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THE OLD RUGGED CROSS [story]

 

ユタカの上半身は汗がとめどなく流れていた。山毛欅や楢の喬木に被われた細い道は、陽はあたらなかったが、風がなく汗を蒸発させてはくれなかった。ユタカはときどき立ち止まり、後ろからよろけながら着いてくるナオコの手を取り、山道の段差の高い場所へ引き揚げてやった。

山道を登りはじめて30分ほど経つと、平坦な場所に出た。朽ち果てそうな木製のテーブルと飾りっ気のない長椅子が忘れられたように置かれている。そこから14、5メートル先の、再び山道のはじまるあたりに大きな樫の木があり、地面から3メートルあまりのところから突き出た枝に真赤な樽がぶら下がっていた。樽は真ん中のタガの下に太いロープを巻き付け、天蓋を少し傾げた格好で釣る下がってる。

ユタカはそれを下から見上げていた。ベンチの上に底の高い靴のまま蹲ってナオコがユタカを見ていた。その目つきは、次ぎにユタカが何をするのか見逃すまいという決意があふれていた。

宇田川町の古ぼけたビルから、赤い樽を背負ったユタカが出てきた。手には逞しいスコップが握られている。彼はセンター街を通り抜け、スクランブル交差点を渡り、やがて駅構内へと消えていった。

あれからずいぶん歩いた。いろいろな景色を通り抜けてきた。それなのに強い陽射しは相変わらずで、肩に食い込んだ背中の赤い樽の重さは、あの山中で樫の木から解放してあげたときといくらも変わっていなかった。
川の音が聞こえる。潮の匂いが漂う。埃っぽい道の先に橋が見えた。石の橋だ。長い橋だ。この橋を渡りきれば、目的の海に着くはずである。

橋を越えると別世界だった。つい今さっきまで真っ青だった空は色彩を失っていた。綻びのように点在していた白い雲は急激に巨大化し、鉛色に変わっていた。小さな丘陵の上に出ると激しい風に襲われた。汗と埃で額に貼り付いていた髪が、一気に梳かされ、針金のように後方へ流れていった。身体がその風に吹き飛ばされないのは、赤い樽が自分を抱きしめているからだ、とユタカは思った。

空の色を映した海は声をあげて怒り狂っていた。その高波はいまにも丘の下まで押し寄せてくるようだった。ユタカは何度も砂に足をとられながら丘を下った。
彼はスコップを投げ出し、背中から赤い樽を下ろして砂浜に座った。白いシャツを脱いだ。シャツは新聞紙のように宙を舞って丘の向こうへ消えていった。陽に灼けたユタカの背中。両肩には太いみみず腫れがタトゥーのように浮かんでいた。

穴は小一時間で掘れた。ユタカは赤い樽をロープごとその穴の中へ下ろした。傾かないように水平になるように、と細心の注意をはらいながら樽を穴の底へ沈めた。そして、山のように積まれた黒い砂をスコップで勢いよく穴の中へ放り投げ続けた。赤い樽に砂がかぶり、その姿は徐々に見えなくなっていった。樽が完全に砂の下に消えても、ユタカはまるで止まらないダンサーのようにスコップを使い続けた。
そして、小さな砂饅頭ができると、海辺へ行き、流木を拾ってきて、その上から突き刺した。

ナオコが宇田川町にあるユタカの仕事場兼住まいを訪ねたのは、無関心な秋が行きすぎ、北風一番が吹いた火曜日のことだった。
彼の仕事場は、モルタルがはげ落ちた3階建てアパートの2階。外付けの錆びた階段を上り、合鍵でドアをあけた。

6畳一間の部屋は竜巻にあったかのように散乱していた。旧式のパソコンのモニターが床に倒れ、モップが柄から突き刺さっていた。床には雑誌や仕事の資料がぶちまけられている。その真ん中あたりにユタカが俯せに倒れていた。両手首が腰のあたりで縛られている。
ナオコはユタカの足元に蹲がみこみ、声を出さず、大きな口をあけて泣いた。涙は頬を滑り、口の中へ入り、あふれると顎を伝って、ユタカの踵の破れた靴下の上に落ちた。

眼が覚めると部屋の中は暗かった。ナオコは立ちあがり、入り口の壁にあるスイッチを押した。部屋は発火したように一瞬で明るくなった。床にはユタカが倒れている。彼女は部屋を片づけることにした。散逸している雑誌や紙を集め、机や棚の上に乗せた。破壊されたパソコンやコピー機を元あった場所へ置き直した。何かの音にナオコは耳をそばだてた。レゲエミュージックだった。隣の部屋からだった。彼女は音楽に反応しながら部屋の中を片づけ続けた。

すべてを片づけ終え、床には仰向けになったユタカだけが残った。
ナオコはいつもユタカが座っていた椅子に腰掛け、ユタカの背中を凝視めた。レゲエ音楽はもう聞こえなかった。

しばらくすると彼女の視線は机の前の壁に貼られた一枚の写真に引き寄せられた。冬雲りの海の写真。空も海も砂浜も階調の微妙に異なるグレー一色。そんななかで波頭だけが白く光っている。ナオコにはその海に見覚えがあるような気がした。ユタカと行ったのではない。誰かと行ったのではない。遠い昔、たとえば、曾祖母がまだ若かった時代、その海岸を歩いた記憶があった。

晴れ渡った空に潮風が気持ちいい。ナオコはコートにくるまり、いつもの厚底の靴を履いて、硝子の破片のように煌めく海を眺めながら砂浜を歩いていた。、わらべ歌のような波音を聞いていた。歩きながら、肩から提げたバッグから真っ赤なリンゴを取りだした。
リンゴは酸味が利いていて美味しかった。でも、ふた齧りするともう飽きてしまい、ナオコは彼方の丘陵めがけて、それを投げつけた。
落下したリンゴはコロコロ転がって静止した。そのはるか先には建てられてからもう何十年も経たような古い墓標が立っていた。

湿った砂浜にはナオコの靴跡がプリントされている。それは見知らぬ町へと続いている。
一瞬の風が吹いた。と思ったのは錯覚で、それは墓標が倒れた音。
墓標の抜けた砂が、まるで蟻地獄のように地中へと吸い込まれていく。そして、そこから人間の指先が、手が突き出てきた。さらに腕が、そして坊主頭が。
やがて砂の中から真っ裸の少年が姿を現した。少年は寒そうに自分の身体を両腕で抱きしめ、ヨロヨロと砂の上を歩いていった。そして砂の上に俯せで倒れ込んだ。

少年はゆっくりと瞼を開いた。目の前には2カ所を抉られた真っ赤なリンゴが置かれていた。そして、少年はその先に青い空と潮騒があることを初めて知った。


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pafu

かっこいい。
by pafu (2007-07-08 17:00) 

MOMO

pafuさん、いつもありがとうございます。
「かっこいい」なんて言われて
人知れず照れているわたしは、とてもかっこわるいです。
by MOMO (2007-07-08 21:42) 

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