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【アバンチュール】 [obsolete]

『やがて夏がやって来た。竜哉は兄の道久とヨットを塗り直した。これは彼等兄弟の年中行事の一つである。パテを詰め、ペーパーをかけ、丸みを帯びたシーホースの船体を、女が肌の手入れをするように丹念に仕上げながら、彼等は去年の夏を思いだし、今年の数々の出来事(アバンチュール)を想像してみるのだ。……』
(「太陽の季節」石原慎太郎、昭和30年)

「アバンチュール」も古い言葉で、明治末には使われていたようだ。森鴎外の小説にも出てくる。最近でこそあまり聞かないが、昭和の後半でもよく耳にしたような気がする。「恋のアバンチュール」とか「深夜のアバンチュール」とか、週刊誌の見出しにはもってこいの言葉だった。
aventure はフランス語で冒険とか、ラヴ・アフェアーの意味。日本では引用した「太陽の季節」でもそうだが、恋の冒険として使われていることが多いようだ。もちろん色恋ぬきのアバンチュールもある。昭和22年の「青い山脈」(石坂洋次郎)では、六助が、新子の父親のために、リンゴを農業会(今の農協?)に黙って県外へ運び出すことを手伝った事件を、「アバンチュール」と言っている。
言葉の響きの心地よさ、はたまた他に取って代わる気の利いた言葉が見あたらないことから、いずれまたこの言葉がもてはやされる時代が来るかもしれない。

昭和31年の芥川賞受賞作である『太陽の季節』は、小説のインパクトというより、当時の若者の風俗や精神性に与えた影響も大きかった。象徴的なのが「太陽族」であり「慎太郎刈り」である。その年すぐに日活で映画化され、「太陽族」の流行語と共に同系の映画が作られていった。良識ある大人は、太陽族を不良とみなしたが、若者には歓迎された。小説の登場人物が不良大学生のボンボンたちであるにもかかわらず、当時若者の大半を占めていた中卒、高卒のあんちゃんたちまでが、その雰囲気を己のものとして生きていた。この小説が世にでなければ、あるいは石原慎太郎という人物が小説を書かなければ、おそらく石原裕次郎は現れなかっただろう。その意味からもこの作品の文化・風俗に与えた影響力は大きい。


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【鳩時計】 [obsolete]

『夜更けて雨になっていた。美耶子はふと眼をさました。風が雨戸をゆすっている。裏の硝子戸ががたがたと鳴っている。それを聞いていると何か恐ろしくて寝つかれなかった。 暗い中で良人は安らかな寝息をたてている。鳩時計がそとの嵐にはそぐわないのびやかな音で二時を打った。打ち終わったと思うと、風の音にまじって彼女を呼ぶ声を聞いたように思った。』
(「古き泉のほとり」石川達三、昭和25年)

錘をつかって動かす掛け時計で、時報を告げるとき巣箱の中から鳩が出て来て鳴き声をあげる仕掛けになっている。18世紀にドイツで生まれたもので、モデルはニワトリだったが、声が再現出来ないのでカッコーになり、日本ではいつの間にか鳩になったとか。
ある時期鳩時計は文化的な生活のアイテムでもあった。しかし、ちょうどの時刻になると、多くの家庭で一斉に鳩が飛び出し、「クー、クー」と鳴いていたのかと思うと少し滑稽。それも微妙に鳴き声がずれていたりして。鳩時計にしろ、普通の柱時計にしろ、ゼンマイ仕掛けの時計は定期的に巻かなくてはならなかった。鎖をひっぱったり、鍵式のネジ巻を突っ込んだり。それが日常であり、時計と人間との接点があった。いまやほとんどの時計が電池式で、何年かに一度取り替えればいい時代だ。ゼンマイではないので、狂いもほとんど生じない。便利になったことは確かだが、時計の存在感はみごとに軽くなってしまった。

戦前から戦後にかけて、まさに昭和の作家といえるのが石川達三。戦前には発禁となった「生きている兵隊」があるが、とりわけ昭和30年代に「四十八歳の抵抗」、「悪女の手記」、「充たされた生活」、「傷だらけの山河」など、問題作を数多く発表した。
「古き泉のほとり」は終戦間もない20年代の作品で、裏切られても騙されても他人を怨まないという善良の見本のような主人公と、それを暖かく見守る妻の話。後年の作品とはまるで趣の違う作品だ。食べるものをはじめ、なにもかもが不足していた時代、人間はエゴイスティックにならざるをえなかった(現代は戦争直後に比べると、物質的にははるかに充たされているはずなのに、さらに自分中心の人間が増えているのはなぜか)。そんなマジョリティーへの皮肉、反撃とも取れる作品。


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【トッパー】 [obsolete]

『読者諸君は、先刻御承知の通り、お竹さんは病院から、出たばかりで、この寒空にトッパーすら着ていない身である。
 みすぼらしいのは、いうまでもないが、相手の奥さんにしても、相当なものである。少なくともここ十日ほどは。碌に髪の手入れもした様子はない。……』
「三行人生」(藤原審爾・昭和28年)

ファッション、とりわけ女性の服飾の変遷を見ているだけで時代の移り変わりを感じることができる。「トッパー」といっても、フットサルで使うスニーカーのことではない。トップ・コートの略称で、女性用のハーフコート、半オーバーといったほうがわかりやすいかもしれない。昭和27年ごろから女性用の短いコートをトッパーと呼ぶようになったらしい。ただし当時は男性用もあったようだ。トッパー姿で思い浮かぶのは、冒頭の写真にある映画「挽歌」のヒロイン・兵藤玲子(久我美子)である。しかし、原田康子の原作では『わたしは着替えもせず、ハーフコートだけをはおって、……』というようにトッパーという言葉は出てこない。いまでもハーフコートの女性をみかけることがあるが、トッパーとはいわないのだろうか。

『三行人生』は岡山から都会の医院へ女中(これも廃語か)志願に来た“お竹さん”のユーモアとペーソスに満ちた怪行ストーリー。「トッパー」以外にも、「赤いビロードのシャツ」とか「ちんちんくりんな黒いオーバー」とか「羅紗のジャンパア」など(いずれもメンズ)と当時のファッションが偲ばれる描写がある。ちなみにヒロイン・お竹さんの登場シーンは「久留米絣のワンピースにリュックサックを持った……」という具合である。


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Good Morning Little School Girl [story]

♪ あの日あの子をあの街角で
  見かけたときが始まりかしら
  わたしのことに気づいてくれて
  話しかけてはくれないかと
  道の花を摘むふりして
  あの子が来るのを待ちかねていた
  胸はふるえてどきどきしてた
  あれはわたしが16のとき

「若草の恋」(詞、曲・J.LECCIA, A.PASCEL, D.PACE、訳詞・七野洋太、歌・木の実ナナ、昭和40年)。
原曲はイタリアの女優・カトリーヌ・スパークの「Mes Amis, Mes Copains」。つまりイタリアン・ポップス。この頃はアメリカン・ポップスばかりでなく、フランスやイタリアのポップスもよくカヴァーされた。
当時、日本で流行ったイタリアン・ポップスの代表的なものには「砂に消えた涙」「月影のナポリ」(ミーナ)、「夢見る想い」(ジリオラ・チンクエッティ)、「サンライト・ツイスト」(ジャンニ・モランディ)、「2万4千回のキッス」(アドリアーノ・チェレンターノ)などがある。
現在、舞台・テレビの女優として活躍する木の実ナナは、デビューはポップ・シンガー。ファニー・フェイスでテレビの司会もつとめたアイドルだった。
カトリーヌ・スパークはイタリア映画「太陽の下の18才」や「狂ったバカンス」に主演した女優だが、元々はパリジェンヌ。父親のシャルル・スパークは著名な脚本家。

私がはじめてアイツを見たのは、通学のバスの中でだった。朝、いつもの時間に私がバスに乗ると、アイツは2つ目の停留場で乗ってくるのだ。私とアイツは別々の高校だが、お互いに降りるのはバスの終点。
そうね、身長は175センチぐらい。体重は、んー……、私の弟と同じぐらいだから、60キロちょっとかな。髪は少し長めで前髪を右に垂らしている。およそ、いまふうではないけど、瞳がびっくりするほど澄んでいる。実はその瞳が私を虜にしたのだ。
朝のバスはいつも満員。私は後方の決まった位置で吊革に掴まっている。アイツはやっぱり真ん中あたりの決まった場所で立っている。私は、立ち塞がる人人人の間からアイツを見ているのだ。もちろんチラ見だけど。
私は学校では「帰宅部」。塾があるので遅くとも4時前のバスで帰る。アイツはどうやら軽音楽部(何度かギターケースを持ってバスに乗り込んできたことがあった)のようで、帰りに一緒になったことはなかった。だから、私がアイツに逢えるのは朝の1時間足らずだけ。
2学期の中間テストが終わって試験休みになったある日、私は突然悟った。「これは完全に恋に落ちたのだ」と。それからときどき、理由もなく急に胸が苦しくなったりする。でも、どうすることもできない。だって私ってそんなに積極的な女の子じゃないから。平行線のふたり? ところがいたんだな、恋の神様が。

それは金曜日の午後のこと。私はいつものように駅のロータリーで、始発バスの後部座席に座り、英単語のカードをめくっていた。まだ日が高いこともあって乗客はまばら。しばらくして運転手が乗り込み、エンジンをかけ、ドアを閉めた。発車、と思った瞬間、もう一度ドアが開き、乗客が一人飛び乗ってきた。ま、ま、まさか。アイツだ。なんで?
アイツは運転手に会釈して、すぐ傍の座席に腰を下ろした。その時一瞬私と目が合ったような……。そのあと、わたしは手にしたカードに視線を落としたまま、顔をあげられない。目は単語を見ているけど、ちっとも頭に入らない。ああ、どうすればいいの?
バスは停留所に次々と停まり、次がアイツの降りるところ。アイツが立ち上がり、乗降口へ向かった。早いよ。時間よ止まれってば!
バスが停まった。その瞬間、私は立ち上がっていた。どうなっているんだか自分でもわけがわからない。でももう止まらない。アイツが降りていく。私も冷静を装ってそれに続く。
私の5メートルほど前をアイツが歩いていく。私ってストーカー? いったい何をしようっていうの? 
あれ? アイツがコンビニに入った。もうだめ。続いて入る勇気なんてないもの。私は目的もなくどんどん歩いていく。何? この取り残された感じ。そのとき、ある看板が私の目に入った。『××歯科』。そうよ、私は歯医者さんへ行くんだった。そのためにこの停留所で降りたのよ。私は躊躇いもなくその歯科医院へ飛び込んだ。

そこは予約制だったが、急患(どこも痛くないのに)だといって割り込ませてもらうことができた。それでも小一時間待つことに。私は待合室で考えた。そうだ、これで毎週通うようになれば、この停留所で降りる口実ができる。われながら名案だぞ。英単語のカードをめくりながら、そんなことを考えていると、いきなりドアが開いた。
あ、あ、あ、あ、……アイツだ。私の呆気にとられたアホ面、きっとアイツに見られた……。どうなってるの? いえ、これはいまめくったカード「What Happened ?」のこと。でも、ほんとにどうして? 私ってもしかして超能力者? そう、そうよね。私がアイツの後をつけたんじゃなくて、アイツが私を追いかけてきたのよね。そう、そうに決まってる。ああ、私の頭のなかにはすごいトルネードが何本も暴れ回っていた。
「市村さん」受付の人に呼ばれてアイツが治療室へ入っていった。そうか、市村って言うんだ。名前まで分かっちゃった。ラッキー!。アイツが待合室から消えてくれたので、私もやっと冷静になれた。そうだったのか。アイツは歯医者へ通ってるんだ。予約制だから多分、週に1回、それが金曜日なんだ。時間もきっと今頃ね。なら、毎週逢えるじゃん。私ってなんて幸運な女の子なんだろう?!。

その日、私は歯医者さんから「虫歯なんてないんだけどなあ」って言われながら治療してもらった。もちろん1週間後の同じ時間に予約も入れておいた。少し早めに来て、アイツを待っているつもり。今度は、もっと素晴らしいことが起きるわ、きっと。ああ神様、私にもっと力を、もっと勇気を。


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【フラッパア】 [obsolete]

『僕はどちらかというと典子さんに魅(ひ)かれています。しかし典子さんには男友達がたくさんあるんです。フラッパアとの定評があります。だから結婚したら、あんまり家庭的でないかもしれません。僕はその点が心配です。……』
(「三等重役」源氏鶏太、昭和26~27年)

「フラッパア」はflapperで、本来は「羽ばたく鳥」とか、「軽く打つ人」というような意味だが、日本では昭和初年ごろから「お転婆娘」、「はね返り娘」という意味で使われている。これも廃語だが「モガ」と似たような意味合いもあった。ひどいものになるとバッド・ガールと同義だとも。ある意味旧習を打ち破っていく逞しい女性なのだが、上記の源氏鶏太の小説では、発展家(これも廃語か)つまり男性関係の奔放な女性というように使われている。しかし、よく使われたのは戦前で、戦後になるとアプレ(娘)などという流行語に取って代わられた感がある。昭和30年代の半ば頃にはほとんど死に絶えてしまったような言葉だ。
フラッパアあるいはアプレのような女性のことを、今ではなんというのだろうか。どちらも少数派だったからこそ目立ち、人々が面白がってとりあげたわけで、ほとんどのギャルがフラッパア化してしまっている現代では、特別に名称を与える必要がないのかも。

『三等重役』はサンデー毎日に9カ月にわたって連載された。源氏鶏太お得意のサラリーマン小説で、東宝で映画化(森繁久弥や小林桂樹が出演)されヒットした。早くから源氏鶏太の作品を映画化していた東宝は以後、サラリーマン物をシリーズ化していく。
「三等重役」とは、戦後企業の重役たちがパージされ、会社存続のためにやむなく社員から重役になった者のこと。いわば、当然一等ではなく、かといって二等の貫禄もなく、せいぜい三等つまり上中下の下ぐらいだろうという意味だ。この言葉は流行語にもなった。
源氏鶏太は昭和26年、「英語屋さん」で直木賞を受賞。その年にはじめて書いた長編がこの『三等重役』。昭和30年代をサラリーマン小説、ユーモア小説で風靡する。


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【ゴー・ストップ】 [obsolete]

『……若くて美男で、キャディラックを持ち、アメリカの大学を出、流行の白っぽいカシミアの上着を着、どこといって非の打ちどころのない青年と、たびたびのべてきた非の打ちどころのない優雅な美女とのドライヴは、もちろんゴー・ストップで止まる毎に、電車の停留所に立っている女たちの注目をいっせいに浴びたが、……』
(「女神」三島由紀夫著・昭和30年)

信号機のことで、英語ならSignalだろうが、「ゴー・ストップ」は和製英語。直訳すれば「行く、止まる」で意味はそのとおりだ。
そもそも信号機はクルマの発達には欠かせないもので、その嚆矢は大正8年、上野広小路に設置したものといわれる。もっともその信号機は「トマレ」「ススメ」と書かれた木製の板を回転させて使用したものとか。電気式の赤、黄、青(緑)になったのは昭和5年、日比谷交差点に設置されたものだそうだ。

そんなわけで、「ゴー・ストップ」という言葉は戦前にはよく使われたようで、貴司山治というプロレタリア作家が同名タイトルの小説を書いている。戦後も昭和30年代くらいまでは使う人がいたようだが、なぜか自然消滅してしまった。こういう場合は大概は代替の言葉が出てきたことによるものなのだが、現在使われているのは「信号機」あるいは「信号」である。シグナルとも言わない。それならば、ゴー・ストップが継続されてきてもよさそうなものだが。不思議だ。
他では、源氏鶏太の小説の中にもときどきこの「ゴー・ストップ」が出てくる。

「女神」は、自分の妻に、それが叶わなくなると娘に対して、文字通り彫刻のヴィーナスのような完璧な美を要求する男の話である。最後に娘の恋を引き裂き「やっと二人きりになれたね」という父親の幼児性には、危険な愛情すら感じる。三島由紀夫にとっては、そういう人間の関係、肉親の関係こそ芸術なのだろう。
上記の引用に出てくる「電車の停留所に……」の電車とは、もちろん路面電車、都電のことである。


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【アベック】 [obsolete]

『瀬見は、残り惜しい気持で、暫く夏子の背後姿に見入っていたが、やがてあきらめて店の内部へ入っていった。新聞記者として、事件を追いかけたことは何回でもあるが、アベックの男女を追いかけるのは、これが初めてだった。』
(「その人の名は言えない」井上靖・昭和25年)

日本でいうアベックとは男女二人連れのことだが、今風に言えば、カップルということになるのだろう。ではアベックは廃語かと思うとそうでもない。新聞や雑誌などではいまだに使っている。たとえば「アベック殺人」だとか「アベック強盗」。またスポーツでしばしば「アベック優勝」、「アベック・ホームラン」なんて使い方をしている。後者のほうは男女ということではないのだが、いずれにしても現役の言葉として使われている。
そもそもアベックという言葉はいつ頃から使われ始めたのか。もともとはavecつまりフランス語で「~と一緒に」「~と共に」という意味。それがいつ、誰によって男女二人連れの意味で使われ始めたのか。一説では大正から昭和のはじめにかけて、当時の学生たちが使いはじめた、と言う。たしかに昭和初年の小説には「アヴェック」が出てくる。はたして大正まで遡れるか否かは不明である。
では、アベックがカップルに取って代わられ始めたのはいつ頃からかというと、何かの本に、およそ昭和50年代からだろうと書いてあった。たしかにそんな印象はある。ただ、石坂洋次郎の「陽のあたる坂道」(昭和31年)には『……ちょっと貫禄のある奥さんね。男の人もいい風格だわ。お似合いのカップル(一対)というところね』という記述がある。カップルのあとにカッコで意味を補足しているので、あまり一般的な言葉ではなかったようだが。ほかにも「飢餓海峡」(昭和37年)にも出てくる。とにかく、昭和30年代から一部の人間は使っていたようだ。そう考えるとカップルの“寿命”は永い。

井上靖は昭和25年2月に『闘牛』で芥川賞を受賞し、その三月あとに「夕刊新大阪」で『その人の名は言えない』の連載を始める。昭和20年代から30年代にかけて、超売れっ子作家になる井上靖のはじめての新聞連載小説である。
パーティーの夜、酔ってベンチで休んでいるヒロインが“通り魔”のように唇を奪われる。そして彼女の周囲にあらわれる幾多の男たち。しかし、彼女はどうしても自分の唇を盗んでいった謎の人物が忘れられない。というように、ミステリアスな要素を含んだ作者お得意の「大人の恋愛ドラマ」である。
「アベック」を紹介したついでに言うと、この小説ではいまで言う「デート」のことを「ランデブー」と表記している。ちなみに「デート」が一般に定着したのは昭和30年代以降ではないか。こちらは廃れずいまだ現役だ。


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Standing In The Shadow [story]


♪ ひとの一生かくれんぼ あたしはいつも鬼ばかり
  赤い夕陽の裏町で もういいかい? まあだだよ

  逃げて隠れたあの人を 探し続けてさすらいの
  目隠し解けば雪が降る もいいいかい? まあだだよ
  

「ひとの一生かくれんぼ」(詞・寺山修司、曲・田中未知、歌・日吉ミミ、昭和47年)。
作曲の田中未知は天井桟敷の劇団員で、当初寺山の秘書もしていたとか。多才な女性でこのように曲も作れば、映画の監督もし、著書もある。最大のヒット曲は、やはり寺山と組んだ「時には母のない子のように」(カルメン・マキ)だろう。現在は天井桟敷を離れてオランダにいるそうだ。彼女の作る曲には古き良き歌謡曲のにおいがする。この歌も哀調たっぷりの曲と詞に、日吉ミミの退廃的な歌唱がピッタリ合い、歌謡曲の王道、怨み節、泣き節をつくりあげている。
寺山修司には歌謡曲の作詞も多く、いくつかあげてみると、
「戦争は知らない」(フォーク・クルセダーズ)、「浜昼顔」(五木ひろし)、「かもめ」(浅川マキ)、「ふしあわせという名の猫」(同)、「涙のびんずめ」(伊東きよ子)、「あしたのジョー」(尾藤イサオ)、「惜春鳥」(蘭妖子)、「涙のオルフェ」(フォー・リーブス)
などがある。

もうそろそろ潮時だな。いくらここの土地と建物がオーナーの持ち物で家賃払わないでいいからって、毎月持ち出しで店やる気が知れないよ。そりゃ、はじめは給料さえ貰えれば文句なしって思ってたけど、こんなヒマな店に長くいたら人間が腐っちまう。グラスだって流行り廃りがあるんだ。こんな大きなヤツは今どき見かけないよ。それに古くて、ホラ、こうやっていくら磨いてもまるでスモークでも貼ってあるように濁ってる。今の状況じゃオーナーに「新しいのと替えましょう」ともいえないしな。ああ、あ、道楽に付き合ってられないよ、ったく。

「はい。なんですか? ハイボール。わかりました」
こんな時間だというのに、お客さんはこのオッサンひとり。それもハイボールしか飲まないときてる。いつもそうだ。それにしても最近よく来るねこのオッサン。いつもどっかで飲んで来るから、ここで三杯も飲むと正体がなくなっちゃうんだ。こっちが起こさなければ朝まで寝てるつもりだよ。
それにどうも陰気でいけないね。最近は分かってきたからいいけど、はじめの頃なんか、あんまり無口だからこっちからやたら気をつかって話しかけたりしてね。疲れる客よ。しかし、どういう人なんだろうね。見かけは老けてるけど、中学生の時オリンピックを見に行ったなんて言ってたから、まだ60にはなってないのかな。まあ、オレより二回りとこ上なのは確かだけどね。
身なりもパッとしないし、まあ、サラリーマンじゃないね。かといってヒョロッとした風采は肉体労働って感じじゃないし……。なんでも話の様子じゃ独り者だってさ。この歳で独り者は辛いよなあ。オレも人のこと言えないけど。こういうオッサン見てると、早く結婚してガキの一人でも作っておかなきゃなんて焦るね。……そうだよなあ、冗談じゃなく、そろそろヤバイわなあ。あのオカチメンコと一緒になっちゃうか、思い切って。……やっぱり……、だよなあ。ここまで待ってあれかよって感じだもの。

おいおい、オッサン、グラスを持つ手が震えはじめてるぜ。だいじょうぶかよ。あらあら、カウンターにこぼしてるじゃないか。
「あ、お客さん。大丈夫ですか。いま拭きますから」
『勝手なことすんなよ……』
「はあ。でもお酒が……」
『いいんだよ。放っとけよ。おい、バーテンさんよ。お前さん、俺が酔って酒をこぼしてると思ってんのかい?』
「いえ、そういうわけじゃありませんけど……。もう一杯作りましょうかねえ」
『バカヤロウ……。なあ、あんた、よく見てみろよ』
「はあ……」
『ほら、ここのカウンターのところに俺の影が写ってるだろ? コイツがよ、コイツが俺も飲みてえって言うからよ、そんで俺はこの野郎にも飲ましてあげたってわけよ。バカヤロウ……、酔ってなんかいねえぞ。ホラ、手だってしっかりしたもんだ』
「ああ、そうですか、それはちっとも知りませんで、どうもすいませんでした」
『わかりゃ、いんだよ。わかりゃな。ハハハ……、もう一杯だ』
「はい、ただいま」

あらあら、言ったそばからオッサン突っ伏しちゃって。もう限界越えてるよ。
それにしても、相棒が自分の影とはなあ。滅入っちゃう話だよなあ。……でもなんだかんだ言っても人間つまるところは独りってこと……。親だって兄弟だって、奥さんだって子供だって、結局は別の人間なんだよな。でも、自分の影はちがうよな。いつだってオレにくっついてるもの。どんなに憎んだって嫌ったって離れることはない。どんな悪事はたらいたって見捨てないでくれるし、オレのやってること全部お見通しだものね。
そう考えれば、このオッサンの言うとおりかもしれないなあ。生まれてから死ぬまで一緒なのはコイツだけだもんな。まあ仲良くやろうぜ。
あれ、あれれ、無いよ。オレの影が消えてるよ!。ほ、ほんとかよ。どうなってんだよ。……なんだ、光の加減か。ビックリさせないでよ。


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【シスター・ボーイ】 [obsolete]

『さきほど、マネージャーが、僕が男のパートナーと踊っていたと申しましたが、それはほんとうです。しかし、僕はシスターボーイではありません。僕は優しい女の人に愛情を感じますが、男なぞ、くそ喰らえと思っているからです……』
(「陽のあたる坂道」石坂洋次郎・昭和31年)

「シスター・ボーイ」、そのまま訳せば“女の子みたいな少年”。もちろん和製英語で、昭和32年2月に封切られたアメリカ映画「お茶と同情」に登場した、年上の女性に可愛がられる優しき青年の姿態が、嫋々として女性的だったので、この言葉が流行した。
映画の封切りとほぼ時を同じくして日本に登場したのがシャンソン歌手・丸山明宏。女性っぽい服装に化粧というスタイルはまさにシスター・ボーイ。そのブームにも乗って彼の歌う「メケ・メケ」はヒットした。しかし、当時「シスター・ボーイ」という言葉は、一般的には優しく弱い男性への揶揄をこめた使い方をされていた。現在のように「オカマちゃん」などと親愛をもって呼ばれるまでには半世紀を要したことになる。時代を50年先取りしていた丸山明宏、いや美輪明宏はいまだ健在である。

『陽のあたる坂道』は読売新聞の連載小説で石坂洋次郎にとっては、「青い山脈」以来のヒット作となった。また昭和33年には石原裕次郎主演で映画化され、その年の日活の興行収入ナンバーワンとなっている。
冒頭のシーンは、歌手のジミー・小池がキャバレーで歌う前に客に言う挨拶のセリフである。ちなみに映画ではたしか、川地民夫が演じていた。小説ではジミー・小池は「日本ジャズ界の俊英」となっているが、映画ではロカビリアン。小説が完成したのは32年の10月。日劇で第1回ウエスタン・カーニバルが開催されたのは翌年の2月で、まだロカビリーという言葉は一般化していなかった。ちなみに小説の中でジミー・小池は、32年にヒットした「バナナ・ボート」(浜村美智子らがカバー)を歌っている。


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【美容体操】 [obsolete]

『美容体操の支度のある生徒は、水色のカーテンの中にはいった。そして、短いパンツと、短い袖の白いスポーツ服になって現われた。講師のファッション・モデルも、最後に水色のカーテンの中にはいったが、出て来た時には、紺色の袖の短い、パンツ姿になっていた。幅のひろいベルトをしめている。……』
(「ファッション・モデル」 丹羽文雄・著、昭和30年)

「美容体操」、なんとも色褪せた言葉だ。そもそも体操という字面と音の響きが今風ではない。現代ならさしずめエアロビクスとか、ジャズダンスということになるのだろう。
昭和29年4月にNHKテレビの婦人向け番組で「美容体操」が始まった。この番組によって「美容体操」という言葉が流行したそうだ。しかし、昭和26年から27年に書かれた源氏鶏太の『三等重役』のなかですでに「美容体操」という言葉が出てくるので、言葉そのものは、NHK番組の前から膾炙していたのだろう。たしか昭和30年代に民放?テレビでアメリカ発の美容体操番組を放映していた。その番組に関して、雑誌か何かに「美容体操をするタイツ姿(レオタードなどという言葉はなかった)の麗しき美女を見ているのは、女性ではなく“おとうさん”たちだ」などという記事が載っていたのを記憶している。

丹羽文雄の「ファッション・モデル」は、服飾業界の内幕を描いた通俗小説で、当時第一線で活躍していたファッション・デザイナーやモデルが実名で登場したりして話題になった。当時はドレメブームで、大小のドレスメーキングつまり服飾(洋裁)学校が雨後の竹の子のように作られた。また、ファッション・モデルも昭和28年、モデルの伊東絹子がミス・ユニバースのコンテストで3位に入賞し、「八頭身」という言葉と共に世間の注目を浴びた。そのため服飾学校でもモデル科を設けるところまで出てきたそうだ。
この小説は当時の様々な世相がよく反映されていて面白い。そのひとつであるモデルのギャラを紹介してみると、13日間の拘束でトップモデルが3万円、下が1万5千円となっている。ちなみに映画主演まで果たした“世界の”伊東絹子は1日10万円と超別格だったそうだ。20代のサラリーマンの月給が1万8千円だった時代の話である。


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Time Run Like a Freight Train [story]

♪ 起て 飢えたる者よ 今ぞ日は近し
覚めよ わが同胞 暁は来ぬ
暴虐の鎖断つ日 旗は血に燃えて
海を隔てつわれら 腕(かいな)結びゆく
いざ 闘かわん いざ
奮いたて いざ
インターナショナル われらがもの

「インターナショナル」(詞・Eugene Pottier; 曲・Pierre Degeyter; 訳詞・佐々木孝丸&佐野硯、大正12年)
作詞のポチエは、プロレタリア革命をめざした武装蜂起パリ・コミューン(1871年)の委員。その最中に詞を作った。その20年あまり後、やはり労働者のドジェテールが曲をつけ、「インターナショナル」は誕生した。以後、赤旗とともに労働運動、コミュニズムのシンボルとして世界中に広まった。日本でも戦後の組合運動、学生運動で頻繁に歌われた。ソ連の崩壊、社会主義・共産主義の低迷衰退の昨今、あまり聞く機会はなくなってしまった。現在でも組合集会などでは歌うところがあるのだろうか。共産党は歌っているのだろうか。あるいは中国やキューバなどではどうなのだろうか。
なお、訳詞者のひとり佐々木孝丸は日本映画ファンならご存知の、あの佐々木孝丸である。どちらかというとダーティーな政治家あるいは商人などの役が板に付いたバイプレイヤーだった。大正から昭和にかけて起こったプロレタリア文学運動にもその名を連ねた人だ。戦前あるいは戦争直後の舞台役者のなかには、そうした思想的に自立した人間が多かったようだ。

谷やんはわたしより二まわり近くうえの44歳、独身である。わたしが勤めていた八丁堀の印刷会社の先輩。とにかく酒と女(こちらは口だけだったが)が大好という陽気なオッサンだった。特技は電車定期券の偽造。まだJRの改札が有人だったころの話だ。

谷ヤンとわたしの職場はビルの3階、それも窓際。仕事しながら谷ヤン、窓の下の通りを行き来する女性を品定めする。好みの女性が通るとわたしに向かって「○○ちゃん、やりてえよぉ、やりてえよぉ」と下腹部を触ってみせる。遅刻欠勤の常習者で、理由はほとんどが二日酔い。夏などは女子事務員が来ようがおかまいなし、パンツ一丁で仕事をする。そして平気で卑猥な替え歌を歌ってみせる。そのくせ、女子事務員から話しかけられようものなら、赤面してロクな返事もできないのである。
そんな谷やん、実は右目が義眼なのである。
谷やんは昔話をしない。どこで生まれ、どのように育ったのか、親は、兄弟は、結婚は、子供は……。なにひとつ話そうとはしない。封印された過去が幸せなはずはないのだが。ただ谷やん、酔うとひとつだけ過去の話をすることがある。

1960年、25歳だった谷やんはやっぱり印刷工だった。今よりもっと貧しかった。
「なんだかよくわからねえけど、やたら怒ってたよな。なにが不満て、なにもかも気に入らないわけよ。金がねえ、女がいねえ、仕事がつまらねえ、パチンコやっても玉が出ねえって具合にさ」
そして若き谷やんの怒りの矛先は国家に向けられた。その前年の暮れあたりから顕著になってきた日米安保条約改訂の反対運動にのめりこんでいったのである。
「組合の委員長ってのが、いいヤツでよ。わざわざ俺のアパートまで来ていろいろ話してくれてな。俺、本気で信じてたもん、革命が起きるってさ。あの時はよぉ、炭坑のストがあったりさ、全学連が暴れ回ったりしてよ、日本がひっくり返るぞ、ひっくり返せるぞって毎日ワクワクしてたもんよ」
当時の社会党が主導した安保阻止国民会議は10万人という規模で国会へデモをかけた。そのなかに谷やんもいた。デモは5月の自民党の強行採決による安保条約可決からさらに激しさを増していった。大規模なデモ隊が何度となく国会を取り巻いた。警官隊とも激しく衝突した。そんななかで谷やんは警官隊から殴られ右目を失ったのである。東大生・樺美智子さんが殺される半月前のことだった。
「ひと月ぐらい入院したよ。まさか労災も出ねえしよ、ひでえもんよハハハハ……。でも考えてみたら、半年だけだったよな、熱くなったのはよ。6月過ぎたらもう、もうみんな抜け殻よ。あんなに熱くなれたのは、後にも先にもあん時だけだよな」

コップの酒をうまそうに飲む谷やんの左目が笑っている。おそらく自身の輝ける日々を反芻しているのだろう。
〈豊穣なる青春の代価として、右目を差し出したことに後悔はありませんか?〉
話を聞きながらわたしは、そんなことを訊いてみたかった。しかしそれは訊くべき事ではなかった。

あれから20年が経ち、世の中も変わったし日本人も変わった。もちろん谷やんも変わった。労働運動の闘士の面影はどこへやら、アル中一歩手前で定期券の偽造という立派な犯罪者になり、卑猥な軽口をたたく中年親父になってしまった。
しかし、わたしは知っている。谷やんが今でも春闘のとき、あるいは組合のストライキのとき、輝く瞬間があることを。シラフでも平気で猥歌を歌う谷やんが、「インターナショナル」を歌うときだけは真顔になるのだ。
♪ インターナショナル われらがもの
谷やんが大声で吠えるとき、その右目は怒りを含んでいるように見えた。


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Mansion On The Hill [story]

♪ 想い出すまい 別れた人を
   女ごころは 頼りないのよ
   泪こらえて 夜空を仰げば
   またたく 星が
   にじんで こぼれた

「女の意地」(詞、曲・鈴木道明、歌・西田佐知子、昭和40年)。
鈴木道明はTBSテレビのディレクター&プロデューサーで、開局間もない頃からジャズ番組を制作していた。吉田正・佐伯孝夫コンビのムード歌謡とはまた違った、都会的なポップ歌謡を作った。彼の凄いところはほとんどが作詞・作曲ということ。これで自ら歌えば(実際にレコーディンぐした曲もあるらしい)、まさにシンガー・ソングライター。
それほど多くの流行歌を作ったわけではないが、印象的な歌が多い。「赤坂の夜は更けて」(西田佐知子、島倉千代子)、「ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー」(越路吹雪、アイ・ジョージ他)、「夏の日の想い出」(日野てる子)、「銀座ブルース」(和田弘とマヒナスターズ)などで、競作も多く、この「女の意地」もマヒナスターズが「女の恋ははかなくて」というタイトルでレコーディングしている。いまでも、いろいろな歌手が好んでこの“ドウメイ・メロディー”をカバーしている。それだけ色褪せないメロディーということで、流行歌のスタンダード・ナンバーと言ったら言い過ぎかな。
西田佐知子は「アカシヤの雨がやむとき」がいちばんポピュラーだが、「コーヒー・ルンバ」や「月影のキューバ」、「夢のナポリターナ」、「南国の夜」など洋楽のカバーもなかなかいい。

近所に住む賢ちゃんは4歳上の先輩で、高校を卒業すると不動産会社の営業マンになった。賢ちゃんは中学時代からトランペットを吹いていた。高校時代には新宿のジャズ喫茶にバンドマンとして出入りするほど腕は達者だった。僕は彼から音楽の話や芸能人の話を聞くのが好きだった。ただ賢ちゃんの評判はあまり芳しくなく、彼より1級下の僕の兄が言うには「ペットも吹くけど、ホラも吹く」のだそうだ。
たしかに、賢ちゃんは時々突拍子もないことを言うことがあった。当時有名だった映画俳優が実はヤクザの幹部だとか、1万人にひとりの割合で尻尾のある人間がいる(実際に何人かを見たそうだ)とか、自分の本当の父親はイギリス人(言われてみればハーフに見えなくもなかった)なのだとか。しかし、それらが彼の虚言だとしても、それによって傷ついた人間はいない。

社会人になると会う機会も少なくなるのだが、あるとき突然賢ちゃんが僕を訪ねてきたことがあった。彼はいつものように縁側に腰掛け、長い前髪をかき上げながら、仕事で使っているらしい資料を見せて話をはじめた。本のように綴じられた資料は分譲地の図面だった。いくつかの区画に「済」の印が押されている。そこはすべて自分が売ったものだという。僕はあまり興味のない話だったので適当に相づちを打っていた。そのうち、賢ちゃんは「そうだ、いいとこ連れてってやるよ」と言って腰をあげた。「いいとこ」に弱い僕は一も二もなく同道することにした。

僕らは夕暮れ迫る道を歩いていった。坂道を登り切ると小さなアパートがあらわれた。賢ちゃんはその出入口をやりすごして裏へ回った。そして慣れた動作で2mばかりのブロック塀を乗り越え、アパートの敷地へ入った。僕も続いた。裏口のドアを開けてアパートの中へ入ると、賢ちゃんはポケットからキーを取りだし、すぐそばのドアの鍵穴へ差し込んだ。ドアがいやな音をたてて開いた。僕は賢ちゃんに促されて暗い部屋へ入っていった。なにかいい匂いが鼻孔をついた。照明りがともるとそこは6畳の和室だった。花模様のカーテンが窓を塞いでいる。部屋の真ん中に小さなデコラのテーブル。窓の傍に大きな鏡台と衣装箪笥、小ぶりの茶箪笥。テレビやステレオもある。奥の小さな台所には冷蔵庫が見える。壁には女物のスカートとブラウスがハンガーにかかっている。あきらかに若い女性の部屋だった。姉妹のいない僕はそれだけで心拍数が増えていた。

「まあ、座りなよ。フフ……俺のコレんとこだよ」
小指を立てて賢ちゃんが笑った。そして慣れた手つきで茶箪笥から小さなグラス2つとジョニクロのボトルを出してテーブルに並べた。
「新宿でホステスやってんだ」
僕のグラスにウイスキーを注ぎながら彼はそう言った。
「結婚するの?」
15歳の僕は突拍子もないことを訊いてしまった。すると賢ちゃんは前髪をかき上げながら、
「まあな。そのうちな」
と真顔で応えた。
「さて、そろそろ行こうか」
部屋に入って20分もたたないのに賢ちゃんはそう言って、視線をドアの方へ向けた。先に出て外で待っていると、部屋の中から水道の音が聞こえた。僕は賢ちゃんがグラスを洗っている姿を想像した。

それが僕が賢ちゃんと会った最後だった。正確には、そのあと街中で一度だけ彼を見かけたことがあった。そのときの彼は、まだ二十歳を少し過ぎたばかりだというのに、まるで年寄りのように身体を曲げて、トボトボと歩いていた。彼が病魔に冒されていることは聞いていたが、あまりにも痛々しい姿だった。それからしばらくして賢ちゃんは亡くなった。
賢ちゃんを知っている人間に言わせると、彼に彼女などいたことはなく、いつもの虚言であり妄想なのだと。坂上のアパートも、彼が悪さをして手に入れたカギで不法に侵入したのだろうというのだ。しかし、僕が彼と一緒に入ったあの部屋で感じた女性の匂いは、賢ちゃんが「そのうちな」と言った彼女以外の何ものでもなかったのである。

「女の意地」のイントロのトランペットが聴こえてくると、なぜか賢ちゃんと、彼女がテーブルを挟んで語らっている映像が浮かびあがってくる。もちろん場面はあの坂上のアパートの一室である。


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Honky Tonk Angeles [story]

♪ いつか忘れていった こんなジタンの空箱
  ひねり捨てるだけで あきらめきれる人
  そうよみんなと同じ  ただのものめずらしさで
  あの日洒落たグラス 目の前にすべらせて くれただけ
  おいでイスタンブール 怨まないのがルール
  だから愛したことも ひと踊り 風のもくず
  飛んでイスタンブール 光る砂漠でロール
  夜だけの パラダイス
  
「飛んでイスタンブール」(詞・ちあき哲也、曲・筒美京平、歌・庄野真代、昭和53年)。
ちあき哲也、好きな作詞家だ。「かもめの街」(ちあきなおみ)とか「ノラ」(門倉有希)など演歌の名作が多いが、「止まらない Ha~Ha」他、矢沢永吉に多くの詞を提供していることでも知られる。また、80年代初頭には近藤真彦や少年隊などアイドルの作品もある。わたしがいちばん好きなのは渡哲也の「ほおずき」。昔、悲しい思いをさせて別れた女への未練、懺悔がいかにも演歌らしく女々しくていい。
筒美京平についてはいまさら述べることもない。昭和40年代、50年代の日本の流行歌を代表する作曲家だ。この「飛んでイスタンブール」はとりわけ編曲(船山基紀)がエキゾチックで斬新だった。庄野真代は「アデュー」もよかった。

ジタンといったら? フランスの煙草? ロマ? わたしにとってジタンとはあの当時、地下鉄のH駅前にあったスナックのことだ。会社帰り、どうしてもその前を素通りできなくなったことがあった。いわばスナック中毒。

小さな店で、5、6人座れるカウンターにボックス席が3つ。バーテンの安田さん、雇われママの七恵さん、そしてしょっちゅう変わる女の子の3人がジタンの従業員。
七恵さんは30近くで独身。近所の惣菜屋の娘で、昼間は店を手伝って夕方からジタンにあらわれるという働き者。ショートカットで小柄なグラマー。いつも黒系のミニスカートに黒のパンスト。いってみれば“年増”なのだが、そのミニスカート姿が実に似合っていた。
わたしがジタンにいれあげたのは、その七恵さんのせいだったのかもしれない。誤解しないでいただきたいが、わたしは七恵さんに恋い焦がれたわけではない。彼女の話を聞くのが好きだっただけなのだ。

お喋り大好きな彼女のお得意は恋愛相談。実はわたしも、当時付き合っていた彼女のことを相談したことがあり、それから、七恵さんにハマったような気がする。とにかくチャキチャキの江戸っ子だけあって、歯に衣を着せない口調でズバズバ言う。彼女のアドバイスは、恋の駆け引き、手練手管なんてまどろっこしいことは大嫌い、好きか嫌いか、別れるかくっつくかのどちらかなのだ。それを身振り手振りを交え、豪快に笑いながら話してくれるのである。わたし以外でもかなり多くの若い客が七恵さんに恋の悩みを打ち明けていたようだった。果たしてどれだけの客がそのアドバイスを履行していたのかはわからないが。少なくともわたしは、「別れちゃえ、別れちゃえ」という七恵さんの言葉どおり、女と別れたのだが。

7月、街に暑さが沈殿する黄昏どきだった。いつものようにジタンのドアを開け、カウンターの前に座った。そして七恵さんがいないことに気づいた。そして次の日も、七恵さんの姿は見えなかった。2日休むことはめずらしいので、バーテンの安田さんに訊いた。安田さんは私に顔を近づけ、「ちょっと事情があってしばらく来られないんです」と小声で囁いた。

七恵さんは4年ほど前、ある男性と結婚寸前までいったことがあった。しかし、直前に男が逃げた。彼女は泣きながら夜の街を裸で走り回ったという。それからしばらく入院、通院を繰り返すようになった。ようやく1年ほど前から元気になったのだが、今でも薬は手放せないのだとか。その七恵さんに最近、新しい恋人ができた。3つほど年下でジタンの客だった男だ。先週、彼女はその男を包丁で刺したのである。幸い男は軽傷だったが、彼女は通報を受けて逮捕された。

それが、安田さんが話してくれた“事情”だった。そして、
「あの男ははじめから、ママと一緒になる気なんてなかったんですよ」と付け加えた。
「男運の悪い星の下に生まれたのかなあ。ママと合う男だっていると思うんだけど」と、取って付けたようなことをわたしが言うと、
「いやあ、きっとママはそういう男には惚れないんですよ」と言って話を続けた。
わたしは安田さんの話を聞きながら、いつか七恵さんがわたしに「○○ちゃん、嘘ついちゃやよ。アタシ嘘つく人大嫌いなんだから」と言ったことを思い出した。その時の彼女は、いつものような陽気なママではなく、黒い瞳がとても暗くそして深かった。

「さあ、もうここへは戻って来ないんじゃないですかね……」
安田さんの言うとおり、示談がまとまり不起訴になった七恵さんだったが、ジタンには帰ってこなかった。それ以来、わたしのスナック中毒も治り、ジタンの前を平気で素通りできるようになった。それでも、恋のアドバイスの達人だったくせに、自分の恋愛にはまるで不器用だった酒場の天使のことは、折にふれて思い出すのである。


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Too Young [story]

♪ アキ! 〈マキ!〉
  好き好き好きだから好きだから
  花にも星にも負けないで
  思っているよ 〈思っていてね〉
  今日から僕たち ひとりじゃないよ
  ふたりでひとりの 君と僕
  なぐさめあおうね なぐさめあおうね
  いついつまでも いつまでも
  アキとマキの交換日記

「アキとマキ」(詞・平岩弓枝、曲・山本丈晴、歌・梶光夫&高田美和、昭和39年)。
まさに東京オリンピックの年に生まれた歌。当時の流行歌の主流は青春歌謡とカヴァーポップス。カヴァーポップスでは「ラ・ノビア」「サン・トワ・マミー」「ドミニク」「花は何処へ行った」「砂に消えた涙」などが巷に流れていた。
一方の青春歌謡はその前年あたりから流行りはじめていた。「アキとマキ」もその一曲。
梶光夫は「青春の城下町」や「可愛いあの娘」のヒット曲があり、高田美和は「十七才は一度だけ」がある。2人のデュエットでは翌年に「わが愛を星に祈りて」がヒットした。
作詞の平岩弓枝は小説家で、他にTVドラマ「肝っ玉かあさん」の主題歌も作っている。作曲の山本丈晴はギタリストで、美空ひばりの「芸道一代」などを手がけている。また、女優・山本富士子(当時は美人の代名詞)の夫でもある。

わたしも野球小僧だった。
小学校までは野球は遊び。それが中学になるとクラブ活動となり、規律という面倒なものがついてくる。たかが1歳しか違わないのに先輩後輩の関係は天と地ほどの差がある。また、1年坊はつねに声を出していなくてはいけない。先輩の言うとおりを真似るのだが、何を言っているのか自分でもわからない。球拾い、グランドの手入れなど、草野球ではやったことのないことをする。いちばん嫌だったのは坊主刈りだ。野球部への入部を躊躇った唯一の理由が坊主刈りだった。しかし、そんな恥ずかしいことさえ受け入れてしまうほどの魅力が、野球にはあった。

野球部へ入部した新1年生は30名近くいた。全校の男子1年生が200人あまりだったので、6~7人にひとりは入部したことになる。レギュラー9人のポジションを30人で争うのだから、競争も熾烈だ。

わたしと3塁のポジションを争ったのが金物屋のT君。小学校が別々だったので実力の方は分からなかったが、とにかく体格がいい。色黒ギョロ目でいつも白い歯を見せつけるようにニタニタしていた。おまけにお喋りで、わたしと並んでノックを受けているときものべつ何か話しかけてくる。そのせいか、よく先輩に怒られていた。彼の野球部時代を思い出すとき、プレイの姿よりグラウンドを走らされている様子しか目に浮かばない。
とにかくわたしはT君に負けたくなかった。3塁のレギュラーになりたかった。なので彼は打ち勝つべき相手だった。当面の敵だった。彼とはクラスが同じだったが、努めて口をきかないようにした。彼は授業中、休み時間を問わず、いつも軽口を叩き、冗談や皮肉でクラスメイトを煙に巻いていた。彼のそんなお調子者のところも、わたしの嫌悪の対象だった。

彼とのポジション争いは夏で勝負がついた。夏休み皆勤で練習に出たわたしが勝ったのだ。彼は家の手伝いを理由にほとんど来なかった。
レギュラーになれなかった1年生はどんどん辞めていった。しかし、T君はやめなかった。別に悔しがるわけでもなく、わたしからレギュラーを奪おうという闘争心もなく、たんたんと放課後の練習に出てきていた。相変わらずニヤケた顔で。それはまるでわたしに「たかが遊びじゃねえか、そんなシャカリキになるなよ」と言っているようだった。
そんなT君だったが、2年生になるとさすがに野球部をやめた。その頃はもう、わたしの中で彼の存在を意識することはなくなっていた。

その年、東京オリンピックが開かれ、日本の国民はまるで国際人になったかのように高揚していた。しかし、野球小僧たちの関心事は、東洋の魔女の金メダルより、王貞治のホームラン55本という大記録だったのではないだろうか。
オリンピックという祭が終わった深秋のある日、3日ほど学校を休んでいたT君が死んだという話がクラス中、学校中に広まった。翌日の朝礼で校長が壇上から全生徒に、T君が事故死したことを告げた。ただなぜか、詳細は話さなかった。
しかし、事実に蓋をすることはできない。もっともらしき真相はあっという間に広まった。
T君は自殺したのだった。信州の高原で1級下の女の子と心中したのだった。ふたりが死を選んだ本当の理由はわからなかったが、噂ではお互いの親が強烈に反対したということだった。彼らが交換日記をしていたとか、性体験をしていたとか、噂はどんどん横道に逸れていった。

14歳と13歳の心中。野球しか頭になかったわたしにはとてもショックな出来事だった。
あんなに軽口ばかりを叩いていたオチャラケ者が、わたしが想像すらできない世界で生きていた、そして自ら望んで死んでいった、ということがショックだった。野球のレギュラー争いで打ち勝った優越感などこなごなに砕けてしまった。少し大袈裟にいうならば、彼が人生においては、わたしより遙か先を歩んでいたということを思い知らされたのである。彼から「フン、たかが野球じゃねえか」と言われたような気がしたのである。
中学3年になって、わたしが野球以外のことにも目を向けるようになったのは、少なからずそのことが影響していたように思う。


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Rambling, Gambling Man [story]

♪  横浜 港南 伊勢佐木町 
   野毛で生まれて 親父に泣いて
   町におん出た 穀つぶし

   思い出すのは雨の夜
   好きな気持を 騙まかして
   捨てて別れた 赤い花

「にっぽん無宿」(作詞・永井ひろし、作曲・小松美穂、歌・小林旭、昭和46年)。 ヤクザ者の歌はたくさんあるが、これほどリアルな詞のものは少ない。もしかして作詞者がそのスジの人間かと思って調べてみたが、詳細は不明だった。とにかく寡作の人だ。それでも「東京流れ者」(竹越ひろ子)や「あの娘たずねて」(佐々木新一)のヒット曲もあった。どちらも好きな歌だ。「にっぽん無宿」は歌謡曲定番の「流れ者哀歌」で、上記の詞は2番。1番は新宿三幸町、3番は神戸元町というように普通北へ向かう流れ者が、ここでは西へ向かっているのがめずらしい。「落日」(詞・川内康範)、「さすらい」(詞・西沢爽)とともに好きなアキラの流れ者哀歌である。

「アキラの『にっぽん無宿』聴いてみなよ、しびれるぜ」
と、その曲が入った小林旭のLPを貸してくれたのは最も交流のあった学友Wだった。岩手の素封家の三男坊で、出自に唾するように好んで汚い格好をしていた。ヤクザな世界に憧れながら、決してヤクザ者にはなれず、ギャンブルにのめりこみながらも、とうてい賭博師にはなれない。そんな男がWだった。二十歳前後というのはもっとも影響を受けやすい年代でもあり、わたしは、このWから多くの影響を受けた。大学生活を振り返るとき、真っ先に思い浮かぶ顔が彼なのである。

卒業後、就職しなかったのはそのWだけだった。わたしを含め多くの人間は就職浪人をする余裕などなく、さりとて優秀でもなかったので、第2、第3志望で妥協せざるをえなかった。しかし彼は、第一志望の就職試験が不合格になると、あっさり就職をあきらめてしまった。棄てたのか逃げたのかは知らないが、就職という現実に背を向けたWは代わりにロマンを選んだ。世界放浪の旅である。それが、あらかじめ考えられていたプランだったのか、急な思いつき、つまり彼一流のケレンだったのか。とにかく我々が新しい世界で四苦八苦していた5月、彼は日本を離れた。

旅立った彼からしばしば手紙が届いた。それによって彼の放浪の軌跡がわかるのだった。シルクロードの旅人だったかと思うと、北欧で学生生活をしていたり。またフランスで危なげな商売で小金を貯めたかと思うと、インドで極貧生活に身を投じていたり。そして最後はロサンゼルスのリトルトーキョーのドラッグストアの店員として暮らしているという手紙がきた。

ロスにはいちばん長くいたようで、彼が日本に帰ってきたのは、旅立ってから6年後のことだった。その理由が、留学でロスに来ていた年上の女性に恋い焦がれ、彼女の帰国の後を追ってきたというわけだった。ロマンチストの彼らしいといえばそうなのだが。
結局、年上の女性との恋は成就しなかったようだった。おまけに、彼の両親が相次いで亡くなるという度重なる不幸に見舞われた。兄弟姉妹は多かったのだが彼も相当の財産を相続したはずだった。しかし、1年も経たないうちにその大半を競馬、競艇、賭博といったギャンブルで使い果たしてしまったとか。ロマンを求めて海外へ旅立った人間が、ぬるま湯のような日本に戻ってきたとき、生きている自分を実感できるのは賽の目が転がる瞬間だけだったのかも知れない。

故郷で兄弟、親戚から愛想づかしされたWは東京へ出てきた。何度か会ったのだが、以前のWではなかった。どこか落ち着きがなく、いつもイライラしていた。昔の友人数人で会うこともあったが、酒がすすむと気に入らない人間にケンカをふっかける。それで皆から煙たがられる。定職にも就かず、わずかに残った親の遺産で食いつないでいたが、そう長くは続かない。そのうちふっつりと消息を絶ってしまった。失踪前に、友人や知人から借りられるだけの金を借りていたということを知ったのは、しばらく経ってからのことだった。
彼の爛れ尽くした生活も悲しかったが、わたしにだけ借金をしに来なかったことがさらに悲しかった。しかし、それが彼の最後のプライドだったのかもしれない。わたしと共有した時間までたたき売るつもりはない、という薄皮一枚の自尊心だったのではないだろうか。

あれから30年あまり、Wの消息は杳として分からない。学生時代何度か泊まりに行ったことのある彼の実家へ連絡をとってみたが、家屋敷は売り払われ、兄姉たちの行方も分からなくなっていた。
現在、わたしの中でWは、いまだに放浪を続けているのだ。外国なのか日本なのかはわからないが、いずれにしろ彼は肉体が朽ち果てるまで旅を続けるつもりなのである。それでももう若くはない。くたびれ果てた夕べ、酒場の片隅で、ひとりグラスを傾けながら声にならない声で、
♪ 東京 新宿 三幸町  酒と女の灯ともし頃に……
と、この「にっぽん無宿」を口ずさんでいる。そんなことを夢想してしまうのだ。もちろん、その酔いどれ男はまだ若々しい20代のWなのだが。


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Life is hard [story]

♪ 雪でした あなたの後を
  なんとなく 着いていきたかった
  ふり向いた あなたの瞳は
  早くお帰り坊や って言ってた
  あゝあの人は 見知らぬ街の 見知らぬ人
  雪国の 小さな街に
  そんな私の 想い出がある

「雪」(詞、曲・吉田拓郎、歌・猫、昭和47年)。
いかにもタクロウ節のフォークソング。猫は古いフォークソングファンなら知っているはずのザ・リガニーズ(「海は恋してる」)のメンバーらで作られたバンドで、拓郎のバックバンドをやっていた。DylanにおけるByrds? もうひとつのヒット曲「地下鉄にのって」も拓郎の作品。「各駅停車」や「僕のエピローグ」なんていい歌もある。
雪をモチーフにした流行歌は雨ほどではないがけっこうある。童謡・唱歌なら「雪やこんこ」や「雪の降る街を」。演歌なら「雪国」、「風雪ながれ旅」。ポップスなら「なごり雪」、「雪が降る」などはよく知られた歌だ。雪の世界というのは情景がイメージしやすい、つまり絵になるということだろう。日本人は雪景色が好きなのだ。と言うと怒られてしまうかもしれない。雪国に暮らす人たちにとっては、侮れない自然なのだそうだ。美しい銀世界を思い浮かべるのは大雪を知らない人なのだとか。ある人にとって美しいものが必ずしも他の人には美しくない、ということは雪にかぎったことではないのだが。

初めて競馬場でアイツを見たのは半年ほど前だった。10レースが終わって俺のサイフは空っぽ。帰りの足代までつぎ込んでしまった。誰か知り合いを見つけて千円足らずの電車賃をタカるしかなくなっていた。
アイツはオッズ板と手にした手帳を見比べていた。ヨレヨレの上着にすり減ったカカトの靴、かき分ければフケが舞いそうな霜髪。まあ、競馬場ではめずらしくない“懲りない”面々なのだが。去年死んだ知り合いに似ていたので思わず目がとまったのだ。
アナウンスが早く11レースを買えって急かしてる。金がありゃ買ってるさ。とうとう締め切りのブザー。アイツは相変わらずオッズ板を見上げてる。なんだ、買わないのか。もしかしてアンタもオケラなのかい? それどころかアイツは最終の12レースも同じようにオッズ板ばかり見ていて、馬券を買おうとはしなかった。なんだってんだ。

次の週もアイツはいた。相変わらずオッズ板を見ていた。くたびれるとしゃがみ込んでタバコを吸いながら手帳に何か書き留めている。結果の表示は見るけどレースは見ない。それが1レースから12レースまでずっとなんだ。へんな野郎だ。

その日は朝から雨。アイツはホネの折れたコウモリを差し、半身雨に濡れながらやっぱりオッズ板を見上げていた。もううんざりだよ。野郎のおかげでまったくのスランプ。疫病神だぜ。7レースが始まるんで、俺は馬場へ向かった。
あゝ、なんてこった。結果は1着13番、2着2番の「13-2」。馬単で4万円を超える大穴だ。俺の手には「2-13」。なんで裏を買わなかったんだ。情けねえ。千円ケチったおかげで40万取り損なったぜ。ハズレ馬券を引きちぎりながらパドックへ向かった。あれ? アイツがいない。掲示板の前にいたあの野郎が消えている。辺りを見回すと、いた。アイツが身体を右に傾けながら歩いている。どうやら馬券売り場へ向かっているようだ。俺はなぜか気になって後を追った。
アイツが自動券売機ではなく、大口の馬券売り場の前に立っている。まさか。手帳に視線を落とし何かを確認すると、窓口へ向かった。俺はアイツのすぐ後ろへ貼り付いた。「単勝8番」。野郎が小さな声で言った。そして、薄汚れたジャケットの内ポケットから……。俺は目を疑ったね。たしかにあれは帯封の付いた百万円だ。それも数束あった。他人の金なのに足が震えた。
8レースの8番は、4番人気。オッズは6.5倍だ。アイツがたとえば500万円買っていたとして、的中すれば3250万円ってことだ。でも、俺だったら買わないな。たしかにあの馬は実績がある。だが休み明けだ。体重だって20キロも増えている。ここを1回脚慣らしして次のレースで勝負って狙いが見え見えだよ。
「兄哥、レースが始まるよ」
俺はアイツに声をかけた。アイツはこっちを見て笑いやがった。でも動こうとはしない。
レースは8番が逃げた。大逃げだ。向こう正面では二番手の馬に10馬身以上の差をつけている。コーナーを回って8番が直線へ出てきた。まだトップだが、その差は3馬身に縮まってきた。飛ばしすぎだよ。さあ、坂を上がったところでバテるぞ。ゴールまであと100メートルあまり。その差1馬身。後ろにいた馬たちがドッと押し寄せてきた。あああ……。……あれ?、あれ?、あれ! 勝っちゃったよ。8番が粘っちゃったよ。クビ差で1着だよ。ほんとかよ……。さ、さ、3000万円だ……。また身体が震えてきた。俺は転びそうになりながら、オッズ板の所へ戻った。だが、アイツはいなかった。どこかへ消えちまった。3000万円とともに。

それから、俺は毎週競馬場へ行ったが、馬券なんか買わなかった。ひたすらアイツを見張っていたのだ。アイツは相変わらずオッズ板だけ見て帰ることが多かった。アイツが2度目の馬券を買ったのはその、3週あとだった。やっぱり単勝で、3番人気の馬を数百万円買っていた。もちろん的中した。配当は3.9倍。投資金が500万円だったら2000万弱ってとこだ。

底冷えのする日だった。午前中最後の第4レース、ついにアイツが3度目の馬券を買った。窓口で「単勝、16番」という声をはっきり聞いた。そのあとおれは急いで自動券売機へ行き、1万円を滑り込ませた。16番は5番人気、オッズは7.1倍だった。
レースが始まった。俺は16番に数百万円張っている気分になっていた。叫んだ、祈った、罵倒した……。そして16番が勝った。おれは思った「ついに見つけたぞ。競馬の神様だ」って。

朝から雪がちらついている。俺はあのあと知り合いやサラ金から借りられるだけの金を借りた。その600万円がずっとこの懐に入っている。とんだ金の卵を見つけたもんだ。この元手が近い将来、5倍いやそれ以上になるんだ。たまらないね。それをさらに投資資金にすればどえらいことになっちまう。
10レースが終わった。俺の脚がガクガクしはじめた。アイツがオッズ板を離れたのだ。アイツの後を追った。「単勝、1番」アイツの呟くような声が聞こえた。野郎が消えた後、俺は全財産600万円を窓口に押し込んだ。「単勝、1番だ!」。オッズは6倍弱。3000万円以上だ。心臓はバクバクしてる。膝がガクガクしてる。歯もガチガチしてる。
俺は身体が倒れてしまわないように馬場のラチにへばりついて第11レースが始まるのを待っていた。ゲートが開いた。1番はいいスタートだ。向こう上面で先頭から3、4番手につけていたときから、俺はもう泣き叫んでいた。馬群が砂煙をあげて直線に入ってきた。1番はまだ先頭集団だ。あと200メートル。ここから伸びろ。……。……。1番が……、失速していく……。後続の馬たちに呑み込まれていく……。
アイツと心中したんだ……。騙されたんだ……。俺は這うようにしてオッズ板まで戻った。しかしアイツはいなかった。俺はもう頭がおかしくなっていた。「野郎、野郎」と叫びながら馬券売り場の窓口までたどり着いた。そして係のおばさんに叫んだ。
「さっき、俺の前に11レースの単勝を数百万円買ったヤツがいたよな! 野郎も1番買ったんだろ?!」
すると、俺の形相に戦きながらおばさんが言った。
「ええ、たしかに1番の単勝でしたけど、その人が買ったのは12レースですよ」

最終の12レースが終わった。勝ったのは1番、単勝配当480円。その瞬間スタンドに座っていた俺は笑いながら失禁していた。本格的な雪になりそうだった。小便と寒さで下半身が凍りそうだったが、俺はそこから立ち上がるつもりはなかった。


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Cleopatra's Dream [story]

♪ 有難や 有難や 有難や 有難や
  金がなければクヨクヨします 女にふられりゃ泣きまする
  腹が減ったらおまんま食べて 命尽きればあの世行き
  有難や 有難や 有難や 有難や
  …………
  デモはデモでもあの娘のデモは いつも歯がいいじれったい
  早く一緒になろうと言えば デモデモデモというばかり
  有難や 有難や 有難や 有難や

「有難や節」(採譜・浜口庫之助&森一也、補曲・浜口庫之助、歌・守屋浩、昭和35年11月)。
1960年の日米安保条約締結後に出てきた歌。政治の季節が挫折で終わるとこんな捨て鉢で虚無的な歌が流行るのだろうか。メロディーは手拍子歓迎の純和風音頭。老いも若きも何が有難いのかわからないままにこの歌をうたっていた。あまりにもアナーキーなので、自粛の声さえあがった。明治大正の風刺をきかせた演歌節の流れをくむもので、江戸末期に流行ったと言われる「ええじゃないか」に通ずるものもある。後年、毒蝮三太夫か誰かがカヴァーしたような気がするが、時代が噛み合わなかったのか流行りはしなかった。
守屋浩はもともとはロカビリアン。水原弘、井上ひろしとともに“三人ひろし”よ呼ばれ、いずれも歌謡曲に転向して成功した。彼の最大のヒットはやはり浜口庫之助作詞作曲の「僕は泣いちっち」。カントリー調の独特の声で、よく物真似された。水原も井上も早世し、いまは守屋だけが残っている。

「思い切って言います。……結婚してください」
「ええっ! ……でも、お逢いしてからまだひと月足らずですし……」
「時間、つまり長さの問題じゃありません。愛情、つまり深さの問題だと思うんです」
「でも……」

あゝあ……。やっと言ったわね「結婚しよう」って。遅いのよアンタ。いつもの男たちなら1週間で言ってるわ。長さより深さだって? なに青臭いこと言ってんのよ。

「それとも僕のことが嫌いになったのですか?。まさか、他に好きな人でもできたんですか?」
「ひどい……」
「それならイエスと言ってください。お願いです。僕には君を幸せにする自信があるんです」
「でも……」

ハハハ……、「幸せにする」って? 古い、そのセリフ。なに色男ぶってるのよ。まあ、ちょっとクールだし、右頬のキズが無ければイケ面の部類かもね。でもアタシの好みじゃないわ。はあ? 嫌いになったかって? アンタなんかはじめから何とも思ってないわ。アタシが興味あるのは、こないだのホテルでアンタがバスを使ってるすきに見ちゃった預金通帳。驚いたわ。あんなにあるとは思わなかった。いったいアンタって何者?って感じ。フフ……、でも何者でもいいの。まるで興味ないんだから。

「まあ、貴女の気持ちもわからなくはないんです。どうせ僕はこんな男ですから、いきなり信用してくださいって言っても無理かも知れませんね……」
「そうじゃないんです。そういうことではないんです。でも……」
「それなら、なんでなんですか……」
「……」

何? その信用って。アンタこそ、なんでそんなにアタシを信用しちゃうわけ。ホント、お馬鹿ね。世間知らずのボンボンなのね、きっと。でもまあ、そろそろ潮時だわね。こっちだって何度も身体の投資をしてるんだから、ここらへんでしっかり回収させてもらわなくちゃ。

「わかりました。こんな私でよろしかったら、お受けします」
「ほんとうですか?! ほんとうなんですね。やったあ! ありがとう。うれしいなあ。感激だなあ。今度僕の両親にぜひ会ってくださいね」
「こちらこそありがとうございます。楽しみにしてますわ」

あらあら、えらく喜んじゃって。でもわるいけど、そんな時間ないのよねえ。ごめんなさいね。フフフ……。明日の今頃は飛行機の中なのよ。これでアタシの仕事もオシマイ。アンタで打ち止め。おかげさまでお店の一軒ぐらい開ける資金は貯まったわ。
見ててごらんなさい。コイツこのあと絶対ホテルへ誘ってくるわ。フフフ……、お見通しなのよ、アンタの考え。ホテルへ入ったら、まずわたしがバスに入る。そして出てきたら今度はアンタ。その隙にこの睡眠薬をグラスに入れておく。あとはアンタがグッスリお休みのあいだに頂くもの頂いて、お先に失礼っていうわけ、そう、いつもどおりのシナリオね。

「あの、これからちょっと……いいでしょ?」
「ええ?」
「つまり、いつもの所でちょっとだけ休憩していきませんか?」
「でも……」
「でもって? 今晩なにか用事でもあるんですか?」
「ううん、そうじゃないけど……だって恥ずかしくてハイなんて言えないもの……」
「やだなあ、そんなこと。もう他人じゃないんですから。ハハハハ……」

レストランを出たふたりは、男の運転するクルマで都心のホテルへ向かった。男はハンドルを握りながら満足そうにラークの煙を吐き出した。助手席の女は男の肩に頬を寄せ、目を閉じて明後日には居るはずの南国の楽園へ夢を馳せていた。男がカーラジオのスイッチを入れた。
『……警視庁は昨年から若い女性ばかりを狙った連続絞殺魔の特徴とモンタージュ写真を公開しました。……年齢は25歳から30歳、身長は175センチ前後、痩せ形で、右頬に4センチほどの傷があり……』
テールランプが闇の中へ消えていき、長い夜がはじまった。


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We Concentrated On You ② [story]

♪ 打ちあげられた ヨットのように
  いつかは愛も 朽ちるものなのね
  あの夏と光と影は 何処へ行ってしまったの
  思い出さえも 残しはしない
  あたしの夏は 明日も続く

紹介してもらったのは庄司麻理子。M大の2年生。僕らと同い歳だ。電話の感じはちょっと幼いようだったが、とにかく逢って話をすることにした。
小平が風邪をひいたため、待ち合わせの喫茶店には僕と春原さんとで行った。
僕らが喫茶店に入ると、彼女はすでに来ていてモーニングのパンを囓っていた。〈あゝ、炎加世子じゃない〉。それが僕の第一印象だった。
クルクルでセミロングの髪。鼻も口も小ぶりで目だけがやけに大きい。いちばんがっかりしたのは、グラマーじゃないこと。ツィギーのように手足が細いのだ。しかし、僕らにはもう、ここをパスして新たな女優を探す気力は無かった。
小一時間ののち、話は合意した。庄司麻理子は出演を快諾してくれたのだ。
彼女と別れ、喫茶店を出てきた僕たちは黙ったまま駅へ向かって歩いた。妙な沈黙だった。お互いに相手が何かを言い出すのを待っているような雰囲気。正直に言おう。落胆ではなく嬉しさを噛みしめていたのだ。多分春原先輩も。
沈黙を破ったのは春原さんだった。
「……まるでお茶目なフェアリーみたいだったな……」
ポツリと言った。
「うん」
僕は短く応えた。内心はびっくりしていた。庄司麻理子との話が終わった時に僕が感じた印象が、実は“フェアリー”だったからなのだ。そして、また暫しの沈黙のあと、
「なあ、その……、例の濡れ場だがな。あれ、変えた方がいいんじゃないかな」
と、春原さん。
「そうですねえ。彼女にはちょっとハードすぎるかもなあ。ラストの殺されるシーンも、もう少し考えた方が……」
と僕。
「そうそう、俺もそれは前から思ってたんだ。男はさっさと死んじゃってさ、残された女は健気に生きていくってほうが、今風だしリアリティもあるし……」
結局、我らが映画はいとも簡単にセックスレスのストーリーに変更となってしまった。ひとりの妖精の出現によって、僕らのつまらないシナリオが吹き飛んでしまったのだ。庄司麻理子にはそれだけの価値があった。

撮影は2週間で終了した。車2台に分乗して、秩父の山奥や九十九里のロケへ行ったり、歌舞伎町で隠し撮りをしたり、鉄夫のアパートで深夜の撮影をして隣人に怒鳴られたり、あっという間の2週間だった。はじめの構想とは、ストーリーが大分変わってしまい「太陽と海とセックス」は「太陽と海と純愛」になってしまったけれど、僕たちは今までにない充実した半月間を過ごしたのだった

アテレコ、ダビングも終わり、あとは編集を残すだけだった。そんなある日、僕はカメラマンの大ちゃんから呼び出された。
喫茶店の片隅で待っていた大ちゃんはどこか元気がなかった。食欲がないとか体調がわるいなどつまらない前置きのあげく、大ちゃんはポツンととんでもないことを言った。
「実は、俺……、麻里ちゃんが好きになっちゃったんだ。麻里ちゃんのこと考えると苦しくて、じっとしていられなくなるんだよ……」
「……」
「あの娘の前じゃとても言えないし、そんで、お前から、その、俺の気持ちを麻里ちゃんに伝えてもらえないかなって思って……」
「そうか、……わかった。必ずしもいい返事がもらえるかどうかわからないけど、言うだけ言ってみるよ」
「ありがとう。やっぱりお前に言ってみてよかった……」
冗談じゃない。よかったじゃないよ。そりゃないよ大ちゃん。ずるいよ。僕だって麻里ちゃんが好きになっちゃってるんだから……。ひどいよ。自分の好きな女の子に恋の橋渡しをしろっていうのかい? 三枚目になれっていうのかい?。
しかし、大ちゃんは親友だ。裏切るわけにはいかない。かといって、このままでは僕の気持ちがどうにも収まらない。そうだせめて先輩の春原さんにだけは真実を伝えておこう。僕はそう思った。

春原さんのアパートで僕は、まずは大ちゃんのことを話した。それから自分の気持ちを伝えるつもりだった。すると、春原さんは話途中にして、大声で笑いながらこう言った。
「やめとけ、やめとけ。それは無理な話だ。実はな、ここだけの話なんだが、俺、撮影中に彼女を口説いたんだ。いやあ、なんて言うか、映画でも行かないかって軽い気持でな。そしたら、彼女なんて言ったと思う?」
「さあ」
冷静に返事したものの、僕の胸の中は煮えくりかえっていた。〈コイツまで……〉。はじめて春原先輩を殴りたい気持になっていた。
「それがさ、麻里ちゃん大声で笑ってさ『残念でした、わたし結婚してるんだもん』だって」
「…………?!」
「信じられねえよな。相手は高校時代の同級生だってよ。20歳でするか? 結婚」

春原先輩の話を聞き終えて、笑いがこみあげてきた。もちろんあきらめと、してやられたという笑いだったのだが。

あとで分かったことだが、庄司麻理子に惚れてしまったのは、僕や大ちゃんや春原さんだけではなかった。鉄夫や小平もそうだったし、初日に殺されたくせに最後まで撮影に付き合った男優の影山君もそうだったらしい。
結局、男全員が麻里ちゃんの虜になってしまったということだ。考えてみれば、彼女なくして今回の映画制作は成功しなかっただろう。麻里ちゃんという要がいたからこそ、みんなバラバラにならず2週間を楽しく過ごせたのである。
たかが映画ごっこだったが、強烈な思い出を残せたのは、すへて彼女のおかげだと言ってもいい。映画祭で賞は取れなかったが、そんなこと誰も期待していなかった。最早どうでもいいことだったのだ。
庄司麻理子、僕らを手玉に取った20歳の奥さん、お見事! そんな気持だった。

あれから30年、みんなバラバラになってしまった。所在のわかる人間もいるし、わからない人間もいる。そして、僕はいまでも「八月の濡れた砂」を聴くと、あの無邪気なフェアリー・庄司麻理子を思い出し、年甲斐もなく胸を熱くするのである。
しかし笑わないでほしい。そんなアホな感傷男は僕ひとりじゃないはずだ。少なくともあと5人はいるのだから。


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We Concentrated On You ① [story]

♪ あたしの海を 真赤に染めて
  夕陽が血潮を  流しているの
  あの夏の光と影は 何処へ行ってしまったの
  悲しみさえも 焼き尽くされた
  あたしの夏は 明日も続く

「八月の濡れた砂」(詞・吉岡治、曲・むつひろし、歌・石川セリ、昭和46年)。故・藤田敏八監督の同名映画主題歌。アルパが奏でるイントロがとても印象的な歌でした。作詞の吉岡治といえば、「さざんかの宿」(大川栄策)や「天城越え」(石川さゆり)など演歌の作品で知られているが、昭和40年代にはこんな歌謡曲も作っていた。美空ひばりの「真っ赤な太陽」や、千賀かおるの「真夜中のギター」などもそうだ。もっと遡れば島和彦の「雨の夜あなたは帰る」や「悦楽のブルース」。後者は発禁になった。歳を重ねポップスから演歌へチェンジするのは歌手だけではないようだ。作曲のむつひろしは、寡作なのかヒット曲が少ないのか。この曲以外では「昭和枯れすすき」(さくらと一郎)、「グッドナイト・ベイビー」(キングトーンズ)、「ちっちゃな時から」(浅川マキ)しか知らない。でも、すべて愛聴歌。
藤田敏八は監督よりも「ツィゴイネルワイゼン」(監督・鈴木清順)での怪演のほうが印象に残っている。それと夫人の赤座美代子。もし10年早くデビューしていれば東映でも大映でもお姫様俳優になっていたのでは。唯一の主演映画「牡丹灯籠」でこけてから、バイプレイヤーひとすじ。渡哲也主演の「剣と花」でのスナックのママ役は綺麗だった。話が脱線したようです。

僕たちがあの夏、8ミリ映画の制作を思い立ったのは、並木座で「八月の濡れた砂」を観たからだった。太陽と海とセックス。それが青春だった頃の話だ。

プロデューサー、監督、脚本はもちろん言い出しっぺの僕。撮影は質屋の倅・大ちゃん(機材はそろっている)。助監督兼音楽が1年先輩の春原さん。照明係兼運転手が鉄夫。そしてマネージャー兼運転手が小平。以上スタッフ5人。もちろんそれぞれが、端役の俳優も兼ねている。2カ月先の学生映画祭に出品するのだ。もちろん狙うはグランプリ。
シナリオは、春原さんの協力を得て1週間で書き上げた。男と女が偶然出逢い、愛し合い、やがて殺されるという単純不明快な話。見どころはセックスシーン。ブルーフィルムかはたまたピンク映画かというほどハードな描写でいこう、ということで春原さんと意見も一致。

さて次は俳優だ。主演男優は大ちゃんの知り合いでN大の演劇学部に通っているという影山君。なんとかという劇団に所属しているというのでお願いしたのだが、会ってみてガッカリ。村野武範までは期待していなかったのだが、なんと100キロはあろうかという巨漢。これなら鉄夫のほうがまだ僕のイメージに近かった。春原さんに相談すると、
「しょうがねえよ。男は早く殺しちゃってさ、そのあと女は殺した男たちに姦られるって話にしようよ」
と。もちろん姦る男たちの中には春原さんも入っていた。
次ぎは女優だ。こちらは自信があった。僕の中のイメージは「セックス大好き」と放言して有名になった松竹の炎加世子、あるいは新東宝のお色気女優、筑波久子。実は学内にそんな女がいるのだ。文学部の島村光恵。グラマーでミニスカートから突き出た太い脚、そして厚い唇。ずっと前から目をつけていたのだ。みんなにそのことを話すと諸手を挙げて歓迎された。
僕はさっそく島村光恵の出演交渉にとりかかった。小平と一緒に学食にいる彼女をつかまえ、口説きにかかった。もちろん表向きは純愛映画である。セックスシーンがあるなどと言ったらOKするはずがない。どたん場で説明すればきっと断れなくなる。そう何かの本に書いてあった。
ところがである。光恵の返事はノー。てんで話を受け付けないのだ。僕は焦って考えてもいなかった謝礼のことまで口にしたのだが、「だめ」の一点張り。諦めざるを得なかった。仕方がないので、「グラマーで可愛い」をキーワードに、手当たり次第に声をかけた。学内ですべて断られ、街へも繰り出した。しかしことごとく返事はノーなのだ。
だが、諦めるわけにはいかない。映画祭は迫っている。
ある雨の日、駅前でバスを待っていたショートパンツの娘に声をかけた。彼女で26人目だった。しかし彼女の応えもノー。肩の力が抜けかけたとき、彼女が言った。
「そうだ、私の友だち紹介しましょうか。昔、テレビで子役やってたって娘で、私なんかより全然可愛いいわよ」
「お願いします!」
僕と小平は同時に返事した。


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Back Street Boys [story]

♪ あの町この町 日が暮れる 日が暮れる
  今きたこの道 帰りゃんせ 帰りゃんせ
  
  お家がだんだん 遠くなる 遠くなる
  今きたこの道 帰りゃんせ 帰りゃんせ

「あの町この町」(詞・野口雨情、曲・中山晋平、大正14年)。
この作詞・作曲コンビの唱歌には他に「しゃぼん玉」「雨ふりお月」「証城寺の狸囃子」「こがねむし」などがある。流行歌では「船頭小唄」「波浮の港」などもそうだ。いずれにしても、どれも「死歌」に近い。
こどもながらに怖い歌があった。この「あの町この町」がそうだ。その他では「叱られて」(詞・清水かつら、曲・弘田龍太郎)、「夕日」(詞・葛原しげる、曲・室崎琴月)も怖かった。いずれも大正の唱歌だ。この三つの歌に共通しているのはいずれも夕暮れを歌っているということ。日暮れには、楽しい遊びが中断され、友だちと別れるという淋しさもあっただろうが、明るい世界が徐々にフェイドアウトしていき、やがて闇につつまれるという、暗黒にたいする恐怖もあったのではないか。それは死に通ずるものだろう。
とりわけ「夕日」の♪ ぎんぎんぎらぎら…… という歌詞はこどもながらに、世界の終末を思わせる響きがあった・

ある日曜日。
お父さんは縁側で文鳥の入った鳥籠を掃除している。座敷ではお母さんが、くけ台に着物をひっかけて針をつかっている。庭ではお兄ちゃんが、空き缶にヒモを通した缶馬で歩き回っている。僕も缶馬に乗ってお兄ちゃんの影を追っている。缶馬が庭土を闊歩する音も文鳥の囀りも聞こえない。
僕は、お兄ちゃんの名前を知らない。もちろんお父さんもお母さんも今日初めて見る人たちだった。

人と人の出逢いはいろいろで不思議だ。何気ない邂逅が長い付き合いになったり、ドラマチックな対面が意外と早い別れになったり。また長い付き合いの人でも、初対面のときのシチュエーションが曖昧だったりすることがある。出逢いに気をとめない子供の頃となれば、その印象が希薄になるのはなおさらだ。

僕が何処でそのお兄ちゃんと会ったのか、どういうキッカケで彼の家へ遊びに行くようになったのかは定かでない。その家が僕の家から相当離れた隣町にあったということも、不思議だ。とにかくそのサイレントの記憶は、のどかな日曜日からはじまるのであった。そのとき僕は8歳、お兄ちゃんは11か12歳ぐらいだったと思う。

それから記憶は一気に戦場へと飛ぶ。戦場とは大袈裟だが、子供たちのケンカの場所だ。
隣町との境にある大きな原っぱがその戦場だった。もちろん、二つの町の悪ガキどもが、ルールを定めたわけではないのだが、定期的に戦うのである。お互い十数人同士で、派手な取っ組み合い、殴り合いになることもあれば、口げんか罵り合いで終わることもある。
そのとき、小学2年の僕はなぜか、その戦闘員の末席に名を連ねていたのである。
わが町のボスが口上というほど立派なものではないが、相手に宣戦布告をする。10mほど離れて対峙する隣町のボスが「望むところだ」などというようなことを言い返す。
わが軍のだれかが石を投げた。それが相手の兵隊の顔に当たった。兵隊は一瞬手で顔を覆い蹲った。予期せぬ事態に時間が止まる。兵隊はゆっくり立ち上がった。
そのとき初めて、僕はその兵隊があのお兄ちゃんであることを知った。残酷な再会だった。

お兄ちゃんが石を投げ返した。それをきっかけに礫合戦が始まった。飛んでくるのは石だけではない。木の枝だったり、草の根だったり、ネズミの死骸だったり。夥しいものが激しく飛び交った。
僕は味方の最後部に隠れ躊躇っていた。どうすればいいのか分からなかった。生まれて初めて覚える感情だった。しかし、やがて足元の草を引き抜き、それを敵へ向かって放り投げた。根に土のついたままの草の固まりは両軍の間に落ちた。そのとき、お兄ちゃんと目があった。お兄ちゃんは笑っていた。

戦争の行く末がどうなったのか記憶はない。お兄ちゃんが笑ったところでフィルムが燃え尽きてしまったように映像は終わっているのだ。残ったのは幼いながらに覚えた後味の悪さと自分を責める思いだった。その思いは半世紀あまり過ぎた今でも色褪せることなく残っている。

人間を裏切るということが、かくも苦々しいものなのだということを少年は学んだはずだった。


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So Long, It's Been Good To Know You ② [story]

♪ 覚えているかい 森の小径
  僕も哀しくて 青い空仰いだ
  
  何にも言わずに いつか寄せた
  小さな肩だった 白い花 夢かよ

「××小学校? 4年?」
と少女は二つ訊いてきた。僕は二度頷いた。こんなに朝早く何をしているのか訊かれたので、目的もなく散歩をしていると応えると、それには興味を示さず、
「かあちゃんが病気なの、仕方なく手伝ってるの……」
と自分のことを話し始めた。
小島茂世という名前で、隣町の○○小学校の6年生。家は牛乳販売店をやっているそうだ。来年、ハワイにいるお祖父さんの所で暮らすのだとも。
「さあ、あと少し。届けちゃわなきゃ」
茂世はそう言うと立ち上がり、自転車に跨った。僕は、まだ話を聞いていたかったのだが。茂世は僕に笑顔で敬礼をしてから自転車をこぎ出した。僕は急いでコーヒー牛乳を飲み干し、自転車の後を追った。茂世が急ブレーキをかけ、振り返った。僕は箱の中に空きビンを戻し、
「手伝う……」
と小さな声で言った。茂世はニコッと笑って再び自転車をこぎ始めた。
僕は茂世から言われた家の牛乳箱へ、ビンを入れて回った。彼女は僕が戻ってくるといちいち笑顔で「サンキュー」と言うのだった。その響きがとても心地よかった。
「これで最後よ」と言われたのは、いつも欄干を触って帰る橋の袂にある鉄工場だった。
箱に牛乳ビンを収めて戻ってくると、茂世は「今日はありがとう」と言った。僕が黙っていると「じゃあね」と笑って背中を見せ、橋を渡っていった。僕はしばらく彼女を見送っていた。そしていつものように右手で欄干に触り、電車通りを引き返していった。

それから、茂世を手伝って牛乳を配るのが僕の日課となった。茂世は僕が、母親の病気のため今の家に預けられているということを知ると、なおさらよく僕に話をするようになった。
茂世の母親がからだが弱いというのはウソで、実は2年前に家出してしまったこと。父親は酒を飲むので嫌い。7つ上の兄は悪い仲間に入ってめったに家へ戻ってこない。自分は勉強が嫌いだからあまり学校へ行かない。早くハワイへ行ってお祖父さんのやっている理髪店で働きたい。今いちばん欲しいのは金色のカチューシャ。今いちばん行ってみたいところはお母さんの生まれた鹿児島。宝物は箱一杯に詰まった赤、白、緑、青、黄などのガラスの破片。そんなことを僕に話してくれるのだった。

茂世と会ってひと月あまり経った土曜日だった。その日の朝空は今にも雨になりそうな鈍色の雲におおわれていた。僕らはいつものように牛乳を配り終え、橋の袂まで来た。
「ねえ、明日、家へ来ない?」
茂世が言った。そして、
「午後からだったら父ちゃん出かけるし、誰もいないから」
と付け加えた。僕が下を向いて躊躇っていると、
「どっか行くの? 約束があるの?」
と訊ねてきた。僕は二度首を振ってから、顔を上げ笑顔をつくった。茂世は、
「じゃあ、きっとよ。××町の小島牛乳店っていえばすぐ分かるから」
と言って自転車をこぎ始めた。しかし、すぐに自転車を急停車をさせ振り返った。そして、
「約束よ……」
と念を押して笑った。橋を渡っていく茂世の背中を見つめながら僕は、なにか胸の中の風船が膨らんでいくような気がした。

昼過ぎ、学校から帰ると父が来ていた。僕は、母に何事かが起こったのだと直感した。
父は、これから一緒にお母さんの所へいくのだと言った。伯母さんが前掛けを顔に当てていた。僕は自分の部屋へ行き“よそいき”に着替え始めた。悲しいとか辛いという気持はなかったが、次から次へと涙が落ちてきて、シャツのボタンがうまくはまらなかった。
父と外へ出る前に、伯母さんが「あとで行くからね。気をつけるんだよ」と言った。僕は笑顔で頷いた。それでもまだ涙は止まらなかった。
僕が茂世との約束を思いだしたのは、その日の夜、信州へ向かう列車の中でだった。しかし、そのときはすぐ東京へ戻ってくるのだから、また会えるだろうと考えていた。

母は、父と僕が信州の病院へ着いてから4日後に死んだ。そして、僕はそのまま祖父母のもとで育てられることになった。

中学1年の夏休み、深川の伯母の所へ遊びにいく機会があった。一泊した朝、僕は3年前と同じように露地を抜け、荒物屋の角を曲がって染め物工場の板塀沿いを歩いてみた。懐かしい町並みだった。電車通りに出ると、あのドブ川の臭いが鼻孔いっぱいに入り込んできた。しばらく行くと、朝もやの中に鉄工場が見えた。その先が橋だった。僕は橋の前で佇んだ。あのときのように茶色に光る欄干に触ってみた。そして、この橋を渡ろうと思った。この朝もやの先にある、まだ見たことのない隣町へ行ってみようと思った。


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So Long, It's Been Good To Know You ① [story]

♪ ホロホロこぼれる 白い花を
  うけて泣いていた 愛らしいあなたよ
  ……
  何にも言わずに いつか寄せた
  小さな肩だった 白い花 夢かよ

「森の小径」(詞・佐伯孝夫、曲・灰田晴彦、歌・灰田勝彦、昭和17年)。
太平洋戦争の渦中にこんな歌が流れていた。当時は評論や小説、詩歌はもちろん、映画、演劇、絵画など、あらゆる表現活動に検閲の網がかけられていた。歌謡曲や演芸などの大衆芸能も例外ではなかった。人間の原初的な行為である男女の愛とか恋とかは軟弱の極まりで、理屈抜きに検閲の対象となった。にもかかわらずこの歌が検閲の対象にならなかったのは、奇跡にちかいのではないか。
佐伯孝夫の抒情的な歌詞に、ノスタルジックなハワイアンメロディーがとても合っている。灰田勝彦の声を抑えたクルーン唱法もこの歌の雰囲気にうってつけ。灰田晴彦は勝彦の兄で、同じトリオの作品に「鈴懸の径」がある。
この「森の小径」はウクレレ協会の協会歌だそうで、インストゥルメンタルでハワイアンやジャズのナンバーとして演奏されることもあり、それもまたいい。

僕が小学校4年生になって間もなく、母の病気が悪化し信州の病院で療養することになった。信州に母の実家があったからだ。そして僕はしばらくの間、蒲田の家を離れ、深川の伯母の所へ預けられることになった。父の妹である伯母は、陽気でお喋りな人だった。高校生と中学生の従兄弟ははじめこそ珍しくて僕の相手をしてくれたが、すぐに飽きてしまったようだった。伯父さんは幼いながらも苦手だった。家族が揃っているときは、僕に冗談を言って周囲を笑わせるのだが、ふたりきにになると態度があからさまに変わるのだ。たとえばこんなことがあった。
ある休日、伯母が用事で、代わりに伯父が僕を映画に連れて行くことになった。その前夜、皆の前で伯父は「さて、何を見ようかなあ。嵐カンかい? それとも錦之介かい?」などと言って僕を喜ばせたのだが、当日、ふたりで外出したとたんまったく口をきかなくなった。そして、映画街へ着くと「ホラ、あそこだから見てきなさい」と指を差すのだった。理由がわからず黙って伯父の顔を見ていると、思いだしたように胸ポケットから財布を取り出し、百円札を2枚を僕に手渡した。そのときの伯父の顔はとても怖かった。

それでもしばらくすると伯母一家との生活に慣れ、新しい学校にも慣れた。両親がいないことを別にすれば元の生活に戻ったような気持ちになることもあった。ただ変わったのは、早起きになったということだ。
午前5時になると目が覚める。まだ誰も起きていない。僕は表へ出て近所を散歩するのだ。露地を抜け、神社を横切り、ほとんど人の気配のない電車通りを通って川まで往く。ドブの臭いがだんだん強くなり、川に近づいていることが分かる。そして橋が見えてくる。僕は橋の欄干を触り引き返してくるのだ。儀式のように毎日それを繰り返した。

今考えれば、あのときの朝の彷徨は、両親を求めてのことだったのだと思う。露地から電車通りへの散歩道は幼いなりの夢の旅路だったのだ。そしてあの橋が現実だった。小学4年生にはその現実を渡りきる勇気がなかった。そこですごすごと引き返してしまったのだった。

家へ戻ると伯母が朝食の支度をしている。はじめは伯母も驚いたようだが、何日かすると「今日は晴れそうかねえ」などと、天気を聞いてきたりする。
そんなある朝、僕はいつものように荒物屋の角を曲がり、染め物工場の板塀沿いを歩いていたとき、前の道を自転車に乗った女の人が横切った。一瞬女の人と見えたのだが、よく見ると、僕と歳がそう変わらない女の子だった。少し大きめの自転車の荷台には箱が据え付けられ、どうやらその中に入った牛乳を配達しているらしい。僕はいつもの道から外れ、ゆっくり自転車のあとを着いていった。彼女は自転車を止めては、箱から牛乳瓶を取り出し、家々の門に取り付けられた牛乳箱に入れていく。
自転車は狭い露地から商店街へ出て、薬局の前で止まった。そこで彼女は後ろをふり向いた。僕は立ち止まった。優しい顔だった。でも、同級生に比べるとはるかに大人の顔をしていた。僕らはしばらく見つめあった。優しい顔が笑顔に変わった。僕は彼女に背を向け、全速力でその露地を駆け戻った。

それからしばしば、早朝の散歩で牛乳配達の少女を見かけるようになった。散歩の目的が彼女をみつけることに変わったのかもしれなかった。
あるとき、彼女の後をついていった僕は、神社の前で見つけられた。いつものように逃げようと思ったが、それよりも早く彼女は手招きをした。魅入られたように近づいていくと、彼女は、
「いつも後をつけてくるのね。探偵ごっこなの」
と言って、箱の中からコーヒー牛乳を取りだし、僕に差し出した。受け取りかねていると、「いいから」と言うなり、片手で器用にふたをはね飛ばし、僕につき出した。そして彼女は自転車を路上に停め、鳥居の土台に腰掛けた。僕も彼女から少し離れて座った。


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I met him on a Sunday [story]


♪ 遠い海に波が光る あれはジョニーの青い墓標
  ひとりで生きる 俺の胸に
  今も聞こえる  あの声よ
  想い出すのはジョニー いってしまったジョニー
  想い出すのはジョニー ジョニー
  海を見ていたジョニー ジョニー
  海を見ていたジョニー ジョニー

「海を見ていたジョニー」(詞・五木寛之、曲・叶弦大、歌・渡哲也、昭和42年)。
五木寛之のベストセラーで自身が作詞を担当。歌唱は渡哲也。ということは映画の主題歌か。と思ったらそうではない。この題名の映画は作られていない。見てないがドラマや劇画にはなったらしい。42年といえば、渡哲也主演の映画「青春の海」、「陽のあたる坂道」が作られている。ということは、そうした文芸路線の流れで「海を見ていたジョニー」映画化の企画はあったのかも。しかし、なぜかそちらへは行かず、その年の後半、かの名作「紅の流れ星」が公開。そしてそれをケジメに翌43年から「無頼」「前科」のヤクザシリーズへ突入していく。大ヒット曲「くちなしの花」が世に出る6年前の作品である。なお、五木寛之作詞の流行歌は「青年は荒野をめざす」(フォーク・クルセダーズ)、「愛の水中花」(松坂慶子)、「織江の唄」(山崎ハコ)、「旅の終りに」(冠二郎)などけっこうある。

ピッチャーのゴメスがバッターを得意のナックルで三振に仕留めゲームセット。3対1でポートランド・シードッグスがコネチカット・ディフェンダースを破った。千人あまりの観衆から拍手と歓声が湧き起こった。
ここはボストンから車で北へ2時間あまり行ったところにあるハッドロック・フィールド。シードッグスの本拠地だ。シードックスはボストン・レッドソックスの傘下にあるダブルA、つまりマイナーの球団なのだ。

7月の午後の風は心地いい。ゲームも楽しかった。わざわざボストンから2時間かけてやってきた甲斐があったというものだ。アトラクションをいれて4時間あまりの時間をたった6ドルで買えたのだから安いものだった。ゆっくりと潮がひくように観客が出口から消えていく。青空の下、大分軟らかくなった西陽を受けながら、わたしは観客席に座ったまま、もう少し余韻に浸っていたかった。

そのとき、ひとりの男がわたしの隣に腰を降ろした。サングラスに派手なアロハ、それに半ズボンといかにもアメリカンらしい。大きな男で、半分ちかく白くなった髪の毛と頬の深い皺から年齢は50代後半だろうか。
「日本の人ですか?」
男は笑顔でそう訊いた。どこから見てもアングロサクソンという顔付きに似つかない流暢な日本語にびっくりした。
「私はジョニー・アンダーソンといいます。あなたは観光で来たのですか?」
彼は名を名乗るとふたたび質問してきた。お返しにわたしも名を名乗り右手を差し出した。男は快く握手で返してきた。大きな手だ。わたしは、毎年今頃、日本からボストンへ会社の出張で来てひと月ほど滞在すること、メジャーリーグが好きで休日はいつもレッドソックスを見にフェンウェイパークへ足を運ぶこと、そして今日はレッドソックスの試合がないので、ここまでマイナーリーグの試合を見に来た、ということを手短に彼の質問の応えとして話した。
「こんなところで日本人に会えるとは思わなかった」
と言ってアンダーソン氏は笑顔で首を振った。今度はわたしの番だ。
「とても日本語がお上手ですけど、日本にいらっしゃったことがあるんですか?」
「僕は横浜で生まれたんです。もう亡くなりましたが母親は日本人です」
アンダーソン氏はわたしの質問を待っていたんだといわんばかりに、そう応えた。そして、
「もう30年以上前になりますが、ボルティモアで1年だけプレーしたことがあります」
と付け加えた。わたしは彼が元メジャーリーガーだったということを知って興味を持った。そして彼の話を聞いていくうちに、さらに驚かされた。

ジョニー・アンダーソン氏はなんと、日本の近鉄バッファローズでプロ野球デビューを果たしたというのだ。それもよくある助っ人外人ではなく、れっきとした日本人として。その頃は日本国籍で松岡守という名前だったのだそうだ。そしてさらに驚くことに、彼はその年すぐ1軍にあがり、対阪急ブレーブス戦で初打席初ホームランという快挙をやってのけたのである。その後、膝の故障に悩まされ1軍と2軍を行ったり来たりする生活が続いた。
そして入団から5年目、彼はプロ野球選手としてピークを迎えるはずだった。ようやく故障も完治し、その年はオープン戦からもの凄い勢いで打ちまくった。結局オープン戦8ホームランは12球団でもナンバーワンだった。公式戦開幕では4番レギュラーが約束されていた。ところが、松岡守は4月の開幕戦に出場しないまま、近鉄を退団してしまったのである。その理由は彼が5歳のときに単身アメリカへ帰ってしまった父親が、母親と彼をアメリカへ呼び寄せ一緒に暮らしたいと言ってきたからだという。彼はいとも簡単に野球よりも家族を選択したのである。

アメリカへ渡り、国籍とジョニー・アンダーソンという名前を得た彼だったが、やはり野球を忘れることはできなかった。父親に30歳までという約束で地元のマイナー球団に入った。そして4年後、メジャーの名門、ボルティモア・オリオールズへの入団を果たしたのである。もし松岡守がアメリカ国籍を取得していなかったら、野茂英雄に遡ること20年、彼はマッシー村上に次ぐ、日本人ふたり目のメジャーリーガーになったはずだったのだ。しかしオリオールズでは、さしたる成績を残せず、その年のオフに解雇された。30歳になる少し前だった。その後、彼は約束どおり、父親がポートランドで経営する魚肉の罐詰め工場を継ぐことにしたのだという。

「私の野球人生は、メジャーリーガーとしての1年ではなく、近鉄での21本のホームランだよ」
と付け加えた。
「日本へは何度か帰りましたか?」
と訊ねると、首を振って、
「いやあ、ずいぶん不義理をしてしまったもんだから……」
と静かに笑った。
「不義理も30年経てば、思い出話に変わりますよ」
わたしがそう言うと。
「そうかもしれないね。そう、死ぬ前に一度は日本へ行ってみたい……」
と言って笑った。

わたしは帰国してから、知り合いのスポーツライターに松岡守のことを調べてもらった。
すると数日後、信じがたい返事がメールで送られてきた。それによると、松岡守という人物は近鉄バファローズはおろか、全プロ野球球団の名簿にも載っていないというのだ。では、ジョニー・アンダーソンという名前はないかと問い合わせたが、それもないという返事だった。
ということは、アンダーソン氏が語ったことはすべて作り話なのか。あの流暢な日本語から推測すれば、彼が日本にいたことは間違いない。しかし、近鉄に入団したこと、退団のいきさつ、そしてメジャー入団はすべて嘘だったのか。騙しやすい日本人を見つけて暇つぶしの大ボラをかましてくれたのか。
しかし、あのときの彼の話しぶりが嘘だとはどうしても思えない。今年もまた7月にボストンへ出張する予定だ。そのときはぜひ、再びあのハッドロック・フィールドへ行ってみよう。そうすればまたジョニー・アンダーソン氏に会えるかもしれない。


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Here You Come Again [story]

♪ 好きになったら 離れられない
それは初めての人
ふるえちゃうけど やっぱり待っている
それは初めてのキス 甘いキス
夜を焦がして 胸を焦がして 弾けるリズム
ドドンパ ドドンパ ドドンパが
あたしの胸に 消すに消せない 火をつけた

「東京ドドンパ娘」(詞・宮川哲夫、曲・鈴木庸一、歌・渡辺マリ、昭和36年)。
ドドンパは和製のリズムだという。なんでも都々逸とルンバをミックスさせたものだというのだが、ルンバはともかくなぜ都々逸なのか。ドドンパの流行歌はこの「東京ドドンパ娘」が嚆矢というが、その前年の35年にやはり渡辺マリが「ドドンパドンパッパ」(曲・渡久地政信)という歌を歌っている。ではドドンパの作者は誰なのか気になるところだが、歌も踊りもそれほど広まらなかった。翌年大ブームとなったツイストに軽く吹き飛ばされてしまった。映画「私が棄てた女」(監督・浦山桐郎、昭和44年)で、ヒロインの森田ミツが砂浜で若者たちと一緒にドドンパを踊るあの垢抜けないシーンが忘れられない。

「時雄、またあの女おまえのこと見てるぜ。ホラ、笑ってるよ、お前も笑ってやれよ」
「からかわないでくださいよ、石塚さん」
「見ろよ、よく見れば可愛いじゃねえか。目がくりっとしててよ」
「声が大きいですよ。聞こえますって。かんべんしてくださいよ、ほんとに」
 そう言って俺は麺を湯切りし、スープの入ったどんぶりに放り込んだ。
 その女の名前が房江だということは、あとから知ったのだが、去年の秋頃から俺の働いている中華料理店に来るようになった。いつも同年配の女との二人連れだった。年齢は俺より少し下に見える。20歳前後ってとこか。土曜の午後にあらわれ、かならずといっていいほど、オヤジみたいにラーメン・ライスを注文する。そんな女はいない。
石塚先輩が言っていたように女はブスではないのだが、なにしろまったく化粧っ気がない。髪はショートの天然パーマ。眉毛はゲジゲジだし、ほっぺたもリンゴのように赤味を帯びている。その服装がまた田舎くさい。たとえば今日はというと、白いブラウスの一番上のボタンを留め、ピンクのカーディガンを羽織っている。大きなチェックの膝下のスカート。女学生が履くような黒いぺったんこの靴に足首で折り曲げた白いソックス。いまどきそんな女はいない。あんまり頻繁に来るので、いつだったか焼豚を1枚余計に入れてあげたことがあったっけ。それ以来、いつ見ても俺に微笑みかけるようになったのだ。つまらないことをしたもんだ。

「今度、映画でも見に行かないか?」
ぶっきらぼうに訊くと、瞳を輝かせてニッコリと頷いた。俺は房江が店から出る間際に声をかけ、デートを持ちかけたのだ。実はこれすべて先輩の石塚さんの筋書き。

待ち合わせの場所に現れた房江は、店に来るときと同じような垢抜けない服装のままだった。違っていたのは、紅いルージュをひいていたことと、ピンクの新品のハイヒールを履いていたことだけだった。映画を観て、メシを食った。房江はほとんど口を開かない。こっちが何か訊いても頷いたり、首を振ったりするだけだ。それでいていつも薄く笑っている目が妙に馴れ馴れしい。俺はいいかげん苛立ってきた。しまいには話すことがなくなり、ほとんどふたりで黙っていた。喫茶店で時間をつぶして午後7時。「なあ、俺んとこ来ない?」。房江は笑顔で頷いた。自分で言っておいて俺は無性に腹が立った。いまごろ俺のアパートで石塚さんが待機しているはずだった。

部屋に入って石塚さんを見た房江は少し驚いたようだった。でも笑顔で会釈した。俺は計画どおりトイレに立った。用を足して出て来た途端、「ギャー」という房江の叫び声が聞こえた。ゆっくり部屋の戸を開けると、石塚さんが房江にのしかかっていた。房江は仰向けのまま両腕を胸の前に置いて、まるでオケラのように震えていた。スカートがめくれあがって、白いパンツが見えていた。
ぶざまだと思った。なにがって俺自身が。俺は傍にあった猫の頭ほどの灰皿で、思いきり石塚さんの後頭部を殴った。石塚さんは一言唸って失神した。そして、まだ泣き叫んでいる房江にビンタを喰らわした。一瞬泣きやんだ房江は怯えた目で俺を見た。そして「お母さん……」と泣き叫びながら玄関から表へすっ飛んで行った。取り残されたピンクのハイヒールがこの部屋にそぐわなかった。俺は頭にコブをつくってのびている石塚さんの横に座って煙草に火を点けた。つまらないことをしたもんだ。

俺はあとで石塚さんからしたたか殴られた。そんなことはどうでもいい。当然のことだが房江はそれ以来店には来なかった。情けないことだが、あの目が俺に対して無警戒、無計算の目だったって気づいたのは、彼女を見かけなくなってしばらくしてからだった。あれから、俺もいろいろな女と付き合ったけど、あんな無垢で優しい目をした女はいない。その無垢な目に砂をぶちまけたのは俺だった。ほんとうに、つまらないことをしたもんだ。


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The End of The World [story]

♪  そよぐ風には さわやかな音
   花たちは咲き 野原を染めた
   ふしぎな   春の日
   …………
   果実は割れた 風の詩人は
   星から星へ  すがたを変える
   ふしぎな   秋の日

「不思議な日」(詞・松山猛、曲&歌・加藤和彦、昭和46年)。
作詞作曲は「イムジン河」のコンビ。シンプルで想像力をかきたてる詞とフラットな感じの曲、それに頼りなさそうな歌声で、文字通り不思議な楽曲になっている。この曲のモチーフが、ハルマゲドン後の世界を描いたスタンリー・クレイマー監督の映画「渚にて」(重苦しく、これまた不思議な映画だった)だと何かに書いてあったのを記憶している。もし、ハルマゲドンで生き残った人たちが、荒野と化した地球で、かつて野原を埋めた花々のイメージを呼び戻したとき、不思議な日と感じるのは、記憶に刻まれた原色の世界なのか、それとも目の前に広がるモノトーンの世界なのか。

最悪の朝。昨日の夜から痛みだした奥歯は、鎮痛剤も役に立たなかった。夜中じゅう歯痛と格闘して、うつらうつらするばかりで少しも熟睡できなかった。
朝食も摂らず朝一番で飛び込んだ歯医者で、いきなり麻酔を打たれ、奥歯を抜かれた。その麻酔と家で多用した痛み止めの薬のせいか、からだは怠く、頭はボーっとしていた。それでも会社を休みたくなかったので電車に飛び乗った。

ふらふらしたままいつもの駅で降りた。階段を下り改札へ向かう。すぐ前を白いジャケットの女が歩いている。なぜか、その女の背中ばかりに目がいく。これも麻酔と薬のせいなのか。
女は自動改札を出ると右側の階段へ向かった。わたしは左側だ。そのとき、女が何かを落とした。わたしは周囲を見回した。改札を出てきた数人の客は誰も気づかないふうだった。
わたしは女の落としたものを拾った。定期入れだった。階段を見上げるとすでに女の姿はなかった。わたしは急いで階段を駆け上がった。
通りに出たが右にも左にも白いジャケットの女は見えなかった。わたしは立ち止まったまま定期入れに視線を落とした。そこには、
『真人間←→非人間』と駅名が書かれていた。
わたしは目を疑い何度も見直したが、たしかにそう書かれている。そのとき視線の端に白いものがよぎった。顔をあげると数メートル先のコンビニから白いジャケットの女が出てくるところだった。わたしは小走りで追いかけ、
「あの、もし……」
と声をかけた。女はふり向いた。細い目の唇の薄い顔だった。わたしは定期入れを差し出しながら事情を話した。猜疑心に満ちた女の顔が緩んだ。
「あらっ、スミマセンでした……」
さらに何か言いかけた女に対して、「それじゃ」と事務的に言うと、わたしは背中を向けた。女にいつまでも見られているような気配を感じながら再び駅への階段を降りていった。

昼頃になってようやく麻酔もきれ、頭の中の霧も晴れてきた。昼食をとったあと、わたしは同僚たちに今朝の駅でのことを話した。
この話はけっこう受けた。しかし、ほとんどの同僚はわたしの作り話だとか、麻酔で思考が異常になっていて幻影でも見たのだろうという解釈だった。しかし、ただひとり同僚のKは、おもしろい推理をしてくれた。彼は以前埼玉の秩父の辺りに住んでいたことがあり、その近辺に入間という地域があるのだとか。Kが言うには、真人間は東入間であり、非人間は北入間だというのだ。さっきまでデタラメ、幻影と言っていた同僚のほとんどが「なるほど」とその説明に納得した。わたしもあやうく納得しかかるところだった。
しかし、『東入間←→北入間』などという定期があるだろうか。実際、あとで調べてみたのだが、東入間あるいは北入間という地域名も、停留所もなかった。

あれは決してわたしの見間違いなどではない。驚いて何度も見直したではないか。たしかに『真人間←→非人間』と書いてあったのだ。真人間と非人間を往復する定期とはどういう定期なのか。あの白いジャケットの女は何の目的で真人間と非人間を行き来しているのか。わたしはとても興味をもった。その真相を知るためには、もう一度あの女に会わなくてはならない。
それからわたしはしばしば、駅の改札で彼女が現れるのを待つようになった。おかげで会社にたびたび遅刻をするようになった。また最近、社内でわたしに関する妙な噂が立ちはじめている。しかし、そんなことはどうでもいい。わたしは『真人間←→非人間』の真実をどうしても知りたいのだ。
まだ、白いジャケットの女との再会は果たせないでいる。しかし、必ずこの改札を通り抜けてわたしの前に現れるはずである。その時はまた、報告するつもりだ。


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Your Cheating Heart [story]


♪ In the twilight glow I see her
  Blue eyes crying in the rain
  When we kissed good-by and parted
  I knew we'd never meet again

「Blue Eyes Crying In The Rain」(邦題・雨の別離、曲&詞・FRED ROSE、歌・WILLIE NELSON他)。
古いカントリーソング。別れた女性と、いつか天国で幸せになろうというシンプルな歌詞。だいたいカントリーソングはそういう単純な歌が多い。この歌は実に多くのシンガーが歌っている。WILLIE NELSONでヒットしたが、HANK WILLIAMSから始まって、ELVIS PRESLEY, HANK SNOW, ROY ACUFF, OLIVIA NEWTONJOHN, GENE VINCENT, SHANIA TWAIN, EMMYLOU HARRYSなど日本で知られた歌手でもこれだけいる。それだけシンガーに好まれる歌なのかもしれない。

新介の初恋は中学2年生のとき。奥手である。性のなんたるかを知らなかった。ただ漠然とそれは避けるべきもの、自分の頭の中へ進入してくるのを防ぐべきものという認識しかなかった。自慰すらもしたことがなかったのである。
それは14歳の夏に突然やって来た。新介は吹奏楽部でトランペットを吹いていた。彼の胸に得体の知れない錘を投げ込んだ道子もまた、同じクラブでクラリネットを担当していた。バンドは県大会に出る野球部の応援のために、放課後遅くまで「若い力」を練習していた。ある日、練習が終わった後、数名でラーメンを食べに行こうということになった。学校から父兄が同伴せずに飲食店に入ることは禁止されていたが、周囲の暗さがみんなの小さな冒険心をかき立てた。店に入るや新介は胸が抑えきれないほど高鳴るのを覚えた。それは校則を破ったためではなく、いま新介の傍にいるひとりの少女の美しい横顔によってだった。それが道子だった。「なぜ?」。新介にも不思議だった。
それから10日あまり経った日曜日、新介と道子ははじめて二人だけで逢った。ポプラの木の下のベンチに二人は腰を降ろした。新介は自分の夢を道子に語った。大学を出て動物学者になり、世界中を飛び回って珍種を集め、動物園を創るという夢を語った。道子は嬉しそうに聞いていた。新介はなぜ道子を今日ここへ呼び出したのかを話さなかった。道子もそれを訊ねなかった。
二人はしばしば逢うようになった。それは公園であったり、お互いの自宅であったり。新介は彼女の顔を見ること、傍にいることで満足だった。ポプラの葉が黄色く色づき、やがて風に舞い散り、裸木となった。
二人の別れは突然やって来た。年が明けた3月、道子の父親が石川県の金沢へ転勤することになったのだ。新介は生まれて初めて、どんなに抗っても自分ではどうすることもできないことがある、ということを知った。無力だった。
道子が東京を立つ前日、二人はポプラの若芽が出始めた公園で逢った。「また、逢おうね」二人は泣きながら同じ言葉を繰り返した。夕闇が迫っていた。そのことが二人を大胆にした。新介は目を閉じた道子の唇に自分の唇で触れた。柔らかくて温かだった。ただそれだけだった。
遠く離れた二人は、手紙を交換した。それは道子の方が積極的だった。10数日も続けて手紙が送られてきたこともあった。お互いの近況を知らせる他愛のない手紙だった。
高校になった1年の夏休み、新介はひとりで金沢の道子の家を訪ねた。2年の春休みには道子が新介の家へ遊びに来た。新介は時が過ぎていけばいくほど、道子への想いが大きくなっていくことを感じていた。
ちょっとした変化が起きたのは、高校3年の夏休み前だった。それまで週に一度は来ていた道子からの手紙が来なくなったのだ。「ねえ、みっちゃん。って呼んでも返事がないのはおかしいよ」そう書いた新介の手紙にも返事はなかった。不安で受験勉強にも実が入らなくなった新介の元に、道子からの手紙が来たのは、夏休みも半分近く過ぎた頃だった。
そこには、お詫びの言葉とともに、受験勉強に専念したいのでしばらくは手紙を書けない由が綴られていた。心変わりではなかった。病気でもなかった。新介は安心した。そして彼女の決意を素晴らしいと思った。自分もあらゆることを抑制し、受験勉強に打ち込もうと思った。来春、お互いその成果を手にして逢えばいいのだ。そう思った。
春が来た。新介は希望の大学へ入ることができた。しかし、道子から手紙は来なかった。不合格だったのか……。新介が金沢の道子を訪ねようと思っていたある日、中学時代の友人から、道子が東京の大学へ通っていることを知らされた。「なぜ?」。新介の頭は混乱した。道子の下宿先の住所を聞き、手紙を出した。返事は来なかった。また手紙を書いた。やはり返事は来なかった。それでも手紙を書いた。それでも返事は来なかった。

薄闇に包まれた公園のベンチで、新介は舞い落ちるポプラを眺めていた。道子の下宿を訪ねるのはやめようと思った。道子の変心の理由はどうでもいいのだ。呼びかけても返事がないという現実をしっかりと受け止めなくてはいけない。そう思った。
落ちても落ちてもポプラは、尽きることなく新介に降りそそいだ。


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Daddy Sang Bass [story]


♪ 仲よし小道は どこの道 
  いつも学校へ みよちゃんと
  ランドセル背負って 元気よく
  お歌をうたって 通う道

「仲よし小道」(詞・三苫やすし、曲・河村光陽、昭和14年)。
日中戦争のさなか、太平洋戦争の2年前につくられた。「父よあなたは強かった」や「兵隊さんよありがとう」などの軍歌が世に出た年。昭和のはじめから、昭和30年代のはじめ頃まで、童謡・唱歌は子供の歌の主流だった。それはたんに学校で教えたものばかりではなかった。レコードが売れ、童謡歌手がスター並みの扱いを受けた。昭和30年前後では、小鳩くるみ、古賀さと子、近藤圭子などが人気を博した。
やがて廃れていった原因はテレビの影響が大きかった。テレビドラマの主題歌やコマーシャルソングは、それまでの童謡や唱歌より、はるかに刺激的で時代を反映していたからだ。
今の子供は「仲よし小道」など歌わない。いまや、一所懸命歌っているのは小沢昭一をはじめ、おじさんやおばさんたちなのだ。
この歌の歌詞にあるように戦前からランドセルはあったようだ。もっとも全国的に普及していたかどうかは分からないが。今でも四月になると小学一年生が真新しいランドセルを背負って、お兄さん、お姉さんたちに連れられ登校していく可愛い姿が見られる。

マキちゃんは今年、W大に合格した。おかあさんと4つ違いのお兄ちゃんとの3人暮らし。おとうさんは中学3年の時に亡くなった。今日が入学式で、母親が同伴したいというのをピシャリと断って、これから一人で行くのだ。真新しいスーツに身を包み、鏡に向かっている。マキちゃんには、毎年この時期になると思い出すことがあった。、それは、小学生の入学式前日の夜のことだった。

生まれつきからだの小さいマキちゃんは、部屋の中で真新しい赤のランドセルを背負ってみた。それを見ていたおとうさんが涙を流した。そのときはなぜ泣いたのか分からなかったが、少し大きくなってから母親に聞いたところによると「あんな小さなからだで、あんな大きなランドセルを背負って毎日学校まで行くのかと思うと悲しかった」のだそうだ。
お父さんの涙の理由はわからなかったが、その入学前夜の自分の心境をマキちゃんは今でも忘れることができない。
からだが小さいだけでなく、何事にも動作がやや遅いマキちゃんは、子供ながらに負い目があったのか、とても無口でとても大人しい子供だった。保育園でも、給食は昼寝の時間になっても終わらなかったし。お母さんが迎えに来る時間が遅れても、いつまでも黙って待っていた。それが、今度はみんながしっかりと勉強までする小学校という得体の知れない所へ行かなくてはならないのだ。心配で心配で泣きたいほどだった。
ランドセルを降ろしたマキちゃんは、思い切っておとうさんに聞いてみた。
「おとうさん、わたし、小学校へ行ったら、ちゃんとやっていける?」
「もちろんさ。マーちゃんみたいな賢い子はやっていけるにきまってるよ」
さっきまで泣いていたおとうさんは、そう言って笑った。
「でも、わたし……」
「いいこと教えてあげようか。いいかい、先生の話すこと、友だちの言うこと、それをよーく聞いていればいいんだよ。そうすればなんでもわかっちゃう。だからなにも心配することなくなっちゃうんだ。かんたんだろ」
おとうさんの言うとおりだった。授業中でも休み時間でも、マキちゃんは先生や友だちの話を一所懸命聞いた。すると授業が面白くなったし、友だちの考えが理解できると仲良くすることもできた。学校って、みんなと一緒ってこんなに楽しいんだと思えるようになったのだ。

それでも小学校から中学校、中学校から高校と、進学するたびに「着いていけるかな、みんなと仲良くできるかな」という不安はついて回った。そして、今度の大学進学である。マキちゃんは鏡に映った自分に向かって、いつものように「人の言うことをしっかり聞いていれば、何でもわかっちゃう」と、まるで呪文のように言い聞かせた。


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Roll On Buddy ② [story]


♪ 好き 好き好き 箱根スカイライン
  好き 好き好き 芦ノ湖畔の夜
  あの日あの時 君と僕と二人
  とっても素敵 星の降るよなテラス
  忘れられないキッス
  好き 好き好き 僕は貴女が好き

僕たちが竹田くんと会うのは赤土以外では、亀の湯という風呂屋でだった。銭湯での竹田くんはノックをしてくれる優しいお兄さんではなかった。だいたい同年配の仲間と一緒だった。大人の顰蹙を買いながら湯船の縁に腰掛けて、仲間と話をしているのだ。僕らは同じように端っこに腰掛けて、竹田くんの話を黙って聞いている。竹田くんは銭湯では決して僕たちに話しかけない。それでも僕たちは竹田くんが来る時間に亀の湯へ行った。
『俺、絶対入れ墨だけはいれねえよ。だってよ、一生消えないんだぜ。結婚して子供に「これなに?」って聞かれたらなんて言やあいいんだよ』と竹田くんは友だちに語る。
小学5年生の僕にも入れ墨を入れる世界がどういうものか、おぼろげながら分かった。

新しい年が明けると、赤土に竹田くんの姿が見えなくなった。それでも僕たちは何事もないように相変わらず、寒風吹きすさぶ三角ベースを走り回っていた。そしてようやく寒さが緩み寒桜が咲き始めた春休み、久しぶりに竹田くんと会った。竹田くんは例の自転車に跨ってやって来た。
「よお、いいとこ連れってってやっから乗りなよ」
竹田くんの笑顔につられるように僕は素早く自転車の後部座席に飛び乗った。
自転車を漕ぎ始めた竹田くんは、後ろの僕にのべつ喋りまくった。この春中学を卒業した竹田くんは、どうやら就職先が決まったようだ。おまけに定時制の高校への入学も決まったそうだ。その夜間高校には野球部もあるのだとも。顔は見えないものの、背中からその喜びが伝わってきて、僕まで幸せな気分になった。
ひとしきり、自分の幸福を話し終えると、竹田くんは鼻歌を歌い始めた。
♪ 好き 好き好き 霧の都東京……
11歳の僕にとっては大人びた歌だった。でもなぜかその歌詞とメロディーはいつまでも耳に残った。やがて竹田くんと僕は駅前の映画館に着いた。そこで若者たちがオートバイで疾走する映画を観た。

それから竹田くんは、僕たちの前から姿を消した。大人になって、どこかの町のどこかの工場で働いているのだ。もう僕らのようなガキの相手なんかしていられない大人の世界へ行ってしまったのだ。

その竹田くんを見かけたのはそれから3年後、亀の湯でだった。僕は中学2年になり、野球部の友だちと湯船の縁に腰掛け、長嶋談義に花を咲かせていた。そのとき僕らに飛沫をかけながら勢いよく、男が浴槽に入ってきた。からだがひと回り大きくなっていたが、間違いなく竹田くんだった。竹田くんは僕と目が合うと一瞬笑いかけてやめた。そして他人のようなコワイ顔で横を向いた。僕も気づかぬふりをして友だちと話を続けた。数分後、竹田くんは前をタオルで隠しながら湯船から上がり、カランの前に座った。そして、その右肩から腕にかけて、線彫りながら虎の入れ墨がはっきりと浮いて見えた。僕はゆっくりと腰をずらして熱い湯船につかった。すると頭の中が真赤に燃えだした。


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Roll On Buddy ① [story]


♪ 好き 好き好き 霧の都 東京
  好き 好き好き うるむネオンの街
  いつもいつでも 君と僕と二人
  とっても素敵 お洒落横町のウインドウ
  パリ好みのファッション
  好き 好き好き 僕は貴女が好き

「好き好き好き」(作詞・佐伯孝夫、作曲・吉田正、歌・フランク永井、昭和34年)。
この作詞作曲コンビによっていわゆる「ムード歌謡」が作られた。その兆しが見えだすのは昭和30年の「赤と黒のブルース」(鶴田浩二)、昭和31年の「哀愁の街に霧が降る」(山田慎二)、「東京の人」(三浦洸一)あたりから。そして昭和33年の「有楽町で逢いましょう」(フランク永井)ではっきりとその姿をあらわす。その後、吉田、佐伯のコンビは「西銀座駅前」、「東京ナイト・クラブ」、「東京カチート、「再会」など多くのムード歌謡の傑作を世に出していく。「好き好き好き」はその最盛期に作られた一曲。

この頃、小学5年生だった僕は明けても暮れても野球だった。だいたいは少人数でできる三角ベース。原っぱにしろ赤土にしろ空き地はたくさんあった。ただ、正方形の空き地などまずなく、たいがいは長方形。だから、ライトが短くてレフトがやけに長かったり、極端になると、ファーストの後ろがすぐ民家の板塀だったりする。
もうひとつこの頃の野球(それ以外の遊びもそうだが)は、同い歳の仲間だけではなかった。小学6年生もいれば、2年生もいる。また中学生までも一緒に遊んでいた。それがふつうだった。小学生は年上の小学生を「○○ちゃん」と呼び、中学生に対しては「○○くん」と呼んだ。決して「○○さん」とは呼ばなかった。

竹田くんは、中学3年生。僕らの三角ベースの試合には加わらないが、試合中は両チーム分け隔てなくアドバイスをしてくれる。そして好プレーには賛辞を惜しまず、凡プレーには罵倒を惜しまない。際どいプレーではジャッジまでしてくれる。もちろん竹田くんの判定は絶対だ。そして試合が終わると、まるでそれが自分の重要な役割でもあるかのようにノックをしてくれる。竹田くんにも中学生としての付き合があるのだろうが、たいがいは学校が終わった午後、僕たちがホームグラウンドである赤土に集まり始めると、いつの間にか竹田くんも牛乳屋のゴッツイ自転車(朝、配達をしていた)に乗って現れる。
僕らは竹田くんが好きだった。竹田くんは中学では不良グループに入っている。でも僕らには暴力を振るわない。金品も要求しない。何よりもいつも笑っている顔が優しい。僕らにとっては野球の監督であり、審判であり、ケンカの仲裁人であり、他所者に対しての用心棒でもあった。


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Johny Get Angry [story]

♪ りんごの花ほころび 川面にかすみ立ち
  君なき里にも 春は忍び寄りぬ
  ……
  カチューシャの歌声 はるかに丘を越え
  いまなお君を訪ねて やさしその歌声

「カチューシャ」(曲・ブランテル、訳詞・関鑑子、昭和23年)。60代前後の人たちには強い愛着があるロシアの歌です。戦後、『歌ごえ運動』だとか『歌ごえ喫茶』なんていうのがあって、「黒い瞳」「トロイカ」「赤いサラファン」など多くのロシアの歌が歌われ、巷に広まっていきました。訳詞の関鑑子さんはその歌声運動の主宰者でした。戦後、まるで堤防が決壊したというか、綿が水を吸うようにというか、外国の音楽が日本になだれ込んできました。ロシアの歌もそのひとつです。
ところで、カチューシャはてっきりロシアの民謡かと思っていましたが、そうではないようです。作られたのは第二次大戦中の1942年といいますから、さほど古くはない。といっても60年以上経っているのですが。またその訳詞も、古い学生歌集などを見ると関鑑子ではなく、赤岡佐太郎になっています。詞も1~3番ともに前半は同じなのですが、後半が違っています。たとえば、1番なら ♪君なき里……ではなく、♪春風夢をさそい 雲は流れて行く というふうに。はじめから2種類あったのか、途中から変わったのかわかりませんが、この謎は専門家に解いてもらうしかありません。

20歳を少し過ぎた頃、ちょうどモハメド・アリがキンシャサで奇跡を起こした年、わたしはある化学工場で働いていました。資材課、といえば聞こえがいいのですが、要はドラム缶で運ばれてくる材料の溶剤を仕入れ、現場へ提供するという仕事。日照りが続こうが、雪が降り積もろうが、年がら年中屋外でドラム缶を転がしていたのです。
同僚は先輩でもある40代のUさん。無口で少し吃音があるせいか、上司(課長と係長のアホアホ迷コンビだった)からよく苛められていました。休みの日に何度か碁を打ちに(習いに)彼の家へ行きました。何局か打ち終わり、「じゃあこれで……」とわたしが言うと、「まだいいじゃないですか」とUさん。そして夕食をご馳走になるのがいつものきまりでした。同じようにもの静かで知的な雰囲気の奥さんと三人での食事は、ひとり暮らしのわたしにとってはとても楽しい時間でした。Uさんは奥さんを「キミ」と呼びます。なんだかインテリジェンスが感じられ、とてもいい響きでした。わたしもいつか愛する女性をそう呼んでみたいと思いましたが、いまだに実現していません。
そのように、家庭では主人として愛妻家として、存在感を示していたUさんですが、会社へ来ると口数は少なく、自分を主張しない。上司のイジメの絶好の餌食になってしまうのです。いわれのない叱責を受けたり、馬鹿にされたりしてもただ笑みを浮かべて黙っているUさん。傍にいて歯がゆくなるほどでした。そのまったく存在感の薄いUさんですが、一度だけ周囲に強烈な印象を与えたことがありました。
忘年会で、歌を強要されたUさん、困りながらも歌い始めたのがこの「カチューシャ」。お世辞にも上手ではありませんでした。でも驚いたのは二番に入ったとたん、
♪ ヴィハヂラ ナベレカチュシャ…… 
とロシア語で歌い始めたこと。急に歌い手が代わったのではないかと思うほど力強く、朗々と歌い上げていました。課長の顔をのぞき見ると呆気にとられたマヌケ面。私はなぜか心の中で快哉を叫んだものでした。

人づてにUさんが某国立大学卒だということを聞かされたのは後のこと。その彼がなぜ私と同じ肉体労働に従事していたのか、はたまた「カチューシャ」にどんな想い出があったのか。とうとう聞かないまま、私はその会社を辞めてしまいました。


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