SSブログ

【文化刺繍】 [obsolete]

『一週間たつと、ミツは軽症患者のための食堂にやっと出られるようになった。
 加納たえ子は女子のやる作業のうちで、刺繍をすることをミツにすすめた。ミツの指はまだ神経麻痺がきていないし、健康人と同じように針をもつことができる。もっとも指が屈曲しかかった女性患者は文化刺繍といって、掌で動かす特別の針をつかうのだそうだ。』
(「わたしが・棄てた・女」遠藤周作、昭和38年)

刺繍はその名の通り布地に、針と糸を使って図柄、模様、文字などを縫い込むこと。なかでも「文化刺繍」は、表面からのみ針を刺し、多色の糸をたわませてつくる美しく上品な刺繍。多くの場合、下絵の描かれた布を木枠に貼り、それに従って針を刺していく。いわば、糸で縫う塗り絵のようなもの。熟練というよりも、根気と丁寧さが要求される。
昭和30年代には多くの愛好者がいた刺繍も、生活スタイルが変わり趣味が多様化した現在、その数は減っている。
上の“引用”はハンセン氏病の施設で、先輩の患者が入院してきた森田ミツに刺繍をすすめているところ。十分な援助が得られなかった当時の施設では、症状の軽い患者はこうした刺繍や農作業などで小遣いを得ていたという。

手のアザから始まったミツの不安は、やがて大学病院でハンセン氏病と診断される。絶望の淵に立たされたミツは街中で人目もはばからず泣きじゃくり、死をも考える。それでも死にきれず、「病んだ犬よりみじめな」思いで施設へ向かう。その満員電車の中、誰ひとり席を譲ろうとしない老人に対して、席を譲ってあげる。ミツはそういう人間だった。
施設に入所した当時、泣き暮らしていたミツだったが同室の加納たえ子をはじめ患者や修道女たちに励まされて、ようやく本来の明るさを取り戻していく。どうにか施設での暮らしにも慣れたある日、ミツの病気が誤診だったことがわかる。ミツは他の患者の羨望と敵意の目を感じながら施設を出て行く。しかし駅に着いたミツは電車に乗る気になれない。駅前の映画館で時間をつぶしたり、親に見送られて上京しようとする娘に昔の自分を重ね合わせたりしながら、結局は施設へと戻っていくのだった。そして、施設で働くことを許されたミツは、畠の前で「夕陽の光りの束」を浴びながら、故郷へ帰ってきたような気持になるのだった。
このあと、小説はミツの事故死という悲劇的な結末を迎え、吉岡の心に森田ミツという生涯消えることのない「痕跡」を残すのだが、森田ミツが何者だったのかという答えは、彼女が施設へ戻って来て、光りの束の中に立ち尽くすその姿によって明らかにされている。

ハンセン氏病という現在でもなおデリケートな問題を40数年前に、ストーリーに欠くべからざる背景として描いていることに驚嘆する。施設や患者の描写も具体的な部分があり、よく理解が得られたものだと思う。隔離された患者の絶望的な心情は、加納たえ子がミツに言う「……苦しいのは、誰からも愛されないことに耐えること」という言葉が物語っている。
作者のハンセン氏病に対する姿勢はシンパシーあふれるものであるが、差別に対し抗議、糾弾するという視点まではない。しかし、この小説が書かれた昭和38年という時代を考えれば、無理からぬことだろう。ハンセン氏病に対する差別と偏見を助長した最悪法「らい予防法」が廃止されたのは平成8年、ほんの10年前のことである。
いずれにしても、作者がこうした問題を描きえたのは、個人的にも作品的にもキリスト教(カトリック)というバックボーンがあったからだろう。


nice!(1)  コメント(3) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 1

コメント 3

gutsugutsu-blog

MOMOさん、こんばんは。いやぁ、今回も読みごたえありました。
ハンセン氏病療養所のエピソードは映画では完全にカットされ、養老院に差し替えられてましたね。映画で扱うにはさすがの浦山桐郎も出来なかったのか、やはり当時はかなりデリケートな問題だったんですね。確かに遠藤周作のキリスト教というバックボーンを理解しないとこの物語の本当の意味は見えてこないのかも知れませんね。原罪のないこの国ではミツの単なる純愛物語としてしか、捉えられないかも知れませんね。
by gutsugutsu-blog (2006-07-21 21:11) 

MOMO

ご存知かも知れませんが、ハンセン氏病を取り上げた劇映画といえば、昭和15年の「小島の春」(豊田四郎監督)があります。未見ですので感想もなにもないのですが、解説によると、ハンセン氏病患者の施設収容に尽力した実在の女医の話だとか。原作、映画ともにヒットしたそうです。いまだに感動の名作と評価している人もいますし、隔離政策を賛美したと否定的な人もいます。戦前という時代を考えれば……とも思いますが、私もやはりもし解説通りの映画だとしたら否定的にならざるをえません。可哀想な「映画」です。しかし、資料としては後生に残すべき映画でしょうね。
by MOMO (2006-07-23 22:10) 

gutsugutsu-blog

ぼくも未見ですが、一度見てみたいです。ハンセン氏病の方々が本来、我々を守るべき国そのものから、その存在を否定され、社会から隔離され、どれだけの苦痛を味わされたのかと考えると本当に言葉がありません。どういう映画かはわかりませんが、当時を風化させないためにも残すべき映画だと思います。
by gutsugutsu-blog (2006-07-23 22:52) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

【読者の交歓室】【高峰秀子】 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。