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【脳タリン】 [obsolete]

『「いったい、きみの貞操はいくつあったら気がすむのかねえ……」
 「あんたってろくでなしの脳タリンよ。ちがうわよ。ココロよ、あいつあマゴコロをぬすんで逃げたのよ……」
 そして有衣子ははらわたを嘔吐するかのような激しさで泣き出した。』
(「感傷旅行(センチメンタル・ジャーニー)」田辺聖子、昭和39年)

「脳タリン」あるいはノータリンなどというと、何かの酵素とか栄養素、あるいは薬品のようなかんじを受けるが。これは「脳足りん」つまり、脳みそが足りない、少々オツムが弱い(これも言わないか)ということ。「あいつは脳タリンだから」「なんだ!脳タリンのくせに」と、かつてはふつうに使われていた(地域によるのかも知れないが)のだが、最近ほとんどこの言葉をきかない。もともと誰が何処でいつごろ言い始めたのか不明。ある「俗語辞典」のサイトでは昭和後期から使われたとあったが、後期というと40年代以降ということになるが、もう少し前、戦後しばらくしてからのような気がする。
たとえば相撲で弱い力士のことを「デルトマケ」あるいは水道のことを「ヒネルトジャー」などと駄洒落て言ったことがあったが、ニュアンスとしてはそんな感じで使われたのではないだろうか。

「感傷旅行」田辺聖子の出世作。
主人公はぼく(ヒロシ)ではなく、ぼくよりもひとまわり以上年長の森有衣子。ヒロシも有衣子も放送作家。恋多き女、有衣子が“前衛党”の闘士に恋をし、そのことを親友のヒロシに相談するところから話ははじまる。
この魅力的な女性・有衣子の容貌を紹介すると。「太い短い、丸い足……」「白地に濃いオレンジの太い棒縞のはいった服を着て……まるで巨大なねじりあめみたい……」。
鼻っ柱が強くて、そのくせ少女趣味で感傷的。泣く時は手の甲を目に当ててまるで童女のように声をあげて泣く。ラジオで人生相談をしていながら、自分の恋の行く末をひとまわり以上年下の同業者に相談する。そんな三十女。
結局、有衣子は闘士にフラれる。そしてそのことでヒロシとケンカになり、ほっぺたがオタフクみたいに腫れ上がり、眼の周りに青タンができるほど殴り飛ばされる。
それでもふたりは傷をなめ合うように抱き合う。そして小旅行に行く約束をする。しかしそれは無期延期となる。あの情事のあと、有衣子はヒロシに愛情を感じていないことを知ったからだ。同じ気持ちのヒロシは、闘士と有衣子の、そして自分と有衣子のセンチメンタル・ジャーニーは終わったと思う。と同時に、それぞれが愛の王国をめざす“ほんとうの旅”に出る日がくるのだろうか、と自問する。

田辺聖子は昭和3年、大阪生まれ。女学生の頃から小説を書き始め、昭和31年「虹」で大阪市民文芸賞、39年には「感傷旅行」芥川賞受賞。ユーモアあふれた絶妙な文体で大阪の庶民を描き続けている。また、エッセイ、評伝のほか「源氏物語」「古事記」など古典の現代訳とそのテリトリーは幅広い。


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【モーション】  [obsolete]

 

『……彼女との結婚について聞かれたら、「彼女は利口な女だから、結婚を口実に楽団を退くつもりで自分にモーションをかけて来たのだ。最近になって自分にもそれがわかったけれど、落ち目になりかかった女を捨てるのは寝ざめが悪いから、彼女から正式の申し入れがあれば受け入れるつもりでいる」っていうようなことを言ったらしいわ』
(「黒いリボン」仁木悦子、昭和37年)

「モーション」motion 意味は〔運動、活動、行動、動作〕などだが、この頃使われていたのは、もっと具体的な意味で、主に異性に対して「自分をアピールする」とか「言い寄る」「口説く」といった意味に近い。現代で言えば、“ナンパ”も「モーション」のうちだろう。いまでも“逆ナン”があるように、「モーション」も男から女への一方通行ばかりではない。曽野綾子の「春の飛行」(昭和32年)には
〈……男っていうものは……女にモーションかけられたからって、なびくもんじゃない〉という描写がある。
こうした意味で使われていたのは戦前からで、昭和5年の“モダン用語事典”にはそうした意味では書かれていないので、それ以降からだろう。用法は上の“引用”にあるように、「モーションをかける」という言い方で使われた。「モーション」だけに、牛の小便だなんて、冗談にもなったほどだが、近年はあまり耳にしない。というより、昭和でも40年代に青春を送った若者たちは、先輩の話で耳にすることはあっても、自らは使っていなかったのではないだろうか。

仁木悦子(本名、大井三重子)は、58歳で生涯を閉じているが、その間、病気との闘いだった。3歳で胸椎カリエスを発症し、寝たきりの生活がはじまる。不孝は病気だけではない。7歳のときに父・光高、13歳のとき長兄・栄光、15歳で母・ふくをそれぞれ亡くしている。いずれも戦時中のことだった。そうした暗い時代にあって、病身に加えて度重なる家族の不孝という試練を支えたのは、学校へ行けない妹に家庭で勉学を教えた次兄・義光の存在だった。17歳で終戦を迎えた三重子は疎開先の富山から東京へ戻り、義光の家族とともに生活する。「黒いリボン」まで続く仁木兄妹シリーズは、そうした兄への感謝と尊敬の意味合いを含んでいると考えられないこともない。
そして、25歳から童話を書き始め、2年あまりで「母の友」「婦人朝日」といった雑誌に作品が掲載されるまでになる。その頃から推理小説への希求はあったようで、28歳で「猫は知っていた」をかき上げ、翌年、同作品で江戸川乱歩賞を受賞する。仁木悦子というペンネームを使い始めたのはこの時から。その後、多くの推理小説および童話を書き上げていくのだが、その間も病気との闘いは続いていた。
数度の手術により、ようやく車椅子での生活が可能になったのは30歳のときだった。悦子の人生のハイライトともいえる時代で、34歳で療養所で知り合った後藤安彦と結婚している。寺山修司と親交を持ったのも療養所時代だといわれている。
病気というハンデを背負いながら奥の作品を残した仁木悦子だが、たんに闘病と小説の世界だけに生きていたわけではない。自ら女流推理作家団体を立ち上げたり、動物愛護の団体を結成したり、医療問題で抗議の座り込み参加したりと、社会人としても精いっぱいの活動をし、58歳の生涯をまっとうしたのである。


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【黒塗りのルノー】 [obsolete]

 

『……中古になりかけている黒塗りのルノーだ。水原夫妻が欧州への旅にのぼったときには、まだわりかた新しかったのだけれど、そのあとで私たちがだいぶ乗り回したのだ。……水原夫妻は、帰ってきたら今後はキャデラックか何か、でっかい奴と替えるつもりらしいから、ルノーを乗りへらしたからといって怒られる気づかいはない。』
(「黒いリボン」仁木悦子、昭和37年)

「ルノー」は昭和20年代後半から30年代後半にかけて日本を走り回った小型自動車「ルノー4CV」のこと。昭和28年、日野ヂーゼル工業がフランスの国営ルノー公団と技術提携を結び、その年の3月に発売された。日本の国産自動車が隆盛を極めるのは、昭和30年代以降で、それまでは、日野-ルノー、日産-オースチン、いすゞ-ヒルマンミンクスのように外国車と提携する国内メーカーが多かった。
日野ヂーゼルも昭和35年には国産のコンテッサを発売し、39年にはルノーとの提携を解除し生産を打ち切った。昭和37年に発売され一世を風靡した軽自動車スバル360はどこかルノーを彷彿とさせた。
昭和30年代、“神風タクシー”なる言葉が新聞や雑誌の紙上を賑わしたが、この「ルノー」が、よくそのやり玉に上げられていた。ちなみに神風タクシーとは、売上げを上げるために、スピード違反や乱暴な運転をするタクシーのことである。
昭和も50年近かった頃、わたしの友人がルノーに乗っていた。生産されなくなってから10年経っても走っていたタフな車だが、当時としてはめずらしい車種で、他にほとんど目にすることはなかった。ちなみにそのルノーは黒塗りではなく、グリーンだった。

「黒いリボン」「猫は知っていた」からはじまった仁木兄妹シリーズの4作目、最終作品。
音大生・仁木悦子はふと再会した先輩・国近絵美子に招かれ、田園調布の家を訪問する。彼女と夫で陶器会社を経営する国近昌行の間には二人の子供がいた。2才の息子と1才になったばかりの娘が。また、国近氏の弟の高校教師、妹で出戻り小説家が同居していた。そこで悦子は、2才の息子の誘拐事件に遭遇する。犯人は300万円の身代金を要求してきた。
悦子はいつものように兄で大学の植物学を専攻している雄太郎の協力を得て、事件の謎解き、犯人捜しにとりかかるのだった。夫婦の不仲、吝嗇の兄と頭のあがらない弟、そして得体の知れない女流作家。そうした、複雑な家族関係を背景に、誘拐事件は殺人まで引き起こし、予想外の展開でクライマックスへと向かう。
仁木悦子は昭和3年、東京生まれ。3才でカリエスにかかり闘病生活を余儀なくされる。戦後、宮沢賢治の影響で童話を書き始める。本名の大井三重子で雑誌に掲載される。昭和31年、推理小説「猫は知っていた」を発表。翌年江戸川乱歩賞を受賞。日本の“アガサ・クリスティー”ともいわれ、その後の推理小説ブームの一翼を担う。昭和61年に腎不全のため逝去。享年58歳。


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【死の灰】 [obsolete]

『「わたしたちが蒲郡に向かった日に、灰が降ったんですのね」
 そう彼女は複雑な表情で杉原に言った。灰というのはビキニ環礁の灰のことであった。杉原もその朝新聞を開いて、その記事を読んで驚いていたところだった。
「あの自動車の屋根にも降っていたんでしょうか」
 藍子は言った。
「さあ」
 杉原は、あの浮き浮きとはしゃいでいた自動車の中の藍子を思い出し、あの明るい藍子の乗っていた自動車の上に、死の灰が降ったとはどうしても考えられなかった。』
(「花粉」井上靖、昭和29年)

「死の灰」とは、昭和29年3月1日にアメリカが太平洋のビキニ環礁で行った水爆実験によって降った放射能を含んだ灰のことである。それから2カ月あまりのち、日本全土に降った放射能雨(死の灰を含んだ雨)が大問題になった。子供たちまで放射能とかストロンチウム90だとかガイガー・カウンターという言葉を知るようになった。それほど大きな問題になったのは、当時ビキニ環礁付近で操業中だったマグロ漁船“第五福竜丸”が被爆したからである。そのうち乗組員の久保山愛吉さんが原爆症で亡くなった。終戦から10年も経たずして「あやまちは繰り返しません」という誓いは破られた。当時、マグロはもちろん野菜や果物、さらには飲み水まで放射能汚染が心配された。この事件によって原水爆禁止運動がさらに広がっていったといわれる。
「花粉」が発表されたのは昭和29年の7月。水爆実験から4カ月あまり。井上靖は元新聞記者だけあって、トピカルな話題をさっそく作品に取り入れている。

「花粉」は別冊文藝春秋に掲載された井上靖の短編。
別居中の藍子が夫との離婚話に決着をつけるため話し合いをしている間、その恋人である画家の杉原は、彼女の故郷の渥美半島にある親戚の家へ逗留していた。藍子の夫が嫉妬深く、杉原がいてはトラブルが起きかねないという彼女の配慮からだった。逗留先には60代の老人と、10あまり下の妻が暮らしていた。老人は若い頃から株と女におぼれ、今では田畑家屋を失くした男だった。不器量な妻は、長年それほどの仕打ちを受けながら、毎朝、夫が仕事に出かける時、姿が見えなくなるまで合掌し、頭を下げ続けるのだった。それが杉原には不思議だった。
しばらくして、藍子が逗留先にやってきた。離婚の件は万事うまくいったようだ。杉原が老人と妻の話をすると藍子は、「放蕩して家に寄りつかなかった御主人が初めて家に居着いているんです。あの人にとって今が一番仕合わせな時ではないかしら……」と言い、「どうかこの仕合わせが逃げませんように」と祈っているのだと言うのだった。そういえば合掌している時のあの妻は仕合わせそうな顔をしていた。杉原はそう思った。
これから新しく夫婦になろうとする杉原と藍子の二人と、年を経てようやく結びついた老夫婦の対比がおもしろい。


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【芥箱】 [obsolete]

 

『男の手紙や写真を焼いて行くうちに、読んでみたくなったりした。窓を明けて、煙と匂いが出て行くのを待つ時間が、むやみと長く感じられた。火鉢にいっぱいになってしまった黒い灰を塵取(ちりとり)に取って、表の芥箱(ごみばこ)に捨ててくるまでは、気が落ちつかなかった。』
(「花影」大岡昇平、昭和36年)

「芥箱」gomibakoは昭和30年代後半まで、どこの家庭にもあった“家具”だった。
現在ゴミの収集といえば、ほとんどは半透明のポリ袋に入れて決められた集積所へ出す。この方式がはじまったのは平成になってから。ゴミ袋もはじめは、丈夫な紙製だったり、黒いビニール袋だったり、いろいろ紆余曲折があった。結局、中味が有る程度識別(危険物がないかいどうか、あるいは決められたゴミかどうか)できる現在のものになった。決まるまでには、ゴミ袋に氏名を明記するとか、消却に負担の少ない炭酸カルシウム入りの袋(効果を疑問視する意見の方が多い)にするなど少なからず迷走があった。
そんな、ゴミの分別あるいはプラスチック容器などほとんど無かった時代、ゴミの収集は各家庭の家の前や横に置かれた「芥箱」を介して行われた。「芥箱」には黒く塗られた木製のものと、コンクリート製のものがあった。大きさは高さ横幅ともに1メートル足らずで、小さな子供だったら隠れんぼに使えるほどのもの。木製のものは颱風で道路が冠水すると流されることがあったので、30年代後半はコンクリート製のものに代わっていった気がする。
その「芥箱」へ紙くずでも生ゴミでも何でも入れてしまう。したがって収集車(大八車だった)が来た後はその汚れと臭気を水で洗い流さなければならなかった。
各家庭から「芥箱」が撤去され始めたのは昭和39年の東京オリンピックが開催される数年前から。外国から“お客さん”が来るから掃除しよう、というわけだった。
「芥箱」に代わって登場したのがポリバケツ。いってみれば、庶民は家の外にあった「芥箱」を屋内あるいは敷地内へ引き取ったことになる。ポリバケツはずいぶん長く使われた記憶があるが、やがて現在のようなゴミ袋に代わってゆく。

「武蔵野夫人」のヒロイン・道子も睡眠薬で自殺するが、この「花影」のヒロイン・葉子も同様である。
「花影」では最終章すべてが、葉子の自殺に至るまでの意識の流れと行動で綴られている。彼女の自殺までの道筋は冷静かつ計画的である。日曜日に自殺しようと決め、その数日前から準備をはじめる。3日前には遺書を書き終わり、部屋の整頓、食物も「大根の尻っぽひとつ残らないように」考えて食事の用意をする。上の“引用”もその準備のひとつ。もちろん前日の土曜日まで店には出ている。そしてその夜、店がはねたあと同僚とレストランに行き、ハヤシライスと大きなビフテキをたいらげてしまう。
そして日曜日の午後、風呂屋へ行き、からだの隅々まで洗い、新しい下着をつける。夜、最後の煙草を1本のみ、そのあと睡眠薬を少し飲んで眠る。目覚めると月曜の朝。もう一度化粧をして、腿と足首を腰紐で縛り、今度はすべての睡眠薬を飲み干す。
もちろん、そこに“幸福感”はないが、悲壮感や“狂気”(唯一、大食になることが狂気といえなくもないが)もない。“こと”はまるで日常の決まり事のように淡々とすすめられていく。そのことが反対に、読み手のヒロインに対するシンパシーを強め、それまでの葉子の人生と重なり合って哀しみが伝わってくるのである。


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【トリスバー】 [obsolete]

 

『水割りウィスキー二杯で、千円足らずの勘定を、お釣りも細かく持って帰る客を、トンボで大事にしてもらわねばならぬ。トリスバーよりいくらか高いぐらいの勘定で、銀座の女給の手を握り、ドライやカマトトのお喋りを聞かないと、家へ帰る気にならない年齢と懐ろ加減に達した男たちをつかまえるのを、方針とするはずなのである。……』
(「花影」大岡昇平、昭和36年)

「トリスバー」とは、その名からも想像されるようにサントリーのウイスキーを飲ますバーのこと。第一号店は昭和25年池袋にオープンした。断然の人気はハイボールで、それしか飲ませない店もあったとか。やがてチェーン店化していき、最盛期の昭和30年代には全国で3万5000店あまりになったそうだ。昭和32年の井伏鱒二「駅前旅館」の中にも出てくる。
カウンターだけで7、8人入れば満席という小さな店が多く、もちろんホステスさんなどいない色気抜きの社交場。どの店も「トリスバー」の看板を掲げたのだから、サントリーとしても大変な宣伝効果があったはず。
トリスウイスキーといえば、思い浮かぶのが“アンクル・トリス”。サントリーの宣伝課にいたイラストレーター・柳原良平が作ったキャラクター。私ごとだが、中学生時代んなぜか“アンクル・トリス”と呼ばれていた。柳原良平が同僚の開高健と一緒に考えた“アンクル・トリス”の性格は〈酒好き、小心者、少しエッチ、正義感が強い、喜怒哀楽を表わさない、神経は細やか…〉などと書かれている。……うーん。わたしと似てるようでもあり、似て無くもあり……。

「花影」kaeiは、昭和30年代半ばに大岡昇平によって書かれたいわゆる“女給もの”。
主人公の葉子はもうすぐ四十路に手が届こうという銀座のバーのホステス。最近囲われていた男と別れて、また店に出ることになったのだ。オーナーは葉子のかつての後輩。マダム待遇とはいえ、30前のちゃんとしたマダムもいる。17のときからこの世界に入り、古くからの馴染みの客もいる葉子だが、いつまでも若いホステスたちと一緒に働いているわけにはいかない。求婚する男もいる。若いテレビのプロデューサーとも浮気する。そして、葉子に旅館を任せたいと思う古い馴染みの客も現れる。しかし、どれもこれも葉子の心を決定的に奪うまでには至らない。葉子が最も信頼しているのは、ひとまわりも上の美術品の鑑定家の高島。葉子がこの世界に入ったときからの客で、いわゆる金持ちのボンボン。ひと頃は仕事も順調だったが、時代が変わり、すっかり零落してしまっている。
ホステスに近づく男はいずれも躰が目当て。唯一の例外が高島なのだ。高島は葉子の手すら握ったことがない。葉子が高島を信頼しているのは、自分と接する態度が、堅気の女性と接するときと代わらないから、そして、どんなときでも相談にのってくれるからだった。高島はいわゆるダメ人間で、臆面もなく葉子に小銭を借りに来る。そんなとき、嫌な顔をするどころか、ふたたびホステスとして働いて、高島の面倒をみてもいい、ぐらいに考えているのである。葉子は生まれも育ちも複雑で、父親の顔は知らない。高島に父親のイメージを見ていたことは十分想像できる。

しかし、その高島も葉子の命を長らえさせる生きがいにはならなかった。葉子にはなにがなんでも、何処かへ収まろうという“生存本能”が欠けていた。それでも、40歳になろというホステスが、そのままでいられるはずはない。どこか別の場所へいかなくてはならなかった。それが死の世界だった。
葉子は周囲の男たちから愛された。しかしその誰もがどうしても葉子とともに生きたいとは思わなかった。男たちにそう思わせない雰囲気があったのかもしれない。

「花影」のヒロイン・葉子は実際に自殺した銀座のホステスをモデルにしたと言われている。作者・大岡昇平もその店に通った客のひとりだそうだ。映画俳優などとも浮き名を流した人気ホステスで、やはり店の常連だったのが作詞家の佐伯孝夫。彼がそのホステスの死後、彼女を偲んで作ったのが「江梨子」だとも言われている。昭和36年、川島雄三監督によって東宝で映画化。葉子役は池内淳子。その他佐野周二、池部良が出演。


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【姦通罪】 [obsolete]


『もちろん、姦通罪もあった。姦通の罪が重かったのも、そうした堕胎が不可能な仕組みと関連していたのかもしれない。
 玉江が蒼ざめたのは、子を産まねばならぬということより、嘉助にそのことをどのようにして説明しようかという恐怖であった。』
(「越前竹人形」水上勉、昭和38年)

「姦通」とは、結婚をしている人間が、他の男あるいは女と性的な関係をもつことである。したがって、これは夫にも妻にも該当する。いまで言えば“不倫”ということになる。ところが「姦通罪」となると話が違ってくる。対象になるのは、なんと女すなわち妻だけ。
明治13年に布告された「姦通罪」は太平洋戦争が終わった2年後の昭和22年に廃止されるまで70年近く続いた。これは親告罪で“妻を寝取られた”夫の告発によって取り上げられる。有罪と認められれば懲役2年以下の判決が下った。浮気相手の男も同罪。しかし、江戸時代はもっと厳しく“不義密通”といって、当事者の男女はもちろん仲を取り持った人間まで死罪に処せられたというからコワイ。

さすがに戦後、“民主主義”の世の中になると「それは男女同権からみても不公平だろう」ということになった。しかし「それなら、男の方にも姦通罪を適用しよう」とはならなかった。既得権は守らねばならない、と考えたかどうか。では、男も女も大ぴらにできるかというとそうもいかない。「僕もやるから君もやれ」で夫婦仲良く? お互いに不倫生活を楽しんでいればいいが、たいがい不倫はどちらか一方。姦通罪はなくなったが、不倫で離婚となれば、そのぶん慰謝料上乗せなんてことにもなりかねない。法律用語では立派な“不貞行為”という言葉が残っている。

しかし、近松「大経師昔暦」あるいは漱石「それから」、志賀直哉の「暗夜行路」を出すまでもなく、姦通、不倫はドラマティックな世界だったし、それは現在も変わらない。人々が社会倫理で不倫を許し難きものとしながらも、芸術の世界でそれを認めるのは、不倫が反社会的行為であると同時に、人間の持っている本質的な行為であることを知っているからである。

水上勉の描く女性は、主人公の男性よりも印象的である。この「越前竹人形」の玉江も例にもれない。
玉江と嘉助の関係はファンタジーの世界である。玉江に“母を見る”嘉助は絶対に同衾しようとしない。嫁に来た当初、拒絶されて蒲団の中で涙をこぼすこともあった玉江だが、いつしか、嘉助は自分のほんとうの子供ではないか、という気さえ起こってくるようになる。実生活ではあり得ない。それだけに玉江の心は美しい。
昔の男に犯され、子供を身ごもった玉江は、街へ行って堕胎しようとする。それはいまの自分の幸福を守るためではなく、嘉助を悲しませないためである。街で堕胎の処置をしてくれる医者を探しているうちに、幸か不幸か流産してしまう。嘉助に気づかれずに家へ戻ってくるのだが、その三月あまり後、肺結核で死んでしまうのである。
読者は、玉江がはからずも流産してしまう場面で胸をなでおろす。夫に“真実”を語らないまま死んでいく玉江に共感し、後を追うように縊死する嘉助にさえ賛美を送ってしまうのである。それが水上勉が創りあげた男と女のファンタジーの世界なのである。


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【タタキ】 [obsolete]

 

『……嘉助はタタキの、だだ広いがらんとした土間に入った。ここも赤や青の色ガラスの扉だった。外燈の灯をうけて、タタキは色模様にそまりはじめていた。嘉助はタタキからうす暗い廊下のほうをみた。と、この時、嘉助は息をのんだ。そこには玉江が佇んでいたからである。……』
(「越前竹人形」水上勉、昭和38年)

「タタキ」とは三和土と書く。土間のことである。昔は、広い上がり口や炊事場などは「タタキ」だった。
その語源は、「叩き土」から来ている。また、漢字の“三和土”は当て字で、その昔、「タタキ」は土と石灰と苦汁(にがり)の三種の材料を混ぜて作ったことによる。実際に混ぜた土を叩いて固めた。“和”には〈混ぜる、調合する〉という意味がある。“三和土”という言葉は江戸時代から使われていたようだ。
昭和になり、コンクリートが普及するようになって「タタキ」も見られなくなった。そのコンクリートの土間を「タタキ」というのは昔の名残り。古い農家では、納屋や作業場などにまだ残っている所があるかもしれない。
“引用”の場面は、嘉助が玉江の働く芦原の遊郭“花見屋”を訪ねたところである。この物語の時代、大正の初め頃は、遊郭はもちろん商家の入り口はほとんど「タタキ」だった。

水上文学の特徴のひとつに、“不幸な女と疎外された男の悲劇”がある。とりわけ、コンプレックスを持った男がよく描かれる。
この「越前竹人形」の主役、嘉助の父は「四尺二、三寸しかない小男」で、嘉助自身も「そっくりの容貌」と書かれている。四尺二、三寸といえば、130センチあまりである。「小柄な軀を笑われながら通学」した嘉助はだんだん外へ出なくなり、父親の竹細工を修得していったのである。
これで思い出すのが「雁の寺」の少年僧・慈念だ。彼もまた、小柄で、頭でっかちという容貌に加え、捨て子という宿命を背負い、暗い少年時代を送ってきたのだ。また「五番町夕霧楼」では、国宝の鳳閣寺を炎上させて自殺する学生僧の櫟田正順は、ひどい吃音だった。

そして、この三人はいずれも、唯一といってもいい“理解者”がいる。それが「雁の寺」の里子であり、「五番町夕霧楼」の夕子であり、この「越前竹人形」の玉江だ。里子は寺の住職に囲われてる女。夕子と玉江は娼婦である。
肉体的なコンプレックスをもつ男たちはいずれも、彼女たちと接することでつかの間の至福を得るのだが、やがてその代償というにはあまりにも過酷な運命によって破滅させられていくのである。慈年は逃亡し行方知らず、正順と嘉助は自ら死を選ぶ、というように。
水上文学に登場する女は哀しいけれど、男だって悲しいのである。これらの話の男女の関係は、ラブストーリーのひとつのセオリー“美女と野獣”型でもある。


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【ケット】 [obsolete]

 

『この石碑が出来てまもないある日の、小雪のふる午(ひる)すぎ、嘉助が、父の生前坐っていた仕事場の「座」に火鉢をおき、小柄な軀をすくめて、無心に鳥籠つくりの轆轤(ろくろ)をまわしていると、小舎の入口からケットをかぶった三十近い年頃と思われる和服にもんぺ姿の女が覗いていた』
(「越前竹人形」水上勉、昭和38年)

「ケット」とはブランケットBlanketの略で、毛布のこと。明治にできた言葉で、当時の辞書には〈羽おりにも成、敷物にも成、ふとんにも成〉と書かれている。“引用”の「ケット」はまさにその羽織の用途だが、羽織と言うよりはむしろフードあるいはオーバーの役割をしていた。雪国の女性のファッションで、その昔の筵や蓑が発展したものだろう。
「越前竹人形」は大正時代初めの話だが、その頃はもちろん、昭和30年代でも北国の冬になると、ケット姿を見ることができたのではないか。同じ水上勉「越後つついし親不知」は昭和12年の話だが、やはり「黒いケットを着た女」という描写がある。
ちなみに、これもいまは廃語になってしまったが、“赤ゲット”とは東京見物へやってきた“お上りさん”のことで、オシャレのつもりで皆が赤い毛布を被っていた(どうも信じがたいが)ところからその名がついた。また都会人でも外国事情を知らずに洋行する人間に対しても使われた。ケット同様明治に生まれた言葉。

「越前竹人形」は竹細工師と、その男に見初められた娼婦の哀しくも美しいラブストーリーである。
父親の技術を受け継いだ嘉助は、竹林に囲まれた村で、竹細工をして生計をたてていた。母は嘉助が3歳のときに死に、21歳の初冬、父も亡くなった。そしてその直後、芦原から折原玉江という女性が父の墓参りに訪れる。“引用”にある場面がそうで、これが嘉助と玉江の出逢いである。玉江は嘉助の父親が馴染みにしていた芦原の娼婦だった。のちに嘉助は玉江が死んだ自分の母親に似ていることを知る。父もまたその面影を求めて玉江に魅かれていたのである。
初めて会ったときから玉江に魅かれた嘉助は竹細工を問屋へ納めに行くたびに彼女の店へ上がった。しかし、決して体にふれようとはしなかった。彼は玉江のために精魂こめて竹人形をつくり、それを手渡した。それは初めて見たケット姿の玉江がモデルだった。そして、思い切って「嫁さんになってくれんでもええ、お母さんになってくれたら……」と10以上も離れた女に求婚するのだった。
それからひと月後、嘉助は丘の上から村の一本道をゆっくりやってくる馬車を見下ろしていた。そこには、桐箪笥や鏡台などの嫁入り道具が積まれ、立て膝をしてタバコをすっている玉江の姿があった。これが「越前竹人形」前半のクライマックスである

京都、芦原と娼妓として暮らしてきた玉江にとって、嘉助との生活は天国にいるような気分だった。嘉助も自分のつくる竹細工が伝統工芸品として認められていく。つつましいが、幸せに充ちた二人だった。ところが皮肉なことに、嘉助の作品が世に知られるようになることが、引き金となり、後半の悲劇がはじまっていくのである。

「越前竹人形」は昭和38年10月、大映映画として公開された。監督・吉村公三郎、主演・若尾文子山下洵一郎


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【金輪際】 [obsolete]


『「……世界中で一番汚い女! ああ、いやだ、いやだ、あんな女がこの椅子に坐ったなんて。……郁雄、はっきり言っておきますけど、私はあんな女と親戚になるのは絶対にイヤですよ。金輪際おことわりよ」
 郁雄はポカンとしてきいていた。彼は母のこの言葉が、どれだけ自分に重大な結果を及ぼすか、まだはっきり気づいていなかった。』
(「永すぎた春」三島由紀夫、昭和31年)

【金輪際】konrinzaiは「決して~しない」「絶対に~ない」など、強く否定するときに用いられる。漢字の字面から想像されるように、もともとは仏教用語。仏教では大地の最下底に〈金輪、水輪、風輪〉と3つの輪があるという。そのうちの金輪のさらに最下端つまり“際”を金輪際という。【金輪際】は極限であり、その下は何もないということから、強い否定の言葉として使われるようになった。現在でも年配の人の会話の中で聞くことがある。若い人は聞いたことがあっても使わないだろう。
言葉そのものは「平家物語」にも出てくるというからかなり古い。ただ、かつての使われ方はやや異なっていたようだ。たとえば、「こんりんざいの敵」「金輪際きいてしまわねば」というように、〈最も~の、極限の〉あるいは〈徹底して、どこまでも〉というような意味で用いられた。

「永すぎた春」で郁雄は女流画家の誘惑をなんとか逃れたが、今度は百子の番。郁雄の学友の吉沢が百子に岡惚れして、なんとかものにしようと計画するのだ。
百子には小説家かぶれの兄がいる。その兄が盲腸炎で入院し時、親切にしてくれた看護婦にひとめ惚れして、こちらも婚約までこぎつける。しかし、その看護婦は母と貧しい二人暮らし。その母が百子と郁雄にヤキモチを焼いて、百子と吉沢をくっつけようと画策する。そのことが発覚して、“引用”にあるように、郁雄の母が激怒するのである。結局百子も吉沢の誘惑から逃れるのだが、今度は兄の結婚が障害となってくる。ところが看護婦の恋人を訪ねた兄はそこで、その母娘と喧嘩になり、婚約を解消してしまう。百子は、それが自分と郁雄の幸せを願った兄の好意だと受け取った。それを聞いた郁雄は兄さんにすまないなんて思っちゃだめだと諭す。百子も「誰にもすまないなんて思わない。幸福って、素直に、ありがたく、腕いっぱいにもらってもいいものなのね」と言って郁雄に肩を抱かれる。ふたりはここでも他人の母娘を置き去りにして幸福へ向かって突き進む。ふたりに幸あれ、である。


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