『ムード歌謡』 [noisy life]
♪ 夢をなくした 奈落の底で
何をあえぐか 影法師
カルタと酒に ただれた胸に
なんで住めよか なんで住めよか
あゝ あのひとが
(「赤と黒のブルース」詞:宮川哲夫、曲:吉田正、歌:鶴田浩二、昭和30年)
いまだムーディ勝山の呪縛を引きずりながら、予定通り「ムード歌謡」を。
いま、ムード歌謡というと、「リズミカルな演歌」という印象でしょうかね。
ムード歌謡コーラスという言い方があるように、ソロ歌手というよりは、コーラスグループの歌がそう呼ばれることが多いようです。ですから、ムーディ勝山氏もバックコーラスに2、3人の男を従え、「ワワワワ~ッ」ってやってもらえばなお引き立つ。
世迷い言はさておき、そもそもムード歌謡とはいかなるものか。そしていつ頃生まれたのか。まずはそのへんから。
ムード歌謡の特徴はリズム、メロディー、ハーモニー、楽器構成など音楽的にはジャズやラテンなどの洋楽の影響を受けていること。そして詞の内容は、都会の夜をバックステージにした大人の男と女の恋物語。このあたりでしょう。
そうした歌が世に現れたのは昭和30年前後。それは、戦前から日本の流行歌の世界をリードしてきた“古賀メロディー”とはまったく違った新鮮な曲であり、詞でした。洋楽の影響ということでいえば、戦前戦後を通じてポップス感覚を取り入れた作曲の第一人者、服部良一がいますが、少なくとも彼の作った歌は、自身の作詞したものも含めて夜の街とは無縁。したがってムード歌謡とはいえません。
古賀メロディーでも服部メロディーでもない、当時の新しい感覚の流行歌、つまりムード歌謡を作ったのはビクターレコード専属の作曲家、吉田正。ちなみにこの3人が昭和流行歌の三大作曲家といわれています。
戦後ソビエトでの抑留生活から帰国した吉田正が、作曲家になるキッカケとなり同時に初のヒット曲となったのが「異国の丘」(竹山逸郎、中村耕造)。これは戦争のシッポを残した軍歌風の歌でムード歌謡とは似ても似つかない歌です。
では、ムード歌謡の片鱗はどこに。
昭和30年に「赤と黒のブルース」(鶴田浩二)という歌が作られています。これは題名からもわかるとおり、ジャジーなにおいがします。詞の内容は酒と博打にあけくれる男の純愛。なんとなくムード歌謡っぽいではありませんか。作詞は「美しい十代」でも知られる宮川哲夫。
そして翌年、やはり鶴田浩二の「好きだった」と山田真二の「哀愁の街に霧が降る」が出ます。前者はトランペットを使ったジャズ風、後者はギターを使ったボレーロ風。そして、32年にはその「好きだった」の和田弘とマヒナスターズ盤が出ます。そしてこの年の暮れには「有楽町で逢いましょう」(フランク永井)が巷に流れはじめ、翌年にかけて大ヒットとなります。
このあたりで作者も、音楽評論家も“新しい歌謡曲”を意識し始めたのでは。そして、こうした吉田正一連の流行歌は“都会調歌謡曲”と言われるようになります。これがムード歌謡の“旧姓”。
和田弘とマヒナスターズは元々ハワイアンのバンドで、ナイトクラブで演奏していたのを吉田正がスカウトしたと言われています。またフランク永井もクラブのジャズシンガーで、やはり吉田正のすすめで歌謡曲に転向したそうです。そして吉田メロディーの女性シンガーとして欠かせない松尾和子もまた、クラブのジャズシンガーでした。ハワイアンとジャズ畑の出身。まさに吉田正が構想する新しい流行歌にはうってつけのシンガーたちでした。とりわけ、和田弘とマヒナスターズは、その後ムード歌謡の代名詞となる“コーラスグループ”のさきがけとなりました。
以後、「東京午前三時」、「泣かないで」、「誰よりも君を愛す」、「西銀座駅前」、「東京ナイト・クラブ」、「好き好き好き」、「東京カチート」と、都会の夜のラヴストーリーを描いた吉田メロディーが立て続けにヒットしていきます。こうした一連の曲は、はじめに述べたように洋楽、とりわけラテンのテーストが色濃く感じられます。
昭和30年代前半、なぜ吉田正の作った“都会調歌謡曲”つまりムード歌謡が誕生し、人々に支持されたのでしょうか。
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