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喫茶店●ジャズ② [a landscape]

ジャズ喫茶2.jpg
♪ABC XYZ 若い二人はジャズ喫茶
 ひとりの 俺の行く先は
 信号灯が 知ってるはずさ
 恋は苦手の 淋しがりやだ
 いかすじゃないか 西銀座駅前
(「西銀座駅前」詞:佐伯孝夫、曲:吉田正、歌:フランク永井、昭和33年)

前回のジャズ喫茶では「素敵なあなた」だけで終わってしまいましたが、今回は日本の流行歌の話を少々。

その前に、少し前の話の補足をしておきますと、そもそも「ジャズ喫茶」とはふつうジャズのレコード(いまは他の音源を使っているところもあるかも)を流している喫茶店のことで、おそらく日本独自のものではないでしょうか。

日本最古のジャズ喫茶は横浜野毛にあった「ちぐさ」だそうで、オープンは昭和8年だとか。つまり戦前からジャズ喫茶はあったわけです。

ご存じのとおり日米戦争によって一時空白期間ができますが、昭和20年以後ふたたびファンは自由にジャズを聴くことができるようになり、ジャズ喫茶もまた復活するわけです。

東京では戦後まもなく有名な「イトウ」が上野にオープンします。
そして、ジャズ喫茶が隆盛をきわめるのは昭和30年代から40年代にかけて。大学生あるいは20代の若者たちがジャズにとり憑かれていったのです。

ところが、そうした薄暗い喫茶店で身体を揺らしながらジャズの海を泳いでいた青年よりも少し若い少年少女たちもまた“ジャズ音楽”に酔い痴れていいたのです。さらに激しく。

つまり上にのせた「西銀座駅前」の歌詞にあるようなスイングあるいはモダンジャズやビバップとは別の“もうひとつのジャズ喫茶”があったのです。

レコードで本場のジャズを聴くのもいいけれど、できることなら生演奏が聴きたい、という青年だって。そんなファンのために銀座みゆき通りにできたのが「テネシー」。
これぞ“もうひとつのジャズ喫茶”の第一号。昭和は28年のこと。

そこでは当初、その名のとおりジャズバンドが出演していました。当時はビッグ・フォージョージ川口(ds)、中村八大(p)、松本秀彦(ts)、小野満(b))がアイドル的人気をほこり、ほかにも渡辺晋とか、鈴木章治とか、穐吉敏子とか、守安祥太郎とか、吉屋潤、海老原啓一郎などなどの面々が「ジャズ喫茶」で演奏していました。
大橋巨泉が司会をしていたというのも有名な話。

ところが出演するのはジャズだけかというとそうではなく、当時人気だったカントリー&ウエスタンやハワイアンのバンドも。
とりわけカントリーは、「テネシーワルツ」がヒットしたり、ワゴンマスターの小坂一也というアイドルシンガーが登場してちょっとしてウエスタンブームに。
そうなるとジャズ喫茶でもカントリーバンドを多く出演させるようになるのは商売の道理。

それでも「ジャズ喫茶?」というご不満もあろうとは思いますが、戦前からの習慣しで、カントリーだろうがポップスだろうがハワイアンだろうが、アメリカの音楽はすべて「ジャズ」なんて無茶苦茶なことをいっておりました。
昭和30年あたりまではまだそれが通用したということです。

そんなカントリーに母屋を占領された感のある「ジャズ喫茶」ですが、それからまもなく、具体的にいいますと1955年つまり昭和30年、カントリーもまた次なる新しい音楽に取って代わられることになるのです。

その年の夏、まさに若者が狂う季節に、日本でアメリカ映画「暴力教室」が公開されます。わたしも観ました(リアルタイムじゃないですよ)、シドニー・ポワチエがカッコよかった。

それまで日本で高校を舞台にした青春ものといえば、「青い山脈」に代表されるような進歩的な学生たちが旧習をうちやぶるという反抗ドラマというのが常識。
それが「暴力教室」では文字どおりのバイオレンスあり、レイプありで正真正銘のワルが出てくるのですからまさにぶっ飛びもの。

まぁ、その後の“荒れる教室”のルーツとでも申しましょうか。この映画を観て「ああそうか、俺たちも学校で暴れてもいいんだ、先公を殴っても構わないんだと“開眼”しちゃった中高生が出てきたことは想像がつきます。その当時、日本の不良中高生のあいだで飛び出しナイフが流行ったのはこの映画の影響があったのかも。

なにせPTAからのクレームで上映中止になったとかならなかったとかいうぐらいのスゴイ映画だったそうです。

その映画の中でうたわれていたのがビル・ヘイリーと彼のコメッツBill Haley & His Cometsの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」Rock Around the Clock。これが映画以上に衝撃的でした。とりわけ若いミュージシャンや音楽関係者には。
おそらくこれが一般的には日本のロックンロール初体験といってもいいのではないでしょうか。プレスリーの“日本デビュー”に先駆けること約半年のこと。

で、「ジャズ喫茶」も一夜にして(これは大袈裟だ)カントリーバンドからR&Rバンドに。当時はロカビリーなんていいました。
これはカントリーが追い出されて新たにロカビリーバンドが採用されたのではなく、カントリーバンドが一夜にして(まだいってる)ロカビリーバンドに変身してしまったのです。
だってロカビリーのルーツのひとつはカントリーなのですから。
それがミドルティーン、ハイティーンに大ウケ。

そのようにして銀座「テネシー」からはじまった「もうひとつのジャズ喫茶」は、ACB(新宿・銀座)、ニュー美松(銀座)、ドラム(池袋)、テアトル(渋谷)、新世界(浅草)などあちこちの繁華街に誕生し、やがて地方都市へと広がっていきます。

そんな「ジャズ喫茶」の中はどうなっていたのか。
ステージは? 座席は? と興味が湧きますが。もちろんわたしも行ったことはありません。どうしても知りたいという人は映画「嵐を呼ぶ男」「陽のあたる坂道」(どちらも石原裕次郎主演の日活映画)に出てきますので、DVDででも観てください。

そして、そんな「ジャズ喫茶」のなかからスターや人気バンドが出てきます。
それが平尾昌章とオールスターワゴンミッキー・カーチスとクレージー・ウエスト山下敬二郎とウエスタン・キャラバンなどなど。
そして平尾、ミッキー、山下はのちにロカビリー3人男なんていわれるようになったり。

彼らに続くのが水原弘、坂本九、ジェリー藤尾、守屋浩、かまやつひろし、佐々木功森山加代子飯田久彦弘田三枝子田代みどり、佐川ミツオ、鈴木やすし、ほりまさゆき、紀本ヨシオといった若きロカビリアンたち。

そして「もうひとつのジャズ喫茶」とほぼ時を同じくしてはじまった「ウエスタン・カーニバル」が昭和33年に「日劇ウエスタン・カーニバル」という一大イヴェントに発展し、3人男をはじめとするロカビリアンたちの聖堂となっていくわけです。

こうしてはじまった「もうひとつのジャズ喫茶」はロカビリーからカヴァーポップスへ、さらにはグループサウンズへと延命を続けますが、GSの衰退とともにその看板を下ろすことに。

しかし、その後もフォーク、ロックと時代が要求する音楽を生で聴きたいというファンは絶えることはなく、それに応えるようにさまざまな「ライヴハウス」が生まれていきます。
それはまさに、「もうひとつのジャズ喫茶」の流れをくむものであり、昭和20年代後半のカントリー&ウエスタンのバンド、あるいは30年代前半のロカビリアンたちが熱唱熱演した空間こそ、現在のライヴハウスのルーツなのです。

最後に気を取り直して? いま流行りのナゾかけをひとつ。
「ロカビリアン」とかけまして、
…………(この間10分以上、ここが本家と違うところ)
ととのいました。
「ロカビリアン」とかけまして、「キリスト教徒」とときます
(そのこころは)
「ミサのもとに集まります」
クズっちで~す。


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井口

急な書き込み失礼致します。BS-TBS制作部の井口と申します。
ブログに掲載されているアシベの写真を拝見させて書き込みをさせて頂きました。
弊社の方で、昭和の番組を取り上げておりまして、ジャズ喫茶の写真を探していたのですが、掲載されている写真は、MOMOさんがお持ちのものでしょうか。もし、MOMOさんのものでしたら、番組内で使用させていただけるかどうか確認させて頂きたいと思いまして。お手数ではございますが、iguchi@bs-tbs.co.jpへご返信頂けると幸いです。よろしくお願い申し上げます。
by 井口 (2011-05-08 09:43) 

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