた。彼女がわたしに絡まれ助けを求めたと勘違いしたのだろう。彼女が「私の憧れの君、○○くん」とおどけてわたしを男に紹介した。わたしは軽く会釈した。男は怒った形相のまま一言も発せず、背中を向けてすっ飛んで行ってしまった。「私の亭主」と玲子は笑顔で言った。「去年結婚して、××に住んでるの」と隣町の名前を告げた。その口調からいまの彼女の幸せな生活ぶりが伝わってきた。
ただ、彼女の夫はわたしのことを知らないが、私は知っていた。中学の3年先輩で、当時から不良で、いまだにいい噂を聞かない男だった。わたしは玲子がクラブ歌手を辞めたような気がして「もう歌ってないの?」と訊ねた。「うん」と彼女は微笑んだ。「もったいないよね」と言うと「もったいないよね」と他人事のように同じセリフを返して笑った。

結局、玲子と会ったのは、それが最後となった。
あれから四半世紀あまりが過ぎ、わたしはようやく「再会」という歌の良さを理解するようになった。しかし、わたしにとっての「再会」は松尾和子でも八代亜紀でもなく、まだ17歳だった玲子が口ずさんでみせた ♪ 逢えなくなって 初めて知った…… というあの歌声が原点、つまりオリジナルなのである。私と玲子の「再会ストーリー」は、これで完結したのだろうか。それともいつかまた続編がはじまるのだろうか。


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再会② [story]

大学時代、一度だけ玲子から電話があった。「いい話があるから……」と彼女。約束の喫茶店で会うと、彼女はカタログをひろげながら話をはじめた。自動車の排気ガスを抑制する装置のセールスだった。いわばネズミ講で、1台売ると数万円の儲けがあるとか。わたしは友人が似たような話で被害を被っていたのを知っていたので、そのことを説明して、彼女も手を引くようにすすめた。それにはイエスともノーとも応えなかったが、とにかくわたしへの勧誘は諦めたようだった。それから彼女は歌手になるためにレッスンを受けているというような話をはじめた。その時も現在も、玲子の行為がわたしに対して善意のものだったという思いは変わらない。

わたしは大学を出ると化学薬品メーカーに就職し、地方へ赴任した。そして数年後、東京本社へ戻ってきた。妻もいた。子供もいた。親子3人で実家の傍のアパートに住んだ。ある朝、いつものように駅へ向かっていると、「○○君……」と後ろから呼び止められた。ふり向くと玲子だった。いつもストレートだった長髪は大きなウェーブがかかっていた。そして少し素人離れした黒のワンピースは別人のようだった。彼女も駅へ向かっていた。「ちょっと時間ある?」と言って顔をほころばせた。10年あまり前、同じようなシチュエーションがあったような……。
「恋人たちの場所」というつまらない映画を見に行ってすっかり暗くなった帰り道、「ちょっと休憩していかない」と言ってわたしをドギマギさせた17歳の玲子。あのときの笑顔がフェイド・インしてきて、その瞬間、10年間という空白が消えた。
わたしは会社への遅刻を覚悟して喫茶店へ入った。珈琲を飲みながら玲子は自分の話をした。わたしのことは何も訊かなかった。彼女はクラブ歌手をしていると言った。ゆっくりした口調、微笑みをたたえた豊かな頬は以前のままだったが、濃いめの化粧の下に透けて見える30近い女性の疲労感が伝わってきた。30分ほどで、「時間がなくてゴメンネ」そう言って玲子の方から席を立った。彼女が去ってから、せめてクラブでどんな歌を歌っているのか、訊いておけばよかったと思った。


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再会① [story]

♪ 仲良くふたり 泳いだ海へ     
  今日はひとりで 来たわたし
  再び逢える日 指折り数える
  ああゝ ああゝ 指先に 夕陽が沈む

「再会」(曲・吉田正、詞・佐伯孝夫、歌・松尾和子、昭和35年)
まさに60年安保の渦中に世に出た歌。松尾和子以外でも八代亜紀、天童よしみ、島倉千代子、大月みやこ、石原裕次郎など多くの歌手がカヴァーしている。

この歌を教えてくれたのは幼なじみの玲子だった。小学校時代はクラス一の俊足をわたしと競った韋駄天娘だった。だから私にとって玲子はライバルでしかなかった。彼女の美しさに気づくのはそれから数年後のことだ。
中学へ上がって離ればなれになったわたしと玲子が、歌のタイトルのように再会したのは、別々の高校に通っている時のクラス会でだった。長い髪は幼いころのままだったが、俊敏でスレンダーだった体型はいくらか丸みを帯びて、その眼差しも優しく羞恥を帯びていた。それはいま思えば、身体も心も少女から大人の女に脱皮しつつあったということなのだが、17歳のわたしにはそれを正しく理解することができなかった。わたしは、彼女の変化に少し驚き、少し戸惑った。それでもすぐに玲子とわたしが昔のようにうち解け、言葉を交わすようになれたのは、お互いに、小学生時代の意味のない鬼ゴッコや、口げんかという、あの無邪気な交流を否定したくないという思いがあったからかもしれない。
それからは頻繁に逢うようになった。お互いの家へ行ったり、映画を見に行ったり。当時グループサウンズが全盛で、カラオケなどない時代、わたしの下手なギターを伴奏にふたりでよく歌ったものだった。
「エメラルドの伝説」「長い髪の少女」「モナリザの微笑み」「青空のある限り」……
ある時、歌い疲れてしばしの沈黙の後、「ねえ、こんな歌知ってる?」と彼女が言った。
そして口ずさんだのが「再会」だった。わたしは、ギターのコードを探しながら、その時は〈暗い歌だなあ……〉と思っただけだった。
やがて、そんな彼女となぜか逢わなくなってしまった。その理由は覚えていない。何か諍いがあったのか。いやそんなことはなかったはずだ。なぜなら彼女はわたしに対して一度も怒った顔や、不愉快な顔を見せたことはなかったのだから。多分、それぞれのキャンパスライフが忙しくなったからなのだろう。


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