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【うたごえ運動】 [obsolete]


『うたごえ運動がさかんになってから、この池のほとりでは、昼休み毎に学生たちの大合唱がきかれるのであった。もっとも、合唱の練習は、ずっと昔から行われていたが、人数は少人数で、よほど酔狂な連中と思われていたのである。』
「永すぎた春」(三島由紀夫、昭和31年)

カラオケはもはや文化である。しかし、それだけが歌唱ではない。小中高校では合唱コンクールがあるし、ママさんコーラスも全国的に盛況である。日本人はかくまで歌うことが好きだったのかと思うほどあちこちで様々な歌声が聞こえているのだ。。
戦前にも合唱はあったのだろうが、「うたごえ運動」と呼ばれるように、まさにムーヴメントとして全国的に広がっていったのは戦後である。

終戦の翌年のメーデーにはすでに合唱が行われている。そして昭和23年には共産党の指導の下に組織された青年共産同盟によって、中央合唱団が作られた。その中心になったのが声楽家の関鑑子(あきこ)である。「うたごえ運動」はそのオルグたちによって全国に広められていったのである。つまり日本の合唱は戦後合法化された共産党の極めて重要な宣伝、オルグ活動だったのである。それはそうだが、閉塞された昭和10年代を経て、日本の若者たちが、“合唱”の中にエネルギーとコミュニケーション、つまり青春を感じとったことも間違いない。でなければ、かくまで職場や学校に「うたごえ運動」は広がっていかなかっただろう。
歌われたのは当初、「インターナショナル」「同志よ固く」「マルセイエーズ」など外国の歌だったが、その後「世界をつなげ花の輪に」や「しあわせの歌」「原爆を許すまじ」など和製の歌も数多く作られた。なお、今は亡き作曲家の林光、いずみたく、木下航二も中央合唱団に在籍していた。

それから半世紀を経て、合唱はみごとにイデオロギーから独立し、様々なかたちで引き継がれている。たとえば、ゴスペルもまた“合唱”である。みんなで歌う愉しさとは思想ではなく、より本能的なことなのだということを証明してみせた。ただ、そうであっても、戦後のあの半ば意図的なムーヴメントが現在の“合唱”のベースになっていることは否定できない。

「永すぎた春」は当時、流行語にまでなった。
恋人同士や同棲している男女が、その期間が長くなりすぎたため、関係がぎくしゃくしたり、すき間風が吹くことをいう。映画俳優や芸能人同士のカップルが、何年もの交際にピリオドを打って別れたニュースを「永すぎた春の二人」などと、週刊誌の見出しにしていた。
小説で「永すぎた春」を演じるのは、大学生の宝部郁雄と古書店の娘、木田百子。
二人は百子が店番をする店で知り合い、お互いに愛し合うようになる。しかし、郁雄の父親の考えで、卒業は大学を卒業してから、つまり1年半後ということになる。「永すぎた春」とは、この1年半のことなのである。小説は二人が婚約したJanuaryからDecemberまでの1年、12カ月の出来事を12章で綴っている。
1年半が長いか短いかは別として、ストーリーは来春二人がめでたくゴールインするだろうことを匂わせながらエンディングとなる。つまりハッピーエンドの青春小説なのである。三島由紀夫の「永すぎた春」が石坂洋次郎などの青春小説と異なるのは、同じ幸福の予感を匂わせながら、どこかトゲのようなひっかかりがあることだろう。そのトゲとは、二人の幸福に優るものはなく、そのためには周囲の不幸などとるに足らないという“恋愛至上主義”の思想のようなもの。それはある意味でとてもリアルなのだが。
昭和32年、大映で映画化(監督、田中重雄、出演、川口浩、若尾文子、船越英二他)。


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【チュニック】 [obsolete]


『女画家は軽く会釈したが、紹介されるまでは、まるで絵描きにはみえなかった。左右の袖に反対色をつかったような思い切った洋服、このごろはやりの上着が腰骨の下まであるチュニック・スタイルの服を着こなして、目の下には目張りまで入れている三十ちかい美人で、全然笑顔を見せなかった。』
(「永すぎた春」三島由紀夫、昭和31年)

「チュニック」tunicとは“引用”でも説明しているように腰下やお尻の下まである長い服のこと。チュニック・スーツとがチュニック・スカートがある。語源はチュニカtunicaでラテン語で下着のこと。カトリックの司教がミサを行うときに身にまとう服、あるいは長い軍服もチュニックというそうだ。“引用”にあるように昭和30年代のはじめに流行したらしい。
昭和30年という年はファッションが花盛りだったようだ。若者では、男は細身のズボンのマンボ・スタイル、女は裾が広がった落下傘スカート。大人の女性では、春にはディオールのAライン、秋にはYラインが流行した。A、Yともに洋服のアウトラインを現したもので、Aは裾広がりのスカート、Yはすそのすぼまったスカートのこと。そのほか、ひざの隠れるシャネル・スーツ、あるいはダスター・コートが登場したのもこの年で、それらに加えてこのチュニック。ミニスカートのセンセーションが起きる13年前のファッションである。

「永すぎた春」は結婚を約束した若い二人の一年間の出来事を描いたもので、一般的には歓迎されたが、評論家のあいだでは三島にしては「通俗的すぎる」という評価のようだ。
それはともかく、主人公の郁雄と百子がいずれも、あまりにも意志堅牢というか優等生というか、若いのにどこか達観していてつまらない。これは作家の精神の反映でしょうか。
そんな約束にゆるぎない二人だが、すきま風とまではいかないが、微風が二度吹く。そのひとつが、郁雄が年上の女で画家のつた子から誘惑される話。
そのあと、郁雄は百子から遠回しにからだの関係を結んでもいいことを告げられる。しかし郁雄は考える。「(百子には)指一本触れてはならない。僕のやるべきことは、早くつた子の体を知った上で、一日も早く、百子のためにつた子を捨てることだ……」。そして、お節介な友人の仕業で郁雄と百子とつた子の3人がつた子のアパートでご対面。なんだかわけの分からないやりとりがあって、郁雄は自分たちが「勝った」と感じ、不安げな百子の肩を抱いて帰っていく。嫌な奴らだなこの二人と思ってしまう。二人が去った後、残されたつた子はドアを思い切り締めて、ジャズを聴きまくる。そりゃそうだよな、そうなるよなと思ってしまう。


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【ブルーフィルム】 [obsolete]


『大きなスクリーン一杯に金髪の男と赤毛の女が喘ぎながら接吻を交わしていた。……それは煽情的な映画だった。まるでブルーフィルムのように、様々な男女の様々なベッドシーンが次々と写し出されていた。井村の片手は私の背をまわって肩にかかり、彼の掌が私の二の腕を揉んでいる。』
(「非色」有吉佐和子、昭和39年)

「ブルーフィルム」は青写真のことではない。それは“ブループリント”。
むかし風に言うと“好色ワイセツ映画”、すなわち本番映画のこと。多くは8ミリあるいは16ミリで制作された。制作元はほとんどが暴力団だが、中には映画のプロダクションが作ったのではと思わせる傑作もあったとか。
その歴史は古く、大正期にはすでにあったといわれる。映画が作られたのが明治の中期、その直後に考え出されたであろうことは推測できる。全盛期は昭和30年代後半から40年代にかけて。もちろん大っぴらに上映することはできない。主に温泉客相手に旅館などや、接待用に割烹などの一室で観賞された。その制作本数たるやたいしたもので、昭和50年の警察白書によると、49年、あるブルーフィルムの地下組織をつきとめ、暴力団および関係者140人を逮捕。そのグループは7万巻以上のブルーフィルムを制作していたという。
その1グループでそれだけなのだから、全国的にはどれだけのブルーフィルムが作られ、プリントされていたのか。おそらく当時サラリーマンだったお父さんたちは、会社の慰安旅行などで一度はお目にかかっているはずである。
やがて映画同様、ビデオの普及とともに、“フィルム”は退潮の憂き目にあうが、その神髄はメディアを変えて、ビデオあるいはDVDとしてしっかり受け継がれている。
しかし、なぜピンクではなく“ブルー”なのか。

メアリイとともにハアレムにあるトムのアパートに着いた笑子はすぐに幻滅する。粗末なベッドとソファだけのアパートを見てメアリイは「マミイ、船の中と同じだね」と言う。あの2カ月あまり寝起きしてきた薄暗い船底と変わらない部屋だったのだ。
その後、笑子はさらに三人の子供を産む。バーバラとベティとサムだ。小学校に上がったばかりのメアリイは、働きに出る笑子に代わって、まるで母親のように妹と弟を育てる。
いつも鏡を見ながら縮れた毛をポマードで伸ばしているメアリイは、小学校で最優等生だった。その作文は「将来は文章家になれるぞ」と周囲の人間を驚かせるほどだった。またアパートに転がり込んだ怠け者の居候シモン(トムの弟)を顎でこきつかうメアリイは、難問をかかえる家族の中にあってもっとも元気な存在でもあった。
笑子が異郷にあって、貧困や差別に負けず、頑張って生きていけるのは、彼女の持って生まれた前向きな性質という面もあるが、それよりもやはり長女・メアリイの存在が大きな支えになっていたことは間違いない。それは単に家事をやり、妹弟の面倒をみるという生活面のサポートだけではなく、ニグロの世界に入って一歩もたじろがず、しっかりと考える力を持った存在だったからだろう。娘・メアリイは笑子にとって誇りであり、ともに長い旅をしてニューヨークに辿り着いた同士なのである。
「非色」は平凡な女性が差別の本質に直面する物語である。残念ながら差別を糾弾することを頭だけでもってするのは難しい。自分あるいは自分の分身が差別されることで、はじめてその差別の実像が明瞭り見えてくる。そして闘いを余儀なくされる。


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【頭陀袋】 [obsolete]


『三つある大きなスーツケースと、頭陀袋のような手提げと、メアリイの玩具と人形を入れたバスケット―これが私たちの荷物の総てだったが、私たちがそれらをどういう工合にハアレムのアパートへ運び込んだかは、書いておいた方がいい。……トムはそれを、一人で一度に三つとも抱え上げたのだ。……』
(「非色」有吉佐和子、昭和39年)

「頭陀袋」zudabukuro の“頭陀”とは本来、梵語で物欲を捨て去るための修業であり、その目的で旅をする修業僧のこと。その僧が経文や布施などを入れるために首からかけていたのが「頭陀袋」。やがて、死後も清い心でいるようにと死んだ人の首にもかけられた。それは、物欲の反対にあるものなので、粗末でダブダブと決して見てくれの良いものではなかった。それがいつのまにか、一般の人が使う手提げや肩掛けの袋の呼称となった。もちろん、決して高級なものではなく、安っぽい袋である。時代は変わって、そういう安っぽさが“カッコイイ”となり、ときどき「頭陀袋」を持っている若者におめにかかる。はたして、「ズダブクロ」と言っているのか否かは不明だが。
“引用”は笑子とメアリイが2カ月あまりの船旅で、ようやくニューヨーク港へ到着したところ。

「非色」のおもしろさのひとつは、いわゆる“戦争花嫁”の笑子が異国(それも日本よりはるかにすすんだ文明国)へ渡って、様々な体験のなかで、カルチャーショックを受けながら思い悩むという日本人にとって“非日常的”なストーリーにある。そして、その“戦争花嫁”が笑子ひとりではなく、渡米の船の中で3人の同じ境遇の女性と知り合う。そのうちの2人は結婚相手が白人であり、1人が笑子と同じ黒人の子供を連れていた。実はのちに、その白人というのは1人はやはり差別されているイタリア系であり、もうひとりは黒人より下層に見られているプエルトリコ人であることがわかる。そのように笑子以外の3人の“戦争花嫁”のエピソードも随所に登場し、その“非日常的”なストーリーに幅をもたせている。
そのうちの最も若く美しい“戦争花嫁”はみずから命を絶ってしまうのだが、そのことも含め、実際にいた“海を渡った花嫁たち”がいかに精神的にきびしい時代、状況を生きなければならなかったか、ということをこの小説は上手に描いている。


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【PX】 [obsolete]


『私は適当に彼女の好奇心を満足させながら、PXの商品の闇流しをそれとなく彼女にすすめた。十ポンドの砂糖を売ると、何パーセントの利益を得るかということを詳しく説明した。もっとも、この話は相手の顔色を見ながらする必要があった。もしリー夫人が私に悪い感じを覚えたなら、メイドの総元締めをしているオフィスに電話一本するだけで、私はワシントン・ハイツから追い出されるのである。』
(「非色」有吉佐和子、昭和39年)

「PX」POST EXCHANGE OFFICE とは進駐軍の“酒保”つまり売店のこと。売店といっても進駐軍に勤務する軍人とその家族のための買い物施設で、衣類、食料品はもちろん、理髪店、美容室まであったいわばデパート。実際、PXとして接収されたのは銀座四丁目の松屋で昭和21年4月。その翌月服部時計店も接収された。これは講和条約が締結されるまで6年間続いた。日本人が食うや食わずの時代、まさにPXの中はパラダイスだったのだ。“引用”は軍人家庭のメイドとして働く笑子が、夫人にPX商品の横流しをすすめるところ。もちろん彼女もその恩恵にあずかろうという魂胆である。なお「ワシントン・ハイツ」とは、当時代々木に造られた進駐軍の軍人および家族のための“街”。その中には小学校から教会まであった。いってみれば日本にあったアメリカの租界地で、外部とは鉄条網で区切られていた。

終戦直後、進駐軍専用のキャバレーにクロークとして勤めていた笑子は、そこで黒人の伍長トムと知り合う。2人は結婚して子供が生まれる。しかしその3年後、トムに帰国命令が下り、彼はニューヨークへ帰っていった。はじめ、アメリカへ行くことなどとんでもない、と考えていた笑子が渡米を決意したのは、娘・メアリーのためだった。大きくなるにつれて顕著になるメアリーの父親似の肌の色と髪の毛は、子供たちのいじめの対象となったのである。〈アメリカへ行けば、何百万というニグロがいる〉そう思ったのである。
こうして笑子母娘は海を渡り、ニューヨークでトムと暮らすことになる。そこで笑子は黒人差別の実態を知る。さらにその黒人よりもさらに蔑まれている人種がいることも知る。そして差別がたんに肌の色によるものではなく、“階級闘争”(古い言葉です)から生まれてくるということに思い至る。
ラストは印象的だ。まだ一度も行ったことのないエンパイア・ステート・ビルへ行ってみようと、近所の親切な婦人(もちろん黒人)と子供を誘う。いままで日本料理店のウエイトレス、日系人家庭のメイドと、日本人の“特権”を駆使してきた笑子が、その職を捨ててニグロが働く縫製工場へ勤めようと思うのである。それが、自分の誇りとするメアリーと一緒に生きていくことなのだと。
有吉佐和子は昭和6年和歌山市生まれ。昭和31年「地唄」が芥川賞候補になる。同34年長編「紀ノ川」がベストセラーに。主な作品には「華岡清州の妻」(41年)「恍惚の人」(47年)、「複合汚染」(49年)など。昭和59年心不全のため逝去。享年53歳。


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【不潔】 [obsolete]


『「さあ、君をどんなにしてやろう、早く退散しないとあぶないぞ。」
「玉木さんのそばを離れません。私がここで落ち合ったんですから、先生がお帰りくだ さい。」
「君はお目つけ役の侍女かい。」
「そんなこと頼まれていません。不潔です。」と恩田はそっぽを向いた。
「久子さん、帰りましょう。この不潔な人に、怨みと怒りをこめて、永久のさよならを おっしゃいよ。」
(「みずうみ」川端康成、昭和29年)

引用の「不潔」は今でも使われている、「何日も風呂に入らない」「部屋の掃除をしない」などの不潔とは違う。つまり物理的に汚れているのではなく、精神的に“不純”という意味で使われていた。ただ、それはおもに男と女つまり性に関することについて言われた。使ったのは中学生か高校生、あるいは処女。つまりまだ汚れ? を知らない若者の言葉。上の“引用”は教え子の玉木久子に言い寄る主人公に対して、旧友の恩田信子が非難しているところ。源氏鶏太の「投資夫人」では、主人公の証券マンが営業活動として有閑マダムと寝たことが恋人にバレ、「不潔だわ」と絶交される場面が出てくる。
いまならなんというのか。「エッチ」「イヤラシイ」ではストレートすぎるわりに非難度が低めだし。「ヘンタイ!」では言い過ぎだし……。時代が変わると、当時のニュアンスを伝える言葉が失くなっていることに、気づくことがある。

主人公は、教え子との恋愛事件で教壇を追われた美少女ストーカーの高校教師。
ストーリーは軽井沢のトルコ風呂から始まる。それだけでもすでに夢想的な話。トルコ嬢のマッサージを受けていたと思うと、場面は街角に変わり、主人公は後をつけていた女から現金の入っていたハンドバッグを投げつけられる。そして話はその女と彼女をかこっている学校の理事長、そしてふたりを取り巻く女たちへと移っていく。かと思うと、主人公の少年時代の、従姉との回想がはじまる。そのあと再び、教え子との恋愛ごっこがはじまり、さらに主人公の前には他の少女や男娼、中年娼婦があらわれる……。
というように、少女趣味の主人公の意識がとりとめのないストーリーの中で表象されていく。「みずうみ」はとてもポップな小説である。同じ作者の「伊豆の踊子」や「雪国」、「山の音」などオーソドックスで、いかにも純文学というイメージとはまるで異なる。不勉強でいまさらながらだが、川端康成の知らなかった一面がとても新鮮だった。


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【ルンペン・ストーブ】 [obsolete]

『……隣室の方は、板の間になっていて、こちらより少し広い部屋で、ルンペン・ストーブの煙突が天井を這っている。部屋は少しむっとするほど暖かかったが、それはこのストーブのためであった。』
(「遠い海」井上靖、昭和37年)

ストーブというと小中学校にあったダルマストーブを思い浮かべる。「ルンペン・ストーブ」は見たことがなかったが、画像にあるように2つの釜をもつストーブで、どちらにも燃料となる石炭や木や紙などを入れておき、片方が燃えつきたらもう一方に点火するという、つねに暖を絶やさないようになっているようだ。北海道や北国で多く使われた。
名前の由来は、浮浪者があたっているドラム缶のような簡単なストーブのことだと思っていたが、そうではないらしい。片方を使っている間、残りのひとつは休んでいる、つまり失業している、だからルンペン(浮浪者)なのだ、というのだがそれもまたスッキリしない解説。ルンペンはドイツ語でボロ布(それを身にまとっているから浮浪者)という意味のようで、単純にボロ布などなんでも燃やしていたストーブという意味だという解説もあった。いずれにしても、日本独自のストーブのようだ。
ルンペンが差別用語だという人もいるが、ルンペンそのものがすでに廃語となっている。

学生の頃、好きだった女性に死なれ、やがて結婚した実業家の男。その妻となった女。その女を愛していながら、友人の実業家に譲った演出家。そして3人それぞれの過去への拘り、現在の思いを浮き彫りにさせていく死んだ女の娘。ドラマはこの4人によって静かに展開していく。
「遠い海」はもともとNHKの朝の連続ラジオ小説として昭和37年に書き下ろされたもの。単行本化されたのはそれから15年後の昭和52年である。
タイトルの「遠い海」とは、憧憬でありいつまでも消えない思い出のこと。それは誰の心にもあるもの、と作者は言っている。


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【さいづち頭】 [obsolete]


『「さいづち頭というんでしょ?」
「さいづち頭? 村ではあんた、子供たちらは軍艦あたまちゅうて、いじめました。学校もよう出けたええ子ォですがな。いつやらほどから自分の名の捨吉という名が気にいらんちゅうて、お父うにとりかえてちゅうてきかなんだといいますがな」』
(「雁の寺」水上勉、昭和36年)

「さいづち頭」は才槌頭。才槌とは小さな木槌のことで、おでこと後頭部がともに出っ張った頭を「さいづち頭」という。体格の小さい子供時代、に目立ち、からかいの対象になったりする。さいづち頭の反対は“絶壁(ぜっぺき)”で、こちらは後頭部が丸みを帯びておらず、まさに絶壁のように平らなかたちをいう。これまた、子供たちの間ではからかいの対象になる。出っ張ってても平でも笑われるのだ。適度に出ているもの、つまり中庸がいいということなのだろうが。また、さいづちや絶壁でなくても、ただ大きいだけで、“頭でっかち尻つぼみ”とか“鉢が広い”などと、やはり嘲笑される。自分では直しようがない肉体の部分だけに、言われほうは辛い。とにかく子供は、頭に限らず他人の肉体的特徴をあからさまにからかいの対象にする。大人になると分別で抑えるが、本質的にはたいして変わっていない。

「さいづち頭」とは慈念のことである。
慈念は、「背が低く」「頭の鉢の大きな」「額が前へとび出ている」「奥眼な」小坊主と書かれている。若狭の寺大工の子で名は捨吉、十歳のときに両親と離れ、寺へ来たということになっている。しかし、実際は村の阿弥陀堂に居ついた乞食女が産んだ父親不知の子だった。それを寺大工の夫婦が拾った、だから捨吉なのだ。
慈念はそのことに気づいている。それもまた肉体同様逃れられない宿命なのである。慈年の心にはそうした孤独と怨念がマグマのように蠢いている。慈海はそれに気づかないが、慈念のことが気になってしょうがない里子は「おそろしい子や」と言って、その本質を感じ取っている。
里子に抱かれて女を知った慈念は、同時に彼女から生まれて初めて母親の愛情をも知らされる。“近親相姦”に近い関係といってもいい。したがって、もはや恩師・慈海は自分と“母親”とを分け隔てる存在でしかなかった。慈念は酔って帰ってきた慈海を刺し殺す。そして、折しもあった檀家の葬式で、棺の中に慈海の死体も押し込んでしまうのだった。「やけに重い」棺はふたつの死体を入れたまま土葬される。
慈海の“失踪”は、慈念の証言で寺を捨て雲水になったということで落着する。しかし、それからしばらくして、慈念も忽然と寺から姿を消してしまうのである。慈念がいなくなった後、雁が描かれた襖のうち、子供にエサを与える母願の絵だけが何者かによって破り取られていた。
「雁の寺」は昭和37年に大映で映画化。監督、川島雄三、出演は若尾文子、高見国一、三島雅夫他。


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【コレラ】 [obsolete]


『……頑健であったはずの梨枝は、里子の六つのときにコレラで死んでいた。避病院の金具の錆びた寝台で死んでいた母は、生きているようにふくよかだったと里子は思う。母親もむっちりして、小太りだった。器量よしだった。里子はその血をうけていたのである。』(「雁の寺」水上勉、昭和36年)

先日36年ぶりに、狂犬病患者があらわれニュースになったが、「コレラ」もまた最近聞かなくなった伝染病だ。
「コレラ」cholera は人間の腸内にコレラ菌が入り、コレラ毒素を出すことによって起こる伝染病。症状は激しい下痢と嘔吐、それに脱水症状だが、早期治療により死亡率は5%あまりときわめて小さい。ただし、慢性胃疾患をもつ人は重症になりやすいとも。また、感染経路は食品で、人から人への感染は少ないといわれる。現在日本でも年間10人ぐらいの患者が出るが、そのほとんどは先の狂犬病同様、海外での感染だという。なお、コレラ菌は200パターンぐらいあって、そのうちコレラ毒素を出すものによる感染のみを「コレラ」といい、それ以外のコレラ菌による感染は単なる食中毒で「コレラ」とはいわないそうだ。
現在ではちょっとひどい下痢といった感じの「コレラ」だが、かつてはペストや天然痘と並ぶ“死に至る伝染病”だった。
19世紀中頃インドで発生した疫病からコレラ菌を発見したのはイタリアの医師・パチーニで“コレラ菌”と命名した。その30年後にドイツの細菌学者・コッホが「コレラ」の病原体として再発見した。
インドから始まったコレラの大流行は日本にも及び、安政年間には江戸で10万人の死者を出す大流行となり、発症するとコロリと死ぬので“狐狼狸”と呼ばれて怖れられた。明治大正にも流行があったが、徐々に防疫体制が整い、流行を見なくなっていった。昭和30年代にはほとんど発症しなくなっていたが、それでも、天然痘や狂犬病と並んでその名を聞くだけで怖ろしい病気だった。
人間と細菌やウィルスの闘いはまだまだ続く。征服したかのように見える細菌も、強力な耐性をもった新種があらわれないとも限らない。最終的には人類が細菌に滅ぼされてしまうなんてことにもなりかねない。

水上勉の小説には、性を引きずり、運命に縛られた哀しい女が描かれることが多い。彼女たちが美しいのは、その姿に“滅び行く日本の女”を映しているからである。
「雁の寺」では里子がそうだ。小説の中では「……三十二だが、小柄で、ぽっちゃりとしており、胴のくびれた男好きのするタイプで、かなり美貌であった。……」と書かれている。画家に囲われ、その死後、僧侶に囲われる一見奔放な女だが、その生い立ちは暗い。“引用”にあるように、幼くして母親を亡くし、十三で奉公に出され辛酸をなめてきた。だからこそ、なにかにつけて似た境遇の慈念のことが気になるのだった。しかし、それが仇となり、慈念と過ちを犯すことになる。
里子が慈念に慈海殺しを唆したわけではない。しかし、結果的には里子の幻影にとりつかれた慈念は、慈海をナイフで突き殺すまでに至ってしまうのである。もちろん、里子がそのことに気づくのは、慈念も慈海もいなくなった「雁の寺」でであった。


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【百目蝋燭】 [obsolete]


『慈念は蝋燭に火をつけた。中座にきて、また観音経を唱じだした。
 ねんぴかんのんりき、とうじんだんだんえ、わくしゅう、きんかあさ、しゅうそくしちゅうかい、ねんぴかんのんりき……
 と、慈念は唱じながら横目で襖をみていた。が、急に唱経をやめた。慈念の眼が百目蝋燭の炎のゆれる中でキラッと光ったのはこのときであった。』
(「雁の寺」水上勉、昭和36年)

現代においては蝋燭そのものが怪し気な雰囲気をもつのに、「百目蝋燭」となるとオカルトの世界のような字面だが、そうではない。「百目蝋燭」とは“百匁蝋燭”のことで、ロウソクの大きさからきている。一匁(いちもんめ)が3.75グラムなので、「百目蝋燭」は375グラムというから、かなり大きな和ロウソクである。
ロウソクの始まりは奈良時代と言われている。しかし、当時使用していたのは貴族や寺院で、一般庶民の家へ普及するには江戸時代まで待たなければならなかった。その江戸時代にしても、やはり長屋住まいの町人には高価なもので、だいたいは小皿に油を入れ、灯心に火をともして明かりとしたようだ。
さすがに昭和の時代になると、家庭の必需品となる。戦後でも、昭和30年代ぐらいまでは、雷が鳴るたびに停電が起きたので、箪笥の抽斗にはマッチとセットでロウソクが入っていた。現在では、せいぜい仏壇の燈明として使用するぐらいかもしれない。
ロウソクの蝋は櫨の実から抽出し、それを溶かして芯となるい草の上に何度も何度もかけて作られる。「百目蝋燭」があるのなら「千目蝋燭」もあるのかというと、これがある。3.75キロの巨大なロウソクで、もちろん寺社などで使われるもの。
最近ではロウソクといえば、パラフィンからつくる洋ロウソクつまりキャンドルのこと。結婚式、クリスマスでもおなじみ。またインテリアとしての洒落たフォルムのもの、アロマを染みこませたものなどや、アウトドアで使うための虫除け効果があるキャンドルなど多様。

時代は昭和8年。「雁の寺」は京都の寺、孤峯庵で起こった怖ろしくも哀しい物語である。
話は孤峯庵の住職・北見慈海の呑み友だちで日本画家の岸本南嶽の臨終から始まる。
「雁の寺」とは、南嶽が孤峯庵の襖に描いた雁の絵に由来する。その南嶽は生前、30そこそこの里子という女性を囲っていた。そしてもし自分が死んだら、あとの世話を見てほしいと慈海に頼んでいた。南嶽の死後、里子も当然のように孤峯庵に身を寄せた。独身の和尚・慈海は毎朝晩、里子のからだを求めた。里子もそれが苦痛ではなかった。寺に二人だけしかいなければ、好色な和尚と女盛りの情婦の生活は平穏に続いていたはずである。
ところが寺にはもうひとりの人間が住んでいた。13歳で得度したばかりの小坊主・慈念である。
慈念は身寄りがなく10歳の時に孤峯庵にもらわれてきた。寺から中学へ通っているが秀才で、ゆくゆくは立派なお坊さんになると、周囲から期待されている。しかし、厳しい修業をしながらも、衣を脱げばひとりの孤独で愛と性に飢えた少年である。その少年は里子という女性の出現によって、その抑圧されていた愛と性が一気に顕わになる。そして、やがて悲劇へとつながっていくのである。
「雁の寺」は直木賞受賞作。少年時代、寺で生活していたという水上勉らしく、本堂、庫裡などの描写が細かく、また住職の生活ぶりや小坊主の勤行ぶりもリアリティに富んでいる。「雁の寺」の2年後に書かれた「五番町夕霧楼」や、そののちの「金閣炎上」でも寺を舞台にした修業僧の悲劇を描いている。


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