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軍歌①海を征く歌 [noisy life]

大木惇夫.jpg

♪ 君よ別れを 言うまいぞ
  口にはすまい 生き死にを
  遠い海征く 武士(ますらお)が
  なんで涙を みせようぞ
  
  僕は遙かな ツンドラの
  北斗の空を 振はすぞ
  君は群がる 敵艦を
  南十字の 下に撃て
(「海を征く歌」詞:大木惇夫、曲:古関裕而、歌:伊藤久男、昭和18年)

昭和18年といえば満州事変を機とした日中戦争から12年目、真珠湾攻撃から口火を切った太平洋戦争から1年以上が経過した頃。
日本の攻勢は17年のマニラ、シンガポールの占領までで、同年6月のミッドウェー海戦を境にジリ貧化していきます。
18年にはアリューシャン列島のアッツ島をはじめ、太平洋上の各島で“玉砕”の悲劇が伝えられるようになっていきます。

それでもまだ流行歌では「南の花嫁さん」(高峰三枝子)「湖畔の乙女」(菊池章子)、「お使いは自転車に乗って」(轟夕起子)、「勘太郎月夜唄」(小畑実)などの“戦争どこ吹く風”といった呑気な歌もなくはありましせんでしたが、市民の生活は落ち着かないものに。
食糧をはじめとする物不足に加えて米軍による空襲の恐怖。それでも「欲しがりません勝つまでは」とか「撃ちてし止まん」のスローガンの元、表向きは決戦の覚悟をしていたのです。そして、
♪若い血潮の予科練の 七つ釦は桜に錨……
という「若鷲の歌」をはじめ「みなみのつはもの」「大空に祈る」「決戦の大空へ」「あの旗を撃て」「大アジア獅子吼の歌」「孤島の雄叫び」などの雄々しい軍歌がつくられていきます。

上にのせた「海を征く歌」もそのひとつ。
吹奏楽器主体の哀調を帯びた短調のメロディー。THIS IS GUNKA という歌。
資料によるとこの歌は昭和18年の10月発売。
この頃めずらしくなかった文語体の詞は詩人の大木惇夫によるもの。

実はこの歌の出る2年余り前、大木惇夫はインドネシアのバタビアに文化部隊(兵隊を慰問したり現地をレポートする作家、音楽家等の一行)として赴任していました。その1年後、現地で「海原にありて歌へる」という詩集を発刊します。そしていつしかこの詩集が現地の兵隊のあいだで評判になり、さらには内地でも若者をはじめ多くの人に読まれるところと。

上の「海を征く歌」は、その詩集の中でもとりわけ熱烈に支持された「戦友別盃の歌」をいわば自身の手でダイジェスト化したもの。さほど長くないのでその全文をのせると、

言うなかれ、君よ、わかれを、
世の常を、また生き死にを、
海ばらのはるけき果てに
今や、はた何をか言わん、
熱き血を捧ぐる者の
大いなる胸を叩けよ、
満月を盃にくだきて
暫し、ただ酔いて勢(きほ)へよ、
わが征くはバタビヤの街、
君はよくバンドンを突け、
この夕べ相離(さか)るとも
かがやかし南十字を
いつの夜か、また共に見ん、
言うなかれ、君よ、わかれを、
見よ、そらと水うつところ
黙々と雲は行き雲は行けるを。
(「戦友別盃の歌」南支那海の海上にて 大木惇夫)

戦時下という異常事態にあっての友との別離を抒情的にうたった詩で、戦争詩の最高傑作という評価さえあります。
時代の空気というものがあるので、いまの若い人が読んでもピンとこないかもしれませんが、当時の若者の多くが熱烈に支持し、朗読したといわれています。

広島出身の大木惇夫は北原白秋に師事し、31歳のとき処女詩集「風・光・木の葉」を出版。以後師匠ゆずりの抒情詩をいくつも発表していきます。
また、これも白秋の影響か流行歌の作詞もてがけます。とりわけ知られているのが昭和9年に発表して大ヒット曲となった「国境の町」(東海林太郎)

「海原にありて歌へる」によって時代の寵児となった大木惇夫の元へは新作の依頼が殺到します。同時にいわゆる軍歌の作詞依頼も増え続けていきます。
既述した「あの旗を撃て」「大アジア獅子吼の歌」の他、「少国民決意の歌」国民歌 山本元帥サイパン殉国の歌「君こそ次ぎの荒鷲だ」……と。
戦後、大木惇夫自身がかいているようにそれは乱作にすぎました。また、その抒情と熱情の相まった詩や詞に煽られて、どれだけの若者が戦地へ赴いたことか。

その後大木惇夫はからだをこわし、静養先の福島県の山村で終戦を迎えます。

戦後、戦争に協力的だった文化人には逆風が吹きます。とりわけ“活躍ぶり”が目立った者への風当たりは強かった。「海原にありて歌へる」で一世を風靡した大木惇夫も例外ではありません。

しかしそうした冷たい風の吹く“冬の季節”も一時、時間が経てば“春”はやってくるのです。
たとえば流行歌の世界でいえば、あれほど軍歌を書きまくり、「決戦今こそ迫る 砕けよ米英を」と叫んだ西條八十は、敗戦後間もなく♪古い上着よさようなら と民主主義を謳歌する「青い山脈」(藤山一郎、奈良光枝)を書きます。
最も軍歌を作曲したといわれる古関裕而も、空爆による焼け跡の残る街にラブソング「雨のオランダ坂」(渡辺はま子)「フランチェスカの鐘」(双葉あき子)を響かせます。

でも誰も非難しません。なぜなら非難すべき人間が見あたらなかったから。つまり、“一億総懺悔”という言葉が流行ったように積極的にしろ消極的にしろ国民の99%は西條八十や古関裕而と同じ“戦争協力者”(とりわけマスコミが)だったからです。

「あの状態では誰だって」「あれをいい教訓として」「終わったことは仕方ない」という国民の“寛大”な心に迎えられて戦時中一億総決起、鬼畜米英を吠えまくっていた文化人たちは、やがて以前と変わらぬ創作活動を再開していったのです。なかには慚愧の念からしばらく自粛した文学者もいましたが。

しかし、何にでも例外はあるもので、戦後も戦時中の“罪”が許されず、そのことで創作活動が著しく制限された芸術家もいました。

大木惇夫はまさにその一人で、ポツポツと詩集を出したりもしましたが、終始「詩壇」からは冷遇されたといいます。それが、戦時中のあまりにも華々しい“活躍”によるものなのか、あるいは他の理由があったのかはわかりませんが、とにかく戦前とはうってかわって寡作になっていきます。晩年は海外の詩の翻訳や校歌、社歌などを作りながら2度の受勲をしているので必ずしも不遇だったとはいえませんが、詩人としてその才能を十分に発揮しえたかどうかは甚だ疑わしい。

そして昭和52年82歳で亡くなります。その数年前に全3冊の「大木惇夫全集」が刊行されたことは自身にとってもファンにとっても救いだったかもしれません。
その中で彼は終戦後、友人から「君は張り切りすぎた」「時事詩をあまりにも書きすぎた」「大上段にふりかぶった刀をどうする気だ?」と忠告され、顔から火がでるほど恥ずかしかったと書いています。

また「海原にありて歌へる」をはじめ、戦争詩は全集から削除したほうがいいという忠告に対して、書いたものに対してはすべて責任を負うという気持ちで掲載したという話も。

もし、戦争がなかったら、大木惇夫はかほど著名な詩人になれなかったかもしれない。しかし、生涯を通じて自分のすべてを表現する機会に恵まれたかもしれない。
もし、あの詩集「海原にありて歌へる」がベストセラーにならなければ、戦後も詩壇の中でやりたい仕事ができたかもしれない。
そう考えると、戦時中若者を煽った責任は大きいものの、彼もまた戦争の被害者なんだという思いがしてきます。

彼の若き頃、あるいは戦時中、そして戦後の詩作を読むとそこには抒情詩人以外の何ものも見えてきません。軍国主義、帝国主義を擁護する人間像はまるで思い浮かびません。そんな人間がなぜ、戦争詩を書き連ねていってしまったのか。
おぼろげにわかることは人間の弱さと、それにつけ込む“戦争の悪魔性”ということでしょうか。

最後にわたしの知り合いの戦争経験者のこと。
彼はすでに亡くなりましたが、生前つねづね戦争によって自分の青春がだいなしにされたと恨みごとを言っていました。そしてその戦争の最高責任者を死ぬまでゆるすことはありませんでした。

そんな彼の書棚に古びた「海原にありて歌へる」があることを生前から知っていました。戦争を憎む気持ちと、戦争の中でしか送ることのできなかった己の青春を愛おしむ気持ち。とても複雑な心境です。


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