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Softly As In The Morning Sunrise [story]

♪ 歌ってよ夕陽の歌を 歌ってよ心やさしく
  あなたは坂を昇っていく わたしは後からついていく
  影はわたしたちを隔てるので やさしい夕陽は
  ときどき 雲に隠れてくれる
  歌ってよ夕陽の歌を 歌ってよ心やさしく
  歌ってよ夕陽の歌を 歌ってよ心やさしく

「歌ってよ夕陽の歌を」(詞・岡本おさみ、曲・吉田拓郎、歌・森山良子、昭和50年)

昭和40年代後半から50年代にかけて吉田拓郎が他の歌手に提供した楽曲は多い。モップスの「たどりついたらいつも雨降り」に始まって「襟裳岬」(森進一)、「メランコリー」(梓みちよ)、「いつか街で会ったなら」(中村雅俊)、「地下鉄に乗って」(猫)、「ルームライト」(由紀さおり)、「やさしい悪魔」(キャンディーズ)、「我が良き友よ」(かまやつひろし)と名曲ぞろいだ。このうち「歌ってよ夕陽の歌を」のように岡本おさみとコンビの歌は「襟裳岬」、「地下鉄に乗って」「ルームライト」の三曲。
「歌ってよ夕陽の歌を」は、「襟裳岬」の翌年に発表された。リフレイン部分がとても印象的で、ときおり記憶の彼方から聞こえてくる歌だ。
夕陽を歌った歌も多い。拓郎なら「落陽」がそうだし、小林旭の「落日」、石原裕次郎と浅丘ルリ子の「夕陽の丘」、スパーイダースの「夕陽が泣いている」、松尾和子の「再会」などキリがない。日本人はほんとに夕陽が好きだ。私も。でも朝日もいい。

“ポプラ坂”は自動車一台がやっと通れる一方通行の坂。バス通りから、私が勤める会計事務所のある高台まで、ダラダラと300メートルほど続いている。正式な名前は知らないが、坂の登り口に小さな公園があり、そこに人間3人が囲ってもまだ足りないほど太い幹をしたポプラの木が1本立っているところから、そう呼ばれている。
私がこの坂を上り下りするようになったのは、今の会社に勤めはじめてからだ。毎朝、決まった時間に前傾でこの坂を昇っていく。晴れた日は朝日に背中を射抜かれ、己の影に引っぱられながら。
この坂を上りはじめてしばらくした頃、坂の途中、ちょうど「WOODY」といういかにもアメリカンな喫茶店のあるあたりで、毎日ひとりの女子高生とすれ違うことに気づいた。
彼女は、とくにどうという特徴のあるわけではなく、よく言えばいま風の女子高生だった。ただ、朝日を顔いっぱいに受けて坂を降りてくる姿は、とても清々しかった。

果たして彼女が、同じように私のことを意識していたか否かはわからないが、時折交差する視線には、少なくとも拒否反応は窺えなかった。もちろん、好意あるいはそれ以上の眼差しでもなかったのだが。私にしても好意はあったが、それ以上ではなかった。

彼女がセーラー服から私服に変わったのは、それから2年後の春だった。それまで無造作に後ろで結わえていた長めの髪が、ショートカットに。女性というものが髪形ひとつでかくも変わってしまうものかと小さな驚きがあった。それに、淡い紫のスーツ。2年間セーラー服と白のブラウスしか見てこなかった私としては目映いばかりだった。他人事ながら、若い娘の成長ぶりに驚かされた。それがまるでファッションショーのように、毎日違った服装ですれ違うのである。Yシャツなど言われなければ1週間でも身につけている着た切り雀の私には、それはそれで楽しい瞬間だった。

夏は眩しいノースリーブに柔らかなミニスカート。秋はシックなタートルとジャケット。冬はショートコートに可愛いマフラー、そしてロングブーツ。ふくよかだった頬はだんだんそぎ落とされ、精悍さを増していった。はち切れんばかりだった手足はまるで絞りきったようにシャープに変化していった。少女から女へ。みごとに脱皮を続けながらポプラ坂を降りていったのだった。

それから5年目の秋のある日。私は永久時計が時を刻むように、同じスタイル同じ歩調でポプラ坂を昇っていた。しかし、「WOODY」を過ぎても彼女の姿は現れなかった。そういえば、昨日も一昨日も、彼女とすれ違うことはなかった。病気にでも……、もしかして引っ越したのかも……。いやそうではないだろう。計算からいくと彼女も23歳。誰かを愛し、誰かと結ばれたとしても少しも不思議ではない。
私の予感が当たったかのように、一月、半年、一年が過ぎていった。別に彼女は私の理想のタイプでもなければ、恋い焦がれていたわけでもない。しかし、ときとして一抹の淋しさが胸に去来するのはなぜなのか。いわば7年間彼女の成長を見続けてきたわけで、まるで自分が育ててでもいるかのような錯覚に陥ってしまったのか。はたまた坂の途中でのすれ違いが日常化してしまい、その破綻に戸惑っているのか。とにかく、彼女を見かけなくなってしばらく空虚感がつきまとったことは確かだった。

それからふたたび5年。私はすでに30の半ば。いまだに独身で、いまだにポプラ坂を昇っている。仕事であれプライベートであれ、私の生活は凪いだ海。たしかに自分で望んだのかもしれない。しかし、その静けさに溺れてしまいそうになることがある。石ころを投げ込む無法者の出現を期待しているのかもしれない。

やっぱりそれは秋だった。弱くなった午前の陽ざしの中、落葉を蹴飛ばしながら、そろそろ靴を新調しなくてはなどと他愛のないことを思いつつポプラ坂を昇っていた。いつものクセで遙か前方を見上げたとき、視界に坂を降りてくる親子連れが見えた。
母親はあきらかに彼女だった。ランドセルを背負った息子と手をつないで。もう30歳になったのだろうか。眼鏡をかけ、ゆるいウェーブのロングヘアーは私よりはるかに大人の雰囲気があった。彼女は笑みを浮かべて息子に話しかける。息子も嬉しそうにからだ弾ませながら応じる。彼女を見かけてから12年、初めて笑顔を見たことに気づいた。それは小さな感動だった。すれ違いざま、彼女が上目遣いに私を見た。その視線の強さに私は目を逸らした。

それから、私たち3人は毎日「WOODY」の前ですれ違うようになった。

そのあとの1年間、ここでは書き尽くせない様々なことが私の身辺に起こった。私は30数年間という軌跡をねじ曲げてしまうほど、自分自身を見失ってしまったのかもしれない。遅ればせながら人生の意味を問い直すことに執着したのかもしれない。いずれにしても私は自らの手で内なる海へ小石を投げ込んだのである。
まず私は13年間勤めた会計事務所を辞めた。そして恥ずかしながら結婚した。現在は妻の実家の小さなスーパーマーケットで店長見習をしている。40歳目前にして義父に怒られながら。大変な転職である。
そんなわけで、もう毎朝決まった時間にポプラ坂を昇ることはなくなった。
しかし、日曜日の朝、私たちはいつも高台にある家からこのポプラ坂を降りて、遊びに出かけるのだ。そう、私たちとは、妻の瑞江といきなり10歳の息子になった慎一の3人のこと。それまでの背中ではなくからだの正面で浴びる朝日がこれほど気持のいいものとは。これも新しい発見だった。
「WOODY」で彼女とすれ違うあの不思議な感覚をもう二度と味わえないのは寂しい気もするが、その彼女が休日には私の隣で肩を並べてこの坂を降りていくのだから、それは贅沢な話というものだろう。


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