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その名は●洋子 [the name]

桂木洋子.jpg

♪希望という名の あなたをたずねて 遠い国へと また汽車に乗る

 あなたは昔の わたしの思い出 ふるさとの夢 はじめての恋

 けれどわたしが 大人になった日に 黙ってどこかへ 立ち去ったあなた

 いつかあなたに また逢うまでは わたしの旅は 終わりのない旅

(「希望」詞・藤田敏雄、曲:いずみたく、歌:岸洋子、昭和45年)

 昭和40~50年代にかけて人気だった「陽子」だが、実は戦前から人気だったもうひとりの「ようこ」があった。

 例の某生保会社の資料によると「洋子」が「人気ベスト10」に入ってきたのが昭和6年。戦争真っ只中の17年にはそれまで15年間ナンバーワンを維持してきた「和子」を抜いて第1位に。以後戦後の25年まで、「和子」「幸子」とともに人気の三大ネームとして支持されることに。 

昭和30年代も人気だった洋子(女優に桂木洋子、南田洋子がいた)は、昭和41年でも第5位。その年新たに「陽子」が8位に入って“Wようこ”に。そして46年には「陽子」がナンバーワンになり、「洋子」はベスト10から姿を消すことに。新旧交代? 

「洋子」の「洋」はもともと「川」の意味だが、それが転じて「海」とりわけ「大海原」としてつかわれた。またそこから広々とした意味ももつように。もうひとつはやはり海から海外、つまり外国を意味することも。「西洋」、「洋行」などのように。人気になりたての昭和ヒトケタ時代はとてもモダンな名前だったのかもしれない。

ちなみに男でも「洋」(ひろし)、「洋一」というようにつかわれる。しかし男の「洋」の字が人気ベスト10に入ったことはない。

 昭和39年、「夜明けのうた」でレコード大賞歌唱賞をとり、紅白歌合戦初出場を果たした岸洋子は昭和10年生まれ。まさに「洋子」の人気が高まってきた時期に誕生している。東京オリンピックの年突然ブレイクした感のある岸洋子だが、それまでに大阪や東京でリサイタルを開くほどでキャリアは十分。 

山形県酒田市生まれの彼女は、芸大声楽科を卒業しクラシックの道を目指したが病気で断念。その後ピアフに魅せられて昭和34年ころから銀巴里などでシャンソンを歌いはじめ、35年にはイヴェット・ジローのうたった「たわむれないで」でレコードデビュー。 

40年にはエンリコ・マシアス「恋心」がヒット。続けてやはりマシアスの「想い出のソレンツァーラ」「わかっているの」もヒットさせ、シャンソン歌手としての知名度を不動のものにした。たくさんのシャンソンやカンツォーネをうたっているが、唯一彼女が自分で訳詞したのがピアフがうたって有名になった「群衆」金子由香利も“岸洋子ヴァージョン”をうたっている。 

「夜明けのうた」は岩谷時子・いずみたく作のジャパニーズポップスだが、そうしたオリジナルもいくつかうたっている。そのなかで大ヒットしたのが昭和45年にリリースした「希望」。この歌で2度目のレコード大賞歌唱賞を獲っている。作曲はやはりいずみたくだが、作詞は藤田敏雄

 藤田敏雄は、いずみたくとともに取り組んでいたミュージカルの演出家で作詞では雪村いづみ「約束」ブロード・サイド・フォー「若者たち」などがある。岸洋子のリサイタルの構成・演出はもちろんだが、そのほか佐良直美、今陽子、由紀さおりといった“いずみファミリー”はもちろん都はるみのリサイタルなどにも携わった。またテレビ番組の「題名のない音楽会」はスタートから長年にわたって構成を担当していた。 

「希望」はフォー・セインツやシャデラックスとの競作だったが、岸洋子盤がいちばん売れた。そういえば「夜明けのうた」ももともとはいずみたくのミュージカルの主演者・坂本九のために書かれたものだったが、こちらも岸洋子ヴァージョンでヒットした。

 歌のうまいことはもちろん華やかで存在感のあるシンガーであり、ときには「ラストダンスは私と」を山形弁でうたうなどユニーク面ももっていた岸洋子だが、デビュー前から病気との闘いだったそうだ。晩年は病気と協調しながらの歌手活動だったが平成4年、膠原病のために残念ながら59歳で亡くなっている。 

ではそのほかの洋子を。昭和40年代にヒットソングを出した歌手が3人いる。 

まずは「白馬のルンナ」内藤洋子東宝の看板女優候補だったが、GSグループ、ランチャーズ「真冬の帰り道」など)の喜多嶋修と結婚、あっさり芸能界を引退。女優の喜多嶋舞は長女。最近は芸能活動もしているらしい。唯一のヒット曲「白馬のルンナ」は作曲が演歌の大御所・船村徹、作詞は演出家の松山善三 

歌謡曲ではいまでもデュエットソングの定番となっている「新宿そだち」大木英夫とうたった津山洋子。こちらは芸名で本名は高橋浩子。一時、クラブやスナックを経営していたが、いまは夫(高樹一郎)とともに歌手活動をしているとか。ときおりTVの“ナツメロ番組”にも顔を見せる。 

昭和47年「四季の歌」をヒットさせたのが芹洋子作ったのは当時のフォークグループで「目覚めたときには晴れていた」をうたった伝書鳩のメンバー荒木とよひさ「つぐない」などテレサ・テンの一連の作品や「竹とんぼ」(堀内孝雄)「心凍らせて」(高山巌)の作詞家。芹洋子はNHKみんなの歌や抒情歌をうたい続け、その後では「坊がつる讃歌」「おもいでのアルバム」のヒットがある。 

代表曲「捨てられて」のある演歌の長山洋子のデビューはアイドルポップス。昭和62年には洋楽カヴァーの「ヴィーナス」をヒットさせている。元々は民謡出身の演歌希望だったようで、平成5年に演歌歌手として再デビュー。それが成功し現在に至っている。 

その長山洋子のデビューとほぼ同時期に「ダンシング・ヒーロー」をヒットさせたのが荻野目洋子。ユーロビートブームに乗ってその後も「六本木純情派」などのディスコ・ナンバーをヒットさせた。うたって踊った“荻野目ちゃん”もいまや夫に娘(3人?)という家庭をもつアラフォーだとか。 

「洋子」にしろ「陽子」にしろ「ようこ」という響きはどことなく親しみがあり、また奥行きが感じられる名前だ。しかし、表記はこの2つだけではない。「燿子」、「容子」、「葉子」、「遥子」、「曜子」、「ようこ」、「ヨーコ」などまだまだある。次回はそんな「ようこ」の総集編(大袈裟、大風呂敷)を。


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コメント 4

tsukikumo

昭和40年代なら
キモノ女優の磯野洋子
東映ズベ公シリーズの市地洋子
少女雑誌のモデルからアイドルに転進したキャロライン洋子・・・・・マニアック過ぎですかね。
男はクールファイブのリーダー内山田洋ぐらいしか思いつきません。
by tsukikumo (2009-01-28 22:47) 

Mashi☆Toshi

ジョン・レノンが「ジュリア」のなかで、オーシャン・チャイルドと歌った洋子は、小野洋子さんでしたね。
by Mashi☆Toshi (2009-01-29 20:29) 

MOMO

tsukikumoさんこんにちは。

いましたね和風美人の磯野洋子。たしかお母さんも女優で、磯野道子っていったかな。

キャロライン洋子はいつ吹き込んだのか知りませんが、英語でうたう子供のうたがありますね。

男の「洋」は菅原洋一がいますね。
by MOMO (2009-01-30 21:02) 

MOMO

Mashi☆Toshi さんこんにちは。

小野洋子といってもピンときませんね。
やっぱりオノ・ヨーコですね。
by MOMO (2009-01-30 21:05) 

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