TOKYO●東京ワルツ① [a landscape]
「○○東京」、「東京○○」という歌がいかに多いかということは前々回ですこしふれましたが、そのなかに楽曲の様式やリズムの種類がくっつくこともよくある。
たとえば、これも再三例にだしますが流行歌の嚆矢「東京行進曲」(佐藤千夜子)がまさにそう。
ほかにも、戦前ならば「東京ラプソディー」(藤山一郎)があるし、「東京セレナーデ」(二葉あき子)(山口淑子の「東京夜曲」(セレナーデ)もある)、あるいは「ルンバ東京」(由利あけみ)などが。
戦後ではなんといっても「東京ブギウギ」(笠置シヅ子)。
また他のご当地ソングでも人気のブルースは「東京ブルース」として戦前の淡谷のり子、戦後の西田佐知子盤がある。
そして今回ピックアップした「東京ワルツ」も戦後の歌。
「東京ワルツ」というタイトルの歌はいくつかあるようで、もっとも古いのは昭和27年に洋楽カヴァーの「テネシー・ワルツ」をヒットさせて“ワルツの女王”になった(かどうかしらないけれど)江利チエミが翌昭和28年にキングでレコーディングした「東京ワルツ」。
作詞作曲は、「憧れのハワイ航路」(岡晴夫)や「赤いランプの終列車」(春日八郎)の作曲で知られる江口夜詩。
楽しい思い出の追憶ソングで、聴いてわかるとおり、あきらかに「テネシー・ワルツ」の影響が感じられます。
その翌年、つまり29年に発売されたのがコロムビアの「東京ワルツ」。
うたったのは、コロムビアの新人コンクールで優勝した千代田照子。
低音で感情過多とも思える泣き節が印象的です。
ただ歌手活動は短かったようですぐに引退(結婚でもしたのかな)。
なんでも、彼女の子供たちは芸能活動をしていた(いる?)ようで、そのうちのひとりがワイルドワンズに後年加入した渡辺茂樹だと、どこかのブログに書いてありました。
作詞は西沢爽。まだ新人の頃で本名・西沢義久のクレジットで。
作曲は戦前からのコロムビア専属で、昭和26年久保幸江のお座敷ソング「ヤットン節」がヒットしたレイモンド服部(服部レイモンドとも)。ハーフでもなんでもなく純日本人で本名は服部逸郎。
NHKのアナウンサーから作曲家になった異色で、30年代には小坂一也の「ワゴン・マスター」がヒット。中島そのみ、コロムビア・ローズ、富永ユキ、並木路子、前田通子らに楽曲を提供した。
オールドファンなら懐かしい小坂一也のTV主題歌「無敵のライフルマン」も服部の作。
そして、この「東京ワルツ」はそれから7年後の昭和36年、当時のリバイバルブームにのって井上ひろしがカヴァー。そこそこヒットした。
当時の東京の雰囲気や恋人事情が彷彿されるフェイヴァリットソング。
そのあとも藤圭子やキムヨンジャ&鳥羽一郎で「東京ワルツ」がつくられましたが、もう1曲特筆したいのが、由紀さおりの「TOKYOワルツ」。
耳にのこって思わず口ずさんでしまう曲は、昭和50年代のメロディーメーカー・宇崎竜童による。失恋女の愚痴を口当たりの良いストーリーに仕立てたのがなかにし礼(休業中ですが、だいじょうぶなのでしょうか)。
個人的には世界の由紀さおりのなかにあっても十指に入る名曲です。
そういえば、以前、東京駅の発車チャイムに「東京ワルツ」がつかわれていた、という話を聞いたことがあるのですが、どの「東京ワルツ」なのでしょうか。実際に聞いたことはないのですが。
それはそれとして、千代田照子の「東京ワルツ」をリメイクした井上ひろし。
ごぞんじの方もいるでしょうが、ロカビリー出身で水原弘、守屋浩とともに“三人ひろし”と呼ばれていました。甘いマスクで女性ファンが多かった。
三人それぞれがロカビリーの嵐が去ったあと、歌謡曲でヒット曲をだしたのだからたいしたもの。
井上ひろしの最大のヒット曲はこの「東京ワルツ」ではなく、やはり戦前のリバイバルの「雨に咲く花」。そのほかにも「並木の雨」、「別れの磯千鳥」、「山のロザリア」、「幸せはここに」など、リメイク盤うたっていました。
もちろんオリジナルでも「地下鉄(メトロ)は今日も終電車」とか「煙草が二箱消えちゃった」などの小品がありましたが。
残念ながら44歳で早世。
生きていれば70歳をちょい越えたところ。水原弘も42歳の若さで。
夭折した人間というのは、俳優・歌手にかぎらず悲哀感がついてまわりますが、太く短くというのであれば、それはそれで。
「長生きも芸のうち」というけれど、それはあくまで健康であってのこと。半年前に認知症で寝たきりの母親を看取った経験からいいますと、少なくとも自分に関しては延命治療は絶対にNO。
そろそろだなと思ったら、それこそ内外のワルツなどを聴きながら、あちらの世界へズンタッタズンタッタとフェイドアウトしていきたいものだと思っております。
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