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【タタキ】 [obsolete]

 

『……嘉助はタタキの、だだ広いがらんとした土間に入った。ここも赤や青の色ガラスの扉だった。外燈の灯をうけて、タタキは色模様にそまりはじめていた。嘉助はタタキからうす暗い廊下のほうをみた。と、この時、嘉助は息をのんだ。そこには玉江が佇んでいたからである。……』
(「越前竹人形」水上勉、昭和38年)

「タタキ」とは三和土と書く。土間のことである。昔は、広い上がり口や炊事場などは「タタキ」だった。
その語源は、「叩き土」から来ている。また、漢字の“三和土”は当て字で、その昔、「タタキ」は土と石灰と苦汁(にがり)の三種の材料を混ぜて作ったことによる。実際に混ぜた土を叩いて固めた。“和”には〈混ぜる、調合する〉という意味がある。“三和土”という言葉は江戸時代から使われていたようだ。
昭和になり、コンクリートが普及するようになって「タタキ」も見られなくなった。そのコンクリートの土間を「タタキ」というのは昔の名残り。古い農家では、納屋や作業場などにまだ残っている所があるかもしれない。
“引用”の場面は、嘉助が玉江の働く芦原の遊郭“花見屋”を訪ねたところである。この物語の時代、大正の初め頃は、遊郭はもちろん商家の入り口はほとんど「タタキ」だった。

水上文学の特徴のひとつに、“不幸な女と疎外された男の悲劇”がある。とりわけ、コンプレックスを持った男がよく描かれる。
この「越前竹人形」の主役、嘉助の父は「四尺二、三寸しかない小男」で、嘉助自身も「そっくりの容貌」と書かれている。四尺二、三寸といえば、130センチあまりである。「小柄な軀を笑われながら通学」した嘉助はだんだん外へ出なくなり、父親の竹細工を修得していったのである。
これで思い出すのが「雁の寺」の少年僧・慈念だ。彼もまた、小柄で、頭でっかちという容貌に加え、捨て子という宿命を背負い、暗い少年時代を送ってきたのだ。また「五番町夕霧楼」では、国宝の鳳閣寺を炎上させて自殺する学生僧の櫟田正順は、ひどい吃音だった。

そして、この三人はいずれも、唯一といってもいい“理解者”がいる。それが「雁の寺」の里子であり、「五番町夕霧楼」の夕子であり、この「越前竹人形」の玉江だ。里子は寺の住職に囲われてる女。夕子と玉江は娼婦である。
肉体的なコンプレックスをもつ男たちはいずれも、彼女たちと接することでつかの間の至福を得るのだが、やがてその代償というにはあまりにも過酷な運命によって破滅させられていくのである。慈年は逃亡し行方知らず、正順と嘉助は自ら死を選ぶ、というように。
水上文学に登場する女は哀しいけれど、男だって悲しいのである。これらの話の男女の関係は、ラブストーリーのひとつのセオリー“美女と野獣”型でもある。


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