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[春の匂い・堆肥] [ozolagnia]

 

♪ 今頃は 丘の畑に
  桃の実が 赤くなるころ
  遠い日の 夢の数々
  ぼくは知りたい きみのふるさと
  ふるさとの 話をしよう
(「ふるさとのはなしをしよう」詞:伊野上のぼる、曲:キダタロー、歌:北原謙二、昭和40年)

小学生の頃のある春の日、煙突の立ち並ぶ工場の町から、田んぼと畑の村へ引っ越した。そうした田園風景など見たことがなく、軽いカルチャーショックがあった。それにもまして驚いたのが、駅を降りるなりわが鼻を急襲した「堆肥」のニオイ。
その“悪臭”は駅から歩いて10分あまりの新しい住まいに到着するまで続いた。正直、明日からこんなところで生活しなくてはならないのかと思うと憂鬱だった。しかし、なにごとも慣れ、順応で、しばらくすとそのニオイが気にならなくなってしまった。そう、いまとなっては懐かしい、あの堆肥の臭気もまた春を知らせるニオイだった。

学校への通学路は左右いちめんの田畑で、ところどころには肥溜めがつくられている。ふたなどあるわけがなく、ひと月にひとりかふたりはその中へダイブした。もちろん自分の意志でではない。肥溜めの縁を歩いたり、飛び越えることが勇気の証しでもあったのだ。

わたしは幸運なことに落ちずにすんだが、友達は何人も落ちた。親しかった3人組のひとりが落ちた時は悲惨だった。肥溜めは夏になると表面が乾いてカチカチになる。一見その上に乗れるのではと思うほどに。そして、その友達がふざけて片足を軽く乗せておどけていた。もうひとりの友達の肩に手を置き、体重をそこへかけているので落ちないのだ。ところがもうひとりの友達が動いた瞬間、肩に乗せた手が離れ、肥溜めの中へドボン。その友達は完全に肥溜めの中に没してしまった。しかし、気丈にも立ち上がり(深さは胸の辺りまでしかなかった)、コンクリートの縁に手を置き、勢いをつけて這いだしてきた。その時点で、薄情なわたしはあとずさり。もうひとりの友達は動いた責任を感じたのか、そばに立ちつくしていた。すると肥溜めから生還した友達が、そのもうひとりの友達に抱きついたのだ。糞尿まみれのままで。そのこころは“地獄へ道連れ”。抱きつかれた友達は、ものすごい力でふりほどき、泣きながら逃げていった。もちろんわたしもダッシュ。

そのあとふたりが仲違いをしたという記憶はない。もちろん男同士なので“肥人(こえびと)”にもならなかったがのだが。
しかし、よく糞死者が出なかったなぁというほど、あちこちに肥溜めがあった。それがいつのまにか、田んぼや畑は宅地にかわり、当然、肥溜めも消えてしまった。もちろん、“田舎の香水”と呼ばれた肥溜めや堆肥のニオイも。

北原謙二は、昭和36年「日暮の小径」でデビュー。“青春歌謡”の先鞭を付けた歌手のひとり。遅れてきた“ロカビリアン”で、独特の鼻にかかったような歌い方はカントリーの名残かも。昭和39年にはカントリーのカヴァー「北風」NORTH WINDを吹き込んでいる。
昭和30年代後半に、「若いふたり」、「若い明日」、「若い太陽」などのヒット曲がある。
平成3年に脳出血でたおれるが、半身マヒをおして復帰、テレビのナツメロ番組に出たり、福祉施設への慰問を行っていた。平成17年に逝去。享年65才。
大阪の浪花商業の出身で、のちのプロ野球選手張本勲と同級生だったという記事を大昔読んだ記憶がある。また、美形からは想像がつかないが、ワル揃いの高校で“番長”だったという話も。まあ、今も昔も芸能記事には尾ひれがつくのはあたりまえで、その信憑性については、自信がないのだが。高校卒業後、ジャズ喫茶で歌っているところをレコード会社からスカウトされて歌手デビューというのは事実らしい。


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[春の匂い・菜の花] [ozolagnia]

♪ 青い空白い雲 菜の花の小道を
  駆けまわり蝶々とり 遊んだ故郷
  真っ白な霧の中 神社の石段を
  駆け上がり手を合わせ 泣いていた小さな子
  ……
  帰ろうかあの家へ 帰ろうかあの家へ
  帰ろうか あの家はもうないのに
(「望郷」詞、曲、歌・山崎ハコ、昭和50年)

今日が花見のピーク。東京は少し肌寒かったものの昼前後は風もなくいい天気。
なんの因果か午後から仕事。せめて職場へ向かうまで遠回りして、いくつもの桜の木の下をゆっくりと。すでにあちこちで酒盛りが。みなさん楽し気な様子。30人あまりの団体から少数精鋭?まで、話が弾み歌がでて、手拍子が追いかけて。公園からちょっと離れた一本桜の下では、50代の夫婦と20代の息子の三人がシートの上で、ささやかな宴会。父親はひたすら缶ビールを呷り、奥さんは重箱の手料理をつつく。息子は立ち上がり、デジカメ片手に平成19年の春をパチリ。いろんな花見があるんだ。

桜の花は匂わないのがいい。もし桜が金木犀のような強烈な匂いを発していたら、これほどあちこちに植えられなかっただろうし、桜の木の下で花見などという習慣も生まれなかったかも知れない。そういう意味では、春を匂いで告げてくれるのは菜の花

町(村だって)の匂いが年々変わっていっても、花の匂いはそうは変わらない。菜の花のなんともいえない匂い、ときとして発情を促すようなあの匂いは、子どもの頃からずっと変わらない。花蜜を吸いにくる蜂たちもあの匂いに魅かれるのだろうか。

油菜、菜種ともいう菜の花は学名をBrassica campestris (野性のキャベツという意味)という。“菜”という字がつくことからも分かるように食用になる。この時期、新芽をおひたしやマヨネーズ和えにして出してくれる飲み屋もある。それよりも、種から絞り採る菜種油のほうがよく知られている(かな)。以前は食用や潤滑用の油として使われた。その油かすは肥料として利用され、実に無駄のない、人間の生活に近しい植物だった。

「望郷」山崎ハコのファーストアルバム『飛・び・ま・す』に収録されている。高校時代に横浜へ出て来た彼女が、生まれ故郷の大分県日田市を追慕して作ったもの。五木寛之『青春の門』を題材にした「織江の唄」、北原ミレイ版も素晴らしい「白い花」、そのほか「ヨコハマ」「さよならの鐘」など抒情的な歌(「呪い」だってそう)が心に沁みた少女ももう五十路。『日本詩集』という童謡・唱歌を歌ったアルバムでは「月見草の歌」が良かった。また、昭和30年代40年代の歌謡曲のカヴァーアルバム『十八番(おはこ)』の中では「みんな夢の中」がいい感じだった。
藤圭子、山崎ハコ、森田童子……こういう日陰の花のようなシンガーは久しく聞かない。それとも、知らないだけでJポップスの中にはいるのかも(いるはずだよね)。「わたしは幸せになるために生まれてきたんじゃない」なんて言い切る、そんなシンガーの歌を聴いてみたい。


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[カレー] [ozolagnia]

 

♪ 懐かしい 懐かしい あのリズム
  エキゾチックな あの調べ
  オリエンタルの謎を秘め
  薫るカレーよ 夢の味
  あああ 夢のひととき 即席カレー
  君知るや 君知るや
  オリエンタルカレー
(「オリエンタルカレーの唄」詞:大高ひさお、曲:平川浪竜、歌:トミ藤山、昭和29年)

先日たまにいく喫茶店でのこと。店に入り、席に着くとカレーの匂いが。ここはケーキはあるが軽食はないはず。ふと横の席を見るとインド人(とは限らないが)らしき中年のカップル。まさかとは思ったが、どう考えてもその匂いの元は彼ららしい。そのターメリックの匂いはこれがコロンだといわれても首肯してしまうような良い香りだった。それにしても、ターメリックをよく食すると匂いが染みついてしまうものなのか。それとも、たまたま彼らが直前にカレー類を食べたからなのか。あるいは実際にそんな香りのコロンがあって、それをつけていたからなのか。とにかく「カレー臭なインド人?」とはあまりにも“正統的”な組合せだった。

人並みにカレーは好きで、家でも外でも食べる。ただ10年余り前から肉をほとんど食べなくなって(ベジタリアンではありません)しまったので、もっぱら海鮮カレー。グルメではないので、インド料理ではなく単純にカレーとライスのみ。
以前、神田神保町界隈で働いていた時は美味しいカレー屋がいくつかあり、昼になるとよく行ったものだった。なかでも、靖国通り沿いにある「共栄堂」のスマトラカレーにははまった。いまでも年に何度かは、あの味に魅かれて神保町へ出かけていくことがあるぐらいだ。あとは随所にある「中村屋」のカレーもときどき食べる。あたりまえだが、家で作るカレーより数段美味い。
唯一もてあまして残してしまったのは、あのイカスミの入った真っ黒いカレー。友人に連れて行かれて食べたのだが、もう見た目でだめだった。カレーだって決して“いい色”ではないので慣れればいいのだろうが、あのコールタールを連想してしまってスプーンが動かず、ついに半分以上残してギブアップ。やはり見た目も大切なのです。

カレーの歌もいくつかあるようだが、聞き覚えがあるのはいくつかのコマーシャルソングと遠藤賢司の「カレーライス」、ソニンの「カレーライスの女」ぐらい。
コマソンでは、西城秀樹の♪ハウスバーモントカレーだよ というのが「リンゴとハチミツ」というフレーズとともに耳に残っているが、それより古くかすかに聞き覚えがあるのが上にあげた「オリエンタルカレーの唄」。曲も詞も当時主流の歌謡曲調。「君知るや」なんて古い言い回しに時代が匂ってくるよう。
ボーカルのトミ藤山(以前はトミー藤山)は、現役の女性カントリー歌手。米軍キャンプからはじまって、ラスベガス、ナッシュビルはもちろん、ベトナム戦争当時米軍の要請でベトナムへ慰問にまで行ったというから筋金入りのジャパニーズ・カントリー・シンガー。いまでも現役。彼女の歌声はときたまNHKの“ラジオ深夜便”で聴けるとか。
作曲の平川浪竜は「岸壁の母」(菊池章子)が代表曲。また、作詞の大高ひさおは「銀座の恋の物語」(石原裕次郎、牧村旬子)で知られている。

なお、食品メーカーのオリエンタルも健在で、いまはレトルトカレーを中心に販売しているそうだ。


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[絵の具] [ozolagnia]


♪ たばこを吸いながら いつでもつまらなそうに
  たばこを吸いながら いつでも部屋にひとり
  ぼくの好きな先生 ぼくの好きなおじさん

  たばこと絵の具のにおいの あの部屋にいつもひとり
  たばこを吸いながら キャンバスに向かってた
  ぼくの好きな先生 ぼくの好きなおじさん
(「ぼくの好きな先生」詞:忌野清志郎、曲:肝沢幅一、歌:RCサクセション、昭和47年)

卒業のシーズン。10年以上の学校生活にウンザリ。これでやっと勉強と縁が切れると開放感に狂喜している人もいるかもしれない。わたしもそうだった。しかし、数十年を経ての思いは、あの教室の懐かしさ、あの先生のあの級友の懐かしさ。
学校にも様々な匂いがあった。
昭和30年代、冬ともなれば教室の中はダルマストーブの中で燃えるコークスの匂いで充たされていただろうし、給食の時間ともなれば、脱脂粉乳やシチューの匂いがあふれていた。職員室は煙草の匂いがしたし、保健室は消毒液が匂った。
そんななかでも、また特別な匂いが漂っていたのが美術室。そうだった、あれは絵の具の匂い。50人あまりの生徒がいっせいに絵の具箱を開き、パレットにチューブの水彩絵の具を押し出すのだから、その匂いが教室に染みついてしまうのもあたりまえ。20色あまりのチューブが入った箱。黒や赤、青はすぐになくなってしまい、買い足したが白はいつまでも残っていた。
週に何度美術の時間があったのか忘れてしまったが、小学校の高学年、算数、国語、社会で退屈した時に、場所を変えての授業、好き嫌いは別にしても美術は気分転換になった。美術の先生は30代の女性で“トランジスタ・グラマー”だった。いま考えるとゴーギャンの描く女性のような“濃いめ”の顔をしていた。いつだったか、上野の美術館へ展覧会を見に連れて行ってくれたことがあった。そのときの先生のトックリセーターとベレー帽がとても似合っていた。やはり芸術家らしく担任や他の教師とは違って、ファッションセンスも良かった。

絵の具の匂いが懐かしいという人は多い。あの油くさい匂いは絵の具の原料である顔料と結合剤、定着剤の匂いである。友人に“貧乏絵描き”がいるが、彼の家へ行くとやはり絵の具の匂いがする。以前は自宅の一室をアトリエにしていたが、しばらく前からアパートを借りて、そこで絵を描くようになった。少しは余裕ができたのかな、と思ったらそうではなく、絵の具の匂いに閉口した家族の抗議で“疎開”したのだとか。それはそうかも。あの匂いを四六時中嗅がされたのではたまらない。40、50の手習いで絵画をはじめている人もいるようだが、家族の冷たい目にさらされてはいないだろうか。

「ぼくの好きな先生」は、忌野清志郎の実体験をベースに作った歌とのことで、文字どおり彼の高校時代のお気に入りの美術の先生を歌ったもの。わたしが初めてRCサクセションを知ったのも高校生の頃、何かの雑誌で見たとき。メンバー3人で、その頃はウッドベースにギター2本というフォークスタイルだった。「ぼくの好きな先生」もその頃の歌だと思う。なぜ印象に残ったかというと、忌野清志郎そっくりの友達がいて、実はその友達の家でその雑誌を見たからだ。
それから、しばらく清志郎を見なかったのだが、あるときいきなりグラムロックのようなファッションで、ミック・ジャガーばりに飛びだしてきた。あれには驚いた。
RCサクセションについては、そのバンド名の由来について、そのころから「ある日作成しよう」と思ったから、というまことしやかな話を信じていた。そのあと、いやそうではなく、あれは、忌野清志郎がはじめ[CLOVER]というバンドを作って、その後、クローバーの残党つまり[REMAINDERS OF CLOVER]を作り、それがRCの語源となった。そして、またまたその後、“クローバーの残党”の後継者(SUCCESSION)というバンド、つまりRCサクセションを作った、という記事を何かで読んだことがあった。まあ、後者が正解なのかも知れないが、「ある日作成しよう」でもいいですよね。


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[鉛筆] [ozolagnia]

♪ 大学ノートの裏表紙に さなえちゃんを描いたの
  一日中かかって 一生懸命描いたの
  でも鉛筆で描いたから いつのまにか消えたの
  大学ノートの裏表紙の さなえちゃんが消えたの
  もう会えないの もう会えないの
  二度と会えないの
(「さなえちゃん」詞、曲:仲井戸麗市、歌:古井戸、昭和47年)

先日、事務機器の営業部員に拝み倒されて、最新コピー機の展示説明会に拉致されたことがあった。「5分だけ」という約束で会場となっているその事務所へ。最新機器の説明はほとんど馬耳東風だったが、驚いたのはその事務所の内部。20ばかりの机があるのだが、その上にはパソコンと電話しかないのだ。電話で相手の伝言や連絡先をメモするときはどうするのだろうか……。やっぱり筆記用具とメモ帳は必要なのでは、と思った次第。

江戸時代から日本に入ったという鉛筆。英語の鉛筆pencil は綴り発音とも男性器penisと似ているが、それもそのはず語源はどちらもラテン語のpenicillus(小さいシッポ)。

わたしが一番先に手にした筆記用具は鉛筆だった。アスファルトの道路に書きなぐったロウセキや白墨よりも早かったと思う。
鉛筆には匂いがある。それは木の匂いであり、芯の匂いである。木はヒノキ科のインセンスシダー、芯は黒鉛の匂い。それが際立つのは鉛筆を削る時。あの独特の匂いの記憶はいまだ残っている。
削ったのはボンナイフ。金属の取っ手に厚めのカミソリを付けたもので、刃の取り替えが出来た。そのうち手動式の鉛筆削りがあらわれた。裕福な家の子は家庭で使っていた。わたしは相変わらずボンナイフ。そのうち5センチ四方ぐらいの小型鉛筆削りがあらわれた。それは廉価だったので買った記憶がある。しかし、刃が鈍く、削れはするのだが、鉛筆の木の部分がモコモコになってしまった。それで、やっぱりナイフで削るのだが、どうも手先が不器用なのか、一周削ったあとの形や木肌と塗料の模様がきれいでない。それで、さらにもう一周削るのだが、なかなか気に入ったようには削れなかった。友達で上手なやつがいて、そいつの筆箱に収まったキレイに削られた鉛筆は見ていて惚れ惚れするぐらいだった。
使っていたのは六角型のHBか2B。たまに間違えてHなどを買ったら、書き味は薄いし芯はなかなか減らないしで閉口した。薄い鉛筆は芯を濡らすと濃くなるので、鉛筆をなめなめノートに書いた。「芯には鉛が入っているから毒」と言われたものだが、これは誤解。鉛筆は鉛の筆と書くが、芯の原料である黒鉛は鉛ではない。もっとも黒鉛だってからだにいいはずはないのだが。
HとかBはご存知のように芯の硬度(濃さ)で、HはHard、BはBlackの頭文字。Fというのもあり、それはFirm(ひきしまった)からきているとか。赤鉛筆や赤青鉛筆はだいたい丸型。普通の鉛筆でも丸型はあった。なかには三角型も。これは握ってもしっくりこなかった。
中学の頃、友達から鉛筆2ダースをもらったことがあった。三菱製ですべて硬度は「2軟」と書かれていた。これは戦時中、アルファベットを敵性用語としたためで、2Bのこと。
どこに保管されていたのか、製造後20年以上も経ったもので、削るそばから芯がボロボロ折れていった。

古井戸は昭和47年にデビューしたフォークの2人組み。ボーカルの加奈崎芳太郎とギターの仲井戸麗市。7年間の活動ののち解散。仲井戸はごぞんじRCサクセションのギタリストに。「さなえちゃん」は古井戸の最大のヒット曲。鉛筆で描いたのは「さなえちゃん」だけではなく、ケメ君(佐藤公彦?)や加奈崎さん、そして自分も。結局他の人間は消しゴムで消したり、消えたりしたが、自分だけは消えない、という歌。そういえば古井戸にはもう1曲“お絵かき”の歌があった。あるとき机の抽斗の中から(多分)ポスターカラーがでてきて、それで昔つき合っていた彼女の顔を描いたことを思い出すという「ポスターカラー」
ほかに、自分の怠惰な生活を歌った「ろくでなし」、彼女をドライブに誘ったが、どう愛せばいいのかわからなくて焦る若者を歌った「ローリング・ストーンズが鳴っていた」など1970年代の匂いのするいい歌がある。

先日デパートの文具売り場へ行ったとき、鉛筆のコーナーをみつけ、手に取ろうと近づくと、数メートル先からなんとあの鉛筆の匂いがしてきた。あれには驚き、感動した。


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[フェロモン] [ozolagnia]


♪ つま先立てて海へ モンロー・ウォークして行く
  いかした娘は誰 ジャマイカあたりのステップで
  目で追う男たちを 無視して腰をひねり
  ブロンズ色の肌 光受けなまめく

  昼下がりの ざわめく浜辺
  噂のうず 巻き込む潮風

  胸元の汗キラリ 眼のやり場にも困る
  口説きおとしたいのに スキもないね君は
(「モンロー・ウォーク」詞:来生えつこ、曲・歌:南佳孝、昭和55年)

「すっげぇ、彼女フェロモン出まくり」なんて言う「フェロモン」とは何ぞや。
まあ、それは例外もなくはないが、概ね異性について使われるので、「性フェロモン」ということなのだろう。それにしても「フェロモン」とは。

調べてみると「フェロモン」は生物の体内から出る化学物質らしい。もともとは昆虫の蛾からその物質は発見されたと。かんたんにいうと、メスから放出されたフェロモンに反応してオスが生殖行動をとる。これは性フェロモンだが、ほかにも仲間に対して警報を発したり、集合をよびかけるフェロモンもあるとか。もちろん、フェロモンを発するのはメスばかりではない。
たぶん、われわれが言っている「フェロモン」とは、性ホルモンを含んだ惹きつけるものすなわち“魅力”ということなのだろう。問題はその「フェロモン」をわれわれが嗅覚で感じているのではないということ。「フェロモンってどんな匂い?」って問うたときに、柑橘系だとか、甘い匂いだとか、フローラル系だとか、具体的に言うことはできない。

それでも「フェロモン」はあるらしい。ある説によるとそれは嗅覚を含んだ五感以外で感じるものだとか。そもそも匂いというのは、匂いを発する物質が鼻孔に入り、それを嗅覚が受け止め、最終的には大脳新皮質で匂いとして確認するというプロセスである。しかし、フェロモンを最終的に確認するのは視床下部だという。ということはフェロモンは従来の匂いからいうと、匂わないということになる。まったく違った感覚系で感知されるというのだ。そして通常の匂いを感じるプロセスを主嗅覚系といい、フェロモンを感じるものを副嗅覚系というそうだ。だが、人間の副嗅覚系は退化してしまっているという(残っているという説もあるが)。そうなるといったい……。

ただ、かなりの部分でフェロモンが言葉としてだけ“踊っている”ことはわかる。たとえば異性に対する賛辞として。「すっげえフェロモン!」を連発している彼(彼女でもいいですが)を、暗闇に連れて行き、知らないうちにかの“フェロモン女性”を目の前に立たせた時、はたして彼は「すっげぇ」と言うだろうか? そうなるとやはり、現代のフェロモンのほとんどは、視覚(体型、ファッション、化粧など)や嗅覚(香水など)から感じていることになってしまう。つまり、セクシーやコケティッシュとほとんど同義語に思えてくるのである。

フェロモンに似たもの(魅了するという意味で)にオーラがある。こちらは視覚的なものなのだろうが。残念ながらわたしは、まだフェロモンを嗅いだこともないし、オーラを見たこともない。ついでにいえば亡霊もUFOも見たことがない。まあ、そうした未知不知の要素が多いからこそ不思議であり、フェロモンなのかもしれないのだが。

「フェロモン」という言葉が出てくる流行歌は知らない。これだけ使われている言葉なので、捜せばJポップのどこかにあるかもしれない。今様の使い方でいえば、上の「モンロー・ウォーク」(南佳孝)などはまさにフェロモン女の讃歌。まあ、作詞家(女性)はよくここまで“いい女”をつくりあげたと感心してしまう。2番にも「束ねた髪にカトレア」「背中のあいたドレス」「グラスを片手にスイング」「しどけないポーズ」「気を持たせてウインク」と“見た目フェロモン”をこれでもかと。みごと男の視線になりきって“いい女”をつくりあげてみせた来生えつこはスゴイ。
同じ曲で郷ひろみ「セクシー・ユー」では後半の歌詞をガラリと変えている。そもそもタイトルを変えた時点でバツなのだが、あきらかにおこちゃま向け。「ビキニのひもがすべ」っても「どこ吹く風」ってそりゃもうフェロモンどころかエロモンになっちゃったりして……。


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[忘れ名草] [ozolagnia]


♪ 好きといえばいいのに いつもいえぬままに
  月が上る小道を 泣いて帰った
  白く咲いてる野の花を つんで願いをかける
  どうぞ 愛があなたに とどくように
  ……
  小雨ふる日はせつなくて ひとり涙を流し
  つらいだけの初恋 乙女のワルツ
(「乙女のワルツ」詞:阿久悠、曲:三木たかし、歌:伊藤咲子、昭和50年)

先日の新聞に芸人・陣内智則の記事があった。人気女優と結婚して男どもの嫉妬をかっているのは周知。それさえネタにしなくてはならないのが芸人の宿命。それはともかく、記事はその後のトークショーか何かの発言で、目に止まったのは次のような部分。「僕は初恋の人の匂いを覚えています。……でも(新妻は)もっといい匂い……」。わたしは“嫉妬組”ではないのでオノロケ発言はどうでもいいのだが、「初恋の人の匂いを覚えている」という部分で、何年か前に同じようなことを言った友人を思い出したのだ。

当然そんな話が出るのは酒の席だ。きっかけは初恋の話だったのか、女性の香水の話だったのか。彼曰く、
「オレはいまだに初恋の女性のつけていた香水の匂いを覚えている。いまでもたまに街でその香水をつけている他人とすれ違うことがあるけど、そのとき彼女のことを思い出すんだ」
「へえー」とわたしを含め身に覚えのない一同感心。すると誰かが
「その香水って、なんて名前なんだ?」
「“フォゲットミーノット”。いい名前だろ。訳せば“忘れ名草”ってことさ」
いい名前だ、と感心するとともに同席した誰もが知らない香水の名前を知っている彼に内心拍手。
翌日、彼の話が気になって調べてみたのだが、“フォゲットミーノット”あるいは“忘れ名草”なる香水はみつからなかった。
あれは彼のつくり話……。そうではない。たしかに彼は初恋の人の“匂い”を覚えているのだ。しかし、その匂いつまり香水の名前は彼の創作なのだろう。そういうことを平気でして、ことわりも何もつけ足さない男なのだ。もちろん悪気はない。

忘れ名草は正式な学名は「ミオソティス」Myosotis alpestris 、別名で“フォゲットミーノット”というそうだ。春から夏にかけてうす青の可憐な花をつける。
『ドイツのある騎士が、ドナウ河のほとりに咲くその花を、恋人のために摘もうとして過って川に落ち、命を落とした。その恋人は騎士を偲び、一生涯その花を髪飾りにした』
そんなストーリーが忘れ名草の由来としてついている。

「忘れ名草」の歌といえば、その名前をタイトルにした「忘れな草をあなたに」が最も知られている。はじめに歌ったのは昭和39年の梓みちよ。46年には菅原洋一、倍賞千恵子の競作でふたたびヒットしている。そのほかグラシェラ・スサーナなど多くの歌手(どちらかというと清潔系の)がカヴァーしている。
しかし、歌詞からわかるように、これは女性発の歌。花の名の由来の“騎士伝説”に従えば、「忘れな草をもう一度」(中島みゆき)の方がふさわしい。
♪忘れな草もう一度ふるえてよ あの人の夢に届け
と、未練な男の気持を“みゆき節”に乗せて歌っている。

わたしにだって初恋ぐらいある。しかし、残念なことに匂いの記憶はない。それでも、その“花の顔(かんばせ)”を思い浮かべるとき、いっしょに聞こえてくる歌はある。


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[香水] [ozolagnia]

 

♪ 貴方の面影 忘れはしない
  シャネルの香りは 今も残る
  恋 消えた恋 帰らぬ昔の日よ
  恋 燃える恋 今でも心は熱い
  愛していたのに 愛していたのに
  ジザベル ジザベル ジザベル
  貴方はいない
(「愛しのジザベル」詞:なかにし礼、曲:鈴木邦彦、歌:ザ・ゴールデン・カップス、昭和42年)

匂い、こればっかりは好みの問題で、ある人には歓迎されるが、他の人には嫌われるというものもある。一般に好感を与えるはずの香水でも、種類や人によっては鼻をつまみたくなるようなものだってある。

香水やコロンはつけたことがないので、その名前も知らないが、要するに香料をアルコールに溶かせたものであることはわかる。そして、その香料が、ムスクのような動物性とフローラル系などの植物性(無機質のものもあるのかな?)があることも。
実際に街ですれ違ったり電車の中で漂ってくる香水でも、思わず振り向きたくなるようなものもあれば、トイレの消臭剤とそう変わらないものもある。後者の場合、電車の座席などの隣に座られて長時間、それもかなり強い匂いを嗅がされたときは鼻栓をしたくなる。これは多分、身につける量の問題だろう。
自分ではつけないからといって、女性はもちろん男が香水をつかうことに顔を蹙めるつもりはない。香水は体臭を消す効果ばかりでなく、異性を惹きつける目的もあるのだから、いってみれば化粧のひとつで、それを否定するつもりはない。。わたしだって高校時代にはMG5だのバイタリスだのという整髪料をすすんで使っていた。あれだって、かなり強い香料の匂いがしたものだ。「香水はどうも、石鹸の匂いのする娘がいい」などと言っても、石鹸にも香料が入っているし、髪の匂いもたいがいは香料の入ったシャンプーの匂いのことだろう。ナチュラルではない。

シャネル№5はマリリン・モンローの“ナイトウエア”として有名になった。だいたい香水というとシャネルと答えるのは、年がわかろうというもの。わたしもだが。ただ、今はシャネルの人気はさほどでもなく、ブルガリだのフェラガモだのというブランドが人気だということである。
たまにエレベーターにひとりで乗り込んだとき、直前に降りた女性の香水の残り香が漂っていることがある。あれはなかなかいい。年齢は、髪形は、服装は、体型は、身長は……とミステリアスで想像力をかきたてる。

「愛しのジザベル」のように流行歌で香水のブランド名が出てくる歌はあまり聞かない(わたしだけかも)。それでもシャネルは「香水と煙草」(フランク永井)「ベッドで煙草を吸わないで」(沢たまき)などで出てくる。ブランド名どころか“香水”という言葉もあまり聞かない。♪フランス香水 チョコレート(「東京キッド」美空ひばり)、♪口紅も香水もつけないで(「すずめの涙」桂銀淑)、♪香りの抜けた香水みたい(「傷だらけの軽井沢」ブレッド&バター)。コロンは♪女のつけぬコロンを買って(「悪女」中島みゆき)、♪ぼくの知らないコロン(「硝子の少年」kinki Kids)で出てくる。そのほか、「あなたの匂い」とか「残り香」とか「移り香」なども不特定の香水だろう。


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[チョコレート] [ozolagnia]


♪ パイナップル・プリンセス 
  かわいい パイナップル・プリンセス
  小さな ウクレレ片手に お散歩よ
  パイナップル・プリンセス
  赤い スカーフ 首に巻き
  風になびかせ お散歩よ

  彼氏のポッケにゃ チョコレート
  私のポッケにゃ ココナツ
  お手てつないで お散歩よ
  オン ウキウキウキ ワイキキ
(「パイナップル・プリンセス」訳詞:漣健児、曲:R.M.SHERMAN, R.B.SHERMAN、歌:田代みどり、昭和36年)

わたしの頼りない記憶では、初めて義理チョコをもらったのは昭和50年代に入ってまもなく。とにかく学生時代には“バレンタインデー”なる言葉も聞いたことがなかった。知らなかったのはオマエだけだろう、と言われれば、そうかもしれない。
自分自身、むかし仕事や遊びで係わった人のことをよく覚えている方だと思うのだが(名前は結構忘れている)、とりわけ死んでしまった人のことは覚えているし、折々に思い出す。それが夭折であればなおさら。

私にはじめてチョコレートをくれた娘は同じ会社のアサミといった。それが苗字だったのか、名前だったのか。生まれは川越だといっていた。ベビーフェイスで鼻っ柱が強くて、社長だろうが上司だろうが気に入らないと誰にでも噛みついていた。いま、あの顔を思い出しても怒りを押し殺してる不機嫌な表情がほとんど。正直苦手なタイプだった。
社員10数人の小さな会社で、彼女は経理と雑用を兼務していた。わたしより4才年下なのだが、ことあるごとに「○○さんには、ベージュは似合わない」とか「ネクタイが派手すぎる」とか、不粋なわたしにファッションチェックをしてくれたものだ。

こんな思い出もある。会社帰り数人の同僚と飲み屋へ。そこでなぜかアサミと意気投合。アサミが突然わたしに抱きつき、耳元で「レコードちょうだいよ」と言ったのだ。レコードとは、わたしがその日勤務中にパチンコで稼いだ戦利品。「世良公則とツイスト」のLP。彼女はしっかり見ていたのだ。どうしても欲しくて獲ったレコードでもなく、酔ってもいたので「いいよ」。それよりも彼女のそういうかたちでのいわゆる“おねだり”に正直、気が動転していた。そんなわけだったので、「それじゃ、その服くれよ」と理由の分からない言葉をわたし。そのとき彼女が着ていた米軍払い下げのボロボロブカブカのジージャンと交換しようと言ったのだ。もちろん冗談。ところが、アサミはわたしからからだをはなすと、すぐにジージャンを脱ぎ、わたしに「ハイ」。彼女の素早い反応に「冗談だよ」というタイミングを逸して受け取ってしまった。

そうかと思えばこんなこともあった。わたしが得意先で失敗をやらかし、それを放っておいたら会社に苦情の電話が来たことがあった。たまたまわたしが出張か何かでいなくて、アサミが謝罪に行く羽目に。そこで彼女はわたしの代わりに相当怒られたようで、翌日、わたしの元へやってきて、無言で机の上に書類を叩きつけていった。そして、それから10日あまり口をきいてくれなかった。

そしてバレンタインデー。いま思えば地味な会社のわりにはオシャレな女性が多かった。わたしは他の男性社員以上でもなく以下でもなく、数個の義理チョコをもらった。もちろんアサミからも。銀紙に包んだ梅干し大(もっといい例えが……)のチョコが3個。ほかの女性からのチョコがどんな形だったか覚えていないのだが、なぜか彼女のものは覚えている。

彼女の移り香のついたジージャン、怒りをこめて机に叩きつけられた書類、バレンタインデーの3粒のチョコレート。その順番がどうだったのか……。いずれにしてもわたしはその会社を2年足らずで辞めた。送別会をしてもらったのだが、アサミがいたかどうか覚えていない。
それから数年後、当時の同僚からアサミが病気で死んだことを教えられた。まだ20代だったと思う。彼女からもらったジージャンは、しばらく着たりしていたが、そのうち無くなってしまった。それが、彼女が死ぬ前だったのか、死んだ後なのか、それもいまとなっては記憶の彼方である。

「パイナップル・プリンセス」田代みどりの3枚目のシングル。当時のカヴァーポップスは競作がふつう。「パイナップル・プリンセス」も例外でなく、森山加代子もレコーディングしているが、やはりこの歌の印象は田代みどり。編曲がスマイリー小原で、バックバンドが彼のスカイライナーズというのも懐かしい。オリジナルはディズニー御用達シンガー、ANNETTE
田代みどりは、昭和23年島根県生まれ。大阪で育ち、10才でウエスタン・カーニバルに出場。12才でレコード・デビュー。ほかに「ビキニスタイルのお嬢さん」「ベビー・フェイス」「月影のマジョルカ」などのヒット曲がある。パンチのある歌い方で、当時、和製ブレンダ・リーなどと言われた。日活青春映画にも多数出演し、19才で予定どおり引退。その後元ブルーコメッツ三原綱木と結婚しデュオで再デビュー(「愛の挽歌」)するが、のちに離婚、そして引退。オールディーズが人気の昨今、数年前から歌手活動を再開している。


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[たばこ] [ozolagnia]


♪ おれのあん娘はタバコが好きで
  いつも プカ プカ プカ
  体に悪いからやめなって言っても
  いつも プカ プカ プカ
  遠い 空から 降ってくるっていう
  「幸せ」ってやつが あたいにわかるまで
  あたい タバコ やめないわ
  プカ プカ プカ プカ プカ
(「プカプカ」詞、曲・象狂象、歌・ディランⅡ、昭和44年)

わたしがたまに通るオフィス街の中に小学校の校庭ほど(?)の公園がある。そこにはいくつものベンチがあり、それ以外にも腰かける場所がたくさんある。そして、そのすべてに1リットルの缶カラが置かれている。そう、そこはスモーキング・パークなのだ。時計が正午を過ぎると、すさまじい光景が繰り広げられる。周囲のビルというビルから老若男女が大災害を感知した鼠よろしくどっと飛びだしてくる。彼らは一様に手に小箱を持っている。それは様々なブランドの煙草。我先に公園になだれ込み、腰を下ろすと、まるで薬物中毒者のようにせわしなく煙草を口に銜え、ライターで火をつける。公園は一瞬にして白い煙と葉の燃える匂いにつつまれてしまう。

禁煙は公共施設、乗り物、民間の職場からはじまって、ついに路上まで浸透してきた。歩き煙草を“犯罪”とする自治体が増えてきている。と同時に最近目立つのが女性の歩き煙草。これも禁煙オフィスが増えたせいだろう。

煙草は周囲の人がその煙を吸っただけで癌になるとか、嫌なニオイが髪や洋服に着くというような「被害者意識」が言われだしたのは、そんな昔のことではない。そもそも煙草の効用というのは、気分転換やリラックスといった精神的なことが多い。肉体的なこと、たとえば「喫煙者は○○病になりにくい」ということがきっとあるのだろうが、それはあまり言われていない。それはともかく、ニコチンを直接吸入することによる精神作用はたしかにあるのだが、そのニオイを嗅ぐこともまた煙草の効用としてあったのではないか。禁煙中のわたしだが、路上で流れ来る煙草のニオイを嗅ぐことはキライではない。

♪あなたの好きなタバコの香り(「ブルーライト・ヨコハマ」いしだあゆみ)、♪煙草の匂いのシャツにそっと寄りそう(「赤いスイトピー」松田聖子) ♪あなたの背中 タバコのにおいがした(「さよならイエスタデイ」チューブ) ♪最後のキスはタバコのflavorがした(「First Love」宇多田ヒカル) というように、かつて煙草のニオイは不快どころか、心地よいと感じる人が少なからずいた。それが、いつのまにか悪臭になってしまった。もはや、こんな歌詞は作られないかも知れない。

「プカプカ」は言わずと知れた関西フォーク、というかタコ焼きブルース(そんな言葉はない)。プロ受けする歌でもあり、原田芳雄、桑田佳祐ら多くのミュージシャンにカバーされている。70年代インドア人間の薫り芬々の歌である。
作者の象狂象は“象さん”の愛称のあった西岡恭蔵のことで、「黒く塗りつぶせ」など矢沢永吉の歌の作詞でも知られる。なんとも味のあるミュージシャンだったが、平成11年、亡くなった愛妻の後を追うように自ら人生を終えた。


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