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The Way We Were [story]

♪ 木枯らしにふるえてる 君の細い肩を
  思い切り抱きしめて みたい けれど
  今日はやけに君が おとなに見えるよ
  僕の知らない間に 君は 急に
  時のいたずらだね にが笑いだね
  冷たい風がいま 吹き抜けるだけ
(「時のいたずら」詞、曲、歌・松山千春、昭和52年)

松山千春は昭和52年1月「旅立ち」でレコードデビュー。「時のいたずら」はその10カ月後の同年11月に3枚目のシングル(「白い花」とカップリング)として発売された。同じ11月には、新宿厚生年金会館小ホールでコンサートを行っている。これが道外での初めてのコンサート。北海道では知る人ぞ知る松山千春が全国区になるのは、その翌年53年8月に出した「季節の中で」の大ヒットによって。昭和53年といえば、キャンディーズが解散し、それに代わるかのようにピンク・レディーが大ブレイク(「UFO」がレコード大賞)した年。
いち時中年太りが著しかった松山千春ですが、さいきんTVで見たらずいぶんスマートになっていた。一念発起してジムにでも通ってるのでしょうか。でも、くれぐれも長渕剛みたいなマッチョにはならないでほしいものです。

今さら言うのも何だが、人と人との出逢いというのは不思議なものだ。

私が中学3年のとき、佐伯清が転校してきた。きっかけが何だったのか、いまとなっては記憶の底だが、とにかく私と彼はお互いに家を往き来するようになった。多くの家がそうだったように私の家も貧しかった。そんな時代だった。だから私は、疑うこともなく中学を出たら働くつもりだった。それが、無理をしながらでも高校、大学へ行こうと思ったのは佐伯の影響だった。もし、彼が私の住む町へ引っ越してこなかったなら、私の人生はまるで違ったものになっていたはずである。

私が初めて佐伯の家へ行ったとき、そこで会ったのが彼の妹・涼子だった。私たちより4つ下の小学5年生。白のブラウスにピンクのカーディガン。それに薄いチェックの紺地のスカートとブルーの靴下。その時の服装のディティールまではっきりと覚えている。
「コイツ、涼子だ。可愛がってやってくれ」
と佐伯のぶっきらぼうな紹介に、硬い表情で、両手を前で揃えて「涼子と申します」と小さな声で頭を下げた。その所作が大人びていてとても可愛いかった。そして、おかっぱの下の切れ長で、その名のとおり涼しげな瞳に不思議な衝撃を受けて、私は返事の言葉すら出てこなかったこともよく覚えている。
佐伯は妹のことをとても可愛がっていた。だから涼子は私たちといつも一緒だった。図書館、プール、スケート場、野球場……。

次の年の春、私と佐伯は別々の高校へ入った。

それから2年後、私が17歳になった夏、佐伯が突然死んだ。ラグビー部の夏の合宿中、心臓マヒで倒れたのだった。彼の葬儀で久々に涼子に会った。少女の2年間というのがどれほどドラマチックなものか、それほど13歳の彼女は眩しく変身していた。そして彼の葬儀を終えて半年ほど過ぎた頃、佐伯家は何処かの町へ引っ越していった。

私は学資を稼ぐため1年間浪人して大学へ入った。そして4年生になり、なんとか卒業のめどが立ったとき、涼子と再会した。私と同じ大学へ1年生として入ってきたのだ。
売店で彼女と眼が合ったとき、はじめに気づいたのは彼女の方だった。もちろん私も髪の長いジーンズ姿の新入生が佐伯涼子であることにすぐ気づいた。
私たちはそれから、たびたび逢うようになった。はじめは佐伯清の思い出話だった。それが何度か逢ううちに、音楽や映画や小説といった、普通の若者同士の話題に変わっていった。キャンパス近くの喫茶店で話をする、ただそれだけのことだったのだが。

私は卒業し、化学薬品メーカーに就職した。そして富山県にある工場へ赴任することになった。東京を発つ前の日、なぜか急に涼子に逢いたくなった。雨の日だった。私はいつも待ち合わせた小講堂の前で彼女を待っていた。しかし、その日ついに彼女と逢うことはできなかった。

富山の社員寮に住む私の元へ、どこで調べたのか涼子から手紙がきたのは入社間もない頃だった。それから文通は2年あまり続いた。春の陽ざしが暖かくなってきたある日、彼女からいつものように近況を伝える手紙がきた。そして、文末に「何事も経験です。お見合いなんかしてみます」と添え書きがあった。私は「GOOD LUCK」と返事を書いた。

夏の暑さがようやく静まりはじめた頃、しばらくぶりに涼子から手紙がきた。そこには彼女が結婚を決めたことが短くしたためられていた。それが彼女からの最後の手紙だった。

それから4年が過ぎ、私は富山で結婚した。そしてその2年後、30歳になってようやく東京の本社へ戻ることになった。
東京の風は涼子の噂を運んできた。大学卒業と同時に結婚。そして2年前、ちょうど私が家庭をもった頃、ひとり娘を連れて嫁ぎ先の家を出たと……。

人生には望むと望まざるとにかかわらず、多くの偶然が用意されているらしい。

私は45歳の誕生日の前日の夜、涼子と三たび逢った。
そこは新橋の小さなバーだった。高校の同窓会から私と数人の旧友が流れ着いた止まり木のママが涼子だった。一目で分かった。20年以上の時を経たからといって、彼女の面差しを忘れるはずはない。生硬な若さから脱皮して、その美しさは最盛を誇っているようにさえ見えた。
それから、しばしば私は涼子の店に通うようになった。私は狂った。妻と子供を、家庭をそして仕事まで棄ててもいいと思った。すでに道半ばにさしかかった今、残りの半分の人生を涼子と生きてみたいと、まるで二十歳そこそこの青年のように思い詰めたのである。しかし、私が真剣になればなるほど、彼女は冷静になっていった。そして最後の晩、笑みをたたえて「もうここへ来ちゃだめ」と私を諭すように言ったのだった。

それから15年、私は仕事も辞めず、家庭も壊さず定年を迎えた。子供たちもそれぞれ独立し、やっとローンの払い終わった家には私と妻だけが残された。風の便りで涼子が2年前に亡くなったことを知った。
そして今年の夏、私もこの世に別れを告げることになった。もちろん、涼子の後を追ったわけではないし、彼女から呼ばれたわけでもない。しかし、彼女の死が私の中で、何かのピリオドを打ったことは確かだった。

その2年後、すでに死んでいる私を驚愕させる出来事が起こった。私の次男・祐介が、涼子のひとり娘・尚子と結婚したのである。ふたりはとあるパーティで知り合ったのだ。そのたった一度の邂逅でふたりは結ばれた。運命が最後にこんな偶然を仕掛けていたとは……。
私は尚子をはじめて見たとき、思わず落涙してしまった。まるで生き写しだった……。もちろん二人はお互いの父親と母親の接点など知りはしない。

すでに死んでしまい、無聊をかこつ私のいまの最大の関心は、若いふたりが、いつか何かのきっかけで私たちの過去を知り、不思議な縁を感じる日が来るのではないかということなのだ。
「ねえ、あなたもそう思いませんか?」
私はとなりで静かに笑っている涼子にそう訊ねてみた。


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