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【押売り】 [obsolete]

『……もう六十いくつにもなれば、美しく見えたいと思うことの方がグロだということを、かな女とて知らない訳ではない。しかし口許がしなびていると、人と会った時に気おくれがする。言葉がうまく発音出来ないから、押売りを撃退する時にも不自由だろうし、強盗は見くびって行きがけの駄賃にしめ殺して行くかもしれない。……』
(「かな女と義歯」曽野綾子・昭和34年)

「押売り」とはよく言えば訪問販売、実体はゆすり、たかりのこと。明治時代からある悪徳商法で、昭和30年代でもめずらしい“商売”ではなかった。売る物といえば、ゴムひもとかタワシとか石鹸など嵩張らない日用品。玄関先で「奥さん、勝って貰えないかね。実は昨日ムショを出たばかりで当座の小遣いにも不自由してるもんで……」などと、コワイ口上を述べて、なかば脅迫的に買わせる。時代が変わり個人個人の生活が豊かになると、インターホンがつき、訪問販売に関する法律が厳しくなり、各家庭のガードがしっかりしてくる。それとともに押売りもやりにくくなった。とはいえ根絶やしになったわけではない。いまでも、インターホン越しに耳障りのよい言葉を囁くなど、あの手この手でドアを開けさせようとする訪問販売があちこちに出没している。ドアを開けたが最後、気の弱い人、お人好し、さらにはお年寄りはどうにも断ることができず契約してしまう。断ろうものならば、衣を脱いで鎧を見せる。最近話題になったリフォーム、あるいは高額な寝具など、これらも立派な押売り。いくら時代が変わろうとも、この手の悪徳商売はそう簡単には絶滅しない。

むかし芸者をしていた老婦人が、義歯をつくることにしたのだが、何度つくってもらっても違和感があって気に入らない。医者は「あなたのわがままだ」と言う。一緒に暮らしている息子夫婦は自分たちのことで精一杯で、少しもこちらの身になってくれない。そこで思い切ってひとりで暮らそうと思う。そんなとき新聞広告でむかし落籍(ひか)されて住んだ北鎌倉の物件が目を惹いた。不動産屋に案内されて見に行ったその物件は不満だったが、2件目に案内された建物を見てはっとした。それはかつて婦人が住んでいた屋敷だったのだ。物件を案内されながら婦人の頭の中に昔の想い出が甦る。しかし、帰り際庭で足を滑らせたとき、むかしの男の「家を買うよりはまず、いい歯をつくりなさい」という声を聞く。そんな不安定な老女の心理を描いた作品が「かな女と義歯」。
曽野綾子は昭和30年代初頭、原田康子(挽歌)、有吉佐和子(地唄)らとともに女流文士として注目をあびた。その現象は「才女時代」という流行語にもなった。この「かな女と義歯」を書いたのが20代の後半というのだから、その早熟さには驚かされる。


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