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湖①湖畔の宿 [a landscape]

湖畔の宿.jpg

♪ 山のさびしい みずうみに
  ひとり来たのも 悲しいこころ
  胸のいたみに たえかねて
  昨日の夢と 焚きすてる
  古い手紙の うすけむり
(「湖畔の宿」詞:佐藤惣之助、曲:服部良一、歌:高峰三枝子、昭和15年)

 

「湖」もリゾートには欠かせないロケーション。
白樺湖、摩周湖、十和田湖、宍道湖、猪苗代湖などというと、その名称もロマンチックで、そこへ行けば何か素敵な景色と素敵な出来事が待っているような気がしたりして。

 

日本で湖といえば琵琶湖。その広さ約670平方㎞は日本一で、2番目に広い霞ヶ浦の約4倍というからダントツにデカイ。

しかし、世界に目を向けるとそのスケールの大きさに圧倒される。

大きさ世界一はごぞんじのとおりカスピ海。その広さ約38万平方㎞は、琵琶湖が560個ぐらい入っちゃう。もっとわかりやすくいうと、北海道が4個と半分入ってしまう。こうなるともう湖というより海。だからカスピ海なのか。
世界最深といわれるロシアのバイカル湖でも琵琶湖の約47倍という広さ、ジーザス。

 

その湖の音楽ということでまず思い浮かぶのが、クラシックは苦手という人も知っている「白鳥の湖」(チャイコフスキー)。いまの学生はしらないが、われわれの頃は小学校か中学校の音楽の授業で聞かされたはず。

そのほか、ロシア民謡には「バイカル湖のほとりで」があるし、アメリカ民謡でカントリーとしてもしばしば歌われる「ミネトンカの湖畔にて」あるいは、スコットランド民謡の「ローモンドの湖」などがある。これらも古くから日本でも親しまれてきた曲。

 

日本で最も古い「湖」の歌といえば、大正6年に作られたといわれる第三高等学校(現京都大学)の寮歌・「琵琶湖周航の歌」かもしれない。
♪ われは海の子 さすらいの……
という美しい詞とメロディーのこの歌は、三高の学生・小口太郎氏が、ボートで琵琶湖を巡ったときに作詞したもの。

作曲者はしばし不明だったが、昭和も50年代になって当時東京農業大学に籍を置いていた吉田千秋氏と判明した。吉田氏が学生時代に音楽雑誌に投稿した「ひつじぐさ」が原曲。
なお、小口氏は26歳で、吉田氏は24歳で、それぞれ夭折している。

 

この「琵琶湖周航の歌」は抒情歌の定番で、いまでも加藤登紀子、ボニー・ジャックスといった“常連”のほか、小林旭、舟木一夫、都はるみ、天童よしみなどの歌謡曲歌手もレパートリーにしている。

 

同じ琵琶湖を題材にした歌に「琵琶湖哀歌」がある。これは昭和16年、琵琶湖就航中に遭難した第四高等学校生11人の悲劇を歌ったもの。
ロマンチックな湖も天候が荒れると海と同じ、琵琶湖ではときどき遭難事故が起きている。

 

機を見て敏なのは歌謡曲。同じ年に四高生遭難を題材にした「琵琶湖哀歌」を作った。どこか「琵琶湖周航の歌」に似ている。
歌ったのは“直立不動歌手”東海林太郎小笠原美都子のデュオ。作曲は菊池博で、東海林太郎の「名月赤城山」の作者でもある。もとは大正から昭和にかけてのジャズピアニスト。作詞は「夜のプラットホーム」(二葉あき子)で知られる奥野椰子夫

 

東海林太郎ではその4年前に「湖底の故郷」という、やはり湖にちなんだ歌がある。
これは奥多摩にある小河内ダム建設にあたって数千人の住民が移住を余儀なくされた話を歌にしたもので、やはりトピカルソングといえる。その小河内ダムが完成したのは約20年後の昭和31年。

 

「湖底の故郷」も話題性からそこそこヒットしたが、戦前、湖を歌った最大のヒット曲といえば上に歌詞を載せた「湖畔の宿」(高峰三枝子)だろう。

 

服部良一にはめずらしい滅入ってしまうような暗いメロディーだが大ヒットした。
戦時下にふさわしくないと、権力から発禁の憂き目にあいそうになったが、うまく生き延びた。

昭和18年に日本の同盟国であるビルマやフィリピン、タイなどが参加して大東亜会議なるものが開かれたが、そのとき高峰三枝子は当時の首相・東条英機のリクエストで(ビルマの首相がこの歌を好きだった。つまり、兵士を通じてアジアでも流行っていた)料亭に呼ばれ、この歌をうたった、と自伝に書いてある。

また、その自伝には翌日出撃する特攻隊員の前で「湖畔の宿」を歌ったことも書かれている。

高峰三枝子は昭和11年に女優としてデビュー。当時のトップアイドルだった。
♪待てど暮らせど 来ぬひとを……
「宵待草」が彼女のシンガーとしてのデビュー曲。

 

“歌う女優”としては、それ以前に山田五十鈴田中絹代がレコードを吹き込んでいるので第1号ではないが、ヒット曲をだしたのは彼女が初めて。
「湖畔の宿」の前年に吹き込んだ同名映画の主題歌「純情二重奏」がそれ。

 

昭和の“歌う女優”といえば、戦後が吉永小百合、戦前が高峰三枝子、というぐらいの人気だったとか。

 

この「湖畔の宿」、当時替え歌となってうたわれていたことでも知られている。
♪ きのう召されたタコ八が 弾丸(たま)にあたって名誉の戦死
  タコの遺骨はいつかえる 骨がないので帰れない タコの親たちゃ悲しかろ

という歌詞で。

「湖畔の宿」が替え歌になるほど人口に膾炙していたこともわかるが、庶民の徴兵、戦争に対する皮肉が現れている。子供たちもおもしろがって歌っていたとか。

 

で、この「湖畔の宿」、舞台はどこのみずうみなのか。
高峰三枝子は何度か訪れたことのある芦ノ湖(箱根)を思い浮かべて歌ったとか。
しかし、戦後、作詞の佐藤惣之助の資料から群馬県の榛名湖とわかり、現在は「湖畔の宿記念公園」が作られ、歌碑も建てられている。

 

まぁ、当時は戦時下ということもあり、またいまと違って誰もが気軽に旅行へという時代でもなかったので、流行歌の湖がどこなのかなどという疑問はおきなかったのでしょう。というか、聴く人それぞれの湖があったのでしょう。

いずれにしても、抒情すら剥奪されたその時代、流行歌「湖畔の宿」が、束の間のオアシスになったことは想像できる。

そして戦争が終わり、老いも若きも明日を夢見ることが許される時代に。
そんな“自由”と“民主主義”の世の中で「湖」はどう歌われていったのか。


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