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【ケット】 [obsolete]

 

『この石碑が出来てまもないある日の、小雪のふる午(ひる)すぎ、嘉助が、父の生前坐っていた仕事場の「座」に火鉢をおき、小柄な軀をすくめて、無心に鳥籠つくりの轆轤(ろくろ)をまわしていると、小舎の入口からケットをかぶった三十近い年頃と思われる和服にもんぺ姿の女が覗いていた』
(「越前竹人形」水上勉、昭和38年)

「ケット」とはブランケットBlanketの略で、毛布のこと。明治にできた言葉で、当時の辞書には〈羽おりにも成、敷物にも成、ふとんにも成〉と書かれている。“引用”の「ケット」はまさにその羽織の用途だが、羽織と言うよりはむしろフードあるいはオーバーの役割をしていた。雪国の女性のファッションで、その昔の筵や蓑が発展したものだろう。
「越前竹人形」は大正時代初めの話だが、その頃はもちろん、昭和30年代でも北国の冬になると、ケット姿を見ることができたのではないか。同じ水上勉「越後つついし親不知」は昭和12年の話だが、やはり「黒いケットを着た女」という描写がある。
ちなみに、これもいまは廃語になってしまったが、“赤ゲット”とは東京見物へやってきた“お上りさん”のことで、オシャレのつもりで皆が赤い毛布を被っていた(どうも信じがたいが)ところからその名がついた。また都会人でも外国事情を知らずに洋行する人間に対しても使われた。ケット同様明治に生まれた言葉。

「越前竹人形」は竹細工師と、その男に見初められた娼婦の哀しくも美しいラブストーリーである。
父親の技術を受け継いだ嘉助は、竹林に囲まれた村で、竹細工をして生計をたてていた。母は嘉助が3歳のときに死に、21歳の初冬、父も亡くなった。そしてその直後、芦原から折原玉江という女性が父の墓参りに訪れる。“引用”にある場面がそうで、これが嘉助と玉江の出逢いである。玉江は嘉助の父親が馴染みにしていた芦原の娼婦だった。のちに嘉助は玉江が死んだ自分の母親に似ていることを知る。父もまたその面影を求めて玉江に魅かれていたのである。
初めて会ったときから玉江に魅かれた嘉助は竹細工を問屋へ納めに行くたびに彼女の店へ上がった。しかし、決して体にふれようとはしなかった。彼は玉江のために精魂こめて竹人形をつくり、それを手渡した。それは初めて見たケット姿の玉江がモデルだった。そして、思い切って「嫁さんになってくれんでもええ、お母さんになってくれたら……」と10以上も離れた女に求婚するのだった。
それからひと月後、嘉助は丘の上から村の一本道をゆっくりやってくる馬車を見下ろしていた。そこには、桐箪笥や鏡台などの嫁入り道具が積まれ、立て膝をしてタバコをすっている玉江の姿があった。これが「越前竹人形」前半のクライマックスである

京都、芦原と娼妓として暮らしてきた玉江にとって、嘉助との生活は天国にいるような気分だった。嘉助も自分のつくる竹細工が伝統工芸品として認められていく。つつましいが、幸せに充ちた二人だった。ところが皮肉なことに、嘉助の作品が世に知られるようになることが、引き金となり、後半の悲劇がはじまっていくのである。

「越前竹人形」は昭和38年10月、大映映画として公開された。監督・吉村公三郎、主演・若尾文子山下洵一郎


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