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【ボヘミアン】 [obsolete]

『私が何故、柄にもなく芝居をしたか。演劇青年も、文学青年も、ボヘミアン風の装いも、デカダンスを気取った盛り場の夜の彷徨も、みんなきらっていた私が、何故芝居をし、彼らの仲間であったか。それは、退屈だったからだった。』
(「されど われらが日々――」柴田翔、昭和38年)

「ボヘミアン」Bohemianはボヘミア人、ボヘミアのという意味。かつてボヘミアはチェコの西部から中部一帯の名称だった。10世紀にはボヘミア王国が誕生している。
その後、ボヘミアは周辺の様々な国の支配を受けながらも繁栄をとげていくが、16世紀、ボヘミア諸侯が信仰するプロテスタントと国王の支持するカトリックの対立が激化し、“30年戦争”が起きる。結果ボヘミアは敗れ、ハプスブルグ家の属国となり、貴族をはじめ多くのボヘミア人が国外へ逃れた。このことからボヘミアンつまりボヘミア人を流浪の民とか放浪者と呼ぶようになった。
またボヘミアでは牧畜が盛んで、牧童たちのベストに皮のズボンと帽子、というスタイルが南ヨーロッパに伝わり、そうした服装を好んだ芸術家や自由人たちをボヘミアンと呼んだ。

上に紹介した例文の“ボヘミアン”もボヘミアン・ファッションのことで、自由で芸術家を気取った服装(ルパシカのような?)をする人のこと。

現代でも、数年前にはロマンティック・ボヘミアンというジプシー風のエスニック・ファッションが流行ったそうですし(知りません)、今ニューヨークでは「ブルジョワ」Bourgeoisと「ボヘミアン」Bohemiansを合わせた「ボボス」bobos という言葉が流行っているとか。これは仕事で成功しながら、自由な精神を持ち合わせた人間のことだそうだ。

ボヘミアンという言葉そのものは戦前(明治時代にも?)からあったようだが、ファッションで言われるようになったのはいつ頃からなのか。昭和20年代、30年代にはしばしば使われていたことは間違いない。40年代半ばのヒッピーとかなり接近したイメージではないだろうか。まあ、日本の場合、ボヘミアンにしろヒッピーにしろ果たして自由だったかどうかは不明だが。

「されど われらが日々――」に描かれている2種類の青年の“空虚”。ひとつは共産党員で非公然活動までしながら「六全協」によってアイデンティティを失った党員の空虚。もうひとつは、主人公・大橋文夫がもつ「一時的、状況的なものではなく」自分と同義としての、つまり資質としての空虚。これは後者の空虚のほうが奥深く、絶望的だといえる。なぜならばアイデンティティを失くした空虚は、あらたなる自分を獲得することで満たされる可能性を秘めているのだから。

それでも、この小説に光明が見えるのは、節子の存在である。彼女は自分を感化してくれた歴研のキャップや許婚である文夫に同化することが共有だと錯覚していたことに気づく。そして親を捨て、許婚を捨て、自らの足で歩き始めようと地方の教職へと旅立つのである。節子は最後の文夫への手紙の中で、こう言っている。
「どんな苦しくとざされた日々であっても、あなたが私の青春でした」

砂糖のききすぎたセリフではあるが、これは置き去りにしてきた者への“餞別”でもなければ、乙女の感傷でもない。幼い自分を独り立ちするまでに育ててくれた青年たちや時代への偽らざる感謝の思いなのである。
その手紙を読んだ文夫は、
「私たちの中にも、時代の困難から抜け出し、新しい生活へ勇敢に進み出そうとした人がいたのだと。」
「私は、いや私たちは、そういう節子をもったことを、私たちの誇りとするだろ」
と、節子の想いを受け止めるのである。

この作品が芥川賞をとったのが昭和39年。そのときどれだけ話題になったのかは不明だが、それから6年後の昭和45年(1970)、再び政治の季節が巡ってきたときベストセラーとなった。それは時代の気分をふんだんに含んだ叙情小説だったからだろう。

昭和46年に「別れの詩 されどわれらが日々―より」として東宝で映画化。監督は森谷司郎、出演は小川知子、山口崇、藤田みどり、高橋長英 木内みどり、 北村和夫ほか。


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MOMO

takagakiさん、はじめまして。

nice!をありがとうございました。
by MOMO (2007-06-29 21:43) 

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