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『もう一度 ムード歌謡』 [noisy life]

 

Ya no estás más a mi lado corazón
En el alma solo tengo soledad
Y si ya no puedo verte
Porque Dios me hizo querete
Para hacerme sufrir más
……
iAy! Qué vida tan oscura
Sin tu amor yo vivré
Es la historia de un amor
〈きみはもう私のそばにいない。私の魂には孤独があるばかり。なぜ神は私にきみを愛させ、私の苦しみを増したのか? これは、ふたつとない愛の物語……〉
([HISTORIA DE UN AMOR]ある恋の物語 words & music by C.E.ALMARAN, vocal by TRIO LOS PANCHOS, 1955)
*訳は『TRIO LOS PANCHOS BEST ALBUM』より

数年前、映画「ブエナビスタ・ソシアル・クラブ」が話題になったとき、友人がその中でコンパイン・セグンドエリアディス・オチョアの歌う「チャン・チャン」Chan Chanを聴いて「なんだか、昔の歌謡曲みたいで懐かしいなぁ」という感想を。


もちろん、キューバのオールド・アーチスツが日本の歌謡曲を真似たわけではないし、日本の歌謡曲とキューバのソンの源流が実はつながっていたなどという話ではないので。
強いて言えば、日本の歌謡曲の作曲家がキューバをはじめ、ラテン音楽のリズムやメロディー、あるいはエッセンスを取り入れたから、というのが似たもの同士と感じた理由ではないでしょうか。そうした歌謡曲がまさしく、ムード歌謡の原点なのです。

ラテン音楽といえば、ルンバやタンゴはすでに戦前から日本へ入ってきていて、歌謡曲の世界でも積極的に和製ルンバや和製タンゴを作っていました。それが戦争により“敵性音楽”(タンゴはドイツ発ということで許可されたという話も)として、中断を余儀なくされることに。そして戦後、ジャズやカントリー、ハワイアン、シャンソンとともに、ラテン音楽も堰を切ったように日本へ入ってきます。

そして昭和20年代後半から30年代前半にかけて、ラテン・ミュージックのムーヴメントが起こります。まず、昭和28年にはメキシコのトリオ・ロス・パンチョスのボレーロ「ベサメ・ムーチョ」のレコードが発売されヒット。この3人組は昭和34年に日本でコンサートを行って以来、たびたび来日し、日本人に最も親しみのあるラテン・コーラストリオとなります。ナット・キングコールでヒットした「キサス・キサス・キサス」「ラ・マラゲーニヤ」「キエンセラ」「ある恋の物語」など日本人の琴線に触れるようなボレーロの演奏とコーラスで、ファンを魅了するとともに、歌謡曲の世界に少なからぬ影響を及ぼすことになります。

さらに昭和31年にはマンボ・ブームに乗って、ペレス・プラードが来日。翌年にはハリー・ベラフォンテのカリプソ「バナナ・ボート」がヒット。日本でカヴァーした17歳の浜村美智子が一躍スターに。そして、アイ・ジョージ、坂本スミ子といった日本の新しいラテン・ミュージック・シンガーが登場してくるのです。

それと時を同じくするように吉田正“都会調歌謡曲”が作られていったわけです。なぜ、そうした流行歌が当時の庶民に受け入れられたのかを考えたとき、それまでのラテンミュージックの普及浸透が下地をつくっていたことは容易に想像できます。そして“都会調歌謡曲”が出現した原因として、当時の歌謡曲の本流に対するアンチテーゼという側面があったことも否定できません。

昭和20年代後半から30年代にかけて、流行歌の主流は都会ではなく、昔風に言えば田舎にありました。田舎から東京へ出てきて故郷を想う歌、あるいは故郷にいて東京へいってしまった兄弟や友だち、恋人を想う歌、これを“望郷歌謡曲”などといいました。


三橋美智也「リンゴ村から」「哀愁列車」、春日八郎「赤いランプの終列車」、「別れの一本杉」などがそうです。他にも「柿の木坂の家」(青木光一)、「お月さん今晩は」(藤島桓夫)、「東京だよおっ母さん」(島倉千代子)、「チャンチキおけさ」(三波春夫)、「僕は泣いちっち」(守屋浩)、「あゝ上野駅」など数え上げたらキリがないほどあります。

今はそんな歌ありませんね。そうです、これは新幹線もなく、飛行機も庶民には無縁だった頃、故郷がまだ“遠かった”時代の歌なのですから。それはともかく。

“都会調歌謡曲”は「田舎ばかりがなぜいいものか」という故郷をもたない人間や、地方から上京して「やっぱり都会の暮らしがいいや」と考える後ろをふり向かない人間が“歓迎”する歌でした。その“魅惑の都”を描くにはエキゾチックなラテンのリズムとロマンチックな夜のムードが最適だったのでしょう。

しかし昭和30年代も後半、まさに高度経済成長期になると、“都会調歌謡曲”も“望郷歌謡曲”も退潮していきます。その理由は、経済的に余裕ができ、レコードの購買層が大人からハイティーン、ローティーンへと移っていったこと。そしてメディアや交通網の発達により、遠きにありて想うべき故郷が“至近”になってしまったことが考えられます。

「歌は世につれ」と言われるように歌謡曲の世界は、明るい未来に向かってつきすすむ日本を象徴するかのように若者の歌、「青春歌謡」「カバーポップス」が主流となっていきます。そして昭和40年代に入ると、「グループサウンズ」「フォークソング」といったポップス系が台頭し、それまでの歌謡曲を押しのけていくことに。


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