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【混血児】 [obsolete]


『江見信子は今年二十二になる。すきとおるような肌の白い娘で、顔立ちは十人並だが、いつも遠くを眺めているみたいな澄んだ目をしていた。黒い髪の毛が長く、それを肩から胸へ散らしていると、孤独な混血児という雰囲気を漂わせた。』
「雨の中の微笑」(笹沢左保、昭和37年)

日本人と外国人の間にできた子供のこと。いまでこそハーフといえば、美形の代表的なイメージがあるが、昭和20年代、30年代は差別の対象だった。
多くの混血児はアメリカの日本駐留によって生まれた。つまりアメリカ兵と日本人女性の間に生まれたものだ。昭和28年、当時の厚生省の調査ではそうした混血児は3500人あまりと報告されているが、実数はそれ以上といわれた。妻子を連れて本国へ帰った兵士もいたが、多くは妻子を棄てて帰国してしまったり、朝鮮戦争で戦死してしまった。残された母子は誰の庇護も受けられず当然のごとく貧困の奈落へ落とされた。さらにひどいのは、母親までがその「混血児」を棄ててしまったことだ。彼らは養護施設で育てられることになる。沢田美喜によって創られた“エリザベス・サンダース・ホーム”はその代表的な施設だった。
「混血児」という言葉が廃れていったのは昭和40年代あたりからではないだろうか。若者雑誌やテレビにハーフのモデルがそれこそワンサカと登場しはじめた。もちろんそれは白人に限られたのだが。
いまはどうなのだろうか。R&Bやヒップホップなどの音楽を通じて、黒人の人気は若者に絶大だ。さらに、様々な人種の人々が日本で生活をするようになり、国際結婚もふえている。もはや単一民族だなどと言っていられない。いわば肌の色に関係なく「混血児」が平常化してきている。と、楽観できるだろうか。なぜか欧米の白人系には寛大な日本人だが、アジア、アラブ、中南米系に対してはとなると疑問符がつく。国際化と言っている裏でナショナリズムの風が日増しに強くなってきている。何かのきっかけで再び「混血児」への差別が起こらないとも限らない。かつてどこかの国から“準白人”と言われて喜んでいたのは日本人ではなかったか。

「雨の中の微笑」は笹沢左保初期の短編。キャバレーのホステスの信子は、処女を捧げたサブマネージャーの水木との結婚を夢見ている。しかし、水木は遊び人で結婚するつもりはない。オーナーにかなりの額の借金があり、その返済に数年かかるからと出任せでその場をつくろう。本気にした信子は、キャバレーの売上金を奪うことを計画する。売上金は水木か支配人が本社へ運ぶのだが、その日水木は後楽園球場へ巨人戦を見に行くことになっていた。雨の中、売上金を運ぶ車から降りてきた男を信子の運転する車が跳ね飛ばす。信子は数百万円の入ったバッグを持って逃走する。しかし、車に跳ねられたのは支配人ではなく水木だった。雨で野球は中止になっていたのだ。
今なら、後楽園球場ではなく東京ドームなので中止にはならないので、このオチは通用しない。同じ笹沢佐保の短編で救急車の音をパトカーと間違えて殺されてしまう男の話(「夜の声」)があったが、これもいまは明瞭り判別できるので、そのオチも使えない。反対に、それだけこの小説が時代を反映している、とも言える。
笹沢左保は昭和5年東京生まれ。昭和35年「招かれざる客」で小説家デビュー。昭和46年に書いた「木枯らし紋次郎シリーズ」がテレビ化、映画化され大ヒット。平成14年逝去。享年72歳。


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