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Sophisticated Lady ① [story]

父の家出①.jpg

『半年後に帰ります。ですから探さないでください』
そんな短い書き置きを残して親父が家出した。6月の梅雨の合間の晴れわたった日のことだった。

置き手紙を見たお袋は、はじめ何かの悪戯だろうと思っていたそうだが、夜になってそれが現実だとわかると寝込んでしまった。

俺がそのことを知ったのはバイトを終えてアパートに戻ったその夜だった。はじめにお袋の所へ駆けつけた姉からの電話でだった。「まさかあの親父が」という気持。
実家へ到着すると、お袋は蒲団の中で泣いていた。姉は怒っていた。まるで同罪? といわんばかりに怒りを俺にぶつけてきた。そんな似てるかね、性格。

翌日になってわかったことは、親父の旅行カバンといくつかの着替えや下着がなくなっていること。あとは、親父の銀行口座から300万円ほどが引き出されていたこと。
「海外旅行でも行ったんじゃないのかな」
という俺のつまらないジョークは、「不謹慎!」「博之はいつまでたっても成長なしね!」という姉の鋭いスカッドミサイルによって撃沈された。

親父関口隆は61歳。去年、40年あまり勤めた印刷会社を定年退職。関連会社への再就職の話もあったが、本人「もう会社勤めはごめんです」と、隠居の道を選択。たいして面白くなかったんだなぁ、仕事。

仕事一筋で趣味らしい趣味もなかったからか、暇ができたとたんにいろいろなことをやりはじめた。家庭菜園、インターネット、デジカメ、仏像彫刻、中国語、社交ダンス、海外旅行……。どれもこれも身につく前に新しい世界があらわれてしまう。移り気なんだな。よく似てるよ……。

これで、孫でもいれば、親父にとっても最高のリタイア生活になるのだろうが、一昨年結婚した姉の美智子は「30まで子供はいらない」って言ってるし、演劇サークルにドップリ漬かってしまい、大学生活5年目を送っている俺の辞書に、〈結婚〉という字はない。今のところ。とんだ親不孝の姉弟だ。いや、俺だけかも……。

意外だったのは、お袋のあのショックの様子。まさかあそこまで落ち込んでしまうとは。なにしろ、結婚当初から主導権はお袋にあったというのだから。まるで自分の“立つべき場所”を根こそぎ奪われてしまったような憔悴ぶり。あんなお袋見たこともなかったし、想像さえつかなかった。結婚して30年余り、一度だって浮気をしたことがない(多分)親父。お袋の我が儘にも、いつも「ハイ、ハイ、ハイ」と従ってきた親父の、誰もが想像できなかった“反乱”だった。

実は、書き置きを見て「これは本物だ」と思ったとき、俺の心中には小さな快哉があった。「親父、よくやった」という男同士のエールだ。とはいえ、すっかり萎れてしまったお袋を見ていると、そうとばかりも言っていられない。

しかし、探すにしても、まずは親父の家出の理由だ。それが分からなければ、探しようがない。誰もがその理由に思い至らず、また誰もがそれを知りたがっている。

翌日から、叔父叔母はもちろん、親父の友人知人に連絡を取ってみたが、行く先はもちろん、理由らしきものさえ分からない。
考えられる理由としては、……やっぱり女かな。しかし、親父と女……、どうも結びつかない。とはいえ親父だって男だ。〈老いらくの恋〉という古い言葉だってあるじゃないか。突然の出逢いがまったくなかったとは断言できない。
たとえば、陶芸スクールかなんかで知り合って、忘れたはずの恋心に火がついたりして……。イージーだな俺の発想。だからろくな戯曲が書けない。

「そういえば、あの人が家を出る前に何度か出るとすぐに切れてしまう電話があったわ」
と、お袋が思い出したように言うと、
「そうそう、その頃よ。ときどき朝早くから何処かへ出かけて夜遅く帰ってくるって、母さん言ってたじゃない。今考えればあれも怪しいわね」
と姉も。いずれにしても、姉とお袋は間違いなく女が原因と断定したようだ。

残された母子でいちばん問題になったのは警察に届けるか否かということ。姉とお袋は、万が一ということも考えて家出人届を出すべきだと主張した。俺はあの親父が自殺するはずはないと思ってるし、大金を持って出たので、書き置きにあるように半年間待つべきだと反論した。

家出人の意志を尊重するというのも変な話だが、警察だって積極的に探してくれるかどうか分からないので、半年間というか、しばらくは様子をみるということで姉もお袋もしぶしぶ納得した。もちろん、その間、できる限り自分たちで探すということなのだが。でも、どうやって。困った。


あれから10日が経った。お袋は3日ほど横になっていたが、4日目になると起きあがり、掃除や洗濯をはじめた。そしてその翌日からは買い物や友だちとの食事で出かけるようになった。まあ、女ってやつは立ち直りの早いこと。
俺はそれを見て安心してアパートへ戻った。俺だって暇じゃない。姉はもうしばらくお袋の傍にいるようだ。お袋が心配ということもあるが、久々に実家で羽根を伸ばしたいのだろう。

青空を占領する大きな入道雲。朝から晩まで疲れ知らずの蜩の声。今年も夏がやってきた。

去年と違うのは家に親父の姿がないということ。そして姉が実家に戻ってきてしまったこと。どうやら親父の家出前から姉夫婦の間にはそんな雰囲気があったようだ。


それからさらに2カ月あまりが経ち、たまに帰る実家ではお袋と姉の話し声や笑い声が絶えない。毎日一緒にいてよくそんなに話すことがあるものだ、と感心するほどのべつ喋りかつ笑っている。そんな二人を見ていると、もう10年もこうした生活が続いているように感じることがある。
あゝ、もし親父が帰ってきても、これでは居場所がないんじゃないかな……。

その親父の行方は杳として分からなかった。ただ一度、叔父の以前の会社の知り合いが、今年の春先、つまり親父が家出する三月ほど前に、日比谷のレストランで親父を目撃したという情報があった。

その時、親父は二十歳ぐらいの若い女性と一緒だったとか。これは、姉もはっきり否定した。もちろん俺も。いくらなんでも、親父が自分の娘ほどの女と浮気をするなんて真夜中に太陽が現れたってありえない話だ。結局、他人のそら似、見間違いだろうという話になったのだが。
しかし、俺は想像した。親父が若い娘と温泉宿かなんかでよろしくやっている様子を。〈いよっ!色男!〉こんなこと口が裂けても姉やお袋には言えない。


“秋の日は釣瓶落とし”なんて言うけれど、秋そのものが猛スピードで過ぎていく。蝉の声が虫の声に変わり、色づいたプラタナスがバッサバッサと落ちたと思ったら、もう北風が吹き始めている。

もう師走。親父がいなくなってから5カ月が過ぎ、約束どおりなら今月の末か、年明けには帰ってくる。でも、どこにいるのか知らないが、そこの居心地がよければ“延長”なんてこともありえる。お袋も口には出さないが、ときどき嵐を待つ子供のように何かを期待している顔付きになることがある。それはちょっと悲しい。

そんなある日、師走の冷たい風に乗って、約束どおり親父は帰ってきた。見慣れないチャコールグレイのスーツに、やはり新調したコート。しかしその顔は紛れもなく親父だったそうだ。“そうだ”というのは、残念ながら俺はその場に居合わせなかったから。


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