SSブログ

Too Young [story]

♪ アキ! 〈マキ!〉
  好き好き好きだから好きだから
  花にも星にも負けないで
  思っているよ 〈思っていてね〉
  今日から僕たち ひとりじゃないよ
  ふたりでひとりの 君と僕
  なぐさめあおうね なぐさめあおうね
  いついつまでも いつまでも
  アキとマキの交換日記

「アキとマキ」(詞・平岩弓枝、曲・山本丈晴、歌・梶光夫&高田美和、昭和39年)。
まさに東京オリンピックの年に生まれた歌。当時の流行歌の主流は青春歌謡とカヴァーポップス。カヴァーポップスでは「ラ・ノビア」「サン・トワ・マミー」「ドミニク」「花は何処へ行った」「砂に消えた涙」などが巷に流れていた。
一方の青春歌謡はその前年あたりから流行りはじめていた。「アキとマキ」もその一曲。
梶光夫は「青春の城下町」や「可愛いあの娘」のヒット曲があり、高田美和は「十七才は一度だけ」がある。2人のデュエットでは翌年に「わが愛を星に祈りて」がヒットした。
作詞の平岩弓枝は小説家で、他にTVドラマ「肝っ玉かあさん」の主題歌も作っている。作曲の山本丈晴はギタリストで、美空ひばりの「芸道一代」などを手がけている。また、女優・山本富士子(当時は美人の代名詞)の夫でもある。

わたしも野球小僧だった。
小学校までは野球は遊び。それが中学になるとクラブ活動となり、規律という面倒なものがついてくる。たかが1歳しか違わないのに先輩後輩の関係は天と地ほどの差がある。また、1年坊はつねに声を出していなくてはいけない。先輩の言うとおりを真似るのだが、何を言っているのか自分でもわからない。球拾い、グランドの手入れなど、草野球ではやったことのないことをする。いちばん嫌だったのは坊主刈りだ。野球部への入部を躊躇った唯一の理由が坊主刈りだった。しかし、そんな恥ずかしいことさえ受け入れてしまうほどの魅力が、野球にはあった。

野球部へ入部した新1年生は30名近くいた。全校の男子1年生が200人あまりだったので、6~7人にひとりは入部したことになる。レギュラー9人のポジションを30人で争うのだから、競争も熾烈だ。

わたしと3塁のポジションを争ったのが金物屋のT君。小学校が別々だったので実力の方は分からなかったが、とにかく体格がいい。色黒ギョロ目でいつも白い歯を見せつけるようにニタニタしていた。おまけにお喋りで、わたしと並んでノックを受けているときものべつ何か話しかけてくる。そのせいか、よく先輩に怒られていた。彼の野球部時代を思い出すとき、プレイの姿よりグラウンドを走らされている様子しか目に浮かばない。
とにかくわたしはT君に負けたくなかった。3塁のレギュラーになりたかった。なので彼は打ち勝つべき相手だった。当面の敵だった。彼とはクラスが同じだったが、努めて口をきかないようにした。彼は授業中、休み時間を問わず、いつも軽口を叩き、冗談や皮肉でクラスメイトを煙に巻いていた。彼のそんなお調子者のところも、わたしの嫌悪の対象だった。

彼とのポジション争いは夏で勝負がついた。夏休み皆勤で練習に出たわたしが勝ったのだ。彼は家の手伝いを理由にほとんど来なかった。
レギュラーになれなかった1年生はどんどん辞めていった。しかし、T君はやめなかった。別に悔しがるわけでもなく、わたしからレギュラーを奪おうという闘争心もなく、たんたんと放課後の練習に出てきていた。相変わらずニヤケた顔で。それはまるでわたしに「たかが遊びじゃねえか、そんなシャカリキになるなよ」と言っているようだった。
そんなT君だったが、2年生になるとさすがに野球部をやめた。その頃はもう、わたしの中で彼の存在を意識することはなくなっていた。

その年、東京オリンピックが開かれ、日本の国民はまるで国際人になったかのように高揚していた。しかし、野球小僧たちの関心事は、東洋の魔女の金メダルより、王貞治のホームラン55本という大記録だったのではないだろうか。
オリンピックという祭が終わった深秋のある日、3日ほど学校を休んでいたT君が死んだという話がクラス中、学校中に広まった。翌日の朝礼で校長が壇上から全生徒に、T君が事故死したことを告げた。ただなぜか、詳細は話さなかった。
しかし、事実に蓋をすることはできない。もっともらしき真相はあっという間に広まった。
T君は自殺したのだった。信州の高原で1級下の女の子と心中したのだった。ふたりが死を選んだ本当の理由はわからなかったが、噂ではお互いの親が強烈に反対したということだった。彼らが交換日記をしていたとか、性体験をしていたとか、噂はどんどん横道に逸れていった。

14歳と13歳の心中。野球しか頭になかったわたしにはとてもショックな出来事だった。
あんなに軽口ばかりを叩いていたオチャラケ者が、わたしが想像すらできない世界で生きていた、そして自ら望んで死んでいった、ということがショックだった。野球のレギュラー争いで打ち勝った優越感などこなごなに砕けてしまった。少し大袈裟にいうならば、彼が人生においては、わたしより遙か先を歩んでいたということを思い知らされたのである。彼から「フン、たかが野球じゃねえか」と言われたような気がしたのである。
中学3年になって、わたしが野球以外のことにも目を向けるようになったのは、少なからずそのことが影響していたように思う。


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

Rambling, Gambling M..Honky Tonk Angeles ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。