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WHERE THE BOYS ARE [story]

 

これは、まだ「バレンタイン・デー」なるものが日本に存在しなかった頃の話。


銭湯から出ると、群青の空から小雪が舞い降りていた。
その一片が上気した房江の頬にとまった。やさしい冷たさだった。

「積もるのかしら、いやだな」と思いながら房江は夜道を急いだ。洗面器を持つ手があっという間に冷たくなっていった。

銭湯から房江の住むアパートまでは歩いて7、8分かかる。周囲はほとんど畑と、壌成地で所々に民家が点在している。街路灯も50mほどの間隔で点いてるだけ。それでも房江の生まれ育った山陰の村よりはましだった。

4人兄妹の3番目、兄2人に妹がひとり。房江は学校でも家庭でも目立たない子だった。決して自分を主張しなかった。
そんな房江が中学を卒業したら東京へ出たいと言ったとき、両親はもちろん担任の教師も驚いた。彼女の通う中学では、卒業生の半分が高校へ進学し、残りの半分は家の手伝いか就職。就職といっても、バスで30分ほどの港町にある海産物問屋の店員か、魚の加工工場がほとんどだったのだが。

地元での就職をすすめる周囲の声を、房江はまったく聞き入れなかった。頑なに東京へ行くという意志を譲ろうとしなかった。生まれてはじめての自己主張だった。

結局、担任教師の骨折りで房江の希望は叶った。東京の郊外にある家電メーカーの工場だった。

房江が東京へ行こう、というよりこの家をこの村を、さらにはこの町を出て遠く離れた所で暮らしたいと思い始めたのは中学二年の夏だった。

ある夜半、房江は胸苦しさに布団の上で眼を覚ました。と同時に誰かの手が彼女の口を塞いだ。そしてそのあとすぐ両目も被われた。その瞬間垣間見えたのは、彼女と10歳あまり離れた村役場に勤める長男の顔だった。
怖かった。房江は本能的に自分の中の女が暴力を被ろうとしていることがわかった。それが具体的にはどういうことかわからなかったが、漠然ととりかえしのつかないことが起きるという恐怖に襲われていた。あらん限りの力で自分の上に覆い被さる人間をはね除けようとした。しかし、押さえつけられた身体はまったく動かなかった。
そして、彼女は気を失った。

翌朝目覚めた彼女に、夜中の記憶ははっきり残っていた。
誰も起きてこないうちに彼女は風呂場へ行った。そして、裸になって自分の身体を眼と手でくまなく調べてみた。しかし、何の変化もなかったし、何の違和感もなかった。

「あれは、夢だったのだろうか……」彼女は思った。しかし、あの恐ろしい兄の顔は真新しい刻印のように記憶に刻まれている。「わたしが気づいたので、そのまま自分の部屋に戻ったのかも知れない……」。誰にも相談はできず、真相はわからないままだった。

その日から房江は長男と眼を合わせることができなくなった。
もともと交流の少ない兄妹だったが、それ以来、長男も房江を避けるような態度をとるようになった。少なくとも彼女にはそう感じられた。

そのことがあってから一年半あまりのちの春、房江は家族と担任の教師、そして数人の同級生に送られて、東京へと旅立ったのだった。

故郷の景色が次から次へと消えていく。車窓から外を眺める房江の胸は喜びにときめいていた。自分の望みが実現していく実感にうち震えていた。生まれてはじめて感じる喜びだった。唯一の心残りは、5つ下の妹のことだけだった。しかし、房江は「よほどのことがない限り、もうここへは帰ってこない……」そう心に決めていた。


あれから5年。房江は二十歳になった。
仕事にはすぐ慣れたし、寮生活にも慣れた。同じように地方から出てきた同僚ともすぐにうち解けた。何度か男子の工員から映画を誘われることもあったが、応じる気にはなれなかった。兄の一件以来、男に対する恐怖心もあったが、それよりも声をかけてくる工員たちに胸がときめかなかったのだ。

かといって、男に対する理想像があるわけではない。自分が、恋愛とか結婚とか、男と女のことがらについては奥手なのだという思いはあった。寮の同僚たちが話す恋愛ストーリーは自分には無縁なこと、そう思っていたのだ。

そしてちょうど一年前、彼女は寮を出ていまのアパートを借りたのだった。
4年頑張って給料も少しは上がり、わずかだが住宅手当も出るということで、なんとか家賃を払えるめどが立ったのだ。一人暮らし、これも房江のささやかな希望だった。

朝起きて会社へ行く。勤めを終えたら、駅前で買い物をしながらアパートへ帰る。
着替えると簡単に夕食の支度をすませ、銭湯へ向かう。そして、部屋に戻り夕食を摂るのだ。そのあとはラジオを聞きながら好きな編み物をしたり、会社の友達に借りた流行雑誌を読んだり、妹に手紙を書いたり……。
休日は掃除、洗濯。そしてたまには郊外電車で隣町へ行き、駅前のデパートでウインドウショッピングをする。

時計が時を刻むような寸分ちがわない毎日。それでも房江は楽しかった。
なぜかつまらなかった学生時代よりはるかに楽しい毎日だった。
一室三人で暮らした寮生活はやはり他人への気兼ねがあったし、ラジオひとつとっても自分の聞きたい番組をいつも聞けるというわけではなかった。

それが、このアパートでは好きな流行歌をいつまでも聞いていられる。アナウンサーの冗談に大声で笑うことだってできる。この生活が永遠に続いたとしても、それはかまわない。房江は本気でそう思っているのだった。


空から落ちる雪が大粒になってきた。
房江はトッパーの襟を立て家路を急いだ。洗面器を持つ手が凍てついていた。それでも心の中はあたたかい。
彼女のいまいちばんの楽しみは、今年の春中学を卒業する妹が、自分の働いている会社へ就職してくることだった。強くすすめたわけではなかったが、妹の希望はうれしかった。はじめの数年はやはり寮での生活になるだろうが、いずれ2人で暮らしたい。そんなことを考えるといつもひとりでに笑みが湧いてくるのだった。

積もりはじめた雪に被われた道。4、5軒の家が密集しているあたりに古いアパートがある。そこを左に曲がって道なりにすすむと、房江が住むアパートまで2分ほどで着く。

激しさを増してきた雪に思わず小走りになりかけたとき、そのアパートの階段からもの凄い勢いで人が下りてきた。そしてその男は最後の数段で足を踏みはずし、ドドドッと地面へずり落ちた。

急なことで、房江は心臓が止まりそうなほど驚き、足を止めて後ずさった。
街路灯の光で見えたのはぶざまな格好で尻餅をついている、右手に蝙蝠傘を持った若い男だった。男は房江と眼が合うと、一瞬笑った。そしてすぐに真顔になって立ち上がった。

「こ、これ。使ってくれ。か、か、返さなくてもいい。すて、捨てていいから」

男は房江に近づいて、持っていた傘を差しだした。
房江は右手で自分を抱きしめながら、さらに後ずさった。おびえながらも、再び男の顔を見た。コワイ眼だった。そのとき彼女は心の中で「あっ!」と思った。

房江はその男を知っていた。名前も素性も知らないけれど、通勤の朝、道や駅で何度かみかけたことのある男だ。一度駅のホームで視線を感じて顔をあげると、その男の視線とぶつかったことがあった。コワイ眼だった。そのときの印象が強く残っている。
それ以来、男をみとめるとなるべく見ないように俯いたり、顔をそらすように心がけていたのだ。

男は蝙蝠傘を房江の右手に押しつけた。そして勢いにつられて彼女が思わずそれを握ると、背を向けて一目散に階段を駆け上っていってしまった。

彼女は黒い傘をかざしながら夜道を歩きはじめた。なにかを考えようとしていたが、うまくまとまらなかった。そして、何気なく後ろをふり返った。
あのアパートの2階の部屋に灯りが点っている。そこにシルエットとなった男の影が見えていた。房江は思わず傘をあみだにして頭を下げた。すると、見られまいとするかのように男の影は一瞬にして消えてしまった。

自分の部屋に戻った房江は、いつものように夕食を食べる気持ちになれなかった。
ちゃぶ台の前にすわったまま、好きなラジオのスイッチもいれずにじっとしていた。考えていた。いや、次から次へと思考がめぐってきて、立ち上がることができなかったのだ。

何度も浮かび上がってくるのは、あの男の眼だった。それもいつかホームで見たあのコワイ眼ではなく。階段から落ちた男が照れ笑いしていたときの、あのやさしい眼だった。

房江の胸の中はざわめいている。
心の奥底にある小さな森の木々の葉音が聞こえるのだ。風が吹いているのだ。なんともここちよい風。そのとき、自分の手に触れたあの男の指先の感触が甦った。やわらかくてあたたかい手だった。思わず涙がこぼれた。

そして、部屋の上がりかまちに立てかけてあるあの黒い蝙蝠傘。あの傘を明日、なんと言って返したらよいのだろうかと考えた。するとなぜか胸がときめくのだった。

ふと日めくりのカレンダーに目をやると、2月14日だった。


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都市色

こんばんは。
今回の記事の写真を見ると若尾文子さんのようですね。
20代の頃の彼女の主演映画なのですか?
若尾さんは素敵ですよね!
味わい深い物語ですね。昭和20〜30年代の邦画の雰囲気が香り立ちます。

増村保造、川島雄三監督作品での大人なおんなも良いけれど、小津作品の「浮草」、溝口作品の「祇園囃子」の初々しく可憐な乙女な感じも好きでした。増村作品では「青空娘」も良いです。
by 都市色 (2008-02-17 04:32) 

MOMO

重ね重ねありがとうございます。

自分でのせておいていい加減なものですが、
多分「青空娘」ではなかったかと思います。

「浮草」はよかったですね、あの軽さが。

「願の寺」も小坊主が夢中になるほど色っぽかった。
おっしゃるとおりあの頃の若尾文子はピカ一でした。
by MOMO (2008-02-18 22:02) 

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