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[火事] [ozolagnia]


♪ 48年暮れ近く 熊本の昼下がり
  大売り出しの大洋デパート 白い煙がのぼる
  火事だ!の声に電気が消えて 叫び声が渦巻く
  白いガスと黒い炎が すべてを焼き尽くす
  デパートが燃える テレビが映す
  うつろに眺める人
  企業は延びる 人はほろびる
  もの言わぬ犠牲は 悲しい103人
(「103人のバラード」アメリカ伝承歌、詞・高石ともや、歌・高石ともやとナターシャセブン)

ものが焼ける、あるいは焦げるニオイというのは、芳ばしいなどといって好む人が多い。肉、魚、パン、イモなどの食品がそうだし、落葉を集めた焚き火なども気分のいいニオイだ。しかし、それも程度問題。度を越すとたちまち悪臭になる。鍋で煮物を焦がしたニオイを思い起こしてみればわかる。

子供っていうヤツは残酷なもので(だから子供なのだが)、他人の不幸に思い至ることなどめったにない。まあ、大人でもそういう人は少なくないのですが。
子供の頃、突然走り出すことがあった。子供たちを疾走させたものが二つあった。ひとつはビラ。上空高くセスナ機から吐き出される広告ビラだ。そしてもうひとつが、火事である。当時、高層ビルなど皆無だった。したがって隣町、さらにその先の見知らぬ町で火事があったとしても、その煙ははっきり見えた。
まるで狼煙に反応するインディアンのように子供たちは煙をみつけると「火事だ!」と叫んで走り出すのだ。近くに見えても案外遠く、ときには川を越えて走り続けることもあった。煙がだんだん大きくなってくる。それと同時に消防自動車のサイレンが聞こえてくる。それは、火事の程度が激しくなっていることでもあり、“火事場”が近づいていることでもあり、子供たちの興奮度も高まっていくのだ。
現場につくと、たいへんな野次馬である。もちろん焼け出された人や類焼を懸念する近所の人もいるが、われわれみたいな“火事を追いかける”ガキどもだって多い。消防車のサイレン、消防士の怒鳴り声、ペキペキと家が燃える音、放水される多量の水、炎、煙、臭いで一帯は騒然としている。それをいつまでも飽きずに子供たちは眺めているのだ。そして、ようやく鎮火すると、ひとつの遊びが終わったかのように子供たちは帰路につく。

火事が近所の場合だと、翌日火事の跡を見に行くのも子供たちにとっては“オマケの楽しみ”。ただそこには焼け焦げた柱が残っているだけなのだが。そのとき、ほんとうの火事のニオイがする。それは、あの焚き火のここち良いニオイではない。徹底して焼き尽くしたという、まるで悪意さえこめられているような嫌なニオイなのだ。そのニオイが町から消えるまでには数日かかったものだった。

「103人のバラード」は実際に昭和48年11月29日の午後、熊本市で起こったデパート火災を歌ったもの。当時デパートは改装中で客と従業員100人以上が死ぬという大惨事になった。日本では悲劇的なトピカルソングは少なく、そういう意味ではめずらしい歌。この歌はもともとアメリカのトラディショナル・ソング[THE BALTIMORE FIRE]で、これはやはりボルティモアで起きた大火事を歌ったもの。
アメリカではそうした実際に起きた火事とか、船の遭難とか殺人事件を“かわら版”のように歌い伝える土壌があった。もちろんテレビやラジオなどの速報メディアがない時代のことだが。日本でも明治以後の演歌にはそういう意味合いがあったが、いまやトピカルソングを受け入れる土壌はない。テレビで十分なのだ。
火事を唄った歌も少なく、記憶にあるのは美空ひばり「お祭りマンボ」ぐらい。ほかでは渡辺マリ「東京ドドンパ娘」に♪まるでジャングルの火事 というのがあるし、戦前の「うちの女房にゃ髭がある」(杉狂児、美ち奴)に♪地震 雷 火事 親爺 というのが出てくる。


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[コロッケ] [ozolagnia]

 

♪ ワイフ貰つて 嬉しかつたが
  何時も出てくるおかずはコロツケ
  今日もコロツケ 明日もコロツケ
  これじや年がら年中コロツケ
  アハハハ アハハハ こりや可笑し

  晦日近くに 財布拾つて
  開けて見たらば金貨が ザツクザク ザツクザク
  株を買おうか 地所を買おうか
  思案最中に、眼が覚めた
  アハハハ、アハハハ こりや可笑し
(「コロッケの唄」詞・益田太郎冠者、曲・不明、大正8年)

子供の頃、“いきつけの店”といえば駄菓子屋だが、その次ぎによく行った店が肉屋。駄菓子屋は裏店つまり露地にあったが、肉屋は表通りの商店街にあった。いまでもそういう店はあるだろうが、その肉屋はフライも扱っていた。コロッケ、ポテト、メンチ、ハムカツ、トンカツ。
油で揚げるニオイが大好きで、よく肉屋のショーウインドウにへばりついていた。ガラス越しに、フライを揚げる実演が見られるのだ。とくに好きだったのがコロッケ。茹でたジャガイモと挽肉と水を混ぜて練り合わせ、子供の足形ぐらいの大きさにしたものがいくつも並んでいる。油の入った大鍋は机の上にあり、その下の抽斗を引くと中にはパン粉が敷きつめられている。その中に、ジャガイモの足形を放り込む。そしてパン粉をよくまぶして鍋の中にすべらせるのだ。職人の、その一連の動作が小気味よくて、いつまでも飽きずに眺めていた。ときどき母親に頼まれて買い物もしたが、ほとんどはポテトフライ。といってもいまマックなどであるポテトではなく、立体三角型で1個1円。それを12、3個買って、4人家族のオカズにした。たまにはメンチやコロッケも買ったが、トンカツを買った記憶はない。

とにかくいいニオイ、食欲をそそるニオイだった。
ところが現在、マクドナルドやケンタッキーの前を通るとニオってくるあのアブラのニオイには辟易してしまう。思わず息を止めて早足になる。油の質が違うのかも知れない。

コロッケはフランス語のクロケットcroquetteの日本名で、一般的に日本で食べられるようになったのは第一次世界大戦以後、つまり大正初年といわれている。同じく大正初年に生まれたものに浅草オペラがあるが、「コロッケの唄」はその中で歌われたもの。作詞者の益田太郎冠者は三井鉱山や台湾製糖を作った実業家・益田孝の息子で、浅草オペラにも影響を与えた戯曲家だったそうだ。
日本初の流行歌といわれる松井須磨子の「カチューシャの唄」が世に出たのが大正3年。それから遅れること5年目に発売された「コロッケの唄」。こちらも大ヒットと書かれている本もあるが、実際のところはわからない。歌詞をみても当時、コロッケがそれほどのご馳走ではなかったことがわかる。戦後再び注目されたのはコッペパンとのコラボレーション、コロッケパンによって。そういえば、あのソースのシンプルなニオイも忘れられない。個人的にはハムカツパンが好きだった。そんなことはどうでも。とにかく和食は醤油、洋食はソース。そんなシンプルな時代だった。


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[故郷] [ozolagnia]


♪ どこかに故郷の 香りをのせて
  入る列車の なつかしさ
  上野は俺らの 心の駅だ
  くじけちゃならない 人生が
  あの日ここから 始まった
(「あゝ上野駅」詞:関口義郎、曲:荒井英一、歌:井沢八郎、昭和39年)

最近亡くなった井沢八郎さん。ファンだったわけではないけれど、リアルタイムで歌を聴いていた人間にとっては、やはりある種の感慨がある。
ところで「あゝ上野駅」の歌詞にある“故郷の香り”というのはどんな香りなのだろう。青森出身の井沢さん(たしか実家はりんご園を経営していた)にとっては甘酸っぱいリンゴの匂いだったのかも。

上野。いまでもその界隈にはよく足を運ぶことがある。子供の頃、比較的近くに住んでいたが、悪ガキ共と遊びに行くのはどうしても浅草ばかり。センスがわるいなりにオシャレに目覚めて、アメ横へ行くようになったのは高校も3年になったあたり。
それでも上野、とくに上野駅には思い出がある。どういうわけだか大学の友人は西よりも東から来た人間が多かった(社会人になると逆転してしまうのですが)。ある友人などは、夏休みに帰郷するので上野まで見送りに行き、そのまま彼の故郷へ行ってしまい、1週間あまり滞在してしまったこともあった。

もうひとり、上野で帰郷を見送った友人がいた。それは女の子だった。たしかに同じグループで、話をしたこともあったが、それほど親しいという間柄ではなかった。ある日そんな彼女から家に突然電話が。「いま、上野にいるんだけど、ちょっと逢わない?」。NOといえないわたしは「ああ、じゃあ今から向かうよ」と理由も聞かずに即OK。
西郷さんの下で待ち合わせ、聚楽で昼食を食べながら彼女、「これから故郷へ帰るの。駅で見送ってくれる?」だって。もちろんお安い御用。二人でホームへ着いたものの発車までには30分あまり。ベンチに座ってペチャクチャペチャクチャ。話すのはもっぱら彼女。何を話したんだか。わたしは、なんで呼ばれたんだろうと腑に落ちない気持で彼女の言葉など馬耳東風。もしかしたら、少しは愛の告白を期待していたのかも。
もちろん、新学期が始まってもわたしと彼女の間に何物かが芽生えたなんてことは、まるでなし。その頃は「メッシー君」だの「アッシー君」なんて言葉はなかったけれど、どう考えてもあれは「ミッシー君」。彼女にしてみれば、帰郷すること、あるいは第二の故郷東京を離れることはひとつの大事なイベント。その演出として、ヒロインを見送る“相手役”が必要だったのだろう。見送る人、見届ける人、すなわち「ミッシー君」。ミッシー君はだれでもよいのです。いやいや、だれでもではない。周りにいて、いちばん暇そうな人間がチョイスされたというわけ。
まあ、そんな間抜けな話も、今となっては懐かしいむかし話。

「あゝ上野駅」の2番には“就職列車”の歌詞が。そうだった、そう呼ばれた列車があった。新幹線のない時代、15歳の少年少女が何時間も列車に揺られて上京してきたのだった。あの頃の上野駅は、北海道あるいは東北のさまざまな郷土の匂いに、夢と希望や野望、そして不安や失意や涙の匂いが混ざった吹きだまりのような場所だったのではないだろうか。
あの頃に比べ、移動の時間が劇的に短縮化され、情報の質量共に地域差が縮小された現在、
地方から都会へ出て来た人たちはそれでも“故郷の香り”を感じているのだろうか。もし感じているのだとしたら、それはどんな香りであり、都会の匂いとどう違っているのだろうか。故郷のない人間には、羨ましくもあり、ぜひ聞いてみたい事柄なのである。


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[鉄] [ozolagnia]


♪ いつまで待っても トンテンカン
  おやじと一緒に トンテンカン
  粋なスタイル デニムのズボン
  パーマにはちまき イヤリング
  アーアー もうすぐお日様沈むでしょう ホイ
  そしたら会いましょ トンテンカン
  いつものところで トンテンカン
  トンテンカン トンテンカン
(「トンテンカン・ロック」詞・井田誠一、曲・佐野雅美、歌・浜村美智子、昭和33年)

子供の頃暮らしていた町にはたくさんの鉄工場があった。だからその町は鉄の匂いが染みついていた。鉄工場といってもほとんどは零細で、なかには夫婦ふたりでプレス機2台を日がな一日ガタンガタンと踏み続ける工場と呼ぶにはあまりにも貧しい家もあった。そんな家では忙しくなると、父親が自転車で納品に走り、母とまだ幼い長男がプレスのペダルを踏むことになる。小学校の友達にもそんなヤツが何人もいた。そして、そのために指を落としてしまったヤツも一人二人ではなかった。
わたしの親友は、10数人の従業員のいる工場の長男坊。学校が終わると、夜まで毎日のように彼の家の工場で遊んだものだった。実は、友達でテレビを持っているのは彼の家だけで、夕方のテレビを見せてもらうのも大きな目的のひとつだったのだ。
工場はいつも、プレス機や裁断機、あるいは旋盤の音が聞こえていた。そして、外に置かれた電動のノコギリがいつも大小の丸い鉄棒を切り刻んでいたり、螺旋状に削られたキリコと呼ばれる鉄屑がうずたかく積んであった。
工場の中は何処へいっても、グリースと鉄の焼ける匂い、そして鉄そのものの匂いと錆びた匂い、それと働く男の匂いに満たされていた。それが鉄工場の匂い、鉄の匂いだった。それは自分の家や原っぱや学校では嗅ぐことの出来ない大人の匂いでもあった。その匂いがとても好きだった。
『春は鉄までが匂った』(小関智弘)という名著があるが、たしかに鉄には匂いがあるのだ。真新しい鉄、加工されたばかりの鉄、錆びた鉄、それぞれの匂いがある。
鉄の匂う町から離れて久しいが、今住む町にも小さいながらプレス機械や旋盤を置いた工場が2、3軒ある。そういうところはたいがい戸を開け放して作業をしている。わたしはときどきその前を通るのだが、そんなときは人知れず深呼吸してみるのだ。するとあの鉄の匂いとともに、子供の頃遊び回ったあの鉄工場のディティールが浮かび上がってくるのである。

鉄を題材にしたり、“小道具”にした歌もあまりない。
上にとりあげた「トンテンカン・ロック」は鍛冶屋の歌。それも18歳のギャルのスミスさんというのがすごい。きっと息子に家出された鍛冶屋で、仕方ないので中学を終えた娘に手伝わせているのだろう。デニムにパーマ、そしてイヤリングというのも当時のイケイケ娘のようでカッコいい。なによりも、喜び勇んで働いているわけではないが、イヤイヤやっている風でもなく、「オヤジのためだ、しゃあねえよ」といった感じで槌を打っているのがいい。窓から仕事帰りの彼氏が覗いていたって少しも恥ずかしくない。(三番で)そのうち彼氏も上着を脱いで鉄を打ち始める。3人で軽口たたきながらトンテンカン、トンテンカンとやりはじめる。なんともいい光景である。「バナナ・ボート」よりは断然好きで、久しぶりに聴いたら、その日半日、頭の中でトンテンカン トンテンカンと鳴り響いていた。

ほかに“鉄”が出てくる歌といえば、♪毎日毎日 僕らは鉄板の「およげたい焼きくん」(子門正人)とか、♪鉄のヤスリ買ってやる「モンスター」(ピンクレディー)がある。また軍歌には鉄兜が出てくる歌がいくつかあるし、「山の吊橋」(春日八郎)や「自衛隊に入ろう」(高田渡)では鉄砲が出てくる。そのほか、「鉄腕アトム」や「鉄人28号」もそうだといえばいえる。そういえば、「鉄人パパ」を歌った忌野清志郎はどうしてしまったのだろうか。


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[死臭] [ozolagnia]


♪ 霧が立ちこめ 冷たい雨が降ると
  どこか遠くの彼方から
  僕の耳には あの娘の声が聞こえてくるんだ
  (ジョーニー リメンバー ミー)
  僕は決して忘れはしない
  死んだあの娘が 最後の 言葉で
  (ジョーニー リメンバー ミー)
  忘れるものか 僕が生きてる限り
  ジョーニー リメンバー ミー
(「霧の中のジョニー」訳詞・漣健児、曲・G.GODDARD、歌・克美しげる、昭和37年)

2007年は殺伐としたバラバラ殺人事件でスタートした感がある。
それにしても、日が経つにつれてジワジワと「死臭」が漂い始めてくる犯行現場を想像すると胸がムカムカしてきそう。窓を開け放ったり、消臭剤を撒いたって「死臭」は消えはしない。完全に土に帰るまで屍体は己を主張し続けるのだ。
昔、小さな鼠が家の押入に逃げ込み、そのまま行方知れずになったことがあった。半月ほど経った頃から異様な臭いがし始めた。そこで押入の中をくまなく探してみると、使っていない布団とカバーの間でその鼠が死んでいた。あんな10㎝に充たない動物の死骸がかくも臭うのかと驚いた。その数十倍の体積をもつ人間ならば、その臭いの凄さも想像できようというもの。
そういえば小学生時代、近くに火葬場があり、雨が降ったり風が吹いたりすると人を焼いた臭いが流れてきた。それもまた「死臭」で、決していい臭いではなかった。

残念ながら「死臭」の出てくる歌は知らない。しかし「死」という言葉が出てくる歌は多い。そのほとんどは「死ぬほど逢いたい」のように強調の言葉だったり、「もし貴方が死んだら」「わたしが死んでも」あるいは「死にたい」のような喩えや心情で、かならずしも本当の死につながらず、結局は「つらくても死にはしない」(誰もいない海)というところに落ち着く。もちろん歌というストーリーの中で“完全な死”をうたった曲もある。
その代表的な物が「愛と死をみつめて」(青山和子)で、これは実話を元に作られている。フィクションでも、「赤い風船」(加藤登紀子)、「江梨子」(橋幸夫)「会いたい」(沢田知可子)、「おきざりにした悲しみは」(吉田拓郎)、「精霊ながし」(グレープ)などがある。あたりまえだが、すべて死んだ人を偲ぶ歌である。
カルメン・マキの「かもめ」や北原ミレイの「ざんげの値打ちもない」は異色で、前者は男が女を、後者は女が男を刺す歌だが、被害者が死に至ったかどうかは不明。

「霧の中のジョニー」も死んだ恋人を忘れられない男の歌。原曲はJOHN LEYTON がうたったもので1961年全英第一位。その翌年の「霧の中のロンリー・シティ」も克美しげるがカヴァーした。克美しげるは昭和16年生まれ、宮崎県出身で当時の人気ポップシンガー。翌年、歌謡曲にシフトして「さすらい」が大ヒット。しかし、その後、現役歌手の殺人事件という前代未聞の不祥事を起こして歌の世界から消えた。改めて「霧の中のジョニー」を聴くと、その事件とオーバラップして不思議な聞こえ方がしてくる。


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[映画館] [ozolagnia]


♪ サルトル マルクス並べても
  あしたの天気はわからねえ
  ヤクザ映画の看板に
  夢は夜ひらく

  風呂屋に続く暗い道
  40円の栄光は
  明日のジョーにもなれなくて
  夢は夜ひらく
(「夢は夜ひらく」詞・三上寛、曲・曽根幸明、歌・三上寛、昭和46年)

先日、テレビで古い映画を見ていたら妙な臭いが記憶の底からたちこめてきた。それはたしかに40年あまり前の映画館の臭い。
あの頃見た映画を再び観る時、ストーリーとはまるで無関係のあの三流館の猥雑で得体の知れない臭いを感じることがある。たとえば昭和40年代はじめの洋画なら、「荒野の用心棒」をはじめとするマカロニ・ウエスタン、「ビバ・マリア」、「ミクロの決死圏」、「将軍たちの夜」、007シリーズなど。

臭いあるいは匂いを言葉や文字にすることはむずかしい。昔、どこの町にもあったあの三本立て50円の映画館の臭いをどう表現すればいいのか。煙草と酒と便所と大勢の体臭と口臭と泥と埃と、場合によっては精液、吐瀉物、血の臭いまで混じっていたり。とにかくさまざまなものが混じった猥雑な臭いだった。
さすがにロードショー館ではそれほどヒドイ臭いはしなかったが、それでも決していい臭い、無臭というわけにはいかなかった。その点今は、換気やデオドラントがゆきとどいていて、臭いが気になるということはないのだろうが。
もちろん、今ならあんな臭いの映画館へ行こうとは思わないが、あれこそまさに昭和30年代、40年代の臭いだった。映画「三丁目の夕日」は、そういう意味では残念ながら無臭の映画だった。

「夢は夜ひらく」ははじめにヒットしたのは昭和41年、ビートルズが来た年。園まりによってだった。この歌は競作で緑川アコ(他にもいたかも)盤も発売されたが、ほとんど園まりのひとり勝ちだった。次ぎにヒットしたのが45年、70年安保の年。藤圭子が「圭子の夢は夜ひらく」としてカヴァー(詞は新作)。4年目という短期間隔のカヴァーだったにもかかわらず、藤圭子人気でこれまたヒット。
その翌年に出たのが上に紹介した「三上寛盤」。残念ながらこちらはヒットとはいかなかったが、自作の詞のインパクトは、前2作を上回っていた。70年代はじめの雰囲気とシンクロして、“三上盤”を支持するファンも結構多い。臭いといえば、まさに三上寛の歌は、“臭い付きの歌”だった。この「夢は夜ひらく」にも随所に様々な臭いがたちこめている。きわめつけは、5番のヌード写真を見ながらオナニーをするという歌詞。さすがにこの部分は、昨年三上寛がNHKに出て歌った時も封印してあった。
三上寛といえば、ギター一本でがなる、どなるというイメージだが、スローで聞かせるいい歌もある。「夢は夜ひらく」が入っていたアルバム『ひらく夢などあるじゃなし 三上寛怨歌集』でいえば「故郷へ帰ったら」「五所川原の日々」はいい。とくに後者は“青春の悲しみ”が溢れていてジンとくる。


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